「私も8万円を生活費として入れているの。あなたもそれくらいは入れてほしい」
意を決して切り出した私の言葉に、翔介は一瞬たりとも考えるそぶりを見せなかった。むしろ、心底くだらないものでも聞いたかのように口元を歪めて吐き捨てた。
「高が8万で偉そうに。そんなもの小遣いでしかない。それを大げさに言うなんて、どんだけ性格悪いんだ」
翔介は、私が早朝から夜まで身を粉にして働き、必死に稼いだお金を「高が小遣い程度」と鼻で笑ったのだ。その言い方はあまりにも冷たく、あまりにも傲慢で、長年積み重ねてきた私の苦労まで踏みにじられたような気がした。
「会社は俺がいるから回ってる。それを邪魔するっていうのか」
「そうじゃないわ。でも、家族の生活も大事でしょ」
私の言葉も、娘たちの将来も、この人にとってはどうでもいいのだとひしひしと伝わってくる。いくら働いていても、家にお金を入れてくれなければ責任を果たしているとは言えない。その瞬間、私の中で何かがスッと覚め、これ以上話す気にもなれなかった。
いるだけの父親に何の意味があるのだろうか。
けれど、この時の翔介は半年後に自分が惨めに泣きながら必死に許しを乞うことになるなんて、想像すらしていなかっただろう。
私は岡本典子、50歳。清掃スタッフとして働きながら、夫の翔介と2人の娘の4人で暮らしている。
翔介とは25年ほど前に、当時務めていた会社で知り合った。当時の翔介は営業部の中でも人気があり、女性社員からもよく声をかけられていたが、仕事が大事だとそっけない姿を見せていた。仕事熱心でそれでいて礼儀正しい彼に、私も密かに思いを寄せていたのだ。
しかし、声をかける勇気などなく、遠めに彼を見つめているのが精一杯だった。
そんなある日、ひょんなことから翔介と話すようになり、それ以来私たちはランチを共にするほど仲良くなり、やがて交際を始めたのである。周囲の同僚たちは「ずるい」と非難しながらも私たちを応援してくれた。その甲斐あってか、交際から1年が経った頃、翔介からプロポーズされたのだ。
会社はやめることになったが、翔介との結婚生活は幸せの連続だった。毎日翔介のために料理を作ることも、家事を完璧にこなしていくことも、私には全てが新鮮で幸せだったのである。
「いつもありがとう」と微笑んでくれる翔介の笑顔が、私は何よりも嬉しかった。
ただ唯一、悩んでいたことがある。それは翔介が家に入れてくれるお金が少なかったことだ。
翔介は営業成績も良く、それなりに高い給与をもらっていたが、取引先との接待にお金がかかってしまうそうで、家に入れられるお金は5万ほどしかない。それではとても生活ができないと思った私は、近所にある清掃会社でパートをすることにしたのだ。
「すまない。早く楽な暮らしをさせてやれるように」
そう言ってくれる翔介の気持ちが嬉しかった。数年後には長女の秋が生まれ、その4年後には次女のリナも誕生し、私たち家族は順風満帆に暮らしてきたのである。
翔介は家族のためにと一層仕事に励み、私は妻として、母として家族を支え続けてきたのだ。そんな私を見ていたからか、2人の娘はしっかりと成長してくれた。2人ともよく気がつく優しい子で、リナが小学校に入る頃から2人して家事を手伝うようにもなってくれたのだ。
仕事をしながら家事を行い、娘たちの学校行事にも参加する。仕事が多忙であまり顔を合わせることのない翔介の分も、私が頑張らなくてはと思い、必死にやってきた。正直なところ体力的な限界を感じることもあったが、「翔介も頑張っているのだから」と自分に言い聞かせていたのだ。
娘たちの笑顔を見ると疲れも吹っ飛んでしまう。私にとって家族の幸せが何よりも大切だった。
しかし、リナが小学6年生になった頃から我が家に暗雲が立ち込めるようになったのだ。
1番の問題は家計の困窮だった。この頃、翔介が役員に昇格し、給与は格段に上がったというのに、その大半を自分の遊興費に当てるようになり、家に全くお金を入れなくなったのだ。私のパートの収入があるとはいえ、娘たちの学費や将来の貯蓄を考えると、翔介が生活費を入れてくれないことは大問題だったのである。
「せめて食費は家に入れてほしい」
「お前の収入があればなんとかなるだろう。俺は重役たちとの付き合いもあるし、役員としての威厳を保つ必要もあるんだ」
大企業の役員という立場上、付き合いが多いことは仕方がない。しかし、だからと言って毎晩のように飲み歩き、高級ゴルフクラブに収入の半分を注ぎ込む翔介に、私は違和感を覚えた。
それでも娘たちに苦労はさせたくない。そう思った私はパートの時間を増やし、早朝から深夜まで清掃スタッフとして働き続けたのだ。それでも娘たちのための貯蓄を除くと手元に残るお金はわずか8万円程度しかなかった。その8万円を家計費として使い、なんとか生活をやりくりしてきたのだ。
リナが中学に上がる頃には、私の収入だけが娘たちの学費や日々の食事を支える命綱となっていた。
そんな中、義両親が定年を迎え、家の近所で念願だった喫茶店を始めたのだ。娘たちは学校終わりに喫茶店を手伝い、私も仕事が休みの日は店を手伝った。義両親は「わずかだけど」と言いながら、娘たちにアルバイト代を払ってくれる。年頃の娘たちは友達との交流や自分たちのオシャレにもお金が必要だが、私が渡してやれる小遣いなどなく、義両親のバイト代に頼るしかなかった。
それでも娘たちは、受け取ったバイト代を「生活費に使って欲しい」と私に差し出したのである。
「これはあなたたちが一生懸命働いて得たお金だから、受け取れないわ」
「ママが苦労してるのに、私たちだけ遊べないわ」
「そうだよ。私たちは大丈夫だから、生活に使って」
優しい娘たちの心に、私は涙が溢れた。その気持ちを無駄にしないため、私はもう一度翔介と話をすることにしたのだ。
「ちゃんと生活費を入れてほしい」
「今でも十分生活できてるだろう」
翔介は最初から否定的な態度を取った。
「秋やリナの学費が増えているの。今のままじゃあの子たち大学にも行けないわ」
「お前のやりくりが下手なんだ」
やりくりが下手だと言われても、家の光熱費や家族の食費だけでも相当なお金がかかる。毎日スーパーの見切り品を選んで購入し、極限まで節約してもギリギリの生活なのだ。
「私も8万を生活費として入れてるの。あなたもそれくらいは入れてほしい」
「高が8万で偉そうに。そんなもの小遣いでしかない。それを大げさに言うなんて、どんだけ性格悪いんだ」
翔介は私が必死に稼いだお金を「高が小遣い程度」と鼻で笑ったのだ。
「会社は俺がいるから回ってる。それを邪魔するっていうのか」
「そうじゃないわ。でも家族の生活も大事でしょ」
何を言っても翔介は聞く耳を持たない。
「あの子たちの父親だって自覚はあるの?」
「父親だから働いてるだろう」
いくら働いていても、家にお金を入れてくれなければ責任を果たしているとは言えない。それなのに翔介は、自分がいるから私たちが生活できるんだと豪語したのである。これ以上話す気にもなれなかった。いるだけの父親に何の意味があるのだろうか。
朝仕事に出かけたら帰って来るのは夜中で、週末の度仕事だ接待だと出かけてしまう。娘たちと一緒に過ごす時間もない上に、生活費はおろか教育費も支払わない。私の胸には不審感ばかりが浮かんだのだ。
数日後、昼の勤務を終えて家に帰ると、珍しく翔介が帰っていた。
「早かったのね」
「お前、見るなり顔を顰めたが、そんな格好で出歩くな」
毎日仕事に出かける時は清掃用の作業着を着ていく。当然、帰りもそのままの格好なわけだが、それが近所に対して恥ずかしいというのだ。
「仕事なんだから仕方ないでしょ」
「俺に恥をかかせる気か。大企業の役員の妻がそんな汚い格好をしているところなんて、世間に見せるな」
翔介は清掃員という仕事も見下した。「汚い」「臭い」と私を罵ったのである。しかし生活費を稼ぐため、1分も無駄にできない。
「あなたが生活費を入れてくれたら、もう少し余裕を持って働けるわ」
「自分の不出来を俺のせいにするのか?」
翔介は私を「役員の妻としての自覚が足りない」と攻め立ててきた。身勝手な言い分に腹が立って仕方がない。翔介が家にお金を入れてくれさえすれば何もかも解決するというのに、彼は全てを私のせいにして、夫としても父親としても責任を果たそうとしなかったのだ。
翔介が家にお金を入れない理由は分かっていた。仕事の付き合いがあることも本当のことだが、それ以外に彼は不倫していたのだ。
最初に翔介の浮気に気づいたのは高校生の秋だった。秋が部活を終えて帰宅する途中、翔介が若い女性と腕を組んで歩いているのを見かけたのだ。
「あれは間違いなくパパだったわ」
「そういえば、ママがいない時に誰かと親密そうに電話してる」
2人の話をすぐに信じたわけではないが、私の中に疑念が生まれたのである。これからも度々娘たちに目撃された翔介の行動を、私も注意深く見るようになった。しかし、家にいる間の翔介に変わった様子は見られない。そこで週末に接対で出かけるという彼を密かに尾行することにしたのである。
家を出た翔介はまっすぐ駅前にあるマンションへと向かい、慣れた様子でその一室へと向かった。翔介がドアのインターホンを鳴らすと、中から若い女性が出てきたのだ。2人は玄関の前できつく抱き合い、口付けを交わした。その瞬間、私の目の前は真っ暗になったのである。
翔介は私に嘘をつき、家族を裏切っていた。その事実が重くのしかかる。翔介と結婚して以来、どれだけ暴言を投げかけられても、傲慢な態度を取られても、彼を信じ耐えてきた。娘たちが翔介の浮気を指摘しても、心のどこかで彼を信じていたのだ。それなのに翔介は私を裏切っていたのである。
許せない。私はお腹の底から湧き上がる怒りに満ちていたのだ。
その怒りが収まらないまま家に帰った私を、娘たちは待ち構えていた。
「どうだった?」
見てきたことをそのまま報告すると、娘たちは顔を真っ赤にして怒り出したのだ。
「やっぱりパパは浮気してたんだ。許せない」
「ママに苦労をかけてるっていうのに、最低よ」
2人は激しく罵り合い、翔介に見切りをつけようと私に持ちかけてきた。
「ママ、パパと離婚して。私たち3人で暮らそう」
「賛成。パパなんていなくても同じよ」
翔介と離婚することに意義などない。むしろ娘たちが後押ししてくれたことが嬉しかった。
「だけど、まだ浮気の証拠がないわ。どうせ離婚するなら、きちんと責任を取ってもらわないと」
「それなら私たちに任せて」
秋とリナは何か計画があるのか、私にウインクして見せたのである。
1ヶ月後、夜遅くに帰ってきた翔介のスマホが鳴った。
「はい、岡本です」
翔介は仕事の電話に出るふりをしながら、ベランダに出たのだ。しかし、ベランダに出る窓が少しだけ開いている。それを確認した私は、そっと耳を済ませてみた。
すると翔介は、電話の相手に「早く清掃員のおばさんと別れて、すずちゃんと幸せに暮らしたいよ」と笑っていたのだ。
さらに「娘たちなんてどうでもいい。俺はすずちゃんがいてくれたら、それだけで幸せなんだ」と。翔介は私ばかりでなく娘たちのことまで否定するような発言を繰り返し、浮気相手に愛を囁いていたのである。
腹が煮えくり返りそうなほど、私は怒りに襲われた。翔介は自分の子供よりも愛人が大切だというのだ。家族への愛情よりも愛人との人生を選択するという翔介に、私は愛想が尽きたのである。
そこへ秋がやってきた。
「会話はバッチリ録音したよ」
秋とリナは、2人で小遣いを出し合い、選んだグリーティングカードに音声録音型の小型カメラを仕掛けたという。私が不在にしている間、翔介は度々愛人と電話をしている。その声を録音すれば彼の不貞行為を証明できると考えたようだ。
「ありがとう。これで翔介を問い詰めることができるわ」
部屋に戻ってきた翔介を問い詰めることにした私は、決意に満ちていた。娘たちのためにも、翔介と決着をつける。
「誰からの電話?」
「仕事だ。他に何がある?」
「仕事の相手に愛を囁くなんて、それも営業手法の1つなのかしら」
「何を言ってるんだ? そんなわけないだろう」
翔介は一瞬動揺した様子を見せたが、それでもまだ白を切り続けた。
「私と別れて、すずちゃんと一緒に暮らしたいんでしょ。私は秋たちが録画してくれた映像を見せつけたんだ」
「ずっと浮気してたのよね。秋やリナも何度もあなたたちを目撃してる」
「ふん。それが何だって言うんだ。大体、俺と結婚したっていうのにババアになったお前が悪い」
全てバレていると分かり、開き直った翔介は、私が年を取ったことが悪いと攻め立ててきた。
「だから浮気しても許されると思ってるの? 私がババアなら、あなただってジジイになったってことよ」
「うるさい。しょうもない掃除のバイトが偉そうに。俺はお前と一緒にいることが恥ずかしくて仕方ないんだ」
翔介は私と結婚したことを後悔していると言い、一方的に「恥ずかしいから離婚だ」と宣言し、記入済みの離婚届を突きつけてきたのである。
「この23年間、汗水垂らして生活を支えてきたわ。子供たちの教育資金だって私が出してきたのよ」
家庭を顧みることもなく、自分勝手にお金を使い、愛人まで作っていた翔介に文句を言われる筋合いはない。ましてや、浮気の原因が私にあると言われても納得などできるはずもないのである。
「小遣い程度しか稼いでいないくせに偉そうにするな。子供を育てるのは母親として当然のことだろう」
翔介は私に母親としての責任を説いてきたのだ。
「だったらあなたはどうなの? 夫として、親として責任を果たしてきたっていうの?」
「俺はちゃんと働いている。俺の妻であり娘であること自体が誇らしいことだろう。それなのに金まで無理矢理取ろうとするお前の考えがおかしいんだ」
翔介は身勝手な論理を持ち出し、私を非難したのである。
呆れた人ね。翔介とこれ以上話をしても無駄だ。そう感じた私は、離婚に応じることにしたのである。
「本当に後悔しない?」
「黙れ。サインしたならさっさと出ていけ」
翔介は私を家から追い出したのだ。その後、娘たちに夕飯を作れと命令したようだが、2人は「最低」と言い残し、私についてきたのである。
家を出た私たちは、秋空となっていた私の実家に身を寄せた。両親が亡くなって以来誰も住んでいなかったが、定期的に手入れは行っていたため、親子3人で住むには十分だ。
「ママは何も間違ってない」
「パパにガツンって言ってるママ、かっこよかったよ」
翔介から解放された私を、娘たちは賞賛してくれている。この子たちがいてくれたら、私は何も怖くない。まだまだ戦いはこれからよ。法的手段に訴えてでも、翔介にきちんと責任を取ってもらう。彼がどれだけ身勝手な理論を投げつけてきても、法のもとであれば戦える。
そう思った翌日、私は弁護士事務所を訪ねた。23年間家庭を支え続けた事実に加え、翔介の不倫の証拠となる音声や、私に行ってきた暴言の記録を提示し、慰謝料を請求したいと訴えたのだ。担当してくれた弁護士は「十分に戦える」と私の弁護を引き受けてくれ、翔介を相手取り慰謝料請求の訴訟を起こしてくれたのである。
数日後、法廷に現れた翔介は、私が生活費に当てていた8万円は小遣いだと主張した。
「生活費は自分の給与で賄っている」
「あいつは家に金を入れている」と言いながら自分の遊興費に金を使っていたと言い張り、愛人に買い与えたブランド品の領収書を私が購入したものの証拠だと提示したのだ。
しかし、すでに弁護士の調査により翔介が愛人に貢いでいた金品のリストは揃っており、彼の嘘はすぐに暴かれたのである。さらに、私がつけていた家計簿から、生活の全てに加え、娘たちの教育資金までもが私の収入で賄われていたことが証明されたのだ。
裁判は私に有利に進み、やがて迎えた判決では、翔介の身勝手な行動が問題視され、高額な慰謝料と共に2人の娘の養育費と財産分与が認められたのである。
「それなら娘たちは俺が育てる」
翔介は養育費を支払いたくないのか、自分が養育すると言い張った。しかし、当の本人である秋とリナは、2人揃って私についてくることを宣言したのだ。
「パパのゴルフクラブでは空腹は満たされないわ」
「愛人とイチャイチャするパパなんて見たくない」
2人に切り捨てられた翔介は、問答無用で養育費の支払いを迫られたのである。さらに財産分与では、翔介が愛人に貢いでいた金額も分割の対象となった。それにより翔介は数千万の支払いを命じられたのだ。
「そんなに払えるわけないだろう」
翔介は金額が高すぎると抗議してきたが、「生活費も入れず散財するつもりなどない」と私は言い放った。
「支払えないって言うなら、強制執行を申し立てるわ」
すでに裁判所から判決が下されている以上、彼に逃げ場はないのだ。その後、翔介は住んでいたマンションを売り、持っていたブランド品も全て処分して私に支払いを行った。そのせいで彼の資産はほとんど残らなかったらしい。
「これでお前らと縁が切れるなら安いもんだ。なぁ、これくらいの金、役員の俺ならすぐに稼いで見せる」
翔介は相変わらず強気な態度を崩さなかった。しかし、彼が笑っていられるのもここまでだったのだ。
実は翔介と訴訟をしている間に、私は彼が勤務する会社の田所社長の自宅を訪れていた。田所社長は私の亡き両親の友人で、翔介と結婚した際の仲人も務めてくれた人だ。
「実は翔介と離婚することになりまして」
「どうして?」
田所社長は驚きながらも理由を尋ねてくれた。私は翔介の不倫や暴言の様子を詳細に報告したのである。
「彼がそんな人だったなんて。典子ちゃんよく耐えたわね」
社長は静かに頷き、翔介の数々の所業に怒りを露わにし、彼に対して制裁を加えることを約束してくれたのだ。
その翌日には、娘たちが義両親に翔介のこれまでの悪業を全て告白した。
「学校から帰ったらパパが家に女の人を連れ込んでた時もあったわ」
「私たちにも自分の買い物を言いつけたり、夜まで家に帰ってくるなって言われたこともあった」
娘たちの話は私も驚くほどのものだった。翔介は私ばかりでなく、娘たちにも傲慢な態度を取っていたのである。
その話を聞いた義両親は、息子のあまりの身勝手さに激怒し、「私たちの息子は典子さんだけだ」と翔介を勘当すると宣言したのだ。
数日後、義両親は弁護士を呼び寄せ、翔介を法定相続人から除外する手続きを行った。その通知を受け取った翔介は怒り狂った様子で義実家に乗り込んできたようだが、「私や孫たちをないがしろにした自分が悪い」と義両親は問答無用で彼を家から追い出したらしい。
同じ頃、翔介の会社では社内調査が行われていた。実は私が離婚の報告に訪れる少し前から、会社では翔介の横領が疑われていたらしい。翔介に愛人がいることが判明し、彼には内通者がいると確信した田所社長は、自らの指示で徹底した社内調査を行ったのだ。その結果、翔介が高額の資金を横領していた事実が判明したのである。
翔介は自身の立場を悪用し、ありもしない取引先との接待という理由で、会社の資金を自分の口座に振り込ませていたのだ。私と結婚したことで高額の役員報酬を受け取っていたにも関わらず、愛人と同居するために会社の資金にまで手を出していた翔介に、田所社長はひどく怒りを露わにし、彼を社長室に呼び出した。そして、その場で懲戒解雇を言い渡し、全額返還を求めたのだ。
しかし、すでに資産を全て手放している彼に支払う余力などない。
「返せないって言うなら、刑事告発するしかないわね」
田所社長はその場で警察に通報したらしい。数分後、やってきた警察官によって翔介は逮捕されたのである。
警察での取り調べでも、翔介は「会社のためにやったことだ」と自身の罪を正当化しようとしたようだが、愛人と同居することのどこが会社のためというのだろうか。当然ながら警察では彼の主張は認められず、翔介は業務上横領の罪で起訴されることとなったのだ。
その後行われた裁判でも、彼は一貫して罪を認めず無罪を主張した。裁判官は「身勝手な行動」を厳重に注意し、「社会的制裁を受けている」としながらも、執行猶予付きの有罪判決を言い渡したのだ。同時に翔介には高額の賠償金の支払いが命じられたのである。
釈放された翔介は、その後小さなアパートに身を寄せたらしい。おそらくそこで愛人のすずと一緒に暮らしていくのだろう。
私はその後、義両親が営む喫茶店で働かせてもらえることになった。翔介の行動のせいで長年苦労をかけたお詫びと、義両親が気を使ってくれたのだ。これまでのように長時間の勤務から解放され、娘たちと穏やかに暮らせるようになった私は、清々しい気持ちで毎日仕事に励んでいる。
店を訪れてくれる常連客からは、「私が来るようになってから居心地が良くなった」と褒めてもらえるようにもなった。清掃員として培ってきた丁寧さがいい方向に現れたらしい。2人の娘たちも「店の看板姉妹」としてSNSで注目を集めている。そのおかげで、義両親の喫茶店は連日行列ができる人気店となったのだ。
このまま穏やかな暮らしが続くものだと思っていた。
しかし、半年後、店に翔介が現れたのだ。
入口で最初に対応したのは娘たちだった。
「変な人が来たの」
2人は怯えた様子で私を呼びに来たのだ。
「私たちのパパだって言ってるけど、あんな人見たこともない」
怪しみながら入口に向かうと、そこにはボロボロの格好で、何日も風呂に入っていないのか異臭をまとった翔介がいた。
「何しに来たの?」
「助けてくれ」
翔介は再就職しようと就職活動を続けたが、どこの会社にも採用されなかったらしい。賠償金の支払い期限が迫る中、焦った彼は私に渡した慰謝料を思い出し、お金を貸してほしいと頼みに来たのだ。
「勝手なことを言わないで」
「頼むよ。もうお前しか頼れる人がいないんだ」
翔介は私の足元にすがりついてきた。
「すずさんに頼めばいいでしょ」
翔介の話では、不倫相手のすずは実は財産目当ての結婚詐欺師だったそうだ。翔介に収入がないと分かった途端、あっさり彼を捨てて行方をくらましたのだとか。さらに翔介はすずに「将来のためだ」と言われ、借金までしていたらしい。翔介の話に嘘はなさそうだった。
しかし、だからと言って私が「分かった」と金を渡すはずがない。
「だったら、せめて飯を作ってくれ」
翔介は何日も食事ができていないらしく、食べるものをくれと迫ってきたのである。そこに義両親がやってきた。義母は「あんたはもう私たちの息子じゃない。さっさと帰れ」と言いながら、手に持っていた大量の塩を翔介に撒いたのだ。それでも翔介は必死に土下座して、懇願してきた。
「これ以上私たちに関わらないと約束するなら、少しくらい食料を分けてあげるわ」
「本当か? 約束する。だから食べ物をくれ」
泣きすがる翔介に、私はお昼に食べようと思っていたコンビニのおにぎりを手渡すと、彼は大事そうにおにぎりを握りしめ、店を去っていった。
その後、彼がどうしているのか私にも分からない。風の噂では、近所の人が留守の間に盗みに入り、警察に逮捕されたのだとか。その結果執行猶予は取り消され、新たに窃盗の罪も加わり実刑が言い渡されたそうだ。
しばらくの間、壁の向こうで暮らすこととなった翔介は、もしかしたら安心しているかもしれない。少なくとも刑務所にいる間は三食の食事が用意され、風呂にも入れる。人間らしい生活ができる上に、借金の取り立てに怯える必要もないのだ。とはいえ、出所すればまた元の生活が待っている。その時のために、少しは自身を振り返り、しっかりと反省して欲しいものだ。
それから数年が経ち、私は義両親からの申し出で喫茶店の経営権を譲り受けることとなった。秋は大学に進学し、ゆくゆくは弁護士になることを夢見て勉強に励んでいる。リナは高校生活を謳歌しながらも、将来は調理師として店を支えたいと専門学校への進学を決めたようだ。
2人の娘が自分の夢に向かって歩いている姿を見ていると、誇らしい気持ちでいっぱいになる。その夢を応援しながら充実した日々を送っていると、これまでの苦労が嘘のようだ。義両親との絆も一層深まり、私たち家族は最高の幸せを手に入れた。
そして今、私たちは空港へと向かっている。店で働き出してからコツコツと貯めた私のための貯金を使い、2人の娘と義両親と共に初めての海外旅行に行くためだ。娘たちは見知らぬ土地に期待と不安を寄せている。
「この旅行はこれまで頑張ってきたご褒美。目一杯楽しみましょう」
長年の苦労がようやく報われた。もう誰にも私の幸せを邪魔させない。私はこれからも愛する家族と共に逞しく生きていくのだ。



