会議室から悲鳴のような声が響き渡る。俺の耳が即座に反応した。通訳がいない。こんな大事な商談なのに、一体どうなっているんだ。
他国からの取引先がアポイントメントなしで来社した。対応しているのは営業担当の美人上司、秋山二葉さん。彼女は普段の落ち着いた姿からは想像もつかないほど、今にも泣き出しそうな表情で困り果てていた。
「このままじゃ契約が破談になったら、どう責任取るつもりだ?」大月部長の厳しい声が飛ぶ。
「ああ、申し訳ございません。私…」秋山さんの声が震える。
このままじゃ彼女が潰される。俺みたいな窓際社員が出しゃばっていい場面じゃないかもしれない。だけど、彼女を助けたくて、俺は深呼吸をして一歩前に踏み出した。
「俺が行きます」
俺の一言で、その場の空気が凍りついた。
「お前が?笑わせるな」部長の鋭い視線が突き刺さる。
だが、俺は決意した。会議室のドアを開け、俺は一歩を踏み出す。これが俺の人生を変える大波乱の幕開けになるなんて、この時は思いもよらなかった。
とある企業でSEとして働く俺、伊藤広之助は、オフィスの隅っこの席でため息をついていた。目の前の机には、誰も手をつけたがらない雑務の山が積み上がっている。他部署から回されてきた些細なクレーム対応の仕事が画面に並んでいる。こんなのが俺の仕事か、と思うこともある。だが、これが自分に任された仕事だ。やるしかない。
「おい」
突然、耳障りな声が飛んできた。振り返ると、案の定、大月部長が不機嫌そうな顔で立っている。
「昨日回したクレーム処理、まだ終わってないのか?お前、一日中何やってるんだ?」
「申し訳ありません。昨日から継続して対応しております。案件の数が多くて」
「言い訳するな。お前みたいな窓際社員が、これくらいのことも処理できないのか。無能すぎるぞ」
その言葉に、オフィス中の視線が一斉に俺に向けられた。だが、俺は表情を変えないようにした。こんなのは日常茶飯事だ。
「わかりました。急いで対応いたします」
「当たり前だ。お前のような腰抜けで役立たずが、いつまでもモタモタしてるんじゃない。口を開けば『すみません』ばかりで、存在価値はゼロだな。さっさと片付けろ。お前にはこの程度の仕事しかできないんだからな」
部長は鼻を鳴らし、捨て台詞を残して立ち去った。俺はゆっくりと椅子に深く腰を下ろす。周りの同僚たちの囁き声が、かすかに耳に届く。
「マジで厳しすぎるよな、大月部長」
「こんなの部長の仕事じゃねえの?」
「ただでさえ忙しいのに、伊藤さんに押し付けるなんて」
俺はその声を聞かないふりをする。確かに不満はある。部長がやるべき仕事を押し付けられて、自分の仕事がどんどん遅れていく。でも、誰かがやらなきゃいけない。俺が我慢すれば、みんなが助かる。そう自分に言い聞かせながら、クレーム対応の資料に目を戻した。画面に映る文字が、少し滲んで見えた。目が疲れているのか、それとも…いや、違う。考え事をしている暇があるなら、作業を進めなければ。俺は深呼吸して、再び仕事に集中する。
カタカタとキーボードを叩く音だけが、静かなオフィスに響く。クレーム対応の文面を何度も読み返しながら、一つずつ片付けていく。そんな時だった。
「大月部長!大変です!」
突然の声に、俺は思わず顔を上げた。営業部の課長で出世頭として噂の秋山二葉さんが、慌てた様子で大月部長の元へ駆け寄っていくのが見えた。艶やかな黒髪のボブカットが、彼女の頬にかかっている。きりっとした眉と大きな瞳、整った鼻筋と小さな唇。まるで人形のように整った顔立ちだ。今にも泣き出しそうな表情が、普段の落ち着いた彼女からは想像もつかない。
部長の目が、ほんの一瞬だけ妙に輝いたような気がした。
「どうした?秋山」
「取引先の方々が、突然アポイントメントなしで来社されたんです。システムの詳細説明を求められていて、私では対応しきれなくて」
秋山さんの声には、普段は見せない焦りが滲んでいる。
「ほう。お前が対応できないとは珍しいな。さすがの秋山でも、ここまでか」
部長は薄く意地悪な笑みを浮かべた。その言葉に、秋山さんの表情が一瞬凍りついた。俺にも部長の意地悪さが伝わってくる。
「え、そうではなく…」
「仕方ない。せっかくの商談を逃すわけにはいかんからな」
部長は大げさな息をついて周囲を見回す。そして、その目が俺に止まった。
「おい」
「はい」
「今すぐ会議室に行って、取引先の連中にシステムの説明をしてこい」
「え、でも私はまだクレーム対応が…」
「黙れ。お前、暇そうにしてただろ。さっさと行け」
部長の声が俺の言葉を遮る。俺は言葉を飲み込んだ。暇なわけじゃない。むしろ山のような仕事がある。でも、そんなことを言っても無駄だ。
「わかりました」俺は小さく答えた。
秋山さんが、申し訳なさそうな、そして少し怯えたような表情で俺を見ている。俺は何も言わず資料を抱えて会議室へ向かう。秋山さんが小走りで追いついてきた。
「伊藤君、ごめん。こんな突然…」
彼女の声には、申し訳なさと焦りが混ざっている。俺は軽く首を振った。
「気にしないでください。仕事ですから」
秋山さんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。その表情に、俺は少し動揺を覚えた。
「ありがとう。英語の通訳は私に任せて。専門的なことは伊藤君にお願いするから」
「わかりました。一緒に頑張りましょう」
俺が頷くと、秋山さんの表情が少し明るくなった。彼女の黒髪が揺れ、ほんの一瞬甘い香りが漂ってきた。俺たちは無言でエレベーターに乗り込んだ。
狭い空間の中で、俺は自分の心臓の鼓動が少し早くなっているのを感じた。緊張のせいだろうか。今は考えている場合じゃない。俺は頭を振って、目の前の仕事に集中しようとした。しかし、隣に立つ秋山さんの存在が妙に気になって仕方がない。
エレベーターのドアが開き、俺たちは重い足取りで会議室に向かった。ドアを開けると、そこには予想以上に大勢の外国人の取引相手たちが待っていた。秋山さんが一歩前に出て、流暢な英語で挨拶を始める。それから、俺に説明をするよう目で合図してきた。
俺が日本語で話す内容を、秋山さんが英語に通訳し、取引相手の人たちに説明する。しかし、その瞬間だった。
「システムについて、スペイン語で説明していただけますか?」
突如、スペイン語でそんな言葉が飛んできた。秋山さんの表情が一瞬凍りつく。
「できれば、フランス語での説明を希望します」
「イタリア語での説明は可能でしょうか?」
今度はフランス語にイタリア語だ。部屋は混沌とした雰囲気に包まれる。秋山さんの肩が小刻みに震え始める。彼女は懸命に対応しようとするが、もはや英語が通じる状況ではない。彼女の顔から血の気が引いていくのが見て取れた。
「あの、どうして黙っているんだ。早く説明してくれ」
そんな内容の言葉が、様々な言語で会議室を飛び交う。俺は秋山さんの背中に冷や汗が滲んでいるのを見た。
「申し訳ございません。私…」
秋山さんの声が震える。普段の落ち着いた姿からは想像もつかない、脆い表情。彼女の瞳に、小さな涙が光る。
このままじゃ、秋山さんが…。俺の心臓が高鳴る。このまま見ているわけにはいかない。
深呼吸をして、一歩前に踏み出した。
「失礼します」
俺の声に、部屋中の視線が一斉に集まる。秋山さんが驚いた表情で俺を見つめている。
「皆様のご要望にお答えできるよう、精一杯務めさせていただきます」
そう言うと、俺はスペイン人らしき男性に向き直り、流暢なスペイン語で会話を始めた。男性の目が、驚きで見開かれる。次に、フランス語で話していた女性に向かって、完璧なアクセントでフランス語を操る。女性は嬉しそうに微笑んだ。そして、イタリア人グループにも、まるでローマで生まれ育ったかのような自然なイタリア語で応対する。
部屋中が静まり返り、秋山さんの口が小さく開いたまま、俺を見つめている。
次の瞬間、まるで堰を切ったように、外国人バイヤーたちから質問が飛び交い始めた。俺は落ち着いた様子で、次々と彼らの質問に答えていく。時にはジョークを交えながら、和やかな雰囲気を作り出していった。システムの専門的な説明も、各言語で的確に行う。バイヤーたちの表情が、次第に柔和になっていくのが分かった。
気がつけば、俺は部屋の中心に立っていた。慌てて横を見ると、秋山さんは感嘆の表情で俺を見つめていた。その瞳に、尊敬の色が宿っているのが分かった。
会議が一段落し、外国人バイヤーたちが資料に目を通している間、秋山さんが俺の元へ駆け寄ってきた。
「伊藤君、すごいわ。まさかあなたがこんなにたくさんの言語を喋れるなんて」
秋山さんの目が輝いている。まるで新しい宝物を見つけたかのような表情だ。
「ねえ、伊藤君、何カ国語話せるの?」
「うーん、そうですね。8カ国語は確実に話せます」
「8カ国語もすごいわ。私なんて英語だけで精一杯なのに」
俺は照れ隠しに軽く頭を掻いた。
「いや、秋山さんの英語だって素晴らしいですよ。僕なんて…」
その瞬間、部屋の向こうで外国人バイヤーの一人が手を上げた。新たな質問があるようだ。
「すみません、行かないと」
「ええ、頑張って」
彼女の笑顔に、俺は勇気づけられる。俺は深呼吸して、再びバイヤーたちの元へ向かった。背中には、秋山さんの視線を感じていた。
商談は予想以上にスムーズに進み、あっという間に成功に終わった。俺は安堵の息をつきながら、取引相手と握手を交わす秋山さんを見つめていた。
「広之助!」
突然名前を呼ばれ、俺は驚いて振り返った。そこには、スペイン側の代表として来ていたカルロスが、満面の笑みで立っていた。
「カルロス!久しぶりだな。まさかお前がSEになっているとは。作曲家になるんじゃなかったのか?」
「音楽とプログラミングって意外と似てるんだ。リズムと論理、創造性と構造。だからSEの仕事も楽しいんだよ。それより広之助こそ、ゲームが好きなのは知っていたが、まさか俺と同じ職についているとはな。そして相変わらず君の語学力には脱帽だ」
カルロスは流暢な日本語で話しかけてきた。俺は照れ臭そうに頭をかきながら答える。
「お前こそ、日本語上手くなったじゃないか。これなら通訳なんていらなかったんじゃないか?」
「いやいや、さすがに専門的な部分になると、全く分からなくてさ。だから『スペイン語で説明してくれ』なんて、秋山さんを困らせることを言ったんだよ。広之助がいるから大丈夫だと思ったんだ」
呆れてため息をつく俺を、カルロスは豪快に笑い飛ばした。その時、秋山さんが俺の傍にやってきた。彼女の目には、好奇心が満ちている。
「伊藤君、あちらの方とお知り合いなの?」秋山さんが小声で尋ねた。
「実は、俺、かつてサッカー留学でスペインに行ってたんです。彼はその時に出会った親友です」
秋山さんの目が大きく見開かれた。
「留学の時に、俺は言語の大切さに気づいたんです。最初は全然言葉が通じなくて。でも、サッカーを通じて少しずつコミュニケーションが取れるようになって、それでもっと上手くなりたいって思ったんです。それで他言語を…」
「他言語を?」秋山さんが促すように尋ねた。
「ええ、サッカーの試合を見たり、海外のニュースを聞いたり、必死で勉強しました。カルロスとの会話も、語学習得に役立ちました」
カルロスが頷く。秋山さんはしばらく黙って俺を見つめていた。そして、柔らかな微笑みを浮かべた。
「伊藤君、すごいね。そんな経験をしていたなんて」
彼女の声には、純粋な感嘆の色が滲んでいる。俺は少し照れ臭そうに目をそらした。
カルロスたち取引先の方々が帰って行った後、俺たちは部長に報告するためオフィスに戻ることにした。オフィスに到着すると、大月部長は険しい表情で俺たちを待っていた。
「伊藤、秋山、どうだった?」
俺が口を開こうとした瞬間、部長は続けた。
「まあ、言うまでもないか。失敗した責任はきちんと取ってもらうからな」
俺は困惑した表情を浮かべる。
「え、でも部長、実は…」
「言い訳はいい。伊藤、どうせお前は何もできずに、秋山に任せきりにしたんだろう。そんな無責任な態度が問題なんだ。お前のような消極的で役立たずの社員がいるから、こんなことになるんだ。もう二度と重要な商談には同席させないからな」
続けて、部長は秋山さんを厳しく睨みつける。
「秋山、お前はどうしてこんな無能を連れて行ったんだ?重要な商談を台無しにしてしまって、どう責任を取るつもりだ?君は優秀だと思っていたのに、こんな失態を演じるとは。判断力を疑うぞ」
部長の言葉に、オフィス中の空気が凍りついた。部長が伊藤君に指示したくせに、と周囲の同僚たちが困惑した表情で俺たちを見つめながら囁いている。
その時、秋山さんが一歩前に出た。
「部長、それは大きな誤解です」
秋山さんの声には、普段聞かれない強い意志が込められていた。部長は眉を潜め、不機嫌そうに彼女を見つめる。
「何が誤解だと言うんだ?秋山」
秋山さんは深呼吸をして、はっきりとした口調で言った。
「商談は成功しました」
「は?そんなまさか」
部長の目が大きく見開かれる。周囲の同僚たちからも、小さな驚きの声が漏れた。秋山さんは顔を輝かせながら続けた。
「はい、大成功です。スペイン、フランス、イタリアの企業全てと契約を結ぶことができました。それは全て、伊藤君のおかげなんです」
「伊藤が?」
部長の声が裏返る。秋山さんは頷きながら、熱心に説明を始めた。
「伊藤君はスペイン語、フランス語、イタリア語を完璧に操り、取引先との交渉を見事にまとめたんです。私の英語力だけでは、絶対に対応できませんでした」
俺は照れ臭そうに目を伏せた。秋山さんの言葉に、オフィス中が静まり返る。
「それだけじゃありません。伊藤君はシステムの専門知識も駆使して、相手の質問に的確に答えていました。取引先の方々はみんな、伊藤君の対応に感銘を受けていましたよ」
「そんな…伊藤が?」
「はい。伊藤君の隠れた才能のおかげで、今回の商談は大成功を収めたんです。私も本当に驚きました」
俺はますます顔が熱くなるのを感じる。秋山さんの言葉に、周囲の同僚たちがざわめき始めた。
「伊藤、本当なのか?」部長がこちらを睨みながら尋ねてきた。
俺は小さく頷く。「はい。まあ、秋山さんと協力して…」
「いいえ、伊藤君、あなたが主役よ。私はただ補助しただけ」
秋山さんが俺の言葉を遮る。すると、部長は椅子に崩れるように座り込んだ。
「なんてことだ…」
オフィス中が俺と秋山さんに注目している。同僚たちの目には、驚きと尊敬の色が浮かんでいた。秋山さんは真剣な表情で続けた。
「大月部長。今回の取引先が訪問日を間違えてしまった原因。システム部の方でも調べてください」
部長は眉を潜め、明らかに不快そうな表情を浮かべた。
「いや、そこまでする必要はないだろう。契約は成立したんだ。余計なことはやめておけ」
「でも、今後同じような問題が起きないようにするためにも、原因究明は重要です。これは我が社の信頼にも関わる問題です」
「誰がそんな調査をするんだ?みんな忙しいんだぞ」
「確かにみんな忙しいです。でも、この調査をしないで同じ問題が再発したら、もっと大変なことになりませんか?」
部長は深いため息をついた。しばらく考え込んだ後、観念したように言った。
「分かったよ。俺が責任を持って調査の指示を出す。これでいいんだな」
「ありがとうございます。それと、今私が受け持っているプロジェクトに、伊藤君を加えることにします」
その言葉に、部屋が静まり返った。部長が突然立ち上がり、声を荒げた。
「待て、秋山。何を考えているんだ。伊藤はただの窓際社員だぞ。重要なプロジェクトに素人を入れるなんて、とんでもない。彼には経験も実績もないじゃないか」
秋山さんは冷静に部長を見つめ返した。
「伊藤君の語学力とシステムの知識は、このプロジェクトにとって大きな資産になります。今日の彼の活躍を見て、それは明らかです」
「一時的な活躍を過大評価するな。リスクが大きすぎる」
「新しい才能を発掘し、活かすのも私たちの仕事ではないでしょうか。伊藤君を加えることで、より効率的に、そして高品質な成果が出せると確信しています」
部長はため息をつき、険しい表情で言った。
「分かった。お前の判断に任せるが、もし何かあれば全てお前の責任だからな。伊藤が失敗したら、お前も一緒に責任を取ることになるぞ」
「はい。その覚悟はできています」
秋山さんは真剣な表情で頷いた。俺は二人のやり取りを聞きながら、胸の中に複雑な感情が渦巻くのを感じた。秋山さんが、これほどまで俺を信頼してくれているなんて。俺は深呼吸をして、決意を固める。ちょうどその時、秋山さんがこちらを見た。
「伊藤君、宜しくね」
「はい。頑張ります」
俺は力強く言った。秋山さんは満足そうに微笑んだ。
「そう言ってくれると思ったわ。これからよろしくね、伊藤君」
新たな挑戦への期待と不安が入り混じる中、俺は静かに頷いた。
翌日、俺は会議室で秋山さんと向かい合って座っていた。なんだか不思議な気分だった。つい昨日まで窓際族だった俺が、こうして重要プロジェクトの打ち合わせをしているなんて。秋山さんは手元の資料を整理しながら、テキパキと説明を始めた。
「では伊藤君、このプロジェクトの概要について説明するわね」
彼女の声は落ち着いていて、自信に満ちていた。秋山さんは海外展開の戦略、システム統合の方針、そして他言語対応の重要性について、次々と具体的なアイデアを提示していく。その一つ一つが綿密に計算され、実現可能性の高いものばかりだった。特に印象的だったのは、各国の文化的背景を考慮したローカライゼーション戦略だ。単なる言語の置き換えではなく、その国の習慣や感性にまで踏まえた提案には、正直驚かされた。
説明が一段落すると、秋山さんは少し緊張した様子で俺を見た。
「どうかしら、伊藤君。何か質問や意見はある?」
「いえ、さすが出世頭と言われているだけありますね。こんな綿密な計画を立てられるなんて、本当に素晴らしいです。それにSEの仕事のことまでよく理解されていて驚きました。技術的な側面まで考慮に入れた戦略立案、本当に関心します」
俺は思わず感嘆を漏らしていた。秋山さんは少し照れたように微笑んだ。ふと、秋山さんの目つきが、少し遠くを見つめるようなものになった。
「実はね、父がSEだったの」
俺は驚いて秋山さんを見つめた。彼女がこんな個人的な話をしてくれるとは思っていなかった。
「父は本当に優秀なSEで、すごい技術を開発していたの。ある時、父が画期的な暗号化アルゴリズムを開発したんだけど…」
秋山さんは少し言葉をつまらせ、深呼吸をしてから続けた。
「その技術、本当にすごかったの。セキュリティを飛躍的に向上させる可能性があったんだけど、父の会社はその価値を理解できなかった。父は必死で説明しようとしたけど、営業部門との連携がうまくいかなくて…」
秋山さんの目に、悔しさの色が浮かぶ。
「結局、その技術は会社の隅に埋もれて、父も窓際に追いやられてしまったわ。その後、大きな病気にかかって、父はこの世を去ってしまって。そして、その数年後よ。他の大手企業が似たような技術を発表して、大々的に宣伝したの」
俺は黙って聞いていた。秋山さんの言葉一つ一つに、強い思いが込められているのが伝わってきた。
「そのニュースを見た時、私は気づいたの。どんなに素晴らしい技術でも、それを理解し、世に知らしめる人がいないと日の目を見ないんだって。技術者の思いを理解し、その価値を世界に伝えられる人が必要なんだって」
秋山さんは決意を込めた表情で続けた。
「だから私は思ったの。そうだ、営業になろうって。でも、単なる営業じゃなくて、技術も理解できる営業に。優れた技術を持つ人たちの橋渡しになりたいって。そのために、SEの知識も必死で勉強したのよ」
俺は秋山さんの言葉に、深く心を動かされた。彼女の背景に、こんな思いがあったなんて、俺は知らなかった。秋山さんは少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「父はすでに亡くなってしまったけど、私がSEと営業の架け橋になろうとしていることを、きっと喜んでくれていると思うの。だから伊藤君、あなたのような優秀なSEの力を最大限に活かせるよう、私も全力を尽くすわ。一緒に素晴らしいものを作り上げましょう」
秋山さんの言葉に、俺は驚きと戸惑いを感じた。
「いえ、秋山さん、俺なんかまだまだ未熟で、優秀なんてとても…」
俺は慌てて言った。その言葉に、秋山さんは眉を潜めた。
「もう伊藤君、そんなに自分を過小評価しちゃだめよ。今日の君の活躍を見てご覧なさい。あれだけの語学力とシステムの知識を持っていて、どうしてそんな風に思うの?」
彼女は少し困ったように、でも優しく言った。俺は言葉に詰まった。確かに、この間の商談では、普段の自分では考えられないようなパフォーマンスを見せていた。でも、それはたまたまのことだと思っていた。
「伊藤君、あなたにはもっとポテンシャルがあるはずよ。それを発揮できていないのは、本当にもったいないわ」
「もったいないですか?」俺は戸惑いながら聞き返した。
「そうよ。語学力だけじゃない。システムへの深い理解、問題解決能力、そして何より人とコミュニケーションを取る力。全てが揃っているのに、どうして今まで埋もれていたのかしら」
秋山さんは真剣な表情で俺を見つめた。彼女の言葉が、今まで考えたこともなかった自分の姿を映し出しているようで、戸惑いを感じた。
本当に俺に、そんな力があるのか?これまでの日々を振り返ってみる。確かに、システムの問題に直面した時、内心では解決策を思いつくことが多かった。でも、それを口に出すことはほとんどなかった。なぜだろう。そう考えると、今までの自分の行動パターンが鮮明に浮かび上がってきた。部長の指示を黙って聞き、言われた通りに仕事をこなす。同僚たちの意見に頷くだけで、自分の考えを述べることはない。
そうか。俺は…。俺は今まで、自分の意見なんて価値がないと思っていたんだ。
「どうしてそう思ったの?」言葉に詰まる俺に、彼女は優しく尋ねた。
俺は言葉を探しながら答えた。
「いつも部長や先輩方の意見の方が正しいんじゃないかって。それに、新しいアイデアを出すのが怖くて…」
「そう…そういう気持ち、分かるわ。新しいことを言うのは勇気がいるものね。でもね、伊藤君の意見や考えは、プロジェクトに大きな価値をもたらすはずよ」
「本当ですか?」
「ええ、本当よ。君の語学力とシステムの知識、コミュニケーション能力。それらを組み合わせた君の視点は、他の誰にもないものだわ。だからこそ、もっと自信を持ってちょうだい。私はあなたの意見が欲しいの」
秋山さんが俺の手を取る。思わず心臓が跳ねた。俺を見上げる秋山さんは、少し頬が赤くなっているように見える。距離の近さにドキドキと胸を高鳴らせながらも、秋山さんの言葉が俺の中で何かを動かした。
そうだ。もう逃げちゃいけない。俺は深呼吸をして、秋山さんをまっすぐ見つめ返した。
「秋山さん、ありがとうございます。これからは、自分の意見をしっかり言っていこうと思います。このプロジェクトのために、そして、自分自身のためにも」
「うん、その意気よ。これからの伊藤君が楽しみだわ」
「頑張ります。秋山さん、これからよろしくお願いします」
秋山さんの顔に、明るい笑顔が広がった。そして、俺たちは固く握手を交わした。
プロジェクトが本格的に動き出してから数日が経った。俺と秋山さんは会議室で熱心に打ち合わせをしていた。資料やグラフが散らばるテーブルの上で、俺たちは新しいシステムの設計について議論を交わしていた。その時だった。会議室のドアがノックされ、大月部長が顔を覗かせた。
「ちょっといいか、秋山」
「はい。大月部長、どうされました?」
秋山さんは少し驚いた様子で立ち上がった。部長は俺に一瞥をくれてから、秋山さんに近づいた。彼は声を潜めて話し始めたが、静かな会議室では、その言葉が俺にもはっきりと聞こえてきた。
「秋山、伊藤のことだが、彼にあまり負担をかけすぎないように気をつけてくれないか?」
「どういうことでしょうか?」秋山さんは首を傾げた。
部長は咳払いをして続けた。
「いやあ、彼はまだ経験が浅いだろう。急に重要な仕事を任されて、プレッシャーを感じているんじゃないかと心配でね」
俺は耳を疑った。部長が、俺のことを心配している?秋山さんは部長の目をまっすぐ見て答えた。
「ありがとうございます。ご心配いただいて。でも、伊藤君は十分にこなせていますよ。むしろ、彼の能力をもっと活かせていないくらいです」
「しかし、伊藤にはシステム部の仕事もあるんだ。そっちに影響が出ては困る」
部長は眉を潜めた。その言葉を聞いて、俺は一瞬躊躇した。しかし、先日の秋山さんとの会話を思い出し、深呼吸をして立ち上がった。
「失礼します、部長。システム部の仕事については、すでに全て終わらせています」
俺は声に力を込めた。部長と秋山さんが、驚いたように俺を見つめる。
「もう終わらせているだと?嘘をつくんじゃない。大したことない仕事を翌日に持ち越すほどの無能のくせに」
「今までいつも仕事が多かったのは、部長がやるべき仕事を、私が代わりにしていたからです」
俺は冷静に、しかしきっぱりとした口調で言った。部長の目が大きく見開かれる。俺は続けた。
「申し訳ありませんが、はっきり言わせていただきます。部下は上司の作業の請負人になるためにいるのではありません。本来の仕事に集中できる環境が必要です。それに、秋山さんは私の才能を買ってくれています。そういう上司と仕事がしたいんです。自分の能力を正当に評価し、伸ばす機会を与えてくれる人と働くことが、会社にとっても私個人にとっても最良だと考えています」
言い終えると、部屋に沈黙が降りた。部長は言葉を失ったように立ち尽くしている。その静寂を破るように、秋山さんが一歩前に出た。彼女の表情は、真剣そのものだった。
「大月部長。伊藤君と協力することについては、すでに上の許可を得ています」
秋山さんの声は落ち着いているが、力強さに満ちていた。部長の目が大きく見開かれる。
「上って…」
「はい。このプロジェクトの重要性を説明し、最適な人材として伊藤君を推薦しました。専務も彼の能力を高く評価してくださいました」
部長は困惑した表情を浮かべたが、秋山さんは続けた。
「そして、もう一つ重要なことがあります。現在、スペインの大手企業と、これまで以上に大きな商談を結ぼうとしています。この案件は、我が社の今後を左右する可能性のある、重要なものです」
彼女は一瞬俺を見てから、再び部長に向き直った。部長の表情が変わった。
「スペインの…そんな大きな話があったとは」
「はい。そして、この商談において、伊藤君の協力が必要不可欠なんです。彼の語学力とシステムの知識、そして先日の商談での実績。これらなくしては、この案件を成功させることは難しいでしょう」
秋山さんは力強く言った。俺は秋山さんの言葉に驚きながらも、自分に対する信頼の大きさを感じていた。部長は言葉を失ったらしく、拳を軽く握りしめると、重い足取りでドアに向かった。ドアの取っ手に手をかけたところで、部長は一瞬立ち止まった。振り返ることはなかったが、その姿からは、隠しきれない後悔と悔しさが滲み出ていた。
「分かった…秋山、頼んだぞ」
部長の声は、普段の威勢の良さを失っていた。ドアが閉まる音が、部屋に響く。俺と秋山さんは、しばらくの間、ただ黙ってドアを見つめていた。
静寂が流れる中、秋山さんが俺の方に向き直った。彼女の目には、少し不安げな色が浮かんでいた。
「ねえ、伊藤君。さっきのこと…本当に、一緒に仕事したいって…」
秋山さんの声は、いつもより少し柔らかかった。その言葉に、俺は驚いて秋山さんを見つめ返した。彼女の表情には、期待と不安が入り混じっている。
「もちろんです。秋山さん、あなたと一緒に仕事がしたいんです。それは、本心からの願いです」
俺は迷わず答えた。秋山さんの目が、少し潤んだように見えた。俺は言葉を選びながら、心からの思いを伝えた。
「秋山さんは、本当に素晴らしい人です。優れた営業スキルだけでなく、技術への深い理解。そして何より、人の可能性を信じて引き出そうとする力があります。俺のようなものの価値を見出し、チャンスをくれた。そんな秋山さんと一緒に仕事ができるなんて、この上ない喜びです。秋山さんのような人と働けることを、心から誇りに思います」
言い終えると、部屋に再び静寂が訪れた。秋山さんは、少し驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべていた。
「伊藤君、ありがとう。私もあなたと一緒に仕事ができて、本当に嬉しいわ。でも、そんなに褒められると、調子に乗っちゃうかもしれないわよ」
彼女は少し冗談めかした口調で言った。思わず笑みがこぼれる。
「ええ、本当のことを言っただけです」
俺の言葉に、秋山さんは少し寂しげな表情を浮かべた。彼女の目に、これまで見たことのない複雑な感情が宿っているのを感じた。
「ありがとう、伊藤君。でも、みんながあなたのように思ってくれているわけじゃないの」
秋山さんは静かに言った。彼女は窓の外を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「こういう性格だからね。妬みも多いし、『女のくせに』って言われることもあるわ。意味不明な嫌がらせもあるのよ。書類が突然なくなったり、大事な連絡が『うっかり』伝わらなかったり…」
秋山さんの声には、苦いものが混じっていた。俺は、驚きと怒りで言葉を失った。秋山さんのような優秀な人でさえ、こんなに不条理な扱いを受けているなんて。
「どうして、上に報告せずに黙ってるんですか?」俺は思わず聞いてしまった。
秋山さんは俺を見つめ返した。その目には、強さと同時に、かすかな疲れが浮かんでいた。
「誰かを頼ったら、それこそ『弱い』って思われるでしょ。だから、いつも一人で立ち向かってきたの。弱音を吐くわけにはいかなかった」
彼女は苦笑いを浮かべた。その瞬間、俺は秋山さんの新たな一面を見た気がした。いつも強くて頼もしい彼女が、実は孤独な戦いを続けていたなんて。俺は秋山さんの強さと同時に、彼女の中にある弱さを感じた。いつもみんなを引っ張っている彼女も、時には支えを必要としているんだ。
「秋山さん、一人で抱え込まなくてもいいんですよ。俺たちはチームなんですから」
俺は言葉を探した。秋山さんは、少し驚いたような顔をした。そして、少しずつ、その表情が柔らいでいく。
「ありがとう、伊藤君。こんな風に素直な気持ちを話せる人は、あまりいなくて。あなたになら話しても大丈夫だと思ったの。そのことが、本当に嬉しいの」
見上げるようにして俺を見る秋山さんと目が合った瞬間、今まで俺たちの間にあった見えない壁が、音もなく崩れ落ちていくような気がした。秋山さんの目は、今までとは違う輝きを帯びていた。俺の胸の中で、何かが大きく動いた。今まで上司としか思っていなかった秋山さんが、一人の女性として、俺の目の前にいる。
俺たちの間に流れ始めたのは、言葉では言い表せない、甘くて切ない空気。俺は思わず、秋山さんの手を取っていた。彼女の手は、少し冷たい。でも、不思議と心地よい。
「秋山さん、俺はあなたの味方です。何があっても、秋山さんについていきます」
俺は真剣に言った。秋山さんの顔がわずかに赤くなり、その目に小さな涙が光った。彼女が、俺の手をギュッと握り返してきた。
「ありがとう。私も、あなたの味方よ」
そう言った後、彼女は顔をゆっくりと俺に近づけてきた。俺は息を止める。その時、廊下に足音が聞こえた。俺たちは慌てて離れる。秋山さんはすぐにいつもの落ち着いた表情を取り戻したが、その頬はまだ薄紅色に染まっていた。
「秋山さん、あの…双葉さんって呼んでもいいですか?」
俺は勇気を振り絞った。彼女の目が大きく見開かれる。そして、柔らかな笑顔が広がった。
「ええ、もちろん。私も…広之助君って呼ぶね」
俺の心臓が大きく跳ねた。自分の名前が、こんなにも特別に聞こえたことはない。
「わかりました、双葉さん」
「ありがとう、広之助君」
名前を呼び合うだけで、俺たちの関係は一気に親密になった気がした。オフィスという場所を忘れそうになる。
「じゃあ、仕事に戻りましょうか」双葉さんが言った。その声には、新しい甘さが混じっているような気がした。
スペインの大手企業との契約締結に向けた、最終プレゼンテーションの日が来た。会議室には緊張感が漂う。俺と双葉さんは、何度も練習を重ねたプレゼンの資料を前に座っている。向かい側には、スペイン企業の重役と、取引担当のカルロスが並んでいた。双葉さんが流暢な英語で開始の挨拶を述べ、プレゼンテーションが始まった。最初は順調に進んでいた。しかし、システムの技術的な説明に入ったところで、突如として事態は急変した。
「すみません。ちょっと待ってください。この仕様書の内容が、先日送っていただいたものと異なっているように思えるのですが」
カルロスが手を挙げて割り込んできた。彼の表情には、困惑の色が浮かんでいる。双葉さんが一瞬戸惑う。
「申し訳ありません。具体的に、どの部分でしょうか?」
カルロスが指摘した箇所を見て、俺は愕然とした。確かに、先日の打ち合わせで決定した内容と、今回のプレゼン資料の内容が大きく異なっている。しかし、なぜこんなことに…。部屋の空気が一変する。スペイン側の重役たちの間で、不安げな視線が交わされる。カルロスは、困ったように眉を潜めている。
「これは大きな問題ですね。こんな重要な変更を、事前に連絡もなく…。信頼に値する取引相手とは思えません」
スペイン側の重役の一人が、厳しい口調で言った。双葉さんの顔が青ざめる。
「これ以上の話し合いの必要はないでしょう。我々の時間を無駄にされたようですね。この契約は白紙に戻します」
スペイン側の代表が、冷たく言い放った。その言葉に、会議室の空気が凍りついた。双葉さんは言葉を失い、唇を震わせている。彼女の目には、これまで見たことのない絶望の色が浮かんでいた。
「待ってください!もう一度チャンスを…!」
双葉さんは必死に言った。しかし、スペイン側の重役たちはすでに立ち上がり、書類を鞄に詰め始めていた。カルロスも、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、重役たちに従おうとしている。
俺の心臓が激しく鼓動を打つ。頭の中が真っ白になりそうだった。このまま終わらせるわけにはいかない。でも、どうすれば…。俺は、変更されている資料をじっと眺めた。突如、アイデアがひらめいた。リスクは高いが、逆転のためにはやるしかない。次の瞬間には、俺は立ち上がっていた。手が少し震えているのを感じたが、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。全員の視線が、俺に集まる。
「セニョール達、最後に3分だけお時間をいただけないでしょうか?」
俺はスペイン語で、できる限り落ち着いた声で話し始めた。カルロスと重役たちが足を止め、驚いた表情を浮かべる。俺は双葉さんに小さく頷きかけると、自信を持って続けた。
「私たちのミスは申し訳ありません。しかし、この変更には、皆様にとって測り知れない価値があるのです」
俺は流暢なスペイン語で、変更の背景にある技術的な利点を説明し始めた。システムの互換性や将来の拡張性について、具体的な例を挙げながら丁寧に解説する。
「つまり、この変更により、御社の基幹システムとの統合がより容易になり、将来的なアップグレードの際のコストも大幅に削減できるのです」
「なるほど…そういう意図だったのですね」
カルロスの目が輝き始めた。俺は頷き、さらに踏み込んだ。
「もし御社のご要望であれば、今ここで両方の仕様の詳細な比較を行い、最適な解決策を一緒に考えることもできます」
重役たちの間で、小声の議論が始まる。その間、俺は双葉さんに向かって小さく微笑んだ。彼女の表情に、驚きと安堵の色が浮かんでいるのが見えた。しばらくして、カルロスが声を上げた。
「わかりました。その比較を聞かせていただけますか?」
俺は安堵の息を胸の内に秘めて、「もちろんです」と答えた。
そこから一時間、俺は双葉さんと協力しながら、旧仕様と新仕様の詳細な比較を行った。双葉さんが英語で全体の流れを説明し、俺がスペイン語で技術的な詳細を補足する。最終的に、カルロスは満足げな表情で言った。
「素晴らしい説明でした。この変更は、確かに我々にとってもメリットがありそうです。さらなる詳細な協議を進めましょう」
カルロスの言葉に、会議室の空気が一変した。緊張が溶けていく中、スペイン側の重役たちも同意の意を示した。会議は予想以上に順調に進み、両者の協力関係を深めていくことで合意に至った。
全員が席を立ち、握手を交わし始めた頃、カルロスが俺に近づいてきた。
「少し話せるかい?」カルロスは柔らかな笑顔で言った。
俺たちは会議室の隅に移動した。双葉さんは他の重役たちと挨拶をした後、会議室を出ていった。
「君の提案…あれは、あの場で思いついたものだよな」
俺はぎくりと身を固くした。
「こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけど、あの変更は、俺と双葉さんがやったものじゃないんだ。カルロスに指摘されるまで、気づかなかったんだ」
必死に言い繕う俺に、カルロスは優しい表情のまま首を横に振った。
「俺が君のことを信じないわけないじゃないか。覚えているかい?中学の時、俺が不注意で隣の子の答案を見てしまった時のこと」
「ああ、あれか。先生には気づかれなかったけど、君は罪悪感でいっぱいだった。このまま隠し通すべきかどうか、君は俺に相談してきたよね」
「ああ。あの時、君は迷わず『正直に先生に話すべきだ』と言ってくれた。最初は怖くて躊躇したけど、君の『誠実さこそが最も大切だ』という言葉に勇気づけられたんだ。それに、君は俺に付き添って、先生に事情を説明するのを手伝ってくれた」
カルロスの目に、感謝の色が浮かんだ。
「結果的に、先生は俺の正直さを評価してくれて、追試のチャンスをくれたんだ。君の言葉が、俺を正しい道に導いてくれた。そんな君が、土壇場での仕様変更を、俺たちに通さずに会議に出すなんて、不誠実なことをするわけがない」
カルロスは真剣な表情で言った。俺は、感動で言葉を失っていた。
「カルロス、本当にありがとう。俺を信じてくれて」
「お安い御用さ。だって、俺たち親友だろ?」
カルロスは微笑んだ。その言葉に、また胸が熱くなる。
「ええと、しかし今回は広之助の機転で窮地を得たけど、今後こんなことがあっちゃ困る。原因をしっかり探ってくれ。俺に協力できることがあれば、なんだって手伝うからな」
「うん。ありがとう」
俺とカルロスは、しっかりと抱擁を交わした。
カルロスとの会話を終えて会議室を出ると、双葉さんが俺を待っていた。彼女の表情には、何か言いたげな色が浮かんでいる。
「広之助君、ちょっとついてきてほしいの」
有無を言わさない彼女の様子に、俺は黙って頷いた。双葉さんが向かったのは、大月部長のところだった。部長は少し驚いた顔をした。
「おや、秋山か。伊藤も一緒か。どうしたんだ?」
「失礼します、大月部長。先日の商談の件で、確認したいことがありまして。日付を間違えた原因は、分かりましたか?」
双葉さんの声は冷静だったが、俺には彼女の緊張が伝わってきた。部長の表情が一瞬曇るのを、俺は見逃さなかった。
「ああ、あの件か。まだ調査中だ。システムの不具合かもしれんな」
部長は平静を装おうとしたが、声にわずかな動揺が混じっている。双葉さんは一歩前に出た。
「実は、私が個人的に調べてみたんです」
「なんだと?」
「システムログを確認したところ、日付の変更は、部長のアカウントから行われていたことが分かりました」
双葉さんの声に、わずかな怒りが滲んでいた。部長の顔が青ざめる。
「そ、それは…」
「それに、大月部長はプロジェクトに直接関わっていないはずなのに、最近、夜間に細かい指示を出してきていましたよね。そちらもおかしいなと思って調べたんです。そしたら…私たちの資料をこっそり見ていた形跡や、深夜の時間帯にオフィスに戻っていくところを見かけたという目撃情報を入手しました。今回の仕様変更も、あなたがやったのではありませんか?」
双葉さんは、畳みかけるように続けた。俺は双葉さんの背中越しに、部長の反応を観察していた。部長の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
「な、何を言っているんだ、秋山。証拠があるのか?」
「あります。さっき会議が終わってすぐにログを取得しました。ご覧ください。仕様変更が行われた時刻、使用されたアカウント、全て記録されています。そして、このアカウントの使用者は、大月部長、あなたです」
彼女はスマートフォンで別のファイルを開き、部長に向けて画面を見せた。部長は、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。
「私たちのプロジェクトを妨害しようとしていたんですね。なぜですか?大月部長」
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。俺は息を飲んで、次の瞬間を待った。大月部長は、長い間俯いたままだ。その肩が、小刻みに震えているのが見えた。やがてゆっくりと顔を上げると、その目には諦めと悔しさの色が浮かんでいた。
「そうだ…。俺は…秋山、お前を失脚させようとしていたんだ」
部長の声は掠れていた。双葉さんの瞳が、驚きで見開かれる。
「私を…?でも、どうして…」
「お前の父親は、秋山新馬だろう」
部長は深いため息をついた。双葉さんは困惑した表情を浮かべた。
「ええ。そうですが、父がどうかしましたか?」
「奴は、俺のライバルだった…」
大月部長の目は、遠い過去を見つめているようだった。俺と双葉さんは、息を飲んで聞き入った。
「奴は天才的なSEで、技術をどこまでも極めようとしていた。新しいアイデアを次々と生み出し、誰もが彼の才能を認めていた。だが、俺には彼の考えが理解できなかった。技術だけを追求して、ビジネスの現実を無視している。そう思っていたんだ」
部長は深いため息をついた。
「ある日、新馬が画期的な暗号化アルゴリズムを開発した。セキュリティを飛躍的に向上させる可能性があったんだ。だが…」
双葉さんが、小さく息を飲む音が聞こえた。
「そう。お前も知っているだろう。その技術の価値を、会社が理解できなかったんだ。そうさせたのは、俺だ」
部長の表情が歪んだ。
「俺たちは同じシステム部にいたが、考え方は大きく違ってた。俺は既存のシステムの安定性と効率を重視していた。新技術の導入にはリスクがある。そのリスクを取るべきじゃないと主張したんだ。そして、会社の上層部は俺の主張を採用した。新馬の技術はリスクが高すぎると判断されたんだ。そして、奴の技術が日の目を見ることはなかった。…悔しかったんだよ」
部長は拳を握りしめた。
「その日以来、俺と奴は袂を分かつことになった。俺はシステム部の管理職として既存システムの維持と改善に力を入れ、新馬は新技術の研究開発に没頭していった。そして、あっさりと俺の目の前から消えた。その後だ。似たような技術が他社から発表され、大成功を収めたのは…」
部長の声が震えた。
「俺は、自分が正しいと証明したかったんだ。奴が考えたのと同じ技術が成功するなんて、ありえない。新馬の考えは間違っていて、俺の選んだ道こそが正しいんだと。だから、お前が入社してきた時、俺は恐れたんだ。お前が成功すれば、新馬の考えが正しかったということを、認めなければならなくなる。それだけは、したくなかった…」
重苦しい沈黙が、部屋を満たした。しばらくして、双葉さんがゆっくりと口を開いた。その声は静かだが、確かな強さを秘めていた。
「大月部長。生前、父はよく私に仕事のことを話してくれました。父にはライバルがいたそうです。技術の方向性でよく衝突したけれど、その議論が父を成長させたと」
双葉さんの目に、懐かしさの色が浮かんだ。部長は息を飲む。
「父は、そのライバルのことを話す時は、いつも楽しそうでした。『あいつとの論争があったからこそ、自分の考えを磨けた』『あいつのおかげで、自分の信念を貫く強さを得られた』『道は違えど、あいつのおかげで今の自分がある』って、最後までそう言っていました。大月部長のお話を聞いて、分かりました。父の言っていたライバルは、大月部長のことだったんですね」
双葉さんの言葉が部屋に響き渡ると、突然の静寂が訪れた。部長の目に、大粒の涙が浮かび上がる。その涙は、まるで長い年月の重みそのもののように、頬を伝って落ちていった。
「新馬が…そんなことを…」
部長は言葉をつまらせ、両手で顔を覆った。その肩が、小刻みに震えている。長年抑え込んできた感情の堰が、一気に決壊したかのようだった。
「すまない…すまない。俺は、俺はなんてことを…。お前は最後まで、俺のことを、そんな風に…」
部長は顔を上げ、天井を見上げた。その目からは、とめどなく涙が流れている。俺は目の前で繰り広げられる光景に、言葉を失っていた。長年の確執、誤解、そして後悔。それらが全て、この瞬間に溶け出しているようだった。
部長は、深く長い息を吐いた。それから、双葉さんを見つめた。その目には、これまで見たことのない柔らかさがあった。
「秋山…。お前の父は、本当に素晴らしい男だった。俺はそのことを素直に認めず、挙句の果てには、娘であるお前にひどいことを…。どうか、申し訳なかった」
部長は、双葉さんに向かって深く頭を下げた。
「いえ…。分かってくれたのなら、父も草の陰から喜んでいると思います」
双葉さんは、静かに部長を見つめた。彼女の目にも、涙が光っていた。
それから一週間が経った。部長の不正が明るみに出て以来、会社は騒然としていた。俺と双葉さんは、毎日のように人事部や上層部との会議に呼び出され、経緯を説明させられた。そして今日、大月部長の処遇が発表された。部長は解雇となった。ただ、大月部長本人から、自身の経験を生かし業界の発展に貢献したいという申し出があったそうだ。会社はその意向を尊重して、関連のNPO法人を紹介することにしたらしい。
「どう思いますか?」
発表を聞いた後、双葉さんと俺しかいない会議室で、彼女にそう尋ねた。双葉さんは少し考えてから答えた。
「正直、複雑な気持ちはあるけど…これが最善の結果だったんじゃないかな」
双葉さんの言葉に頷きながら、俺は自分の携帯電話が震えたことに気づいた。メールだ。
「ちょっと待っててください」
俺は双葉さんに言って、メールを確認した。目を通すと、俺の顔に笑みが広がった。
「どうしたの?」
「カルロスからです。彼の会社と、正式に契約が成立したって」
俺は興奮を抑えきれずに言った。双葉さんの目が、大きく見開かれる。
「本当?やったわね!」
「しかも、想定以上の好条件らしいです。俺たちの提案した新しいシステム構想が、向こうの経営陣に大きな印象を与えたみたいですよ」
「さすが広之助君。あなたの語学力と技術力が、こんな素晴らしい結果を生んだのね」
双葉さんの言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。彼女の瞳が、いつも以上に輝いて見える。その笑顔に、俺は思わず見蕩れてしまった。
「いや、そんな…。双葉さんのおかげですよ。あなたがいなければ、ここまでできませんでした」
俺は少し視線をそらした。俺たちは、人のいない会議室に二人きりでいた。窓から差し込む夕日が、双葉さんの横顔を優しく照らしている。
今なら、言えるかもしれない。俺は深呼吸をして、勇気を振り絞った。
「あの…双葉さん」
「何?広之助君」
彼女が俺の方を向いた。その瞳に映る自分の姿に、俺は言葉を失いそうになる。俺は再び深呼吸をした。心臓が、今にも飛び出しそうなほど激しく鼓動している。
「双葉さん…。俺は、あなたのことが好きです」
沈黙が流れた。双葉さんの目が、大きく見開かれる。
「ずっと言えずにいました。でも、もう我慢できなくて…。あなたと一緒に仕事をするうちに、どんどん好きになっていって…」
双葉さんの頬が赤く染まっていく。彼女の唇が、少し震えている。双葉さんは、しばらく黙っていた。俺の心臓の鼓動が、部屋中に響いているように感じる。そして、彼女がゆっくりと口を開いた。
「私も…広之助君のことが好き」
俺は耳を疑った。双葉さんが微笑む。
「私も言えずにいたの。でも、今の広之助君の勇気に、私ももう隠せなくなった」
俺は思わず、双葉さんに一歩近づいた。彼女も、同じように一歩前に出る。俺たちの間の距離が、急に縮まる。双葉さんの瞳に映る自分の姿が、今まで以上に大きく感じられた。指先が、そっと触れ合う。彼女の手が、少し震えている。俺も、同じくらい緊張していた。
「双葉さん…。これからも、一緒にいてくれる?仕事も、プライベートも、全部」
俺は彼女の手を強く握った。双葉さんの目に、小さな光が光る。
「うん…。もちろん。ずっと一緒だよ」
彼女は、俺の胸に顔を埋めた。俺は、双葉さんを優しく抱きしめた。彼女の体温が、俺の中に染み込んでいく。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。その赤くて綺麗な光が、俺たちを祝福してくれているかのようだった。
今まで、俺は自分の意見なんて価値がないと思ってた。だけど、双葉さんが「もっと自信を持って」と、俺の意見を聞いてくれたおかげで、俺は勇気を持てた。今では、自分の考えを伝えるのが怖くない。伝えることで、新しい可能性が開けると分かったから。これからも、自分の意見をしっかり持って、それを伝えていく。そうすることで、俺も周りも、もっと成長できるはずだから。



