終電を逃したあの夜、駅前のファミレスで見知らぬ女性に「よく食べるわね」と声をかけられた。酔った勢いで会社の愚痴をぶちまけた俺に、彼女は「ちゃんと頑張ってる証拠じゃない?」と笑った。それがきっかけで人生が動き始めた。でも、ある日、彼女が知らない男性と腕を組んで歩く姿を見て、俺はすべてが幻だったんだと思った。週末の約束をしても、心はすでに離れていた。そして彼女は言った。「今日の教司君はいつもと違…

終電を逃したあの夜、駅前のファミレスで見知らぬ女性に「よく食べるわね」と声をかけられた。酔った勢いで会社の愚痴をぶちまけた俺に、彼女は「ちゃんと頑張ってる証拠じゃない?」と笑った。それがきっかけで人生が動き始めた。でも、ある日、彼女が知らない男性と腕を組んで歩く姿を見て、俺はすべてが幻だったんだと思った。週末の約束をしても、心はすでに離れていた。そして彼女は言った。「今日の教司君はいつもと違...

「忘れもしない。あの日、俺はまた終電を逃していた」

入社3年目。仕事のやり方も分からず、同僚からは見下され、周りからは雑用ばかり押し付けられる生活。毎日終電ギリギリで、スーツは入社当時のまましわだらけ。寝不足で顔もひどいありさまだった。

あの日も同じだった。押し付けられた雑用を片付けているうちに、終電を逃してしまった。ノルマは未達で給料も安い。タクシーで帰る余裕なんてない。途方に暮れながら駅前を歩いていると、ファミレスからいい匂いが漂ってきた。

俺は何かが吹っ切れたように店に入り、食べたいものをひたすら注文した。運ばれてきた料理を夢中で食べていると、突然後ろから女性の声がした。

「あなた、よく食べるわね」

振り返ると、一人の女性がニコニコしながら俺を見ていた。口をいっぱいにしている俺を見て「ふふふ」と笑う顔が、とても可愛かった。

「ねえ、お酒は飲まないの?」

ごめん、ちょっと何言ってるか分かんない——そう思っていると、女性は俺の肩をツンツンと突いた。慌てて口の中のものを飲み込むと、彼女は勝手に隣の席に座った。

「じゃあ一緒に飲もっか。何飲む?最初はビールでいい?」

彼女は水希と名乗った。キャバ嬢だと言う。酒が入ってテンションがおかしくなったのか、俺は今まで誰にも吐き出せなかった会社の愚痴を、初対面の水希にぶちまけていた。

「あら、それは大変ね。でもそれって、ちゃんと頑張ってる証拠じゃない?」

「いや、そんなこと言ってくれるのは水希さんだけですよ」

「そう。じゃあ何回でも言ってあげるよ。教司君はちゃんと頑張ってる」

気づけば俺は酔いつぶれていた。起こされた時には3時間以上が経過していた。水希は俺の分まで会計を済ませてくれていた。

「大丈夫、私が誘ったんだから。むしろ飲ませすぎてごめんね」

初対面の人にご馳走になるのは気が引けたが、結局彼女の言葉に甘えることになった。始発までまだ1時間ある。そう言うと、水希は自分の家に来ないかと誘ってきた。

水希の部屋は想像以上にシンプルだった。家具や雑貨も淡い色のものが多く、唯一目立つのは仕事で使う数着のドレスくらい。そして、至るところにスケッチブックが置いてあった。

「絵とか書くんですか?」

「もしかして中見たの?」

「いやいや、さすがに中は勝手に見てないです」

彼女が明らかに安心している様子を見て、これ以上この話には触れない方がいいと悟った。俺たちは始発の時間まで他愛のない話をして過ごした。

その日のことがきっかけで、水希と連絡を取り合うようになった。ある日、彼女に呼び出されて行きつけの美容院で髪を切ってもらい、服も選んでくれた。それら全部の代金を、水希が支払ったのだ。

「ちょっと、さすがにこれは自分で払います。すぐには厳しいかもしれないけど、必ず少しずつ返すので」

「そんなの気にしないでよ。私が勝手にやったことなんだから」

その後、食事に行った時、水希は突然本題を切り出した。

「教司君は営業なんだよね。言ったら私の仕事も営業みたいなもんでしょ。だから一応同業者としての意見なんだけどさ。教司君は自分に自信がなさすぎじゃないかなって」

彼女は営業のスキルや知識を丁寧に教えてくれた。声の大きさやトーン、最初の掴みの大切さ——俺の周りにアドバイスをしてくれる人なんていなかったから、正直助かった。

「でもさ、なんで俺なんかにここまでしてくれるの?この前初めて会ったばかりなのに」

「初めてね……いや、なんでもないよ」

「それなのに、なんで俺のためにここまでしてくれるのかなって」

水希は少し寂しそうな表情をしたような気がしたが、すぐに笑顔に戻った。

「それは私が見る目があるからだよ。この人なら磨けば輝くと思ったの」

その日の帰り際、店の階段で水希が足を踏み外して俺の方によろけてきた。とっさに彼女を受け止めると、その拍子に彼女のメイクが俺の服に付いてしまった。

「やだ、どうしよう。本当にごめんね」

水希は必死にメイクを拭き取ろうとするが、なかなか落ちない。彼女は俺を近くの公園に連れて行き、服の中に手を入れて濡らしたハンカチで汚れを抑えた。服の中で水希の手が動くのがくすぐったかったが、俺は必死にこらえた。

「やっぱり水じゃ落ちないか。ごめんね、服が濡れちゃっただけに」

「いや、俺なら本当に大丈夫だから」

水希は財布からお金を出そうとする。俺が断ると、気まずい沈黙が流れた。そして俺は大事なことに気づいた。

「やばい。終電また逃しちゃう」

しかし水希は俺の顔を見て言った。

「まだ帰りたくないな」

「え、帰りたくないってどういう……」

「なんてね。早く行こう」

彼女はニコッと笑い、俺たちは駅で別れた。

それからというもの、なぜか仕事が順調に進んだ。水希が教えてくれたアドバイスを意識して話すと、少しずつ契約も取れるようになり、同僚たちの俺を見る目も変わっていった。その月、初めて報酬をもらうことができた俺は、水希にお礼を言うため週末に食事に誘った。彼女はすぐにいい返事をくれた。

しかし、その週の帰り道——俺はよく知っている顔を見つけた。鮮やかなドレスを身にまとった水希が、見知らぬ男性と腕を組んで歩いていたのだ。

「そっか。水希さんはキャバ嬢だったんだ」

彼女がキャバ嬢だとは聞いていた。でも、いざその様子を目の当たりにすると、どこか虚しい気持ちになった。俺がぼーっと見つめていると、水希も俺に気づき、一瞬困った表情をした。

「水希ちゃん、どうかした?」

「ああ、いや、なんでもないです」

彼女は俺の方を見ないまま通り過ぎていった。

「今日はアフターもお願いしちゃおうかな」

「え、本当ですか?嬉しい」

2人の会話が耳に入ってきて、俺は愕然とした。自分だけ特別だなんて思った俺が悪いんだ。見た目だけ変わっても、結局俺は俺なんだ。

週末の食事は断ろうと思ったが、水希から楽しみにしていると連絡が入り、俺は予定通り待ち合わせ場所に向かった。水希は約束の時間の15分前から待っていた。しかし、その表情はどこか不安そうで、何度も携帯を見ている。

「ごめん、お待たせ」

「いや、全然待ってないよ」

俺のテンションが低いことに気づいたのか、水希の表情もどこか暗く見えた。申し訳ないと思いながらも、俺は自分の気持ちをコントロールできずにいた。

「可愛いお店だね。わざわざ調べてくれたんだね。ありがとう」

「おすすめとかあるの?」

「これとかかな?」

俺が適当にメニューを指さすと、水希は少し寂しそうな表情をした。注文を終えると、テーブルは一気に静かになった。

「教司君は、キャバ嬢が嫌い?」

俺が顔を上げると、そこには複雑な表情をした水希がいた。

「嫌いというか……たまにいるんですよね。自分以外に笑いかけるなとか、仲良くするなとか、そういう人」

「へえ」

確かにいい気分はしなかった。ただ、水希は俺の彼女ではないし、そこまで言う権限は俺にない。何と答えたらいいか考えていると、頼んだ料理が運ばれてきた。すると、さっきまでの険悪な雰囲気とはうって変わって、水希は満面の笑みで料理を食べ始めた。

デザートまで完食した水希は、俺の皿が空になったのを確認して言った。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

水希は財布からお金を取り出し、俺の横に置くと、一人で店を出て行ってしまった。俺は慌てて会計を済ませ、彼女を追いかけた。

「水希さん、ちょっと——」

「もういいよ。今日の教司君はいつもと違う。全然楽しそうじゃないし」

水希の顔を見るのが怖かった。でも、このまま別れたら後悔すると思った。勇気を出して顔を上げると、水希の表情は俺が想像していたものとは違っていた。

「それじゃあ、さよなら」

結局、水希は振り返ることなく去ってしまった。俺は彼女を追いかけることができなかった。引き止めたところで、何を言えばいいのか分からなかったから。

その日から、水希に連絡が取れずにいた。どうせ連絡しても無視されるだろうと。現実を受け止めるのが怖かったんだ。それでも俺は仕事帰りに店の近くに行き、こっそりと水希のことを見つめていた。やっていることはストーカーと変わらない。

そんなある日、水希が俺の近くにやってきた。

「ねえ、ひょっとしてずっと見てたの?それはやりすぎじゃない?何か用があるなら連絡してよね」

見ていたことを知られてしまい、俺は情けない気持ちでいっぱいになった。

「ちゃんと返事もするし、無視したりもしないから。何か買いたいものがあるの?」

「え?」

「何か買いたいものがあるから、キャバ嬢なんてやってるんでしょ」

「教司君は『キャバ嬢なんて』って言うけどね。これも立派な仕事なのよ」

正論を言われ、俺は言葉を失った。

「確かに買いたいものはあるわ。それを目標にこの仕事をしてるの」

「目標?」

「それに、教司君はまだ……思い出してくれてないんでしょう」

俺が顔を上げると、水希と目があった。その時、水希の店の警備員がトラブルを感じたのか、こちらにやってきた。

「水希さん、どうかしましたか?」

「なんでもない。大丈夫」

「あんまりつきまとうのはやめてくださいね。これ以上彼女に近づくようなら」

「やめて。彼はそんなんじゃないわ」

警備員の言葉を遮ると、水希は俺の方を見て優しく微笑んだ。

「彼は私の同級生なの。そして、大切な人でもあるの」

俺が驚いていると、水希は警備員と共に店に戻っていった。家に帰る途中、水希の言葉が何度も頭の中を巡った。そして家に着いた頃、昔の記憶が蘇ってきて、いろんな気持ちが溢れ出した。

——そうか。彼女はあの時の——

すると、水希から画像付きのメッセージが届いた。そこには高校の校舎の写真。俺はすぐに水希に電話をかけた。

「水希さん、ごめん。僕、やっと思い出したよ」

「あのさ、私、教司君と一緒に行きたいところがあるの」

水希の声はどこか震えていた。俺はすぐに水希の元へ駆けつけた。彼女が行きたいと言った場所は、俺の通っていた高校だった。

「やっぱり水希さんって、あの水希さんだったんだ」

「気づくのが遅いよ。久しぶりだね、教司君」

実は俺と水希は高校のクラスメイトだった。当時の水希と今の水希の容姿があまりにも違いすぎて、俺は気づかなかった。高校の頃の水希は、いじられキャラとからかわれるほど真面目な女子高生で、絵を書くのが得意だった。しかし、水希はコンテストで優勝したことすら周りから笑われていた。

「その時、教司君が助けてくれたんだよね」

「え、そうだったっけ?」

「そうだよ。私それが本当に嬉しくて、今でもよく覚えてるもん」

正直、その時のことはあまり覚えていない。ただ、とても綺麗で素敵な絵だったことだけは覚えていた。

「教司君はみんなの前で、私の絵を褒めてくれたんだよ。それからは、みんな私のことを馬鹿にしなくなったんだ」

「そうだったんだ」

「それに……それに、教司君は私の初恋の相手だったの」

水希は恥ずかしそうに笑った。

「今でも絵は書いてるの。個展を開きたくてさ。そのための費用を貯めるために、キャバ嬢をしてるんだ」

「そうだったんだ。今はアトリエも借りて、そこで絵を描いてるんだよね」

「そうなんだ。それは見てみたいな」

「もうすぐ見れるかもね。一応、目標の資金も溜まったからさ。だからそろそろ、キャバ嬢生活も終了」

「そっか」

「あの日ね、ファミレスで教司君を見かけて、私すぐに気づいたよ。これは運命だって思って、思わず声かけちゃった」

「よく僕だって分かったね」

「そりゃ分かるよ」

水希は嬉しそうにそう言った。

それからの俺たちは何度か会うようになり、水希はキャバ嬢の仕事もやめた。そしてついに、水希の個展が始まった。そこには色々なサイズやモチーフの絵がたくさん並んでいて、どれも水希らしい優しい雰囲気を感じた。俺は絵のことは詳しくないけれど、水希の一筆一筆が本当に好きなんだと再認識した。

会場の奥に進んでいくと、俺の知っている風景もいくつか出てきた。

「ここって、高校の近くの——」

「そう、桜並木」

「あれ?これってあの教室じゃない?」

「そうなんだ。まだ知ってる先生がいてさ、特別に中に入らせてもらったの」

二人で寄り添いながら話をしていると、水希が言った。

「じゃあ、次が最後の絵だね。私の一番大事な作品」

この個展の中で一番大きく描かれていたのは、高校時代に水希がコンテストで優勝した絵だった。嬉しそうな水希を見て、俺は覚悟を決めた。

「水希さん、僕と付き合ってください」

突然の告白に水希は目を丸くして驚いた。そして、涙を流しながらゆっくりと頷いてくれた。

それから1年が経った。俺は水希のおかげで営業の成績がぐんと上がり、上司からも褒められるほど成長できた。水希が選んでくれたスーツも、センスがいいと評判になっている。水希は今でも絵を描き続け、イラストレーターとして活躍している。

そんな俺たちには、もうすぐ子供が生まれてくる。水希の描いた家族の絵がリビングに飾られる日を、俺は今から楽しみにしている。

Thumbnail