作業着のまま旅行代理店に立ち寄ったのは、帰り道で時間がなかったからだ。ところがカウンターの男は、俺の格好を見た瞬間から値踏みするような目をしていた。要件を伝えると、鼻で笑いながらこう言った。「うちは貧乏旅行は扱ってません。せいぜい田舎の民宿がお似合いですよ」。その場を離れて隣の小さな代理店へ向かい、契約を済ませて外へ出たとき、さっきの男とすれ違った。「どこの民宿でした?」と聞かれて、俺は「ラ…

作業着のまま旅行代理店に立ち寄ったのは、帰り道で時間がなかったからだ。ところがカウンターの男は、俺の格好を見た瞬間から値踏みするような目をしていた。要件を伝えると、鼻で笑いながらこう言った。「うちは貧乏旅行は扱ってません。せいぜい田舎の民宿がお似合いですよ」。その場を離れて隣の小さな代理店へ向かい、契約を済ませて外へ出たとき、さっきの男とすれ違った。「どこの民宿でした?」と聞かれて、俺は「ラ...

作業着のまま、俺は大手旅行代理店の扉をくぐった。

取引先への納品を終えた帰り道、工場に戻って着替える時間がなかったのだ。カウンターの奥に座っていたのは、三十代半ばの男性スタッフだった。名札には「久保」と書いてある。

俺が要件を伝えるより先に、久保の視線が遠くへ逃げた。

「視察旅行の手配を相談したい」

言い終わるか言い終わらないかのうちに、久保はパンフレットの棚へ手を伸ばした。カウンター越しに差し出されたのは、国内の個人向けツアーの冊子だった。

「失礼ですが、何名様のご予定ですか? 弊社は小規模の個人旅行はご案内が難しい場合がありまして……」

俺が何も言わないうちに、すでに小さい客だと決めつけている。

「法人案件だ。個人客じゃない。規模は500名。行き先はラスベガスを検討している」

久保の顔から作り笑いが消えた。代わりに浮かんだのは、俺を見下すような薄笑いだった。

「はあ、500名でラスベガスですか。お客様、そのお召し物で法人案件と言われましても、にわかに信じがたいんですがね。うちは一部上場の法人様や外資系のお客様が中心でして」

鼻で笑いながら、久保は続けた。

「うちは貧乏旅行は扱ってません。せいぜい田舎の民宿がお似合いですよ」

この男には、500人という数字もラスベガスという行き先も、最初から信じる気がない。作業着を見た瞬間に、俺の扱いは決まっていたのだ。

「そうですか」

それだけ言って、俺はカウンターを離れた。反論する気は起きなかった。何を説明しても、この男との会話が有意義になるとは思えなかった。

自動ドアが開いた瞬間、背後から声が届いた。

「近くに別の代理店もありますよ。まあ、どこの店も同じ対応になるでしょうが」

さらに、同僚に向けた軽口まで聞こえてくる。

「油まみれの作業員が海外旅行とか言い出してさ、バスの温泉がお似合いでしょ」

俺は振り返ることなく、店を後にした。

隣の店の前に立ち、俺は足を止めた。個人商店のような小さな店構えだったが、看板には「海外団体旅行承ります」と書かれている。

規模では大きな代理店に敵わないが、専門を謳っているなら話を聞く価値はある。

ドアを開けると、カウンター奥にいた四十代の男性が立ち上がった。名札には「森田」とある。森田は俺の作業着に視線を向けることなく、「どうぞ」と丁寧に奥の応接スペースへ案内した。

テーブルに腰を下ろすと、森田がお茶を差し出した。壁に目をやると、受賞歴や取引実績の額が一列に並んでいる。大手企業や業界団体の名前が連なり、中には数百名規模の法人旅行の実績を示すものもあった。

「精密機械工業会の視察旅行で、参加者は500名。行き先はラスベガスを検討している」

森田はメモをとりながら、淀みなく返した。

「500名規模ですと、1便での移動は難しいため、複数便への振り分けが前提になりますね。ラスベガスへの直行便は本数が限られますので、乗り継ぎルートも含めた手配が必要です。アメリカへの渡航には、全員分のESTA申請も必要になります。現地での移動は、コンベンション施設とホテル間のシャトル手配が一般的です。出発の時期はいつ頃をお考えですか?」

俺が話し終わる前に、次の質問が来る。大手の店では、俺が口を開く前に結論が出ていた。この男は、必要な情報を先回りして揃えているのだ。

「2ヶ月後の出発を想定している」

「では、早急に動く必要がありますね」

森田はパソコンに手を伸ばす前に、俺を見た。

「1点だけ確認させてください。行き先はラスベガスで確定でしょうか?」

「まだ候補段階だ」

「でしたら、このままラスベガスで確定された方がいいと思います。ラスベガスがあるネバダ州は、近年法人税ゼロや電力優遇、輸送インフラ整備を組み合わせた産業誘致政策を展開しています。特に半導体関連の製造拠点が砂漠地帯に急速に集積していて、精密加工と関わりの深い部品メーカーやサプライヤーも複数参入しています。業界団体の視察地として、注目される場所の一つですよ」

これは観光案内でも世間話でもない。仕事の目的にまで踏み込んだ、専門的なアドバイスだった。

「あなたに任せる」

「ありがとうございます。大手ほど宣伝はできませんが、こういった案件を数多く手掛けてきました。全力でお応えします」

森田はその場でパソコンを開き、航空会社の空席と現地ホテルの団体枠を確認し始めた。

小さな店構えだ。だが、この男の仕事は本物だと、入店してからの一連のやり取りで分かる。うちと同じだ。機械の染みた作業着を着ているからといって、仕事の質まで外から見えるわけじゃない。

十数分ほどのやり取りの後、森田が差し出したのは、視察の規模と条件が整理された提案書だった。俺は迷わずペンを取った。

仮契約を済ませ、俺は森田の店を出た。手には提案書。500名の移動ルート、宿泊施設の規模、申請スケジュール。今後の段取りが、ようやく具体的に見えてきた。

店を出た瞬間、隣の大手の店のドアが開いた。出てきたのは二人。一人は久保、もう一人は五十代の体格のしっかりした男性だった。

久保が俺を見て、口元を歪めた。

「あれ? まだいらっしゃったんですか? 隣の店でも田舎の民宿を進められたんじゃないですか?」

「いえ、きちんと契約してきました」

「へえ。どこの民宿でした?」

「先ほどあなたに言った通り、ラスベガスで500名です」

久保の口元が薄笑いのまま動かなくなり、目から表情が消えていく。しばらくして、空気が抜けるような声が出た。

「ラスベガス……500名……」

聞き返すということは、俺が先ほど言ったことさえ、この男の頭には残っていなかったのだ。

それ以上何も言わず、俺は歩き出した。

数歩進んだところで、背後から低い落ち着いた声が届いた。

「お待ちください」

振り返ると、五十代の男性が一歩前に出て、深く頭を下げていた。名刺には「三村 エリアマネージャー」とある。

「弊社の者が大変失礼なことを申し上げました。お差し支えなければ、少しお時間をいただけますか?」

三村は久保に向き直ると、声を低めた。

「久保。お客様に対する今の態度は何だ? 店内でこのお客様に何と言った? ラスベガスで500名の団体旅行をご依頼されたお客様に、そんな軽口を叩いて民宿を進めたのか?」

久保の肩がわずかに震えた。

「……法人案件とおっしゃっていたんですが、作業着でいらっしゃったもので、にわかに信じがたく……」

久保は言葉を濁した。三村の目が細くなる。

「後で詳しく聞かせてもらうぞ」

怒鳴るわけでも、声を荒げるわけでもない。その静かな沈黙の方が、どんな叱責よりも重かった。

三村は俺に向き直った。

「以前、精密機械工業会の視察でご一緒したことがあったかと思います。担当者として同行させていただいたものです」

言われてみれば、数年前の視察に代理店側の担当として同行していた人物だ。俺は胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚差し出した。三村は両手で受け取り、目を落とす。指先が、かすかに止まった。

「……精密機械工業会理事長」

声がかすれている。三村はゆっくりと顔を上げ、深く頭を下げた。

「この場では伝えきれません。明日、改めてお詫びに伺ってもよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

それだけ答えて、俺は歩き出した。

その夜、三村から電話が入った。久保がこれまでの実績に慢心し、大口案件を確実に逃してきたこと。俺が隣の店にいたことに気づかなかったこと。そして、翌日は久保を同行させて直接お詫びをさせたいという申し出だった。

翌朝八時、工場の応接室に三村と久保が並んで立っていた。三村は昨日と変わらぬ落ち着いた様子。久保はその半歩後ろに立ち、視線を床に向けている。顔色は白く、両手は膝の上に置かれたまま固まっていた。

三村が姿勢を正した。

「昨日は久保が大変な狼藉を申しました。改めてお詫び申し上げます」

二人が頭を下げる。久保もそれに続いたが、動きが遅い。

「久保、顔を上げろ」

三村が短く告げる。久保がゆっくりと顔を上げる。

「お前がどういうことをしたのか、分かっているか?」

久保は無言のまま、かすかに首を横に振った。

「内藤様は精密機械工業会の理事長だ。昨日の視察手配は個人客の話じゃない。視察団500名は、全員日本の精密加工業界の現場を担う立場の方たちだ」

久保の方が引きつった。膝の上で、両手を握り直す。

「でも……あんな格好で来られたら……」

言いかけて、久保は言葉を止めた。言い訳にならないと気づいたのか、それとも言葉が見つからないだけなのか。応接室にしばらく沈黙が落ちた。外から、旋盤の低い音が聞こえてくる。

「少し話がある」

久保が顔を上げる。俺は静かに話し始めた。

「あなたが毎日使っている予約端末がある。あの画面の向こうで、世界中の航空券とホテルの情報が瞬時に処理されていく。そのシステムの基盤を動かしている精密部品。それは、うちの特許技術で製造した部品だ」

久保の表情が固まった。

「久保さん。あなたが毎日クリック一つで、世界中の席や部屋を手配できるのは、その技術が止まることなく動き続けているからだ」

久保は言葉を失っていた。反論の気配もない。ただ、両手が膝の上でゆっくりと握りしめられた。

三村がソファーを立ち、応接室の床に膝をついた。

「弊社が業務を続けていられるのは、貴社の技術のおかげです。本当に申し訳ありませんでした」

久保が隣に膝をつき、同じく頭を下げる。今度は遅れなかった。声は出ない。床へ向けたまま、肩だけが小さく震えている。

「謝るのは私にだけじゃない。あなたの会社が毎日使うシステムを支えている、うちの会員500人全員だ」

久保の肩の震えが止まった。三村の「はい」という声だけが、応接室に短く響いた。

俺は腰を上げ、二人を見送った。その後、旋盤の前に戻る。低い音がいつも通り工場に響いている。

数日後、事務局から連絡が来た。

「今回の代理店の担当の方、とても配慮が行き届いていますね」

森田からの連絡は途切れることなく届いた。ESTA申請の進捗、複数便への振り分け、現地の移動手配まで、こちらが問い合わせる前に報告が来る。

視察旅行の出発日は滞りなく訪れた。500名はラスベガスへ飛び、製造業の集積地を巡る有意義な視察を終えて、全員が無事帰国した。

しばらくして、三村から連絡が入った。今回の件を受けて社内調査が行われたという。調べが進むにつれ、久保がこれまでも容姿や肩書きで客を判断し、重要な案件を門前払いにしていた事実が複数件明らかになった。

失注した大口案件の数は、今回だけではなかったのだ。

その結果、久保は降格処分になった。その後、業界団体との大口案件を失う発端を作った者として社内での居場所もなくなり、間もなく自主退職したという。

三村が業界団体に正式な謝罪のために訪れたが、理事会の判断は早かった。満場一致で大手代理店を取引先から除外する。以後、俺が理事長でいる限り、精密機械工業会の案件は全て森田の店が担うことになるだろう。

理事会が動いたのは、俺が頼んだからじゃない。この業界にいる人間は、職人の仕事の価値を知っている。

目の前の存在に誠実に向き合うこと。それが俺の仕事の姿勢であり、今回の件で改めてそのことを思い知った。

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