「助けてくれないなら、親子の縁を切るからな」
愛する息子から投げつけられたその言葉に、67歳になる私の心は凍りつきました。まさか、手塩にかけて育てた我が子から、これほど冷たい通告を受ける日が来るとは夢にも思いませんでした。
「家を売って金を作れと言っているんだ。それができないなら、もう二度と会わない」
玄関先で言い放たれたその言葉は、私の30年に及ぶ母親としての人生を、音を立てて崩れ去らせるのに十分な破壊力を持っていました。私は震える手で玄関の柱にすがり、立っているのがやっとの状態でした。
「や、どうしてそんなことを言うの? 500万円なんて大金、どうして必要なの?」
私の問いかけに対し、息子の拓也の瞳は氷のように冷たく、まるで赤の他人を見るような眼差しでした。その隣で腕を組んでいる妻の歩美も、当然といった表情で頷いています。
私は30年間、歯科医院の受付として必死に働き、亡き夫の分まで息子を支え続けてきました。大学の学費、結婚式の費用、新居の頭金、そして毎月の生活費の援助。これまでの援助総額は1400万円を超えています。なのに今、また私の住む家まで売れと迫ってくるのです。
「返事は明日まで待ってやる。金を出さないなら、本当に縁を切るからな」
激しい音を立ててドアが閉められた瞬間、私の心に最後の一撃が加えられたようでした。
翌朝の10時、約束通り息子夫婦がやってきました。
「母さん、腹は決まったよな」
拓也は玄関に上がるなり、挨拶もなしに早速してきました。まるで私の承諾を得るのが当然であるかのような態度です。
「ちょっと待ちなさい。500万円なんて、どうしてそんな大金が必要なの?」
私が問い詰めると、拓也は面倒臭そうに吐き捨てました。
「投資に失敗して、暗号資産で損を出したんだよ。でも今度は絶対に取り返せる案件がある。そのための元手が必要なんだ」
「また投資なの? 去年も200万円貸したばかりじゃない。毎月10万円も援助しているのに」
「あれとは違うんだよ。今度は確実なんだ。有名な投資家も推奨している」
隣で歩美が腕を組みながら口を挟んできました。
「お義母さん、いつまでも溜め込んでいても仕方ないでしょう。その年の貯金なんて、どうせ使い道がないんですから」
その見下した視線と言葉に、私の胸は鋭く痛みました。まるで私の人生には価値がないと言わんばかりです。
「私だって老後の生活があるのよ。医療費だってこれからかかるし」
「老後って、もう67歳でしょう。今が十分老後じゃないですか? それに医療費なんて保険でなんとかなるでしょう。それより、これからの未来がある息子家族を助ける方が先決だと思いますけど」
「そうだよ。俺たちが困っているのに、母さんは出し惜しみするのか?」
「出し惜しみ…」
私は言葉を失いました。2000万円近くも援助してきたのに、まだ足りないというのでしょうか?
「今までだって、十分援助してきたじゃない」
「あんなの援助のうちに入らないよ。親なら当然だろ」
「正直に言いますけど、お義母さん。私たちの生活レベルを維持するには、もっと援助が必要なんです。友人の親は月20万円も援助しているって聞きましたよ」
「月20万円? そんなことできないわ」
「できないなら、まとまった金額を一度に出してもらうしかありませんね」
すると拓也が立ち上がり、窓から外を眺めながら言いました。値踏みするような目つきが不愉快でなりません。
「この家、もう古い。築40年だろう。建物に価値はなくても、土地を売れば2000万円にはなるはずだ。不動産屋の友人に聞いたら、この辺りの地価は上がっているって言ってた」
「家を売れだなんて…」
「一人暮らしには広すぎるじゃないですか。3LDKなんてもったいない。もっと小さなアパートにでも引っ越せばいいんです」
歩美の計算高い表情を見て、これが最初から彼らの狙いだったのだと悟りました。拓也も頷きながら畳みかけます。
「母さんだってもう年なんだから、管理も大変だろう。庭の手入れもできてないし、外壁も汚れている。売って残った金で老人ホームにでも入ればいいじゃないか」
「老人ホーム…」
まるで私を厄介者扱いです。
「この家はお父さんとの思い出が詰まった大切な場所なの。結婚してからずっと住んでいて、拓也もここで育ったのよ。売るなんてできないわ」
「思い出じゃ飯は食えないよ。現実的に考えろよ。干渉に来るのはやめてくれ」
「そうですよ。思い出なんて、写真でも見てればいいじゃないですか。それより生きている人間の方が大事でしょう」
「母さん、はっきり言うけど、協力しないなら孫にも合わせないからな」
歩美がスマホを取り出し、孫の写真を見せつけるように画面を私の顔に近づけました。
「可愛いでしょう? もう歩き始めたんですよ。『ばあば』って言えるようになったんです。でも、衛生観念のない人には合わせられません。お金の援助もできない人なら、なおさらです」
「それは脅しなの?」
「脅しじゃありません。当然の判断です。俺たちにも生活があるんだ。金も出せない親なんて、正直必要ないんだよ」
拓也は玄関に向かいながら、振り返りもせず最後に言い放ちました。
「また明日来ます。それまでに決めてください。家を売るか、縁を切るか。二つに一つです。それから、もし家を売るなら、手続きは全部俺たちがやるから、母さんは判を押すだけでいい。売却益の配分もきちんと考えてあるから、心配するな」
二人は冷酷な表情のまま、ドアを乱暴に閉めて出ていきました。私は崩れるようにソファに座り込みました。息子は私をただの金ヅルとしか見ていなかったのです。
その日の昼過ぎ、突然電話が鳴りました。画面を見ると、さっき帰ったばかりの拓也の名前です。震える手で電話に出ました。
「もう家を売る決心はついたか」
挨拶もなく、いきなり要求を突きつけてきます。明日までに決めろと言っていたのに、息子の声は焦りに満ちていて、まるで借金取りのようでした。
「や、もう少し冷静に話し合えないの?」
「冷静? 俺は十分冷静だよ。むしろ母さんの方が現実を見ていない。早く決めてくれよ。こっちも投資の締め切りがあるんだから。歩美の声、聞こえたろ。時間がないんだ。イエスかノーか、今すぐ答えろ」
拓也の声がさらに高圧的になります。私は必死に理解を求めようとしました。
「拓也、あの家はお父さんとの思い出が…」
「また思い出かよ。いい加減にしろよ。死んだ親父より、生きている俺たちの方が大事だろう」
その言葉に、私の心臓が締め付けられるように痛みました。
「お父さんをそんな風に言わないで。あなたを大学まで行かせるために、どれだけ頑張って働いてくれたか…」
「だからなんだよ。それが親の義務だろう。恩着せがましいんだよ」
「せめて少し時間をちょうだい。急に家を売るなんて。どこに住めばいいの? 引っ越し先も探さないと…」
「時間? 冗談じゃない。なんなら今決めてもいいんだ。遅くても明日の朝一番で返事しろって言っただろう。早く決めろ」
「1週間…いえ、せめて3日だけでも…」
「3日? その間に俺たちがどうなってもいいのか? 借金取りが家に来るかもしれないんだぞ」
「借金取り? 投資の失敗じゃなかったの?」
一瞬の沈黙の後、歩美が電話を奪い取ったようでした。
「お義母さん、細かいことはいいんです。とにかく家を売って500万円用意してください。これができないなら…お分かりでしょう。もう関わりたくないんです。正直、お金も出せない、家も売れないなんて、どんな親ですか?」
「あゆみさん、いい加減にしてください。こっちは必死なんです。なのに…」
「身内の親が助けてくれない。拓也さんがどれだけ惨めか、わかりますか?」
電話が再び拓也に変わりました。
「母さん、最後にもう一度だけ聞く。家を売って金を作るか?」
「拓也、お願い。もう少し考えさせて…」
「答えはノーってことか」
「そうじゃなくて…」
「じゃあいい。助けないなら縁を切る。二度と連絡してくるな」
拓也の声が、今まで聞いたことがないほど激しくなりました。
「待って、拓也! 私、あなたのお母さんじゃない!」
「他人だ。今まで育ててくれたことには一応お礼を言うよ。でも、それ以上の情はない。金も出せない母親に価値なんてない。歩美の親を見てみろよ。必要な時にはすぐに援助してくれる。それが本当の親だ」
「そうよ。うちの両親は娘家族のために何でもしてくれる。それに比べて…」
「母さん。いや、田中さん、これが最後の連絡だ。俺の連絡先も消してくれ。お前の顔も一生見られないと思え」
「あなたは私の息子でしょう…」
「死の縁なんて関係ない。金の切れ目が縁の切れ目って言うだろう。まさにそれだよ。30年間の過去の話なんてどうでもいい。今助けられない親なんていらないんだよ」
「お義母さん、分かってください。私たちは前に進みたいんです。足を引っ張る人とは一緒にいられません」
「足を引っ張る…」
「ええ、そうです。古い家に執着して、昔の思い出ばかり。そんな人と付き合っても、私たちの人生にプラスになりません」
拓也が最後の言葉を放ちました。
「もう二度と連絡してくるな。俺たちはもう家族じゃない。完全に他人だ。これですっきりした」
「拓也…!」
私の叫びも虚しく、電話は切れました。無機質な切断音だけが静かな部屋に響きます。再び掛け直しても、もう繋がりません。番号を変えられたのか、着信拒否にされたのか。
私はスマホを握りしめたまま、膝から崩れ落ちました。息子に捨てられた。金を出さないという理由だけで、30年間育てた息子に「他人だ」と言われた。
心の奥底から、今まで感じたことのない感情が湧き上がってくるのを感じました。それは悲しみではありません。怒りでもありません。静かな、しかし固い決意でした。
「そう…他人なのね」
立ち上がった私の顔には、もう迷いはありませんでした。息子が自ら切った縁ならば、私も本当の意味で縁を切ってやりましょう。
電話を切られた瞬間、私の中で何かが吹っ切れました。実は、息子夫婦のエスカレートする金銭要求に対して、私は密かに最悪の事態に備えていたのです。以前からお世話になっている佐藤弁護士に1週間前から相談しており、必要な書類も全て準備していました。
時計を見ると午後4時。今日中に全てを終わらせる。決意して、私はすぐに佐藤弁護士に電話をかけました。
「先生、田中です。ついにその時が来ました」
「田中さん、とうとう息子さんが…?」
「絶縁すると言われました。金も出せない母親に価値はない。もう他人だと言われました」
「わかりました。すぐに事務所へ来てください。今日中に全ての手続きを完了させましょう」
私はすでに用意していた証拠ファイルを鞄に入れ、タクシーで法律事務所へ向かいました。
午後4時半、佐藤弁護士の事務所に到着しました。
「田中さん、まず今日の通話を聞かせてください」
スマホの通話録音を再生しました。息子の残酷な言葉が事務所に響き渡ります。
『助けないなら縁を切る。二度と連絡してくるな。もう家族じゃない。完全に他人だ』
弁護士の表情が険しくなります。
「これは完全な精神的虐待です。相続排除の要件を十分に満たしています」
私は手帳からファイルを取り出し、通帳のコピーを机に広げました。
「これが全ての記録です。合計1440万円」
次に、メッセージアプリの画面写真を時系列で並べました。
「金銭要求のメッセージが238件。『振り込みまだ?』『今月も頼む』といった内容ばかりです。さらに、音声データのリストも提示します。暴言の録音が15件。今日のものも含めて、全て保存してあります」
佐藤弁護士は素早く書類を確認し、力強く頷きました。
「完璧です。これだけの証拠があれば、相続排除は確実に認められます」
「今日中に手続きできますか?」
「もちろんです。実は田中さんの相談を受けて、申立書の下書きはすでに作成してありました。今日の録音データを追加すれば、すぐに完成します」
弁護士は効率的に作業を進めました。
「推定相続人の排除の申立、そして遺言書も公正証書にしましょう。遺言書の内容は決めていますか?」
私は1週間前から温めていた内容を伝えました。
「全財産を児童養護施設へ寄付します。息子には1円も残しません」
「承知しました。では、公証人に連絡を。あ、田中さん。実は今日は公証人の先生が夜間対応の当番日なんです。7時まで対応可能だそうです」
運命的なタイミングでした。
午後5時、申立書が完成しました。「緊急を考慮して、保全処分も同時に申請します。これで息子さんが財産に手をつけることを防げます。それから、財産を信託財産として保護する手続きも今日中に行いましょう。不動産も預金も、全て保全します」
午後6時、公証役場へ移動しました。公証人の先生は私の事情を聞いて、深く同情してくださいました。
「息子さんに『他人だ』と言われたんですね。お辛いでしょうに」
「いいえ。もう吹っ切りました。息子が望んだことです」
公正証書遺言の作成は30分で完了しました。これで息子が何を言おうと、私の財産は守られます。
午後7時、銀行へ向かいました。佐藤弁護士の計らいで、支店長が特別に対応してくれることになっていたのです。
「田中さん、全ての口座を信託口座に変更します。これでご本人以外が勝手に引き出すことはできません。通帳、印鑑、キャッシュカード類は全て当行の金庫に保管します」
午後8時、全ての手続きが完了しました。
「田中さん、これは息子さんへの通知書です。明日の朝には内容証明郵便が彼らの自宅に届くでしょう。『ご要望通り完全に縁を切らせていただきました。相続排除の申立を済ませました。今後一切の連絡を禁じます』という内容です」
「ありがとうございます。先生」
事務所を出ると、外はもう夜でした。でも私の心は、不思議なほど晴れやかです。
翌朝8時過ぎ、玄関のチャイムが乱暴に鳴り響きました。
「母さん、開けろ! 今すぐ開けろ!」
拓也の怒鳴り声が静かな住宅街に響き渡ります。
「なんであんな内容を送ってきたんだ! ふざけてるのか?」
私は紅茶をゆっくりと飲み干してから、インターホンに応答しました。
「あら拓也、そんなに大声を出して、ご近所に迷惑でしょう」
「迷惑? 冗談じゃない。今すぐ開けろ!」
「わかりました。少し待ってくださいね」
玄関を開けると、拓也が鬼のような形相で立っていました。歩美も顔を真っ赤にして、肩で息をしています。
「これはどういうことだ?」
拓也が内容証明の封筒を私の顔の前に突きつけました。
「『相続排除も申立済み、今後一切の関係を断つ』だと。正気か?」
「玄関先ではありませんから、中へどうぞ」
「中なんかどうでもいい。今すぐ説明しろ!」
歩美も叫びました。
「そうよ! こんな…こんなひどいことって…」
「何がひどいのかしら」
「何がって…」
拓也が言葉に詰まりました。
「とにかく、リビングでお話ししましょう。叫んでいても解決しませんから」
渋々二人を中に入れると、拓也はソファに座るなり怒鳴りました。
「説明しろ! なんで俺が相続人から外されるんだ?」
「なんでって? あなたが望んだからですよ」
「俺が望んだ? 何を言ってるんだ?」
「『助けないなら縁を切る』『もう他人だ』『二度と連絡するな』。昨日、あなたが言った言葉です」
拓也の顔色が変わりました。
「あ、あれは…カッとなって…」
「カッとなって?」
私はすかさず録音を再生しました。
『金も出せない母親に価値なんてない。もう家族じゃない。完全に他人だ』
「やめろ!」
拓也が叫びました。
「まだ続きがありますよ」
『死なんて関係ない。金の切れ目が縁の切れ目って言うだろう』
歩美が青ざめて言います。
「で、でも…これだけで相続権を奪うなんて…」
「これだけなわけありません」
私は分厚いファイルを取り出しました。
「過去の証拠です。金銭要求のメッセージ238件。『振り込みまだ?』『今月も20万円よろしく』。金だけを送らせる記録が全部あります」
「なんだよ、親子間の援助じゃないか!」
「親子? 今さら何を言っているの。あなたは『他人だ』と言ったじゃない」
「それは…!」
「弁解しなさんな。その時の録音がここにあります」
「弁解じゃない!」
「これを見てください」
私は銀行の記録を差し出しました。
「総額1440万円。これが私があなたに援助した金額です」
「1440万…そんなに…」
歩美が息を呑みました。
「大学の学費600万円、結婚資金300万円、家の頭金500万円、毎月10万円の援助が数年。それらを含めれば、2000万円近くになります」
「だからなんだよ。それが親の務めだろう!」
「親の義務? 『恩着せがましいんだよ』と言ったのは、あなたでしょう」
私はもう一つの書類も見せました。公正証書遺言の控えです。拓也が書類を奪い取ります。
「全財産を児童養護施設に寄付…5000万円…」
「そうです。あなたが相続できたはずの財産です。でも、もう無理ですね」
「ふざけるな! 取り消せ! 今すぐ取り消せ!」
「取り消す? なぜ私が他人のために遺言を変える必要があるんですか?」
「他人じゃない! 俺は息子だ!」
「法的には、もうすぐ他人になりますよ」
歩美が泣き始めました。
「お義母さん、お願いです。私たち、本当に困っているんです」
「困っている? 投資の返済が来週までに500万円…あ、そういえば、銀行口座は確認しましたか?」
拓也がハッとしました。
「ま、まさか…」
「ええ、昨日のうちに、全ての送金を停止しました。それから、クレジットカードの家族カードも全て解約しました」
「解約…!」
歩美が悲鳴を上げます。
「じゃあ、買い物は…」
「ご自分のカードをお使いください。あら、私は無職でしたっけ? 働けばいいじゃないですか。私は30年間働きましたよ」
拓也が膝をついて懇願してきました。
「母さん、頼む! せめて今月分だけでも…10万でもいい!」
「どうして私が援助する必要があるんですか?」
「親子だからだろう!」
「親子? 私は録音をもう一度再生しました」
『俺たちはもう家族じゃない。完全に他人だ』
「やめてくれ!」
拓也が耳を塞ぎます。
「お義母さん、本当にごめんなさい。私たちが間違っていました」
「何が間違っていたんですか?」
「全部です! お金のことばかり考えて…」
「今もお金のことばかり言ってますよね」
「違います! 家族として…」
「『足を引っ張る人とは一緒にいられません』。歩美さんの録音された音声が響きます。私は、こう言われましたよ」
拓也が最後の力を振り絞って言いました。
「母さん、俺を見捨てるのか?」
「見捨てる? 見捨てたのは、あなたの方でしょう」
「違う!」
「『二度と連絡するな』『もう関わるな』。これは見捨てたことにはならないんですか?」
「裁判はいつですか?」
「来月です。この証拠を見れば、結果は明らかでしょう」
「来月…それまでに…」
「何を、和解するんですか? あなたたちが望んだ通りになっただけです」
「望んでない!」
拓也が叫びました。
「こんなこと、望んでない!」
「『すっきりした』と言いましたよね。昨日」
「お願いです! どうすればいいんですか?」
「知りません。それは他人の私には関係のないことです」
「5000万円…5000万円が…」
「ええ、全てを失いましたね」
私は玄関を指差しました。
「もうお帰りください」
「待ってくれ! もう一度だけチャンスを!」
「チャンス? 30年間、何度チャンスを上げたと思いますか?」
二人は立ち上がることもできず、ただ呆然としていました。私は最後に言いました。
「二度と来ないでください。次は警察を呼びます」
「母さん…本当にこれでいいのか?」
「ええ、いいんです。あなたが『助けないなら絶縁する』と言った。お望み通りです」
玄関のドアを閉める時、拓也の嗚咽が聞こえてきました。でも、もう振り返ることはありません。これが、息子自身が選んだ結末なのですから。
あれから半年が経ちました。私は今、海の見える小さなマンションで新しい生活を送っています。趣味の陶芸教室に通い、本当に自由です。30年間、朝から晩まで働き続けた日々から解放され、今は好きな時間に起き、好きなことをして過ごせる。これほど幸せなことはありません。
ある日、帰宅すると郵便受けに佐藤弁護士からの手紙が入っていました。児童養護施設への寄付手続きが完了したという報告と、施設の子供たちからの感謝の手紙が同封されていました。
『ありがとうございます。おかげで新しい図書室ができます。大学に行けるようになりました。夢を諦めずに頑張ります。パソコンが使えるようになって、勉強がはかどります』
私のお金が、本当に必要としている人たちの役に立っている。これほど嬉しいことはありません。
その時、スマホが鳴りました。歯科医院時代の同僚からです。
「恵子さん、久しぶり。実はあなたの息子さんのこと聞いたわ」
「そう…どんな話?」
「借金で首が回らず、離婚したそうです。奥さんは実家に帰って、拓也さんは今アパートで一人暮らし。日雇いの仕事をしているって。投資の借金が2000万円以上あったんですって。自己破産の手続き中だとか。それから、お孫さんは奥さんが引き取ったけど、養育費も払えない状態らしいわ」
私は静かに答えました。
「自分で巻いた種ですから」
「でも、恵子さん。後悔してないの? 実の息子なのに」
「いいえ。していません。あのまま援助を続けていたら、息子はもっとダメになっていたでしょう」
電話を切った後、窓の外を眺めます。息子は全てを失いました。妻も、家も、仕事も、そして母親も。でも、それは息子自身が選んだ道なのです。お金でしか繋がれない関係は、お金がなくなれば終わる。私は静かに呟きました。
翌日、私は児童養護施設を訪れました。施設長が深く頭を下げます。
「田中さん、本当にありがとうございます。5000万円ものご寄付。子供たちの未来が変わります」
「いいえ。私の方こそ。このお金が生きた使い方をされて、嬉しいです」
子供たちが駆け寄ってきました。
「おばあちゃん、ありがとう! 新しい本がいっぱい読めるよ!」
「パソコンで勉強できるようになったよ!」
無邪気な笑顔を見て、私は確信しました。これが本当の家族の温かさなのだと。血は繋がっていなくても、心で繋がることができる。私を必要としてくれる人たちがいる。私は心の底から幸せでした。
帰り道、私はふと考えます。理不尽に屈する必要はないのだと。年齢を重ねたからと言って、我慢し続ける必要もありません。親だからと言って、全てを犠牲にする必要もありません。自分を守る権利が、誰にでもあるのです。
私は67歳にして、初めて本当の自由を手に入れました。誰にも縛られず、誰にも利用されず、自分の意思で生きる自由を。人生に遅すぎることなんてない。私は鏡に映る自分に向かって微笑みました。そこには、生き生きとした表情の女性がいます。



