インターホンを開けたら、新聞の切り抜きを大切に持った教え子が立っていた。18年前、あの大雪の夜、医師として「もう助からない」と言われた少女を私が必死で救った。だがその直後、病院の論理で私はすべてを奪われた。少女は今日も、その「神様みたいな先生」を探している。そして彼女は言った。「先生、あの先生にお礼を言いたいんです」。彼女の母が、記事から切り抜かれた名前を見つめたまま、静かに言った。「由美、…

インターホンを開けたら、新聞の切り抜きを大切に持った教え子が立っていた。18年前、あの大雪の夜、医師として「もう助からない」と言われた少女を私が必死で救った。だがその直後、病院の論理で私はすべてを奪われた。少女は今日も、その「神様みたいな先生」を探している。そして彼女は言った。「先生、あの先生にお礼を言いたいんです」。彼女の母が、記事から切り抜かれた名前を見つめたまま、静かに言った。「由美、...

インターホンが鳴った。約束の時間より10分早い。玄関を開けると、ネイビーのブレザーを着た少女が深く頭を下げていた。

「高坂由美です。今日からよろしくお願いします」

背筋を伸ばしたその姿は、18歳には見えなかった。私は佐藤大輔、42歳。家庭教師だ。医大受験生だけを引き受ける。それだけの男だ。

由美をリビングに通し、茶を出した。事前に指導員の桜井先生から聞いていた通り、模試で常に上位にいる生徒らしい。第一志望は国立の医学部。成績は満足していないとも言った。声は揺れなかった。合格したいというより、合格しなければならないのだと、そういう声音だった。

最初の授業は理科から始まった。由美は止まることなく問題を解き続けた。2時間の授業が終わり、休憩に入った時だった。彼女のポケットから紙切れが覗いているのを見つけた。古びた新聞の切り抜きだった。

「何だ、それは」

由美は一瞬ためらい、それから切り抜きを差し出した。「私の宝物です」。受け取った記事の見出しには「奇跡の救護、12人の命を救う」とあった。日付は18年前。写真はぼやけていた。若い白衣の男がストレッチャーの横に立っている。顔の半分は影に隠れて、はっきりしない。

「名前は?」

「最初からこうだったんです。母がくれたもので」

由美はケースの中の布を宝物を扱うように丁寧に触れた。授業の残り時間が始まった。ふと由美が科学の式を書く横顔を見た瞬間、目が合って、すぐに逸らされた。その日、由美が帰った後、私はクローゼットの奥から古い段ボール箱を取り出した。何年も開けていなかった箱だ。中には白衣と聴診器とノートが入っていた。私は箱をクローゼットに戻した。その夜は寝つけなかった。

授業は週に2回になった。由美の学力は確かに高い。だが医学部生にしては、知識の偏りが異様だった。生理学の話をしていた時だ。心臓の収縮力はフランク・スターリングの法則で説明される、と私が言うと、由美は当然のように答えた。

「循環血液量が減ると心拍数も低下します。出血性ショックでは、バイタルサインの喪失を防ぐと同時に、止血が優先されます」

一瞬、言葉を失った。「どこでそれを知った?」「図書館で。中学生の頃から救急の専門書を読んでいました」。高校生の自学自習の範囲を超えている。医学生でも5年になるまで深く学ばない領域だ。由美は迷いなく言った。

「医学部に入ったら、何を目指すんだ」

「救急です。決めています」

迷いがなかった。その週末、桜井先生から電話があった。「佐藤先生、由美ちゃんはどうですか」「成績は順調です。ただ、一つ気になることが」「医師への執着でしょう?」「ええ、まさにその通りです」「あの子ね、中学の頃から進路指導で見てきたけど、一度も揺れたことがないの。『絶対に医者になる』って。普通の子はこうじゃない。何かあるはずなのよ。本人は『決めているだけです』としか言わない。理由を頑なに話さないのよ」

電話を切って、しばらく窓の外を眺めた。夕焼けで空が赤く染まっていた。あの日も雪が降っていた。授業の終わり、由美は問題集を閉じるのが遅かった。何か言いたげに唇が動いていた。「何か質問あるか?」「先生、一つだけ聞いてもいいですか」「何でも聞け」「先生は、顔も名前も知らない人を探したことはありますか」

窓の外で雪が静かに降っていた。「どうしてそんなことを聞くんだ」「私、長い間探している人がいるんです」。由美は一冊の本を取り出して、机にそっと置いた。「私が5歳の時、大きな事故に遭いました。多重衝突事故で、私もその中の一台に乗っていました。母の話では、最初は助からないと言われたそうです」。私は無意識に机の縁を握った。「でも、最後まで諦めずに執刀してくれた若い医師がいたんです。そのおかげで今の私がいます」

「その医師の名前は?」「知りません。母も知らないと言います。事故の後すぐに病院を辞めたそうです」。由美の指が記事をそっと撫でた。「私を助けてくれた先生を探しています。ちゃんとお礼を言いたいから。だから先生の意志を継ぎたいんです。いつか同じ場所に立つことができたらと、ずっと思っていました」

私は由美の顔を見られなかった。日付を聞くまでもなかった。「事故のことは母から全部聞いたんですか?場所も状況も?」「はい。高速道路での多重衝突事故です。12月でした。母は今でもあの日をよく覚えています」

私はゆっくりと息を吐いた。机の上の記事をもう一度見る。18年前の12月、高速道路での多重衝突事故。死者12人。あれは私が担当した現場だった。当時24歳、救命士だった。

「そうか。だから医者を目指しているんだな。立派な目標だ」「ありがとうございます。先生にそう言ってもらえて嬉しいです」

由美が帰った後、私は窓の外の雪を見ていた。18年前のあの夜と同じ、重く垂れ込める雪だった。「来週もよろしくお願いします、先生」「ああ、気をつけて帰れよ。雪になりそうだ」。玄関で由美を見送り、部屋に戻ると、机の上に新聞の切り抜きが残されていた。拾い上げる。ぼやけた写真の中の若い白衣は、間違いなく自分だった。クローゼットの奥の段ボール箱が頭をよぎった。雪は夜になっても降り続いていた。

土曜の午後、由美の家を訪ねた。忘れ物の参考書を返すためだったが、本当の目的が口元にあることを私は分かっていた。玄関に出たのは由美の母だった。小柄な女性で、目が由美にそっくりだった。「佐藤先生ですね。娘がいつもお世話になっています」。しっかりと頭を下げる姿に、長年一人で由美を育ててきた苦労が滲んでいた。リビングに通され、由美は今いないと言った。茶を一口含んで、私は切り出した。「由美さんから事故の話を聞きました」真弓さんの手が茶碗を包んだまま止まった。「娘が先生に話したんですね」「あの事故のことを話してもらえますか」

真弓さんはゆっくりと語り始めた。あの日、親戚の家の帰り道だった。前を走っていた車が高速道路で突然スリップし、気が付いた時には由美が血まみれでぐったりしていた。声が次第に小さくなっていく。救急車で運ばれた病院で、医師に言われた。「お母さん、覚悟をしてください」。心臓に深い傷を負っている、と。私は黙って聞いていた。心臓の深い傷。その言葉が何を意味するのか、私が一番よく分かっていた。だが、若い医師は一人で何時間も諦めずに治療を続けた。私は廊下でずっと祈っていた。夜明けに医師が出てきて「助かりました」と一言言うと、すぐに走り去っていった。真弓さんの目に涙が滲んだ。ほかにも多くの患者が運び込まれていて、後で看護師から聞いた話では、その医師は最後まで一人で多くの命を救ったそうだ。私は茶碗を置いた。あの夜の光景が鮮明によみがえる。廊下で泣き崩れる家族の姿。その中に確かに、若い母がいた。

「退院した後、何度も病院に足を運んでお礼を言おうとしたんです。でも、もうその先生はいませんでした。事故の責任を取って辞めたのだと聞かされました」真弓さんの声が少し震えていた。「今でも分かりません。必死で命を救ってくれた人が、どうして責任を取らなければならなかったのか」。私は何も言えなかった。由美はあの医師を支えにして生きてきた。あの子にとって、あの先生は神様のような存在だ。真弓さんは続けた。「由美には先生が辞めた事情を話していません。純粋な気持ちを傷つけたくなかったんです」

帰り道、雪解け水が道端を流れていた。「神様」という言葉が頭から離れなかった。

数日後、私は東堂良介を訪ねた。中央総合病院の救急センターで働く男だ。元同僚で、あの夜、一緒に現場で働いた男だった。「佐藤、まさかお前から電話が来るとはな」「16年ぶりか」「お前は変わってないな」「お前こそ、頑固に生きてるな」。向かい合って座ると、東堂はしばらく私の顔を見つめた。「それで、用件は何だ。16年も音信不通だった男が突然来るのには理由があるだろう」私は切り出した。「あの夜のことをもう一度調べたい」「18年前の12月の事故だな」。東堂の表情が急に引き締まった。「あの夜のことは忘れたことはない。お前は次々と患者を診ていた。一人も受け入れを断らなかった」「断れなかったんだ」「ああ。だが、上は違った」。東堂は話し続けた。「あの夜、西園寺はベッド数が限られているから受け入れを中止するよう命令していた。それを利益を優先して無視してお前は患者を受け入れ続けた。その結果、12人の命が救われた。そして病院は赤字になった」「ああ、緊急手術を立て続けにやれば当然だ。保険適用外の処置も多かった」。私は頷いた。事故から数週間後、取締役会に呼び出された。独断行動の責任を問われ、病院を追われた。新聞は奇跡の救護と持ち上げたが、その功績の主の名前はなぜか表に出ることはなかった。「西園寺がお前を切り捨てて、マスコミを収めたんだ。汚い手だった」「当時の俺には何もできなかった。お前のせいじゃない。俺が口を開けば、お前も切られていた」「それでも、悔いは残った」

しばらく二人とも黙っていた。窓の外を救急車のサイレンが走り去った。「なぜ今になって、あの夜の話を?」「あの夜助けた5歳の女の子が、今、俺の生徒になったんだ。医者を目指している」東堂が息を呑んだ。「冗談だろう」「冗談じゃない。運命としか言いようがないな」「それで、話したのか?」「いや、話せない。俺の立場で彼女に話すことはできない」「馬鹿か。話すべきだ。彼女はお前を探しているんだぞ」。私は答えなかった。

年が明け、由美の成績が崩れ始めた。判定はB、次の模試ではCだった。本人が一番分かっている。授業中にも手が止まることが増えた。「焦るな。今まで積み上げてきたものは落ちない。本番で出せばいいんだ」「はい。でも、怖いんです。もし失敗したら、自分の生きてきた意味を見失ってしまいそうで。初めて弱気になっています」

その週末、桜井先生から連絡があった。「由美ちゃんと佐藤先生を医学部の説明会に連れて行こうと思っているの。今の教授陣の話を聞かせるのがいい刺激になると思うのよね」「どこでやるんだ?」「中央総合病院よ。大寺院長主催の説明会です」。私は受話器を握り直した。迷った。だが、由美のために行くべきだと思った。由美が不安なら、近くにいてやるべきだ。説明会当日、会場は受験生で埋め尽くされていた。私は最後列で、前の方にいる由美と桜井先生を見ていた。説明が終わり参加者が散り始めた時、廊下で後ろから声を掛けられた。「おや、珍しい顔だ」。振り返ると、西園寺が立っていた。18年経っても、あの目は変わっていなかった。「佐藤くんじゃないか。まだ家庭教師やってるのか?」薄笑いを浮かべていた。「お久しぶりです、理事長」「毒を盛るのが上手い人間が、こんなところで燻っているとはな。まあ、組織で生き残れない人間はどこにでもいるが」。西園寺は私の肩を叩いて通り過ぎていった。私は黙ってその背中を見送った。振り返ると、由美が少し離れた場所に立っていた。私を見ていた。彼女の表情から、すべてを聞いていたことが分かった。帰り道、由美は何も言わなかった。駅の改札前で、由美がようやく口を開いた。「先生、さっきの方は何て言っていたんですか?」「昔の知り合いだ。大した話じゃない」「先生、お医者さんだったんですか?」「昔の話だ。今は家庭教師だ」。由美はそれ以上聞こうとしなかった。別れ際に、もう一度だけ私をじっと見て、頭を下げて立ち去った。

2月の朝、由美は衿を立てて試験場の正門の前に立っていた。母が由美の手にカイロを握らせていた。「大丈夫か? もう十分やってきたんだから」「桜井先生が普段より少し改まった口調で言った。「自分のままでいいのよ。私たちはここで待ってるから」。私は少し離れた場所から見ていた。近づきすぎてはいけない。そう思った。由美が振り返り、私を見た。「先生、行ってきます」私は短く言った。「ああ。解くのはお前しかいない。だが、お前は一人でここまで来たわけじゃない」由美は頷いた。深く息を吸って、正門をくぐって消えていった。

試験は2日間だった。その間、家に帰っても落ち着かなかった。2日目の夜、由美から電話があった。「先生、終わりました」「ご苦労さん。今日はゆっくり休め」「はい、ありがとうございました」

合格発表の日、私は家にいた。昼過ぎ、インターホンが鳴った。扉を開けると、真弓さんと由美が立っていた。由美の目は真っ赤だった。「受かりました。先生」そう言って、由美は深く頭を下げた。肩が少し震えていた。真弓さんがそっと由美の背中に手を添えた。「ありがとうございます、先生。本当にありがとうございます」。私は二人を家に通した。

「先生、私、医学部に入っても、あの先生を探し続けます。いつか絶対に会えると信じています」由美は湯呑を両手で包みながらそう言った。「あの先生に、自分の口でお礼が言いたいんです」。真弓さんの目が私を見ていた。何かに気付いたような、静かな目だった。「由美、少し話があるんだ。長くなるかもしれない。明日、時間をくれないか」由美が顔を上げた。私は決心した。これ以上、この娘を待たせるわけにはいかない。

翌日の午後、私は中央総合病院の本館にいた。東堂が特別に場所を用意してくれていた。由美と真弓さんが座っていた。私はクローゼットの奥から取り出した古い段ボール箱を机の上に置いた。中から、染みのついた白衣を取り出す。そして、由美が持っているものと同じ新聞記事をもう一枚並べた。ただし、こちらは名前が切り抜かれていない。長い間開けられなかった箱だ。由美の視線が、白衣についた名前を捉える。「佐藤大輔」。由美の口がわずかに開いた。

「18年前の12月、俺は高速道路での多重衝突事故の現場に救命士として立っていました。当時24歳でした。12人を救急に搬送しました。その中に5歳の女の子がいました。出血が止まりませんでした」由美の手が机の上で握られた。「諦めなかったのは俺の手柄じゃない。あの子が生きようとしたからだ。心臓が最後まで止まらなかった。だから俺も最後まで縫合した」

真弓さんは両手で目を覆った。肩が震えていた。「由美、ごめんね。ずっと隠していたことがあるの」由美が母を見た。「母さん、あの新聞記事の名前を切り抜いたのは、あんただったのね」真弓さんは続けた。「あの先生が病院を追われたと聞いた時、いつかあなたが傷つくのが怖かった。だから名前を隠してでも、記事を取っておきたかった。ずっと迷っていた。いつ言うべきか、言うべきかどうかさえ。ごめんね、由美」由美は母の言葉を聞きながら、ゆっくりと視線を私に戻した。声が詰まっていた。「あの日、先生だったんですか?」

「お前が生きたかったから助かったんだ。俺はただ手を貸しただけだ」由美は両手で顔を覆った。肩が激しく震えていた。真弓さんがその背中を撫でた。東堂が静かに口を開いた。「高坂さん、一つだけ言わせてくれ。佐藤はあの夜、病院の方針に逆らってまで患者を受け入れ続けたんだ。受け入れを止めるよう命令されていたんだ。その命令を無視したから、12人が助かった。あなたもその一人だ。そして佐藤はその責任を一人で背負わされて、病院を追われた。誰にも何も言わずに生きてきたんだ」

由美が顔を上げた。頬は涙で濡れていた。「先生、ずっとお礼を言いたかったんです。会いたいと何度も思いました。でも、まさかこんなに近くにいてくれたなんて。ありがとうございます、先生。生きていてくれてありがとうございます」由美は体が床に付くほど深く頭を下げた。私は言葉が見つからなかった。東堂は机の上の白衣を見ていた。「現場に戻ってこないか。うちのセンターで人手が足りているんだ」。私はすぐに答えなかった。ただ、指で白衣の袖をそっと撫でた。

それから数年が経った。春の朝、中央総合病院の廊下を一人の研修医が歩いていた。高坂由美は大学を卒業し、このセンターでの研修のために配属されていた。看護師長が新米研修医に声を掛けた。「高坂さん、今日からお世話になります。忙しいところですが、いい先生たちがそろっていますから、安心して付いてきてください」「はい、よろしくお願いします」。向こうから白衣を着た人物が歩いてきた。看護師長が自然に頭を下げた。「おはようございます、佐藤先生」「おはようございます。今日もよろしくお願いします」。由美が私を見た。目が合った。由美は深く頭を下げた。「佐藤先生、今日からお世話になります。高坂由美です」「ああ、今日からよろしくな」。奥の処置室から東堂が出てきた。「おお、来たか。佐藤、しっかり弟子を育てろよ」「お前、俺が家庭教師は辞めたって言っただろう」東堂は笑った。由美も笑った。

朝のカンファレンスが終わり、由美は私の後ろを付いて回った。ふと、由美が立ち止まった。「佐藤先生、私は今、ここに立てて幸せです。私も誰かの命を救う意志になります」まっすぐな声だった。「ああ。そのうち慣れるさ」あの日助けた小さな命が、今度は誰かの命を救う側に立とうとしている。

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