「もう限界なんだ。出て行ってくれ。」
夜の静けさを切り裂いた息子の言葉に、私は心臓が凍りつく思いでした。剣吾の手が私の腕を掴み、玄関へと引きずっていきます。
「剣吾、桜が起きてしまうわ。お願い、静かにして」
必死に懇願する私の声は届きません。息子の目には、もはや母親の姿など映っていないのでしょう。5歳の桜を寝かしつけたばかりの深夜。まさか実の息子にこんな仕打ちを受けるなんて。
「うるさい。今すぐ消えろって言ってんだよ」
玄関のドアが開き、冷たい風が頬を撫でます。次の瞬間、私の体は外へ押し出され、コンクリートの地面に倒れ込みました。膝から伝わる痛みよりも、心に突き刺さる息子の拒絶が何倍も激しく私を苦しめます。
これは、5年間孫の世話を押し付けられ続けた私が、ついに実の息子に家から追い出された夜の出来事です。しかし、この夜が私の人生を大きく変える転機になるとは、この時誰も予想していませんでした。
冷たい地面に倒れた私は、ゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払います。不思議なことに涙は出てきませんでした。代わりに、心の奥底から静かな決意が湧き上がってくるのを感じます。
「助かったわ」
小さく呟いた言葉が、夜の空気に溶けていきます。バッグから携帯電話を取り出し、ある番号にかけました。
「もしもし、高橋先生でしょうか?岡本です。ついにその時が来ました」
そう、私は準備していたのです。この日が来ることを覚悟して。
全ての始まりは5年前に遡ります。桜が生まれた時、私は心から幸せでした。愛する息子夫婦と孫と同じ屋根の下で暮らせる。夫を亡くしてから10年、ようやく築けた新しい家族の形だったのです。
衛藤住宅の頭金500万円も喜んで出しました。剣吾の笑顔が見たくて。「あゆみさんのお母さん、桜のこと少し手伝っていただけますか」という言葉に迷わず頷いたのです。
「もちろんよ。可愛い孫ですもの」
その時の私はまだ何も知りませんでした。この「少し手伝って」という言葉が私の人生を地獄へと変えていくとは。毎日12時間休みなしの育児労働が5年間も続くとは、想像もしていなかったのです。
「少し手伝って」のはずが、気づけば全ての育児を任されていました。朝5時に起きてみんなの朝食を作り、夜は桜のおむつ替え、寝かしつけ。2階ではあゆみさんが朝までぐっすり眠っているのです。
「お母さん、桜泣いてますよ。早く」
あゆみさんの声が2階から聞こえてきます。私は慌てて桜の元へ駆けつけました。
「よしよし。おばあちゃんが抱っこしてあげるからね。桜は大変だもの。今だけ、今だけ頑張れば」
そう自分に言い聞かせる日々が続きます。しかし1年が経ち、2年が経ち、3年が経っても状況は変わりませんでした。桜は5歳になり、もう幼稚園に通っています。それでも送り迎え、食事、お風呂、寝かしつけ、全て私の仕事なのです。
1日平均12時間の育児労働、週7日休みなし。5年間で、もし時給1500円で換算すれば3218万円の無償労働になります。でも、可愛い孫のため、息子夫婦も仕事で大変だから。そう思いながら、疲れ果てた体を引きずる毎日でした。
状況が変わり始めたのは、桜の5歳の誕生日パーティーの日です。あゆみさんのご両親も招待され、豪華な料理が並んでいました。しかし、私の席はありません。
「あの、私も座って……」
「お母さん、料理の補充お願いしますね。得意でしょう?」
剣吾も笑顔で頷きます。あゆみさんのお母様と楽しそうに談笑する2人を見て、胸に冷たいものが走りました。私は家族ではなく、ただの便利な人なのではないか。そんな疑念が心に芽生え始めます。
その疑念はすぐに確信へと変わっていきました。あゆみさんは私に毎日のようにキャラ弁を要求してきます。
「お母さん、桜のお弁当キャラ弁でお願いしますね」
「あゆみさん、でも今日はちょっと時間が……」
「え?時間ないって?お母さん仕事してないでしょう。他に何するんですか?」
言葉が喉に詰まります。朝5時から深夜12時まで働いているのに。暇な老人に見えるのでしょうか?剣吾も同じです。Yシャツのアイロンが雑だといつもため息をつきながら言うのです。
「母さん、もっとちゃんとかけてくれよ」
「ごめんなさい。桜の世話で時間が……」
「母さん、1日中家にいるんだからそのくらいできるでしょ」
私の時間はいつの間にか奪われていました。友人からランチの誘いが来ても、桜の幼稚園のお迎えがあります。趣味のコーラスサークルも「孫より趣味が大事なんですか」と言われ、退会するしかありませんでした。月に1度の同窓会も行けなくなり、友人からの誘いは次第に途絶えていきます。
一方であゆみさんは頻繁に友人とランチに行き、週末には温泉旅行を楽しんでいるのです。
「お母さん、今週末友達と温泉行くので桜のことよろしくお願いしますね」
「でも私も実は友人との約束が……」
「はあ。孫より友達が大事なんですか?おばあちゃんなのに信じられない」
剣吾もすかさず言います。
「母さん、あゆみの言う通りだよ。頼むよ」
気づけば私には何もありませんでした。友人との時間も、趣味の時間も、自分の時間も。全てを奪われ、透明人間のように扱われる日々です。
そんなある日、私が桜に絵本を読んでいると、あゆみさんが突然やってきて絵本を取り上げました。
「お母さん、その読み方古くないですか?今は違う読み方があるんですよ」
「え、でも桜は喜んでくれているわ」
「喜んでるように見えるだけです。時代についていけてないんですよ、お母さん」
その言葉が胸に突き刺さります。さらに追い討ちをかけるように、息子夫婦は私を認知症扱いし始めました。
「母さん、昨日頼んだことやってくれた?」
「昨日何も頼まれていないわよ」
「ほら、また忘れてる。母さん大丈夫?最近忘れっぽいよ」
でも、本当に聞いていないのです。あゆみさんが心配そうな顔で言います。
「認知症の初期症状じゃないですか?ちゃんと病院行った方がいいですよ」
私は物忘れなどしていません。彼らは意図的に私を認知症に仕立て上げようとしていたのです。なぜなら、その方が都合がいいから。認知症の母親の面倒を見ているという口実ができるから。
家族写真を撮る時、カメラマンが言いました。
「ではご家族全員で」
「あ、お母さんはいいです。家族写真なので」
あゆみさんの言葉に心臓が止まりそうになります。
「私は家族じゃないの?」
剣吾が慌てて取り繕います。
「母さん、ほら、恥ずかしがらないで。写真苦手でしょ」
違う。私は外されたのだ。その瞬間、何かが心の中で音を立てて崩れていくのを感じました。
私は透明人間になりました。いえ、違います。私は都合のいい時だけ使われる道具になったのです。育児が必要な時はおばあちゃん、それ以外の時は邪魔な他人。これが5年間私が置かれた立場でした。
ある夜、私は1階の自分の部屋で休んでいました。疲れ果てた体を横たえていると、2階から剣吾とあゆみさんの会話が聞こえてきます。桜の部屋に設置してあるベビーモニターを通じて、2人の声が鮮明に届いてくるのです。
「ねえ、お母さんいつまでいるの?」あゆみさんの声が夜の静寂に響きます。
「まあ、桜の世話してくれてるし」剣吾の返事に、あゆみさんがため息をつく気配が伝わってきました。
「それはそうだけど。桜も5歳よ。そろそろ幼稚園も卒園だし」
「確かに……」
「正直、もう邪魔なのよ。私たちの家なのにいつも気を使わなきゃいけないし」
「邪魔……」
その言葉が胸に突き刺さります。私は布団を握りしめ、息を潜めて会話に耳を傾けました。
「でも母さんが頭金500万出してくれたし」
「あら、それって5年前でしょう。もう十分元は取ったわよ」
元を取った。私は商品なのでしょうか?
あゆみさんの声が続きます。
「計算してみて。年間毎日12時間ベビーシッター雇ったら月30万はかかるのよ。1年で360万。5年で1800万円。大儲けじゃない」
「そう考えると確かに……」
剣吾が同意する声に、心臓が凍りつきます。これが私の息子なのでしょうか。
「もう用済みなのよ。早く追い出さないと」
追い出す。言葉の1つ1つが鋭いナイフのように心を切り裂いていきます。私は商品だったのでしょうか?愛する息子の口から出た言葉が信じられませんでした。
翌日から状況は一変します。露骨ないやがらせが始まったのです。
自分の部屋の鍵が開きません。剣吾に尋ねると、何でもないように答えます。
「あ、防犯のために変えたんだ。母さんの分は作ってないけど」
「でも、私の部屋なのに」
あゆみさんが冷たく言い放ちます。
「お母さんの部屋?ここは私たちの家ですよ。勘違いしないでください」
食事の時間になっても私の分は用意されていません。剣吾とあゆみさんの前には豪華な料理が並んでいるのに、私の前に置かれたのは小さなおにぎり1個だけです。
「あの、私の分は……」
「あ、お母さんは年だから少ない方がいいかと思って」
あゆみさんの笑顔に背筋が凍ります。
これは虐待でした。私の私物も勝手に捨てられ始めました。大切にしていた夫の写真立てさえ、気づいた時にはゴミ袋の中です。
嫌がらせは日に日にエスカレートしていきます。ある日、私が桜に絵本を読んでいると、あゆみさんが突然やってきて私を引き離しました。
「お母さん、桜に変な癖つけないでください」
「変な癖?ただ絵本を……」
「あなたの古臭い価値観を押し付けないでって言ってるの」
剣吾も険しい顔で言います。
「母さん、もういい加減にしてくれよ」
「け、私は何か間違ったことをしたの?」
「間違ったこと?全部だよ。全部。もう母さんは用済みなんだよ」
あの夜聞いた言葉が、今度は私に向かって投げつけられます。あゆみさんが畳みかけるように言いました。
「そうよ。あなたがいると邪魔なの。さっさと出て行ってくれない?」
「出て行けって?ここは私も住んでいるのよ」
「住んでいる?勘違いするな。これは俺たちの家だ。母さんは居候なんだよ」
剣吾の言葉に膝から力が抜けていきます。居候。私を育ててくれたあの優しかった剣吾が、こんな言葉を母親に投げつけるなんて。
その夜、私が桜を寝かしつけていると、剣吾が急行して部屋に入ってきました。
「母さん、話がある」
「剣吾、桜が起きてしまうわ」
「俺はもう限界なんだ。母さんには明日にでも出て行ってもらう」
「明日?そんなの急すぎるわ」
「もう十分だろ。5年も世話になったんだから」
世話になった?私が世話をしてきたのではないのでしょうか。混乱する私の心に、剣吾の冷たい視線が突き刺さります。
数日後の深夜、桜を寝かしつけた私に剣吾が再び詰め寄ってきました。今度は怒りで顔を真っ赤にしています。
「もういい加減にしろよ」
「剣吾、桜が起きてしまうわ。静かに」
「うるせえ。もう限界なんだよ、俺は」
剣吾の手が私の腕を掴みます。力強く、容赦なく。
「痛い。剣吾、何をするの?」
「出ていけ。今すぐ出ていけって言ってんだよ」
引きずられ、玄関へと連れて行かれます。ドアが開き、私の体は外へと押し出されました。よろめき、コンクリートの地面に倒れ込みます。膝から伝わる痛みよりも、心に突き刺さる息子の拒絶が何倍も激しく私を苦しめました。
振り返って懇願する私に、息子はドアを閉めただけです。バタンという音が、私と息子の間に立ちはだかる壁のように響きます。
冷たい地面に座り込んだまま、私は夜空を見上げました。星が綺麗です。でも、その美しさが今の私にはあまりにも残酷に感じられます。
その時、私は悟りました。もうこの家族に居場所はない。いえ、最初からなかったのかもしれません。
そして、バッグから携帯電話を取り出したのです。
冷たい地面から立ち上がった私は、服についた埃を静かに払います。不思議なことに涙は出てきませんでした。代わりに、心の奥底から冷静な決意が湧き上がってくるのを感じます。バッグから携帯電話を取り出し、登録してある番号を押しました。
コール音が3回なった後、落ち着いた男性の声が聞こえてきます。
「もしもし、高橋法律事務所です」
「高橋先生でしょうか?岡本です。ついにその時が来ました」
「岡本さん、わかりました。では明日午前中に事務所にいらしてください。全ての書類を用意しておきます」
「ありがとうございます。5年間の記録、全てを渡します」
電話を切り、タクシーを呼びます。運転手さんが心配そうに声をかけてくれました。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。むしろ、やっと自由になれました」
ホテルに到着し、部屋に入った私はバッグからUSBメモリを取り出します。パソコンを開き、画面に映し出される膨大なファイルを1つ1つ確認していきました。
実は3年前からです。息子夫婦の態度が露骨に変わり始めた時から、私は全てを記録し始めていました。弁護士の高橋先生に相談したのもその頃です。
「岡本さん、万が一の時のために証拠は全て残しておいてください。日記でも写真でも音声でも構いません」
先生の言葉を守り、私は記録し続けました。この日が来ることを、どこかで感じていたから。
画面に映る記録の数々。まずは日記です。毎日の詳細な記録が3年分蓄積されています。育児時間は毎日12時間で1095日間続きました。合計1万3140時間。家事労働も含めれば、さらに膨大な時間になります。
次に音声記録。これは無断録音ではありません。桜の部屋に設置してあるベビーモニターや、リビングの防犯カメラの音声です。あの夜の会話もしっかりと記録されていました。
「もう用済みなのよ。早く追い出さないと」「計算してみて。5年で1800万円。大儲けじゃない」
あゆみさんの声がスピーカーから流れてきます。他にも数々の暴言が記録されていました。
写真と動画の記録も充実しています。家族写真から外される場面。私の前に置かれた小さなおにぎり1個と、息子夫婦の前に並ぶ豪華な料理。捨てられた私の私物。変えられた部屋の鍵。全てが証拠として残されているのです。
医療記録も重要です。疲労による通院記録と、「認知症ではない」という医師の診断書。息子夫婦が私を認知症扱いしていた証拠になります。
そして金銭記録。衛藤住宅の頭金500万円の振り込み記録、毎月の生活費負担、桜への教育費や被服費の支出記録。全てが私の貢献を証明していました。
さらに、今夜の暴力の証拠も確保しています。ホテルに来る前に近くの夜間診療所で診察を受けました。剣吾に掴まれた腕にはくっきりとした痣が残っています。
医師は驚いた様子で診断書を書いてくれました。
「これは明らかな暴行の痕跡ですね。警察に届け出ることをお勧めします」
診断書を手に、私は急いでホテルへ向かったのです。
パソコンの画面を閉じ、もう1つの重要な書類を取り出します。それは衛藤住宅の土地の権利書です。所有者の欄には、私の名前が記されていました。
あの衛藤住宅の土地は、夫が残してくれた大切な財産です。息子のために無償で貸していました。しかし、契約書は作っていません。口頭での約束だけだったのです。
高橋先生は以前、こう言ってくれました。
「岡本さん、この土地はあなたのものです。建物は息子さんの名義ですが、土地の使用契約書がない以上、あなたはいつでも返還を求めることができます。その場合、息子さんは建物を撤去して土地を明け渡す必要があります。もちろん、撤去費用も息子さんの負担です」
その時の私はまだ迷っていました。でも、今夜の暴力で全てが決まったのです。高齢の母親に暴力を振るうという、許されない一線を息子は超えてしまいました。
通帳も確認します。預金残高は2500万円。別の通帳には定期預金3000万円。夫が残してくれた保険金と、私の退職金です。経済的には十分に自立できます。
枕元に携帯電話を置き、明日の弁護士事務所の予約確認画面を見つめました。午前10時。全てが動き出す時間です。
ベッドに横になりながら、私は静かに呟きます。
「剣吾、あゆみさん。あなたたちは大きな間違いを犯しました。私を追い出したこと?いえ、それよりも私を殴ったこと。高齢の母親に暴力を振るうという取り返しのつかない罪を犯したのです」
暴力は証拠として決定的です。診断書があり、医師の証言もある。
これで準備は完璧になりました。明日、全てが動き出します。息子夫婦はまだ何も知りません。自分たちがどれほど恐ろしい状況に陥ったのかを。土地の所有権、5年間の労働代償、そして暴力。3つの切り札が私の手の中にあります。
窓の外を見ると、夜が明け始めていました。東の空がうっすらと白んでいきます。新しい1日の始まり。そして、私の新しい人生の始まりでもあるのです。目を閉じると、不思議と心が落ち着いていくのを感じます。5年間の苦しみ、理不尽、屈辱。全てに決着をつける時が来ました。もう2度と、誰にも屈することはありません。
その言葉を胸に、私は静かに眠りにつきます。明日は長い1日になるでしょう。でも、私は準備ができていました。完璧に。
翌朝、衛藤住宅のリビングには穏やかな朝の光が差し込んでいます。剣吾とあゆみさんがコーヒーを飲みながらソファーでくつろいでいました。
「ああ、すっきりしたわね」あゆみさんが大きく伸びをします。
「君、昨夜は少し強引だったかもしれないけど……」
「何言ってるの?あれで良かったのよ。もう私たちの邪魔をする人はいないんだから」
桜が2人に近づいてきます。
「ねえ、おばあちゃんはどこ?」
「おばあちゃんはね、ちょっと旅行に行ったんだよ」剣吾が優しく答えます。
「そうそう。長い長い旅行にね」
2人は顔を見合わせて笑いました。その時、剣吾の携帯電話が鳴ります。
「はい。岡本ですが」
「岡本剣吾様ですね。私、弁護士の高橋と申します」
「弁護士?何の用ですか?」剣吾の顔色が変わります。あゆみさんが不安そうに夫を見つめました。
「岡本洋子様の代理人としてお電話しています」
「母さんの?」
剣吾は慌ててスピーカーフォンに切り替えます。あゆみさんも身を乗り出して電話の内容に耳を傾けました。
「まず、昨夜の暴力行為についてです。診断書を確認しましたが、明確な暴行罪が成立します」
「暴力って……」
「ちょっと、ちょっと待ってください。あれは……」
「高齢者への暴力は厳重に処罰されます。警察への被害届も検討しています」
あゆみさんが小声で呟きます。
「警察……嘘でしょ?」
高橋弁護士の声が続きます。
「次に、5年間の労働代償についてです。育児労働1万3140時間、家事労働1万950時間。時給1500円換算で総額4927万円の未払い労働です」
「よ、4927万円?」剣吾の声が震えます。
「そんな払えるわけないじゃない!」あゆみさんが叫びます。
「お支払いいただけない場合は、法的手続きを取らせていただきます。給与の差し押さえも視野に入れています」
剣吾とあゆみさんは顔面蒼白になりました。しかし、弁護士の言葉は続きます。
「そして、最後に最も重要な件ですが、こちらの土地について」
「土地?これは俺の……」
「いいえ、違います。この土地は岡本洋子様の所有です」
「え、嘘!」2人の声が重なります。
「権利書を確認しましたが、土地の所有者は岡本洋子様。建物は剣吾様の名義ですが、土地は洋子様のものです」
あゆみさんが立ち上がります。
「それってどういうこと?」
「使用契約書もありませんから、洋子様はいつでも土地の返還を求めることができます」
剣吾の手から携帯電話が滑り落ちそうになります。
「つまり、建物を撤去して土地を明け渡していただくことになります」
「建物を撤去?この家を壊すってこと?」あゆみさんの声が裏返ります。
「はい。もちろん、建物の撤去費用もあなた方の負担です。およそ500万円程度かと思われます」
長い沈黙が流れます。リビングの時計の秒針の音だけが、やけに大きく響きました。
「そ、そんな。この家のローンまだ2500万円残ってるのに」剣吾が呟きます。
「家を壊して、ローンだけ残るってこと?」あゆみさんの声は震えています。
「それはあなた方の問題です。なお、土地の明け渡し期限は3ヶ月とさせていただきます。それまでに建物を撤去し、土地を更地にして返還してください」
「さ、3ヶ月?」
「はい。では、詳細は後日文書でお送りします。失礼いたします」
電話が切れました。剣吾とあゆみさんは呆然とその場に立ち尽くします。
「どうしよう……どうしよう……」あゆみさんがパニックになり始めます。
「家のローン2500万円。撤去費用500万円。労働代金4927万円。合計7927万円。払えるわけない」剣吾が床に座り込みます。
「あなたの会社の年収600万でしょう?私のパート収入入れても年に100万。合わせて800万。税金引いたら手取り400万くらい。7927万円なんて12年以上かかる。いや、生活費考えたら20年以上」
2人は絶望的な表情で顔を見合わせました。
剣吾が震える手で母親の携帯番号を押します。コール音が3回なった後、洋子の冷静な声が聞こえてきました。
「何かしら」
「母さん。弁護士から電話があって……本当なの?」
「本当よ。全て事実です」
「お願いだ母さん。話し合おう。昨日のことは悪かった」
「話し合い?今更ですか?5年間、私の話を1度でも聞いてくれましたか?」
あゆみさんが電話を奪い取ります。
「お母さん、お願いです。私たちどうすればいいんですか?」
「さあ、どうすればいいんでしょうね。私も5年間同じことを思っていました」
「謝ります。本当にごめんなさい。だから許してください」
洋子の声には一切の感情が感じられません。
「あゆみさん、昨日あなたは何と言いましたか?『お荷物は早く出て行け』でしたね。では、私からも言わせていただきます。お荷物には、土地も家も必要ありません」
剣吾が再び電話に出ます。
「母さん、頼む。桜のことを考えてくれ」
「桜のこと?5年間、私がどれだけ桜を愛して世話をしてきたか、あなたは知っているはずです。でも、あなたたちは私を用済みだと言いました。それはあゆみも。剣吾、あなたも昨日こう言いましたね。『俺たちの家だ。母さんは居候だ』と。では、私も言いましょう。私の土地に、あなたたちは居候です。さっさと出て行ってください」
「母さん!」
電話が切れます。剣吾は何度もかけ直しますが、もう繋がりません。
「出ない……母さんが電話に出ない」
「どうしよう……どうしよう……」あゆみさんが頭を抱えて座り込みます。
「私たち、終わったのよ。家もお金も全部」
桜が不安そうに2人に近づいてきます。
「ママ、パパ、どうしたの?おばあちゃんに会いたいよ」
「うるさい!今それどころじゃないの!」あゆみさんが叫びます。
桜は驚いて泣き出しました。
「うわああん!」
泣く桜の声がリビングに響きます。剣吾は無力感に襲われ、ただ座り込んでいるだけです。
数日後、衛藤住宅には撤去業者が下見に来ました。
「建物の撤去費用は、やはり500万円ほどかかりますね」
業者の言葉に、剣吾は唸るだけです。
会社でも、剣吾の様子がおかしいことに同僚が気づきます。
「岡本さん、大丈夫ですか?最近元気ないですね」
「ああ、ちょっと家庭の事情で……」
言葉を濁す剣吾。でも心の中では絶望が広がっていくばかりです。あゆみさんもパートから帰ってくると、ただソファーに座り込んでため息をつきます。
「フルタイムで働かないと……でも、桜の世話は誰が?」
「保育園に預けるしかない。保育園代もかかるのよ」
「お母さんが無料でやってくれてたことが、どれだけありがたかったか……」
今更言っても、2人の間に重い沈黙が流れるだけです。
そして1ヶ月後、剣吾とあゆみさんは小さなアパートに引っ越しました。衛藤住宅は更地になり、ただ広い土地だけが残っています。
アパートの狭い部屋で、桜が寂しそうにつぶやきます。
「おばあちゃん、どこ行ったの?」
剣吾は答えることができません。あゆみさんも、ただ涙を流すだけです。
「ごめんね。ママとパパが悪かったの」
悔いても、もう遅いのです。人は失って初めて、その大切さに気づきます。これが理不尽な行いへの、当然の報いでした。
あれから1ヶ月が経ちました。私は新しいマンションで1人暮らしを始めています。明るい日差しが差し込む広いリビングで、久しぶりに入れた紅茶の香りを楽しんでいました。インターホンが鳴り、友人たちが訪ねてきます。数年ぶりの再開です。
「洋子さん、本当に大変だったのね」友人が心配そうに言います。
「ええ、でも今は本当に自由で幸せです」
「お孫さんのこと、心配じゃない?」
「もちろん心配です。でも、私にできることはもうありません。桜には申し訳ないけれど、私自身を守ることも大切だと気づいたんです」
友人たちは優しく頷いてくれます。温かい会話が心を癒してくれました。
翌週、私は5年ぶりにコーラスサークルに復帰します。
「洋子さん、お帰りなさい!」メンバーたちが笑顔で迎えてくれます。
久しぶりに声を合わせたハーモニーが、体の中を温かく満たしていくのを感じました。これが本当の幸せだったのだと、今なら分かります。
一方、息子夫婦は小さなアパートでの生活を始めていました。剣吾は会社で必死に働き、あゆみさんもフルタイムで働き始めています。桜は保育園に預けられ、寂しそうな表情を浮かべていました。
ある日、アパートの狭い部屋であゆみさんが呟きます。
「あの時、本当にバカだったわ。お母さんにどれだけ助けてもらっていたか、失って初めてわかった」
剣吾も頷きます。
「おばあちゃんに会いたいよ」桜の言葉に、2人は何も答えることができません。悔いても、もう遅いのです。
私の経験は決して特別なものではありません。多くの高齢者が家族から理不尽な扱いを受けています。「家族なんだから我慢しなさい」「親なんだから当たり前」。そう言われて、自分を犠牲にし続けている方がたくさんいらっしゃるでしょう。
でも、私は声を大にして言いたい。理不尽には屈してはいけません。我慢することが美徳なのではありません。自分の尊厳を守ることこそが大切なのです。家族だからこそ感謝し合い、尊重し合うべきです。家族だから何をしてもいいということではありません。
私が学んだこと。それは、自分を守る権利は誰にでもあるということ。そして、理不尽な行いには必ず報いが来るということです。
もしあなたも今、理不尽な扱いを受けているなら、どうか1人で抱え込まないでください。相談できる人を見つけてください。弁護士でも友人でも、誰でもいいのです。そして記録を残してください。言葉でも写真でも日記でもいいのです。いつかその記録が、あなたを守ってくれます。
私は5年間苦しみました。でも、今は自由で幸せです。窓辺に立ち、外の景色を眺めます。公園では子供たちが楽しそうに遊んでいました。その姿を見て、桜のことを思い出します。桜には申し訳ないことをしたかもしれません。でも、私が壊れてしまったら、誰も幸せにはなれなかったでしょう。
自分を大切にすること。それが、結果的に周りの人も大切にすることにつながるのです。あなたにも、必ずそんな日が来ます。理不尽に負けないでください。自分を大切にしてください。
岡本洋子の物語は、こうして幸せな結末を迎えました。理不尽に屈しない強さ、自分を守る勇気。それが人生を変える力になるのです。友人たちと笑い合う私の姿が、新しい人生の始まりを物語っています。もう2度と、誰にも屈することはありません。



