その瞬間、披露宴会場の空気がまるで真冬の湖の表面のように凍りついた。義母が新婦側の親族席の中央でマイクを掲げ、しゃれた口調で言い放ったのだ。
「中卒の姉は一族の恥ね。」
その言葉が会場中に響き渡った瞬間、私は膝の上で静かに拳を握りしめた。母の肩がこわばるのがわかった。しかし、その時だった。会場の入り口の扉が静かに開き、お色直しを終えたばかりの弟、そうが一人で戻ってきた。彼はゆっくりと、しかし迷いのない大股で新婦側の親族席の中央へと歩み寄っていく。義母の前で立ち止まり、深く一礼してから、彼女の手から静かにマイクを奪った。そして、落ち着いた声で語り始めた。
「皆さん、お騒がせして申し訳ありません。ただいまの義母の発言について、新郎として一言訂正させていただきたいことがあります。」
彼はマイクを自分の口元へ持ち上げ、会場全体を見渡した。
「私の姉、松本綾乃は、現在38歳。県警察本部刑事部に所属する警部です。」
私の名前は松本綾乃、38歳。この町の県警察本部に務める刑事である。階級は警部。派手な肩書きではないが、現場に立ち続けて12年、ようやくここまでたどり着いた。
朝6時、まだ薄暗い住宅街を歩きながら、今日もいつものように深く息を吸い込む。冷えた空気が肺の奥を通り抜け、頭の芯までしみとおっていく。家を出る前、台所で支度をしていた母が、いつものように声をかけてくれた。
「綾乃、今日も気をつけてね。」
「母さんこそ無理しないで。腰、まだ少し痛むんでしょ。」
「年寄りなんだからこれくらい当然よ。気にしないで。」
母の手は、私が子供の頃から変わらず働き続けてきた、節くれだった手である。その手で65年を生き抜き、女手一つで二人の子供を育て上げた人だ。父、松本賢介が不慮の事故で天に召されたのは、私が十歳の春のこと。弟のそうはまだ生まれたばかりの赤ん坊だった。突然の喪失に、母は泣くことすら忘れたように毎日台所に立ち続けていた。私はその背中を見ながら、子供ながらに腹を決めたのを今でも覚えている。母を支えるのは私。弟を一人前にするのも私の役目だ。
そんな思いで地元の中学を卒業すると同時に、私は隣町の小さな町工場で働き始めた。高校進学の話を担任から何度されても、私は黙って首を横に振り続けた。母の手を一日でも早く休ませたかったし、弟の学費も少しずつ積み立てておきたかったのだ。午前6時から市場のラインに立ち、夕方には別の工場で部品の検品をする生活が、24歳までの私の毎日だった。
そんな私の人生に一つの転機が訪れたのは、その年の冬。ある夜、振り込め詐欺の犯人を追って住宅街を駆け抜ける刑事の姿を、私は仕事帰りの路地で偶然目にした。コートをはためかせ、迷いなく走るその背中。それは父の事故を担当してくれた老刑事、赤木さんだった。彼は事件当時も、父をなくした私とそうを気遣ってくれた。優しい言葉はなくとも、その行動には温かみがあった。私は走る彼の後ろ姿を見送りながら、なぜか足が止まらなかった。人を守るために走る人間がいる。その事実が、当時の私の胸の奥にあった何かを静かに溶かしていったのを今でも覚えている。
その夜家に帰った私は、警察官採用試験のパンフレットを取り寄せた。中卒でも受験資格はある。学歴がない分、体力試験と面接で勝負するしかない。それから一年。私は工場の仕事を続けながら勉強を重ね、高卒認定試験を受け無事合格。夜は赤木さんに頼み込んで、法律と一般常識を一から教わり続けた。26歳の春、私は巡査の試験を受けた。それから今日まで12年。巡査、巡査部長、警部と一段ずつ階段を登り、刑事部のエースと呼ばれるまでになった。警察庁長官表彰を受けた時も、私はただ淡々と母の前にその賞状を置いた。母は静かに泣いて、それ以上は何も言わなかったが、父の遺影の前にその賞状を飾った。
そうは今年28歳になる。私に憧れて警察の道を選び、警察学校を経て、現在は同じ県の警察署で巡査長を務めている。そのそうが来週の日曜日に結婚式をあげる。相手は隣町の総合病院で看護師として働く木村高さん。26歳の女性で、控えめだが芯のしっかりした女性だ。我が家の食卓には、もう十日ほど前から母が花瓶に飾った白いバラが置かれている。
「そうも、とうとうお嫁さんを迎えるのね。お父さんが生きていたら、どんな顔しただろうね。」
「父さんなら泣いていたでしょうね。あの人、涙もろかったから。」
「あなたも本番で泣いてしまいそうよ。」
「私は泣かないわよ。式場で泣くのは新郎さんの仕事。」
母は小さく笑い、それから少し口元を引き締めた。
「綾乃。高さんのお母様のことだけど。」
「ええ、そうから聞いている。」
弟は数日前、わざわざ仕事帰りに家へ寄って私と母にあらかじめ事情を話してくれていた。高の母、木村英恵は地元では旧家を自称する家の出身だ。そして人を学歴で判断する癖がどうにも抜けないらしい。そうはそれを伝えながら、ひどく申し訳なさそうに頭を下げた。
「姉さんと母さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれない。本当にすまない。」
「あなたが謝ることじゃない。お祝いの席で、何を言われても私たちは笑っていればいい。」
「そうよ。あなたの大事な日なんだから、心配しないで。」
そうは私たちの言葉を聞いて、少しだけ目を潤ませて帰っていった。私は中卒という学歴を理由に、今までに何度となく見下された経験がある。今所属している警察署に新人として配置された当初は、「中卒はやはり人間として足りない」「学歴がない人間が知能犯相手にやれるわけないだろう」などと数年は言われ続けた。しかし、現場が育ててくれた経験は、どんな大学の教科書にも勝るものだ。私はそう実感しながら今日まで頑張ってきた。
そうの結婚式の朝は、薄い水色に晴れ上がっていた。私は明け方から母を起こし、髪を整え、紺色の着物を着ける手伝いをした。私は普段使いの黒のフォーマルスーツに、控えめなパールのブローチを一つだけつけていた。スーツの内ポケットには、いつものように警察手帳が入っている。これは、いかなる時も警察官であれという自分への戒めだ。迎えに来たそうの同僚警察官の運転で、私たちは隣町の式場へ向かった。控室の扉を開けた瞬間、私はその場の空気がほんの少しだけ張りつめるのを感じた。部屋の中央には、すでに新婦側の親族が数名腰を下ろしている。その中で派手な訪問着をまとった中年の女性が扇子を片手にソファの背もたれに身を預けている姿が見えた。そばには大学院卒だと聞いている姉らしき人物の姿が見える。三十歳前後の女性が、母親と同じ仕草で扇子を持て遊んでいた。新婦の母、木村英恵。そして新婦の姉、木村誠。そうが事前に名前と顔写真を教えてくれていたから、私はすぐに二人を識別できた。
「松本そうの姉の、綾乃と申します。本日はおめでとうございます。」
「あら、ご丁寧に。お姉さんですか? 」
義母は私の頭の先から足元まで、扇子の縁越しにゆっくりと視線をはわせた。
「随分とまあ地味なお召し物ですこと。今日は花嫁の門出ですのに。」
「新婦の主役のお邪魔になるかと思いまして。」
「はあ。それでお姉様はどちらの大学を卒業されていらっしゃるの? 」
来たと私は内心で思った。そうが事前に警告してくれていた通り、義母はまず学歴を尋ねてきた。
「中学までです。経済的な事情で進学はしていません。」
義母の扇子が一瞬ぴたりと動きを止めた。誠の口元が抑えきれないように小さく歪む。
「まあ、そう。中学ね。それはお珍しい。最近では中卒の方というのも珍しいですものね。」
「珍しい」という言葉に、私は喉が一瞬だけ詰まるのを感じた。しかし、母が反論しようと唇を開きかけたのを察し、私は彼女の手の甲をそっと上から抑えた。
「そうの晴れの日です。母さん、後で。」
母は何かを飲み込むようにして、ゆっくりと頷いた。
「弟さんは警察官でいらっしゃるのね。それで、お姉様はご職業の方は? 」
「私も警察官です。」
その言葉だけをあえて簡潔に告げて、それ以上の階級や経歴については一切口にしなかった。警察官という言葉に、義母と誠の目にほんの一瞬だけ動揺の影がよぎったように見えた。しかし、それもすぐに消え、二人は目を見合わせて何やら意味ありげに頷き合った。
「女性で警察官というのも珍しいですわね。事務員さんでしょうか?

」
「刑事です。」
「まあ、刑事さん。中卒で刑事さんになれるなんて。最近の警察は人手不足なのね。」
控室の空気が重く沈んでいく。私はその全てを観察しながら、長年現場で培ってきた私の勘が告げていた。これは前哨戦に過ぎないと。
披露宴会場のドアを開けると、シャンデリアの光が一面に広がっていた。私と母は親族席の最も奥、廊下に近い側のテーブルに案内された。席次表を一目見ただけで、新婦側の親族席が会場の一番目立つ場所に集まっているのが分かる。一方で新郎側、特に私と母の席は隅に追いやられていた。会場には他の親族や友人たちも次第に集まり始め、控えめな弦楽四重奏の調べが流れ出す。新郎新婦の入場前の一時である。新婦側親族席では、義母がすでにシャンパングラスを片手に周囲の親族たちに何かを大声で語り聞かせていた。
「ねえ、皆さんお聞きになって。今日のお相手の方の家族、お姉様が中卒なんですって。」
「中卒」という言葉だけが、まるで太字で強調されたかのように会場に響く。近くにいた何人かの親戚が気まずそうに義母の袖を引いて止めようとしたが、彼女は扇子でそれを払いのけた。
「あら、本当のことを言って何が悪いの? 私たちの一族はみんな、それなりの大学を出ていますのよ。」
母の着物の袖がわずかに震え始めるのが見えた。その震えを止めるように、母の手をテーブルの下からそっと包み込む。私は今日一日、義母の暴言を一度は受け止め、その全てを観察対象とすると心に決めた。会場の入り口が開き、司会者の声で新郎新婦の入場が告げられた。そうが黒のタキシード姿で、隣に純白のドレスをまとった高を伴い、ゆっくりと入場してくる。光のシャワーの中で並ぶ二人の姿は、見ているだけで胸が熱くなる美しさだった。母の口元から、こらえきれずに小さな吐息が漏れた。しかし、入場の途中、そうが新婦側の親族席を一瞥した瞬間、その表情に陰りがさした。義母がちょうどその時も、わざと聞こえるように扇子で口元を隠して何かを呟いていたのだ。そうの歩みは止まらなかったが、彼の耳が一瞬だけ赤くなったのを私は見逃さなかった。私は彼の心情を察して、こちらに目線が向いた瞬間、わずかに頷いて見せた。大丈夫という意味を込めた、姉から弟への合図だ。そうはその頷きを受け取って、一瞬だけ目を伏せ、それから再び高の手を取って進んでいった。
人前式が済み、乾杯の挨拶が終わると、披露宴は歓談の時間に入った。そんな中、隣のテーブルから杖をつきながら近づいてくる、白髪の整った初老の男性がいた。いかにも穏やかな佇まいの方である。席次表によれば、その方は高の叔父にあたる木村孝太郎さんで、隣町の小学校で長年校長を務められ退職された方のようだ。
「綾乃さん、今日は遠いところを本当にありがとうございます。」
孝太郎さんは私の隣の空席に腰を下ろし、静かに語り始めた。
「控え室の方で妹が大変ご無礼を申し上げたと聞いております。心からお詫び申し上げます。」
「お気になさらないでください。」
「いえ、英恵は昔から学歴のことになると人が変わるところがありまして。本当に申し訳ない。」
孝太郎さんは深く頭を下げ、何度も詫びの言葉を繰り返した。しばらく歓談が続く中、彼は不意に何気ない口調でこう漏らした。
「実はね、妹の家、つまり英恵の夫の実家の木村家が、なんだか急に羽振りが良くなりまして。夫の耕介が経営している建設会社の経営が、ここ三年ほどでぐっと良くなったらしいのです。」
「それはご商売の方がうまくいっているのでは? 」
「私はあまり詳しくないのですが、高の話では下請けへの支払いがいくらか変わったとか。」
彼はそこで言葉を区切り、首をかしげて遠くを見るような目をした。私の刑事としての勘が、まさにその瞬間に強く反応した。下請けへの支払いの変化、そして急な羽振りの良さ。それは何かしらの不正な利益が紛れ込み始めた会社に共通する、典型的な兆候だった。私は表情を変えずに頷きながら、孝太郎さんの言葉を一つ一つ記憶に刻み込んだ。
披露宴は順調に進んでいるように見えた。ケーキ入刀、両親への花束、新郎新婦による各テーブルへのキャンドルサービス。主役の二人は終始穏やかな笑顔を絶やさず、母の目尻には何度となく光るものが浮かんでいる。司会者がやがて、新郎新婦のお色直しのための退場を告げた。純白のドレスから次の衣装へと着替える高に付き添うそうの姿が、会場の扉の向こうへと消えていく。会場の照明が再び少し落とされ、参列者たちは歓談の輪を広げ始めた。その隙を狙ったかのように、義母が立ち上がるのが見えた。新婦側の親族席の中央でマイクを掲げ持ち、芝居がかった仕草で軽くマイクを叩く。司会者がやや困惑した表情を浮かべながらも、義母に発言の機会を譲った。
「皆様、今日はお忙しい中、娘・高の門出にお集まりいただき、誠にありがとうございます。」
最初の挨拶は、新婦の母親としての形式を踏んだ無難な内容だった。しかし、その後、義母の口調は徐々に、酒の勢いも借りてはっきりと崩れていった。
「私ども木村一族は、地元では旧家として知られております。それなりの大学を卒業し、それなりの職についてきた家柄でございます。」
会場の参列者たちの間に小さなざわめきが広がる。それでも義母はマイクを離さず、シャンパングラスを片手に演説を続けた。
「ですから、娘の嫁ぎ先のご家族に対しましても、私どもは一定の品格と教養を期待しているわけでございますが。」
義母の視線が、ゆっくりと私たちのテーブルに向けられた。そして、扇子の先で私たちを差し示すような仕草と共に、会場全体に届く声でこう言い放った。
「中卒の姉は一族の恥ね。」
その瞬間、披露宴会場の空気がまるで真冬の湖の表面のように凍りついて動かなくなった。弦楽四重奏の演奏者たちまで一瞬、弓を止めてしまっている。母の肩が、こらえきれずに大きく震え始めた。
「母さん、こちらを見ないで。」
「あの方、なんということを。」
「大丈夫。聞こえなかったことにしよう。」
私はそう言いながら、自分の中で確かに何かが切り替わるのを感じていた。膝の上に置いていた手を、私はゆっくりと開いた。その時だった。会場の入り口の扉が静かに開き、お色直しを終えたばかりのそうが一人で会場へと戻ってきた。その目は明らかに凍りついている。そうはゆっくりと、しかし迷いのない大股で新婦側の親族席の中央へと歩み寄っていく。義母の前で立ち止まり、深く一礼してから、彼女の手から静かにマイクを奪った。義母は一瞬抗議するような表情を見せたが、そうの真剣な眼差しに押されて口を開けなかった。そして、そうはマイクを自分の口元へと持ち上げ、会場全体に向けて落ち着いた声で語り始めた。
「皆さん、お騒がせをして申し訳ありません。ただいまの義母の発言について、新郎として一言訂正させていただきたいことがございます。」
会場の全員の視線が一斉にそうの元へと集まった。
「お母さん、先ほどの『中卒の姉は一族の恥』というお言葉。取り下げていただけませんでしょうか? 」
「あら、本当のことでしょ?
中卒なんて、学歴と呼べないものね。」
義母はまだ強気の姿勢を崩していない。そうは深く頷いてから、ゆっくりとマイクを口元へ戻した。
「それでは、皆さんに改めて私の姉を紹介させていただきます。」
そうは新郎側の親族席の方に向かって体を向け直し、私と母に丁寧に一礼した。その目には、かすかに光るものが滲んでいる。
「私の姉、松本綾乃は、現在38歳。県警察本部刑事部所属、警部として勤務しております。」
会場のあちこちで、息を飲むような小さな音が聞こえた。義母の顔色が、じわじわと白く沈んでいくのが見える。そうはマイクを下ろさず、淡々と、しかし揺るぎない声で続けた。
「私の父は、私がまだ赤ん坊だった頃に不慮の事故で天に召されました。当時十歳だった姉は、母と私の生活を支えるため、中学を卒業して間もなく町工場で働き始めました。姉が高校への進学を諦めたのは、家計を支え、私を一人前にするためです。姉が中卒なのは、私たち家族のために自らの学歴を犠牲にしてくれた結果なのです。」
母の頬に、ついにこらえきれなくなった涙が一筋流れ落ちた。そうは会場をぐるりと見渡し、それからさらに言葉を続けた。
「姉は25歳の時に警察官採用試験を受け、警察学校を経て26歳で巡査として現場の道に進みました。中卒の壁を、自身の努力と度胸で乗り越えての挑戦でした。それ以来、姉は12年間現場で働き続けています。刑事になってからは、詐欺や偽造、横領事件、難しい現場で姉は最前線に立ち続けてきました。姉の働きは、これまでに警察庁長官表彰と警視総監表彰の双方で、正式に認められております。『中卒』という言葉だけで、姉の人生を判断することは、誰にもできません。」
そうは義母を睨みつけ、こう言った。
「そして、私自身が警察官になれたのも、全ては姉が私を支えて育ててくれたからです。父の代わりに私の保護者として、三者面談に来てくれたのも姉でした。夜遅く工場の仕事から帰宅した後、毎晩のように勉強を見てくれたのも姉でした。」
そうの声が、ここでわずかに震えた。
「私の姉は、誰よりも誇り高く立派な女性です。『中卒』という二字で人を測れるとお考えなら、それはあまりに浅はかな思い違いと申し上げざるを得ません。」
会場のあちこちで、新郎側の参列者たちが涙を浮かべて頷くのが見えた。義母の顔は、もはや見るも無惨なほどに青ざめていた。両頬から血の気が完全に抜け落ち、唇は真っ白になり、扇子を握る指先までが小刻みに震えている。その表情の変化を見ながら、私はテーブルからゆっくりと立ち上がった。
「母さん、心配しないで。」
私は母の肩にそっと手を置いてから、新婦側の親族席へと一歩ずつ歩み寄っていった。会場の全員の視線が私の動きに集中する。私は義母の目の前まで歩み寄り、新郎新婦の方へ深く一礼を捧げてから、義母に正面から向き直った。
「お母様。先ほどの『中卒の姉は一族の恥』というお言葉について、私からも一言だけ申し上げさせてください。」
「あ、あの、私は… 」
義母の声は完全に裏返っていた。私は彼女の目をまっすぐに見つめながら、ゆっくりと、しかしはっきりと言葉を続けた。
「私は、自分が中学卒業であることを一度も恥じたことはございません。中学を卒業した翌日から町工場の機械の前に立った日々が、今の私という人間を作りました。学歴ではなく、その日々こそが私の誇りでございます。ただ一つだけ、お母様にお願いがございます。私の母をこの席で侮辱するような発言は、どうかお控えいただきたいのです。」
私はくるりと振り返り、優しく微笑んだ。
「母は夫に早くに先立たれ、女手一つで二人の子を警察官に育てあげました。私の人生で最も尊敬する女性です。」
私が再び義母の方を向くと、彼女は何かを言いかけた。しかし、声にならず、口だけがパクパクと動いている。そばに立つ義父は、これまで一言も発していなかったが、急に体をこわばらせ、私を凝視してきた。その視線の中には、警察官という単語に強く反応した内側からの動揺がある。私は義父の動揺を視界の端に捉えながら、再び義母に向き直って静かに頷いた。
「お祝いの席です。お互い、これ以上は不必要な言葉を重ねないようにいたしましょう。」
「はい。先ほどは、その、本当に申し訳ございません。」
義母はようやく絞り出すような声で謝罪の言葉を口にした。しかし、彼女の目はしきりに左右へと泳いでいる。口先だけの謝罪だとすぐに分かった。私は形式上の頷きを返して、母のところへと戻り、椅子に腰を下ろした。母は私の腕を強く握りしめ、声を殺して涙をぬぐう。
「綾乃、ありがとう。あなたは本当に立派な娘よ。」
「母さんの育て方が良かっただけ。それ以上でもないわ。」
その時、お色直しを終えた高が、新しいドレス姿で会場へと戻ってきた。会場の異様な空気を一瞬で察知した高は、すぐに新郎側親族席の方へと歩み寄り、私と母の前まで来て深く頭を下げた。
「お母様、お姉さん、本当に申し訳ございません。私の母がまた何か失礼なことを。」
「高さん、頭を上げて。これはあなたが謝ることではないわ。あなたは何も悪くないのよ。今日はあなたのための日なんだから、笑顔でいなさい。」
彼女はしばらく頭を下げ続けた後、ゆっくり顔を上げた。その目は涙でいっぱいだったが、口元は決意を秘めたように引き締まっている。
「お姉さん、私ははっきりと申し上げます。私は今日、木村家から松本家へ嫁ぐことを、心から誇りに思っております。お母様とお姉さん、そうさんがいる家族の一員になれることが、私の生涯の宝です。」
その宣言は新婦側の親族席にもしっかりと届いたようだ。高は深くもう一度礼をしてから、そうの元へと戻っていった。会場にはそれまでの凍りついた空気とは別の、何かがゆっくりと溶けていくような穏やかな気配が流れ始める。しかし、新婦側の親族席に座る義母と義父の二人だけは違った。一言も発することなく、ただ黙々と料理に手を伸ばすふりをしているだけだ。義母の顔の蒼白はその後も全く戻らず、扇子を握る手は披露宴の終わりまで、かすかな震えを止めない。私は刑事として、その二人の動揺を一つ残らず観察し続けていた。特に義父の不自然な硬直は異様だ。警察官という言葉に対する単なる驚き以上の、何か職務上の後ろめたさを抱えた者特有の硬さを帯びている。
その後、披露宴は予定通り三時間で締めくくられ、新郎新婦の見送りを受けて参列者たちが会場を後にしていった。私は母を支えながら最後に会場を出る際、新婦側の親族席の方を一度だけ振り返った。すると義母は席に座ったまま、動けずにいた。ホテルのエントランスでは、新郎新婦が並んで参列者一人一人を見送っている。私と母に気づいたそうは、こちらに駆け寄ってきた。
「姉さん、本当にありがとう。何も言わずに、あの場にいてくれて。」
「あなたが立派に立ち回ってくれたからよ。お疲れ様。」
「そう、高さん、お幸せにね。」
「はい、お母様、本当にありがとうございます。」
そうと高が二人並んで頭を下げる姿を、私は胸に焼きつける。私たちはそのまま迎えのタクシーに乗り込み、ホテルを後にした。車窓の外を、夕暮れの街並みがゆっくりと流れていく。母は車のシートに身を預けて、しばらく目を閉じていた。一方で私は、披露宴の間ずっと観察してきたものを頭の中で順番に整理していた。義母の過剰な学歴攻撃の根底にあるもの。それは単なる差別意識だけではない。自分たち木村家の不安定さを覆い隠すための、見せかけの優越感であるように感じられた。そして、孝太郎さんの語った、ここ三年ほどの木村家の急な羽振りの良さ、下請けへの支払いがいくらか変わったらしいという曖昧な情報。それは小さな会社に違法な何かが紛れ込み始めた典型的なパターンに合致している。最後に、披露宴の最中に見た義父の不自然な硬直。普通の市民であれば、娘の結婚相手の姉が警察官だと知っても、ただ関心するかせいぜい緊張する程度の反応で済むはず。しかし、義父の反応は、まるで警察に追い詰められる人間のような怯えに近い色を帯びていた。これら三つの観察が一つの線で繋がった瞬間、私は確信を強めていた。
「綾乃、何を考えてるの? 」
「今日のことを少し。」
母は車のシートに身を預けたまま、私の横顔をじっと見つめた。
「目が、仕事の目になっているわよ。」
家に着いてから、私は母に温かいうどんを作った。そしてゆっくりとお風呂に入ってもらい、寝巻きに着替えるところまで手伝う。母が寝てから、私はリビングのテーブルに着き、メモ帳とペンを手に取る。これはいわゆる職業病かもしれない。私は刑事として、本日の披露宴で観察したことを時系列に沿って一つずつ書き出していった。義母、誠、義父の言動と表情の変化。孝太郎さんから聞いた、木村家の羽振りの良さや下請けへの支払いの変化。書きながら、あることが見えてきた。これは単なる学歴主義の家族の話ではない。下手をすれば、すでに何らかの違法行為が動き出している可能性がある。しかし、今はまだそれを上司に告げる段階ではないと判断した。事実関係の裏付けが何もなく、感情に流された見立てだと取られてしまえば、捜査そのものが歪む。今夜のメモはあくまで個人の備忘録として、しばらく胸の奥にしまっておこう。そう決めてペンを置いた時、玄関のチャイムが小さくなった。時計を見ると、時刻はすでに夜の九時を回っている。不思議に思いながら玄関を開けると、そこには新婚旅行に向かったはずの弟夫婦が立っていた。
「姉さん、突然ごめん。少しだけ話したいことがあって。」
「もちろん。母さんはもう寝たから、リビングで話しましょう。」
弟夫婦をリビングに通し、私は静かにお茶を入れた。高は正座をしてから、両手を膝の上に揃え、小さな声で切り出した。
「実は、今日の式の前にちゃんとお話しておかなければならなかったことがあるんです。」
そう言うと彼女は深呼吸をして、はっきりと話し始めた。
「私の実家のことです。父の会社のことで、ずっと気になっていたことがあって。」
高が話してくれる内容は、おそらくこれから始まる長い物語の本当の始まりの一歩になるだろう。そう感じながら、私は湯呑みを高の前にそっと置いた。高はしばらく湯呑みを両手で握りしめてから、ゆっくりと口を開いた。
「私の父の会社、木村建設というのですが、ここ三年ほど急に大きな仕事が入るようになりました。最初はもちろん嬉しかったんです。家族も豊かになって、母の機嫌も良くなって。」
高は寂しそうに笑った。
「でも、一年ほど前から、経理を母が一人で抱え込むようになったんです。私が父の会社の事務所に顔を出すと、見たことのない伝票がいくつも机に積まれていて。」
高はそこで一度唇を噛んで、俯いた。そうが高の肩にそっと手を置き、続きを促す。
「同じ業者宛ての発注が、月のうちに三つも四つも切られていたんです。けれど、現場で実際にその工事が行われているのを、私は見たことがなくて。」
私は黙って頷きながら、その内容を頭の中の捜査メモに書き加えていった。存在しない工事に対する支払いを装い、その差額を別口座へ流す、典型的な業務上横領の手口の一つである。
「高さん、その伝票の業者名は覚えていますか? 」
「いくつかは覚えています。同じ住所、同じ電話番号で、名前だけ違う業者さんが三つほど。」
私の刑事としての勘は、ここで完全に確信に変わった。
「高さん、一つだけ約束して欲しいことがあります。あなたが私に話してくれたこと。これは今夜の段階では、まだ警察として正式に動いている話ではありません。ただし、もし今後、私が刑事として正式にこの件に関わる日が来たら、その時あなたには一度、正式な事情聴取を受けてもらう必要があります。」
彼女は深く頷いて、それからまっすぐに私の目を見つめてくれた。
「私は覚悟しています。両親がしてきたことが本当に間違っているのなら、私は娘としてそれを正してほしい。」
その言葉の重みを受け止めて、私は静かに頷き返した。弟夫婦は私と深夜近くまで話し合った後、玄関先で何度も頭を下げて帰っていった。私は静かに玄関の鍵を閉め、リビングのテーブルに戻って、メモを書き直し始める。これはもはや家族の問題だけでは収まらない。翌週の月曜日、私は朝一番で赤木さんの席を尋ねた。あの頃憧れていた赤木さんは、今同じ配属先で課長を務めている。私はまとめたメモを差し出し、ありのままに事情を説明した。
「お前の弟の結婚式の話に、まさかこんな形で続きがあるとはな。」
「はい、課長。身内に近い関係者が含まれるため、捜査から外していただいて構いません。」
「その判断は正しい。お前の見立てが本物なら、警察としては動かないわけにはいかん。」
赤木さんはメモを読み終えると、低い声で唸ってから受話器を取り上げた。二日後、県警では木村建設の架空発注疑惑に関する捜査チームが正式に立ち上がった。私は捜査チームの正式なメンバーからは外されたが、別の重要な役割を任されることになった。
「お前は身内が絡む以上、現場の捜査には立てない。だが、書類と過去事案の照合は、お前の経験が一番役に立つ。客観的な視点で資料を読み込んで、同様の手口の前例を洗い出してくれ。」
「承知しました。職務として全力を尽くします。」
私は机の上に積み上げられたファイルの背表紙を見ながら、静かに腹を括った。ここから先は私個人の感情ではなく、警察官としての職務としてこの事案と向き合うことになる。弟夫婦の幸せのため、母の心の平穏のため、そして何より被害を受けているであろう下請けの人々のため。この捜査は曲げられない。過去事案のファイルは、過去十年間に全国の建設業界で起きた架空発注関連の事件記録だ。その量はダンボール箱で三箱分にも及び、机一つを完全に埋め尽くした。朝の八時から夜の八時までの十二時間。ひたすらファイルの一枚一枚をめくり、似た手口、似た金額の流れ、似た口座の使い方を一覧に書き出していく。その作業を三日続けたある夜、私は書類の山の中から、高が述べた業者名と酷似した会社名を見つけ出した。それは三年前に隣県で摘発された事件で、主犯として書類送検された男が経営していた運送業者の名前だ。その男は執行猶予判決を受けて出所し、その後の消息は捜査記録上では不明となっている。しかし、私の手元にある木村建設の登記簿には、その同じ男の名前が、近年新しく登録された取引先の役員欄に確認できた。つまり、この男はおそらく前回の摘発を逃れた後、新たな建設会社、すなわち木村建設に協力者として入り込んだと考えられる。そして、そこで再び同じ手口を再現させた可能性が高い。私は記録を整理し、すぐに赤木さんの元へ報告に向かった。
「ほう、よく見つけたな。これは本格的な経済事案として動かす必要がある。」
「はい、課長。継続して書類整理を進めたいと思います。」
「ああ、頼む。お前の冷静な目が、この事案の中心になってくれそうだ。」
結婚式から二週間が過ぎ、町の桜は葉桜に変わり始めていた。私は仕事から帰宅した夕方、リビングのテーブルで母が小さくため息をついているのを見た。
「綾乃。さっきね、向かいの奥さんから少し変な話を聞いたのよ。」
「変な話?
」
「綾乃が結婚式で新婦のお母さんを大勢の前で吊るし上げたって、近所で噂になっているらしいの。」
その瞬間、私の中で何かがすっと冷えた。噂の発信源は間違いなく義母だ。母を不安がらせないよう、私は努めて穏やかな表情を保ち、母の前にお茶を置いた。
「根も葉もない噂よ。気にしないで。」
「でも、あの方たちなら、そういうことも言いそうだと思って。」
その夜、夕食を終えてから私の携帯電話が鳴った。画面には登録していない番号が表示されている。通話ボタンを押した瞬間、義母のかん高い声がいきなり耳に飛び込んできた。
「あなた、よくも私たちに、あんな恥をかかせてくれたわね。」
私はとっさに通話の録音機能を立ち上げた。職務上、こうした脅迫めいた電話への対応は身にしみている。
「お電話いただきありがとうございます。落ち着いてお話いただけますか? 」
「落ち着けるわけないでしょう。あなたのせいで結婚式は台無しよ。あの場で警察官と言うなんて、卑怯じゃない。」
「警察官の身分を出したのは弟であって、私ではございません。」
「同じことよ。あなたが裏で言わせたんでしょ。中卒のくせに、よくも私たちを見下したわね。」
義母の言葉は、もはや論理を失って感情だけが先走っていた。私はメモ帳を片手に、義母の発言の中で重要な箇所を時刻と共に書き写し続ける。
「あなた、高にも余計なことを吹き込んでいるそうじゃない。家族を分裂させて、何が嬉しいの? 」
「高さんは私の弟の妻として、自分の意思で行動なさっています。」
「言い訳しないで。あなたが手を引かないなら、こちらにも考えがあるわ。」
そこで義母は一方的に通話を切った。私はそのまま録音を停止し、書類のデータベースに保存するために音声ファイルを暗号化フォルダーに移す。家族の通話であっても、職務上の脅迫めいた発言が含まれていた以上、これは正式な記録として残しておく必要がある。翌日、署のデスクで書類整理を進めていると内線電話が鳴った。受話器を取ると、新婚旅行から帰国したばかりの高の声が聞こえてきた。
「お姉さん、あの、今大丈夫ですか? 」
「大丈夫よ。何かあったの?
」
「父から、そうに電話があったんです。『お姉さんに手を引かせろ』って、強い口調で。」
高は涙声になりながら、義父がそうに直接圧力をかけてきた事実を打ち明けてくれた。義父はそうの勤務先にまで電話をし、そうを呼び出そうとしたという。そうは職務中だったため、上司を通じて折り返しの形で対応したそうだ。
「そうはその電話で何か言ったの? 」
「そうさんは『姉の職務に介入するつもりはありません』と一言だけ伝えて、電話を切ったそうです。」
「それならよかった。」
「お姉さん、私、怖いんです。父が私とそうさんの新居の住所まで調べているみたいで。」
その瞬間、高の身の安全を最優先に考える段階へと意識を切り替えた。
「高さん、新居の鍵を一度交換しなさい。それと、外出時は必ずそうと一緒に行動すること。もし不審な訪問者があったら、すぐに警察に通報して。そうにもそう伝えてくれる? 」
電話を切った後、私は赤木さんに状況を報告した。彼は黙って話を聞いてから、低い声で頷いた。
「松本、お前の家にも嫌がらせがある可能性が高い。お母様にも気をつけてもらえ。必要なら、所轄の交番にお前の家の見回りを強化してもらう。」
そして私は家に帰る途中、商店街の角の交番に立ち寄り、見回り強化を頼んだ。家に着いてから、母にもこの状況を慎重に伝えた。母は最初は驚いた様子を見せたが、しばらくして私の手を握ってくれた。
「綾乃、私はあなたを信じている。あの人たちが何を言ってきても、揺がないわよ。」
それから数日のうちに、嫌がらせは現実の形となって現れ始めた。ある朝、私が出勤前に郵便受けを覗くと、宛名のない封筒が一方的に押し込まれていた。中には一枚の紙があり、そこには「中卒無職が警察官面するな」「身の程知れ」という文字が書かれている。私はその封筒を素手で触らず、手袋でくるんでビニール袋に入れ、署の鑑識に提出することにした。しかし、これはまだ序の口だった。その日の午後、近所の小さな商店街で、白い紙に印刷されたビラが何枚も電柱に貼られているのを母が見つけたのだ。ビラには「松本という家は警察の権力を使って近隣に高圧的な態度を取っている」という文章と共に、私の名前と勤務先まで明記されていた。私は母を家の中に座らせてから、近所のビラを一枚残らず剥がしていった。家に戻ると、母が玄関先でしゃがみ込み、肩を震わせて泣いていた。
「綾乃、ごめんなさい。あなたが頑張っているのを、私は見守るだけしかできなくて。」
「母さん。母さんが家にいてくれることが、私の一番の支えなのよ。」
母を抱き起こし、家の中に連れて入った私は、自分の中に湧き上がる複雑な感情と静かに向き合った。刑事として、私はこの事案を冷静に処理しなければならない。しかし、娘として、母を泣かせる相手に対して感じる怒りは、簡単に消せるものではなかった。数日後、嫌がらせは新しい段階へと進んだ。休日の昼下がり、私と母が買い物から戻ると、家の門柱に落書きがされていたのだ。黒いペイントスプレーで「警察の犬」という文字がはっきりと書かれている。私はそんな母を安心させるように、静かに携帯電話を取り出した。そして現場の写真を多角度から撮影した。
「母さん、家の中に入って。すぐに鑑識を呼ぶから。」
「これ、これは… 」
「これは器物損壊罪よ。すぐに警察を呼ぶわ。」
私はすぐさま所轄の交番と署の鑑識へ同時に連絡を入れた。駆けつけた鑑識係は門柱周辺の指紋採取と、近隣防犯カメラの映像確保を即座に開始する。その夜、私は鑑識から連絡を受け、近隣の防犯カメラに不審な男が映っている事実を確認した。男はキャップを目深にかぶっていたが、体格と歩き方に見覚えがある。過去の架空発注事件で書類送検された、あの男だ。現在は木村建設の取引先として登録されている男の特徴と一致していた。
「松本、これで線が一本繋がった。物損だけで終わらせはしないからな。」
赤木さんは次の日の朝礼で、捜査範囲の拡大を指示した。捜査の網は一気に木村建設の中枢へと向かって狭められていった。しかし、その進展は敵側にも同時に伝わっていたようだ。ある夜、弟夫婦が住む新居の玄関先に生卵が何個も投げつけられているのを、高が発見したという。
「お姉さん、玄関がひどい状態で。」
「高さん、家の中に入ったらドアを閉めて施錠して。今すぐそちらに鑑識を回すように手配するから。そうが戻るまで、絶対にドアを開けないで。」
電話を切るなり、私は赤木さんに報告し、夫婦の住む地域の所轄署に協力を依頼した。翌朝、そうから私の携帯に電話が入った。
「姉さん、高が随分と参っている。実家からの連絡が止まらないらしいんだ。母親と父親の両方から、『一族の名誉のためにお姉さんを止めなさい』と圧力をかけてきて。」
「高さんにもう、実家からの電話には出ないように伝えて。全ての着信は私が刑事として対応する。私はあなたたち夫婦を必ず守る。」
「分かった。姉さんも、無理だけはしないで。」
その日の午後、さらに思い知らせを受け取ることになった。署の上層部に対して、地元選出の県会議員から「木村建設の件は慎重に取り扱って欲しい」と言葉があったのだ。地元議員と、木村建設の社長である義父は長年の付き合いがあるらしい。その関係を通じて、捜査そのものに圧力をかけようとする動きがすでに始まっていたのだ。赤木さんはその日のうちに、私の家の周辺を担当する警備班との連絡を密にする旨を署内で正式に通達した。私が家に帰ると、母はリビングのソファーに座ったまま、ぼんやりと宙を見つめていた。
「綾乃。最近、寝つきが悪いの。夜中に電話の音がするたびに、心臓がドキッとして。」
私は母の隣に腰かけて、その肩にそっと腕を回した。母の小さな体は、わずかに痩せたように感じられる。ここから先、敵の側からはさらなる反撃が来ることが、私には十分に予想できた。けれど、母をこれ以上傷つけないために、何としてもこの事案に決着をつけなければならない。その覚悟だけが、私の中で唯一揺るがずに続いている。
その一週間後、私の勤務先である刑事部宛てに、義母名義の内容証明郵便が届いた。「名誉棄損で松本綾乃を訴える」という、形式的な通知だ。赤木さんはそれを一瞥して鼻で笑い、署と連携している弁護士に処理を依頼した。
「松本、こんな紙切れ一枚気にするな。むしろ、この通知を出してきたこと自体が、向こうの動揺の証拠だ。」
その夜家に戻ると、母は早めにベッドに入っていた。母の枕元には、父の小さな遺影が置かれている。私は母を起こさないようにそっと部屋のドアを閉め、リビングで一人、お茶を入れて窓際に座った。街灯の明かりに照らされた庭の植え込みの奥で、警備班の姿が一瞬だけ見えた。私一人の戦いではない。警察組織が、この事案の正しい結末を見届けようとしている。私の役目は、その組織の中で職務を全うすることだけだ。
捜査が大詰めに入ろうとしていた、ある木曜日の早朝のこと。母が台所で朝食の支度をしていたところ、不意にその場に崩れ落ちた。隣のリビングからその物音を聞きつけた私は、すぐに駆け寄って母を抱き起こす。
「母さん、しっかりして。今、救急車を呼ぶから。」
母の唇は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいた。血圧計を当てると、上の数字が普段では見たことのない高さを示している。総合病院で母はすぐに救急処置室に運ばれ、ストレス性の急激な高血圧と重度の貧血だと診断された。数日にわたる経過観察を要する見込みで、「精神的ストレス源を可能な限り取り除いてください」と医師にはっきり告げられた。病室のベッドに横になる母。私はぼんやりと天井を眺めながら、母の手を握り続けた。
「綾乃、私、迷惑かけて。」
「迷惑なんかじゃない。母さん、今は何も話さなくていい。眠って。」
その日の午後、署では別の思い知らせが私を待っていた。
「松本、地元議員からの圧力が上層部経由で、じわじわと効き始めている。お前を捜査チームから完全に外せという意見が、一部から出ている。」
「課長、私は元から現場には立っていません。書類整理だけでも続けさせてください。」
「その書類整理からも外せと言われてるんだ。俺は今のところ、その意見を抑え込んでいる。だが、いつまでも抑え切れるとは限らん。」
赤木さんの表情には、長年現場を支えてきたベテランの苦渋が滲んでいた。その夜、弟夫婦が再び家を尋ねてきた。高は玄関先で私の顔を見るなり、両手で口を押さえて声を上げて泣き出す。
「お姉さん、お母様が倒れたって、そうから聞いて。私のせいです。私が実家のことをお姉さんに話したから、こんなことに。」
私はその二人の前に膝をつき、高の手を両手で包み込んだ。
「高さん、聞いて。これはあなたのせいでも、誰のせいでもない。あなたは正しいことを話してくれた。それは今、確かに私の捜査を支えてくれている。母が倒れたのは、長年の積み重ねが今、表に出ただけ。あなたが背負うべき重さじゃない。」
高を玄関先で見送った後、私はリビングのソファーに一人腰を下ろした。それまで感じたことのない深い疲労が、じわじわと広がり始めている。母の入院、捜査チームからの除外の可能性、弟夫婦の苦悩。私を支えていた三本の柱が、それぞれ別の方向から少しずつ揺らぎ始めていた。その夜、私はリビングのソファーにうずくまるように小さく丸まり、声を殺して肩を震わせた。ノートに書きつけてきた数々の証拠も捜査計画も、その一瞬だけは何の意味も持たないように感じられた。
翌朝、出勤のために身支度を整えながら、私は鏡の中の自分の顔を久しぶりに直視した。目の下にはくっきりとしたくまが刻まれ、唇の血色も普段より薄い。それでも、警察手帳を内ポケットに収めながら、私は鏡の中の自分に小さく頷いて見せた。ここで自分が崩れたら、母を守るものが誰もいなくなる。弟夫婦を支えるものも、刑事として職務を遂行するものも。ならば、立ち上がるしかない。署に到着するなり、赤木さんから呼び出しがかかった。
「松本、上層部の会議で、お前の処遇について最終判断が今日、降りる。」
午後三時過ぎ、赤木さんが会議室から戻り、低い声で私に告げた。
「松本、お前は引き続き書類担当として捜査チームに残る。上層部の最終判断だ。」
「ありがとうございます。」
「礼を言うのはまだ早い。お前の役目は、ここから先が本番だ。」
その日の夕方、私は再び母の病室を尋ねた。母は少し顔色を取り戻し、ベッドの上で文庫本を読んでいた。
「綾乃、私のことは大丈夫だから、お仕事をしっかりとなさい。」
翌朝、私は普段より一時間早く出勤し、赤木さんの席の前に立った。
「課長、お願いがあります。書類整理だけでなく、本件の現場捜査にも参加させてください。」
赤木さんは黙って私の顔を見つめ、それから腕を組んでしばらく天井を見上げた。
「身内に近い案件であえて現場に立つ、ということだな。」
「はい。私情ではなく、警察官として職務を全うする覚悟です。身内が絡むからこそ、私が客観的な立場でこの捜査を完結させなければ、組織として過ちを残します。」
彼は深く頷き、それからゆっくりと立ち上がった。
「まず、お前の覚悟は分かった。だが、現場に立つ以上、感情の出し入れは完璧に管理しろ。お前が崩れた瞬間、捜査は崩れる。それは絶対に下げてくれ。」
「承知しております。」
「ならば、お前を正式に経済事案担当のメンバーに加える。書類整理は他の者に引き継いでもらえ。」
その瞬間、私の中の最後のためらいが静かに消えていくのを感じた。私と組むことになったのは、経済事案担当の女性ベテラン刑事である浜口先輩だった。彼女はかつて全国規模の不正経理事件を立件した経験を持つ、署内屈指の経済事件のスペシャリストだ。その夜、私は仕事帰りに弟夫婦の家を尋ねた。高に、これから本格的な捜査に入ることを正式に伝えるためである。
「高さん、今度こそ、改めて事情聴取をお願いすることになるわ。」
高は深く頭を下げてくれた。
「お姉さん、よろしくお願いします。私は、実家を捨てても、そうさんと一緒に生きていきます。父と母の罪は、娘として受け止めます。」
私は思わず息を飲んだ。二十六歳の若い女性が、自分の実家を切り捨ててまで夫と共に生きていく覚悟を口にする。その決意の重さを、私は刑事として、そして姉として二重の意味で受け止めなければならなかった。翌朝の捜査会議で、私は浜口先輩と共に整理した一覧表を全員に配布した。これまでに集めた全ての証拠をExcelで一枚の表にまとめたものだ。高からの聞き取り内容、私自身が個人的に集めた義母の暴言の録音、嫌がらせの匿名電話やビラの写真記録、そして書類整理の段階で照合してきた架空業者の登記簿と口座の流れ。その日の午後から、私たちは下請け業者の事務所を一軒ずつ回り、被害状況の聞き取りを開始した。支払いを長年滞らされてきた職人たちの怒りと諦めの声は、私の胸に深く刻まれていく。捜査はもはや家族の問題を超えて、地域の経済地図を取り戻すための戦いになっていた。
下請け業者への聞き取りから始まった本格捜査は、一か月の歳月をかけて決定的な証拠の蓄積へと繋がっていった。最初に聞き取りに応じてくれたのは、隣町で小さな塗装店を営む六十代の男性だ。彼は二年間にわたって工事代金の支払いを延々と先延ばしされ続けてきた経緯を打ち明けてくれた。長年の取引関係を盾に、義父は毎月のように「来月には必ず」と支払いを引き延ばしたという。その間に塗装店の経営は、深刻な資金繰りの悪化に追い込まれていた。その男性の節くれだった手の震えを目の前で見ながら、腹の底から静かな怒りが湧き上がってくるのを抑えられなかった。別の日には、木材店の若い後継者が、義父から受けた脅しめいた言葉の数々を録音した音声を提供してくれた。録音の中で義父は、「うちと取引できなくなれば、お前の店は地元では生きていけないぞ」と何度も繰り返している。そして、産業廃棄物の不法投棄に関する物証も別ルートから確実に抑えることができた。地元の山林管理者の所有地に、長年にわたってアスベストを含む廃棄物が違法に埋め立てられてきたという事実。それが衛星画像と現地調査によって裏付けられたのだ。その間、高も正式な参考人として署に出頭してくれた。彼女が義父の事務所で見てきた架空伝票の記憶を、詳細な供述に落とし込んでいく。高の聞き取りに同席した浜口先輩は、供述を読み終えた後、私に静かに告げた。
「これだけの証言と物証があれば、立件は確実です。」
最終段階は、関係者を任意同行で署に呼び、それぞれの口から事実関係を確認していくことだった。まず木村建設の経理担当者と、登記上の架空業者の代表者が呼ばれ、いずれも私たちがすでに把握していた事実を裏付ける証言を行った。特に経理担当者は、義母が直接事務所に出入りしていたことをはっきりと証言した。架空伝票の作成と署名に、深く関与していた事実を書類と共に打ち明けてくれたのだ。そしてついに、義母の任意同行が決定した。最終決戦の日である平日の昼下がり。私たちは新婦側の実家、すなわち木村家を浜口先輩と共に訪れた。予鈴を押した瞬間、玄関口に出てきた義母は、私たちの姿を見るなり一瞬にして顔をこわばらせた。
「な、何しに来たの?
私たちは、何も話すことなんて。」
「本日は警察として参りました。これは公務の場でのお願いです。」
私は警察手帳を義母の前に提示した。
「任意同行をお願いに上がりました。署までご同行いただけますでしょうか? 」
義母は後ろに立っていた義父を振り返る。義父は妻の名を一言呼ぼうとしたが、言葉にはならない。
「お父様には、別途あちらの捜査員から後ほどお声をかけさせていただきます。」
その言葉に、義父の顔が見る間に青く染まっていく。取調室には私と浜口先輩、そして義母の三人が向かい合って座った。机の上には、私が一か月かけて整理してきた証拠書類の束が、山と積み上げられている。しかし、義母は強気の姿勢を崩さなかった。
「私はただの専業主婦ですよ。会社のことなど、何も知りませんわ。夫の仕事に、妻がいちいち把握しているはずがないでしょう。」
「お母様、こちらの伝票をご覧ください。」
私は机の上の一枚を義母の目の前に、ゆっくりと差し出した。
「ここには、お母様ご自身の筆跡で記された、架空業者宛ての発注の控えが残されています。これはお母様ご自身が今年の三月二十日にご署名なさった発注の控えです。同じ業者宛ての伝票が、その月だけで四枚。全てお母様の筆跡で署名されていますよね。」
私はさらに数枚の伝票を机の上に並べ続けた。義母の顔色が、青く沈んでいく。披露宴で扇子を握る手を震わせていた、あの時と同じ顔色。しかし、今度はもう扇子の影に隠れることはできない。
「ご自身がご署名なさった発注の宛て先が、かつて摘発を受けた人物の管理する架空業者であることは、ご存知でしたでしょうか? 」
義母はただ、ぱくぱくと唇を動かしている。
「これは私情ではなく、刑事として伺っております。お答えいただけますか? 」
「ど、どうか、見逃して。私たちは家族でしょう。」
ついにこらえきれなくなったのか、彼女は机の上に手をついて私に向かって哀願した。いつもの威勢は、もはや一片も残っていない。私はそんな彼女に対して、声を低くして告げた。
「家族であることは関係なく、人は皆、法に従うのが正しい道です。それが、私が刑事として今ここに立っている、唯一の理由です。」
義母は、私の言葉についに折れた。両肩が小刻みに震え、口元からこらえきれない嗚咽が漏れ始めている。
「中卒の姉が…
まさか、こんな… 」
そのつぶやきに、隣の浜口先輩が一瞬眉を寄せた。しかし、私は静かに首を横に振って、それ以上の追求をしないように合図する。私はゆっくりと姿勢を正し、義母の目を見つめて口を開いた。
「最後に一言だけ申し上げます。学歴の高さではなく、人としての誠実さこそが大切だと、私は両親と現場の先輩方から学んでまいりました。お母様にも、これからの長い時間の中で、それを少しでも考えていただけたらと願っております。」
義母は、うつむいたまま声を絞り出すようにして、容疑をはっきりと認める供述を始めた。自分が関与した架空伝票の枚数、署名の経緯、夫から指示を受けた具体的な内容を、一つ一つ言葉にしていく。時折り義母が嗚咽を漏らす中、供述を取る作業は二時間も続いた。休憩時間には、義母にお茶を出した。彼女はその湯呑みを両手で包み、しばらく黙って湯を見つめていた。
「私は、あなたにも、あなたのお母様にも、本当に取り返しのつかないことを。」
「そのお話は供述とは別の話です。今は、ゆっくりお茶を飲んでください。」
私は努めて事務的な口調を保った。しかし、義母のこの言葉が、私の中の一番柔らかい部分を不意についてきたことは事実だった。それでも取調室は、私情を持ち込む場所ではない。その夜のうちに、義母は私文書偽造及び業務上横領の容疑で、書類送検が決定した。また同じ日の夕方、別動隊の捜査員によって、義父に対する逮捕状も執行されたらしい。容疑は業務上横領、廃棄物処理法違反、そして詐欺未遂の三本立てだ。義父は自宅の居間まで逮捕状を提示された際、抵抗することはなかったという。捜査員の話によれば、義父は逮捕の瞬間、床の間に掛けられていた家族写真を一度だけ見上げたらしい。その後、深く頭を下げて連行されたとのことだった。写真の中央には、高の幼い頃の笑顔が映っていたという。
義父が容疑を認めてから二週間後の日曜日、地元の地方紙の社会面に静かな見出しの記事が載った。「県内大手建設会社 木村建設社長を業務上横領で逮捕」。そして同じ紙面の下段には、社長夫人による文書偽造事件の文字が見える。さらに長女に対する相続税法違反調査も報じられていた。朝の食卓でその記事を読んだ母は、新聞をゆっくりと閉じた。
「綾乃の仕事は、こういう静かな形で結末を迎えるのね。」
その後の経過は、関係者一人一人にとってそれぞれの形で訪れた。義父は公判前半で基本事実を全て認め、執行猶予のつかない実刑判決を受けた。義母は書類送検後、執行猶予付きの有罪判決だ。刑務所行きこそ免れたものの、社会的な信用は完全に失われた。義母の姉である誠は、贈与税の追徴と高額な延滞税の支払いを命じられ、金銭関係に苦しんでいるらしい。近所では木村家の事件は大きな話題となり、義母が自慢していた旧家としての体面は、全て崩れ落ちた。最終的に木村家は地元での生活を続けることが難しくなったという。義母と誠の二人で、別の県の小さな賃貸住宅へと移っていったとの知らせを、孝太郎さんから聞いた。
「綾乃さん、長い間、本当にありがとうございました。」
「孝太郎さんこそ、披露宴で勇気あるお言葉をくださいまして、ありがとうございます。」
彼は穏やかに微笑み、新しい暮らしの中で高とそうを見守ると、改めて私に約束してくれた。義母から高とそうへの接触は、それ以来一度もない。高は家庭裁判所への手続きを通じて、戸籍上も実家との関係を整理した。今は松本家の人間として、新しい人生を歩み始めている。そうは警察署の勤務を続けながら、高を支え続けている。二人の暮らしには、事件の影がほとんど残らないほどの穏やかさが取り戻されていった。そして、地元の建設業界でも木村建設の倒産に伴い、新たな風が吹いた。これまで支払いを保留されてきた下請けの職人たちへの配当処理が、裁判所を通じて進められていったのだ。塗装店の男性は、その後も「松本さんのおかげで、うちは立ち直れた」と、私が立ち寄るたびに頭を下げ続けてくれる。
そうの結婚式から一年後の春、町の桜は散り始め、若葉が見えるようになっていた。私は今日もいつものように、警察署までの道のりをゆっくりと歩く。母は元気を取り戻し、地元のシニアサークルで新しい友人と笑い合うようになっていた。高は新しい命を宿し、近いうちに私はおばになる予定だ。署の机につき、私は配属されたばかりの新人巡査に書類の読み方を、一つ一つ教え始めた。書類を広げる手元に、窓の外から桜の花びらが一枚、ふわりと舞い込んでくる。その花びらをそっと指先に乗せながら、心の中で静かに思った。学歴はなくても、私は私の道を歩いてきた。母を支え、弟夫婦を見守り、見知らぬ人を守る。その三つの誓いが、私の中で穏やかに重なり合いながら、次の一日を照らしていた。


