正月の実家で、豪華なおせち料理が並ぶ食卓。なのに母は、玄関で一人、カップ麺をすすっていた。
「お母さん、一緒に食べよう」
そう言っても、母は背を向けたまま、こう答えるだけだった。
「私はいいの。いつも迷惑かけてるから、しつけよう」
私は、その時、胸の奥で何かが凍りつくのを感じた。
私の名前は緑、36歳。あの日、私は同僚に誘われて職場近くの居酒屋で飲み会をしていた。仕事に追われる毎日で、当時28歳の私は恋愛のことなど考えたこともなかった。席に着くと、一番端の席に見慣れない男性がいた。同僚に聞くと、他の社員が連れてきたらしい。
飲み会が始まって30分後、その男性が私に向かって軽く会釈をした。彼が後に私の夫となる弘樹だった。第一印象は大人しい人。派手さはなく、言葉を選ぶような優しい口調で、誰に対しても丁寧に接していた。周囲の同僚たちが酔っ払い始める中、私は黙々と食事をしていた。私はお酒が苦手なのだ。
そろそろ帰ろうかなと思っていると、彼が私の隣の席に来た。
「こういう集まり、緊張しますよね。僕も実はちょっと苦手なんです」
その言葉に思わず笑ってしまった。それから自然と会話が始まり、仕事の話や趣味の話をした。彼は私と同い年でお酒も苦手らしい。私がカフェが好きだと話すと、彼は興味深そうに聞いてくれた。
「今度、おすすめのカフェを教えてもらえますか?」
その笑顔が温かく感じられた。飲み会の帰り、彼が駅まで一緒に歩いてくれた。別れ際に彼は少し照れたように言う。
「よかったら、またお話ししたいです」
「私もです」
交際が始まって3年後、公園の噴水広場の前でプロポーズを受けた。彼はポケットから小さな箱を取り出した。
「これからもずっと一緒に笑っていこう」
驚きと同時に涙が頬を伝った。父が病気で倒れた時も、彼はそばにいてくれた。病室の前で俯いていた私の手を無言で包み込んでくれたあの夜を思い出す。「無理しないでもっと俺に頼ってよ」と言ってくれた声が今でも耳に残っている。そんな人が自分の未来を一緒に歩こうと言ってくれた。私は静かに頷いた。
「はい、お願いします」
結婚式の日、母は涙をこらえながら微笑んだ。
「お父さん、見てるわよ。きっと一番前でね」
父は倒れてしばらく入院していたが、亡くなってしまい、私の結婚式には出席できなかった。父の写真を胸に抱きしめながら、心の中でそっと呟いた。お父さん、私、幸せになります。
結婚して1年が経った頃、私は妊娠した。仕事から帰ってきた夫に報告すると、彼は数秒間言葉を失い、そして目を潤ませながら笑った。
「ありがとう」
妊娠中は決して楽なことばかりではなかったが、夫がいつもそばにいて食事を作り、背中をさすってくれた。母に妊娠を報告したら、電話の向こうで声を震わせていた。
「わあ、本当に良かったね。お父さんも喜んでるよ」
母は2歳年上の兄である修と一緒に暮らしている。私は結婚して実家を出て都内で暮らしているため、ほとんど実家に帰ることができない。帰るには電車で2時間はかかるのだ。そんな私を母はいつも心配してくれて、何度も電話やメールをくれた。妊娠したことで連絡の頻度も増え、「ちゃんと食べてる?無理しないでね」と気遣ってくれた。
そして私は無事に女の子を出産。娘が生後2ヶ月の頃、私は実家を訪ねた。母は孫を抱きながら微笑んだ。
「この子、お父さんに似てる気がするね」
兄もその横で穏やかに笑っている。その光景を見ていると、家族の絆が世代を超えてしっかりと繋がっていることを感じた。
娘が生まれて半年経ったある日、母から電話がかかってきた。
「修が結婚することになったのよ」
「え、本当?」
いつも落ち着いていて家族を支えてきた兄。父が亡くなった後も母を支えてきた兄の姿が思い浮かぶ。
それから1ヶ月後に、私は兄のお嫁さんになる女性と対面した。兄よりも2歳年上のなお。大人しそうで優しい笑顔の女性だった。
兄の結婚式の日。
「まるで自分の息子がお式に行くみたいね」
母は会場の入り口で少し緊張した様子で立っていた。その目には喜びと寂しさが混じっているように見える。兄となおの姿を見た瞬間、私は胸に込み上げるものがあった。父がいなくなってからの年月、兄も必死に前を向いて歩いてきたのだ。そして今、ようやくそれぞれが自分の幸せを手に入れようとしている。
披露宴の最後に、兄が感謝の言葉を述べた。
「父がいなくなってから、母と妹にはたくさん支えられてきました。これからは僕が家族を守っていきます」
私と母の目には涙が溢れた。
兄の結婚から1年。私は娘を連れて久しぶりに実家へ帰った。玄関を開けると懐かしい匂いがしたが、どこか以前とは違う空気が家全体に広がっていた。靴箱の上には兄夫婦の写真立てが置かれ、その横に母と兄夫婦の3人で映った新しい家族写真が飾られていた。
「あ、お帰りなさい」
台所から顔を出したのはなおだった。笑顔が母に似ている。なおが声をかけると、母が奥から現れ、娘を抱き上げた。
「ああ、こんなに大きくなって。おばあちゃんのこと覚えてる?」
娘は笑いながら母の頬に手を伸ばす。リビングに入ると、兄が新聞を畳みながら言った。
「久しぶりだな」
「お兄ちゃんたち、本当にお母さんと同居始めたの?」
「うん。結婚してからこっちに引っ越してきたんだ。母さん一人にしておくのも心配だったし」
兄によると、母が以前足を悪くしたことで同居を考え始めたらしい。母が照れくさそうに笑う。
「最初はなおさんに申し訳ないと思ったけど、楽しいのよ。なおさんが明るいから、毎日が賑やかでね」
母となおが一緒に作った夕飯を頂いた。その味は昔のままなのに、どこか少し新しい。家庭の中に世代のバトンが確かに渡されているような気がした。
兄夫婦が2階に引き上げた後、母がつぶやいた。
「こうしてまた家が笑い声で満ちる日が来るなんてね。お父さんも見てくれているわ」
私は兄夫婦がいるという安心感もあって、実家に帰る頻度は年に1〜2回。そんな状態が普通だったが、ここ2、3年の間に実家の近くに行くことが多くなった。開いた時間に実家へ寄っていたが、少しずつ気づく変化があった。母の笑顔は変わらないけれど、どこか遠慮がちに見える瞬間がある。なおは明るくて面倒見の良い人だと最初は思っていた。けれど家の中の空気を見ていると、自然と彼女の発言が家の中心になっているように感じた。
「お母さん、それはもう古いから新しいのに買いましょう」とか。「お母さん、洗濯は私がやりますから」とか。その言葉自体は優しくて、母のことを思っているように聞こえる。でも、母が何か言いかけても口を閉じてしまう。そんな小さな母の様子が気になった。
夕食の時間。食卓を囲んでいても、兄が以前のように母と話す姿が減ったように思えた。代わりに会話の主導権はなおだ。
「お母さん、このお皿捨てるって言ったじゃないですか。今度は新しいお皿を買ってくるって言ったのに」
「ああ、そうだったわね」
母は笑っていたが、その笑顔の裏にどこか寂しさが滲んで見えた。この日は実家に泊まることに。娘が眠った後、何気なく母に尋ねた。
「楽しそうに暮らしてるみたいだね」
すると母は少し間を置いてから微笑む。
「そうね。なおさんがよくしてくれるのよ。でも、たまにね、自分の家じゃないみたいに感じることがあるの」
その言葉に胸の奥がざわついた。なおに悪気はないのかもしれないけれど、いつの間にか実家の中心が母ではなくなっている。そんな現実を嫌が応でも感じ取った。
翌朝、台所で母となおの話し声がしたので、私は廊下でそっと聞き耳を立てた。
「お母さん、それは私が決めますから。お母さんは私に任せてください」
「そう。お願いね」
母の「お願いね」の声にはかすかな疲れが滲んでいる。みんなの笑顔を保つために、母は少し我慢をしているのかもしれない。その違和感を見過ごしてはいけない気がした。だが、そうは思いつつ、私にも家族がいるので、なかなか行動に移すことができなかった。
娘が4歳になったある日の午後、娘を昼寝させていた時、1本の電話がかかってきた。相手は私の幼馴染みのお母さんだ。
「久しぶりね、緑ちゃん元気?」
懐かしい声に、幼馴染みの家に遊びに行った光景が蘇ってくる。私は明るく答えたが、彼女は少しためらうように言葉を続けた。
「あのね、ちょっと気になることがあったの。緑ちゃんのお母さんのことなんだけど」
急に私は真顔になり、胸の奥がすっと冷たくなる。
「え、母がどうかしたんですか?」
「先週、何度か買い物の途中でお母さんを見かけたの。でも前よりずっと元気がないというか。一緒にいたお嫁さんがね、少しきつい言い方をしてるのを見てしまって」
「きつい言い方?」
「うん。『それは違うでしょ、お母さん』って強い口調で言っててね。お母さんは笑ってごまかしてたけど、なんだか胸が痛くなって。緑ちゃんに伝えた方がいいと思ったの。そばに修君もいたのに、修君はスマホを見てて気にしていなかったわ」
その言葉に手が震えた。以前帰省した時に感じたあの小さな違和感。それは見間違いではなかったのかもしれない。
「私の勘違いだったらいいんだけど…でも、お嫁さんの表情が少し怖いって思っちゃったの。ごめんなさいね、こんなこと言っちゃって」
「いえ、教えてくれてありがとうございます。私もなかなか実家の様子をしっかり見ることができなくて、母のこと少し心配ではあったんです」
「そうよね。緑ちゃんにも娘さんがいるものね。あの、もし迷惑でなければ、今度見かけた時、また母の様子を教えてくれませんか?私も母の様子に気をつけるようにしますから」
「ええ、もちろんよ」
電話を切った後、私はしばらく動けなかった。頭の中で母の姿が何度も浮かんでは消える。いつも穏やかで人を責めることのない母。そんな母がもし傷ついているのだとしたら、このまま放ってはおけない。夜、夫に話すと、彼は真剣な顔で言った。
「一度ちゃんと確かめに行った方がいいね。お母さん、緑にだけは本音を話してくれるかもしれないよ」
私は深く頷いた。
翌月の3連休、私は夫と娘を連れて実家へ帰った。玄関の前で胸の鼓動が早くなる。扉の向こうにいる母の笑顔を思い浮かべながらも、どこか不安が消えなかった。
「ただいま」
そう声をかけると、母が奥から現れる。少し痩せたように見えたが、笑顔は変わらず穏やかだ。
「わあ、よく来たね。疲れたでしょ」
母は娘を抱き上げ、頬をすり寄せる。その姿に私は目頭が熱くなった。しかし、リビングから聞こえるなおの声は、どこか固く冷たい響きを帯びている。
「お母さん、あの棚の位置また変えたんですか?」
なおは私達に気づくと、急に笑顔になった。
「ああ、緑ちゃん、弘樹さんも。どうしたんですか?」
「急に旦那の休みが取れたので、遊びに来ました」
実は、連休に実家へ帰ることを母に頼んで、なおと兄には内緒にしてもらったのだ。私たちが靴を脱いでいると、なおは母との会話の続きを始めた。
「お母さん、棚の位置を変えると使いにくいって私言いましたよね」
「ごめんなさいね」
母は俯く。夫もなおの言い方に気づいたようで、心配そうな顔をしていた。
その夜、娘が眠った後、私と夫で母と話した。大きく深呼吸をした私は、幼馴染みのお母さんから聞いたことを伝える。母は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく笑った。
「見られちゃってたのね。心配かけてごめんね」
「お母さん、なおさんに何か言われてるの?無理してない?」
母はしばらく目を伏せ、やがて少し震える声で答える。
「なおさん、悪い子じゃないの。でも、全部自分のやり方で整えたい人なのよ。私はここに住ませてもらってるんだから、なるべく波風を立てたくないの」
「待ってよ。住ませてもらってるって。ここ、お母さんの家でしょ?」
「そうですよ、お母さん」
思わず少し大きな声を出す。私たちの反応に、母はわずかに目を潤ませた。
「そうなんだけどね。もう今はあの子たちの生活が中心だから」
私は何も言えなくなった。母の声があまりにも優しく、それが却って胸を痛めつける。
「でもね、大丈夫。緑たちが来てくれるだけで嬉しいのよ。この家にもまだ私の居場所があるって思えるから」
母はそう言って笑う。その笑顔の奥にある小さな悲しみを、私は見逃さなかった。
しかし結局、3連休の間に私たちは母に何もしてあげることはできなかった。帰る前日の夜、私と夫は娘の寝顔を見ながら話す。
「私たちがいたら、なおさん本性を表さないでしょうね」
「うん。そうだね。まあ、お母さんとの会話を聞いていると、ちょっときつい言い方は感じたけどね」
「私も多分、私たちにはまだ見せていない姿があるんだと思う。俺たちが帰った後、どんな様子かだよね」
実家から帰宅して数日後、幼馴染みのお母さんから再び電話があった。
「今日たまたまお宅の近くを通ったの。また少し気になることがあったわ」
彼女が見た光景は、胸が痛むものだった。玄関先で買い物袋を持った母の目の前には、腕を組むなお。
「だから言ったじゃないですか。重いものは頼まないでって。そんなに勝手に行動されたら困ります」
母は何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。「ごめんなさい」という母の弱々しい声を聞いて、幼馴染みのお母さんは足が止まったという。
「お母さん、あんなに優しい人なのに、あんな顔初めて見たわ」
私は静かに目を閉じる。母の優しさが、時に自分を守る力を奪ってしまうことを痛いほど理解していた。
「ありがとうございます。実は私にも考えがありまして、少しずつ動いています」
「そうなの?さすが緑ちゃんね」
「いえ、母のことほっておけませんから」
「分かったわ。そしたら私は引き続きお母さんの様子を見ておくから。私に何かできることがあれば、遠慮なく言ってね」
仕事から帰宅した夫に、私は話を切り出した。
「母のことなんだけど」
夫はテレビを消し、私を真剣な表情で見る。
「うん。俺も気になってた。あの後どうだった?」
私は母の言葉、なおの態度、近所の人が見た出来事を1つ1つ伝えた。実家がある町内には他の幼馴染みの家もあるため、それとなく母の様子を見て欲しいとお願いをしておいたのだ。他の幼馴染みのお母さんたちからも、なおの態度について教えてもらった。
「やっぱりなおさん、母に強く当たってるみたい。兄は仕事だからほとんどいないけど、兄がいても母のことは無関心だって」
話しながら涙がこぼれそうになる。
「母が『住ませてもらってる』って言ってたでしょ。それ聞いた時、私すごく悲しくて。あの家は母の家なのに」
「うん。あの時のお母さんは悲しそうだった。あれは確認したの?」
「確認できたよ。なおさん、やっぱり私たちがいる時と全然違った」
夫はしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で言った。
「緑のお母さんは優しい人だよね。でも、その優しさが今はお母さん自身を縛ってるのかもしれない。だからこそ、俺たちは動く時だと思う」
翌日、私は紙とペンを取り出し、母の今後について書き始めた。まずは定期的に母の様子を見に行くこと。必要なら兄夫婦と冷静に話し合う場を設けること。そして、もし母が望むなら、いずれ我が家に迎える準備をすること。
私は夫と話し合い、兄と直接話すことにした。ずっと胸に引っかかっていたことを確かめたくて、娘を夫に預け、1人で実家へ向かう。家に上がると、兄はリビングにいた。テレビを消して立ち上がった兄に、私は右手を挙げる。
「お邪魔します」
「びっくりした。最近よく来るね」
「ちょっと話があるの」
なおの姿がなかったので尋ねたら、買い物に行ったらしい。母は友人と映画に行ったことは知っている。私が実家に行くことは、母にも話してあるのだ。兄はどこかよそよそしさがあった。
「最近、お母さん元気かなと思って。前より少し疲れてるように見えたの」
すると兄は少しだけ眉を寄せる。
「別に普通だよ。母さんは元気にしてる。何も問題ない」
彼の言葉の端々に、私は思わず口をつぐんだ。兄の声は落ち着いていたけれど、その奥にどこか防御のようなものを感じた。
「そう、私、近所の人から少し聞いたの。お母さんが無理してるんじゃないかって。だから心配で話を聞こうと思って」
「誰がそんなこと言ってたの?」
兄は私を遮る。
「だから、近所の人よ」
「母さんのことを外の人に話すのは、正直やめてほしい。俺たちの家のことだから」
彼の強い口調に胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、私は静かに頷いた。
「そうだね。でも、私は娘だから、お母さんの様子が気になって何も言わずにはいられないの」
その時、玄関が開く音が聞こえた。母は夕方に帰宅するはずなので、なおが帰ってきたらしい。なおがリビングに入ると、私の姿に驚いた表情を見せた。
「緑ちゃん、どうしたの?2人で真剣な顔して何の話?」
兄が答えようとしたところ、私が先に口を開く。
「母のことです。最近母の元気がない気がしたので、兄に様子を聞いていました」
なおは少し笑って言った。
「大丈夫よ。お母さんにはちゃんと休ませているわ。色々気になるのは分かるけど、あまり心配しすぎないでね」
優しく言ったが、どこかに距離を感じさせる響きがある。これ以上踏み込むなと示すような雰囲気だ。すると兄が立ち上がり、リビングを去ろうとする。
「まあ、心配することないから。また時々でいいから、母さんにも会ってやってくれ」
そう言い残して、兄は外に出て行ってしまった。なおと2人きりになったので、私は頭を下げて実家を後にする。
やっぱり簡単には踏み込めない。けれど、それでも諦めるつもりはなかった。母が心から笑えるようになるまで、何度でも話してみようと。
12月の中旬の昼下がり、母から電話があった。
「お正月だけど、今年は帰ってくる?」
「うーん。まだ決めてないけど」
「緑たちがいないと寂しいわ。忙しいと思うけど、ちょっとでいいから顔見せて欲しいわ」
「分かった。弘樹さんに話してみるね。多分、行こうって言ってくれると思う」
母は安心したようで、明るい声になってくれた。
そして1月1日の朝。私たちは朝早くに起きて、車で実家にやってきた。冬の日差しが柔らかく差し込み、実家の玄関には門松が揺れている。台所には豪華なおせち料理が並んでいた。3段の重箱が2つ並んでおり、中には色取り鮮やかなエビや黒豆、伊達巻きなどが詰められている。子供の頃母が作ってくれた煮物や酢物もあるのだが、ほとんどが見慣れないおかずが詰められていた。おそらくなおが若者向けのおせちを作ったのだろう。
「すごいね」
するとエプロン姿のなおが誇らしげに微笑む。
「頑張ったのよ。今年は全部が手作りなの。お取り寄せとか使わず、3日で仕込んだわ」
乾杯を済ませ、料理を囲んでいると、なおが母を台所まで連れて行き、小声で何か話している。一、二言話した母は廊下へ向かった。何か取りに行ったのかなと思い、私は娘に料理をお皿に取り分ける。
しかし、母はなかなか戻ってこない。ふと玄関の方からかすかな音と香りがした。
「お母さんはどこに行ったんですか?」
「ああ、お母さんなら玄関よ」
なおはおせちを続けながら、気にも止めない様子で答える。
「玄関で何しているんですか?」
なおは口元に笑みを浮かべたまま何も言わない。明らかに様子が変だ。
「何か運ぶなら手伝いますよ。僕も行こうか」
そう言い夫が席を立ったので、私も席を立ち廊下へ向かう。玄関の上がり框に、母が背中を丸めて座っていた。
「お母さん、一緒に食べよう。何してるの?お母さん」
母は背中を向けたまま、小さな声で答える。
「私はいいの」
母の方を覗くと、そこには驚愕の光景が広がっていた。なんと母は玄関でカップ麺を食べていたのだ。あまりの衝撃に私は口を開けたまま立ち尽くす。娘も玄関へやってきた。
「お母さん、おばあちゃん」
母は少し動揺した様子だが、必死で取り繕おうとする。箸を持った彼女の手は震えていた。
「み、みんなどうしたの?戻って食べなさい」
「何やってるの?お母さん。どうしてこんなところで何考えてるのよ」
「もう、私はいいの。たくさん食べれないし」
母は俯き、私の顔を一切見てくれない。私は母の手からカップ麺をそっと離し、冷たくなった手を握る。
「何言ってるのよ。お母さん、食べるの好きでしょ?ほら、一緒に食べよう。私たちだってお母さんと一緒に食べたいよ」
しかし母は拒むように手を引っ込めた。
「いいの。本当にいいの」
その時、背後から兄夫婦がやってくる。なおはグラスを持ち、冷めた意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「何を想像してるんですかね」
彼女の態度に私は立ち上がり、なおを睨む。
「何がおかしいの?なおさんがそうさせたの?どういうことか説明してください」
なおはふんと鼻で笑う。
「別に何も。いつも迷惑かけてるから、しつけようと思っただけよ」
目を細めてなおは言った。
「お母さん、おせちの準備の時に私の大事な食器を1つ割ったのよ。もう使えないわ。高かったのに。それに毎日毎日、私たちはお母さんのお世話をしてあげてるの。お母さん、私の言うこと全然聞かないし、台所にも触らないでって言ったのに勝手なことするから、食器終わったのよ」
玄関に沈黙が流れる。兄は何も言わない。なおを叱ろうともしないし、母を庇おうともしない。これが全ての答えだった。
「ふざけないで。お兄ちゃんたちが今までお母さんにしてきたことは、全部知ってるんだから」
「はん。何言ってんの?以前来た時に、この家に防犯カメラを設置したのよ。もちろん母の許可を得てるわ」
すると夫は素早くリビングに戻って、鞄からタブレットを持ってきた。
「映像はこのタブレットと緑のスマホから見れます」
彼はそう言うと、タブレットを操作して画面を兄夫婦に見せる。タブレットには実家のリビングの様子が映されていた。なおはソファーに寝そべり、母は床で座布団の位置を直している。兄はスマホゲームに夢中。
「お母さん、麦茶持ってきてくれない?」
「ええ、すぐに入れるわね」
「あとは、私のブラウス、みんなの洗濯と一緒にしたでしょう。やめてって言ったのに」
「ああ、ごめんなさいね」
兄は母を一瞥し、すぐにスマホに目を戻す。
「どうして勝手なことばかりするの?私たちはこの家の管理をしてあげてるのよ。言うこと聞いてもらわないと困るわ。緑ちゃんは年に数回顔を出すだけだし」
「そうだよな。緑はたまに来て偉そうなことばかり言うし。お母さんが安心して暮らせるのは、俺たちがここに住んでいるからだぞ。感謝してほしいな」
画面に映る母は、顔を伏せていた。ここで夫が画面をタップして動画を停止する。兄夫婦は顔面蒼白だ。
「もっと色々記録されているけど、見る?」
「え、やめろ」
なおは何も言わないが、表情は明らかに怒っている。
「帰らせてもらうわ。本当は今後の話し合いをしようと思ったけど、する必要もなくなったわ。お母さん、もうこんな家にいる必要ないよ。私たちの家に来て、今すぐ。僕たちの家へ帰りましょう」
顔をあげた母の頬には一筋の涙が流れた。私は母の肩を抱き、立ち上がらせる。娘は声をあげずに泣いていたので、母を夫に頼み、私は娘を抱きしめた。
「大きな声出しちゃってごめんね」
娘は首を左右に振る。
「おばあちゃんがかわいそうだから、一緒にお家に帰ってもいい?」
「うん」
私たちは静かに帰り支度を始めた。貴重品などを急いで鞄に詰める母に、私は小声で言う。
「後で私が必要なものを取りに来るから、大丈夫よ」
母は微笑んで頷いた。支度を整えた私たちは玄関で靴を履く。目の前には、兄が黙って立っている。
「お邪魔しました。さよなら」
この「さよなら」は、今後深い意味を帯びてくるだろう。俯いたままの母の背中を夫が優しくさする。私が娘の手を繋ぐと、娘は私から手を離して1歩前へ出た。
「どうしたの?」
娘は自分の小さな鞄に手を突っ込み、何かを取り出す。娘の小さな手には、パンダのシールが貼られたお年玉袋が握られていた。それを兄夫婦に差し出したのだ。兄夫婦は揃って目を見開く。
「え、でも、それはもらってよ」
兄は苦笑いするが、娘は大きく首を左右に振った。
「いらない」
私は娘の目線に合わせてかがむ。
「いいの?」
「うん」
娘には、兄夫婦が母にひどいことをしたということが分かったようだ。兄はバツの悪そうな顔をして受け取ろうとしない。そんな兄の態度に、娘はお年玉袋を床にそっと置き、私の顔を見上げた。
「帰ろう」
「そうね。帰りましょう」
夫が玄関の扉を開け、母と並んで外に出る。私は娘と手を繋いで、夫たちの後を追う。玄関の扉を閉める直後、確かに「生意気なめっこ」というなおの声が聞こえた。
娘と母を後部座席に乗せて、私が助手席に乗ろうとしたら、夫がそっと私の肩に手を置いた。
「今は焦らないで。今後はお母さんとゆっくり話し合おう」
私は深く頷く。夫と私も車に乗り込み、静かに走り出す。少し走って信号が赤になったので停車すると、後部座席から小さな声が聞こえた。
「来てくれてありがとう」
その言葉に涙が溢れた。私は母に悟られないようにこらえる。私が返事ができないので、夫はバックミラー越しに微笑みながら母に言った。
「お母さん、よく耐えましたね。もう何も心配いりませんよ」
「ありがとう」
自宅へ帰る途中、元日も営業しているお店で食事してから帰宅した。娘は和室でアニメを見ていて、私たち3人はリビングで向き合う。夫は穏やかな表情で母に言った。
「お母さん、僕たちと一緒に住みましょう」
「え、そんなの悪いわ。あなたたちの生活を邪魔したくない。私は帰るから」
「帰っちゃだめ。また辛い思いをするのよ。僕が全力で支えますから。それに僕たちには考えがあるんです」
私は母の手を取り、まっすぐ目を見て言う。
「今度は私がお母さんを守る番。遠慮なんてしないで、一緒に暮らそう」
母の目に涙が浮かんだ。私と夫は母に今後のことを話す。私たちの計画を聞いた母は驚いていた。
「そんなことまでしてくれるの?」
「はい、任せてください。お母さん、やってもいいかな?私たち、色々考えていたの。お母さんを笑顔にする方法。お母さんにとっては大きな選択だと思いますが、いかがでしょうか?もちろん、すぐに返事をしなくてもいいですが、今後のために少しでも話し合った方がいいわ」
すると母はゆっくりと目を開けた。
「分かったわ。弘樹さん、お願いしていいかしら?」
「母さん、よろしいんですか?」
「ええ、いいわ。でも、一緒に暮らすことは少し考えていいかしら?私と暮らすのは嫌そうじゃないのよ」
母は慌てて手を顔の前で振る。
「緑には家族がいるでしょう。私はこれから計画していることをやってくれるだけでありがたいの。だから、まだ分からないけれど、私は1人で暮らすわ」
すると夫が明るい声で言う。
「とりあえず、落ち着くまでここにいてください」
「ありがとう」
お正月はのんびりしながら、母と今後の計画について話し合った。3日が過ぎてからすぐに動けるように、様々な準備を始める。その時、母が情報をくれたのだ。
「そういえば、あの子たち旅行に行くって言ってたわね」
「本当?いつ?」
「手帳を見れば日程書いてあるはずよ」
「じゃあ、その日を狙いましょうか」
そして私たちの計画は順調に進み、気づけば1月下旬。週末の夜、兄夫婦が旅行から帰宅した。私と母は実家の斜め前にある家の2階の窓から、実家の様子を見ている。その家には母と仲の良い夫婦が住んでおり、事情を話したら「うちから見ていいよ」と言ってくれたのだ。夫は娘と留守番をしている。
「あ、帰ってきた」
私の声に、母と仲良しの夫婦が窓に近づいてきた。実家の玄関の前に立つ兄夫婦。
「やっぱ自分の家が一番落ち着くな」
「お母さんたち帰ってきたかな?どうだろう。連絡が来ないんだよね」
母は兄からの連絡を無視している。なおが鍵を取り出し、玄関を開けようとした。
「あれ?ちょっと鍵がおかしいわよ」
「違う鍵?何やってんだよ」
兄がなおから鍵を受け取り、無理やり差し込むが、やはり回らない。
「なんだよ、これ。鍵が変わってる」
ドアノブをガチャガチャと強く揺さぶる兄。その時、ふと顔の高さよりも少し上の扉に貼られた白い紙に気づく。
「何か張ってある。なんだ?」
兄が手を伸ばして紙を引き剥がし、なおと一緒に読み始める。数秒間、2人は動かなかったが、次第に怒りと混乱の声が響く。
「うそ。こんな…『売却済み』だと」
「おい、ふざけんなよ」「きっと緑ちゃんたちの仕業よ。お母さん一人でできるわけがない」
「ここは俺たちの家だぞ。あの女」
2人は行く当てもなく、売却済みの実家の前で立ち尽くしていた。兄夫婦が見た紙には、不動産会社のロゴと私の夫の会社名が印された「売却済みにつき立ち入り禁止」という警告文だった。さらにその下には、兄夫婦に当てた私からの手書きのメッセージ。
「兄、なおさんへ。この家は私と母の同意のもと、すでに売却済みです。あなたたちがこの家に戻ることは2度とありません。お母さんの老後の生活資金はこの家の売却益で確保しました。あなたたち2人は自分たちの力で生活を立て直してください。これがあなた方がお母さんにした仕打ちの当然の報いです。緑より」
兄夫婦が帰ってきた家は、もう自分たちの居場所ではなく、他人の家だった。私の実家を売却してくれたのは夫だ。夫の職場は不動産会社。36歳で部長として働く彼は、実家の整理や売却の段取りを進めてくれた。彼は会社での立場とプロのスキルを最大限に活用し、売却手続きを進める。複数の話し合いの中で、夫は何度も母の気持ちを聞いてくれた。
「お母さん、本当にこれでよろしいですね。一度手放せば、簡単に戻すことはできません」
「はい。緑たちに迷惑をかけるには、この方法が一番いいの。私の老後のためだわ。これでお願いします」
「承知いたしました。売却益はお母さんのために、僕が責任を持って管理させていただきます」
夫は有利な買い手を見つけ出して、わずか1週間で売買契約から決済、そして所有権移転登記まで完了させる。もちろん兄夫婦には一切知らせていない。これが私と夫の計画だった。母と新しい生活を始めるために、実家を手放すことは悲しみではなく、旅立ちとなったのだ。
兄夫婦の着信は私も夫も母も拒否しているので、連絡が来ることはない。しかし近所の人たちから、兄夫婦のその後を聞くことができた。住む場所を失った兄夫婦は、わずかな貯金とクレジットカードでビジネスホテルを転々とする生活を始める。彼らの生活はあっという間に行き詰まった。兄は仕事で大きなミスをして部署を移動させられ、給料が減る。なおは専業主婦だったので、バイトを始めたようだ。私の実家に暮らしていた2人は、家賃や光熱費などを気にする必要がなかったため、自分たちの好き放題にお金を使っていたのだろう。
数週間後、兄夫婦は古いアパートの一室に引っ越していた。2人は地道に生きていくのだろう。もう2度と、彼らが母の人生に立ち入ることはさせない。そして、彼らが自立して生きるまで、母は2度と会うつもりはないだろう。
私と夫の家で、私は夫とテレビで夜のニュースを見ている。
「弘樹さん、本当にありがとうございました」
「いいんですよ、お母さん。これで良かったのよ。あのままじゃお母さんの人生が潰れてた。これからは自分のために生きてね」
「そうですよ。このままここにいてもいいんですよ。でも、もちろん無理にとは言いませんが」
やはり母は私たちとの同居を悩んでいるようだ。1人でアパートを探しに行ったこともあるらしい。以前、夫が私にこっそり提案してくれた。
「うちの近くのマンションに、お母さんの部屋を借りる方法もあるよ。内勤管理しているから、いつでも言ってね」
そのマンションはうちから徒歩5分の場所にある。私は近々、母に話してみようと思った。母の小さな肩を抱き寄せる。私は深い安堵と共に、これで肩の荷が降りたことを実感した。兄夫婦に対する怒りは残るが、それよりも母を守り切った満足感が勝っている。母がうちに来たことで、彼女の笑い声が戻ってきたのだ。娘と遊ぶ母の姿は穏やかで、かつて見たどんな笑顔よりも優しかった。家族の形は変わっても、そこにあるぬくもりは同じ。母の幸せを守ることが、私自身の幸せでもあった。家は変わっても、絆は変わらない。過去を整理して未来へ踏み出すその決断は、家族みんなに新しい春をもたらしたのだった。



