姑が鞭を振り上げた瞬間、妻は目を閉じて身を固くした。10年間、誰もが自分を愚か者と呼び、誰もが自分を嘲り、誰もが自分を軽んじてきた。それでも耐えてきた。母の言葉があったからだ。生涯愚か者として生きよ、と。だが、その鞭が妻の背に振り下ろされるその瞬間、10年間閉じ込めてきた何かが、音を立てて崩れ落ちていった。
「おやめください」
その声は、震えていなかった。
やめください、と。妻には何の落ち度もございません
村人たちが凍りついた。愚か者の徳松が、まっすぐに姑を見据えていたのだ。つい数刻前まで、誰もが笑い者にしていた男が、今、はっきりとした声で言葉を紡いでいる。ついで最初の1年、ソの心には諦めしかなかった。愚か者と呼ばれる夫と暮らすことになった自分の運命を、ただ受け入れるほかなかった。これは母を救うための代償なのだと、自分に言い聞かせるだけの日々だった。
それが、姑の目が、見る見るうちに血の気を失っていくのが分かった。10年間、守り抜いてきた秘密が、今まさに崩れ去ろうとしているのだ。
のシはゆっくりと語り始めた。自分は生まれつき愚か者だったことなど一度もないと。母上が、自分に愚か者のふりをせよと命じられたのだと。10年前、江戸で起きた、お家の悲劇のことを、彼は淡々と告白した村人たちが、どよめいたていた
だが、その告白は終わりではなかった。彼は続けた牧民の老夫婦は、ただ静かに頷いた。10年の間、妻を姑の鞭から守ることもできず、ただ物陰からその姿を見つめることしかできなかったことなど、一度もなかったと知った者こそ、この10年の苦しみの全てが、この人との出会いのためにあったのかもしれないと、静かに思うのだった
自分の本当の名は、熱の真と、野牛家の散難であると、彼は名乗った一个身分を明かした男に、姑は震える声で詫びた。だが彼は首を振った。母上は自分を救ってくれたのだと、その恩は決して忘れないと、静かに言った今、自分が愛したのは、老の息子という身分ではない。不器用に足を揉んでくれ、決して怒らず、いつも自分のことを気遣ってくれた、あの人そのものだったのだ
数日後、江戸から役人が訪れた。熱の真の正体を確かめるために、取り方が差し向けられたのだある、夜のことだった。姑トがソを呼びつけた。手には鞭が握られていた。姑は、冷たい声で言った昨晩、実家から米を借りてこいと言ったはずだ。と、ソは村を回り、米を貸して欲しいと頼んで歩いたが、誰もが首を横に振った自分たちも飢えに苦しんでいる。愚か者の停主を持つ家に米を貸していつ帰ってくるか分からないと、結局ソは手ぶらで帰ってきた。姑の顔が歪んだそれすら持ってこられぬとは、全く役立たずだとなりつけた、と。その日から姑の仕打ちは一層激しくなった飯を与えず、冷たい水で洗濯をさせ、夜遅くまで針仕事を敷いた
だが、彼は、その無実を、大陪審の前で証明して見せると言い張った取り方の頭は、しばし考え込んだ後、頷いた。よかろう、大官の前に引き立てると、と
大陪審では、彼の言葉は理路整然としていたある日、村の子供たちが徳松を指さして、愚か者、愚か者と囃し立てたことがあった。徳松はいつものようにただ俯いているだけだったが、ソはたまらず子供たちの前に立ちはだかった、それ以上言うことは許しませんと、声を荒げた自分でも驚くほど強い口調だった
大官が、役人に命じて、彼の在所、底風塾の杉田先生に証言を求めた数日後、確認の結果が届いた番の真が本当にその地にいたという証言だった。大官は頷いた、証拠は確かだと、真には無本への関与は認められないと述べた
だが問題があった。逆族の子であるという、その身分そのものが問題だったのである大官はしばし沈黙した。この一決は己れの一存では決められぬ故、上に諮ると告げた柵の真は、その場にとどめを置かれ、裁きを待つこととなった
その間、熱のシは、粗末な牢に近い一室で過ごすこととなった狭い部屋の中で、彼は、ソのことばかりを思っていたもし自分がこのまま罪人として裁かれれば、ソは再び一人になってしまう如今度は、逆族の妻として、これまで以上に辛い立場に追いやられるかもしれないそのことを思うと、彼は、いても立ってもいられなかっただが、今はただ裁きを待つ他に、できることは何もなかった夜、小さな窓から差し込む月明かりを見上げながら、彼は、ソと過ごした10年間の記憶を、一つ一つ丁寧に辿り続けた
数日後、ようやく裁きが下った大官が言った、上のお許しが出た、と彼の身分をどうするかは、逆族の子は仕官することもできず、武士の身分を保つこともできない、と述べた彼は、膝をついた自分は仕官など望んでいないと、武士の身分もいらないと、ただ一つだけ許して欲しいことがあると言った大官が尋ねた、何か、と彼は答えた自分の妻と共に、ただの町人として生きていけるようにして欲しいと、それだけが自分の望みだと述べた大官は頷いた、よかろうと、身分は町人へと落とすが、自由の身として生きることを許すと、ただし江戸には住めぬ故、遠くへ移り住むように、と言った彼は、感謝の意を述べ、頭を下げた
彼の、ソは、あの男の物語を、こうして語り継いでいった愚か者として生きた学者の物語、真の愛を守るために全てを捨てた男の物語、そしてその男を最後まで信じ、愛し抜いた女の物語立場の違う身分も、財産も、いずれ移ろい変わるものであるだが、互いを思う心だけは、10年の歳月をかけても、損なわれることがなかったそれこそが、この物語が教えてくれる、ただ一つの真実なのかもしれない



