祭りの夜、突然彼女に「先生が手術してくれたらいいのに」と言われた。何も知らないからこそ出た言葉のはずだった。だが、私は知っていた。目の前で笑っている女性の夫を、私は四年前に手の上で亡くしていた。それも、自分のミスではないのに、罪を被って。その晩、嵐の中、彼女の息子が心不全で倒れた。駆けつけた私の手を、彼女は涙で濡れた目で見つめて言った。「先生、一体何者なんですか」。私はただ、「ただの医者です…

祭りの夜、突然彼女に「先生が手術してくれたらいいのに」と言われた。何も知らないからこそ出た言葉のはずだった。だが、私は知っていた。目の前で笑っている女性の夫を、私は四年前に手の上で亡くしていた。それも、自分のミスではないのに、罪を被って。その晩、嵐の中、彼女の息子が心不全で倒れた。駆けつけた私の手を、彼女は涙で濡れた目で見つめて言った。「先生、一体何者なんですか」。私はただ、「ただの医者です...

八時を少し回った頃、診療所の引き戸が開いて最初の患者が入ってきた。みわさんだ。また膝が痛いと言う。村の年寄りは皆、同じことを言う。他に医者がいないから、そう言うしかないだけだ。俺は黙って血圧計を巻いた。ここに来て四年。この村でたった一人の医者になった。

片山おむ、四十八歳。大学病院で心臓外科医をしていたが、ある手術で患者を亡くし、医療裁判の末に職を失った。村に流れ着くようにして診療所を開いた。それだけの話だと思っていた。

昼を食べようとした矢先、玄関が乱暴に開いた。息を切らした少年が飛び込んでくる。ハルトだ。
「先生、お母さんが、お母さんが転んで」
「落ち着け、ハルト。どこで転んだんだ」
「畑の段差で、足すごく腫れてて立てないんだ」

俺は握り飯を置いて立ち上がった。看護師の水原がもう診察鞄を手にしている。畑に着くと、ハルトの母、みおさんが座り込んでいた。左の足首が青く腫れ上がっている。診てみると骨に異常はない。酷い捻挫だ。水原が手早く処置をする。不安そうな顔のハルトを見て、俺は頭を軽く撫でた。

高みお、三十五歳。シングルマザーで、ハルトを一人で育てている。ハルトには先天性の心臓疾患がある。明るくてよく笑う子だ。心臓に爆弾を抱えているなんて、知らない者には絶対にわからない。

診療所に戻る途中、水原が小さな声で言った。
「先生、最近少しお顔が柔らかくなりましたね」
「そうですか。自分では分かりませんが」
「ハルト君の前だけは、ですけど」

俺は黙ってエンジンをかけた。柔らかくなったと言われても困る。俺は部合でいなければならない。そう決めてこの村に来たのだ。

夜、自宅を兼ねた奥の部屋で机に向かうと、いつもの封筒が届いていた。差出人の名前はない。だが誰からかは分かっている。三沢竜二。大学病院時代の元上司だ。手紙にはこう書いてある。
「最新の準備は少しずつ進んでいる。あと少しだ。耐えてくれ」

俺は手紙を引き出しの奥にしまった。そこには四年分の同じような封筒が重なっている。

あの日、俺はある手術で患者を失った。みおさんの夫だった。手術の判断を下したのは俺だ。ミスがあったとされ、俺は全ての責任を負った。だが本当のところ、ミスをしたのは俺ではなかった。若い研修医のミスだった。俺はその男の未来を潰したくなかった。だから黙って責任を引き受けた。

そして、この村に来た。亡くなった男の家族が、ここにいると知ったからだ。妻と、生まれたばかりの息子。心臓に病を抱えた息子。つぐないと言えるほど立派なものではない。ただ見届けたかった。あの男の残した家族が、ちゃんと生きていけるかどうかを。

その夜、玄関が叩かれた。村長の藤崎だった。六十歳、村長を二十年やっている男だ。よそ者に厳しく、俺のことを今でも完全には信用していない。
「先生、村に来て四年になるかね」
「ちょうど四年です」
「あんた、どこで何をしておったんじゃ。来月、保険所から監査が入るらしい。何かあれば先に話しておいてもらえると助かるんだがな」
「特にお話しすることはありません」

藤崎は立ち上がり、こう残した。
「村の者はみんなあんたに世話になっておる。それは本当だ。だがな、わしらはよそ者には慣れておらん。それだけは覚えておいてくれ」

夏祭りの夜だった。俺は診療所の縁側で麦茶を飲んでいた。念のため詰めているだけだ。境内では太鼓が鳴り、子供たちが屋台を走り回っている。ハルトもその一人だ。

「先生、先生も食べる? 」
「綿菓子で十分だ。お前、もう何個目だ? 」
「二個目。お母さんには内緒だよ」
「医者にはすぐバレるぞ」

ハルトが口を尖らせて笑った。後ろから松葉杖をついたみおさんがゆっくり歩いてくる。足はまだ完全には治っていない。彼女は縁側に腰を下ろした。祭りの明かりが横顔を照らしていた。

「ハルト、来月の病院で精密検査なんです。先生、正直に聞かせてください。ハルトの心臓は、大丈夫なんでしょうか」

俺はすぐには答えられなかった。医者として答えるなら、言葉はいくらでもある。だが目の前にいるのは患者の家族だ。そして、四年前に俺が夫を死なせた女性だ。

「今の段階で悪くなっているわけではありません。手術になれば、いい先生を紹介します。心配はいりません」
「先生が手術してくださったらいいのに」

何気ない言葉だった。
「俺はもう執刀はしないんです」
「そうなんですか。もったいないですね」

みおさんはそれ以上、聞かなかった。ハルトがヨーヨー片手に駆け戻ってくる。
「先生見て、二つも釣れたよ」
「うまいじゃないか。手先が器用だな」
「大きくなったら先生みたいなお医者さんになるんだ」

俺は何も答えずに、ハルトの頭に手を置いた。

九月に入って最初の月曜日、朝から黒い車が診療所の前に止まった。保険所の監査だ。職員たちはカルテの管理、薬品の在庫、保険請求の処理と淡々と質問を続ける。俺は一つ一つ丁寧に答えた。診療の記録は、水原のおかげで全て整っている。

「先生、一つ伺ってもよろしいですか。大学病院にいらした頃、医療事故の件で報道があったかと。あの件について、現在も何か再審査中ということはございませんか」
「裁判は四年前に終わっています。判決も出ています」
「こちらに問い合わせがありまして。村から不安の声が出ているようでしたので、念のため」

誰が問い合わせたか、検討はついた。藤崎だろう。あの夜、わざわざ尋ねてきた理由がこれで分かった。

職員たちが帰った後、水原が新しい茶を運んできた。
「先生」
「水原さん、今の話、聞こえてましたか」
「廊下で少し。出しゃばったことをすみません」
「いえ。隠していたわけじゃない。ただ、こちらから話すことでもないと思っていただけです」
「先生がこの村に来られた理由は、私には関係ないことです。でも、先生のお手が確かなことだけは、四年見ていて分かります。それは、誰にどう言われても、私が知っています」
「水原さん、ありがとう」

その夜、村は嵐になった。九時を回った頃、電話が鳴った。息を切らしたみおさんの声だ。
「先生、ハルトが、ハルトの様子がおかしいんです」
「落ち着いて、症状を教えてください」
「唇が紫色で、息が苦しそうで、呼びかけても返事が」
「すぐ行きます。横向きに寝かせて、楽な姿勢にしてください」

電話を切り、俺はもう走り出していた。水原に連絡を入れ、往診鞄を掴んで外に出る。外は横殴りの雨だった。山道の途中で倒木が道を塞いでいた。俺は車を捨てて、雨の中を走った。

高家に着いた時、全身が水を浴びたようになっていた。座敷に横たわるハルトの胸に耳を当てる。心音が乱れている。心不全の兆候だ。
「みおさん、麓の病院に連絡を。この天候じゃヘリは飛べない。救急車を呼んでください」
「先生、ハルトは助かりますか」
「助けます。今は俺がついている」

水原がずぶ濡れで駆け込んできた。酸素ボンベを抱えている。酸素マスクを当て、心電図を準備する。利尿剤を静脈に入れて心臓の負担を減らす。俺の手は迷いなく動いていた。ハルトの呼吸が少しずつ落ち着いていく。

サイレンの音が雨の向こうから近づいてきた。玄関に、雨合羽を着た藤崎が立っている。
「先生、道を開けさせた。救急車はすぐそこまで来とる」
「ありがとうございます」

ハルトが運び出される。みおさんは付き添いで救急車に乗り込んだ。
「先生、ありがとうございます。本当に、本当に」
「謝るのは俺の方です。後で必ずお話します」

救急車のテールランプが雨の闇に消えていった。俺は土砂降りの中、しばらくその場に立ち尽くしていた。藤崎がぽつりと声を出した。
「先生、あんた、一体何者だね」
「ただの医者です、村長」
「ただの医者は、あんな風に動かんよ」

俺は答えなかった。雨が頬を流れていく。

夜が明け始めた頃、麓の病院の廊下に俺はいた。ハルトは集中治療室に運ばれた。担当医は、あの日の研修医、古田だった。偶然にしては出来すぎている。
「片山先生、状態は安定しています。先生の応急処置が早かった。あれがなければ、ここまで持たなかったと思います」
「そうか。手術はいつになりそうだ」
「来週、循環器のチームでカンファレンスにかけます。先生、もしよかったら立ち合っていただけませんか」

俺は答えなかった。古田が去った後、廊下の向こうから足音がした。白髪交じりの男、三沢竜二だった。四年ぶりに会う元上司だ。

「三沢さん、わざわざすみません」
「謝るな。お前の口からそのセリフは聞き飽きた」

三沢はベンチに腰を下ろし、分厚い封筒を俺の膝の上に置いた。
「再審査の開始決定が、来週出る。あの時の研修医が、自分から名乗り出た。お前が被ってくれたことを、ずっと抱えていたらしい。あいつ自身がな。四年かかったが、お前の名誉は戻る」

俺は封筒を見下ろした。四年間、毎月届き続けた封筒。今、目の前にある封筒は、それまでとは違う重さを持っていた。
「三沢さん、俺は戻れますか」
「戻るかどうかは、お前が決めることだ。俺はただ道を整えただけだ」

三沢は立ち上がって、俺の肩を一度叩いた。集中治療室のドアが開き、みおさんが面会を許された。俺も後から中に入った。ハルトはベッドでまだ眠っていた。小さな胸が、不規則に上下している。

庭に一つだけベンチがあった。朝の光がまだ柔らかく差している。俺はみおさんと並んで腰かけた。

「みおさん。四年前、大学病院でご主人の手術をしたのは、俺です」

風が止まった気がした。みおさんはしばらく動かなかった。
「知っていました」
「いつから」
「去年の春です。ハルトが病院で検査を受けた時、古い病院のパンフレットに先生の写真があって。それで」
「では、なぜ」

俺は言葉を失った。一年以上、彼女は知っていた。
「最初は、なんで今更来たんだろうって。何のためにって思いました。怒りもしました。でも、ずっと見ていて分かったんです。先生は、私たちを見届けに来たんだろうって」
「みおさん、俺は」
「言わなくていいです。先生が夫の手術で何かを背負って、ここに来たことは分かりました。でも、私が知りたいのは、それじゃないんです」

みおさんは俺の方を向いた。目が赤くなっていた。
「夫の手術の時、先生はちゃんと最善を尽くしてくださいましたか」
「尽くしました。それだけは間違いなく」
「ミスは、本当に先生のミスだったんですか」

俺は答えに詰まった。言わないと決めていたことを、ここで言うのか。迷ったのはほんの数秒だった。
「俺ではありません。若い研修医のミスでした。俺は彼の未来を潰したくなくて、責任を引き受けました。だからといって、ご主人を守れなかった責任が消えるわけではありません」
「それは俺の責任です」

みおさんはしばらく黙っていた。やがて、目から涙が一筋伝った。
「ありがとうございます。話してくださって」
「俺は許される立場にありません」
「許す許さないじゃないんです。私はただ、本当のことが知りたかっただけ」

風が吹き始めた。中庭の木がサラサラと音を立てる。
「ハルトの手術、先生がしてください」
「みおさん、俺は」
「先生にしか頼みたくないんです。夫を失った先生に、息子を救って欲しい。これは、我がままですか」

俺はハルトの寝顔を見た。
「わかりました。やります。必ず救います」

二週間後、ハルトの手術は成功した。四年ぶりのメスは、不思議と震えなかった。手術室で隣に立ったのは、三沢と古田だった。三人で、一人の少年の心臓を救った。

村に戻った日、診療所の前に人が集まっていた。村長の藤崎を先頭に、村の人たちが並んでいる。藤崎が前に出て、深く頭を下げた。
「先生、わしらはあんたを疑った。保険所に、いらんことも吹き込んだ。すまんかった」
「村長、頭を上げてください。あなた方が村を守ろうとしただけのことです」
「あの夜、息子を救ってくれた手は、本物だった。村の者がみな、それを見取った。先生、これからもここにおってくれんかね」

俺は村の人々の顔を見渡した。四年間、診療所に通ってくる見慣れた顔ばかりだった。水原が静かに微笑んでいた。

「もう少しここで医者をやらせてください。村の皆さんには、お世話になります」

頭を下げると、誰かが小さく拍手をした。その音が、少しずつ広がっていった。

その日の夕方、俺は高家を訪れた。退院したハルトは、座敷で絵本を読んでいた。俺の顔を見ると駆け寄ってきて、腰にしがみついた。
「先生、もう走れるんだって」
「ゆっくりだぞ。無理するな」
「先生、ずっと村にいる?

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「ああ、いるよ。お前が大人になるのを見届けないとな」

ハルトは満面の笑顔を浮かべて台所へ走っていった。入れ替わりに、みおさんが茶を持って出てきた。
「先生、夕飯食べていかれませんか」
「いいんですか」
「ハルトが、先生の分も取ってあるって張り切ってまして」

俺は縁側に腰かけた。山の夕日が田んぼを橙に染めている。遠くでひぐらしが鳴き始めた。みおさんが隣に座った。
「先生、これからゆっくりでいいです。ゆっくり、家族みたいになれたら、私、嬉しいです」
「俺で、いいんですか」
「先生が、いいんです」

奥の台所から、ハルトの笑い声が聞こえた。俺はもう、荷物をまとめなくてもいいのかもしれない。