夫を葬って三日目、おしずは裏木戸から追い出された。木戸の前には村の者たちが見物に集まり、ざわめいていた。かつては学問をもって知られた瀬の家も、当主の新之助が病に倒れ、畑に粗末にされたこともあり、家計は年々細っていた。
義弟の伊之助が足元に紙を二枚投げつけた。一枚は借金の控えだった。亡き夫が自分の持ち分である村外れの石田を抵当に入れ、商人の十蔵から五両を借りたという証文だ。返済期限は三ヶ月。それを過ぎれば石田は十蔵のものとなる。もう一枚には、おしずと瀬との縁を切るという短い文が記されていた。二枚の紙を拾い上げた瞬間、おしずは夫を失ったばかりか、帰る家まで失ったことを悟った。
傍らで落葉が目をそらすように背を向け、庭の隅では六つのお雪が母の裾を握りしめていた。伊之助は、この借金さえ片付けば家が立ち直ると信じ込んでいた。新之助が亡くなった後、返済を秋まで待ってほしいと十蔵に頭を下げたのも伊之助自身であり、まさかその居丈高な態度を利用され、自分の家まで危うくすることになるとは思ってもいなかった。
「借金だ。尿房が返すのが当然だろう」
伊之助はそう言ったが、おしずには検討もつかなかった。読書を好み、田畑仕事にも励んだ夫が、なぜ五両もの大金を借りたのか。新之助は病に倒れてからというもの、家や後のことを何ひとつ定めぬまま亡くなり、その隙をついて伊之助が瀬の当主の座を奪っていた。義母は、嫁と幼い孫を守りたい気持ちがなかったわけではなかったが、この借金のことで家全体が十蔵に目をつけられては一家が潰れかねないという恐れが先に立ち、伊之助の言うままに黙ってみているしかなかった。
ただ、息を引き取る間際に夫が残した一言だけが耳の奥に残っていた。
「お雪を……お雪を頼む」
おしずは二枚の紙を風呂の奥に押し込み、顔を上げた。
「借金は私が返します」
声は震えていたが、はっきりとしていた。村の者たちがひそひそと囁いた。若い女一人でどうやって返すのかと。伊之助は最後に一冊だけ持たせて欲しいという願いに応じ、縁側に積まれた書物から適当な一冊を掴んで投げた。表紙のすり切れた手習い本だった。お雪が駆け寄り、両手でその書を拾い上げた。
「父様の本だ」
おしずはそれを受け取り、風呂に大切にしまった。裏木戸が背後で閉まると、おしずは一度も振り返らず、お雪の手を引いて村外れの石田へ向かった。道すがら、堂々と建つ立派な屋敷の前を通りかかると、十蔵がキセルを加えてゆっくりと出てきた。
「瀬の嫁だったな。替えは休眼で良い。借入れの頃にあの石田さえ無事に渡してくれれば、互いに気まずい思いをせずに済むというものだ」
十蔵はキセルを軽くはたくと、灰がおしずの草履の先にパラパラと落ちた。おしずは屋敷の裏に広がる田畑を見た。それぞれの畦には十蔵の名を記した木札が打たれていた。この村の田畑の多くは、いつの間にか十蔵の名義に変わっていた。教作の際に金で銭を貸し付け、返せぬ百姓から少しずつ田畑を集めてきた男だった。村人は表向き旦那様と持ち上げながら、影では蛇蔵と呼んで恐れていた。
日が暮れ近く、ようやく石田にたどり着いた。田と呼ぶのもおこがましいようなありさまで、土より石の方が多く、地面はひび割れていた。見渡す限り緑と呼べるものはどこにもなく、あるのは白らけた土と無造作に転がる石ばかりだった。風が吹く度に乾いた土埃が舞い上がり、二人の裾にまとわりついた。
「母様、お腹空いた」
お雪の声に、おしずは風呂の底にわずかに残っていた麦を取り出し、その一握りで粥を炊いた。
「母様は食べないの?」
おしずは首を振った。
「母様はさっき食べたのよ。お雪はちゃんと食べなさい」
それは嘘だった。
娘が眠りに着いた頃、小屋の外で物音がした。
「お嬢様、私でございます。剛治でございます」
白髪の老僕が腰を折って入ってきた。新之助を幼い頃から背負って育てた瀬の古い召使いだった。剛治は若い頃、隣国から流れてきた身寄りのない男で、瀬の先代に拾われて以来、四十年近くこの家に仕えてきた。新之助が生まれた時から側にいた剛治にとって、その忘れ形見であるお雪は孫も同然の存在だった。だからこそ、瀬の家がおしずとお雪を追い出すと決まった時、剛治は迷わず自分もこの家を出ると決めたのである。
革袋一つと、長年働いて貯めた銭の全てを差し出した。さらに、納戸に残されていたおしずが嫁入りの折から使っていた古い味噌樽も運んできた。糸の城を渡されたとはいえ、おしず自身の持ち物まで奪われる筋合いはないと剛治が持ち出してきたのである。おしずはその革袋を受け取り、堪えきれず頭を下げた。
「この恩義が帰って恥ずかしいことになりはしませんか」
「何をおっしゃいます。お嬢様、剛治が来てくださって、この石田が随分と心強くなりました」
三人が身を寄せ合うと、忍び込む冷たい風もどうにかしのげた。ところが、夜更け、小屋の外の闇から男二人の声が聞こえてきた。かすかな灯りの中、笠を深く被った二つの影が田の周りをゆっくりと歩きながら、何やら囁き合っていた。
「様はもうあの石田を狙っておられるそうだ」
「あの女一人で農道やって返すというのか」
「借入れが済めば、土地も人も十蔵様の手に落ちるだろうよ」
おしずは息を殺した。借金の抵当に押し付けられたはずのこの土地すら、すでに誰かが丸ごと狙っていたのだ。
翌朝から、おしずは石を拾い始めた。拳ほどの石、頭ほどの石。鍬で掘ればまた出てくる石を田の淵に積んでいくと、いつしか低い石垣ができた。それでも一鍬掘ればまた石が現れた。日には容赦のない日差しが照り付け、おしずの手のひらには水膨れができては潰れ、また硬くなっていった。
お雪も小さな手で石を運びながら、「母様、私ももう一人前だね」と笑った。剛治は谷川まで行っては水を汲みに行ったが、乾いた田はその水をたちまち吸い込んでしまった。通りかかった村人は、女一人が石田で何を猿芝居をしているのかと囃し立てたが、おしずは聞こえぬふりをして鍬を振り続けた。
田の真ん中に突き出た大岩は、剛治と二人がかりで三日かけてようやく転がし終えた。その後の穴の底が、田の他とは違って黒く湿っているのにおしずは気づいた。
「ここに古い水路の跡があったのかもしれません」
剛治はそう呟きながら湿った土の下を少し掘ってみたが、滲み出る水はほんのわずかで、田を潤すには到底足りなかった。それでも、この土地のどこかに水の通り道が眠っている。その手応えだけは残った。
掘り出した石の中には、古い水路の目印ように四角く削られた石も混じっていた。この日、遠くの畦から十蔵がキセルを手にじっとその穴を見つめていたことに、誰も気づかなかった。十蔵は数日後、安介を呼びつけ、あの女はどこまで掘り進めたのかとしつこく尋ねた。十蔵はかつて、村の古い庄屋や寺に伝わる文書をこっそり目にしたことがあった。あの石田の下に、上流から水を引く隠れた水脈が通っているらしいという曖昧な言い伝えだった。確かな場所までは分からぬまま、十蔵は長年その土地を安く手に入れる機会を狙っていたのである。もしあの水脈が本当に開けば、火流の谷まで水を分け与える力を握ることになる。それは村中の命を握るに等しいことだった。
ある夜、手習い本を広げてお雪に文字を教えていた時、表紙の隅が湿気で浮き上がり、剥がれた隙間から折りたたまれた紙が滑り落ちた。おしずが拾い上げて開くと、それは紛れもなく夫の筆跡だった。
「しず、これを見ているならば、私はもうこの世にいないのだろう。三年前の飢饉で村の者が次々と倒れたことを覚えているか。あの時、私は十蔵から借りた五両で薬と粥を買い、飢えに苦しむ家に配った。そなたに黙っていたことこそ、私の身勝手だった。返せる目途もないまま借金をしたのは愚かなことだった。いつか自分の手で返し、笑って話せる日が来ると思い込んでいたが、体がこれほど早く尽きるとは考えていなかった。この借金を残すことになり、すまない」
おしずは声を殺して泣いた。あの人は自分のために借りたのではなかった。あれほど恨めしく思っていた借金が、急に愛おしいものに見えてきた。夫は一人で抱え込んで黙っていた。剛治も涙をこぼしながら頷いた。
「旦那様らしゅうございます。いつもご自分の苦労より、他人の苦しみを先に思いになるお方でございました」
そんなある日、十蔵の手代の安介がやってきた。十蔵が保管している借用証の原本を広げ、元金五両に月一割の利がついて、四ヶ月で二両、合わせて七両だと告げた。おしずの顔が青ざめた。
「利がそんなに膨らんでおりますか」
「旦那様のお決めになったことだ。文句を言っても仕方あるまい」
安介は黄ばんだ歯を見せた。実のところ、この二両の利は十蔵が安介に命じ、原本へ後から書き加えさせたものであり、おしずが持つ控えには元金五両としか記されていなかった。安介はそれが偽りだと知っていたが、旦那の命に逆らえば自分も村で生きていけぬと己に言い聞かせ、命じられるまま従っていた。
おしずは青ざめた顔のまま、それでも七両という額を胸に刻み、
「わかりました。必ずお返しします」
とだけ答えた。心の中では到底払える額とは思えなかったが、それでも弱みを見せまいと背筋を伸ばして安介を見返した。安介は植えたばかりの苗へわざと足を踏み入れ、青い苗を踏みにじった。お雪が泣き出したが、安介は唾を吐いて去っていった。その足取りにはどこか重たい影があり、開いたままの手習い本の表紙が目に入ると、安介は妙に居心地の悪さを覚えて立ち止まった。だが、首を振りそのまま去っていった。
実のところ、安介は幼い頃、夜更けに自分の家の木戸先へ粥を置いて立ち去る新之助の姿を偶然見ていたのだ。その後、同じ手習い本を使って文字まで教わり、すり切れた表紙の痛みを体が覚えていたのである。
その日から雨が降らなかった。田はさらに深くひび割れ、谷川の水さえ底を見せた。おしずが水を汲みに行けば、村の男たちが道を塞いだ。女の田に分ける水はないと追い返され、剛治が夜中にこっそり汲んでいても、見つかれば胸倉を掴まれ蹴られた。苗は日に日に枯れ、粥の袋も底が見えてきた。
「母様、今日はお粥がないの?」
お雪にそう尋ねられ、おしずは湯にだけ塩を溶かして飲ませた。日に日に痩せていく娘の姿を見るたび、おしずは自分の不甲斐なさを責めずにはいられなかった。見かねたおしずは、嫁入りの時に母がくれた銀のかんざしを持って質屋へ向かった。
「質草が減っておるな。これでも高く取ってやっているのだぞ」
主人は雑穀二袋分の値しかよこさなかった。騙されていると知りつつも、おしずは頷くしかなかった。
ある夕暮れ、枯れた苗を一握り引き抜いたおしずが田の淵に崩れ落ちた時、畑の向こうに小さな影があった。赤汚れた着物をまとった十歳ばかりの男の子だった。
「おばさん、その田んぼ、生き返らせられるよ」
おしずは涙を拭いながらその子を見た。大人でも救えなかった田を、生き倒れ同然の子供が救うというのか。ありえない話だと思いながらも、腹の虫が鳴るのを聞いて、おしずは最後の雑穀で粥を炊いてやった。子供は夢中でそれを掻き込んだ。お雪が「母様、あの子、私より食べるのが早い」と笑った。名を尋ねると、松と名乗った。粥を食べ終えた松は、懐から削って作った小さな木の鳥を取り出し、お雪に握らせた。二人はすぐに手をつないで、田道を駆け回るようになった。やつれて横になってばかりいたお雪が、久しぶりに声を立てて笑った。
夜になると、松はお雪と並んで手習い本を覗き込み、優しい声で一字一字を指さして教えてやった。お雪はその教え方がまるで学者のように的確なので、剛治は幾度も首をかしげた。
「この坊や、ただの物乞いの子ではございませんな、お嬢様」
おしずも同じことを感じながら、あえて問い詰めることはしなかった。気が沈むと松は決まって西の空をじっと見つめる癖があり、お雪が「松は何を見ているの」と尋ねることもあったが、「ただ、遠くのことを考えていただけですよ」と笑ってごまかすのだった。
松は田の土をなめ、枯れた根を長く見つめてから言った。
「水が足りぬのも確かです。ですが、それだけではありません。この土は、水を抱く力も苗を養う力も失っています。植えた土には、飯を食わせねばなりません。御宅に古い味噌がありますね。それを豆と米ぬかに混ぜて、三日ほど寝かせ、田んぼに巻いてください」
剛治は驚きひたすらため息をついたが、松の目には迷いがなかった。
「信じて、一度やってみてください。三日で答えが出ますから」
お雪が母の袖を引くと、おしずもついに心を決めた。松は、あの大岩の後に残った湿った穴を指し、
「ここをもう少し掘ってみてください」
と言った。剛治が穴の底を掘り進めると、石の隙間から、田の底に眠っていた水がゆっくりと染み始めた。多くはなかったが、確かに水だった。松はその水をすくってなめ、腐った匂いではないことを確かめてから頷いた。
「この水を活かすには、まず土に力を戻さねばなりません」
おしずは言われた通り、豆と米を味噌の樽に混ぜ込み、藁で温めた湯を注いで蓋をした。寝かせて二日目の夜、小屋の外で枝を踏む音がした。十蔵に田を元に戻せぬよう、豆を壊して来いと命じられた安介が忍び込んでいたのだ。手をかけようとしたその時、灯りに照らされた手習い本の表紙が目に入り、安介の手が止まった。あの日分けてもらった粥の味と、新之助の声が蘇った。今目の前で眠るお雪があの本で文字を習っているのだと思うと、安介はどうしても樽に手をつけることができなかった。
「俺は一体、何をしているのだ。恩のある人の忘れ形見が、こうして苦しめる側に回っているとは」
安介は闇の中でしばらく立ち尽くしたまま、拳を握りしめていた。
翌朝、屋敷に戻った安介は、十蔵に「樽はすでに壊しておいた」と嘘をついた。十蔵はその報告を疑わず、満足に笑ったが、安介の胸のうちでは初めて、旦那への忠義よりも重いものが芽生え始めていた。
三日が過ぎた明け方、おしずは樽を抱えて田に向かった。村人が集まり、ゲラゲラと笑った。手を叩いて囃し立てるもの、遠巻きに呟くもの。それぞれの顔がおしずの目に入った。おしずは樽を傾け、黄色い味噌が水面に広がると、泥の中から土上が白い腹を見せて浮き上がった。
「ほら見ろ。自分の田を、自分の手で壊したぞ」
「気が触れた」
村人は腹を抱えて笑った。畑の向こうで十蔵が口の端を上げた。おしずは膝が震え、剛治は地面を叩いて悔しがった。しかし、松だけは静かに頷いた。
「これでいいのです。あとは、待ってください」
その日の昼過ぎ、お雪が村の子供たちに味噌女と囃し立てられ、泣きながら小屋に駆け込んできた。おしずはその小さな背中を撫でながら、涙を見せまいと歯を食いしばった。村人の反応は一様ではなかった。ある者は面白半分にあざけり、ある者は心の中では気の毒に思いながらも、助けに出る勇気はなかった。
それでも三日目の朝、おしずが震える足取りで田に近づき、水を覗き込むと、その場に凍りついた。三日前に白い腹を見せて浮いていた土上が、泥の底で再び身をくねらせ、力強く泳ぎ始めていたのだ。さらに数日が過ぎると、水中には小さな虫が動き始め、やがて田の周りからカエルの声も聞こえるようになった。二週間が経つ頃には、田の水が澄み、土上も少しずつ肉付きが良くなっていた。半月を過ぎた頃には、ざるで救えば一掴みほどの土上が取れるようになり、おしずはそれを慎重に桶へ入れ、まずは小さな町から商いを始めた。一月が過ぎる頃には、市場で売り歩き、久しく触れなかった銭を手にした。
「御宅の土上が良いと聞いたが、一番下さい」
「二袋包んでください」
桶はあっという間に空になった。孫が回復したという老婆から礼の品をもらい、
「あんたの土上が好きでね。うちの孫があんたの土上汁で息を吹き返したのですよ」
と老婆は目を細めた。
夜、布を広げて銭を数えながら、おしずはふと「これでようやく、あの人との約束を果たせそうです」と縁側に向かって囁くこともあった。お雪には新しい木綿の着物を仕立ててやり、
「母様、私はもう子供じゃないね」
と言われて、おしずは胸が熱くなった。旅の薬売りまでもが「瀬の土上」だと聞きつけて買いに来るようになった。この日、市場の隅ではあの薬売りが一杯の土上汁を用い、周りの客の様子をじっと見てから静かに立ち去っていった。誰も気に留めなかったが、実はその男は若様の密偵であり、見聞きしたことを誰かに知らせる役目を担っていたのである。
しかし、噂は十蔵の耳にも届いた。借入れを待てば苦労せず手に入るはずの石田が生き返り、借金まで返されそうになったのだ。十蔵は腹の内が煮えくり返り、安介に「あの田がなぜ生き返ったのか調べろ」と命じた。安介はその夜、田の様子を見に行くふりをしながら、実際にはおしずに危険を知らせようかと幾度も迷ったが、まだ旦那への恐れを断ち切れずにいた。十蔵から「用水口を切って来い」と命じられた時、安介は病を装って返事を引き延ばした。業を煮やした十蔵は、安介には知らせぬまま別の者二人を差し向けた。
その夜、用水口を切る二つの影が現れ、苦労して築いた畦を崩して溜めた水を流し出した。安介が二人の動きを知ったのは屋敷を出た後であり、おしずに知らせようと走ったものの、着いた時には畦はすでに崩され、水は暗がりの中を流れ続けていた。
翌朝、田で倒れたおしずはその場にへり込んだ。剥き出しになった泥の底で、土上が白い腹を見せて跳ねていた。お雪が駆け寄り、死にかけた土上を両手で救いながら泣きじゃくった。剛治が畦に残る大人二人分の足跡と、そこに絡んだ草鞋の紐を見つけ、「人の仕業だ」と声を震わせた。松は泥の底をじっと見て、
「まだ生き残った命があります。水さえ戻せば大丈夫です」
と励ましたが、おしずはその言葉さえ耳に入らぬほど呆然としていた。
その言葉が終わらぬうちに、代官所の役人と十兵衛が堀を連れてやってきた。
「元瀬の嫁、おしず。新に縄を受けよ」
おしずはわけもわからぬまま縄をかけられた。お雪が母にすがりつこうとして堀に押しのけられ、剛治も妨害として突き飛ばされた。松は少し離れたところから黙ってついてきた。その小さな顔には、少しの怯えもなかった。
庭に引き出されたおしずの前には、代官の采女が座り、傍らに十蔵がいた。
「この女、怪しい術で村の水を汚したという訴えが出ておる」
おしずは「味噌を巻いて土を生かしたまでです」と申し立てたが、采女は聞き入れなかった。
「この不届きな者、鞭を加えて口を慎しませよ」
采女が命じたその時、松が庭を突っ切って進み出た。十歳ほどの子供が、一体どこからそのような気迫が湧くのか。松は少しもひるむことなく、采女の前に立った。
「大官様、しばしお待ちを。私の申すことが違っておれば、その時は私にも鞭をお加えください」
采女も一瞬たじろいだ。
「何とでも申してみよ」
「あの田の水を汲んでお確かめください。生臭いか、それとも土の匂いがするかを。それにあの土上で炊いた汁は、この村の人の半分は買って食べております。毒であれば、どうして皆無事でいられましょうか。信じられぬのであれば、あの市場の茶屋の主人と上野村の老婆をお呼びになってお尋ねください」
見物人の中から茶屋の主人が進み出た。
「手前があの土上汁を毎日仕入れて出しておりますが、客が食当たりを起こしたことなど一度もございません」
老婆も杖をつきながら進み出た。
「うちの孫があの土上汁で息を吹き返したのです。何の罪がありましょうか」
若い百姓の一人も「旦那様の方から肥やしの仕方を教わりました」と恐る恐る名乗り出た。あちこちで村人たちが助け舟を出し始め、庭の空気は徐々におしずの方へ傾いていった。役人の一人がおしずの田の水を汲んで戻ってきた。采女が鼻を近づけてみると、生臭さどころか、確かに香ばしい土の匂いが漂ってきた。采女の口からは咳払いばかりが漏れた。
松はさらに、畦に残る大人二人分の足跡と草鞋の紐の切れ端を差し出した。
「女一人と子供二人、それに老人一人の家に、なぜ大人二人分の足跡が残っているのでしょうか」
采女の顔が曇った。采女はしばし考え込み、見物人が多い中であまり軽率に女を罰しては民の心が荒れる恐れがあると悟った。信じる信じないは、秋になれば結果が明らかになりましょう、と松が静かに付け加えると、采女は確かな証拠がまだ揃わぬことを理由に、裁きを秋まで保留すると告げ、おしずを解き放った。
解放された後、十蔵はさらに卑劣な手を打った。銭を渡して牛買いの男に「あの田の水を飲んだ牛が腹を壊した」と言わせたのだ。だが、松が田へ続く道を確かめると、牛の足跡は一つもなく、牛の蹄にも田の黒い泥はついていなかった。
「この牛は普段、どの沢で水を飲ませているのですか」
松が尋ねると、男は言葉に詰まり、うつむいたままその場を足早に立ち去った。安介は十蔵が牛買いの男へ銭を渡したことを知りながら、まだ口を開けずにいた。偽りと知りつつ黙っていることが、安介の胸をさらに苦しくさせていた。
おしずはこの噂に対し、自ら市場の広場に鍋を持ち出し、熱い土上汁を無料で振る舞うことにした。松、剛治、お雪も袖で椀を配った。最初は誰も近づこうとせず、遠巻きにひそひそと囁くばかりだったが、あの老婆が杖をつきながら進み出て真っ先に椀を受け取り、皆に見せて飲み干して見せた。すると、恐る恐る口をつけるものが一人、二人と現れた。
「うまいぞ。これのどこが毒だ」
次々と椀が空になり、鍋はあっという間に底を着いた。あの日、味噌女と娘を囃し立てた子供の親までもが、決まり悪そうに椀を受け取りに来た。
十蔵は最後の手段として、夜に紛れて村の井戸へ古い人形を投げ込ませた。翌朝、井戸から人形が見つかると、十蔵は「おしずが怪しい術で村を呪ったのだ」と言いふらし、安介には「おしずが罪を認めたことにする偽りの自白書を作れ」と命じた。安介は震える手で書状を作りながらも、「今度こそ取り返しのつかないことをしている」と悟っていた。
秋、田は黄金色の稲穂で埋め尽くされた。かつては石だらけであったその土地に、稲が重たげに頭を垂れていた。借入れの日、耕した後から土上がピチピチと跳ね上がり、蛙がポンポンと転がった。お雪はそれを拾い集めながら声を立てて笑い、おしずは新米で飯を炊いて、夫の位牌に供えた。
「あなた、やっとお雪に白い飯を食べさせてやれます」
おしずの目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。その年、村では飢饉に苦しむ家も多かったが、おしずが取れた土上を安値で分けたため、何とか食いつなぐことのできた家も少なくなかった。かつて味噌女と囃し立てていた親たちが、頭を下げて米や土上を分けてもらいに来る姿を、剛治は複雑な思いで見つめていた。それでもおしずは恨み言ひとつ言わず、困っている者には分け隔てなく手を差し伸べた。
借入れを終えたその夜、おしずは布に包んだ五両を胸に抱き、何度も数え直した。
「明日は私一人で行きます」
おしずは静かに答えた。
「これは、新之助の妻として、私が自分の足で始末をつけねばならぬことです」
「母様、明日はお金を渡したらもう安心なの?」
お雪が尋ねた。おしずは娘の頭を撫でながら「そうだよ。これでもう、誰にも怯えずに暮らせるのだよ」と答えたが、胸の奥には言いようのない不安が残っていた。十蔵があの土地を金のためだけに狙っているとは、どうしても思えなかったのだ。
翌朝、おしずは銭を布に包み、十蔵の元へ堂々と向かった。手には布に包んだ五両と借用証の控え、手習い本に挟んだ夫の書き付けがあった。
「借金の五両、お受け取りください。原本をお返しください」
だが、十蔵は受け取らなかった。
「借金の五両はもらっておこう。だが、お主が田を耕したことは、村の掟に触れる。あの田は、お主のものではない」
まさにその時、軍学者の黒田倉之助が役人を連れて押し入ってきた。十蔵が金を積んで動かしたのだ。黒田は二通の書き付けを懐から取り出した。一通は十蔵が保管していた借用証の原本で、元金五両の後に二両の利息が後から書き足されていた。もう一通は、おしずが村の井戸へ呪いの品を投げ入れたと自ら認めたことにする偽りの自白書で、おしずが瀬の家にいた頃に使っていた証印が押されていた。
お雪が原本を見つめ、小さく呟いた。
「母様、この二両のところだけ、文字の癖が違う」
おしずは借用証の控えと夫の書き付けを取り出した。
「こちらの控えにも、夫が残した書き付けにも、借りた額は五両としか記されておりません。この二両は後から書き加えられたものでございます。それに、この自白書を見たことも、印を押したこともございません」
だが、黒田は二通の書き付けこそ証拠だと言い張り、おしずを再び縄にかけた。
翌日、庭に引き出されたおしずに、黒田は自白を迫った。庭は前の時よりもさらに厳重に、槍を携えた堀が幾人も並んでいた。
「罪人は怪しい術を自白せい。自白せねば、娘を年季奉公の働きに落とすぞ」
おしずは震える声で申し立てたが、黒田は聞く耳を持たなかった。役人の一人がお雪を荒々しく引きずり込み、鞭が振り上げられた。
まさにその時、縁の隅にいた安介が声をあげた。
「お待ちください。この自白書に押された印は、剛治が十蔵様に命じられ、おしず様の証印を盗み出して押したものでございます。借用証の二両の利息も、剛治が後から書き加えました。全て偽りでございます」
庭がどよめき、十蔵の顔から血の気が引いた。安介は震える膝を抑えながらも言葉を続けた。
「幼い頃、夜更けに我が家の木戸先へ粥を置いて立ち去る新之助様の姿を、私はこの目で見ておりました。その後、同じ手習い本で文字まで教えていただきました。お雪様があの本を読む姿を見て、思い出したのでございます。証拠として、盗み出した印と偽りの書状をここに提出いたします」
役人がそれを改めると、借用証の筆跡と偽りの自白書の印影が一致していた。おしずの目に熱いものが込み上げた。夫が残した優しさが、思わぬところで芽吹いていたのだ。
黒田はそれでも引き下がらず、
「弱いにごまかされるな。構わずにやれ」
と命じた。鞭が再び振り上げられようとした、まさにその時。門の外から歓声が湧き起こった。
「御一行様のご通りである」
門が音を立てて開け放たれ、家臣たちがどっと乗り込んできた。堀たちは何が起きたのか分からぬまま、槍を構えたまま立ち尽くした。軍学者の佐々木勘解由が、旗本の御紋と家紋を記した箱を掲げると、侍たちが次々と平伏した。黒田も十蔵も、顔から血の気が引いていった。
「替えの身でありながら、借金を餌に百姓の土地を奪おうとし、人をやって畦を崩させ、借用証に偽りの利息を書き足した上、偽りの自白書まで作らせた罪、ここに全て明らかである」
佐々木の声が庭中に響いた。
「兼ねてより国中を巡見しておられた方より、この村の異変が国元へ知らされたおかげで、事ここに露見いたした」
おしずはようやく得心が行った。あの日、市場で静かに土上汁を買っていった旅の薬売り。遠くから田の様子を眺めていた男。あの全てが、この日のための見守りだったのだ。家臣がおしずの縄を解くと、おしずはどっと力が抜け、その場に膝をついた。
その後ろから、小さな影が歩み出た。見違えるような美しい着物をまとい、髪も丁寧に結い上げられていたが、その目は間違いなく松のものだった。お雪が先に気づいて駆け寄った。
「松、松だよね」
お雪の声に、若様は優しく頷いた。おしずは呆然としたままその姿を見つめた。物乞いの子供が、なぜこれほど立派な身なりで家臣を従えてこの庭に立っているのか。
「こちらにおわしますのは、飢饉に苦しむ民の暮らしを見て回っておられた御隠居様の若様でございます」
佐々木が頭を下げた。若様は静かに、しかしよく通る澄んだ声で言った。
「おばさん、これまで身分を偽っていたことをお許しください。ですが、あの日分けてくださった一杯の粥は、私がこれまで頂いた中で最も温かい食事でございました」
若様はお雪の頭を撫で、
「お雪は物覚えが良い。どうか大切に育ててください」
とおしずに告げた。おしずは深く頭を下げ、「この子だけは、何があっても守り抜きます」と胸のうちで誓った。
御隠居様はおしずに褒美を下された。米と端物が二荷も届き、偽りの自白書と改ざんされた借用証は十蔵の罪を示す証拠として取り上げられた。後から書き加えられた二両の利息も、十蔵が石田を奪おうとした主張も無効とされ、石田は正式におしずの所有と認められた。長年の苦労が、ようやく確かな形になって戻ってきたのだった。
十蔵と黒田は縄を打たれ、藩によって厳しく罰せられることとなった。代々庄屋を務めてきた十蔵の家は取り潰され、長年金で苦しめられてきた村人たちに、蓄えられていた穀物が等しく分け与えられた。かつて飲み水を一滴も分けなかった男も、頭を下げて詫びた。安介は自ら罪を告白したことで罰を軽くされたが、借用証に偽りの利息を書き足し、偽りの自白書を作った罪は消えず、しばらくの間、村の外れで謹慎するよう命じられた。
一方、落葉はおしずが再び囚われたと聞き、箪笥の奥にしまい込んでいた金銀の品を包んで、息を切らしながら代官所まで駆けつけてきた。お雪が飢えていると聞くたびに胸を痛めながらも、十蔵と伊之助を恐れ、何ひとつ行動に移せぬまま日々を過ごしていたのである。
「おしず、この年寄りが、取り返しのつかないことをしてしまった」
落葉はおしずの前に崩れるように膝まずいた。おしずが慌てて助け起こすと、落葉はその手を強く握り、
「嫁と孫を追い出したあの日から、幾度となく夜中に目を覚まし、お雪の小さな背中を思い出しておった。お雪が、この祖母を許しておくれ」
と涙ながらに詫びた。お雪は少し戸惑いながらも、「おばあ様、もう泣かないで」と言って、そのしわだらけの手をそっと撫でた。
傍らでは伊之助も決まり悪そうに頭を下げていた。借金さえ片付けば家が立ち直ると思い込み、おしずとお雪を追い出した自分の判断が、十蔵に利用されたのだとようやく悟ったのである。
「姉上、あの日は誠に申し訳ないことをいたしました。欺かれていたとはいえ、姉上とお雪を見捨てたのは私自身です」
伊之助は深く頭を下げ、仏壇に残っていた新之助の位牌を返した。お雪がそっと歩み寄り、
「おじ様、これからは母様を苦しめないでね」
と小さな声で言うと、伊之助の目にも涙が滲んだ。おしずはすぐには言葉を返さなかったが、やがて、
「謝罪が消えたわけではありません。これからの行いで償ってください」
と静かに告げた。
若様が国元へ帰る日、一家は村の境まで見送った。
「若様、どうかお体をご自愛くださいませ」
「おばさん、私はいつまでも、あなたと過ごした日々を覚えています。あの日々が、私にとって一番温かい時でした」
若様は剛治の手も温かく握った。剛治は嬉しさと寂しさの入り混じった顔で、幾度も深々と頭を下げた。物乞いの子供として同じ釜の飯を分け合ったあの温かさは、立派な着物をまとっても少しも変わっていなかった。若様はお雪に向かって手を振った。
「また会える?」
とお雪が尋ねると、若様はしばし待ってから、
「いつか、きっと」
と答え、それ以上は何も言わなかった。若様の一行が峠の向こうに消えるまで、親子はいつまでもその場に立ち尽くしていた。
その後、石田は毎年豊かな実りをもたらし、人々はその田を「福田」と呼んだ。福を呼び寄せた、という意味だった。田の淵には小さな祠が立てられ、村の者たちは実りの季節になると手を合わせるようになった。遠方の村からもその土作りの仕方を学ぼうと人々が訪れた。
翌年の春、隣の領地でひどい日照りが続いた時には、困り果てた百姓たちが瀬の福田を尋ね、おしずと剛治、そして安介が泊まり込みでその技を伝えに行った。行った先の村でも、同じように痩せた石田を抱えて途方に暮れる百姓たちがいた。剛治が水路の見つけ方を教え、安介が畦の直し方を手伝い、おしずが味噌と豆と米の寝かせ方を一つ一つ丁寧に語って聞かせた。半月後、その村の田にも青々とした苗が蘇ったという知らせが届き、村の者たちは涙を流して喜んだという。その村の庄屋はお礼にと山ほどの米を送り届けてきたが、おしずはその半分を、未だ苦しい暮らしを続ける村の年寄りたちに分け与えた。いつしかその知恵は、幾つもの村を飢饉から救う知恵として語り継がれ、領内の寺子屋でも教えられるようになった。
お雪は学問の才能に優れ、手習い本をそらんじるほどになり、長じては村の子供たちに読み書きを教える師匠になった。あの日、借用証の筆跡がおかしいと最初に気づいたのもお雪であり、土上を売った銭を几帳面に帳面へ記していたのも彼女だった。教え子の中には、かつてお雪を味噌女と囃し立てた子供たちの、そのまた子供もいた。お雪は誰に対しても分け隔てなく丁寧に文字を教え、時には自分が幼い頃どれほど貧しかったかを静かに語って聞かせることもあった。
「あの頃、私を笑った人たちのことも、もう恨んではいないのですよ」
お雪は教え子たちにそう語り、人は変われるのだと身を持って示した。村の若い母親たちは、「あの師匠様のように育ってほしい」と我が子をこぞって寺子屋に通わせるようになった。
おしずは福田の傍らに古びた家を立て、落葉と剛治を迎えて穏やかで温かい日々を送った。落葉はお雪をことのほか可愛がり、剛治は年を取ってもなお福田の淵で草笛を吹くのを楽しみにしていた。謹慎の間、安介は誰とも口を聞かず、ただ黙々と縄を編んで過ごした。時々、お雪が見舞いに訪れ、
「安介さん、元気にしてる?」
と声をかけることが、安介にとって何よりの救いとなった。謹慎を終えると、安介は毎日のように福田に通い詰め、誰よりも働き続け、少しずつ村人の信頼を取り戻していった。ある年の正月には、自ら村の困窮した家に余った米を配って回った。あの日、手習い本の表紙を見つめて立ち止まった一瞬が、安介の人生を変えたのである。
追い出され、あの粗末な小屋で身を寄せ合っていた家族は、誰もが羨む穏やかな一家になった。かつて指を刺された場所で、今度は誰もが助け合う姿を見せる。それがこの一家の何よりの誇りだった。
秋の実りの頃になると、おしずは決まって福田の風に立ち、峠の向こうへ去った若様を思い出した。旅人が、
「なぜ、この畑はこれほど豊かなのですか」
と尋ねると、村の老人は目を細めて答えた。
「昔、この村に一人の女がおってな。物乞いの子供の言葉を信じ、売れば家族が一月を食いつなげるだけの味噌を、樽ごと石田へ巻いたのだ。誰もが気が触れたと笑ったが、その味噌と女の諦めぬ心が、死んだ田にも村人の心にも命を戻したのだよ」
夫を失ってから若様が村を去るまでの数ヶ月、おしずは家も食い扶持も失いかけ、幾度も命の危機にさらされた。それでも剛治という味方を得て、松という御仁に出会い、離れかけた家族との縁を結び直した。石田が福田と呼ばれるようになってから、村では困った者を見捨てぬことが少しずつ当たり前になっていった。物語の細部は時代と共に形を変えても、貧しい女が悪意に屈せず土を耕し続けたこと、そして最も低い場所から大きな福が芽吹いたことだけは、子から孫へと変わらず語り継がれている。



