「高卒の分際で、私の教育係? 笑わせないで」…

「高卒の分際で、私の教育係? 笑わせないで」...

あの日の昼下がり、妹の結婚式の準備のために、私は久しぶりに実家に帰っていた。母は台所で楽しそうに料理の支度をしている。そんな穏やかな空気を、一本の電話が切り裂いた。

「もしもし、俺。結婚するわ」

電話の相手は、私の兄だった。だが、その声はひどく沈んでいた。祝福の言葉を探していると、兄は続けた。

「相手は、香織。俺の元彼女だ」

その瞬間、母の手が止まり、包丁がシンクに落ちる乾いた音が響いた。私は受話器を握る手に力が入るのを感じた。

香織は、私の元同級生であり、そして何よりも、数年前に交通事故で他界した姉の親友だった。姉は生前、香織を実の妹のように可愛がっていた。だが、その香織が、なぜ兄と。

「いつから付き合ってたんだよ」
「半年前から。言えなくてごめん。でも、どうしてもお前には、最初に伝えたかったんだ」

兄の声が震えているように聞こえた。私は頭が真っ白になるのを感じた。腹が立った。騙されていたような気持ちになった。しかし、それ以上に、胸を締め付けるのは言いようのない不安だった。

「姉ちゃんが生きてたら、何て言うかな」

私の問いに、兄はしばらく沈黙した。そして、絞り出すような声で言った。

「それが、香織に会ってほしいんだ。話があるって。お前に、姉ちゃんの形見の指輪を返したいって言ってる」

指輪。姉が亡くなるまで、ずっと大切にしていた婚約指輪だった。もしや、香織はその指輪を持っているのか。なぜ今になって。私はもつれる足を引きずるようにして、香織が待つという喫茶店へと向かった。

喫茶店の奥の席に、香織は座っていた。数年ぶりに見る彼女は、昔と変わらず、いや、より一層綺麗になっていた。しかし、私を見た瞬間、その優しげな目に、見覚えのある、あの攻撃的な光が宿るのを見逃さなかった。

「久しぶりだね、アキラ君。元気にしてた?」

私は無視して、向かいの席に座った。彼女がバッグから、小さな箱を取り出す。それが、姉の指輪の箱だと直感した。

「お姉ちゃんの形見、返すね。ごめんね、ずっと預かってて」

私は箱を受け取り、開ける。そこには確かに、姉の指輪があった。しかし、何かがおかしい。指輪のダイヤが、以前と明らかに違う。小さい。そして、輝きが安っぽい。

「これ、偽物だろ」

私の言葉に、香織の顔色が一瞬で変わった。しかし、彼女はすぐに笑みを浮かべた。

「何言ってるの? お姉ちゃんからもらったものを、私が偽物とすり替えるわけないでしょ。気を悪くしたなら、そんな目で見ないでよ。私は、アキラ君の姉の親友だったんだから」

「姉ちゃんの親友は、そんなことしない」

自分の声が、冷静で淡々としていることに気づく。私は携帯電話を取り出した。

「兄貴に電話する。この話を全部、確認してもらう」

「やめて!」

香織が立ち上がり、私の手を掴んだ。その手は、驚くほど冷たかった。

「お願い、お兄ちゃんに言わないで。これは、私がお姉ちゃんから預かったものなんだよ。本当に本物なんだよ。それなのに、どうしてそんなことするの?」

「じゃあ、なんで震えてるんだ?」

香織の顔は、先ほどまでとは打って変わり、青ざめていた。私は彼女の手を振りほどくと、兄の番号をタップした。だが、コール音の代わりに聞こえたのは、機械的なアナウンスだった。

「おかけになった電話番号は、現在電波の届かない場所にいるか、お使いになれない設定になっているため、かかりません。ピーッ、という音の後にメッセージを……」

私は舌打ちし、電話を切った。香織は、ほっとしたように小さく息を吐いた。

「お兄ちゃん、今大事な商談中なんだって。そんなことより、アキラ君。この店、雰囲気良くない? ちょっと聞いてほしい話があるの。私とお兄ちゃんの、これからのこと……」

香織の声は、今度は甘ったるく、ねっとりとしている。さっきまでの必死な様子とは、まるで別人のようだった。私は、この女に振り回されている自分が情けなくなり、はっきりと言ってやった。

「悪いけど、そんな話を聞く気はない。それに、その指輪が偽物かどうか、はっきりさせてもらう。帰って、姉ちゃんの遺品を調べる」

私は席を立ち、会計を済ませようとした。すると、後ろから香織の声が聞こえた。

「ねえ、やっぱり、君たち兄弟って、お姉ちゃんのことが好きすぎるんだよ。もう、彼女は死んだんだよ?」

その言葉に、私は振り返り、彼女を睨みつけた。しかし、香織は笑っていた。

「あはは。ごめんごめん。でも、本当のことだよ。それに、仮に指輪が偽物だったとしても、お兄ちゃんもきっと私の味方をするよ。だって、私、もうすぐお兄ちゃんの子どもを妊娠してるから」

私は、その場で固まってしまった。香織は、勝ち誇ったように、自分のお腹を撫でながら言った。

「信じないなら、お兄ちゃんに聞いてみれば? じゃあ、私は帰るね。今日は、ありがとう。本当に久しぶりに会えて、嬉しかった」

香織はそう言い残すと、喫茶店を出て行った。私は、テーブルに残された偽物であろう指輪の箱を見つめながら、しばらく立ち尽くすことしかできなかった。腕時計の針が進む音だけが、静かな店内にやけに大きく聞こえた。

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