うちのゴミ袋が、名前を赤いマジックで斜線を引かれて、道路に捨てられていた。顔見知り三十年の隣人は、目が合うとカーテンを引いた。そして、ついには玄関の前に「みんなのことを考えてください」と書かれた週刊誌が置かれていた。私は六十七歳、山の集落に一人で住んでいる。市が「土砂災害危険区域」に指定して、移転しろと言ってきたのだ。皆が移転に同意したら、各世帯に五十万円の補助金が出るらしい」「残っているの…

うちのゴミ袋が、名前を赤いマジックで斜線を引かれて、道路に捨てられていた。顔見知り三十年の隣人は、目が合うとカーテンを引いた。そして、ついには玄関の前に「みんなのことを考えてください」と書かれた週刊誌が置かれていた。私は六十七歳、山の集落に一人で住んでいる。市が「土砂災害危険区域」に指定して、移転しろと言ってきたのだ。皆が移転に同意したら、各世帯に五十万円の補助金が出るらしい」「残っているの...

たった一枚の薄い紙が、人の誇りを押し潰すことができる。社会があなたを「余分なコスト」と判断した時、暴力は使わない。丁寧な微笑みと手続き通りの書類で済ませるのだ。

2026年11月、夜明け前。富山県のある海沿いの町に、塩辛い風が吹いていた。国道から外れた細い坂道を、一台の古びた自転車が音を立てながら降りてくる。草壁シヅノ、67歳。スーパーの夜間仕分けの仕事を終えたばかりの彼女は、ペダルを踏む足に疲れを見せながらも、背筋だけはピンと伸びていた。

彼女のことを知るには、まずその手を見なければならない。ハンドルを握る両手は、長年の家事と肉体労働が刻み込んだ、節くれ立った指と固く隆起した手のひらが特徴だ。それは67年という時間が、一人の女の体に残した証だった。チェーンが外れかけた自転車のブレーキを、その手がぐっと引き絞る。砂利道の急斜面でも、その動きには無駄がなかった。

毎日5キロの道のりを歩く足腰が、寒風の中でも体を確かに支えている。

来ているものは色褪せたウインドブレーカーだ。袖口のテープがほつれ、左肩の縫い目が少し開きかけていた。それでもシヅノはそれを捨てられない。捨てることは贅沢だと、彼女の体が知っているからだ。

ハンドルにかけた白いビニール袋の中には、弁当の空き箱と、仕事の終わりにレジ横の値引きコーナーから手に取った半額シールの食品パックが一つ入っていた。スーパーで働いていれば、値引きの時間帯が分かる。だから夜の仕事は彼女にとって合理的だった

町は静かだった。いや、静かというより抜け殻だった。かつて百世帯近くあった山のこの集落には、今は三十に満たない老世帯しか残っていない。若者は出ていき、空き家が増え、耕作放棄された田んぼが雑草に飲み込まれている。夜が明けても人の声が聞こえない朝が、もう何年も続いていた

坂の途中で、シヅノは一度だけ立ち止まった。夜明け前の体が冷えてくる感覚をやり過ごすように、少しの間静止した。海からの風が正面から来ていた。塩の混じった冷たい風が、ウインドブレーカーの薄い布地を通り抜けて体に当たる。それでも彼女は顔をしかめなかった。この風の感触は、子供の頃からずっとここにあった。変わらないものの一つだった

シヅノの家が見えてきた。木造二階建て、かつては白かったであろう漆喰いが所々剥がれ、屋根の下に生えた苔が雨の跡に沿って黒ずんでいる。玄関の前の小さな石段に、古い郵便受けが傾いて立っている。錆の模様が年々濃くなっている。そのポストも、もう随分長い間ここにある。夫の正義が庭の隅に埋めたコンクリートの基礎の上に、自分で鉄板を溶接して作ったものだ。正義が亡くなってもう十一年になるが、ポストはまだそこにある

自転車を下りて止め、シヅノはポストに手を伸ばした。指先に、錆びた冷たい金属が触れる。受け取る郵便といえば、電気代の請求書か町内会の回覧板か、たまに保険会社のダイレクトメールくらいだ。この時間に届くはずのものは何もない。そう思いながら扉を開けた瞬間、彼女の手が止まった

青緑色の封筒だった。小ぶりな封筒だが、右上には黒々とした市役所の印鑑が押されていた。飾り気のない明朝体で、ひどく事務的な冷たさを持っていた。シヅノは封筒を手に取り、しばらくの間そのまま動かなかった。海からの風が指の隙間を通り抜けていく。波の音が遠くから聞こえる。彼女の表情は読めなかった。ただポストの前で、体の動きだけが止まっていた

玄関の引き戸を開け、上がる。暗い廊下を抜けて六畳の間へ。壁際の小さな仏壇に向かい、いつものように両手を合わせる。線香の残りがまだほんの少し漂っていた。仏壇の中央には夫・正義の遺影。黒い枠の中で彼は、やや困ったような顔で笑っている。撮影当時の彼は五十代で、まだ元気だった頃の写真だ

シヅノは衣服を一着脱ぎ、それから手の中の封筒に目を落とした. 台所の引き出しから鋏を出し、封筒の縁を慎重に切り開いた. 中には、二つ折りにされたA4の用紙が一枚入っていた. 鋏を置き、蛍光灯のスイッチを入れる.

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電球がチカチカと点灯した. 古い蛍光灯は、瞬きするたびに一瞬暗くなるように明るくする. その光の下で、シヅノは紙を広げた

最初の数行を読んで、息を止めた。「居住地域における土砂災害危険区域指定に関するお知らせ」。文字の並びは丁寧で明解だった. シヅノの居住する山側地区一体が、土砂災害特別警戒区域に正式指定されたこと。それを受けて市が、当該地区に残る世帯に対し、安全確保と行政サービスの効率化を目的とした住居移転を推奨すること。移転先として用意されているのは、市内中心部に建設中の公営住宅であること。そして後半には、さらに細かい文字でこう記されていた。「なお、2027年3月31日までに移転の意思を示されない場合、当該地区への廃棄物回収車の定期運行及び除雪作業の対応範囲を縮小させていただく場合があります。ご理解とご協力をお願いいたします」

シヅノは紙を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。「行政サービスの効率化」という言葉が、一番目のずっと下の方にさりげなく書かれていた。この一文が全ての確信だということを、シヅノの長年の生活経験が教えていた。土砂の危険を理由にしているが、本当のことを言えば、過疎が進んだ山側地区に道路補修や除雪コストをかけ続けることが、行政にとって割に合わなくなったのだ。残っている住民はほとんどが老人で、税収にも貢献しない。そういう計算が、この薄い一枚の紙の裏側にある

彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、通知書をもう一度最初から読み直した。言葉を一つ一つ確かめるように読んだ。「推奨する」という語りの柔らかさ。「縮小させていただく場合があります」という含みのある言い回し。義務ではない。強制ではない。ただ推奨するだけだ。しかしその推奨に従わなければ、ゴミは回収されなくなり、雪は除かれなくなる。それが義務でないとしても、結果は同じことだった

この家は、正義が若い頃に自分で柱を立て、自分で壁を塗り、自分で屋根を葺いた家だ。建築の資格も持っていたわけではなく、ただ本を読み、隣の大工に教えを乞いながら三年かけて作り上げたと、結婚前に正義が照れながら話してくれた。台所の柱には、息子の孝介が小学生の頃に付けた傷がある。二階の窓から見える海の水平線は、晩年の正義が何時間でも眺めていられると言っていたものだ。それを明け渡す。ダンボールに詰めて、行政が用意した箱に移る。そういうことが、この一枚の紙には書いてあった

シヅノは紙を台所のテーブルに置いた。置いてからまた手に取った。折り目をつけてしまうのが惜しいような気がして、広げたまま持っていた。この紙の薄さと、書かれている内容の重さの釣り合いが、どうしても取れなかった。これほど薄い紙が、これほどのことを決めようとしている

台所の窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。東の空の低い部分が、灰色から薄い橙色へ変わっていく。夜明けが来ている。今日も朝が来る。シヅノはそれを窓越しに見ながら、通知を二つに折り、封筒に戻した。それから立ち上がり、仏壇の前に正座した。湯飲みに残っていた昨夜の番茶が冷えていた。それを一口飲んだ。薄い、渋い、冷たい液体が喉を通る。それが今の彼女にはちょうど良かった

仏壇の正義を見た。光沢のない遺影の中で、彼はまだ笑っている。困ったような、照れているような、その表情が、今日は少し遠く見えた。蛍光灯がまた一度明滅する。闇の中に、その白い光が揺れる。シヅノは口を小さく開き、声にならない声で言った。「お父さん、私、どこにも行かないから」。その一言を言い終えた後、彼女は冷えた弁当の蓋を開け、黙って白米を口に運び始めた。咀嚼するたびに、蛍光灯が一回静かに明滅する。窓の外では、夜明けの光が少しずつ海の色を変えていた

あれから三週間が経った。山側地区に初雪が降ったのは、十一月の終わりのことだった。まだ根雪にはならない、湿った重さのある雪が夜のうちに降り積もり、朝になると道路の表面に白い薄幕を張る。その白さが午前中のうちに泥混じりの灰色に変わっていく様子を、シヅノは台所の窓際に何度か眺めた

封筒を受け取ってから、シヅノは何も変えなかった.

変えなかったというより、変える手段がなかった. 毎朝五時に起きて仏壇を拭き、番茶を入れ、自転車で夜の仕事へ行き、夜明け前に帰ってくる. その繰り返しの中に、あの青緑色の封筒のことが沈んでいる. 頭の隅にあり続けるが、それについて誰かと話したことは一度もなかった

仕事場では事務的な会話しかしない.

近所では挨拶程度の言葉しか交わさない. 相談できる相手が、そもそも存在しなかった. スーパーの夜間の仕事は、体を動かし続ける仕事だ. 倉庫の冷蔵庫区画に運び込まれてくる野菜のダンボールを開け、品番ラベルを確認し、台車に積んで陳列の棚まで運ぶ.

白菜、大根、法れん草、ブロッコリー。夜間は補充と棚の整理が主な作業で、客がいない分だけ静かに動ける. シヅノはその静けさを好んでいた. 声をかけられることが少なく、余計な気遣いをしなくて済む. 大根の入ったコンテナは重い、プラスチックの側面に指をかけ、腰を落として台車に移す.

六十七歳の体がそれをこなすことに、周囲は最初の頃は驚いた様子を見せたが、今はもう誰も何も言わない. 彼女がそこにいることの当たり前さが、彼女の孤立を隠していた

ある土曜日の夕方、町内会の定期集会が地区の公民館で開かれた. 回覧板に挟んであった案内の紙には「議題:除雪費用分担について、その他」と書かれていた. 「その他」の文字に、シヅノは何かを感じた.

しかし行かないわけにはいかない. 欠席すれば、それもまた別の意味を持ってしまう

公民館は昭和五十年代に立てられた古いコンクリートの平屋で、壁の所々に水が染みた跡が広がり、ガラスの引き戸は閉めると隙間風が入ってくる. 玄関を入ると靴が並んでいた. 数えると十四足.

普段は二十世帯近くが参加するのに、今日は少ない. 出てこられない年齢の人が増えていた. シヅノは靴を脱ぎ、揃えておいてから、引き戸の向こうの集会室に入った

折りたたみ椅子が半円型に並んでいた. 部屋の空気は、遠いストーブが燃やす独特の匂いで満ちていた.

ストーブの上の鍋から、ほのかに湯気が上がっている. 誰かが茶を沸かしたのだろう. シヅノは部屋の一番端の、窓際の席を選んだ. コートを脱がず、手袋だけ外して、両手を膝の上で重ねた

集まった顔ぶれは、全員が六十代から七十代の老人だった.

女性が多い. 夫を先になくした世帯が多いから、こういう集まりには女性の方が出てくる. みんな顔見知りだ. 四十年近く同じ地区で暮らしてきて、子供たちの話をしたこともある.

夫の葬儀で手を握り合ったこともある. その同じ顔が、今日はどこか硬い表情をして椅子に座っていた

町内会長の斧は、すでに前の方の席についていた. 七十二歳、がっしりした体格で、首が太く、声が大きい. 国道沿いで水産物の直売所を四十年近く続けてきた男で、地域への影響力は本物だった.

市役所の窓口にも顔が効き、地区の補助金申請は毎年彼が取りまとめてきた. 彼がいなければこの地区はもっと早く機能を失っていたかもしれないという面もある. だからこそ、彼の言葉には反論がしにくい

集会は最初、除雪費用の話から始まった. 今年の冬は雪が多そうだ.

業者への委託費が去年より上がっている. 各世帯の負担をどうするか. その話し合いが十五分ほど続いた. シヅノは黙って聞いていた.

数字の話は苦手ではない. 家計簿を何十年もつけてきた. どこかで金が足りなくなりそうな計算は、頭の中で一人で動いた

しかし除雪費用の議論が一区切りついた時、斧は両手を膝の上に置き、声の調子を一段落とした. この変化を、シヅノは敏感に感じ取った.

体が少し固まる. 斧は言った

「市からの通知の件で、皆さんにお伝えしなければならないことがあります」

静まり返った室内に、石炭ストーブの燃える音だけが残った

斧が続けた「今回の協力について、市から追加の補助が出ることになりました。移転に同意した世帯が地区内で100%に達した場合、集団移転促進補助金として、各世帯に五十万円が追加支給されます」

五十万円。その言葉が出た瞬間、部屋の空気が動いた. 椅子の上でわずかに姿勢を直す人がいた. 隣の人と目を合わせる人がいた.

置いてきぼりにされた体にとって、五十万円は大金だ. 年金だけでは月々の生活が成り立ちにくいこの地区では、その数字は単なる数字ではない

そして斧は、ゆっくりと室内を見回した. その視線が、左の端から順番に動いてきて、シヅノのところで止まった

「残っているのは一軒です。草壁さん、まだご意向をお聞きしていませんでした」

全員の視線が、一度に集まってきた. 十四人の老人の視線が、一斉に部屋の端の席へ向く.

誰も声をあげない. 誰も立ち上がらない. ただ視線だけがそこに集中する. その重さを、シヅノは首の後ろから感じた.

熱くなる感覚ではなく、冷えていく感覚だった. 視線というのは、時に言葉よりも正確に意図を伝える. この場の全員が、同じことを言っていた. 「サインをしてください」と

シヅノは俯き加減のまま、手を動かさなかった.

膝の上で重ねた両手が、コートの布地を少しだけ握った. 何か言わなければならないと思った. しかし言葉が、順番に喉の手前で詰まっていく. 言い訳に聞こえる言葉は出せない.

事情を説明しても、それはここでは意味を持たない

沈黙が続いた. 数秒が、ひどく長く感じられた

斧が口を開いた. 声は穏やかだった. それが余計に重かった.

怒鳴られた方が、まだ楽だったかもしれない

「草壁さん、お一人でお住まいでしょう」と斧は言った「あの大きな家を、お一人で守っておられる。それは分かります。しかし、その一軒のために地区全体の補助金が出なくなる。皆さんにとっての損失が生まれる

私たちは日本人ですから、個人の事情よりも地域全体のことを考えなければならない場面というのがありましてね」

「日本人ですから」という言葉. この言葉の使われ方を、シヅノはよく知っていた. 長年この地区で生きてきた中で、何度か耳にしてきた言葉の方だった. 個人の意志を、集団の論理でなめ込むための言葉.

反論しようとすると、それ自体が「日本人らしくない」ことになってしまう. 巧妙な方法だった

シヅノは、ゆっくりと上体を前に倒した. 「すみません」と言った. 声が小さすぎて、部屋の端まで届いたかどうかわからなかった.

もう一度、「すみません」と繰り返した. 膝をしたまま、しばらく頭を下げ続けた. しかし、印鑑は動かなかった. 鞄の中に入っているはずの印鑑のことを、体が拒否していた

斧はそれ以上は言わなかった.

別の人が咳払いをした. 議題を次に移すという合図だった. シヅノは体を起こし、元の姿勢に戻った. 視線は下を向いたまま、それからの集会の時間がどれほど長く感じられたか、後で思い返しても正確には思い出せなかった

集会が終わり、人々が立ち上がり始めた.

コートを着る音、椅子を折りたたむ音が重なる. シヅノは最後の方に立ち上がり、手袋をはめて出口に向かった. 玄関で靴を履いていると、近くで三人の老夫人がひそひそと話す声が聞こえた. 内容ははっきりとは聞こえなかったが、シヅノの方向は向いていなかった.

背中を見せたまま、声を落として話していた

外に出ると、夜の空気が顔に当たった. 雪は止んでいたが、地面はうっすらと白く、足元が心もとなかった. シヅノは前を向いて歩き始めた. 振り返らなかった.

振り返れば、何かを確認することになる. それを避けることだけが、今できることだった

家に帰ると、仏壇の前に座った. 線香を一本手を合わせた. 正義の遺影を見た.

何も言わなかった. 言葉にすることで、今夜のことが輪郭を持ってしまう. そうなる前に、今日は眠ってしまいたかった. しかし、眠れないと分かっていた

翌朝は月曜日で、ゴミの収集日だった.

シヅノは前の夜から台所の隅に置いておいたゴミ袋を持ち、玄関を出た. 朝の七時少し前、空はまだ白み切っておらず、薄い灰色の光の中に家々の輪郭が浮かんでいた

地区のゴミ集積所は、坂の下の曲がり角を曲がったところにある. 金属製のパイプでできた小さな囲いに金網が張ってあり、カラス避けのネットが上から被せてある. 距離にして三分かからない.

歩きながら、息が白く上がった. 手袋はしているが、袋を持つ方の指先が冷えてくる. 昨夜降った雪が路面に残っていて、足元に注意しながら歩く. 角を曲がると、集積所が見えた

シヅノは足を止めた.

金網の外に、袋が一つ転がっていた. 最初は誰かが置き忘れたのかと思った. しかし近づいてみると、それが自分の袋だと分かった. 前の週の収集に出しておいたはずの、古い袋だった.

袋の外側に、黒いマジックで書いた「草壁」という文字に、赤い太いマジックで斜線が引かれていた. 一本ではなく、二本、三本と重ねて引かれた斜線が、名前の上で交差している

袋はカラスに破られていた. 口の部分が大きく避け、中身が道路に散らばっていた. 生ゴミの汁が黒いアスファルトに染みを作り、卵の殻と茶殻が入り混じって道路の端に散らばっていた.

シヅノはその場で数秒、動かずに立っていた

朝の道に、人の気配はなかった. しかし少し先の方で、玄関の引き戸が開く音がして、スーパーの袋を持った老女が出てきた. その老女は、シヅノの方を一瞬見た. 目が合いかけた.

しかし老女はすぐに視線を前に戻し、シヅノの方向とは逆に、足を早めて歩いていった. その背中が、「見ていない、知らない」という態度を、体全体で語っていた

シヅノは膝をついてしゃがんだ. コートのポケットからビニール袋を取り出した. コンビニで買い物をした時のおまけだ.

薄手で小さいが、それしかなかった. 散らばったゴミを、一つずつ拾い始めた. 卵の殻、野菜の切れ端、小さく固まった食品と容器が、冷たくなっていく. 路面のアスファルトは硬く、膝が少し傷んだ.

それでも手を止めなかった

拾いながら、シヅノはそのゴミの一つ一つを、どこかぼんやりと見つめていた. 茶殻は、番茶だ. 毎日薄く入れて飲んでいる. 食品トレーは、昨日のおかずのものだ.

自分が毎日生きていく上で出てくるものが、今、道路の上にさらされている. それが、ひどく恥ずかしいことのように感じられた. 恥ずかしいというより、むき出しにされた感じ. 自分の生活の細かな痕跡を、誰かに意図的に暴かれたような感覚

全て拾い終え、立ち上がった.

汚れたビニール袋を持ったまま、集積所の方を見た. 金網の金網の中には、他の世帯のゴミ袋がきちんと詰まれていた. ネットが被さり、カラスは入れない. 自分の袋だけが外に出され、破られていた.

偶然ではない. ネットは内側からしか開けられない構造になっている. 誰かが取り出したのだ

シヅノは、その事実を頭の中で一度確認し、それから意識の棚の上に置いた. 今ここで怒りを動かしてはいけないと、体が知っていた.

怒鳴っても泣いても、この道路の上では誰も聞いていない. 聞こえていたとしても、誰も出てこない. それがここでの現実だった

汚れた袋を持ったまま、シヅノは家に向かって歩き始めた. 来た道を引き返す.

足元の雪が、ぐちゃりと音を立てた

家の裏口から入り、台所に袋を置いた. 台所の隅、流し台の下の空間に、袋を押し込んだ. そこからかすかに生ゴミの匂いが漂った. 次の収集まで三日ある.

それまでこのまま置いておく. 外に出しても、また同じことになる

流し台の前に立ち、蛇口をひねって水を出した. 両手を冷たい水で洗った. 石鹸をつけて、丁寧に洗った.

手の甲の皺の中に、生ゴミの汁が入り込んでいた気がした. 二度洗った. 三度洗った. 水を止めて、タオルで手を拭く.

窓の外を見ると、空が少し明るくなっていた

その日の午後、仏壇の前で茶を飲んでいると、玄関の引き戸が開く音がした. 宅配便の人かと思い、立ち上がって廊下へ出た. しかし誰もいなかった. 引き戸の前の石段に、何かが置いてある.

近づいてみると、古い週刊誌が一冊、表紙を上にして置かれていた. 表紙に貼り付けられた付箋に、ボールペンで短い文字が書かれていた

「みんなのことを考えてください」

筆跡は几帳面で、誰のものかは分からなかった. シヅノはその週刊誌を手に取り、裏返してみた. 名前はなかった.

発信者を特定できるものは何もない. 玄関先を見回したが、路地に人の姿はなかった

家の中に入り、戸を閉めた. 週刊誌を台所のテーブルに置いた. 付箋をそっと剥がし、二つに折ってテーブルの隅に置いた.

それを読み返すことはしなかった. 夕方まで、その紙切れはテーブルの隅に残っていた

夜の仕事に出かける前、シヅノは台所の引き出しから小さな鋏を取り出し、付箋を細かく切った. 切り終えた紙片を流し台の端に集め、水を流しながら排水溝に押し込んだ. それ以外に、できることがなかった

さらに数日が経った.

ゴミの収集日が再びやってきた. 今度は朝の六時半. 収集車が来る直前を狙って、袋を持って外に出た. 収集車が来てしまえば、中身を取り出す時間がない.

そう考えての判断だった. 集積所まで歩き、金網の中に入れ、ネットを掛け直して、足早に戻った. その日はうまくいった. 袋はちゃんと回収されていた

しかし翌週の収集日の朝、また袋が外に出されていた.

今度は、濡れた雪の上に横向きに倒されていて、袋の外側に泥がついていた. カラスはまだ来ていなかった. しかしシヅノが近づいて袋を手に取ると、底の部分が少しだけ破れていた. 手で引っ張ったような破れ方だった

シヅノはその袋を両手で持ち、集積所の外側に立ったまま、しばらく何も考えなかった.

考えることを、意識的に止めていた. 考え始めると、どこかに行きついてしまう. その先にある感情に、今はたどり着きたくなかった

隣の家の窓の向こうに、人影が見えた. ガラス越しにこちらを見ている.

目が合いかけると、カーテンが引かれた. その人影は、三十年の顔見知りだった. 夫が生きていた頃、庭で取れた野菜をよく持ってきてくれた人だ. 正義が亡くなった時、台所で一緒に泣いてくれた人だ

シヅノは袋を持ったまま、家に引き返した

その日の夜の仕事の間も、倉庫で大根のダンボールを台車に積みながら、あのカーテンの動く様子を何度か思い出した.

その度に、手の動きを少し早めた. 手を動かしていると、余計なことを考えなくて済む. それが今のシヅノにとって、体を動かす仕事の唯一の意味になっていた

十二月の初めに入ってから、シヅノはある決断を固めた. 一人で考え続けても状況は変わらない.

行政の窓口に直接出向き、現在の住居に留まるという意思を正式に伝える. ゴミの件も、町内会での一軒も、外からの圧力が増すほど、却って体の奥に針のようなものが生まれていた. 曲げてはいけないという感覚だ. 感情ではなく、一種の義務感に近かった.

この家で死ぬとまで考えているわけではない. ただ、自分でない誰かの論理によって動かされることへの、静かな拒絶があった

市役所へ行くことを決めてから、出かけるまでに三日かかった. 何を言うか、どこの窓口に行けばいいか、何を持っていくべきか、それを一人で整理する時間が必要だった. シヅノはテーブルに古い封筒の裏を広げ、鉛筆で要点を書き出した.

字は小さく丁寧で、筆圧の感覚が均一だった

1. 通知に対し、移転しない意向を伝える. 2. 除雪と廃棄物の収集が縮小されても構わない.

その旨を記録して欲しい. 3. 現時点で自分に不利な法的手続きがあるなら、事前に教えて欲しい. 三つだけ書いた.

それ以上のことを言おうとすれば、感情が混ざる. 感情が混ざれば、言葉が崩れる. 崩れた言葉では、相手に届かない. それを彼女は長い経験から知っていた

出かける前日の夜、シヅノは仏壇の前に座った.

線香の煙が細くまっすぐ上がるのを眺めながら、正義の遺影に向かって話しかけた. 声には出さなかった. 言葉というより、気持ちの方向をそこへ向けたという感じだった

「お父さん、明日は市役所へ行ってきます。うまくいくかどうかわからないけど、一度行ってみないと」

煙が途中で曲がり、天井の方へ消えていった. 家は何も答えなかった.

当たり前のことだとは思った

翌朝、いつもより早く起きた. 仏壇を拭き、番茶を入れ、昨夜の残りのご飯に梅干を乗せて食べた. 着替える時、箪笥の中を少し時間をかけて見た. 普段の外出は、このウインドブレーカーだが、今日はそれではない気がした.

奥の方に、黒っぽいウールのコートがある. 喪服に使ってきたコートで、正義の葬儀の時も着た. 引っ張り出して羽織ってみると、肩の当たりが少し重く感じる. 長い間閉まっていたせいか、樟脳の匂いがする.

それでも今日はこれを着ていく、と決めた. 相手は行政だ. こちらも相応の格好で行かなければならない. そう思う自分が、少しおかしいとも思った.

しかし、着て行くことにした

市役所は、バス停から歩いて八分ほどのところにある. 朝の九時過ぎ、道に人影はほとんどない. 老犬を連れた老人が一人、向こうの方から歩いてきた. シヅノは会釈した.

相手も軽く頭を下げたが、立ち止まりはしなかった. それで十分だった. 二週間前なら、立ち止まって二言三言、世間話をしながらだったかもしれない. 今は違う.

そのことを確認するように、老人の後ろ姿が遠ざかっていった

バスは時刻通りに来た. 車内には五人ほどが乗っていた. 全員が老人だ. 座席に腰を下ろし、窓の外を見た.

山側地区から市の中心部へ向かう道は、国道に出るまでの間に、廃墟になりかけた家を何件も通り過ぎる. 玄関の引き戸が外れかけていたり、庭が完全に雑草に覆われていたり、かつては誰かが暮らしていた家が、今は空洞になっている. その数が、以前より確実に増えている. シヅノはそれを眺めながら、この景色の一部に自分の家もあることを、行政は望んでいるのだと改めて思った

バスを一度乗り換え、市の中心部に着いたのは、十時を少し過ぎた頃だった.

市役所の建物は、国道に面した大きな場所にあり、ガラス張りの自動ドアが、人を飲み込むように開く. シヅノはその前に立ち、一度だけ深呼吸をした. それから中に入った

ロビーは広く、天井が高かった. 冷暖房が均一に効いていて、季節の気配がない.

外の寒さとも関係なく、ここだけが一定の温度に保たれている. 床はグレーのタイルで、足音が吸収されるような静けさがある. 番号発券機が壁際に立っており、その前に列ができていた. シヅノは列に並び、小さな紙を受け取った.

番号は十四番だった

プラスチックの椅子が横一列に並ぶ待ち合いスペースに、腰を下ろした. 周囲には同じように番号札を手にした老人たちが座っていた. 皆、膝の上に書類の入った袋や封筒を抱えている. 誰も話さない.

番号を呼ぶアナウンスの声だけが、一定の間隔で流れてくる

シヅノは手提げ袋の中の紙を、一度だけ取り出して確認した. 鉛筆で書いた三つの箇条が、折り目が少し薄れていた. もう一度しまった

番号を呼ばれたのは、十五分ほど待った後だった. 「十四番、三番窓口へどうぞ」という声に、シヅノは立ち上がり、椅子の番号を確認してから歩いていった

窓口の仕切りガラスの向こうに、男性が座っていた.

四十代前半だろうか. グレーのスーツに白いシャツ、ストライプのネクタイ、髪はワックスで整えられ、一本も乱れていない. 書類を手に持ちながら、シヅノが席につくと同時に顔を上げた. 表情は柔らかく、唇が少し上がっている.

微笑みだった. それが接客の作法として完成されているために、かえって人間の体温を感じさせなかった. 名札には「塚田」と書かれていた

「いらっしゃいませ」本日はどのようなご要件でしょうか? と塚田は言った.

声は明瞭で、言葉の切れ目がはっきりしている. マニュアル通りの流暢さだった

シヅノは手提げから書類を取り出した. 封筒、それから手書きのメモ用紙を、先に差し出しながら

「土砂災害危険区域の指定を受けた件で」と言い始めた. 声はいつも通り小さく、しかし言葉を選びながら続けた「現在の住居から移転はしないという意向を、正式に記録していただきたい」除雪や廃棄物の収集が縮小されるとしても、それは受け入れる」ただ、移転しないという意思を、きちんと伝えておきたかった」

塚田は書類を受け取り、ざっと目を通した.

顔の表情は変わらなかった. 「はい、はい」と相槌を打ちながら、手元のパソコンに何かを打ち込み始めた. キーボードを叩く音だけが、窓口の周囲に聞こえた. シヅノは正面のガラスを見ながら待った.

塚田の指が動くたびに、画面上の何かが変わっているのだろう. 何が表示されているかは見えない. 少し時間が経ってから、塚田はパソコンから目を上げた

「承知しました」と彼は言った「そしてすぐに、ただ一点、確認させていただいてもよろしいでしょうか」と続けた. その言葉の落ちていく速さに、シヅノはわずかに身を固くした.

「ただ」という接続詞が、これから来るものの形を予告していた

塚田はプリントアウトされた用紙を一枚、トレーから取り上げ、窓口の下の隙間から差し出した. A4の用紙で、表に数字と文字が並んでいる. シヅノは受け取り、目を走らせた. 最初の箇条に、「土地の権利に関する照会結果」と書かれていた

塚田が説明を始めた「草壁さんのご自宅の土地について、登記を確認いたしましたところ、ご主人様が生前、農業共同組合の設備更新のための融資を受けられた際、土地の一部を担保として提供されております」借り入れ自体は十五年前のことになりますが、その後の返済状況を確認しますと、途中から滞り、現在は元本、延滞利息を含む残債が、二百万円余りとなっております」

二百万円.

その数字がまず音として耳に届き、次に意味として頭に降りてきた. どのくらいの時間が経ったかわからない. 一秒か三秒か. シヅノはその用紙の上の数字を見ていた.

縦に並んだ数字は、確かにそこに印刷されていた. 揺らがず、消えず、ただそこにある

農業共同組合の融資、十五年前、担保. 心当たりがなかった. 正義が農協から金を借りていたという記憶がない.

正義が生きていた頃、家の周辺で少し畑仕事をしていた時期があったことは覚えている. 畑の端を借りて、白菜や大根を作っていた. しかしそれが融資と結びついていたことは、一度も聞かされなかった. 通帳を見せてもらったこともなかった.

家の税金の支払いも、土地の書類も、全部正義が管理していた. シヅノに渡されるのは、毎月決まった額の生活費だけだった. それ以上のことには、口を挟む場所がなかった

塚田の声が続いていた. シヅノは聞き取ろうとしながら、同時に頭の中が静かになっていく感覚を覚えた.

塚田の説明は丁寧だった. 声のトーンも、言葉の選び方も、責めているわけではない. ただ事実を伝えている. そのことが、却って部屋の温度を下げていくようだった

「仮に移転をご選択いただいた場合、市が土地を時価で買い取る手続きに入ります」その買い取り代金から、農協への残債額を差し引いた残りを、草壁さんにお渡しできます」また、市の補助住宅への優先入居資格も、そのまま確保されます」土地の価格と残債の差額がどのくらいになるかは、査定が必要ですので、今この場ではお答えできませんが、いずれにしてもプラスの形で整理できる可能性が高いです」

しかし、塚田は続けた「移転をご選択されない場合、残債の問題は、別途処理が必要になります」農協からの債務は、市とは別の話ですので、そちらとの調整が必要ですし、もし弁済が滞ったままであれば、農協側が担保権を行使するという事態も、法的には起こり得ます」その場合には、市の手続きとは別に、土地の差し押さえが先に進む形になることも考えられまして、そうなりますと、市の補助住宅への入居資格も、その時点での手続き進行状況によっては、確保が難しくなる場合がございます」

塚田は一呼吸置いた.

それから、やや声を落として付け加えた「この年齢で、住む場所が確保できなくなるという事態は、私どもとしても大変心配しております」

この言葉の構造を、シヅノはじっと受け取っていた. 塚田が言っていることは脅しではなかった. 脅しであれば、まだ対処の仕方がある. しかし彼が並べたのは、全て事実だった.

法的に起こりうることを、丁寧に説明している. 「心配している」という最後の一言も、嘘ではないのかもしれない. 彼は行政の一部として機能しており、その機能として正しい情報を提供しているだけだ. 悪意がない.

だからこそ、どこにも保身を向けられない

シヅノは用紙をもう一度見た. 二百万円という数字と、その下に並ぶ内訳の数字、元本、延滞利息、そして小さな字で、農業共同組合の連絡先が記されていた

頭の中で計算が動き始めた. 今の給料は、夜間のパートで月に八万円ほどになる. 年金が月六万円強、合わせて十四万円前後.

そこから家の光熱費、食費、日用品、残るものはほとんどない. 二百万円を返すには、何年かかるか. 七十代に入るまでに、今の体力が続く保証はない. 夜間の仕事が続けられなくなれば、年金だけになる.

計算の途中で、シヅノは計算を止めた. 計算しても答えが変わらないことが、計算の途中で分かった

どのくらいの時間が経ったか. 塚田はパソコンの画面を見ながら、何かを待っている様子だった. せかす素振りは見せなかった.

その余裕の中に、結論はすでに決まっているという確信が透けて見えた. シヅノが何を言おうとしても、数字は変わらない. 法律は変わらない. この窓口でできることの範囲も変わらない

シヅノは椅子から立ち上がった.

手提げ袋を腕にかけた. プリントアウトされた用紙は、一度手元に引き寄せてから、また塚田の方へ戻した. 「これは、お持ちいただいた方がよろしいかと」塚田が言ったが、シヅノは静かに首を横に振った. 手元に置いておきたいものではなかった

「本日は、お時間をいただき、ありがとうございました」ご迷惑をおかけしました」とシヅノは言った.

声は小さく、しかし言葉ははっきりしていた. 塚田が頭を下げる前に、シヅノはすでに体を向けていた. 窓口から離れ、ロビーを横切った. 自動ドアが開く

外の空気が顔に当たった.

冷たく、少し湿っていた. 空は低く垂れ込めており、今にも雪に変わりそうな天気だ. 霙がパラパラと降っている. 傘は持っていなかった.

バス停まで歩いて十分かかる. シヅノはコートの襟を立て、歩き始めた. 国道沿いの歩道は、排気ガスの匂いがした. トラックが近くを通るたびに、風が体に当たる.

霙が、少しずつコートの肩を濡らしていった. 足元の靴が水溜まりを踏む. 冷たさが靴底を通って、足の裏に届いた

歩きながら、シヅノは何も考えないようにしていた. 考えないようにするということ自体が、考えることの一種だとは分かっていた.

それでも、今この霙の中で、正義への怒りを動かすわけにはいかなかった. 怒りを動かせば、その先に何があるかわからない. 怒りは亡くなった人間には届かない. 届かない感情を持て余ましている時間が、今の自分にはない

農協に担保を入れていたこと.

十五年間、一言も言わなかったこと. シヅノに心配をかけまいとして、一人で抱えていたこと. その判断が、今になってこういう形で現れてきた. 正義は悪い人ではなかった.

それだけは確かだ. 悪意のある人間でもなかった. ただ、女房には言わなくていいと思っていた. その時代の男の常識として、そう思っていた.

そしてその常識の重さが、今、シヅノ一人の肩に乗っている

バス停が見えてきた. 屋根のついた小さな待合所だ. 中に老人が一人、腰を下ろして待っていた. シヅノもその隣に座った.

お互い、何も言わなかった. バスが来るまでの十分ほど、二人は並んで前の道路を見ていた

バスの中で、シヅノは窓に頬をつけそうになりながら、外を眺めた. 霙の向こうに、見慣れた景色が流れていく. 田んぼの跡地、錆びかけた看板.

バスが山に近づくに連れ、乗客が一人ずつ降りていき、やがてシヅノ一人になった

家に着いたのは、昼過ぎだった. 玄関の引き戸を開けると、家の中が冷えていた. 出かけている間、暖房を消してきたからだ. 台所に入り、やかんに水を入れ、コンロにかけた.

火がつく前に、コートを脱いで椅子の背もたれにかけた. それから、ウールの繊維の上に、霙で湿った染みが残っているのを見た. コートの肩の当たりが、少し色が濃くなっている. 今日だけ着ようと思って引っ張り出したコートが、帰ってくればもう使い終わっていた

やかんが湧くのを待ちながら、シヅノは仏壇の前に立った.

正吉の遺影を見た. いつもの、困ったような微笑みだ. 今日だけは、その微笑みが何かを隠しているように見えた. 「もう少し早く言ってくれればよかった」という言葉が、喉の辺りまで来た.

しかし、それを声にすることはしなかった. 言ったところで、何も変わらない. そのことはもう分かっていた

番茶を入れた. 湯飲みの中で、薄い茶色の液体が揺れる.

テーブルの前に座り、両手で湯飲みを包んだ. 指先が、少しずつ温まっていく. それだけのことが、今日は何か重要なことのように感じられた. 窓の外では、霙がまだ続いていた.

山の輪郭が白く霞んでいる. 海からの風が、木の枝を揺らしていた. その音だけが、家の中に届いてくる. シヅノはそれを聞きながら、湯飲みの温度が手のひらからゆっくり逃げていくのを、何もせずにただ感じていた

市役所から帰ってきてから一週間ほど、シヅノは何もしなかった.

することが分からなかった. 農協に電話をかけて事情を聞くべきだとは、頭では分かっていた. しかし、電話をかけた先に何が待っているかを想像すると、体が動かなかった. 二百万円という数字の輪郭が、日が経つに連れてはっきりしてくる.

曖昧なままにしておくことで、まだ確定していないという気持ちを保てる. それが現実逃避だということは、シヅノ自身よく分かっていた. 分かった上で、その一週間を過ごした

仕事には行き続けた. 夜間のシフトは変わらず、週一夜の十時から朝の六時まで、倉庫の冷蔵区画で野菜のコンテナを積み、棚の在庫を数え、補充の記録を書く.

体を動かしている間は、余分なことが頭に入ってこない. それが今の仕事の意味だった. 職場の同僚とは、必要な言葉しか交わさない. 今日の入荷量はどれくらいか、ブロッコリーはどこの棚に回すか.

そういう言葉だけが、今のシヅノには扱いやすかった

一月の末に入って、大雪が来た. 予報では三十センチ程度と言っていたが、夜のうちに降り積もった量は、それを大きく超えた. 朝の六時に仕事を終えて外へ出た時、駐車場の車が全て白い塊に変わっていた. シヅノの自転車は軒下に置いてあったが、タイヤまで雪が埋まっていた.

この雪の中では、自転車に乗れない. バスも遅れている. 結局、家まで歩いて帰ることになった. 四十分かかった.

歩道の雪は誰にも踏まれておらず、膝の辺りまでくぐることもあった. コートの裾が濡れた. それでも足を止めなかった. 止まれば、体が急激に冷える.

動き続けることだけが、今できることだった

家に着くと、玄関を開ける前から気づいた. 屋根の様子がおかしい. 普段は瓦の隙間から空が見える場所に、雪が詰まっている. 積もった雪の重みで、古い瓦がずれかけているのが、玄関の前から見上げると確認できた.

屋根の端の方、台所の真上あたりの瓦が、一枚だけ傾いていた

中に入り、コートを脱いで台所に行くと、最初は分からなかった. 台所の板の間が、少し濡れている気がした. 最初は自分の靴から溶けた雪が落ちたのかと思った. しかし靴は玄関で脱いでいる.

もう一度見ると、板の間の一点に、小さな濡れた染みがあった. その染みが、見ている間にじわりと広がった

天井を見上げた. 板張りの天井の一箇所に、細い線が走っていた. その線の先端から、水滴が一滴、静かに落ちてきた.

雨漏りだった

鍋を引っ張り出した. 台所の隅に置いてある古いアルミの鍋で、煮物に使わなくなったものだ. 天井の染みの真下に置いた. 水滴が落ちると、「ちん」という小さな音がした.

一滴また一滴. その音が、静かな台所の中に規則正しく響いた

シヅノはその鍋を置いたまま、しばらく天井を見ていた. 屋根の瓦がずれたことで、雪解け水が屋根裏に入り込んだのだろう. この家の屋根は、正義が自分で葺いたものだ.

立ててから三十年以上が経っている. 何度か部分的な修繕をしたが、全面的な葺き替えは一度もしていない. 今年の雪の重みが、限界を超えたのかもしれない

翌朝、修理業者に電話をかけた. 電話帳の端に書き留めてあった.

地区内で屋根工事をしている業者の番号だ. 数年前に近所の家の修理をしているのを見た. 電話は一回で繋がった. 男の声が出た.

屋根の雨漏りの件で、シヅノは伝えた. 住所を聞かれたので答えた. 「山側地区、草壁」と、名前も言った. 電話の向こうで、男は少し間を置いた.

それからこう言った

「あの辺りは、今、道が凍結してまして、うちのトラックが入っていけるかどうか、ちょっと確認してから、折り返しますね」

翌日になっても、電話は来なかった. 三日後に掛け直すと、別の男が出た. 「先日ご連絡いただいた件ですが、所期で、当方は対応が難しい状況で」と言った. シヅノは「所期というのは、どういうことか」と聞いた.

少し沈黙があり、「まあ、山際の方の辺りは、道路状況が」と言いかけて、男は言葉を濁した

「承知しました」シヅノは言って、電話を切った. 道路が理由ではないことは分かっていた. あの地区の住民として扱われることを、業者も避けている. それだけのことだった.

理由を追求しても仕方がない. 追求できる立場でも、今のシヅノにはなかった

その夜から、雨漏りは二箇所になった. 台所の天井の染みが広がり、新しい雫の跡ができた. それに加えて、廊下の奥、仏壇のある間の手前の、板張りの天井にも、同じような染みが現れた.

鍋をもう一つ出した. 古い土鍋の蓋だけが引き出しの奥にあったので、それを甕として使った. 二箇所からの水音が、台所と廊下で重なって聞こえる. 「ちん、ちん」と、不規則な間隔で、それぞれの音が鳴る

シヅノは仏壇の前に正座し、その音を聞きながら、今夜の番茶を飲んだ.

湯飲みはいつものように薄い茶色で、温度はすぐに冷めた. 冬の間は、電気ストーブを切っておくと、急速に温度が下がる. 電気代を考えると、眠る前以外はストーブをつけたくない. 厚手の靴下を二枚重ねにし、古いかき巻きを肩から羽織った状態で、仏壇の前に座っていた

雪はまだ降り続けていた.

窓の外が白く光っている. 雪の日の夜は、不思議な明るさがある. 空が雪を反射して、夜なのに外がぼんやりと見える. その白い光の中に、屋根の端から落ちる雪解け水の筋が見えた

台所のテーブルに、折りたたみ式の携帯電話を置いていた.

充電は五十パーセント、画面には電波のマークが出ているが、山側地区ではしばしば圏外になる. 今夜はたまたま繋がっている. シヅノはその携帯電話を手に取り、しばらくそのまま持っていた. 液晶の光が、薄暗い闇の中で小さく光っている

番号帳を開いた.

登録してある名前は多くない. スーパーの勤務先、かかりつけの診療所、それから家族の番号が二つ. 義理の姉の番号と、息子の番号

義姉の浜子は、富山の市内に住んでいる. 正義の姉で、七十五歳になる.

夫が五年前に亡くなってから、一人暮らしで、娘家族が近くにいる. シヅノとは、年に一度、年賀状のやり取りをする程度の間柄だ. かつては行き来があったが、正義が亡くなってから、なんとなく疎くなった. 浜子に今の事情を話せるかどうか考えた.

話せる関係ではないとは言えない. しかし話したところで、浜子に何ができるわけでもない. 七十五歳の一人暮らしの老女を、自分の問題に巻き込むことへの抵抗があった

次の名前、孝介の名前を、指先でなぞった. 登録した日付は、十年以上前だ.

携帯電話を買い換えるたびに、この番号だけは移し替えてきた. 電話をかけることは少ない. 孝介の方からかかってくることも、年に数えるほどしかない. 四年前に父の法事で顔を合わせたのが最後だった.

その前は、その二年前の墓参りの時、お互いに何を話せばいいかわからないまま、短い時間が過ぎた. 息子は大人になってから、この家に泊まることを好まなかった. 好まないというより、東京の生活に引き戻される速さが、いつも二十四時間以内だった

「ちん」という音が、台所から聞こえた. 鍋に水が溜まってきている.

後で捨てなければならない. シヅノは発信ボタンを押した

呼び出し音がなり始めた. 一回、二回. 静かな闇の中で、その電子音がひどく間延びに聞こえた.

三回、四回、出ないかもしれないと思いかけた時、五回目の途中で繋がった

「もしもし」という声がした. 眠っていた声ではなかった. 何かに追われているような、乾いた疲労がそのまま声になったような、そういう声だった

「お母さん? 何かあった?

」と続いた. 時刻は夜の九時を少し過ぎたところだった. シヅノは一瞬、声が出なかった. 息子の声が、予想より疲れていたからだ

「もしもし」と言い直して、それから「ごめんね、急に電話して」と言った.

背景の音が聞こえた. テレビの音と、その奥に子供の声. 高い声で何か叫んでいる. 幼い子供が機嫌を損ねた時の声だ.

それに重なるように女の声が聞こえた. 美佐だろう. 「もう」と言いながら、何か言い続けている. 内容は聞き取れなかったが、声のトーンで疲弊していると分かった

孝介が、少し電話から口を話した気配があった.

「ちょっと待って」と誰かに言う声が聞こえた. 子供の声がまた上がった. 何かが床に落ちる音がした

「お母さん、今ちょっとバタバタしてて」と言った. 声が戻ってきた「会社でさ、部署移動になったんだよ」給料下がる方に、今月本当にきつくて」

孝介はそこで一度言葉を止め、また続けた「保育園の費用も、また上がったし、美佐とも、もめてて、まあ、色々あってさ」

シヅノは黙って聞いていた.

電話を持つ手に、少し力が入った. 孝介は三十九歳だった. 東京の西の方に、妻と子供二人で暮らしている. 上の子が今年から保育園に入ったばかりで、下の子はまだ一歳になったばかりのはずだ.

そのことは、去年の年賀状に書いてあった. 写真も入っていた. 二人の子供の顔は、年賀状の中でしか知らない. 抱いたことも、名前を呼んだこともない

孝介の勤め先は、物流関係の会社だと聞いていた.

入社して十五年になる. 出世の話が出ていると、数年前に電話で少し嬉しそうに話していたことがあった. それが今回の部署移動でどうなったのかは、詳しくは聞いていない. 聞けなかった

電話を持つ手の力が、少しずつ抜けていった.

市役所で聞いた二百万円の話を、今夜ここで言うつもりだった. 自分一人では抱えきれないから、息子に相談したかった. それだけのことだった. しかし、孝介の声の中にある疲れの密度を、今のシヅノはよく知っていた.

生活が限界に近い人間の声だ. 誰かに何かを聞いてもらいたい時、人の声がどんな音になるか、シヅノは自分自身でよく知っている. 今の孝介の声は、まさにその音だった

シヅノは息を一度整えた. それから、ゆっくりと言った「そうなの?

大変だったんだね」

言葉は、それだけにした. それ以上のことは言えなかった. 言えないのではなく、言わなかった. その違いを、シヅノは自分の中でちゃんと分けていた

「お母さんは、こっちは元気だから」と続けた「近所の人たちも、よくしてくれてるし」

声が少し硬くなった気がしたが、孝介は気づかなかっただろう.

孝介は、自分のことで精一杯だ. 家族のことだけ. 電話の向こうで、また子供の声が上がった. 今度はもう一人の、もっと小さい声だ.

それに重なって、美佐の声がする. 「ちょっと待ってって言ってるでしょう」という声. 孝介がため息をついた気配があった

「うん」まあ、お母さんも体を大事にして」と孝介は言った. 声はすでに、半分別のところへ向いていた

「うん」ありがとう」またね」とシヅノは言った.

孝介が何か言いかけた気配があったが、シヅノはその前に電話を切った

液晶の画面が暗くなった. 通話時間、三分四十七秒と表示された後、画面が消えた. 闇が急に静かになった気がした. しかしすぐに気づいた.

静かになったのではなく、電話の向こうの音が消えただけで、闇の音はずっとあった. 台所からの「ちん」、廊下からの「ちん」、外の雪が屋根から落ちる音. それが、今また聞こえている

シヅノは携帯電話をテーブルに置いた. 画面は黒くなっている.

その黒い画面を、しばらく見ていた

「近所の人たちも、よくしてくれている」と言った. つい先月、ゴミ袋を赤いマジックで引っかかれ、名前を斜線で消された. 玄関の前に、週刊誌を置かれた. それが「よくしてくれている」という言葉の中に収まっている.

孝介は言葉を疑わなかっただろう. 疑う理由がないからだ

上唇を内側に噛んだ. 鼻の奥が熱くなる感覚があった. 目の縁が、うっすらと滲んだ.

泣くとは思っていなかった. 泣こうとも思っていなかった. ただ、体の方が先に動いた

声には出さなかった. 声を出せば、何かが壊れる気がした.

壊れてしまえば、息が続かない. 息が続かなくなれば、明日の夜番に行けなくなる. だから、声は出さなかった

かき巻きの端を両手でぎゅっと握った. 布が少し湿った.

その手の感触だけを、意識の中心に置くようにした

仏壇の遺影を見た. 正義が笑っている. いつもと同じ顔だ. シヅノはその顔を見ながら、今夜は何も話しかけなかった.

話しかける言葉が見つからなかった. 言葉を探そうとすると、代わりに、あの二百万円という数字が浮かんでくる. 正義が一人で抱えていたものを、シヅノに言わなかったものを、その重さが今ここに残っている. その重さについて、今夜は、遺影に何も言えなかった

台所から水音がした.

鍋が溜まってきた音だ. シヅノは立ち上がり、台所へ行った. 鍋の中に、水が三センチほど溜まっていた. それを流し台に捨て、鍋を元の場所に戻した.

天井の染みを見上げた. 最初に気づいた時より、染みが広がっている. 板張りの天井が水を含んで、色が変わっていた. このまま放置すれば、板が腐る.

板が腐れば、天井が落ちる. それがどのくらいの速さで進むのかは分からなかった. 分かっても、今夜できることは何もない

廊下に行き、もう一つの鍋も確認した. こちらも水が溜まっていた.

捨てて、戻す. 同じ動作を繰り返した. 闇に戻り、かき巻きを体に巻き直した. ストーブはまだつけない.

もう少しが我慢できる

シヅノはそのまま正座の姿勢で、仏壇の前に座った. 背筋だけは伸びていた. 崩すつもりがないというより、崩し方を、体が覚えていない. 長年の習慣が、体の形を作っていた

「ちん、ちん」と、水音が再び不規則を作り始めた.

その音に合わせるように、外の風が窓を揺らした. ガラスが薄く振動する音. それから、静かになった. また水音だけになった

シヅノはその音の中に、じっと座っていた.

どのくらいの時間が経ったか分からなかった. ただ夜が、ゆっくりと深くなっていくことだけは、体で分かっていた. 冷えが少しずつ増していく. それに合わせて、かき巻きをもう少し体に引き寄せた

孝介の声をもう一度、頭の中で聞いてみた.

「今月本当にきつくて」という言葉の響きを、子供の鳴き声の遠さを、美佐の疲れた声音を、三分四十七秒の中にあったものを順番に確かめるように

息子の家族が、東京で生きていくのに、今でも精一杯なのだと分かった. それは責めることではない. 東京という場所の物価の、保育費の、会社の論理の、そういうものが、孝介の家族に圧力をかけている. シヅノには見えない圧力だが、存在することは分かる.

そこに自分の話を加えることが、今夜は正しくないと判断した. 正しくないというより、できなかった. その二つの違いを、シヅノは今夜は分けなかった. 分けても、結果は同じだからだ

言わなかった.

二百万円のことも、雨漏りのことも、ゴミ袋のことも、何一つ言わなかった. 「近所の人たちも、よくしてくれている」と言った. その言葉が、今もまだ口の中に残っているような気がした

鍋がまた鳴った. シヅノは立ち上がり、台所へ向かった.

水を捨て、鍋を戻し、天井を見上げ、それから、コンロのそばに立って、やかんに水を入れた. 番茶をいっぱい入れるだけのお湯を沸かすことにした

夜の仕事は、明日もある. 明後日も、ある. その次の日も、眠れなくても、朝が来れば起きて仏壇を拭いて、仕事へ行く.

それが、今の自分の形だと、シヅノは思った

やかんの底から、泡が上がり始める音がした. まだ湧いていない. シヅノはコンロの前に立ったまま、その音を聞いていた. 台所の窓の外は、まだ雪が降り続けていた.

白い闇の中で、風が一度だけ強く吹いた. 屋根から雪が落ちる. 重い音がした

二月に入ってからも、雨漏りは続いた. 鍋を置いた場所が一箇所増え、今は台所に二つ、廊下に一つ、間の隅に一つ、合わせて四つになった.

それぞれが違う間隔でなるので、家の中はいつも不規則な水音に満ちていた. 屋根の痛みが進んでいることは、音の増え方で分かった. 晴れた日は止まるが、雪が降るたびにまた始まる. この冬の雪は多く、晴れた日が続かなかった

二月の初めに、シヅノは農協に電話をかけた.

一月から先延ばしにしてきたことだ. 出た男の声は事務的で、名前を告げると少しだけ間があり、それから「内線に回しますので、少々お待ちください」と言った. 保留音が二分ほど続いた後、別の男が出た. 「担当のものに変わります」とのことで、また保留になった.

十分近く待って、ようやく本人が出た. 声の年齢から、四十代か五十代だろうと思った

シヅノは自分の名前と、今回の件の概要を伝えた. 夫の正義が、十五年前に農協から借入れをしていたこと. 市役所の窓口で、その残債を聞かされたこと.

詳しい経緯を確認したいということ. 男は「少し待ってください」と言い、書類を出してくる様子だった. ページをめくる音が聞こえた

男は言った「草壁正義さんのお名前で、農協の設備更新融資がございまして、ご本人が平成二十三年にご契約」担保は土地の一部、返済期間は十五年の設定でしたが、途中から滞り、その後、一時期、こちらから電話でご連絡を差し上げた時期もございましたが」

声の後半が、少し沈んだ「ご本人が亡くなられた後は、相続の手続きも行われなかったようで、現在は延滞が積み重なっている状況です」

シヅノは黙って聞いていた. 夫が亡くなった後に、農協から電話があったということを、自分は全く記憶していない.

正義が亡くなってすぐの頃は、葬儀の手続き、役所への届け、保険の整理などで、頭がいっぱいだった. もし電話があったとしても、当時の自分には対処する余裕がなかったかもしれない. あるいは、電話があったことに気づかなかったのかもしれない. 今となっては、確かめようがない

「分かりました」とシヅノは言った.

それ以外に、言える言葉がなかった. 男は「今後の手続きについては、市役所の窓口と連携して進めることになるため、また改めてご連絡します」と言った

「はい、よろしくお願いします」シヅノは言って、電話を切った. 受話器を置いてから、しばらくその場に立っていた. 台所の窓から外を見ると、空が鉛色に曇っていた.

雪が降り始めていた. 静かな、細かい雪だった. それがだんだんと、視界の中に白い密度を作っていく

シヅノはそれを見ながら、正義がなぜ話してくれなかったのかを、今更のように考えていた. 答えは分かっていた.

心配をかけたくなかったからだ. それだけのことだ. しかし、その「それだけ」の重さが、今は手も足も出ないほど大きくなっていた

二月の中旬、シヅノは決めた. 決めるというより、決める以外の選択肢がなくなったという方が正確だった.

市役所に連絡を入れ、移転の手続きを進める意向を伝えた. 電話口に出たのは塚田ではなく別の職員だったが、すぐに担当に回した. 塚田が出た. シヅノが要件を告げると、塚田は一瞬だけ間を置き、それから、よく聞き取れないほど小さな声で「承知しました」と言った.

その声の中に、勝ち誇ったような色はなかった. ただ、仕事として了解したという意味だけがあった

「次回、お越しいただく日程を、調整させてください」と彼は続けた. 二月二十日、午前十時、その日時に決まった

それから引っ越しの日まで、シヅノはいつも通り働いた. 夜間のシフトを続け、朝帰り、仏壇を拭き、番茶を飲み、眠れる時間だけ眠った.

眠れない夜は、台所に座って、家計簿の古い記録を眺めた. 何十年分もの数字が、細かい字でびっしりと並んでいる. 正義が生きていた頃の月々の支出、子供が生まれた年の特別出費、家電が壊れた年の記録、全部ある. 数字の羅列の中に、自分たちの暮らしの全部が入っている気がした.

これを全部ダンボールに詰めるのかと思うと、手が止まった

荷造りは、少しずつ進めた. 本当に少しずつだ. 一日にダンボール一箱分だけ詰めると決めた. それ以上やると、まだここにいるうちに、家が空っぽになってしまう気がした.

捨てるものと持っていくものの仕訳は、想像していたより難しかった. 正義の道具類、使わなくなった食器、古い雑誌の束、どれも捨てるには、何かが引っかかった. 結局、ダンボールに詰めたのは、衣類と日用品、仏壇周りの道具だけだった. 他のものは、市の業者に任せるつもりにした.

市が手配する簡易引っ越しパックに含まれる処分サービスを使えばいい. そう割り切らないと、体が前に進まなかった

二月二十日の朝、シヅノは普段より一時間早く起きた. 仏壇を拭いた. いつもより時間をかけて拭いた.

雑巾が黒くなるまで、丁寧に、棚の隅まで拭いた. 線香を一本立てた. 煙がまっすぐ上がった. 今日は風がないのだと思った.

正吉の遺影に向かい、静かに手を合わせた. 今日のことを言葉にしなかった. 言葉にする必要はなかった. 分かっているはずだからと、自分に言い聞かせた

箪笥を開けた.

一番良いものを着ていく、と決めていた. 一月に市役所へ行った時と同じ、黒いウールのコートだ. 今日もこれを着ていく

前回と違うのは、今日ここから戻ってこないという点だった. 荷物は、昨日の夜にダンボールにまとめてある.

コートを羽織り、鞄に印鑑のケースを入れた. 判子を確認した. 朱肉がまだある. 蓋を閉めて、鞄にしまった.

玄関を出る前に、一度だけ、家の中を振り返った. 廊下の奥に、鍋が置いてある. 今日は雪が降っていないから、水は溜まっていない. 空の鍋が、そのまま置いてある.

シヅノはそれを見た. そのまま出た

バス停まで歩く間、空気が澄んでいた. 二月の朝の空気は、刺すように冷たいが、今日は風がなく、体が芯まで冷える感じはなかった. 道の端の雪が、日を受けて少し光っている.

遠くに、海が見えた. 山際から見下ろす海は、冬の光の中で、灰色と青の間の色をしていた. 波が小さく動いているのが、この距離でも分かった

バス停に着くと、誰もいなかった. ベンチに座り、手袋をはめた手を膝の上で組んだ.

バスが来るまで、七分あった. その七分の間、シヅノは海の方を向いていた. 特に何かを考えていたわけではない. 海を見ていた.

それだけだった

バスが来る音が聞こえた時、体を起こした. 市役所に着いたのは、九時五十分だった. 自動ドアをくぐり、番号発券機の前に立った. 前回と同じ手順だった.

整理番号を受け取り、プラスチックの椅子に座り、名前を呼ばれるのを待つ. 今日の待ち合い室は、前回より空いていた. 老人が三人と、若い女性が一人、それぞれ離れた椅子に座って書類を見ていた

「草壁様、三番窓口へどうぞ」という声が聞こえた. 前回と同じ窓口だった.

塚田がいた. グレーのスーツ、二つに整えられた髪、同じ微笑み. シヅノが席につくと、塚田はすでに書類の束を手元に揃えていた

「いらっしゃいませ」と彼は言った. その一言だけで、後は何も言わなかった.

シヅノも、何も言わなかった. 鞄から印鑑のケースを取り出した. 蓋を開け、朱肉の面を確認した

塚田が一枚目の書類を差し出した. 指差した箇所に、朱肉を押した.

紙の上に、印肉の色が鮮やかに残った. 塚田が二枚目を出した. また押した. 三枚目、四枚目.

シヅノは塚田の指が示す場所だけを見るたびに、判子を押した

書類の内容を全部読んだわけではなかった. 読む必要がないと思っていた. というより、読み始めたら、何かが崩れる気がした. だから、手だけを動かした.

全部で七枚押した. 最後の一枚を押し終えると、塚田は書類をまとめ、揃えてから、クリップで止めた. それから顔を上げ

「以上で、手続きは完了でございます」と言った「ご協力いただき、ありがとうございました」引っ越しは三月七日のご予定で、当日は業者がお伺いします」引っ越し先のお部屋の鍵は、こちらです」

と言って、封筒を一枚差し出した. 封筒を受け取った.

中に鍵が入っているのが、封筒の外からでも形で分かった. シヅノはその封筒を鞄にしまい、印鑑のケースも戻した. それから立ち上がり、塚田に向かって頭を下げた

「お世話になりました」と言った. 塚田も頭を下げた.

その会釈が何を意味するものか. シヅノはもう考えなかった

市役所を出ると、空が少し明るくなっていた. 雲の切れ間から、薄い日が差している. 寒いことに変わりはなかったが、光があるだけで、体の感じが少し違う

バス停まで歩きながら、シヅノは手提げの中に入っている封筒のことを考えた.

その中の鍵が、四階の一室に続いている. 今日から、そこが自分の家になる

引っ越しの日は、三月七日、朝の八時半だった. 前日の夜、シヅノは眠れなかった. いつもの不眠とは少し違った.

いつもは、眠れない理由が頭の中をぐるぐると回るが、前日の夜は、何も考えられなかった. 考えるというより、頭の中が空白のようだった. ただ時計の針の動く音だけが聞こえていた. 掛け時計はずっと前から使っているものだ.

正義が山の手土産に買ってきた木製の掛け時計で、今も廊下にかかっている. 引っ越しの時、これは持っていく、と決めていた

朝の六時に起きた. 仏壇の前に座り、手を合わせた. 線香を立てた.

煙が上がる間、ただそこに座っていた. 今日のことも、これからのことも、何も言わなかった. 正義の遺影を、長い間見ていた. 困ったような笑顔.

その笑顔が、今日で最後ではない. 仏壇ごと持っていくからと、自分に言い聞かせた. それでも、この部屋で、この遺影を見るのは今日が最後だということが、頭のどこかでは分かっていた

七時過ぎに、業者の車が坂を上がってくる音がした. 窓から見ると、白い車が一台、慎重に坂道を上がってきた.

玄関の前に止まり、作業着の男が二人降りてきた. 降りた瞬間、段ボールを抱えている. 三十代くらいで、部類ではないが、特に愛想もない、普通の男たちだった

「おはようございます」草壁部様ですね? と一人が言った.

シヅノは「おはようございます」よろしくお願いします」と答えた. 家の中に案内すると、二人は手際よく動き始めた. ダンボールは、昨日までにシヅノが詰めたものが六箱. それに、仏壇、掛け時計、座布団一枚、炊飯器、火器道具は、市の委託業者が後日引き取ることになっている

作業員たちがダンボールを運び出している間、シヅノは家の中に残っていた.

まず台所に入った. シンクに手をついて、流し台の前に立った. ここで何万回も料理をした. 正義の弁当を詰めた朝、孝介が小さい頃好きだった揚げ出し豆腐を作った夜、一人になってから半額のおかずを温め直した夜.

台所の壁に、長年の油汚れが薄く染みついている. 換気扇の羽を拭く時、いつもその染みを見ていた. しばらくそこに立っていてから、出た

廊下を歩いた. 板の間が沈む場所がある.

入ってすぐの一本目と、間の手前. 何十年も、同じ場所が沈む. 歩くたびに、音がする. その音になれすぎて、最近は気にしなくなっていたが、今日は、一歩踏み出すたびに聞こえた

二階に上がった.

階段は急で、手すりが古びている. 二階は、物置き代わりに使っていた部屋と、小さな和室がある. 和室の窓を開けた. 海が見えた.

曇り空の下、鉛色の海が広がっていた. 波は小さく、穏やかだった. 水平線が、薄い霞の中に溶けている. 晴れた日には遠くの半島の輪郭まで見えるが、今日は霞んでいた.

それでも、海はそこにあった. 音は、今日はほとんどしない. 波の音というより、海全体が低く息をしているような音が、かすかに聞こえた

正義はこの窓から、海を見るのが好きだった. 晩年、体の動きが鈍くなってから、二階にはあまり上がれなくなっていたが、それでも気が向くと、一人でここへ来た.

何をするわけでもなく、ただ座って海を見ていた. 今日のように霞んだ日も、荒れた日も、晴れた日も、同じように見ていた. 海が変わるわけではない. シヅノは当時を思った.

今は、海を見ていたのではなく、海の前に座っていたのだということが、分かる. そこに座ることが、正義には必要だったのだと

長い間、窓の前に立っていた. 下から、作業員の声が聞こえた. シヅノは窓を閉めた.

ゆっくりと窓枠を引いて、鍵をかけた. 鍵をかける必要はない. どうせ、もう開けることはないからと思いながらも、手が自然に動いて、鍵をかけた. 何十年もの習慣だった

階段を降りた.

間に入った. 部屋は、ほとんど空になっていた. ダンボールも、仏壇も、もう運び出されている. 畳の上に、四角い色の薄くなった跡が残っていた.

仏壇を置いていた場所だ. 畳の目が、そこだけ違う方向を向いている. 長い年月、重いものが置かれ続けた証だ. その後を、シヅノは靴下のまま、踏まないようにして近づいた.

円のところに立ち、その薄くなった正方形を見下ろした. しゃがもうとして、やめた. しゃがんでしまうと、立ち上がれない気がした. 代わりに、そのまま立ったままで、頭を下げた.

深く、ゆっくりと. 誰かに見せるための会釈ではなかった. 何に対する会釈かも、はっきりとは分からなかった. ただ、体が、そうしなければならないと知っていた

頭を上げると、部屋はやはり空だった.

窓から外の光が入っている. 畳の色が、光の中で少し黄色みを帯びて見えた

台所の方から、作業員の声がした. 「草壁さん、最後の確認をお願いできますか」と呼んでいる

「はい、今行きます」とシヅノは答えた. 玄関で靴を履き、外に出た.

車のドアが開いていて、荷物が全部詰まれていた. 作業員の一人が、確認書を持ってきた. シヅノはそれに目を通し、「問題ありません」と言って、受け取った. もう一人が「ご自宅の方を、締めていただいて」と言った

シヅノは玄関に戻り、戸を閉めた.

鍵を差し込んで、回した. 「かちり」という音がした. その音を、シヅノは一度だけ確かめるように聞いた. いつも聞いている音だ.

しかし、今日の音は、何か違う重さがあった. 鍵を抜いて、手の中で持った. しばらく、そのままいた

作業員が待っている. 車がとまっている.

雪がパラパラと降り始めていた. 鍵をポケットにしまい、車に乗り込んだ. 車が動き出した. 坂を降りながら、シヅノは助手席の窓から外を見た.

家が遠ざかっていく. 木造の二階建て、白かった漆喰いが剥げた壁、錆びた郵便受け、その形が小さくなっていく. 角を曲がると、見えなくなった. その後は、前を向いていた

新しい住まいは、市の中心部にある集合住宅の四階だった.

立てられて十年ほどの建物で、外壁はまだ比較的綺麗だった. エレベーターがある. エレベーターのある建物に住むのは、初めてだった. ボタンを押すと、滑らかに動いた.

四階で止まり、ドアが開いた. 廊下に出ると、コンクリートの匂いがした. 窓が一定の間隔で並んでいて、廊下の向こうの端まで、同じ形のドアが続いている

「四〇三号室」と書かれたドアの前に立ち、封筒から鍵を取り出した. ドアを開けると、乾いたペンキの匂いがした.

ワンルームの部屋だった. ドアを入ってすぐに小さな玄関があり、廊下を抜けると、六畳ほどの居室に続いている. その奥にキッチンがあり、左手にユニットバスのドア. 壁は全面、真っ白に塗られている.

窓は南向きで、光は入るが、外を見ると、向かいの集合住宅の外壁が視界の大半を占めている. 空は、その壁と壁の間に、細い帯のように見えた. 海は、見えなかった. 波の音も、しなかった

作業員たちが、ダンボールを運び込んできた.

仏壇は、壁際に置くよう指示した. 掛け時計は、廊下にかけてもらった. 小さなテレビは、窓の脇に. ダンボールが全部運び込まれると、作業員たちは手際よく引き取った.

それから、部屋は静かになった. 異様な静かさだった. 木造の家に住み続けてきた耳には、コンクリートの静けさは、音が消えたのではなく、音が閉じ込められているような感覚を与えた. 山際の家では、風の音、木が鳴る音、屋根の雨音、遠くの波の音が、常に家の中に流れ込んでいた.

ここには、それがない. 換気扇だけが、低く唸っている. その音だけが、部屋の中にある音の全てだった

シヅノは窓の前に立った. 向かいの建物の外壁を見た.

コンクリートの灰色が、窓一杯に広がっている. いくつかの窓に、明かりがついていた. 誰かが住んでいる. しかし、人の姿は見えない.

声も聞こえない. ここにも人がいるということだけが、灯りの点滅から分かった

この建物に、自分と同じような老人が、何十人も住んでいるのだろう. シヅノは思った. それぞれの部屋で、それぞれに、今日の夕飯を考えたり、テレビをつけたり、電話を待ったりしている.

お互いの名前も知らない. 廊下ですれ違えば、会釈くらいはするかもしれない. しかし、それ以上にはならない. ここは、そういう場所だ

同じ建物の中に人がいるという事実が、孤独を埋めるわけではない.

蛍光灯の電球をつけた. 小さな明かりが灯った. 正義の遺影が、白い壁を背景に立っている. いつもの笑顔だ.

部屋の白さの中で、黒い枠の色が、際立って見えた. シヅノは手を合わせた. 線香を一本立てた. 煙が上がった.

しかし、ここでは、煙が漂う空間がない. すぐに空調に吸い込まれて、消えていった

ダンボールを一つ開けた. 日用品が入っていた. タオル、歯ブラシ、石鹸.

それをユニットバスの棚に並べた. 次のダンボールを開けると、衣類が出てきた. クローゼットに移した. 作業は、機械的に進んだ.

考えながらやっているのではなく、体が動いているという感覚だった

冷蔵庫の電源を入れた. 仕事帰りに買っておいた半額のおかずパックが一つ、手提げ袋の中にある. それを冷蔵庫に入れた. 観音開きの扉を閉めると、内側の光も消えた.

ガランとした庫内に、おかずパック一つだけが入っている. その光景が、扉を閉める直前に目に入った

台所のテーブルの前に座った. 椅子は、山際の家から持ってきたものではなく、部屋に備えつけのパイプ椅子が一脚あった. 座ると、冷たかった

手提げ袋から、今日届いた光熱費の通知を取り出した.

新しいこの部屋の最初の月の、電気、水道の目安額が書いてある. 数字を確認し、二つに折り、手提げの内側のポケットにしまった

これから、しばらくそのまま座っていた. 窓の外の光が、夕方の色に変わり始めていた. 灰色のコンクリートが、少しだけ橙色を帯びた.

下の方の窓に灯りが増えてきた. 夕方になると、みんな帰ってくる. 帰ってくる人がいる場所に、灯りがつく. それを、シヅノは見ていた

夜の仕事は、明日からまた始まる.

スーパーの倉庫で、重いダンボールを積む仕事が、明日の夜も待っている. バスの乗り方は、営業所に確認すればいい. 勤務先まで何分かかるか、どの停留所で降りればいいか. それを確認することが、明日の朝、最初にすることだ

仏壇の灯りが、白い壁に、小さな丸い光を落としていた.

正吉の遺影の周囲に、その光が届いている. シヅノはそれを見ていた. ここが、自分の場所だと思った. 思うとしてできなかった.

ただ、ここが今夜眠る場所だということは分かった. それで十分だと、体に言い聞かせた

外が暗くなった. 換気扇の音だけが続いている. シヅノは立ち上がり、照明をつけた.

蛍光ではなく、LEDの白い光が部屋に満ちた. 山の家の蛍光灯とは違う、揺れない、均一な光だった. その光の中で、白い壁と、白い天井と、白い床が広がっている. 物を置いた分だけ、少し部屋らしくなった.

しかし、白さはまだそこにある

シヅノはパイプ椅子に戻り、背筋を伸ばして座った. 長い習慣が、体の芯を作っていた. それだけは、どこへ行っても変わらなかった

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました. 草壁部シヅノの物語、いかがでしたでしょうか?

山里は無縁の、静かで少し苦しい話でしたが、それでも最後までご一緒してくださった皆さんに、心から感謝申し上げます. もし少しでも心に残るものがあれば、チャンネルへの高評価とご登録をいただけますと、次の物語を作り続ける力になります. またいつか、別の誰かの話でお会いしましょう.

どうかお元気で