オフィスの会議室で、俺は呆然と立ち尽くしていた。
目の前には人事部長と総務課長、そして直属の上司である営業課長の石井さんが腕を組んで座っている。
「逆下。お前、正直に言ってくれ。あの見積もりデータ、誰が手を加えた?」
「それは俺じゃないって、前も言いましたよね。」
「でも最終提出ファイルにお前のログが残ってるんだよ。USB使ってたろ。」
「そりゃそうですけど、俺が上書きしたのは、あの金額が書き変わる前のデータです。あれが改ざんされてたっていつからなんですか?」
「社外システムのアクセス履歴を見る限り、改ざんが行われたのは月曜日の午後9時過ぎ。まさに君がそのファイルを開いていた時間だ。」
「いや、俺は開いただけで、内容なんていじってないっすよ。その日は提出の締め切りだったから、確認しただけで…」
「証拠があるもんでな。申し訳ないが、これ以上は弁明のしようがない。」
石井課長が重い声で言い放った。
「逆下。お前は今日付けでしばらく自宅待機だ。場合によっては懲戒処分もありうる。分かってるな。」
懲戒処分。つまり、首ってことだよな。
俺は深く息を吸って、言葉を押し殺すように言うしかなかった。
「…わかりました。」
俺の名前は逆下涼介。32歳。中堅商社で営業職として働いている。
実を言うと、俺の実家は業界では知られた企業の創業家で、父は会長、兄はその後を継いで、現在40代にして社長。
だが俺はと言うと、そんな家柄に反発し、まるで別の道を選んだ。
就職活動を始めたのは大学3年の時だ。
両親は兄と同じ道を歩くようにと、俺を系列にねじ込もうとした。
「兄貴を見習って、うちで働けばいいじゃないか。涼介。わざわざ苦労を選ばんでも、うちにいれば安泰だぞ。」
父も母もそう言って俺を説得するが、俺は頑なに首を振った。
「兄貴のコピーになんかなれるか。そんなの嫌だ。俺は俺でやるんだ。」
そう言って俺は家を飛び出した。
元々学業成績はパッとしなかった。講義はサボりがちで、単位はギリギリ。就活を始めても、面接で話せるような経験は皆無だった。
親の言う通りにしていれば、系列やその関係会社に入ることもできた。だが、それだけは嫌だった。
親に敷かれたレールに乗るのはごめんだ。クソ野郎だよ、そんな人生は。そう思っていた。
きっと他人から見れば、バカみたいに青臭くて現実知らずの理想主義者に映ってたと思う。けど、俺にはそれしか選べなかったんだ。
自分の足で立たなきゃ、生きてる意味がないような気がしてた。
でも、そんな中での就職活動は、やっぱりなかなかハードな道だった。
バイトで食いつなぎながらハローワークにも通い、ブラックっぽい会社に面接で落とされ、散々な目にあった。
「面白い経歴ですね。親が有名だからって甘えないとこは評価しますが、正直あなたに何ができるのか。」
そんなことを何度言われたかわからない。
でも、とある採用担当者にこう言った時、相手は苦笑しながらも認めてくれた。
「変わってるなあ、君。でも根性はあるみたいだな。来なさい。」
その一言で決まったのが、今働く会社だった。
給料は安く、仕事はハード。でも俺はガムシャラに働いた。最初の3年は数字も全然上がらなかった。何度もミスして、上司にも怒られた。でも、逃げなかった。
7年目くらいからようやく自分の顧客がつき始めて、会社でもちょっとだけ評価されるようになった。
「逆下、お前最近よくやってるな。もう少し営業成績上げたら、主任に昇進させてやれるかも。」
そんなことを言われ、浮き足立っていた。それがちょうど先月のことなのに。
「どういうことすか、それ…」
オフィスを出ると、朝から降っていた雨は昼を過ぎても止む気配はなく、強い風と共に吹きつける冷たい粒がネクタイを濡らした。
駅までの道すら俯き加減に歩きながら、俺は呟いた。
「…首も覚悟しろってことか。なんで、こんなことに。」
帰宅後、スーツを脱ぎ、リビングに寝転んで天井を見つめた。
スマホには会社からの通知。自宅待機中の外部連絡は禁止。まるで犯罪者扱いだ。
俺の10年って、一体何だったんだろうな。
風呂に入っても酒を煽っても、あの瞬間の部長の無表情な顔と課長の冷たい目が頭から離れなかった。
部屋の明かりもつけず、ソファーに沈み込んでいた俺。
そんな時、スマホが震えた。母からの着信だ。
「はい。」
「涼介、今大丈夫?」
「ああ、まあ大丈夫だけど。」
「ちょっと大事な話があるの。あのね、実はね…」
母の声は妙に明るかった。けど、どこか芝居じみていて、なんだか嫌な予感がする。
「お父さんと相談してね、代理でお見合いの段取りをつけたの。来週の日曜、午後から空いてるでしょ。」
「はあ? 見合い?」
「ほら、最近は親同士が先に話を進めるのが流行ってるって言うじゃない。親同士の婚活交流会っていうの? ネットにも載ってたわ。あなたのお相手もね、ちゃんと調べて、いい人だったから大丈夫よ。」
「ちょ、ちょっと待って。俺、今そういう状況じゃないし。急にお見合いとか言われても困るよ。それに、なんだよ、親同士の婚活って…」
俺はスマホを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。
親が子供に代わってプロフィール登録や紹介、最初の連絡まで行い、お見合いを設定する。親の代理お見合いパーティーなんてイベントもあるらしい。
うちの親は2人とも昔ながらの人間だ。結婚してやっと一人前だって本気で思ってる。
俺が32にもなって一人身なのを、恥ずかしく思ってるのだろう。
その気持ちも分からなくもないが、32で独身の男なんて今の時代たくさんいるし、大体、仕事を失いかけて将来が見えなくなってる。今、結婚とか、そんな大事なことを考える余裕なんてない。
なのに母は悪びれもせず、明るい声でこう続けた。
「今時は親が動くのも普通なのよ。心配だからこそなの。とにかく、来週末、断る理由なんてないでしょ。人生って何が起きるかわからないんだから。お願い、涼介。とにかくお見合いしてみて。断るかどうかは、それから決めればいいの。」
「おい、代われ。」
電話の向こうで父の低い声が聞こえた。
「一人で頑張ってるお前のことを、ちゃんと誇りに思ってるんだ。家の権威を使わず、立派にやってるってことも、お見合いの相手方に話してある。向こうのご両親も、すごく感じのいい人だったぞ。」
「いやいや、だからって、そんな大事なこと勝手に決めんなよ。今の俺が誰かと話なんてできるわけないんだよ。」
しかし、結局俺の意見は受け入れられることもなく、押し切られるようにして電話は切れた。
しばらくソファーに沈み込んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
首の危機で頭がいっぱいだったはずなのに。気づけば、お見合いという言葉が脳内をぐるぐる回っていた。
仕事を失いかけて、自信もプライドもズタボロ。そんなタイミングで知らない誰かと結婚前提で会えって…。
普通に考えたら、断る一択だ。
けど、ふと親父の声が耳に残った。
「一人で頑張ってるお前のことを、ちゃんと誇りに思ってるんだ。」
こんな風に言われたのは、初めてかもしれない。まるで自分の選んできた道を肯定されたような気がして、少しだけ心が動いた。
それに、自宅謹慎中だ。どうせ家に引きこもっても、何も変わらない。
「まあ、顔ぐらい合わせて…無理だと思ったら帰ってくりゃいいか。」
ため息混じりにそう呟いて、俺はようやく重たい腰を上げた。
日曜の午後。指定されたホテルのロビーは、静かで上品な空気が漂っていた。
ビシッとしたスーツを身にまとい、緊張を押し殺しながら個室のドアを開ける。
部屋にはすでに向こうのご両親と女性が揃っていた。
穏やかな雰囲気の女性が、俺を見て柔らかく微笑む。
「五藤美香です。今日はお忙しい中、ありがとうございます。」
その瞬間、俺は言葉を失った。
綺麗な人。それが最初の印象だった。清楚で落ち着いた雰囲気。透明感があるのに、芯の強さを感じさせる瞳。
うちの両親が話す横で、美香さんのご両親はニコニコと穏やかに相槌を打つ。姿勢も言葉遣いも丁寧で、温かさが滲み出ていた。
母は相変わらず張り切っていて、俺のこれまでの話を得意げに語り出す。
「涼介はね、ずっとうちのコネを使わずに、自分の力で頑張ってるの。色々あったけど、それでも10年ちゃんと働いてきたんですよ。」
父も続けるように頷いた。
「不器用だけど、筋は通すやつなんです。」
俺は苦笑いを浮かべながらも、両親のそんな言葉が少しだけ嬉しかった。
美香さんのご両親も、決して押し付けがましくなく、柔らかい物腰で時折冗談を交えながら場の空気を和ませてくれる。
緊張していたはずの俺の方も、いつの間にか少しだけ力が抜けていた。
そんな中、店員がタイミングを見てお茶とお菓子を運んできた。
湯気の立つお茶を前に一呼吸ついたところで、美香さんのお父さんが口を開く。
「じゃあ、私たちはこの辺で。あとは若い人たちでゆっくりお話ししようね。」
「そうね。私たちは向こうのラウンジで美味しいお茶でもいただきましょうか。」
「ええ。じゃあ、ごゆっくりね。」
両親たちは席を立ち、店の奥にあるラウンジの方へと歩いていった。
テーブルには俺と美香さんの二人きり。
少しだけ沈黙が続く。
そして、俺は決して口を開いた。
「実は俺、今ちょっと仕事のことで問題があって…自宅謹慎中なんです。もしかしたら、首になっちゃうかもしれなくて。」
「え? あ、ああ、そうなんですね。」
美香さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を柔らげ頷いた。否定もしないし、詮索もしない。ただ静かに受け止めてくれた。そんな優しさを感じた。
「だから、今女性とこうやって向き合う余裕なんてないっていうのが正直なところでして。親がどうしてもって言うから、しぶしぶここに来ました。…ごめんなさい。せっかく来ていただいたのに。」
こういうのは取り繕っても、どうせすぐバレるものだ。バレるなら、最初からさらけ出した方がいい。
そう思って正直に話した。すると、美香さんは小さく笑った。
「実は私も…」
「今のところ特に結婚願望もないし、仕事も落ち着いてきたばかりで楽しいし。でも、親はすごく心配してて。『娘の幸せのために動くのが親の勤めだ』なんて言って、親同士が会って代理でお見合い組んじゃったって聞いた時は戸惑いました。」
「でも、親の気持ちも少しは分かるし、無下にもできなくて。とりあえず来てみたんです。」
思わず笑ってしまった。俺も全く同じだったから。思いがけずお互い共通点があったことに、少しほっとした。
「だから今日来る時、正直何の期待もしてなかったんですよ。でも、こうやって涼介さんとお話できて、良かったなって思ってます。」
美香さんは穏やかな笑顔で頷いてくれていた。その優しい笑顔に、俺はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
気がつけば、俺は会社で起きたことを美香さんにぽつりぽつりと話していた。
「営業成績も悪くなかったんです。上司から直接褒められたりもしてたし。でも、それが面白くなかった奴がいたんだと思います。実は…多分、社長の息子じゃないかなと思ってて。そいつ、同期なんですけど、昔一度会社を飛び出して別のとこで働いてたんですよね。結局うまくいかなくて戻ってきたんですけど…」
「社長の息子さんが、優秀なあなたを妬んだってことですか?」
美香さんは納得したように小さく頷いた。
「まあでも、そいつがやったって証拠があるわけでもないし、俺の妄想でしかないんですけど。今更騒いでも仕方ないですしね。でも、辛かったのは…俺がやってないって言ってるのに、信じてくれる人がいなかったことです。」
「でも、それも自分のせいかもしれませんよね。信頼って、日頃からの積み重ねだから。」
「涼介さんはすごい人ですね。」
美香さんが感心したように目を細めて微笑んだ。
「だって、自分が傷ついてるのに、それでも冷静に周りのことを考えてて、自分の責任も受け止めようとしてる。そんなことできる人、なかなかいませんよ。」
「いや、そんな格好いいこと言わないでくださいよ。俺なんか、全然ダメなやつですよ。」
「そうやって謙遜できるところも、ちゃんと自分の足で立ってる証拠です。」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
この人は、ちゃんと見てくれてる。俺が必死に踏ん張ってきたことも、どうしようもなくて苦しかったことも。言葉の端々から救い取って、優しく包んでくれる。
たった1時間足らずの会話なのに、まるで長年の友人のような安心感があった。
「今日はありがとうございました。思っていたより話しやすくて、楽しかったです。」
美香さんは少し照れたように言いながら、軽く頭を下げた。
「こちらこそありがとう。正直来るのは憂鬱だったんだけど、話せて良かった。」
お互いに少し照れくさそうに笑い合った。
「また、こうやって話せたらいいですね。」
「うん。そうですね。」
見送りの際に握手を交わし、俺たちはそれぞれの家路についた。
そして、俺の自宅謹慎が開けた日。
重い足を引きずるようにして会社の正面玄関をくぐると、視線が一斉にこちらへ向いた。
露骨にひそひそと話す者もいれば、目をそらして無関心を装う者もいた。針のむしろとは、まさにこのことだ。
俺は黙って自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。
その時、部長の声が響いた。
「逆下。会議室に来てくれ。第三者調査委員会の人が来ている。」
一瞬心臓が跳ねた。けれど、緊張よりも、どこか諦めに近い感情が心を支配していた。
会議室の扉を開けると、スーツ姿の3人の男女が座っていた。資料を前に、静かにこちらを見ている。
その中の1人に、俺は目を疑った。
美香さんだった。
美香さんは落ち着いた表情で軽く会釈し、俺を見た。
「逆下涼介さんですね。今回の内部通報に基づく調査報告について、正式にご報告します。」
美香さんの隣に座った男性が、淡々としかし丁寧に説明を始めた。
事の経緯、調査の過程、証言と証拠の内容。そして――
「結論から申し上げますと、逆下さんに不正の事実は確認されませんでした。むしろ、社内の一部の人間による組織的な虚偽報告が発覚しまして…」
俺は言葉を失った。
「業務データの改ざん、アクセス履歴の偽装、取引先とのやり取りの内容を偽る報告書。いずれも、作為的に仕組まれたものと見られます。そして、その主導とされるのが、社長のご子息である逆上一さんです。」
俺は思わず息を飲んだ。やはり、そうだったのか。
「本件については、社内規定及び法務部と協議の上、調査委員会に付されることになります。なお、逆下さんには一切の責任がないことが確認されました。」
そう締めくくられた時、背中に張り付いていた緊張が一気に解けた。全身の力が抜け、座っていられるのがやっとだった。
会議室を出た後、廊下の隅で俺は美香さんに声をかけた。
「まさか、美香さんが第三者委員会の一員だったなんて。」
「驚かせてしまってごめんなさい。あなたの名前を見た時、私も本当にびっくりしたの。お見合いであったばかりの人の調査をすることになるなんて、思ってもみなかった。」
「俺も驚いたよ。お見合いの日、美味しいものを味わうように俺の話を聞いてくれた美香さんに救われた気がしてたけど、ここでまた美香さんに助けられるとはね。本当にありがとう。」
美香さんはゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「助けた覚えはないわ。事実を調べた結果、ってだけ。それにね、あなたが家族や周りの期待に縛られず、自分の信念で生きようとしてるところ、すごく共感できて。なんだか他人だと思えなくて。」
俺は目を伏せて、ただ黙って頷いた。
この人になら、もう少しだけ本当の自分を見せてもいいかもしれない。そんな気持ちが、静かに胸に芽生えていた。
それから、俺たちは時々二人で食事に行くようになった。
仕事のことで悩みながらも、それでもひたむきに前に進もうとしている美香さんの姿に、俺は何度も励まされた。
どんなに辛くても、彼女は決して弱音を吐かなかった。自分の中に軸を持って、静かにでも確かに歩いている。そんな姿が眩しかった。
そして、気づいたんだ。
美香さんの前では、俺は変に気取らなくていい。見栄を張らなくても、格好悪くたって、大丈夫だった。
ありのままの自分でいられる。それが、こんなにも楽で、こんなにも温かいことなんだって。彼女といる時間が教えてくれた。
数ヶ月後、俺たちは両親に報告した。
「美香さんと結婚します。」
テーブル越しにそう告げた瞬間、両親はぴたりと動きを止めた。一瞬の沈黙の後、母が「えっ」と小さく声を上げ、父は目を丸くしたまま俺を見つめた。
驚くのは当然だろう。結婚を望んでお見合いさせたのは両親ではあるが、正直、ただの形だけの場だと思っていたはずだ。
でも、母はすぐに表情をほころばせた。
「本当に良かったじゃない? 涼介。」
嬉しそうに微笑んだ。父も小さく咳払いしながら、「そうか、そうか」と何度も頷き、俺と美香さんを交互に見た。やがて、少し照れたような声で言った。
「…いいご縁だったんだな。本当に良かった。不器用なとこもある息子だが、どうかよろしく頼むよ、美香さん。」
その言葉に、美香さんは控えめに頭を下げながらも、柔らかな笑みを浮かべた。
その横顔を見て、俺はふっと胸が温かくなるのを感じた。
ようやく、自分の足で選んだ道を、自分の言葉で、自信を持って両親に伝えられた。そして、受け入れてもらえた。
その事実が、思っていた以上に俺の心を軽くしていた。
そして、俺は心の底から思った。
この人となら、大丈夫だ。
今度こそ、自分の人生にちゃんと胸を張って、進んでいける気がしていた。
これからは、美香と二人で。自分らしく、ありのままに、軽やかに生きていこうと思う。



