「母さん、やっぱり1人暮らしは危険だよ。僕たちと一緒に住もう。」
その言葉を聞いた時、美和子の胸に走ったのは喜びではなかった。数ヶ月前まで、息子は「同居は無理だ」と言っていたのだから。
高田美和子は73歳。10年前に夫を亡くし、ずっと1人でこの家を守ってきた。息子夫婦とは月に1度会う程度だったが、家族の絆を信じて疑わなかった。
しかし、たった1つの数字が全てを変えてしまった。
1500万円。
不動産業者から告げられたこの査定額を息子に伝えた瞬間、息子夫婦の態度が一変した。
「え、1500万も価値があるの?本当に?」
電話口の息子の声には、今まで聞いたことのない興奮が混じっていた。そして翌日、突然の同居案。美和子はその時悟ったのだ。息子夫婦が欲しかったのは、美和子ではなく1500万円なのだと。
今、美和子は誰にも告げることなく、静かにこの町を去ろうとしている。
美和子が夫をなくしたのは、今から10年前の秋のことだった。40年間連れ添った最愛の人を失った悲しみは計り知れなかったが、美和子は懸命に1人暮らしを続けてきた。
「母さん、1人で大丈夫?何かあったらすぐに連絡してよ。」
夫の葬儀の時、息子はそう心配そうに声をかけてくれた。当時、息子は都内で会社員として働いており、妻の由香も優しい人で、時折、手作りのお惣菜を差し入れてくれることもあった。
「お母さん、無理はしないでくださいね。」
そんな由香の言葉に、美和子は心から感謝していた。息子が素敵な嫁を見つけてくれたことを、亡くなった夫も喜んでいるに違いないと思っていた。
美和子の住む家は、築50年になる木造2階建ての一軒家だ。夫と一緒に建てたこの家には、たくさんの思い出が詰まっている。子供の頃の息子が階段を駆け上がる音。家族で囲んだ夕食の団欒。そして、夫の静かな読書の時間。
「この家は、俺たち家族の宝物だな。」
夫がよくそう言っていたのを、美和子は今でも鮮明に覚えている。だからこそ、1人になっても美和子はこの家を大切に守り続けてきた。
月に1度の息子夫婦の訪問は、美和子にとって何よりの楽しみだった。特に孫たちの成長を見るのは格別の喜びだった。
「おばあちゃん、今度の修学旅行、京都に行くんだよ。」
「おばあちゃん、私、テストで100点を取ったの。」
孫たちの無邪気な報告に、美和子はいつも目を細めて聞いていた。そんな時、息子はいつも同じことを言うのだった。
「母さん、この家も古くなってきたね。維持費も大変じゃない?」
息子の言う通り、築50年ともなると修繕箇所が増えてくる。昨年は屋根の瓦を一部吹き替え、一昨年は給湯器を交換した。年金暮らしの美和子にとって、これらの出費は決して軽いものではなかった。しかし、息子はその後、必ずこう付け加えるのだ。
「でも、まだまだ住めるよね。思い出もたくさんあるし。」
美和子は息子のこの言葉に少し戸惑いを感じていた。維持が大変だと心配してくれているのか、それともまだ住み続けてほしいと思っているのか。でも、きっと息子なりに美和子を気遣ってくれているのだろうと、美和子は素直に解釈していた。
「ありがとう。私はまだまだ元気だから、大丈夫よ。」
そう答える美和子に、由香も微笑ましく頷いてくれるのだった。
「お母さんは、本当にしっかりしていらっしゃいますね。」
しかし、この1年ほどで美和子の体調に変化が現れ始めていた。階段の上り下りが辛くなり、膝の痛みが日に日に増していた。朝起きる時も、以前のようにすぐには立ち上がれなくなった。
「年を取るということは、こういうことなのね。」
美和子は鏡に映る自分の姿を見ながら、そう呟いた。2階の寝室への移動も億劫になり、最近は1階の居間で寝ることが増えていた。
ある日、美和子は息子に体調の変化を相談してみた。
「最近、階段がちょっと辛くなってきたのよ。」
すると息子は心配そうな表情を見せた。
「母さん、大丈夫?医者には言ったの?」
「ええ、言ったわ。年齢的なものだから、無理をしないようにって言われたの。」
その時、息子は少し考え込むような表情を見せた後、こう言った。
「母さん、もしかしたら1人暮らしも限界かもしれないね。でも、僕たちも手いっぱいだし…。」
由香も申し訳なさそうに頷いた。
「お母さん、私たちも子供のことで精一杯で、なかなかお手伝いできなくて申し訳ないです。」
美和子は息子夫婦の事情を理解していた。働き盛りの息子、子育てに忙しい由香。美和子自身も、息子世代の大変さは十分に分かっていた。
「大丈夫よ。私はまだ1人でやっていけるから。」
美和子はそう答えたが、心の奥では漠然とした不安を感じ始めていた。もし本当に1人では生活できなくなったら、自分はどうすればいいのだろうか。
そんな不安を抱えながらも、美和子は息子夫婦に負担をかけたくないという思いから、弱音を吐くことはなかった。毎日の生活を精一杯頑張り、月に1度の家族の訪問を心待ちにしながら、静かに日々を過ごしていた。
そして、美和子がついに不動産業者に相談することを決意したのは、つい先月のことだった。体調の変化と共に、この大きな家を1人で維持することの限界を感じ始めていたのだ。
美和子が不動産業者に相談することを決めたのは、ある雨の日の出来事がきっかけだった。階段を降りる時に足を滑らせ、手すりに捕まってなんとか転倒を免れたのだ。その時、美和子は心の底から恐怖を感じた。
もし誰もいない時に怪我をしたら、どうなるのかしら。
1人暮らしの限界を感じた美和子は、思い切って地元の不動産会社に電話をかけた。
「すみません。家の売却について相談したいのですが…。」
不動産会社の担当者は親切で、翌週には査定に来てくれることになった。
査定当日、50代の男性担当者が丁寧に家の中を見て回った。
「築50年とは思えないほど、手入れされていますね。」
担当者はそう言いながら、各部屋の寸法を測り、写真を撮っていく。美和子は緊張しながらその様子を見守っていた。
「失礼ですが、お1人でお住まいなんですか?」
「ええ、夫が亡くなってから10年になります。」
「それは大変でしたね。でも、本当に綺麗に使われています。こういう物件は最近人気なんですよ。」
担当者の言葉に、美和子は少し安心した。夫と大切に住んできた家を、誰かが評価してくれることが嬉しかったのだ。
査定が終わると、担当者は美和子に向かって意外な言葉を口にした。
「正直に申し上げますと、思っていた以上の価値がありますね。立地も良いですし、リフォームすれば子育て世代にも人気が出そうです。」
「そうなんですか。でも、古い家ですけど…。」
「いえいえ、この辺りの相場を考えると、1500万円での買い取りが可能だと思います。」
1500万円。美和子は思わず聞き返した。夫と建てた時は800万円だったこの家が、50年経った今、倍近い価格になっているなんて信じられなかった。
「はい。立地の良さとメンテナンスの行き届いた状態を考慮すると、それくらいの価値はあります。ただし、これは当社での買い取り価格ですので、仲介で売却すればもう少し高くなる可能性もあります。」
美和子は頭の中で計算していた。1500万円あれば、老人ホームに入居しても十分暮らしていける金額だ。子供たちに迷惑をかけることもない。
「少し考えさせていただけますか?」
「もちろんです。急ぐ必要はありませんので、ゆっくりご検討ください。」
担当者が帰った後、美和子は1人でその金額について考え続けた。1500万円。それは美和子にとって、想像もしていなかった大きな金額だった。
数日後、美和子は息子に電話をかけた。家族に相談せずに大きな決断をするのは良くないと思ったからだ。
「拓也、お疲れ様。ちょっと相談があるの。」
「母さん、どうしたの?体調でも悪いの?」
拓也の声には、いつもの優しさがあった。
「体調は大丈夫よ。実は家のことなんだけど…。」
美和子は体調の変化と、不動産業者に相談したことを説明し、家を売ることにしたと伝えた。業者が1500万で買い取ってくれると言ってくれたことも。
電話の向こうで一瞬の沈黙があった。
「え、1500万も価値があるの?本当に?」
拓也の声に、明らかな驚きと興奮が混じっていた。美和子は、息子が金額に驚いているのだと思った。
「ええ、私も驚いたわ。こんな古い家がそんなに高く売れるなんて。」
「ちょっと待って、母さん。そんな大事なことを1人で決めちゃダメだよ。」
拓也の声には、今まで聞いたことのない緊張感があった。
「1500万もする家を売るなんて、もっと慎重にならないと。僕も一緒に考えるから、明日行くよ。」
「でも、拓也、仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。こんな大事なことなんだから、仕事なんてどうでもいいよ。」
美和子は拓也の反応に少し戸惑った。いつもは仕事で忙しく、「今度時間ができたら」が口癖の息子が、こんなに急いでくるなんて。
「分かったわ。でも、無理しなくても…。」
「無理じゃないよ。とにかく何も決めないで待ってて。明日、僕も行くから。」
電話を切った後、美和子は複雑な気持ちだった。拓也が心配してくれているのは嬉しいが、1500万という言葉を聞いた瞬間の息子の声の変化が気になっていた。
翌日の夜、美和子は拓也からもう一度電話を受けた。
「母さん、明日の午前中に行くよ。それまで、絶対に業者の人とは連絡を取らないでね。」
「どうして、そんなに慌てているの?」
「慌ててなんかいないよ。ただ、母さんが損をしないように、ちゃんと話し合いたいんだ。」
拓也の言葉は理にかなっていた。でも、美和子には何か引っかかるものがあった。今まで月に1度の訪問さえ忙しいと言っていた息子が、こんなに積極的になるなんて。
「由香さんも来てくれるの?」
「ああ、由香も一緒だよ。家族みんなで話し合おう。」
その夜、美和子はなかなか眠れなかった。1500万円という金額が、何かを変えてしまったような気がしてならなかったのだ。
でも、きっと考えすぎなのだろう。拓也は優しい息子だ。母親の将来を心配してくれているに違いない。
翌朝、美和子は拓也夫婦の訪問に備えて、お茶とお菓子を用意した。久しぶりに家族で大切な話し合いができることを、心のどこかで楽しみにしていたのだ。
ただ、美和子の胸の奥には、小さな不安の種が蒔かれていた。それは、電話で「1500万」という言葉を聞いた瞬間の、拓也の声の変化だった。まるで、宝くじが当たったかのような響きがあったのだ。
翌日の午前10時、拓也と由香が美和子の家を訪れた。月末の土曜日にしか来ない2人が、平日の朝からやってくるのは異例のことだった。
「母さん、久しぶり。急に来てごめんね。」
拓也の表情には、どこか落ち着かない様子が見て取れた。由香も、いつもより明らかにそわそわしている。
「いえいえ、来てくれて嬉しいわ。お茶を入れましょう。」
美和子がお茶を用意している間、拓也と由香は小声で何かを話し合っていた。美和子には聞こえなかったが、時折「1500万」という数字が聞こえてきた。
「さあ、座って。とりあえず、昨日の件を話し合いましょう。」
美和子がお茶を出すと、拓也は急に真剣な表情になった。
「母さん、実は僕たち、昨日からずっと話し合ってたんだ。」
「そうなの?」
「ああ、それで思ったんだけど、やっぱり1人暮らしは危険だよ。僕たちと一緒に住もう。」
美和子は思わず目を見開いた。数ヶ月前、体調について相談した時、拓也は「僕たちも手いっぱいだし」と言っていたからだ。
「え、でも拓也、前に同居は難しいって言ってたじゃないの。」
「いや、そう言ったけど、よく考え直したんだ。やっぱり母さんを1人にしておくわけにはいかないよ。」
由香も、いつになく積極的に同調した。
「そうです、お母さん。私たちと住みましょう。娘ももう大きいですし、状況が変わったんです。」
美和子は戸惑った。確かに息子夫婦と住めるのは理想的だが、この急な変化に違和感を覚えずにはいられなかった。
「でも、あなたたち、住宅ローンもあるでしょう。私が加わったら、大変じゃない?」
「大丈夫だよ、母さん。実は、家を売ったお金は僕たちが管理するから、安心して。」
拓也のその言葉に、美和子は驚いた。
「お金を管理するって、どういう意味?」
「だって、母さん、1人で1500万なんて大金、管理が大変でしょう。僕たちが代わりに管理して、必要な時に使えるようにしておくよ。」
由香も熱心に説得を始めた。
「そうです。お母さん、老人ホームに入るにしても、私たちが手続きをした方が安心ですし。」
「老人ホーム?私は、老人ホームに入るなんて言ってないわよ。」
「いやいや、将来の話だよ。もし介護が必要になった時のために、1500万があれば十分いいところに入れるからね。」
拓也の目が、まるで宝くじが当たった人のように輝いているのを、美和子は見逃さなかった。そして、由香も同じような表情をしていることに気づいた。
「ちょっと待って。私はまだ、売ると決めたわけじゃないのよ。相談したかっただけ。」
「母さん、何言ってるの?昨日、売ることにしたって言ったじゃないか。」
拓也の声に、少しイライラした様子が混じり始めたことに、美和子は気づいていた。
「業者さんにも査定してもらって、もう話は進んでるんだよね。」
「そんなこと言ってないわよ。まだ検討中だって言ったはずよ。」
その時、由香が小声で拓也に言った。
「お母さん、ちょっと忘れっぽくなってるのかしら。」
その言葉に、美和子は強い居心地の悪さを感じた。
「忘れっぽいって、急に何を言い出すの?私はボケてなんかないわ。」
「あ、いえ、そういう意味じゃなくて…。」
由香は慌てて弁解したが、その表情からは明らかに計算高さが見て取れた。
拓也は、母親が怒り始めたのを察して、声のトーンを変えた。
「母さん、怒らないでよ。僕たちは母さんのことを心配してるんだ。1500万もあれば、母さんの老後は安泰だよ。」
「そのお金を、どうして拓也たちが管理する必要があるの?」
「だって、母さん、よく考えてよ。そんな大金を1人で持ってたら危険じゃないか。振り込め詐欺とかもあるし。」
拓也の説明は一見最もらしく聞こえたが、美和子にはその裏にある本音が透けて見えた。息子夫婦が欲しかったのは、美和子と一緒に住むことではなく、1500万円だったのだ。
「分かったわ。よく考えてみるから。今日は、これで帰ってちょうだい。」
美和子の冷たい口調に、拓也と由香は顔を見合わせた。
「母さん、怒ってる?僕たち、母さんのためを思って…。」
「分かってるわ。ありがとう。でも、大事なことだから、1人でゆっくり考えたいの。」
結局、拓也夫婦はその日は帰って行った。しかし、玄関で由香が拓也に向かって言った言葉を、美和子は聞き逃さなかった。
「大丈夫よね、お母さん。ちゃんと分かってくれるわよね。」
その声には、1500万円への執着が明確に現れていた。美和子はその瞬間、全てを理解した。息子夫婦にとって、自分は1500万円を運んでくる存在でしかなかったのだ。
拓也夫婦が帰った後、美和子は1人リビングに座り込んだ。静寂の中で、先ほどの会話を何度も頭の中で繰り返していた。
「1500万があれば、母さんの老後は安泰だよ。」
拓也のその言葉が、美和子の胸に重くのしかかっていた。息子が考えていたのは、美和子の幸せではなく、1500万円への欲だった。
その夜、美和子は一睡もできなかった。天井を見つめながら、これまでの拓也夫婦との関係を振り返っていた。
翌朝、美和子がまだ朝食の準備をしている時間に、拓也から電話がかかってきた。
「母さん、昨日の件、どう考えた?」
拓也の声には、前日の優しさは微塵もなかった。
「まだ、考えているところよ。」
「考えるって、何を?僕たちがせっかく同居を提案してるのに、何が不満なの?」
美和子は、息子の変貌ぶりに驚いた。
「不満というわけじゃないけれど、そんなに急に決められないわ。」
「急にって、母さんの方から売却の話を持ち出したんじゃないか。僕たちは母さんのために時間を作って、一緒に住んであげるって言ってるんだよ。」
「住んであげるって…。」
美和子は、息子の言葉遣いに愕然とした。
「そうだよ。僕たちだって大変なんだから。でも、母さんのために1500万の管理もしてやるって言ってるじゃないか。」
電話の向こうから、由香の声も聞こえてきた。
「お母さん、私たちがどれだけ大変だと思ってるんですか?子供の教育費もかかるし、住宅ローンもあるのに…。」
拓也も続けた。
「そうだよ。はっきり言わせてもらうけど、母さんが同居に応じないなら、今後一切、老後の面倒は見ないからね。」
美和子は息を飲んだ。
「拓也、あなた、何を言っているの?」
「何って、当たり前のことでしょう。僕たちは好意で同居を提案してるんだよ。それを断って1人で勝手に暮らすって言うなら、困った時も1人でなんとかしてよ。」
由香の声も厳しくなった。
「そうですよ。私たちも自分たちの生活で精一杯なんです。お母さんがわがままを言うなら、もう知りません。」
「わがまま?私がいつ、わがままを言ったの?」
美和子の声が震え始めた。
「1500万も確実に手に入るのに、僕たちに甘えようとするのはわがままだろ。頼りないんだったら、最初から相談なんてしないでくれよ。」
拓也の言葉に、美和子の心の底から怒りが湧き上がってきた。
「甘えるって…。私はあなたたちに甘えた覚えはないわ。相談したのは、家族だから報告すべきだと思ったからよ。」
「報告?僕たちをバカにしてるの?1500万の話を聞かせておいて、でも管理は自分でするって?それって、僕たちには何の関係もないってことだよね。」
美和子は、息子の本音がついに露わになったことに、ある種の清々しささえ感じた。
「そういうわけじゃないわ。ただ、私はまだ管理してもらうほどボケてないわ。」
「母さん、そんな冷たいこと言うの?親子だろ?」
「親子?今のあなたが、親子らしいことを1つでも言った?」
美和子の声が怒りで震えていた。
「私はあなたを73年間、自分のお腹で育て、学校に行かせ、結婚の時は貯金を使って援助した。でも、あなたは私を何だと思っているの?1500万円を運んでくる、便利な老人?」
「そんなこと言ってないだろ。」
拓也の声が小さくなった。
「言っているのと同じよ。私の話を聞く前から、お金の管理は俺たちがする。同居しなければ面倒は見ない。これが、息子の言うことなの?」
由香が口を挟んだ。
「でも、お母さんだって、私たちの大変さを分かってくれないじゃないですか。」
「あなたたちの大変さ?由香さん、あなたが結婚する時、私がいくら援助したか覚えている?新居の頭金、結婚式の費用、全部私と主人が出したのよ。そのお金で買った家に住んでいるあなたが、私の1500万円を管理させろって?」
電話の向こうが静かになった。
「拓也、最後に1つだけ聞かせて。あなたは、本当に私と一緒に住みたいと思ったの?それとも、1500万円と一緒に住みたかったの?」
長い沈黙の後、拓也が苦し紛れに答えた。
「…母さん、そんな風に言うなら、もう本当に知らないからね。今後、一切連絡してこないで。」
「分かったわ。こちらからも連絡しない。」
美和子は静かにそう答えて、電話を切った。
受話器を置いた瞬間、美和子の心には不思議な軽やかさが訪れた。息子への最後の期待が完全に消えた時、同時に重い荷物も下ろすことができたのだ。
「ありがとう、拓也。あなたのおかげで、私は自分の人生を取り戻すことができたわ。」
美和子はそう独り言を言いながら、不動産業者に電話をかけた。
「先日はありがとうございました。売却について、できるだけ早く手続きを進めていただけませんか?」
もう迷いはなかった。息子夫婦の計算から完全に自由になって、残りの人生を自分らしく生きるのだ。1500万円は美和子だけのものだ。そして、その使い道も美和子が決める。
拓也と由香が美和子からの連絡を待ち切ってから、1ヶ月が経った頃、2人の生活に変化が現れ始めた。
「お父さん、塾代の振り込み、今月分まだよ。」
中学3年生の娘、麻由が拓也に請求書を手渡した。月5万円の進学塾。それに加えて個別指導も受けさせているため、教育費は10万円を超えている。
「分かってる。今度、振り込むから。」
拓也は苛立ちながら答えたが、実際には通帳の残高が心もとない状況だった。住宅ローンの返済が月12万円、車のローンが5万円。そこに子供の教育費と生活費を加えると、夫婦の収入ではギリギリの状態が続いていた。
「拓也、お母さんからの連絡は、まだないの?」
由香が不安そうに尋ねた。2人は美和子の1500万円を当てにして、すでに様々な計画を立てていた。住宅ローンの繰り上げ返済、大学進学資金、そして自分たちの老後の備え。
「言ってただろ。しつこいな。」
拓也は舌打ちをした。彼らの中では、美和子が最終的には同居に応じて、1500万円の管理を任せてくれるはずだという楽観的な見通しがあった。
しかし、2ヶ月目に入っても、美和子からの連絡は一切なかった。それどころか、拓也が美和子の家に電話をかけても、呼び出し音がなるだけで誰も出ない。
「おかしいな。母さん、どこかに出かけてるのかな?」
心配になった拓也は、ある土曜日に美和子の家を訪ねることにした。しかし、玄関の呼び鈴を押しても応答がない。
「留守かしら。それとも…。」
由香が不安そうに呟いた時、隣の家から年配の女性が出てきた。
「あら、拓也さん。お母様のことでしたら、引っ越されましたよ。」
「え、引っ越し?」
拓也は愕然とした。
「ええ、3週間ほど前に、業者さんが来て家具を運び出していましたよ。ご存知なかったの?」
「この家は…。」
「売却されたそうですよ。新しい方が、もうすぐ入居されるって聞きました。」
拓也と由香は、その場に立ち尽くした。美和子が本当に家を売り、1500万円を手にして姿を消したのだ。
「どうして、どうして何も言わなかったの?」
由香が呟いた。しかし、心の奥では分かっていた。あの日の電話で、2人が美和子を深く傷つけたことを。
その日から、拓也夫婦の家計は急速に悪化した。美和子の1500万円を前提とした生活設計が、完全に崩れたのだ。
「お父さん、今月の塾代、遅れてるって先生から電話があったよ。」
麻由の言葉に、拓也は頭を抱えた。
「分かってる。何とかするから。」
しかし、何とかする手段はもうなかった。美和子からの援助という、最後の頼みの綱が、自分たちの手で断ち切られてしまったのだ。
「あなた、お母さんを探さなくていいの?警察に届けるとか…。」
由香が提案したが、拓也は首を振った。
「できないよ。僕たちがひどいことを言ったから、母さんは出て行ったんだ。警察に相談したって、家族の問題で終わりだよ。」
その頃、遠く離れた地方の小さな町で、美和子は新しい生活を始めていた。ミニマムな小さなアパートは、73歳の女性1人には十分すぎる広さだった。
近所の人たちは皆親切で、美和子の身の上を詮索することもない。商店街では「おはようございます」と気軽に声をかけてもらい、美和子も自然と笑顔で答えている。
「息子さんは?」と聞かれることもあるが、美和子は静かに微笑むだけだ。
「私、1人で十分ですから。」
拓也夫婦が1500万円を当てにしていた頃、美和子はその金額で、誰にも縛られない自由な生活を手に入れていた。お金に目がくらんだ息子夫婦は、結果的に経済的困窮だけでなく、家族としての絆も失ったのだ。
美和子は息子夫婦の本性を知ることで深く傷ついた。しかし同時に、自分の人生を取り戻すことができた。73歳という年齢でも、新しい人生を始めることは可能なのだ。
一方、拓也夫婦は金銭への執着によって、母親だけでなく自分たちの未来も失った。他人の資産に依存した人生設計がいかに危険であるか、そして家族の愛情を金銭で図ることの愚かさを、身を持って学ぶことになった。
美和子が新しい町で暮らし始めてから6ヶ月が経った。季節は夏から秋へと移り変わり、美和子の心にも穏やかな変化が訪れていた。
「おはようございます、高田さん。」
近所の商店街で、八百屋のおじさんが気軽に声をかけてくれる。
「今日は里芋が美味しそうですよ。」
「ああ、これ、朝掘ったばかりですよ。1人だと余っちゃうでしょう。小分けにしておきますね。」
こんな何気ない会話が、美和子にとってはかけがえのない楽しみだった。お金を狙われることもなく、偽りのない優しさでもない、純粋な人としての交流がそこにはあった。
アパートに戻ると、美和子は小さなキッチンで1人分の夕食を準備する。決して豪華ではないが、自分で選んだ食材で自分のペースで作る食事は、格別の味がした。
「お父さん、見ててくれてるかしら?」
美和子は夫の写真に向かって、静かに語りかけた。唯一大切に残した思い出の品は、夫との結婚写真だけだった。
「あの子のことは、もう諦めたわ。でも、私は元気にやっているから、安心して。」
その頃、都内では拓也夫婦が現実と向き合わざるを得ない状況に追い込まれていた。住宅ローンの支払いが滞り、子供の塾もやめさせることになった。
「お父さん、どうして急に塾をやめなきゃいけないの?おばあちゃんはどうしたの?もう会えないの?」
娘の麻由の質問に、由香は俯いたまま答えた。
「おばあちゃんは、遠いところに引っ越したのよ。」
麻由は両親の態度から、何かを察したようだった。以前のように明るく話すことが少なくなり、家庭の雰囲気も暗いものになっていた。
拓也は時折、美和子のことを思い出した。しかし、あの日の自分の言葉を思い返すと、とても連絡を取る勇気は湧かなかった。
「俺たちが、悪かったのかな…。」
そう由香にもらすこともあったが、プライドが邪魔をして、素直に反省することはできなかった。
一方、美和子の新しい生活は日に日に充実していた。地域のボランティア活動に参加し、同世代の女性たちとの交流も始まった。
「高田さんは、どちらから来られたんですか?」
そう尋ねられた時、美和子は微笑みながら答えた。
「東京の方からです。家族のしがらみから解放されて、こちらに来ました。」
正直に話すことで、美和子の心は軽やかになった。隠し事をしながら生きる必要は、もうないのだ。
1500万円は、美和子にとって真の自由をもたらしてくれた。息子夫婦が狙っていたその金額で、美和子は誰にも縛られない人生を手に入れたのだ。
親の財産は、子供が当然の権利として期待できるものではない。そして、お金への執着が家族の愛情を上回った時、失うものはお金以上に大きい。美和子のように、例え73歳であっても、自分の人生を自分で決める権利がある。家族からの期待や圧力に屈する必要はないのだ。
美和子は今日も、小さなアパートで静かに微笑んでいる。真の幸せとは何なのかを見つけた人の、穏やかな笑顔で。



