「貧乏はいらん。離婚で」
こちらを馬鹿にしきった言い方に、背筋が凍った。直は勝ち誇ったように腕を組む。私が父の借金を相続したことを追求して、鼻で笑った。
「まあ、このまま放り出すのはかわいそうだからさ。選択肢をくれてやる。今後一生、俺に絶対服従すると誓え」
あまりの言い草に、ぽかんとしてしまった。直は離婚届をテーブルに残し、玄関へ向かう。こちらをまともに見ず、彼は出ていった。
私はキッチンを離れ、ストンと椅子に腰を下ろす。あれが彼の本性だ。私が昔から嫌い続けてきたタイプの人間、そのものだった。
足音が近づいてくる。ユナだった。
「私はママについてくよ」
私は目を閉じる。泣きそうになるけれど、泣いている場合じゃない。守らなければ。何よりもまずユナを守りたい。それが私の一番の役割だ。
私はボールペンを取る。不思議なくらい、迷いはなかった。離婚届にサインを終え、即座に行動を開始した。
私の名前は三木あみ。どこにでもいる三十五歳の専業主婦だ。
自分で言うのもなんだが、私はかなり顔立ちが整っている方だと思う。学生時代は毎日のように告白された。周囲からは美人より可愛い系だと評価される。モデルをしていたこともあった。子供を産んだ今でも二十代に間違われるし、よく声をかけられる。
だが、それは私にとって嬉しいことではない。外見で舐められていると感じるからだ。もちろん褒められることには慣れているし、素直に嬉しいと思う。だが、私の外見しか見ていない人間の口から続く言葉は、いつも薄っぺらかった。「何も考えてなさそう」「守ってあげたくなる」「怒らなそう、ふわふわしてそう」など、勝手なイメージばかり押し付けられる。その度に私は心の中で毒づいていた。
初対面の数秒で、何が分かるのよ、と。
私はおっとりした性格ではない。むしろ逆だ。白黒はっきりつけたいタイプだし、嫌いなものは嫌い。納得できないことには従わず、腹が立てば普通に言い返す。
特に男性は私を見ると、勝手に「大人しそうで従順で扱いやすい女」だと思い込むようだ。だからこそ、相手がこちらを見下しているのにも、私はすぐ気づくことができる。舐められないためにも、私は自分の性格を偽ることなく生きてきた。
三歳年上の夫・直と出会ったのは、まだ二十代半ばの頃だ。当時の私はモデルの仕事をやめ、人生の方向性を探している最中だった。そんな時、人に連れて行かれた食事会で直と出会った。
第一印象は真面目そうな人。背筋がちゃんと伸びていて清潔感があり、物腰も柔らかい。誰に対しても気配りを欠かさず、店員への態度も丁寧だった。正直最初は警戒した。私は昔から優しそうな男性に対して条件反射で身構えてしまう。表面だけ取り繕って、中身は腐っている人間を、嫌というほど見てきたからだ。
だが直は違った。会話の最中、私が冗談半分で投げた言葉にも、きちんと自分の考えを返してくる。「向いてるかどうかじゃなくて、自分がどう生きたいかじゃないですか」――その返答が妙に印象に残った。外面的な話ではなく、ちゃんと私自身を見ようとしている感覚があったからだ。
付き合うようになってからは、もちろん衝突も多かった。私は白黒つけたがる性格だし、直も自分の考えを譲らない。どちらも負けず嫌いなのだ。それでも不思議と嫌ではなく、むしろ心地よかった。私という人間と真正面から向き合ってくれると感じていた。
交際期間を経て私たちは結婚し、一年後には娘のユナが生まれる。ユナは私によく似ていた。ぱっちりと開いた丸い目、ふんだくる黒く長いまつ毛。肌の色は抜けるように白く、頬はいつもバラ色。小柄な体格に柔らかそうな雰囲気をまとっている。年齢が一桁の頃から誰もが振り返る美少女だった。
だが彼女の中身は、周囲の大人の数倍は成熟していた。異様に頭の回転が速く、人の機嫌や空気を読む能力にも長けている。しかも無駄に肝が座っていた。幼稚園時代、年上の男子に砂をかけられて泣かされた友達を見たユナは、その男子の前へ歩いていき、「自分より弱い相手にしかそんなことできないんだね」と真顔で言い放ったらしい。相手の男子は大泣きした。
ユナは勉強も運動もできた。小学四年生になった今では、学年問わず有名人で一目置かれている。そのくせ家では普通に甘えてくる。充実すると私の膝に転がってきて、「ねえ、ママ、髪いじって、編み込みにしてほしい」と要求してくる姿は、年相応の女の子そのものだ。
夫がいて、娘がいて、家族三人で笑い合う日々がある。私はそんな毎日を幸せだと感じていた。多少の衝突や不満はどこの家庭にも存在する。それらを乗り越えてこそ絆が深まり、ずっと長く家族として過ごせるのだと、当時の私は本気で考えていた。
とある夏、直が不意に声をかけてきた。
「あみは今年も実家には帰らないんだよな」
「うん、帰らない」
私の実家は地方の観光地で老舗旅館を営んでいる。旅館の名前は「海宮」。海沿いに立つ古い大型旅館だ。父は海宮の主人。性格は豪快で傲慢で気分屋。思いつきで行動し、人の話を聞かない。酒癖も最悪だった。娘の立場から言わせてもらうなら、人間性は終わっている。
幼い頃から私も姉のつぐみも、父に厳しく育てられた。礼儀作法、言葉遣い、旅館の人間としての立ち居振る舞いはもちろん、勉強も運動も手を抜くことは許されず、「愛想として常に笑顔でいろ」と言われた。「旅館の娘として恥ずかしくないようにしろ」と繰り返し叩き込まれた。気に入らないことがあれば怒鳴られる。理不尽なことで説教される。夜中に叩き起こされ、学校にも行かせてもらえず、一日中掃除をさせられることもあった。
何よりも旅館と従業員たちを大事にしているところだけは尊敬するが、父親との温かな思い出なんてものは、ほぼ存在しない。だから私は高校卒業と同時に家を出た。そのまま実家とは距離を置き、以来一度も帰っていない。
母は私が十五歳の時に亡くなっている。重い病気だった。私もつぐみも、母のことは今でも大好きで愛している。
そんな事情を直も知っているはずだが、正しく理解しているかと言われると違った。
「あみって、お姉さんともあんまり仲良くないんだよな。なんかさ、かわいそうだよな。せっかく家族なのに」
彼の目に浮かんでいるのは、哀れみだった。最近増えていた。直は時々こんな視線を私に向けてくる。家族に恵まれなかった不幸そうな女を見る目だ。優しいし穏やかで気遣いもできる。外から見れば理想的な夫だ。けれど、時折言葉の端々に、「俺が支えてあげないと」という空気が、妙に私の胸をざわつかせた。
「いや、私とお姉ちゃん、超仲良しだけど」
「またまた」
即座に否定された。直は苦笑している。まるで強がっている人間を優しく受け止めてあげているような態度だった。正直腹が立つ。
つぐみは私より数年早く家を出て、現在海外の企業で働いている。性格は猛烈に不器用。常に無表情で、愛想も皆無で口数も少ない。初対面の人間からはほぼ確実に「冷たい人」だと誤解される。しかし実際は違う。感情表現が壊滅的に下手なだけで、身内への情は深い。ユナが生まれた時も、病院へは来られなかったが、代わりに海外ブランドのベビー用品を山ほど送ってくれた。しかも全部高級品。直は当時、「お姉さんなんか怖い人だな」と笑っていた。ちなみに彼はつぐみと直接会ったことがない。
洗濯物を片付けた私は、麦茶を一気に飲み干す。氷がカランと音を立てた。
「ま、あみには俺とユナがいるしな。心配するなよ」
優しい夫のセリフだ。世間の人間が聞けば感動するような言葉かもしれない。一方で私は、「身寄りのない哀れな女を救ってやっている」――そんな言い方だと、斜に構えた感想を抱いてしまった。
結局、直は休み直前になって義実家への同行をやめた。「悪い。本当に急な仕事でさ」。申し訳なさそうな口ぶりだけれど、私は内心で「はあ」と息を吐いていた。ここ数年、直は何かと義実家を避けている。ユナに至っては完全に慣れている。「今年もパパは来ないんだ、みたいね。あー、まあ、どうでもいいか」
そんなわけで、今年も私とユナの二人で義実家へ向かうことに。義両親はいつものように歓迎してくれた。「あみちゃん、ゆなちゃん、いらっしゃい。よく来たね。暑かっただろう」。私と義両親の仲は良好だ。むしろ直抜きの方が会話が弾む。春家とは真逆だった。
数日後、私とユナは自宅へ戻った。玄関を開けた瞬間、二人同時に声が漏れる。
「うわ、何これ?」
「うわ、信じられない」
リビングにはコンビニの袋と脱ぎっぱなしの服が散乱している。食べ終えたカップ麺の容器が何個も積まれ、ハエがたかっていて、倒れた缶ビールの中身がカーペットの上にこぼれていた。エアコンはつけっぱなし、家の中が全体的に妙に酒臭い。リビングのソファーでは、直が大の字で寝ていた。豪快ないびきまで響いている。どうやらここ数日、放題食いして散らかした末に力尽きたらしい。
ユナはそんな父親を見下ろし、真顔になった。躊躇なくつま先で直の脇腹を軽く蹴り、あるいは踏みつける。「とっとと起きて」
「うわっ!」
変な悲鳴をあげながら直が飛び起きた。二日酔いで痛む頭を抑えている彼は、何の役にも立たなそうだ。そう判断して、私とユナは二人で散らかったリビングを片付けた。
夏休みが終わった頃から、私はなんとなく違和感を抱くようになっていた。直の関心が家庭へ向いていない気がする。もちろん分かりやすく冷たくなったわけではない。生活費は今まで通り入れてくれる。記念日を忘れることもない。体調を崩せば気遣ってくれるし、荷物だって持つ。一般で見れば、十分いい夫の範囲に入るのだろう。
けれど空気が違うのだ。会話をしていても、意識が別の場所へ飛んでいる。私が話している最中にスマートフォンを見る回数も増えた。休日一緒に出かけることも減った。
そんなある日、ユナが夏休みの自由研究コンクールの小学生部門で最優秀賞を受賞した。学校代表どころの話ではない。全国の学生を対象とした大規模なコンクールだ。テーマは「地域別観光地における外国人観光客の行動分析」らしい。小学四年生の研究内容ではない。担任から「保護者の方が手伝いました?」と真顔で確認されたほどだ。そんなわけがなく、完全にユナの単独制作である。我が娘ながら異様な念を抱かずにはいられない。
私は早速直に話をした。「絶対見に来た方がいいよ。ユナ頑張ってたし。軽く発表みたいなものもするんだって」
「ああ」
返事が薄っぺらい。直はソファーへ座ったままスマートフォンを操作している。
「ちょっと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
聞いていない人間の返事だ。「ま、仕事次第かな」
「そんな土曜だよ。今から休み取っておけないの?」
「最近忙しいんだって。俺が抜けた穴がどれだけのものか、お前分からないだろ」
めんどくさそうな口振りで、ついでに睨まれる。私はそれ以上追求することをやめた。
表彰式当日。朝早くから身だしなみを整えていた私たちを横目に、直はスーツへ袖を通していた。
「悪い。急ぎの案件入った」
「そっか」
「ゆな、おめでとうな」
「ありがとう」
彼はユナの頭を軽く撫で、足早に家を出ていく。ユナは無言でその背中を見送った。
「ユナ、ごめんね」
「なんでママが謝るの?」
即答だった。しかも本気で不思議そうだ。
「パパでしょ? まあ、別にいいよ」
全く気にしていないようにも見える。だが私は知っている。ユナは期待しなくなっているのだ。最初からなければ傷つかずに住むから。十歳にして、そんな諦め方を覚えてしまった。私は胸の辺りが重くなる感覚を覚えながら、ユナと会場へ向かった。
表彰式は盛大だった。壇上へ上がるユナ。名前が呼ばれ、堂々と賞状を受け取る。会場中の視線を集めても全くひるまない。むしろ妙に貫禄がある。私は客席からその姿を見つめていた。本当に誇らしい。同時に、直にも見せてあげたかったという感情もあった。
式終了後、ロビーでユナが誰か女性と話しているのを見つけた。四十代前後だろうか。シャープなスーツ姿で、姿勢が美しい。無駄のない所作で、いかにも「できる女」という雰囲気をまとっている。
「ママ、お待たせ。審査員の人だって。このコンクールの審査員の一人らしい」
ユナが差し出してきた名刺には、国内外で複数の事業を手掛ける有名企業の女社長の名前がある。とんでもない大物だ。彼女は子供に対しても敬語で、「研究内容、とても面白かったです。大人でもあそこまで整理できる人は多くありません」と賞賛してくれたという。
「将来が楽しみですねって言われちゃった」
ユナはほがらかに笑っていた。私はついぽかんとしてしまう。今日はユナのお祝いだ。せっかくなので、少し奮発してレストランを予約してある。
「改めて、受賞おめでとう」
「ありがとう。それに、ママ、嬉しかった。ママはいつも自分のことみたいに喜んでくれるよね」
彼女はどこか得意げに、ほんの少し照れたような表情をしていた。表彰式での姿に感動していたことを完全に見抜かれている。私はごまかすようにグラスを持ち上げた。ふと鞄の中、スマートフォンを視線を落とす。直からの連絡は、一度も来ていなかった。
夜、ユナが寝室へ入った後、私はリビングでソファーへ腰を下ろしていた。時計を見る。二十二時半だが、直はまだ帰ってきていない。スマートフォンで昼間撮った写真を眺める。壇上へ立つユナ。賞状を受け取る瞬間。レストランで嬉しそうにデザートを食べている姿。どれも綺麗に取れていた。
「直にも、ちゃんと見て欲しかったな」
ぽつりとつく。その時、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「あ、お帰り」
直が帰ってきた。しかし足音が妙にのろのろしている。加えて酒臭い。リビングへ入ってきた彼は、ネクタイを乱暴に緩め、ダイニングの椅子へと座り込んだ。
「まさか、飲んできたの?」
「付き合いだよ。仕事の一環」
明らかに機嫌が悪い。私は深く考えず、テーブルへ置いていた賞状へ視線を向けた。額縁でも買ってきて飾ろうかと考えていたのだ。
「今日のユナ、本当に立派だったよ。ねえ、写真見る?」
その瞬間だった。直が賞状を掴む。ビリッと紙が裂ける音が響く。私は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。直は無言のまま、賞状を両手で引き裂いていく。
「ちょ、ちょっと、何してるの?」
私は慌てて立ち上がる。だが彼は止まらない。破いた紙をテーブルへ叩きつけ、苛立った様子で吐き捨てた。
「こんなの、たまたまだろ? 出しゃばるなよ」
「何?」
「お前ら、最近調子乗ってるよな。誰のおかげで生活できてると思ってるんだ?」
怒鳴り声がリビングにこだました。私は言葉を失う。意味が分からない。ユナが表彰されて、私はそれを喜んだ。たったそれだけの話だ。
「俺が毎日毎日汗水垂らして働いてるおかげで、お前らはのうのうと生きていけるんだろうが。こんなのが金になるのか? ならないよな。余計なことするんじゃねえ」
直は息を荒げながら、破いた賞状をテーブルの上から払い、床へ投げ捨てた。そしてぐしゃりと靴底で踏みつけた。頭が真っ白になる。彼は私を睨みつけた後、ふらつく足取りのまま寝室へ向かった。扉が乱暴に閉まる。後には、無残に散らばった紙切れだけが残された。
私はしばらく動けなかった。怒り。困惑。嫌悪。色々な感情が入り混じる。最も大きかった感情は、恐怖だった。今まで直が怒鳴ることはあっても、暴力はなかった。
しかも壊したのはユナの賞状だ。娘の努力も誇りも、私が嬉しく思った記憶も、全部踏みにじったのである。私は床へしゃがみ込み、破れた賞状を拾い集める。その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝、直は何事もなかったように支度を始めた。
「ねえ、昨日のことなんだけど」
「ごめん。急いでるから」
体を背けながら言う彼は、こちらを見ようともしない。いつものように早々に出勤していった。
その後、起きてきたユナへ事情を説明した。彼女は破れた賞状の残骸を見下ろし、しばらく黙り込む。さすがにショックを受けるだろう。私はそう考えていた。
だがユナは淡々と言った。
「まあ、やられちゃったものはしょうがないか。ユナ、ママのせいじゃない。悪いのはパパだけでしょ」
彼女は破れた紙をまとめ、ぱさりとゴミ袋へ入れる。怒りも泣き言もない。その姿が逆に辛かった。まだ幼い子供が、こんな風に感情を飲み込んでいいわけがない。今日こそ絶対に直を捕まえて話をしなければ。私は自分に言い聞かせるように、強く決意した。
そして、その日の夜帰宅した直は、開口一番大声をあげた。
「ゆなごめん! 俺、ユナの大事な賞状、破っちまった」
リビングにいた私たちは同時に振り向く。直ははきはきと、間違いなさすぎるほど明るく謝罪を口にした。昨日とは別人だ。しかも両手には紙袋を下げている。
「昨日、俺すごい酔っ払ってて、本当に覚えてなくてさ。つい手が滑って、気がついたらビリビリになってて。わざとじゃないんだ」
絶対嘘だと私は感じた。覚えていない人間の態度ではない。直は袋から箱を取り出す。有名ブランドの財布とバッグだ。見た瞬間、高額だと分かった。
「これ、お詫び。今時は小学生でもこれくらいのブランド物は持ってるんだろう。ユナに似合うと思って買ってきたんだ。あと、取ったお祝いな」
「あ、そう。どうも」
ユナは微妙な空気を醸し出しながら受け取る。直は満足そうに頷いた。
「よし、じゃあこれで解決だな。風呂入ってくる」
軽い足取りでリビングを出ていく彼。リビングに沈黙が落ちる。ユナは紙袋を見下ろした後、小さく息を吐いた。
「ママ。パパ、何か変」
彼女の意見に、私は全面的に同意だ。何とも言えない不快感を覚えながらも、一応この場は収まったと思うことにした。
季節は進み、秋に近づいている。昼食の片付けを終え、私はキッチンでグラスを洗っていた。その時、スマートフォンが鳴る。画面に視線を落とした私は、ぴたりと動きを止めた。表示されていた名前は「海宮」。実家の旅館からだった。父と連絡を取ることはほぼない。向こうから電話が来ることなど、なおさらだ。嫌な予感がする。私は手を拭き、通話に出た。
「はい。あみお嬢さんか」
聞こえてきた声に、私は息を飲む。板長だった。海宮で長年料理を仕切っている料理人だ。年齢は八十代で、私とつぐみが子供の頃から働いている。
「そうだけど、どうしたの?」
数秒の沈黙の後、板長は低い声で告げた。
「旦那さんが、亡くなった」
頭が真っ白になる。つまり、父が亡くなったと言っているのだ。まだ六十代だったはずだ。板長は続ける。
「旅館の方で葬儀の準備を進めている。お嬢さん、戻ってこれるかい?」
「……分かった。明日向かう」
翌日、私は一人で実家へ向かった。直は「俺も行こうか」と口では言った。だが本気で同行する気はないことは分かる。仕事を理由に断る未来まで見えていたので、私は最初から「大丈夫」と答えた。実家へ帰るのは約十七年ぶりだ。本音を言えば帰りたくない。だが、そんな私でも父の死にはさすがに動揺している。
海宮へ到着した時には、すでに葬儀の準備が進んでいた。相変わらず大きな旅館だ。館内へ入った瞬間、従業員たちの視線が集まる。冷たい視線が全身に突き刺さる。軽蔑と警戒と不満が感じられた。当然だと冷静に思う。旅館の主人の娘で、本来なら後取り候補だ。それなのに家を飛び出し、十年以上戻らなかった。父がどれほど旅館を大事にしていたか、従業員たちは誰より知っている。だからこそ、私の存在は気に入らないのだ。
葬儀も滞りなく進んだ。父は人望があった。正確には、旅館の主人としてのカリスマだろうか。参列者は多い。地元の有力者も次々訪れる。泣き崩れる従業員までいた。人間というのは多面的な生き物だ。娘として見るなら最低な人間でも、他者からは違う側面で判断される。
葬儀の合間、板長がゆっくりと私へ近づいてくる。
「連絡が遅くなってすまなかったな」
「いや、こちらこそ、急に呼びつけて悪かった」
「板長、疲れただろ」
「そっちこそ」
ふっと柔らかく笑う板長。その目には疲労と気遣いが滲んでいた。彼は昔からそうだ。不器用な優しさを持っている。
「つぐみお嬢さんにも連絡したんだがな」
「お姉ちゃんは、なんて?」
「忙しいそうだ。来るのは早くても一ヶ月後になると」
会社では幹部クラスのつぐみが、突然すべてを放り出して帰国など簡単にはできないだろう。
葬儀を終え、手持ちぶたさになっていた時に、背後から声がかかった。
「三木あみ様でしょうか」
振り返ると、そこには黒いスーツ姿の男性が二人立っていた。一人は細身の中年男性で眼鏡をかけている。もう一人は貫禄のある年配男性。
「お父様の顧問弁護士を務めております」
「私は海宮の事務所のものです」
私は眉を寄せる。弁護士と事務所が揃い踏み。猛烈に嫌な予感がした。
その後、二人から聞かされた事実に、私は衝撃を受けた。
自宅へ戻った頃には、日が傾きかけていた。葬儀も、十七年ぶりに足を踏み入れた実家も、従業員たちの視線も、すべてに疲れた。だが何よりも大ダメージを食らったのは、葬儀後に弁護士と事務所から聞かされた話だ。
父には二億の借金がある。最初に聞いた時、さすがに耳を疑った。
「二億?」
「はい。旅館の改修費、設備投資、人件費の補填などが主な理由です」
実は海宮はここ数年、赤字続きだったらしい。観光雑誌にも載る知名度があり、固定客もいる。地元では名門扱いでも、時代の流れには逆らえなかった。団体客の減少、人件費の高騰、施設の老朽化――父は旅館を守るため、借金を重ねていたという。
そして、もう一つ。父の遺言だ。そこにはこう記されていた。
「この海宮の今後については、娘たちにすべて任せる」
私はその文面を読んだ瞬間、拳を握った。勝手なことばかり言って。生きている間は娘たちを縛りつけ、逃げ出した後は放置。亡くなったら亡くなったで、旅館も借金も娘たちへ丸投げ。父親としては、どこまでも最低だ。
私はリビングのソファーへ鞄を置き、電気をつけた。テーブルに、弁護士から渡された書類の封筒を置く。借入金の詳細、旅館の経営資料、遺言書のコピー、今後の手続きについての説明書。普通なら頭を抱える場面だろう。現状を冷静に並べれば、なかなかの地獄である。
だが私は、そこまで悲観していなかった。もちろん猛烈に面倒だし、腹も立つ。それでも、とある理由から絶望はしていない。とりあえず、お姉ちゃんに相談しないと。私はスマートフォンを取り出し、つぐみへメッセージを送った。
「葬儀終わった。借金二億だって。旅館は赤字。父さんの遺言、私たちに丸投げ」
送信して数分後、つぐみから返事が来た。
「了解」
短い。さらに数秒後。
「資料は全部送って」
相変わらず頼りになる。私は笑いそうになった。
その後の数日間、私は書類整理に追われた。直には父の葬儀が終わったこと、旅館関係で手続きが必要だと話した。だが細かい金額や経営状況までは伝えていない。はっきり言って、彼は部外者だ。それに、直へ話せばいつものように哀れみを向けられる気がした。「かわいそうなあみ」「頼れる相手は俺しかいないあみ」――そんな扱いをされるのは、うんざりだった。
一週間後の休日。私はキッチンで昼食を作っていた。メニューは焼きそば。簡単で、ユナの好物だ。ダイニングではそのユナが宿題をしている。
「ママ、後でリカのプリント見て」
「いいよ。もう少しでお昼ご飯できるからね」
何でもない会話をしていた時、寝室の方から直が現れた。きっちり身だしなみを整えている。髪も整え、腕時計までつけていた。彼のお気に入りの高級ブランドのものだ。出かける予定でもあったのだろうか。
「あ、直、お昼食べる?」
彼は返事をしなかった。代わりに、手に持っていた紙をテーブルへ叩きつけた。私はフライパンの火を弱め、振り返る。
「何、これ?」
「離婚届けだよ」
リビングに沈黙が落ちた。ユナの鉛筆が止まる。私は一瞬、聞き間違いかと考えた。
「は? 何ですって?」
直は口元を歪めて笑った。
「貧乏人はいらん。離婚で」
こちらを馬鹿にしきった言い方に、ゾッと背筋が冷えた。
「ちょっと待って。何の話?」
「貧乏人は、っていうか、届けなくていいよ。お前の部屋に置いてあったやつ。お父さんの遺言書のコピーとか、借金の詳細とか。葬儀から帰ってきてから、様子がおかしいと思ってたんだ」
私はゆっくり瞬きをする。私の部屋に置いていた封筒の中身。弁護士と事務所から渡された資料を、勝手に見たというのか。夫婦だから許されるという話ではない。人として、最低限の線を超えている。
「あなた、親しき中にも礼儀ありって言葉、知らないの?」
「何言ってんだ? 夫婦なんだから、お互いの事情を把握しておくのは当然だろう」
全くもって当然ではないと思うが、直は悪びれない。むしろ「重大な秘密を暴いてやった」と言わんばかりの態度だ。
「まさか借金二億とはな。いや、びっくりしたよ。お前の実家、老舗旅館だなんだって言ってたけど、蓋を開けたら火の車じゃん」
ユナが黙って彼を見ている。その視線は、子供のものとは思えないほど覚めていた。
「で、どうするつもりだったわけ? 俺に黙って借金背負うつもりだったのか?」
「まだ整理中だから、話す段階じゃなかっただけ」
「へえ、便利な言い訳だな」
私はフライパンの火を止めた。焼きそばの香ばしい匂いが室内に広がっている。
「ま、このまま放り出すのはかわいそうだからさ。選択肢をくれてやる」
また「かわいそう」という単語が出てきた。思わず眉をひそめる。
「今後一生、俺に絶対服従すると誓え。俺の言うことに逆らわず、俺に恥をかかせない。教育方針にも口を出すな。親戚付き合いも俺の指示通り。そう誓うなら、借金の処理を手伝ってやってもいい」
あまりの言い草に、ぽかんとしてしまった。
「専業主婦が一人で二億なんて返せるわけないだろ。お前、自分の立場分かってる? 俺が手を差し伸べてやるって言ってるんだよ。感謝しろよ」
ユナが鉛筆を置いた。音は小さかったが、私の耳にははっきり聞こえる。
「ま、嫌なら離婚でいい。俺まで巻き込まれたくないからな」
「離婚するなら、ユナはどうするの?」
直は一瞬だけ、面倒そうに眉を寄せた。
「そんなの、後で決めればいいだろう。ま、借金まみれの母親について行くなんてかわいそうだし。俺が引き取ってやってもいいけど」
その瞬間、ユナの目つきが変わった。だが彼女は何も言わない。直は離婚届をテーブルに残し、玄関へ向かう。
「考えとけよ。俺は優しいから、答えは急かさないし」
「どこに行くの?」
「用事」
こちらをまともに見ず、彼は出ていった。バタンと玄関の扉が閉まる。室内には焼きそばの匂いと、離婚届だけが残った。
私はキッチンを離れ、椅子に腰を下ろす。怒りで頭が真っ白になることはなかった。むしろ逆だ。頭の中は異様なほど覚め切っている。「そういうことか」と、納得感が広がっていく。直は昔からずっと私を見下していたのだ。最初のうちはうまく隠していた。あるいは本人も無自覚だったのかもしれない。けれど根っこの部分は変わらず、十年以上経って、本音が表に出ただけだ。
外見で人を判断し、勝手に性格や意思を決めつける。弱そうな相手を自分の価値観で支配しようとする。私が昔から嫌い続けてきたタイプの人間、そのものだった。「守ってあげたい」「かわいそう」「俺が支える」という言葉も、一見優しそうに聞こえる。だが実態は違う。対等だと見ていない。自分より下で、支配できる存在だと思っているから、あのような言動が平気で出てくるのだ。
直は、私が逆らう可能性なんて最初から想定していない。
その時、足音が近づいてくる。ユナだった。彼女は私の隣へ来ると、何も言わずそっと腕へ寄りかかってきた。小柄な体から、じんわりと体温が伝わる。
「ごめんね、ユナ」
「なんで謝るの?」
「嫌なもの見せちゃったから」
ユナは数秒黙った後、淡々と言った。
「私はママについてくよ」
私は目を閉じる。泣きそうになるけれど、泣いている場合じゃない。守らなければ。何よりもまずユナを守りたい。それが私の一番の役割だ。
「あと三年だけ、一緒に踏ん張ってくれる?」
「三年?」
「うん」
真意は語らなかった。だがユナは深く追求せず、頷いてくれる。私を信頼してくれていることが、よくわかった。
私は離婚届を手に取る。何の変哲もない、真っさらな紙。普通ならもっと葛藤するのかもしれない。泣いて、怒鳴って、引き止めて、話し合う。直が想定していたのは、そういう私の行動だろう。私はボールペンを取った。不思議なくらい迷いはない。むしろ、どこかすっきりしている。長年まとわりついていた鬱陶しい霧が、一気に晴れたような感覚だった。さらさらと署名欄へ自分の名前を書く。書き終えた後、しばらく紙を見つめる。そして折りたたみ、ポケットへ入れた。
「それで、ママ、どうするの?」
「引っ越ししよう。行き先はもう決まってるから。今から」
「うん。今から」
力強い私の返事に、彼女は少しだけ安心したように見えた。
「パパが帰ってくる前に済ませよ。荷物まとめよっか」
「うん」
そこからは早かった。私はスーツケースを広げ、貴重品を集める。通帳、印鑑、身分証、現金、必要書類。さらに最低限の着替えも詰める。直との思い出の品は、全部ここに置いていこう。ユナも自室へ向かい、自分で荷造りを始めた。彼女は驚くほど冷静だった。
一時間後には、荷物はほぼまとまっていた。私は最後にリビングを見回す。結婚してから、家族三人で過ごした家。色々な記憶がある。楽しかったこと。笑い合った思い出。喧嘩の苦いやり取りに、仲直りの後の温かな空気も覚えている。全部嘘だったとは思わない。けれど、もう終わりだ。
私は玄関の鍵を閉める。ユナが隣へ並ぶ。そして、私たちはそのまま役所へ向かった。休日窓口で、離婚届を提出する。職員が書類を確認し、処理の手続きを始めた。三木あみは、この瞬間、法的にも直の妻ではなくなった。苗字は旧姓の「三木」に戻る。
役所を出た後、私はスマートフォンで新幹線のチケットを手配する。ユナが隣から覗き込んできた。
「どこ行くの? そういえば、行き先は決まってるって言ってたけど」
「実家」
私はなるべく感情を込めずに答えた。ユナは一瞬だけ目を丸くする。駅へ向かい、ホームに降りる。私はユナの手を握る。小さくても、しっかりとした手だ。新幹線へ乗り込み、ようやく一息つく。車窓へ流れる景色を見ながら、頭の中で何度も情報と今後を整理する。やるべきことは、山ほどあるのだ。
夜遅く、私たちは海宮の最寄り駅へ到着した。駅前は人も少なく、冷たい海風が吹いている。旅館へ続く道を、私とユナは並んで歩いた。その時だった。鞄の中でスマートフォンが点滅していることに気づく。そういえば、新幹線に乗る前にマナーモードに設定していたのだ。画面を見て、私は苦笑した。着信履歴がずらりと並んでいる。まさしく鬼電だった。マナーモードを解除した瞬間、着信音が鳴り響く。仕方なく、私は道端で立ち止まり、通話ボタンを押す。
「おい、お前どこ行ったんだ?」
開口一番、怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「なんで家に誰もいないんだよ。焼きそばもつけっぱなしだし。娘も連れて行ったのか」
「ねえ、うるさいんだけど」
「はあ? ふざけんな。お前がそんな口を聞ける立場だと思ってるのか。さっさと帰ってこい」
直は勢いで喋り続ければ、私が従うと思っている。ふと、私は空を見上げた。満点の星空が広がっている。きらめく光たちが、自然と勇気を与えてくれる。
「あのさ、私、離婚届を提出しただけだよ」
一瞬、電話越しに沈黙が落ちた。
「だから、もう私たち夫婦じゃない。その家に帰る理由もないの。でも、焼きそばを放置しちゃったことはごめん。適当に捨てておいて」
「は? 借金のことは心配しなくていいよ。こっちで何とかするから」
「ちょ、ちょっと待て。お前、何言ってるんだ?」
焦りに取られているような空気が伝わってくる。直の反応は予想通りだった。やはり彼は、私とユナが自分から離れるわけがないと本気で信じていたのだ。
「何を言ってるんだと言われても、言葉通りだよ。……あなた、貧乏人が嫌なんでしょ? なんでそんなに借金のことを気にしてるの? お望み通り離婚したんだから、もうあなたには無関係だって言ってるじゃない」
「うるさい。お前一人でどうするつもりなんだって聞いてんだよ」
その時、クイッと袖を引かれた。隣で黙っていたユナだ。スマートフォンを貸して欲しいと、目で訴えてくる。私は彼女に電話を代わった。
「もしもし、パパ」
「ああ、ユナ。やっぱりあみと一緒にいたんだな。ああ、よかった。ユナの声が聞こえた瞬間、直の口調が変わる。分かりやすい。子供だから、私より手なずけやすいと思っているのだろう。
「あのさ、パパは、稼いでくれる人がいなくなって困ってるだけでしょ」
「え?」
「条件に絶対服従とか、気持ち悪いこと言ってたし。それなのに、いざ離婚したらしつこくすがってくるって、ダサいにも程があるよ」
私は思わず吹き出しそうになった。容赦がない。
「何言ってんだよ、ユナ」
「え、違うの? じゃあ、ただ単に調子に乗ってる頭の悪い人ってだけ?」
「だから、違うに決まってるだろ!」
「じゃあ、何?」
「俺は家族のことを考えてるだけだ。借金だって、家族一丸になれば乗り越えられる。俺はあみの覚悟を試したくて、離婚届を……」
「え、気持ち悪い。人を傷つけるようなことを言って、自分の思う通りにコントロールしようとしたってこと?」
直は言葉に詰まっていた。ユナはさらに続ける。
「パパにとっては、自分の価値観が絶対なんだもんね。ママのこともずっと見下してたし、かわいそうな存在だと思ってたでしょ。そういうの、ちゃんと伝わってるからね」
「違う!」
「ママは毎日、パパより一時間半も早く起きてご飯の準備をして、毎日家事をして、家を守ってくれてた。パパが着てるシャツだって、ママが毎回アイロンをかけて準備してくれてるんだよ。パパが安心して仕事ができるのは、ママが専業主婦をしてくれてるからでしょ。どうしてそんな簡単なことも分からないの?」
まだ十歳なのに、こんなにも冷静に、ちゃんと私のことを見てくれていたのだ。じわりと胸が熱くなる。直は焦ったように声を荒らげた。
「ゆな、色々言ってるけど、本当はパパと一緒がいいよな。パパは分かってるぞ」
「は? 別に」
「またバッグとか買ってやるよ。化粧品がいいか? 最近は小学生でも化粧をするもんな」
「だから、いらないよ。いや、欲しくない。うん。ていうか、この前もらったやつも、全然私の好みじゃないし。置いてきた。後でパパが適当に処分しておいて」
「え、でも学校でほら、自慢とか……」
直は、高級ブランドの所持品が学校でのステータスになると思っているらしい。しかし、私はそれが元でユナの学校で起こったトラブルを知っていた。とある女子生徒が高級ブランドのバッグを学校に持ってきて自慢したら、その日のうちに盗難被害にあったのだ。犯人は彼女の友人の一人だった。この事件を解決し、被害者と加害者の女子の間を取り持ったのがユナだ。以来、学校では極端に高価な持ち物は使用禁止になっている。
「なんと言われようと、私はママの方がいいの。これ以上、邪魔してこないでよ」
ユナははっきりと拒絶を突きつけた。長い沈黙が落ちる。ユナからスマートフォンを受け取った私は、ゆっくり口を開く。
「私の目、見る目がなかったわ」
「あ、あみ……」
「あなた、私のことを何も分かってなかった。あなたが私のことを理解していないのと同じようにね」
私は風に乗って運ばれてくる海の匂いに気がついた。実家は近い。
「私、もうあなたのこと大嫌い。二度と関わりたくない」
次の瞬間、直が逆切れした。
「ふ、ふざけんなよ! 勝手なことばっかり言いやがって!」
「最初に勝手なことを言ったのは、そっちじゃない。私たちは従っただけなのに、何が不満なの?」
「うるさい! あ、もう分かった。俺たちはもう他人だ。後で泣きついてきても知らないからな」
罵声をあげる彼の相手をするのがもう面倒で、私は途中で通話を切った。ユナが呆れたように言う。
「パパ、想像以上にダサかったね」
「ね」
私は笑う。それから二人でしばらく歩き続ける。やがて、巨大な建物が見えてきた。海宮だ。ライトアップされた外観は、きらびやかで派手だった。正面玄関ではなく、私は裏口へ回った。従業員用の出入り口だ。
扉を開けると、ちょうど通路を歩いていた若い女性従業員がこちらを見て硬直した。
「え? あ、こんばんは」
「き、あなた誰ですか?」
か細い高い悲鳴に、ユナが顔をしかめる。無理もない。見たところ、彼女はまだ二十代で若い。私のことを全く知らないだろう。騒ぎを聞きつけ、奥から板長が出てくる。白衣姿で、片手に調理包丁を握っていた。武器のつもりなのだろうか。しかし、板長は私とユナを見て目を見開いた。
「え、あ、みお嬢さん……」
「ただいま」
手を上げ、なるべく気楽に挨拶をした。彼はユナにも視線を向ける。彼女が軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「もしかして、あみお嬢さんの娘さんか?」
「そう」
その後、私たちは堂々と館内へ入る。従業員たちがざわつき始めていた。
「板長、ちょうどいいからさ、従業員全員集めてくれる?」
「は? 今からか?」
「今から。あと十分で消灯時間でしょ」
板長は私をじっと見つめる。何かを探るような目だったが、数秒後、小さく頷いた。
それから三十分後、大広間には旅館の従業員たちが全員集まっていた。仲居、料理人、清掃担当、フロント、事務。全員が明らかに困惑している。
「急に集めてごめんなさい。単刀直入に言います。今日から一時的に、この旅館の全権限を私が預かります」
空気が凍る。
「今、赤字経営なのは理解しています。三年以内に海宮の業績を回復させる。それが私の目標です」
重苦しい沈黙が場を支配していた。誰も動かず、声を出せない。完全に引かれていた。その中で、パチパチと拍手が響く。ユナだった。彼女は真顔のまま、一人で拍手している。私は思わず笑ってしまった。
「何か意見があるのなら、今のうちに言っておいてもらえると助かります」
私が一言告げると、ざわめきが蘇る。真っ先に我に返ったのは事務長だった。
「じ、じゃあ、ちょっと待ってください。確かに、旦那さんの遺言と借金問題については、あみさんへ託されましたが……」
その言葉を聞いた瞬間、空気が変わった。どうやら全員が事情を知っていたわけではないらしい。反応を見ると半々くらいだ。経営陣やフロント層は把握していたが、現場全体には伏せられていたのだろう。
「借金については、心配無用です。二億の件なら、どうにでもなりますから」
事務長は完全に固まっていた。従業員たちもぽかんとしている。その時だった。大広間の入り口が勢いよく開き、全員が一斉に振り向く。そこに立っていた人影を見て、私は思わず目を見開いた。
黒いスーツを身につけ、長い髪を揺らしている女性。冷え切った美貌をたたえた、無表情な人。つぐみだった。
「お待たせ、あみ」
「お姉ちゃん、仕事は?」
つぐみはキャリーケースを引きながら、平然と答える。
「早めるためなら、一ヶ月かかる仕事も一週間で片付けられるのよ」
真顔だった。多分、本当にやったのだろう。つぐみはすっと自然な動作で私の隣へ立つ。従業員たちを見渡し、淡々と言った。
「父の遺言に従い、私も一時的に海宮を預かります」
空気に緊張が走る。逃げた娘が一人戻ってきただけでも衝撃なのに、もう一人まで帰ってきた。
「借金のことだけど、半分する」
つぐみは即答した。
「そうね。それが一番いいでしょ。たった二億でしょ。一億ずつ出せば終わる話だから」
大広間が完全に沈黙した。私は昔、モデル活動でそこそこ稼いでいた。若い頃から貯金も強い。さらに父譲りなのか、お金をただ寝かせておくのが嫌いだった。投資、資産運用、海外ファンド、不動産。遊び半分で始めたら、どんどん増えた。自分で言うのもなんだが、向いていたようだ。結果、一億くらいなら簡単に出せる。本来はユナのために取っておこうと思っていたお金だ。そしてつぐみに至っては説明不要である。海外企業の幹部クラスで、年収も普通のサラリーマンとは桁が違う。姉妹揃って金銭感覚が若干壊れているせいで、二億という数字への危機感が世間一般とずれていた。
話を聞いて、みんなぽかんとしている。中井の一人など、口が開きっぱなしで顎が外れそうだった。板長だけが、ふっと笑っている。
つぐみが大広間を見渡すと、空気が一気に引き締まった。先ほどまで困惑していた従業員たちも、自然と姿勢を正す。彼女はそういう人間だ。感情表現は薄いし、愛想もないのに、なぜか人を従わせる魔力の持ち主なのだ。
「いくつか今後の計画を練っておいたから、明日から話し合いましょう。今日は解散で、みんなお疲れ様」
その一言で、従業員たちはざわざわしながら散っていく。混乱は続いているが、うっすらと漂っていた絶望感は消えていた。
広間を出た私たちは、旅館の裏手にある母屋へ向かう。海宮の主人一家が代々暮らしてきた家だ。玄関の扉を開けた瞬間、むっとするような空気が流れてくる。父が亡くなって以来、ほとんど人は出入りしていないようだ。
「うわ、空気重いねえ。窓開けるわ」
つぐみはキャリーケースを下ろし、すぐ窓を開け始めた。手際がいい。長時間のフライトと新幹線での移動を経て、旅館へ直行したという彼女。どう考えても私よりつぐみの方が疲れているはずだ。それなのに、まるで平常運転で動き回っている。
「お姉ちゃん、疲れてないの?」
「疲れてるよ」
「絶対嘘だ」
「本当に疲れてるよ」
言いながら掃除機を引っ張り出していた。説得力ゼロだ。ユナがつぶやく。
「おばさん、体力お化けだね」
「昔からこうなんだよね。つぐみは中学生時代、徹夜で父と喧嘩した後、もう一晩追加で徹夜をして、翌日の定期試験に臨んでいた。正直、人間なのか怪しい」
つぐみは黙々と掃除を進めていく。私とユナも手伝った。時折、ユナはつぐみに話しかけている。些細な確認やちょっとした世間話を交え、交流を深めていく。二人は不思議なくらい波長があっているようだ。
「お風呂沸かしておいたから、先に入っちゃって」
「お言葉に甘えて」
私はユナと一緒に風呂へ入る。昔ながらの広いタイル張りの浴槽だ。ユナは湯船へ浸かりながら、ぼんやり天井を見上げていた。
「疲れた?」
「ママ?」
「ごめんね。急に連れ回して」
「別にいいよ。自分で決めたことだもん」
本当に文句一つ言わない。私はユナの髪を洗いながら、小さく息を吐く。今日一日で、人生が激変した。普通なら頭がおかしくなっても不思議ではない。それでもユナのおかげで、私もずっと冷静でいられた。
風呂から上がると、つぐみがコンビニ袋を大量に抱えて戻ってきた。
「え、いつ?」
「さっき。二人ともお風呂だったからね。ほら、お腹空いてるでしょ」
テーブルへ並べられるお弁当、ドレッシング付きのサラダ、レジ横で売っているホットスナック。お茶は全員種類が違うし、デザートまである。
「買いすぎじゃない?」
「ユナ、育ち盛りでしょ」
「そうだけど」
「明日の朝ご飯も買っておいたから、かんぱん」
三人で食卓を囲む。久しぶりの実家なのに、何の感慨も分かなかった。「懐かしい」「帰ってきた」――そういう感情が、全くない。あるのは現実感だけだ。私は確かにここで育ったはずなのに。全て、他人の記憶を覗いているようだった。
つぐみが弁当を食べながら言う。
「お母さんの部屋だけは、綺麗だった。隅々まで掃除されてた。今夜はそこに布団を敷いて寝ましょう」
どうやら父は、母の部屋だけはこまめに掃除していたらしい。母が亡くなって二十年は経つ。ずっとそうやって、一人で自分の妻を悼んでいたのだろうか。普通なら美談なのかもしれない。亡き妻を愛し続ける夫。実際、他人が聞けば感動するだろう。けれど、私は白けていた。父が母へしたことを知っているからだ。裏切りと重ねた嘘。母を泣かせた過去を、全部見ていた。父は多分、罪悪感を抱えていたのだろう。だから母が亡くなった後になって、罪滅ぼしのように部屋を守り続けた。率直に言って、遅すぎる。生きている時に大事にしなければ、意味などない。
「ねえ」
ユナがつぐみを見上げた。
「何?」
「おばさんって、彼氏いるの?」
私は吹き出しかけた。真顔で答えるつぐみ。
「いない。結婚もしたことないよ」
「なんで?」
「面倒だからね。仕事をするにも邪魔だし」
「ああ、分かる」
「分かるのか」と感心しながら、私は唐揚げを頬張った。ユナは腕を組み、真剣な顔になる。
「でも、おばさんモテそう」
「そうでもない」
果たしてどうだっただろう。私は記憶をたどる。つぐみは異性よりも同性に持てるタイプだ。高校の時は生徒会長だった彼女は、バレンタインには大勢の女子生徒からチョコレートをもらっていた。ファンクラブのようなものができていた記憶もある。本人が全く興味がないだけで、恋愛のチャンスはいくらでもあっただろう。
「おばさん、ママに似てるし」
「あみの方が、顔は可愛いでしょ」
「それは確かにそう。顔だけで言えば」
テンポ良く会話が続いていく。私は呆れ半分、笑い半分で眺めていた。初対面とは思えない。思えば昔から、つぐみは子供にも好かれるタイプだった。本人にその自覚はない。だが子供は敏感だ。本当に危険な人間がそうでないか、きちんと見抜く。
食事を終えた後、私たちは母の部屋へ向かった。戸を開けると、明らかに空気が違った。他の部屋よりずっと綺麗だ。机もタンスも写真も、誇り一つかぶっていない。きちんと整えられている。私は何とも言えない気持ちになった。つぐみは黙ったまま布団を敷き始めた。ユナはもう限界だったらしい。布団へ入った瞬間、数分で寝息を立て始める。
隣でつぐみがぽつりとつく。
「あみの小さい頃と、そっくりね」
「私、あんなに賢くなかった」
「そこじゃないよ。なんというか、魂の生き方が、似てる」
「生き方、か」
ユナの髪を撫でるつぐみ。動きが優しい。昔、私にもこうしてくれたことを思い出す。父に怒鳴られた夜や、泣きつかれて眠った時、姉はいつも無言で隣にいて、「味方だ」と教えてくれた。私は布団へ横になり、天井の木目を見上げる。実家で、姉妹水入らずの夜を過ごすなんて、何年ぶりだろう。目を閉じると、網戸にした窓から波の音が夜闇に強く聞こえてきた。
翌日から、私たちは猛烈に動き始めた。本当に息をつく暇もない。私はまずユナの転校手続きを進めた。地元の小学校へ事情を説明し、必要書類を揃える。ユナはいたって落ち着いていた。むしろ周囲を冷静に観察しているようだ。
一方、その頃、つぐみはもっと恐ろしい速度で動いていた。彼女は今回のために、全ての業務をリモートワークに切り替えたらしい。つまり仕事量は単純計算で倍になっている。最初に彼女が着手したのは、借金問題。つぐみは一人で銀行との交渉を重ね、資産整理と契約確認を進める。私がしたことと言えば、彼女が指定した口座にお金を振り込んだぐらいだ。
そして、帰国から十日後のこと。
「あ、そういえば返済終わったから」
つぐみは朝食の席で、味噌汁を飲みながらのんびりと報告してきた。私は卵焼きをつまんでいた箸を、空中で止める。
「え、終わった?」
「うん、終わった」
「あ、早」
もちろん彼女の行動は借金返済だけで終わらない。本格的に旅館への改革へと着手した。彼女がまず切ったのは、無駄な支出だった。使われていない設備、赤字イベント、見せかけの広告、父の趣味全開の高級調度品など。これら全て、容赦なくばっさりと切り捨てる。その一方で、残すべき部分は徹底して守った。料理の味、接客の基礎、自慢の庭、そして何よりも大事な温泉の設備や、地元とのつながり。海宮が長年積み重ねてきた核の部分だけは、絶対に切り捨てなかった。
私がつぐみから任されたのは、客室の見直しや予約システムの改善だ。一般的な客室とラグジュアリーな客室。その違いを明確にする。ラグジュアリーを謳うなら、ふさわしいレイアウトを整え、家具もアップグレードする。もちろん一般的な客室にも手は抜かない。歪んだ畳を取り替え、障子を張り替えて、どんなお客様にも居心地よく過ごしてもらえる空間を作り上げる。次に、予約システムの改善。電話での予約だけではなく、ホームページ上からも簡単にできるようデザインした。そもそも今までの海宮のホームページは、作成者が辞めた後、ほぼ手つかずで、カレンダーなんて三年前で更新が止まっていた。私は若い従業員の何人かに声をかけ、ホームページを定期的に更新するよう担当者を決めた。
当然ながら、私たち姉妹を心よく思わない従業員も多い。特にフロント層。十七年逃げた娘たちへの不信感は根深かった。影口なんて日常茶飯事だ。わざわざ私たちに聞こえるように言う人間までいた。嫌がらせもされた。会議資料を隠される。頼んだはずの備品が発注されていない。予定が共有されておらず、丸一日を棒に振った。ある日は、重要な取引先との打ち合わせのため、わざと事前に送迎車をパンクさせられた。でも、事態を察した数秒後、つぐみはさっさと別の車を手配していた。取引先の社長にこのエピソードを話すと、大笑いされ、謎に気に入られてしまったのだ。つぐみは基本的に動じない。嫌がらせを受けても、表情は不変。「暇なのね」その一言で終わる。
やがて、働き続ける私たちの姿を見て、周囲の空気も少しずつ変わり始める。最初は敵対的だった従業員たちが、徐々に手を貸すようになった。板長など、最初から完全にこちら側だった。
「旦那さんより、よほど働くな」
「比較対象が終わってるから。あの人は口であれこれ指示するのが主だったでしょ」
「あと、照れるからなのか、動くのは人が見ていないところでだったし」
「違いない」
そんな軽口まで飛び交うように。ユナも、いつの間にか旅館の人気者になっていた。彼女が最初に始めたのは、SNS発信だ。旅館の日常から始まり、季節の料理、庭園、温泉の風景、従業員紹介など。ユナは絶妙な距離感で発信していく。しかも彼女は文章がうまい。変に媚びないけれど、読みやすい。あっという間にフォロワーが増えた。さらにユナは、接客センスまで高かった。難しい客が来た時のことだ。険悪なムード寸前だった空気が、ユナの一言で柔らかく変わってしまったことがある。
「お待たせしてすみません。よかったら、お庭を見ながらお茶を飲みませんか? お菓子もご用意しますよ」
その一言で、怒っていた老夫婦の空気が柔らいだ。
海宮へ戻ってから数ヶ月が過ぎた頃、私は父の部屋を片付けていた。相変わらず広い部屋だ。無駄に高級な机には大量の資料が詰まれ、書類と古い帳簿が同じ棚に並んでいる。書類の山をどけると、古い旅館の設計図だ。測量資料や観光統計まである。その時だった。棚の奥から、古びた筒状のケースが転がり落ちる。私はケースを拾い、中身を広げた。それは地図だった。しかもかなり詳細な地形図だ。旅館の裏手の山の部分へ、赤ペンで大量の書き込みがされている。さらに横には、見慣れない資料まであった。専門用語が並んでいるが、「地層分析」「地下水脈」などと読み取れる。
「何、これ?」
吸い寄せられるように資料を読み進めていく。どうやら父は、地質学関係の専門家とも連絡を取っていたらしい。父が使っていた古いノートパソコンを開く。パスワードは自分の誕生日だ。すると、メールのコピーや調査依頼、分析結果などの追加資料がたくさん出てきた。専門家とのやり取りは、亡くなる数年前から続いている。私は資料を抱え、つぐみの元へ向かった。彼女は旅館事務所で、最新型のノートパソコンの画面を睨んでいた。
「あと五分」
私に気づいた彼女がぽつりと告げる。そしてきっかり五分後、つぐみはパソコンを閉じ、こちらを向く。
「で、何?」
「あのね、お父さんの部屋から、何か変なの出てきた」
その瞬間、彼女の目が資料へ向いた。つぐみは資料を広げ、無言で読み始めた。ページをめくる速度が異様に早い。そして、ある箇所でぴたりと手が止まる。
「なるほどね」
「何?」
「父さん、多分、温泉掘ろうとしてた」
「え、温泉?」
「そう、新しい源泉を見つけてたみたい。旅館裏手のさらに奥の私有地だ。父が赤線をつけていた場所だった。炭酸泉の可能性があるみたいね」
温泉好きなら一度は聞いたことがあるだろう。炭酸泉の効能は、血行促進、美容効果、疲労回復など。しかも天然炭酸泉は貴重だ。父は旅館再建のために、新しい温泉を掘ろうとしていたのだ。本当に最後まで、旅館のことしか考えてない人だったんだね。つぐみは立ち上がる。
「行く」
「え、どこへ?」
「現地調査」
そこから彼女は専門家へ連絡し、地質調査をどんどん進める。三日後、旅館の敷地で調査が始まった。私は現場へ立ち合っていた。ユナもヘルメット姿で見学している。
「何かワクワクするね。宝探しみたい」
数時間後、作業員の一人が叫ぶ。
「出た!」
現場がざわつく。専門家が興奮気味に説明を始める。
「天然炭酸泉です。しかも、成分濃度が高い」
私は呆然とする。本当に掘り当てたのだ。つぐみは腕を組み、淡々と言った。
「やっぱり、お父さんすごいね」
本当にそうだと同意する。父は亡くなる直前で、旅館を生かす道を探していたのだ。
つぐみは今後のプランを並行して進み始めた。炭酸泉を前面に押し出して売り出し、さらに炭酸泉を堪能するための別館も建てるという。
「待って。別館、必要でしょ? 建築費用、大丈夫?」
「うん、余裕」
つぐみは机へ大量の資料を並べる。建築資産計画と観光戦略、全部すでに作ってあった。
そこから怒涛の日々が始まった。行政手続きをして温泉の権利を取り、建築確認と設計について話を詰め、業者選定をする。私もつぐみの指示のもと走り回った。次第に従業員たちの目つきが変わり始めていた。最初は対抗的だった人間たちまで、自分から動くようになっていく。
そして一年後、海宮別館は完成した。海と山に囲まれた奥地にある、天然炭酸泉。限定数の客しか入れないという触れ込みだ。観光雑誌が飛びつかないわけがない。掲載された瞬間、予約が殺到した。SNSでも話題になり、ユナが発信した動画まで拡散された。私は苦笑しながら、完成した別館を見上げる。まだ新しい木の香りが漂い、灯りは温かく、穏やかな明かりが道を照らしている。父が見たかった景色は、多分これだったのだろう。許す気にはなれないが、彼が旅館を愛していたことだけは、本物だった。
海宮へ戻ってきてから、気づけば二年以上が過ぎていた。別館は軌道に乗り始め、本館の稼働率も回復している。従業員たちの空気も変わった。以前のようなギスギスした雰囲気は薄れ、館内には活気が戻っていた。
そんなある日、仲居の一人が慌てた様子で私の元へ駆け込んできた。
「あみさん、不審者がうろついてるみたいで。部屋からこっちを覗き込もうとしてるんです」
私は眉を寄せる。最近別館の人気もあって、無断の侵入者がちらほら見られた。山奥だから気づかれないとでも思っているのだろう。私は帳簿を閉じ、立ち上がった。
「どこ?」
「裏手です」
サンダルを突っかけ、旅館裏へ向かう。冷たい海風が吹いていた。裏手の通路を抜けた先に立っていた人物を見て、私は思わず足を止める。
直だった。しかも、驚くほどやつれている。スーツはよれていて、髪も乱れ、ほおも少し痩せていた。以前の、自信に満ちたエリート会社員の空気は消えている。
「あみ! 何してるの? 会いたかったんだ。出てきてくれてありがとうな」
距離をぐんぐん詰めてくる。私は即座に下がった。
「俺、ずっと考えてたんだ。やっぱり、お前には俺が必要だって」
相変わらず、上から目線の発言だ。むしろ、どこか自信ありげだった。
「雑誌で見て知ったよ。旅館も大成功してるじゃないか。正直、見直した。借金も返済したんだろ? ほめてやる」
「やっぱり、お前は俺の隣にいるのにふさわしい人間だ」
ゾッと鳥肌が立つ。生理的に無理だ。彼は他人を、自分を飾り立てる付属品ぐらいにしか思っていない。
その時、背後から小さな足音が聞こえる。ユナだった。彼女はかばうように私の前へ出る。直の動きが止まった。
「何しに来たの?」
その声には、一切の温度がない。
「パパ、お前たちのことをずっと心配してて、迎えに来たんだ」
「何言ってるの? どうせ、浮気相手に捨てられたから、元通りにしたいだけでしょ」
彼の顔色が、一瞬で変わった。
「は?」
「バカバカしい。私とママが何も知らないとでも思った? 私、何回も見たよ。パパと知らない女の人と一緒に歩いてたじゃん。この前は、パパ、デパートで女の人にアクセサリー買ってもらってた」
実は恥ずかしいことに、私も彼女から聞かされて、直の浮気を初めて知った。それは実家へ移ってしばらくした頃だった。ユナは、学校の都合で早めに下校することになった日、仕事中の直が綺麗な女性と二人で並んで歩いている場面を目撃したらしい。二人は親密な空気を漂わせ、直は見分けを晒していたという。
私は一歩前へ出る。
「あなたの浮気の女性って、あの女社長でしょ」
直の体がびくりと揺れた。図星のようだ。ユナが表彰された自由研究のコンクール。あの日、ロビーで彼女へ話しかけていた女社長。独身で複数の事業を経営する投資家。そして、複数の男性を支援していることで有名な人。常に複数の男性を囲っている女社長の手法は、業界内では公然の秘密らしい。彼女は、男性に投資するのが好きなのだ。飲食、アパレル、映像関係、IT企業。夢を語る男へ金を出し、その成長を見るのが好きなのだという。
「そんな相手と、あなた、どこで出会ったの?」
「バーで……彼女が一人で飲んでて。彼女、気前がいいんだ。すぐに奢ってくれるし、何でも買ってくれる」
口元がもごもごとしている。情けない表情だ。私はすぐ理解した。直は女社長に対しても、私と同じ勘違いをしていたのだろう。「かわいそうな人間だ」「出さなければ男に相手されない。寂しくて弱い女」といったところか。自分が優位に立てると思い込んでいた。だが、違った。女社長側は、多分最初から全部見抜いていたのだ。自分を心から舐めているこの男性が、渡した金をどう使うのか。それを観察していたのだと思う。
「もしかして、パパ、浮気相手に貢ぐつもりで会社をやめたりした? でも、あっさり捨てられて、今のそのボロボロの状態とか」
ずばり切り込むユナ。黙りこくってしまった直を見ると、正解らしい。
「どうせ私へのバッグと財布を買ったお金も、その人に出してもらったんでしょ」
「え、どうしてそれを……」
「ちょっと考えれば分かるよ。パパ、全然似合わない高級腕時計とかするようになってたじゃん」
確かに彼の身なりは徐々に派手になっていっていた。私はそれを直自身の給料で好きで買っているのだと思っていたが、違った。私の賞状を破った時、機嫌が悪かったのも、どうせその女性にデートを断られたからだろう。
私は真正面から直を見つめた。
「私とあなたがよりを戻すなんて、絶対にありえない。言ったでしょ? 私、あなたのことが大嫌いなの」
「あ、あみ……」
「それに、忘れてるみたいだけど。私、あなたに慰謝料を請求できる立場なんだよ」
彼の口から、息を飲む音がこぼれた。私はわざと悪ぶった笑みを浮かべる。
「でも、今のあなたに払えるとは思えない。かわいそうだから、見逃してあげる」
「そうだね。今のパパ、とってもかわいそうで、見ていられないもん。あ、もうパパじゃないか。ただのおじさんだ」
直が絶対に嫌がるであろう「かわいそう」という言葉を、皮肉たっぷりに返してあげる。直はぶるりと細かく震えたかと思うと、ダッシュでその場から去っていった。自分以外の全てを見下していた人間の最後は、どうしようもなくダサかった。
気づけば、海宮へ戻ってから三年が経とうとしている。別館は予約が取れない人気施設になり、本館の稼働率も安定。SNS経由の若年層の客まで増えた。従業員の離職率も改善し、料理の評価も上昇した。観光雑誌では「再生した老舗旅館」として特集まで組まれている。数年前まで借金二億を抱えていた旅館とは思えなかった。
そんなある日、私はつぐみと共に、事務長と会議室へいた。
「いやあ、本当にここまで持ち直すとは。……あみさん、つぐみさん、本当にありがとうございます」
事務長は深々と頭を下げる。つぐみはいつもの無表情だった。そして彼女は、何でもないことのように言った。
「そうそう。来月から、海宮の経営はここの会社へ任せることになるから」
一枚の資料を差し出す。話の急展開に、事務長は「え?」と言いながら資料を受け取り、目を通した。やがて彼は、見事に固まった。そこに記されていたのは、大手ホテル運営会社の名前だった。国内外に複数の高級ホテルを持つ有名企業で、業界では超大手だ。
「経営権は来月から完全移行。うん、大丈夫。担当者は頼りになる人だよ。把握しておいてね」
「え、でも、お二人が去るなんて、だめです!」
彼は勢いよく立ち上がる。
「海宮にはお二人が必要なんです! 何よりも海宮を愛してくれているお二人が!」
何を言っているのか理解できない。つぐみがこちらを見ていた。目が合うと同時に、吹き出す。そして、ついに私たちは声を上げて笑ってしまった。
「誰が海宮を愛してるって? え、そんなわけないでしょ。大嫌いですよ、こんな旅館」
断言すると、空気が硬直した。事務長だけではない。たまたま茶を運びに来ていた仲居まで、同時に固まっていた。つぐみも腕を組みながら言う。
「私も嫌いだし」
事務長は呆然としていた。ここまで旅館へ尽くしてきた姉妹が、旅館を嫌っているなんて、信じられないのだろう。
「私たちが今まで業績回復のために頑張ってきたのは、母の遺言を遂行するためです。父のことは、全く関係ないんですよ」
そう、全部、母のためだった。元々、母こそが海宮の正当な後継者だった。だが、旧弊な祖父母は「女に生まれた人間に旅館を継がせるつもりはない」と。母とつぐみは、好きでもない相手との間にできた娘。それでも母は、たっぷりの愛情を注いでくれた。やがて病に冒された母は、私たちに己の心の内を語って聞かせてくれた。
「実はね、祖父母が健在の時代にも、大きく業績が傾いた時がある。当時の借金は、約三億。実は私が、さりげなく帳簿を書き換えて借金を作らせたの。こんな旅館、なくなってしまえばいいって思ってたから」
母はさらりと真実を告げた。しかし、自分の憎しみだけで行動していた母は、何の罪もない従業員たちを巻き込んでしまっていたことに気づき、反省する。そして今度は父をうまくコントロールして、借金を全額返済させたのだ。
「三年かかったわ。もっと時間が必要かと思っていたけど、あの人、案外操りやすいから。だから、あなたたちも今後、旅館に何かあったら、三年は頑張ってみて。旅館のこと、大嫌いでも。……大嫌いなままでいいのよ。私も同じだから。生かすも殺すも、全部あなたたち次第」
にっこり笑って、すっかり痩せた手で私の髪を撫でてくれる母。この言葉は、胸の中にしっかり刻み込まれた。今更ながら、旅館の娘として生まれてしまったことは変えられない。それならせめて、最低限の義務だけは果たそう。海宮を守ったという実績を作る。私とつぐみは、お互いにそう誓い合っていたのだ。
「まあ、こういう事情があったんです」
かいつまんで事務長に話すと、彼は絶句していた。加えて言うなら、父は母が亡くなった時、愛人のところに行っていた。母に対する罪悪感は、そこから生まれているのだろう。
「誰に何と言われようと、私たちは来月には海宮を出ますから。それに、本当はもう、私たちがいなくても、ここは大丈夫なはずですよ。代表の人間に依存しなくても続けていけるような経営形態を、三年かけて整えておいたのだから」
事務長は、もう何も言わなかった。
そして、ついに出発の日が来た。空はよく晴れていた。旅館前には、朝から大勢の従業員が集まっている。みんなどこか落ち着かない様子だ。この数週間、彼らは本気で私たちを引き止めようとしていたけれど、私もつぐみも一切首を縦に振らなかった。約束の期限を守り、私たちの役目は、それで終わりなのだ。
私は旅館の前に立ち、建物を見上げる。大きな看板、磨かれた玄関、立派な庭。初めて帰ってきた時とは、空気が全然違っていた。ユナが隣でつぶやく。
「私は海宮、好きだよ」
「うん。あなたには、あなたの感情があるんだから。それでいい」
その時だった。遠くから誰かがこちらへ走ってくる。
「ま、待ってください!」
振り返ると、そこにいたのは若い板前だった。板長の弟子だ。この三年間で料理長候補として台頭してきた青年である。息を切らしながら慌てた様子で駆け寄ってくる。しかも、なぜかバラの花束を抱えていた。私は嫌な予感がした。青年は私の前へ立つ。真っ赤な顔をして、グイッと花束を差し出してきた。
「あみさん! 俺と、これからも一緒に海宮を盛り立ててくれませんか?」
周囲の空気が一気に盛り上がる中、私は花束を見下ろす。真っ赤なバラ。つまりプロポーズだ。
「あなたさ、最初の頃、私への嫌がらせとして、食事に虫を入れてたよね」
空気が凍る。従業員たちの歓声が一瞬で止まり、彼の顔色が変わった。
「あと、私の下駄を隠したり、会議資料を外に漏らしたりしたこともあったよね」
淡々と追求する。青年の目は極限まで見開かれていた。周囲の従業員たちも、気まずそうに視線をそらし始める。
「私は、そういうことをしてくる人間を好きになるほど、暇じゃないから」
当然、恋愛感情など皆無だ。隣でつぐみがぼそりとつぶやく。
「タイミング最悪。ここで迫れば断れないだろうって、汚い計算が見え見え。あみはちゃんと断れる子なのにね」
青年は呆然と立ち尽くしている。私はもう振り返らず、ちょうど到着したタクシーへ向かう。ユナが先に乗り込み、つぐみも無表情のまま続いた。私は最後に一度だけ、海宮を見た。
「バイバイ。お父さん、お母さん」
小さくつぶやき、迷いなくタクシーへ乗り込む。扉が閉まり、私とつぐみとユナは、揃って去っていった。
私たちが海外へ渡ってから数ヶ月後、海宮で事件が起きた。深夜の閉館後、一人の男が裏口から旅館へ侵入した。その人物はガソリンをまき散らし、本館へ火を放ったという。
犯人は、直だった。「全部あいつらのせいだ。みんな燃えちまえ」と叫びながら暴れていたらしい。火の勢いは強く、館内の一部は焼け落ちてしまった。だが、幸いにも怪我人はゼロだった。それは私とつぐみが三年かけて整備した防災体制のおかげだった。避難経路、夜間マニュアル、緊急連絡、消火訓練。従業員たちは混乱しながらも、冷静に宿泊客を避難誘導したという。結果として、人的被害は一切出なかった。そこだけは、本当に良かった。
直はその場で取り押さえられ、逮捕される。連行される際、彼は何度も私とユナの名前を叫んでいたらしい。けれど、私たちはもうとっくに日本にいないし、戻る予定もない。直はその現実を知って、呆然自失になった。ニュース映像に映った彼は、以前の面影など全くなかった。自信満々で他人を見下し続けていた人間の最期は、あまりにも惨めだ。
事件後、海宮はしばらく別館のみで営業を続けた。幸い、別館側への延焼は防げている。本館の修理も進められた。だが、世間の反応は厳しい。「放火事件のあった旅館」という印象は強烈だ。ネット上では噂が広がり、客は徐々に遠のいていく。どれだけ設備を直しても、悪い印象だけは簡単に消えない。最終的に、新たな経営担当者の提案により、海宮は正式に企業系列の旅館へ完全吸収されることになった。ブランドを統合し、名称変更をする。長年続いた海宮という名前は、そこで消滅した。地元では惜しむ声もあったらしいが、私はその話を聞いても、何も感じなかった。率直に、「終わったのだ」と思った。母の望みは、今ようやく叶ったのだ。
現在、私たちは海外で暮らしている。最初は慣れないことも多かったが、不思議と苦ではなかった。むしろ、日本にいた頃よりずっと呼吸がしやすい。つぐみは相変わらず猛烈に働いている。海外の都市を飛び回り、毎日のようにオンライン会議をこなし、休日すらほぼ存在しない。それなのに、本人は常に涼しい顔をしている。ユナは新しい学校へすぐ馴染んだ。実は日本にいる頃から、この日のために英会話を勉強していたのだ。おかげで今は、現地の友人たちと普通に会話している。たまに、私の方が置いて行かれるくらいだ。
そして、私も新しい仕事を始めた。モデル活動だ。まさかこの年齢になって再開するとは、自分でも思わなかった。だが、海外では年齢に対する価値観が日本よりずっと自由だ。若さだけではなく、その人自身の雰囲気や生き方を評価してくれる。今の私は、昔よりずっと自信を持っていられる。私は窓の外へ視線を向ける。あの日、海宮を去った選択は、きっと間違っていなかった。



