「清掃員なんて所詮は下働きですよね」——姉のその一言が、王設室の天井に跳ね返った。私の夫の会社で、私はいつも黙って聞いていた。姉が写真を裏返した日から、私はその夫と結婚した】でも、私の31年は、全部「姉のいらないもの」でできていた】机も、制服も、自転車も、そして、この結婚も】だけど、姉は知らない】この結婚が、押し付けられたものじゃなかったこと】それに、私が引き出しにしまって14年、誰にも言わ…

「清掃員なんて所詮は下働きですよね」——姉のその一言が、王設室の天井に跳ね返った。私の夫の会社で、私はいつも黙って聞いていた。姉が写真を裏返した日から、私はその夫と結婚した】でも、私の31年は、全部「姉のいらないもの」でできていた】机も、制服も、自転車も、そして、この結婚も】だけど、姉は知らない】この結婚が、押し付けられたものじゃなかったこと】それに、私が引き出しにしまって14年、誰にも言わ...

王設室の天井に姉の声が跳ね返った。「清掃員なんて所詮は下働きですよね。」姉の斜め向かいのソファーに、私の夫が座っている。この会社の社長だ。姉は身を乗り出す。「課長ならもっと華やかな奥さんの方が釣り合うと思いません? 」姉は足を組み直す。この春、夫の写真を1秒で裏返した顔のまま笑っている。夫は答えなかった。その斜め後ろに、髪の白い男の人が立っていた。上下揃いの作業服だ。「座ってください」と言われても座らず、両手を前で組んで姉の口元をじっと見ている。

私は相馬魔ホ、31歳、3ヶ月前まではう木魔ホだった】姉がいらないと言った円談を押し付けられて、この人と結婚した】「清掃員にとついだ妹」それが実家での私の呼ばれ方だ】この半年に何があったのかを話す】ただ、この部屋で1番行ってはいけない一言を、姉はたった今、1番言ってはいけない人の前で言った】姉はまだそれに気づいていない】。

話は半年前の3月に戻る】私は派遣で8年、一般事務をしている】派手なことは何もない】それで良かった】実家にいる時間が1分でも短くなるから】3月は契約の更新の好きだった】切れる度に、自分の名前が書かれた紙に反を押す】押すのは私で、決めるのは私ではない】手取りは多くない】今の職場は3つ目で、その上、実家にいる間は半分を母に渡していた】「家に入れなさい」というのが母の言い方だ】姉は1円も入れていない】だから私には貯金がない】31まで実家にいた理由を1つだけあげるなら、それだ】出ようと思うたびに、出るための金が私の手元に残らないようにできていた】。

う木の家は4人だ】父の茂雪は63歳】う木正規という工場をやっている】金属を削って部品を作る仕事だ】6人で始めて、1番多い時は18人いた】今はまた6人に戻っている】母の直子は60歳】「ジムは苦手だ」と言い張って、会社の紙は1枚も触らない】姉のレナは34歳】私より3つ上になる】表三道のサロンは2年でやめて、それっきり働いていない】財布は母の財布と1つにつがっているようなものだ】。

私の31年は、姉がいらないと言ったものでできている】小学生の頃、私の学習机は姉の部屋から出てきたものだった】の右上に姉のシールがべったり張ってあって、爪でこすっても取れなかった】「新しいのを買ってあげようか」母がそう言ったのは1度だけだ】私が頷く前に母は続けた】「でもれナの机、まだ使えるもんね。」姉は1度だけ面白がって理由を教えてくれた】「あんたって、うちのリサイクルボックスだよね。」笑いながら言っていた】悪気があったとは思わない】悪気がないから答えられた】。2つ目は父の会社のことだ】高校1年の春から、私は土曜になるとう木正規の事務所に立たされた】電話を取り、来客にお茶を出し、届いた書類を受け取る】給料が出たことは1度もない】「家の会社だろ。手伝って当たり前だ。」父はそう言った】姉は1度も来なかった】「レナはああいうの向いてないから。」母の言い方は、姉をかうというより、私を残りとして扱う口ぶりだった】私はその頃からの癖がある】受け取った髪の右上に、日付と天気を鉛筆で書き込んでから閉じる】「5月9日、晴れ。」そんな具合だ】誰かに教わったわけではない】うちの会社では、書類が「来ていないこと」にされたからだ】仕入れ先が最速の電話をかけてくると、父は決まってこう言った】「そんなもん、うちには飽き取らん。」本当は来ていた】私が受け取って、父の机に置いた】だから私は日付を書くようになった】書いておけば、いつ来たかだけは動かせない】。高校2年の秋からは、母が会社の正面を私に押し付けた】入金と支払いを書き移すだけのだ】それから家を出るまでずっと私がつけていた】母は1度も開かない】工場の人たちは私を「お嬢さん」と呼んで通りすぎた】金属を回して削る千番という機会を動かしている俊おさんだけは違った】お茶を出すと必ず手を止めて、機械の音に負けない声で「ありがとう」という】それだけのことを、私は今でも覚えている】。正面をつけていると、会社の呼吸は嫌でもわかる】ここ何年か、支払いの欄に「繰り越し」と書く月が増えていた】材料屋への振り込みが翌月に送られ、その翌月にも送られる】父は何も言わない】私も聞かない】聞ける空気ではなかった】。3つ目は親戚の集まりだ】ち方のおばの釘子さんが来ると、母は必ず姉から紹介する】「これがうちの霊な。ほら、この間まで表三道のサロンにいたのよ。」姉が首を傾けて笑う】おばが手を叩いて褒める】人仕切り終わった頃、母が思い出したようにつけたす】「ああ、それと、魔法ね。」それだけだ】私は毎回、その「ああ、それと」の位置に立っていた】。

3月の終わりの土曜だった】近所の小柳子さんが風呂敷包みを抱えて家に上がってきた】72歳】蝶内の円談は大体この人が持ってくる】「れナちゃんにね、いいお話が来てるのよ。」の間に写真と釣り書きが並べられた】釣り書きというのは、見合いの時にやり取りする、生まれた年から仕事から家族までを書いた神のことだ】母がまず手に取って姉に渡す】写真の男の人は背筋を伸ばして正面を向いていた】30代の後半に見えた】笑ってはいないが、目つきは柔らかい】「真面目な方でね、朝の早いお仕事なの。」「あちらのお父様の台からずっと同じ仕事をなさってね。」釣り書きの職業の欄には「清掃業」とだけ書いてあった】会社の名前も、人を使っているとも書いていない】それはあの人自身が決めたことだった】小柳さんが釣り書きを開いた】「こちらのお父様は10年前に亡くなられて、今はご自分でやっていらっしゃるのよ。」姉は写真を1秒だけ見た】裏返して、吊り書きの職業の欄に指を置いた**「え、無理。清掃員とか底変すぎる。」** 小柳さんの手が止まった】「れなちゃん、この方はね、掃除でしょ。人の落としたゴミ拾う仕事でしょ。」姉は釣りを畳の上に押し戻した】指先だけで、遠くへ滑らせるように**「レナにはもっといい相手がいるわよね。」**母が引き取った】当たり前のことを確かめるみたいな声だった】「うちの子には、うちの子の核があるのよ」と続きそうな声だった】母が「うちの子」という時、それはいつも姉1人を指している】父はその間、新聞から顔をあげなかった】ただ1度だけ、新聞の向こうから小柳さんに聞いた**「その男、うちの取引先の紹介じゃないんだな。」**「え、全く別の口ですよ。」**「そうか。」**父はそれっきり黙った】取引き先の紹介でないなら、断っても損はしない】父の顔はそう言ってた】相馬という苗字にも、父は何の反応もしなかった】この人は業者を野号で覚えない】材料や、運送、掃除や、口に出す時はそれで済ませる】正面の写名のランを書いていたのは私で、父はそのを読まない】金額の合計しか見ない】それなのに、父は断るとも言わなかった】写真は畳の上でまだ正面を向いていた】誰も裏返さないので、その人はずっとこちらを見ていた】私は手を伸ばして写真を拾った**「なあ、魔法、興味あるの? 」**母がこちらを見た】私は答えなかった】私が写真を伏せて卓の隅に揃えただけだったのに、母はそれを見逃さなかった】母の目が、私の顔の上でしばらく止まっていた】。

その夜、風呂から上がると茶の間から声がした**「小柳さんの顔を潰すわけにはいかん。」**父だった**「でも、れナは嫌だって言ってるのよ。」「魔ホがいるだろう。」**の手前で足が止まった】廊下は暗くて、私がそこにいることを2人は知らない】知っていても、同じことを言っただろう】**「まほね。」**母の声が1段下がった】寝札を見比べる時の声だ**「まあ、あの子なら断らないでしょう。」**翌朝、食卓で父が新聞を畳んだ**「魔法、お前が代わりに行け。」**私は味噌汁のワンを持ったまま父を見た**「小柳さんの話だ。」「レナはいかん。」「お前が行け。」「私、そんな話は家のためと思いなさい。」**母が横から入ってきた】ご飯をよう手は止めない**「小柳さんに恥を描かせたら、この町でうちがどう言われるかわかる? 」「お父さんの会社にも響くのよ。」**姉が2階から降りてきた】寝巻きのままで髪を1つに束ねながら、私の顔を見て笑った**「魔ホが行くの?

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いいじゃん。底辺同士お似合いじゃない? 霊な。」**母が姉を舐めた】確める声にも笑いが混じっていた】私は断った】断ったつもりだった**「行きません。」「私が言っても、相手の方に失礼です。」「失礼。」**父が箸を置いた】音が高かった**「失礼なのはどっちだ? 」「うちの娘が1度断ったのを、また断るのか? 」「断ったのはお姉ちゃんです。」「う木の家が断ったんだ。」「同じことだろう。」「ならお姉ちゃんが。」「レナにはレナの縁がある。」**母がピシャリと切った】それから、悟す顔を作った**「まほ、あんたはレーナと違って選べる立場じゃないの。」**茶碗の底に米粒が2つ残っていた】私はそれを見ていた**「31でしょ。」「派遣でしょ。」「この先ずっとこの家にいるつもりなの?

」「そんなことは。」「じゃあ聞くけど、あんたに何があるの? 」「資格も貯金も、付き合っている人もいないじゃない。」「レナにはまだこれからがあるの。」「あんたと一緒にしないで。」「この家の飯を食ってきたんだろう。」**父がとどめのように行った**「食べてきた。」「31年分、食べてきた。」その間、土曜の朝はずっと父の会社の電話を取っていた】給料はもらっていない】母が投げ出したも、高校の頃からずっとつけている】その計算を口にする言葉を、私は持っていなかった】持っていたとしても、この食卓では数に入らない】数に入るのは、姉のこれからだけだ】。

その日の夕方、2階へ上がって姉の部屋の塔を叩いた**「お姉ちゃん、あの話、本当に断ったの? 」**姉は鏡の前で爪を安っていた】振り返りもしない**「断ったよ。」「写真見た瞬間に無理だと思ったもん。」「相手の人、まだ会ってもいないよ。」「じゃあ断りなよ。」**姉が初めてこちらを向いた】笑っていた**「断れないでしょ。」「あんた、この家で1回でも何か断ったことあった? 」**私は遠を閉めた】閉めながら、姉の言ったことが1つも間違っていないことに気づいていた】。その翌日の昼過ぎ、小柳さんから電話が来た】母が取って、すぐ私に変わった**「まほちゃん、乗り気だって聞いて安心したのよ。」**じきを持つ手が止まった**「あの、いつからそういう話に。」「あら、お父さんが、あの土曜のうちに、妹さんが乗り気だからぜひって。」**あの土曜のうちに、姉が写真を畳に滑らせたその日のうちに、私が断る前どころか、私に言う前に話は先へ動いていた**「先方にもね、もうお伝えしてあるの。」**小柳さんの声は明るかった】この人は何も知らない】私が何も知らされていないことも知らない】電話を切った後、茶の間に釣り書きが置いてあった】う木の側の釣り書きだ】父が書いたものらしかった】父の職業の欄には「自営業」とだけ書いてあった】会社の名前も、何を作っているかも書いていない**「会社の名前は書かないの?

」「書かん。」**父は湯みから顔をあげなかった**「今のうちを調べられたら、話が壊れる。」**そう言ってから、まずいことを言ったという顔で私を見た**「お前は長面だけつけてろ。」「余計なことは考えるな。」**その週、職場で矢島さんに話した】派遣で私より2年長い先輩で、40歳になる】昼休みに急闘室で豆からコーヒーを入れるのが家の人だ**「見合いさせられるの、姉の代わりに。」**矢島さんは湯を止めてこちらを向いた**「代わりりって、何? 」「人を買われるもんじゃないでしょ。」「うちは、そういう家なんです。」**矢島さんはカップを2つ並べた**「ねえ、まちゃん、あなた、自分の名前で契約したことある? 」「契約ですか? 」「派遣の更新じゃなくて、自分で選んで、自分の名前を書いた紙。」**考えた】学習机も、制服も、自転車も、振り袖も、私が選んだものではない】会社の正面は私の字だが、私の名前は入っていない】何も出てこなかった**「ないんです。」「じゃあ、1枚くらいあってもいいんじゃない?

」**矢島さんはそれ以上何も言わずに、自分のカップを持って急闘室を出ていった】।その夜、私は決めた】見合いを受ける】相手のためではない】私のためだ】この家にいる限り、私は姉がいらないと言ったものを受け取り続ける】学習机と同じ場所に、いつまでも立たされる】40になっても、50になっても、母は「ああ、それと、魔法ね。」と言うだろう】父は土曜の朝に留守番を頼むだろう】姉はいらなくなったものを私の部屋の前に置くだろう】それを止める方法を、私は1つしか思いつかなかった】この家から出ることだ】出るための扉が、たまたま今、姉の捨てた円談の形をしていた】形は選べない】それでも、扉であることに変わりはなかった】写真の人には申し訳ないと思った】私は自分の都合でこの席に座ろうとしている】だからせめて、失礼のないようにしようと決めた】それが唯一、私がその人にできることだった】。翌日、姉が玄関で靴を履きながら言った**「ねえ。マフ、写真だけでも撮ってきてよ。」「作業技で来たら最高じゃない? 」「後で見せて。」「笑えるから。」**その間は、姉の髪に串を入れていた】何も言わなかった】私が受けると答えたのは、その番だ】だが見合いの日は、私が返事をする前から3日後に決まっていた】。

4月の第1土曜だった】場所は駅前のホテルの1階にある喫茶室で、小柳さんが席を取ってくれていた】母は送っていくと行ったが、玄関で私の靴を見て気が変わったらしい**「その靴で行くの? 」「まあいいわ。」「どうせ向こうも。」**最後まで言わずに母は台所へ戻った】私は歩いて駅へ向かった】4月の風はまだ冷たくて、コートを持ってこなかったことを後悔した】約束の15分前に着いた】奥の席で小柳さんが手を振っている**「まちゃん、こっち。」「まだお見えじゃないの? 」**腰を下ろした瞬間、入り口の自動扉が開いた】背の高い人だった】コのスーツで、髪はきちんと分けてある】写真より痩せて見えた】入ってすぐ、その人は入り口のマットの端を靴の先で直した】めくれ上がっていた角を、かまわずに通りすがりに戻しただけだ】誰も見ていないと思ったのだろう】私は見ていた】そまです**「お待たせしました。」**声は低く、思ったより静かだった】相まその苗字が耳の奥でわずかに引っかかった】どこかで見た並びだ】すぐには出てこない】うちの正面には業者の名前が何十と並んでいた】そのどれかだろうと思って、私はそれ以上らなかった】。私は身構まえていた】姉に押し付けられた相手だから、もっと荒っぽい人が来ると思っていた】何を言われても顔に出さないつもりで来ていた】その準備が、最初の1分で行場をなくした】相馬ゆとさん、38歳】名刺は出さなかった】差し出す気配もなかった】初めのうちは小柳さんが喋った】私の勤務め先のこと】相馬さんの実家のこと】この町の桜がその年は遅いこと】さんは槌の位置を外さない】話が私に向くと、こちらが答え終わるまで次の言葉を用意している顔をしなかった】コーヒーが来た】相馬さんはカップを持つ前に、操作の位置をわずかに直した】その手が目に入った】爪が短い】指の関節が太くて、右の親指の付け根に古い赤切れの跡があった】手入れをしていない手ではない】いだ**「お仕事は、どういう?

」**私が聞くと、相馬さんは顔をあげた**「清掃の仕事をしています。」**一瞬、言葉が遅れた】姉の声が耳の奥でなった**「清掃員とか底変すぎる。」**この声を追い出すのに、多分2秒かかった】私が黙った分だけ、相馬さんの目がわずかに引いた】見慣れた表情なのだろう】断られる前に、自分から半保下がる目だった】。思い出したことがある】前の年の秋、月末の締めで残業した日だ】8時を回ったフロアで、掃除機の音がした】振り返ると、私と同じくらいの背丈の女の人が机の足の間にノズルを入れていた】私が「お疲れ様です」と言うと、その人は驚いた顔をした】翌朝、フロアはいつも通り綺麗だった】私が座る椅子の下も、急糖室の排水溝も、毎日通っていて、それを誰がやっているのか、私はその夜まで考えたことがなかった**「建物を綺麗に保つ仕事って、すごく大事ですよね。」**気を使ったつもりはなかった】声に出してから、当たり前のことを言ったなと思った**「私、朝1番に会社に入るんですけど、毎朝綺麗なんです。」「それって、誰かが前の日の夜にやってくださってるってことで。」**言いながら自分が何を言っているのか分からなくなった**「すみません。」「変なこと言って。」「いえ。」**そ馬さんはカップを置いた**「そう言っていただいたのは、初めてです。」**その時、この人の目つきが変わった】聞いていたものが戻ってきたという言い方が1番近い】小柳さんが「お手洗いに」と言って席を立った】わざとらしいくらいの間の取り方だった】2人になると、相馬さんは正面から行った**「う木さん、この話は、初めはお姉さんに言ったものですよね。」**心臓が鳴った**「小柳さんから聞いています。」「お姉さんがお断りになったことも。」「はい。」「僕の仕事を理由に断られたということも。」**隠しても仕方がなかった**「すみません。」「姉は写真だけ見て決めました。」「私はその代わりに来ました。」**行ってしまってから、これで終わりだと思ったけれど、相馬さんは怒らなかった】むしろ、そこで初めて肩の力を抜いたように見えた**「教えていただいて、ありがとうございます。」「怒らないんですか? 」「怒る相手が違いますから。」**それから相馬さんは窓の外を見た**「1つだけ、僕の話をしていいですか? 」「断られたと聞いて、それでも今日ここに来たのには理由があります。」「理由? 」「今日は言いません。」「順番があるので。」「順番?

」**おかしな言い方だと思った**「ただ、あなたが代わりに来た人だということは、僕にとっては何の問題でもありません。」「どうしてですか? 」「代わりに来られる人は、誰かの都合を引き受けたことのある人だからです。」**喉の奥が詰まった】何と返せばいいのか分からなくて、私はコーヒーを飲んだ】もう覚めていた**「う木さんは、休みの日は何をされているんですか? 」「父の会社の正面をつけています。」「お勤めの他には。」「給料は出ていません。」**さんは何も言わなかった】ただ、テーブルの上で組んでいた手をほいて、膝に置いた】小柳さんが戻ってきて、話はそこで途切れた】店を出る時、小柳さんが私の耳元で言った**「あの方ね、こっちが値段の話をしようとすると、話を変えるのよ。」「何度もね。」**帰宅すると、母が玄関まで出てきた**「そうだった。」「で、いくら持ってるの、あの人? 」**それが第1世だった**「聞いてません。」「聞いてこないの?

」「何のために行ったのよ。」**台所から姉の声がした**「作業技だった、写真は。」**私は靴を脱いで自分の部屋に上がった】鞄の底で携帯が鳴った】小柳さん経由の伝言だった**「そ馬さんが、もう一度お会いできますか、と。」**。その翌日の朝、食卓で姉が身を乗り出してきた**「で、どうだった? 」「やっぱり貧乏そうだった。」**母も箸を止めた】2人とも同じ顔をしている】面白い話が始まるのを待つ顔だ**「普通の、優しい方だったよ。」「は? 」**姉の眉が上がった**「清掃員をかうの? 」「かうとかじゃなくて、あんた、あの写真もう1回見た?

」「あれで優しいとか言われても。」「相手の方に会ったのは私だよ。」**言い返したのは、多分生まれて初めてだった】茶の間が一瞬だけ静かになった】姉は鼻から息を出して味噌汁に戻った**「うん。」「まあ、魔ホにはちょうどいいのかもね。」**母がそう言って、話は終わった】。

2度目にあったのは連休の前だった】今度は喫茶店だった】小柳さんはいない】2人だけで1時間半ほど話した】相馬さんは自分の会社のことを1度も言わなかった】代わりに、朝の現場の話をした**「僕が入る現場は、朝の4時からです。」「4時。」「その現場で働く人が来る前に終わらせないといけないので、床のワックスを剥がす日は、建物が休みの日です。」「朝から晩までそこにいます。」「剥がすというのは、古いワックスを薬で溶かして落とします。」「機械にパットを噛ませて擦すって、汚れた水を吸い取って、中和して、乾かしてから、ワックスを2度塗ります。」「匂いが強くて、あれは慣れません。」**その話をしている時の相馬さんは、それまでで1番喋った**「匂いで、その建物のことが分かるんです。」「匂いですか? 」「ちゃんと手が入っている建物は、水回りの匂いがしません。」「入っていない建物は、まず1階のトイレの前で分かります。」「そこから、廊下、階段の踊り場、非常口の裏、順番に悪くなっていく。」**「きついお仕事ですね。」**私がそう言うと、相馬さんが笑った】目尻に細い線が入る笑い方だった】初めて見る顔だった**「きついです。」「でも、誰かがやらないと、次の日みんなが困る。」**その一分が、なぜか耳に残った】別れ際、相馬さんは店の前で立ち止まった**「う木さん、近いうちに、きちんとお話をさせてください。」「はい。」「今言ってしまうと、返事を急がせることになるので。」**そういう気の使い方をする人だった】。連休が開けた最初の週に、小柳さんが家へ来た】正式なだった】茶の間で母が釣りを眺めながら、口の橋だけで笑っていた**「随分早いのね。」「よっぽど後がないのかしら。」「奥さん。」**小柳さんの声が硬くなったが、母は気づかない】私はその場で**「受けます」**と言った】言ってから、自分の声が思ったより低かったことに気づいた】決めた理由は2つある】1つは、この家を出られること】もう1つは、あの人が私を、姉の代わりとしてではなく、目の前にいる1人として見たことだ】私は31年間、誰かの代わりだった】姉のいらないものを受け取る場所だった】その私に向かって、「代わりに来た人だということは問題でない」と言った人は、初めてだった】。その週の日曜日、おばの国子さんが来た】の姉だ】68歳になる】悪い人ではない】ただ、思ったことを口に出すまでの間が短い**「まほちゃん、おめでとう。」「決まったんだってね。」「ありがとうございます。」「よかったね。」「あの写真の人でしょ? 」「この間、れちゃんが見せてくれたわよ。」**台所で麦茶を注いでいた手が止まった**「見せてくれた? 」「そう。」「王子の帰りに、みんなでお茶飲んだ時にね、れナちゃんがカから出しては、回してって。」**おばは湯みを両手で包んで、思い出し笑いをした**「作業技の人と結婚する妹がいるって、写真がね、順番に回っていくのよ。」「おじさんたちが、これは何の仕事だって聞いて、れちゃんが、掃除だって答えて。」「そうですか。」「母は、その場にいたわよ。」「なお子さんもね、笑ってたわ。」「まには、お似合いだって。」**麦家が氷の上でこぼれた**「でもね、まほちゃん、私は反対じゃないのよ。」「うちの人が入院した時、病院の掃除の方がね、毎朝1番に来て、うちの人に声をかけてくれたの。」「先生より、よっぽど話したわ。」**その一言だけが救いだった】私はその場では何も言わなかった】お玄関まで送って戻って、台所を拭いた】写真は、私が拾って卓の隅に揃えたものだ】その写真を、姉は鞄に入れて持ち歩いていた】親戚住人ほどの手を順番に渡って笑われて、また鞄に戻った】相馬さんは何も知らない】まま、あの人はこの家に釣り書きを出した】その間に、私は何をしていたのか】姉に何も言えず、母に何も言えず、ただ写真を伏せて卓の隅に揃えただけだ】台所の付近を絞る手が止まらなかった】腹が立っていたのは、姉にでも母にでもなく、卓の隅に写真を揃えただけで済ませた自分にだった】。その日の夕方、姉が帰ってきた】私は玄関で待った**「お姉ちゃん、写真、親戚に回したよね。」**姉は靴を脱ぎながら、こちらを見もしない**「回したよ。」「だって面白いじゃん。」「面白い。」「うちの妹が清掃員と結婚しますって、話題になるでしょ。」「おばさんたち、喜んでたよ。」「相手の方の写真だよ。」「あの人は、何も知らないんだよ。」「知らないなら、いいじゃん。」**姉が靴を揃えもせずに上がった】すれ違い様、思い出したように振り返る**「あ、返してって言われても無理だからね。」「もうみんなに見せたし、どこ行ったかわかんない。」**台所から母が出てきた**「なあに騒がしい。」「お母さん、写真のこと知ってたんだよね。」**母は一瞬だけ止まって、それからエプロンで手を拭いた**「あんた、そんなことでいちいち起こるの?

」「レナは場を盛り上げただけでしょ? 」「私は怒ってません。」「事実を聞いただけです。」「怖い言い方するのね。」**母は台所へ戻った】その背中に、私はもう一言も言えなかった】。その夜、部屋に戻ると床が広くなっていた】本棚の下2弾がからだった】押入れの手前に置いていた神袋もない】台所へ降りた**「お母さん、私の部屋のもの、どこ? 」「あ、片付けたわよ。」「どうせ出ていくんでしょ。」**母は洗い物の手を止めない**「あの紙のファイルは、あんな古いのをいつまで置いとくの? 」「高校の頃のでしょ。」「紐で縛って、明日の資源ゴミに出すつもりだったけど。」**口の外に、青いビニール紐で縛られた束が積んである**甘けもかけていない】私は外へ出て、タバを抱えて部屋に戻った】紐をほく手が震えた**高校の教科書、通信簿、部活の記録**その間に、父の会社で受け取って閉じたファイルが何冊か混ざっていた】表紙に自分の字で粘土が書いてある】右上に、日付と天気を描き込んだ紙がまだ順番通りに閉じてあった】1冊ずつ背を確かめて、床に並べた】並べ終えた時計は、一時を回っていた】会社の書類は本来、会社に置くものだ】ただうちの会社では、書類が「来ていないこと」にされた】私が受け取った紙が、私の知らないうちに消えたことが何度もある】だから高校の頃、自分が受け取った控えだけは、自分の引き出しに入れるようになった**父はそれを1度もとめなかった】とめるほど、私の引き出しに関心がなかったのだと思う】その引き出しの中身が、そのまま年を取ってここにある**床に並べた背を見ながら、私は初めて「この家に自分のものが1つもないわけではない」と思った**誰も欲しがらなかったから残っただけのものだが、それでも私のものだ】.

翌日、相馬さんに電話をかけた**「荷物を、先に置かせてもらうことはできますか? 」「できます。」**理由は聞かれなかった】代わりに、相馬さんはこう聞いた**「いつ届きますか? 」「明日の夜には着くと思います。」「わかりました。」「その時間は、家にいます。」**それだけだった】ダンボールを1つ買ってきて、私は自分のものを詰めた】入ったのは、衣類が半分と、本が少しと、ファイルの束】31年分の荷物は、箱1つに収まった**それが悲しいことなのかどうか、その時は分からなかった】箱に入れなかったものが1つだけある】会社の年ごとの売上だけを書き移した手帳で、それは鞄に入れて自分で持った】伝票を書いた】届け先は相馬さんの住所】依頼主の欄に、私は自分の名前を書いた**う魔ホ**自分の荷物を、自分の名前で送ったのは、生まれて初めてだった】. 式はあげなかった】ないと決めたのは母だ**「派手にやられると恥ずかしいから。」**そマさんは**「う木さんのご希望に合わせます」**と言い、私は**「入籍だけで」**と伝えた】自分の希望として伝えた**あの人に嘘をついたのは、それが初めてだった**姉は最後まで機嫌が良かった**「底変男を押し付けられて喜ぶとか、笑える霊な。」**母は確なめるそぶりだけして続けた**「まあ、魔ホにはちょうどいいわね。」「無理に背伸びしなくて済むもの。」**要求が出てきたのは、日が決まってからだ】最初は母だった**「あんた、結婚したら、毎月いくらか入れなさいよ。」「入れるというのは、実家によ。」「3万でいいわ。」「今まで半分入れてたんだから、3万なんて安いもんでしょ。」**出て行っても払え、ということだった**「相手の方に、相談してみます。」「相談?

」「あんたの気持ちで決めることでしょう。」**母の理屈は、いつもこうだ】金を出す時は私の気持ちの問題で、決める時は家の問題になる**次は姉だった**「家、何部屋あるの? 」「まだ見てない。」「部屋余ってたら、1つちょうだいよ。」「止まるよ。」「止まるって。」「私が遊びに行く時の部屋。」「そのくらいあるでしょ。」「いくら底辺でも、家くらい借りてるんだろうし。」**姉は自分の言ったことを面白がって笑った**最後が父だった】入籍の3日前の夜、父が私を工場の事務所に呼んだ】土曜の夜で、機械はもう止まっていた**蛍光灯が1本切れかけて、机の上で点滅していた**「魔法、向こうの家に、うちの会社を助けてもらえないか、聞いてみろ。」「助けるって、金の話だ。」**父は正面を指で叩いた**私がつけているだ**「繰り越し」**と書いた月がそこに並んでいる**「お前も見てるだろう。」「今月も材料屋に待ってくれと言った2件は、もう現金でしかあさん。」「相手の方は、そんな大きな会社じゃないと思う。」「掃除屋でも、現金は持ってる。」「ああいうところは、日が入るからな。」**父が何を知っていて、何を知らないのか、その時の私には分からなかった**今なら分かる】父は何も知らなかった**ただ、頭を下げる相手を1人増やしたかっただけだ**「言えません。」「なんだと。」「まだ結婚もしてないのにお金の話はできません。」**父は下打ちをした】その音を、私は工場の事務所で何百回も聞いてきた**取引先に、材料屋に、そして、人が帰った後の空気に向かって**その翌日の日曜、相馬さんが挨拶に来た**電車できて、駅から歩いてきた**コンのスーツに、手土産は駅前の和菓屋の箱だった**母は玄関で箱を受け取り、中も見ずに下駄箱の上へ置いた**茶の間に通されると、父はザ布トンを進めなかった**相馬さんは畳に直に座って、両手を膝に置いた**「そマ優です。」「まホさんと、結婚させていただきます。」「はあ。」**の返事はそれだけだった**姉はふの影から顔だけ出して、すぐ引っ込んだ**2階へ上がる足音がした】待っていた偽物が、思ったほど面白くなかったという足音だった**母がお茶を出した】私と父の湯みは茶宅に乗っていて、相馬さんの前には湯呑みだけが置かれた**私はそれを見ていた**相馬さんも見たはずだ**何も言わずに、両手で持って一口飲んだ**「お掃除のお仕事だと、伺ってましたけど。」**母が聞いた**釣り書きは読んでいるはずだ**「建物の管理をしています。」「あ、お掃除ね。」「はい。」「ご苦労なことね。」「夜も出るんでしょ? 」「出ます。」「うちの人は工場だから、そういう夜の仕事はね。」**母がどこへ話を持っていきたいのか、私には分かった**そまさんも分かっただろう**それでも、否定も説明もしなかった**父が1度だけ、思い出したように聞いた**「会社の名前は。」**相馬さんが答えかけた時、母が茶がの皿を置いた**「あら、まほ。」「お茶が薄いわよ。」**話はそこで途切れて、父はもう聞かなかった**少し経ってから、相馬さんの方が父に聞いた**「こちらの会社は、何とおっしゃるんです? 」**「金者をやっとる。」**父はそれだけ言って、湯みを口に運んだ】**何を作っているかは答えたが、会社の名前は出てこなかった**両家の顔合わせの食事会はしなかった**小柳さんがひを持ってきた時、父が**「忙しい」**の一言で流した**「工場が立て込んでいるのだろう。」**と母が代わりに行った**40分ほどで相馬さんは帰った**玄関を出る時、母は**「じゃあ、うちの魔法をよろしく。」**とだけ言った**よろしくの前に、一泊あった**「うちの」**とも**「娘」**とも言わなかった**本の外まで送った**「すみません。」**私が謝ると、相馬さんは首を振った**「湯みのことですか?

」「気づいていました。」「あれは、まほさんが謝ることじゃないです。」**。6月の第2週の火曜日に入籍した**区役所の窓口で、の人が**「おめでとうございます」**と言ってくれた**それがその日1番温かい言葉だった**実家からは誰も来なかった**姉は美容院、母は町内の集まり、父は工場**それぞれの用があった**相馬さんは区役所を出たところで足を止めた**「これからは、う木さんではなく、まほさんと呼びます。」「はい。」「僕のことは、呼びやすいように呼んでください。」「ゆとさん。」「はい。」**それだけのやり取りで、私は自分の苗字が変わったことを初めて実感した**。新居は、駅から歩いて15分ほどの場所にある1個建てだった**玄関を開けた時、私は靴を脱ぐのをためらった**「広い。」**それより先に、綺麗だった**廊下の板がぬるりと光り、窓のに誇りがない**台所の換気線の羽まで白い**10年だと聞いたが、そうは見えなかった**「掃除の人を入れてるんですか? 」「僕がやっています。」**ゆとさんは上着をハンガーにかけながら答えた**「うちの会社の人に、汚い家に住んでいると思われたくないので。」**そこで、私は聞くべきだったのだと思う**「うちの会社の人とは、何人いるのか。」「会社とは、何をしている会社なのか。」**けれど、そこまでは聞かなかった**この人は、見合いの席で**「順番がある」**と言った**ここで問い詰めれば、自分で開けようとしている扉を、外から剥がすことになる**だから私は、綺麗な廊下を褒めるだけにして、仕事のことだけもう1度聞いた**「建物の管理の仕事です。」**帰ってきたのは、その一言だけだった**。その日の夕方、私は家の中を1周した**部屋は4つあった**物が少ない**今にあるのは、食卓と椅子が2脚とテレビだけで、壁に絵も写真もない**2階の一室だけが違った**床から天井まで、書籍の箱が積んである**この人が持ち帰る仕事は、そこにお送らしい**1階へ降りて、1番奥の和室を開けると、小さな仏壇があった**遺牌が1つ**その脇に、写真が1枚立ててあった**軽トラックの横に立った人が、笑わずにこちらを見ている**先行建ての俳は、またらしく、水雲を変えたばかりだった**「お父さんですか? 」「はい。」**ゆとさんは廊下から答えた**「10年前です。」「お母様は、僕が小学生の頃に亡くなりました。」「父が1人で育てました。」**仏壇の前に座って手を合わせた**先行の匂いに混じって、よく吹かれた木の匂いがした**振り返ると、ゆトさんは廊下に立ったままだった**「ありがとうございます。」「え? 」「手を合わせてくださって。」「うちに来た人で、そこに座ったのは、まほさんが初めてです。」**その言い方が引っかかった**この家に人が来たことがないと聞こえた**私は、先行建ての肺の白さをもう一度見た**この人は、毎日ここに座っているのだと思った**ダンボールは、玄関を上がってすぐの難度に置いてあった**「ここでいいですか?

」「はい。」「奥にしまうと出しにくいので、手前にしました。」「いつでも開けられるところがいい。」**その日から、私は毎日その箱の前を通った**そして毎日、通りすぎた**開ければ、実家の匂いがする気がした**青いビニール紐と、勝手口の外の湿めったダンボールの匂いだ**まだ限ぎたくなかった**。引っ越したその日の夜、夕飯の片付けが終わってから、ゆトさんが言った**「とりあえず、必要なものがあったら言ってください。」「はい。」**私は指を折って数えた**付近、まな板、潜在の詰め替え、ゴミ袋**自分の給料から出せばいい話だ**それは分かっていた**それでも、この家で使うものは、この家の金で買うべきだと思った**そう説明する言葉が出てこなくて、切り出すのに時間がかかった**「あの、はい。」「明日、日用品とか買いたいので、1万円だけもらえますか? 」**言い終わってから、自分の声が随分小さかったことに気づいた**ゆトさんは箸を置いた**それから、何か考える顔をして頷いた**「わかりました。」「今夜のうちに入れておきます。」**「入れて」というのは、口座です**「現金でお渡ししてもいいんですが、それだと毎回僕に言うことになるので。」**意味がよくわからなかった**とりあえずお礼を言って、私は台所へ戻った**翌朝、食卓の上に通帳とキャッシュカード**通帳は紺色で、角が丸くすり切れていた**カードは、時期の面が白く曇っている**ゆトさんはもう作業服に着替えていた**上下揃いの濃い灰色の服だ**胸に入った写名は、洗いすぎて色が抜けて、もう読めなかった**創業した頃の古いヤゴのままの一着だと、後で知った**「振り込んだから、足りなかったら言って。」**玄関で靴を履きながら、そう言った**「暗証番号は、後で書いて送ります。」「はい。」「行ってきます。」**3時20分だった**その日は平日で、私も仕事に出た**昼休みに、会社の近くにあるその銀行の視点に寄った**財布に1000円札が何枚かあるだけで、日曜品の買い物は帰りに済ませるつもりだった**機械に通帳を入れた**イジの音は短かった**新しい業が1つ出て、機械が止まった**出てきた通帳を開いた**最初の何家は、10年前の日付で、大きな入金が2回、その後は、年に1度だけ2桁ずつ動いている**上の行の利息のわずかな入金で、下の行は、7月12日の日付で、同じ額の出勤**金額はどれも1000円に満たない**そして、最後の行**「お預け入れ」**のランに、1万円**その右のランが「差し引き残高」**だった**数字が並んでいた**頭が9で、その後はほとんど0だ**0の並びに、1が1つだけ混じっている**桁を右から数えた**11, 100, 1000, 10000, 10万、100万、1000万**指で抑えてもう1度数えた**2度とも、同じところで止まった**9000万**その後ろに、あの1万円が乗っていた**機械の前で動けなくなった**後ろに人が並んでいる気配がして、私は通帳を閉じて鞄に押し込んだ**銀行を出て、外路樹の下のベンチに座った**姉の声が、また鳴った**「清掃員とか底変すぎる。」**私は、この人のことを何も知らないまま、区役所の窓口で髪を出したのだ**知らないままでいいと思っていた**知らないでいる方が、姉の言葉を確かめずに住むからだ**その生けの分が、そのまま帰ってきた**昼休みが終わるまで動けなかった**午後の伝票の数字が、1枚も頭に入らなかった**結局その日は、日用品を自分の財布で買って帰った**1万円には手をつけなかった**つけられなかった**。家に帰ると、ゆトさんは台所で米を解いでいた**私はカから通帳を出して、食卓に置いた**「これ、何かの間違いですよね。」**ゆトさんは手を止めて通帳を開き、残高の行を見た**それから、困った顔をした**「ああ、ごめんなさい。」「ごめんて。」「生活品に使える口座が、あれしかなかったんです。」「あれしか、新しく作るには時間がかかります。」「僕の給与が入る口座は、高熱費も電話も全部そこから落ちているので、通帳ごとは渡せない。」「それで、10年動かしていない口座の通帳とカードを、そのままお渡ししました。」「ただ、それだけが理由ではありません。」「そこは、また改めて話させてください。」**私は、自分の指先が冷たくなっていくのが分かった**10年動かしていない口座に、9000万**「はい。」「ゆとさん。」「はい。」「もし、悪いことをして作ったお金なら、私は受け取れません。」**言ってしまってから、心臓が鳴った**入籍したばかりの妻が言うことではない**ゆトさんは笑わなかった**チかしもしなかった**米を解いでいた手を、付近で拭いて、私の迎えに座った**「そう言ってもらえて、良かったです。」「え、順番に話します。」**ゆトさんはまず、名刺入れを持ってきた**出てきた髪は、隅がわずかに曲がっていた**ほとんど使っていないのだろう**そこに吸ってあったのは、私の知らない名前だった**「株式会社 洋和総合メンテナンス 代表取締まり役 相馬優太」**のように平和の輪で、要和です**「代表取締まり役は、あの、それはどのくらいの? 」「拠点は42箇所です。」「北は北海道から、南は九州まで。」「従業員は、パートの方を入れて3200人ほどです。」「何をしているんですか? 」「ビルの清掃です。」「それから、ホテルの客室の管理と、工場や学校の設備の手入れです。」「じゃあ、清掃の仕事っていうのは、嘘ではありません。」**ゆトさんは、自分の作業服を見た**玄関のフックにかけたままの灰色の上着だ**「月に何日かは、自分で現場に入ります。」「今朝も入りました。」「それ以外の日も、どこかの現場を回っています。」「来週は、名古屋の営業所と現場を3日かけて回ります。」「社長さんなのに、現場に立たない社長は、嫌いなんです。」**そこだけ言い方が強かった**「うちの会社は、床を拭いて食べています。」「床を拭いたことがない人間が、床を吹く人間の給料を決めるのは、僕は違うと思っています。」「3200人も、どうやって。」「最初は12人でした。」**ゆとさんは指で数える仕草をした**「父が1人で始めて、その2年後に僕が手伝いに入って、少しずつ増えて12人。」「会社にしたのは、父が亡くなる2年前です。」「そこから、後を継ぐ人がいないという会社を、1つずつ引き受けてきました。」「今までに11社です。」「引き受けるというのは、社長さんが高齢で、子供は別の仕事をしていて、現場の人だけが残っている。」「そういう会社です。」「放っておくと、明日から現場に誰も来なくなる。」「ビルの持ち主も困りますが、1番困るのは、そこで働いていた人です。」「それを、注意者、はい。」「だから増えました。」「僕が偉いわけではありません。」「引き受けたのは、どこも20人か30人の会社です。」「人数が増えたのは、その人たちの現場をつぐために、こちらで現場を取り続けたからです。」「お金は、どうしたんですか?

」「借金で買ったわけではありません。」「会社の値段は、ほとんどつきませんから、人だけ引き受けて、足りない分は、現場を増やして埋めました。」「最初の3年は、僕の給料を1番低くしていました。」**「どうして、言ってくれなかったんですか? 」「先に会社の話をすると、こちらの話が変わってしまうからです。」「変わる? 」「会社のことを先に出すと、それから先はずっと会社の話になります。」「今まで、そうでした。」**ゆトさんは湯みを見ていた**見合いの席で、この人が**「今日は言いません。」「順番があるので。」**といったことを思い出した**「じゃあ、このお金は、会社の金ではありません。」「会社の金を家に持ち込むことは、絶対にしません。」「じゃあ、父の金です。」**そこで、ゆとさんの言葉が止まった**続きを待った**続きは来なかった**「今日は、そこまでにさせてください。」「どうしてですか? 」「まだ、うまく話せないので。」**その後、優トさんは通帳を私の手に戻した**「名義は、僕のままにしておきます。」「そうしてください。」「まホさんに移すと、税金の話になります。」「生活のために使う分には、何もいりませんが、名義ごと動かすと、そうはいかない。」「だから、通帳とカードだけをお渡しします。」「使うのは自由です。」「使い道を僕に言う必要もありません。」「そんな1万円の時、まほさんは随分申し訳なさそうでした。」**胸の奥が押されたようになった**「僕は、あの言い方を、毎日聞きたくないんです。」「でも、9000万です。」「使いきれる額ではないと思います。」「そういう問題じゃなくて、私は自分が何を言いたいのか、うまくつめなかった。」**つめないまま、口が動いた**「私、こんな体金、怖くて使えません。」**ゆトさんは、そこで初めて安心した顔をした**「それで、いいです。」**その夜、実家から電話が来た**母だった**「新居、どうなの?

」「写真送りなさいよ。」「まだ、片付いてないから。」「間取りは、何部屋あるの? 」「4つ。」「4つ。」「尺屋でしょ。」「家賃、いくら? 」「聞いてない。」「聞きなさいよ。」「あんた、そういうところが抜けてるのよ。」**それから母は、姉が泊まりに行くから布団を用意しろ、という話を5分ほど続けた**私は通帳のことを言わなかった**会社のことも言わなかった**家は、この家の話がまた1つ増える**私はもう、この家に増やしたくなかった**電話を切ってから、廊下に出た**何度の前で足が止まった**ダンボールは、そのままだ**ガムテープの橋が、わずかに浮いている**その日は、開けなかった**台所へ戻ると、ゆトさんが夕飯の皿を洗っていた**私が**「変わります」**と声をかけると、ゆトさんは泡のついた手を止めた**「まほさん、1つだけ約束させてください。」「はい。」「この家では、僕に断ってから何かをするというのを、なしにしたいんです。」「買うものも、行く場所も、会う人も。」「はい。」「僕も、そうします。」「ただ、仕事のことで、まほさんに関わるかもしれないことが出てきたら、必ず先にいます。」**頷いて、その夜は眠った**その週から、毎月の生活費は封筒で食卓に置かれるようになった**私があの通帳に手をつけないので、ゆトさんが別に用意したのだと思う**私はそこから使い、月末に残りを返した**ゆとさんは受け取らなかった**通長の9000万が、どこから来たのかを聞けたのは、夏の終わりになってからだ**実家への報告は、最低限にした**入籍した人、住所、電話番号**それだけを紙に書いて、母に渡した**「仕事は、何なの? 」「あの人、建物の管理の会社だから、掃除でしょう。」「そう。」**それ以上は言わなかった**言わなかったというより、勇気がなくなっていた**この家に何かを言うと、それは必ず値段に換算されて戻ってくる**9000万という数字を渡したら、この家は何をするだろう?

**想像がついた**想像がついたから、渡さなかった**。7月の日曜に、母から電話が来た**「残りの荷物、いつ取りに来るの? 」「あんたの部屋、レナが使うって言ってるんだけど。」**ダンボール1つに収まらなかったものは、もうほとんどない**それでも私は、行くと答えた**行かなければ、また捨てられる**その日の夕方だった**私が実家の玄関で紙袋を2つ抱えていると、門の前に黒い車が止まった**後ろの扉が開いて、ゆトさんが降りてきた**スーツだった**作業服ではない**「近くまで来たので、荷物、重いでしょう。」**運転席から男の人が降りて、後ろの扉を抑えた**その一連の動きを、母と姉が門の内側から見ていた**姉が先に動いた**サンダルのまま門を出て、車の横に立った**「これ、車用者ですか? 」**運転手の人が餌釈をした**「はい。」「相マの車です。」「相マの。」**姉が振り返った**ゆとさんを見て、車を見て、またゆとさんを見た**母が門から出てきた**エプロンを外しながらだ**「あの、そマさん、お車まで出していただいて。」「の、このお車は。」**ゆトさんは紙袋を私の手から取って、後ろの座席に置いた**それから、上着の内側から名刺入れを出した**「申しました。」「名刺を、お渡ししていませんでしたね。」**母が両手で受け取った**名刺を見た母の顔から、順番に何かが抜けていった**目、口、頬**最後に、声が出た**「代表取り締まり役が。」**母の手から名刺を取った**「要和総合メンテナンス。」「え、待って。」**姉は携帯を出して、その場で写名を打ち込んだ**指が早かった**画面を見て、姉が息を吸った**「え、あの人が、社長なの? 」**そこから先は、私が見たことのない速さで景色が変わった**母が、ゆトさんの腕に手を伸ばした**触れる寸前で止めたが、伸ばしたのは確かだ**「まあ、そんな立派な、どうして最初におっしゃってくださらないの?

」「お父様には、お聞きいただきました。」「お答えしようとしたところで、お茶が薄いという話になりましたので。」「菊くも何も、こちらは知らないんですからね。」「え、まほ、あんた知ってたの? 」**私が答える前に、母は私の腕を叩いた**強くはない**人前だからだ**「なんで、そんな大事なこと黙ってたの? 」「黙ってたのは、私じゃない。」「口応えしないの? 」**母は笑顔のまま、声だけ尖らせた**この技術を、母は31年かけて磨いてきた**「そうさん、上がってらしてください。」「今、お茶を。」「今日は、失礼します。」「荷物を運ぶだけのつもりでしたので。」「そんな、せめて、ではまた改めて。」**ゆトさんは頭を下げて車に乗った**私も乗った**扉が閉まる直前、姉の声が入ってきた**「本当は、私の見合いだったんだから。」**車が動き出した**振り返ると、姉はまだ門の前に立っていた**母は、名刺を胸の前で持っていた**両手で、落とさないように持っていた**。車の中で、ゆトさんは何も聞かなかった**私も、何も言えなかった**窓の外を見ていると、ゆトさんが前を向いたまま言った**「名刺は、出さない方が良かったですか?

」「いえ。」「出さないでいると、そのうち別の形で知られます。」「それなら、僕から出した方がいい。」**そう言ってから、間を置いて続けた**「今日から、色々言われると思います。」「全部、僕に回してください。」「そんなことは。」**その夜から、電話が始まった**母は毎日かけてきた**朝の8時と、夜の9時**給料はいくらか? 家計は誰が握っているのか**家は尺屋か、持ち家か**レナと2人で行くから、昼を用意しろ、という話も混ざる**「あんた、それでよく妻が勤まるわね。」**それが締めの一言だった**その状態が1月半ほど続いた**8月の終わりになっても、電話は減らなかった**のく子さんからも電話が来た**「まほちゃん、聞いたわよ。」「すごい方じゃないの? 」「はあ。」「なお子さんがね、町内会でみんなに行ってるのよ。」「うちの事女が、大きな会社の社長さんに、見められたって。」「味められて。」**と母は言ったらしい**「あの母が、そう言ってるんですか? 」「言ってるわよ。」「れナちゃんが断ったところは、言わないけどね。」**父からも、1度だけ電話が来た**要件は何もなかった**工場の話を5分ほどして、切る間際に一言だけ言う**「そまさんは、今度いつうちに来るんだ?

」「分かりません。」「そうか。」**父のは、いつも何かを測っている音がする**姉からも、連絡が来るようになった**姉が私に連絡してきたのは、多分5年ぶりだ**最初は短い分だった**「写真送って、家見たい。」**そのうち長くなった**「あんた、代わりに行っただけでしょ。」「本当は、私の円談だったんだからね。」「そのこと、忘れないでよ。」**私は返事をしなかった**返事をしないと、次の文が来た**「既読になってるよね。」**と、職場の急頭室で矢島さんにだけこぼした**「実家に、夫の会社のことを言えてないんです。」**矢島さんは、コーヒーの粉を平らに鳴らしながら聞いていた**「なくていいよ。」「でも、言った瞬間に、あなたの話じゃなくて、お金の話になるから。」「そういう家でしょ。」**その通りだった**私は何も返せなかった**その週の仲間に、小柳さんから電話が来た**「まっほちゃん、ちょっと聞いて、いい? 」**声がいつもと違った**「あなた、承知の上だったの? 」「何がですか? 」「お見合いのことよ。」「お父さんはね、妹さんが乗り気だからぜひって、おっしゃったの。」「それで私、先方にそう伝えたのよ。」**私が何も言えずにいると、小柳さんは声を落とした**「でもね、この間れちゃんが町内会で言ってたのを、聞いちゃったのよ。」「魔ホは、押し付けられただけだって。」「笑い話みたいに。」**私は黙った**黙ったことが、そのまま答えになった**「そう。」**長い息だった**「私ね、相馬さんに謝らないといけないわ。」「小柳さんのせいじゃありません。」「私が持っていった話なのよ。」「断られたのを知っていて、それでも会ってくださった方に、私は嘘をついだの。」**その後、小柳さんは少しだけ声を落としていった**「まほちゃん、あなたは、謝らなくていいからね。」**電話を切ってから、私は台所の椅子に座って、しばらく立てなかった**その夜、初めて会社のことを自分で調べた**携帯で写名を出すと、1番上に会社のページが出てきた**拠点の一覧42箇所、従業員因数3214名**取引先には、名前を聞いたことのあるホテルと、市の名前が並んでいた**遠隔のページを開いた**1番下に、会社になる前のことが1つだけ書いてあった**「創業者が、個人で清掃業を始める 野号、相馬清掃。」**相馬清掃**その名前のところで、指が止まった**知っている名前だった**うちの会社の正面に、私が書き移していた名前だ**「相馬清掃 月15万円。」**母から正面を押し付けられた秋からの数ヶ月だけ、私の字で並んでいる**その前のページは母の字だが、名のランはどれも**「掃除屋」**とだけ書いてあった**父と同じで、この家では業者に名前がなかった**年が開けると、相馬清掃の行は消えた**その後もしばらく、その名前の入った封筒が毎月来た**父が開けないので、私がふも切らずに閉じた**いつの間にか、それも来なくなった**小柳さんは3月に行っていた**「あちらのお父様の台から、ずっと同じ仕事だと。」「10年前に亡くなったとも。」**全部、あの茶の間で聞いていた**聞いていて、私は1度も結びつけなかった**結びつけたくなかったのだと思う**指が冷たくなった**「同じ名前の、別の会社かもしれない。」「うちの町には、よくある苗字だ。」**そう思おうとした**思おうとしている自分に気づいて、余計に落ち着かなくなった**その1つ上の行は、会社の設立だった**仏壇の違が浮かんだ**ゆトさんのお父さんが亡くなったのは、10年前だと聞いている**会社ができたのは、その2年前だ**父親が生きているうちに、息子が会社を作った**そして、父親は社長にならなかった**おかしなことだと思った**いようとした夜は、何度もあった**だが、言えば必ずこう続く**「うちの父が、あなたのお父さんに、何かをしたかもしれない。」**と、まだ何も確かめていないうちに、それを渡すのは、疑いを押し付けることだと思った**言い訳だ**本当は、確かめるのが怖かった**この家に来てまだ3ヶ月で、私は帰る場所を1つも作れていない**画面を閉じた時、携帯が震えた**姉からだった**8月の終わりの木曜の夜だった**「話がある。」「今度の土曜、そっち行くから。」**。姉が来る前の晩に、私は聞いた**夕飯の片付けが終わって、ゆとさんが台所の床を拭いている時だ**この人は、毎晩寝る前に台所の床を拭く**膝をついて、雑巾で、隅から**「ゆとさん。」「はい。」「どうして、私だったんですか?

」**雑巾を持つ手が止まった**「順番の話ですか? 」「はい。」**ゆトさんは雑巾を畳んで、シンクの淵にかけた**手を洗って、食卓に座った**「見合いの日、僕が仕事を行った後、あなたは2秒くらい黙りました。」「はい。」「あなたは、『大事な仕事ですよね』と言いました。」**ゆとさんは、自分の指先を見ていた**「仕事の外にいる人に、初めて会った席で、そう言われたのは、38年生きてきて、あの1度だけです。」「それだけの理由で、結婚を決めたんですか? 」「それだけでは、ありません。」**ゆトさんは顔をあげた**「その後、あなたは自分から言いました。」「姉が断って、自分が代わりに来たと。」「隠せる場面でした。」「隠した方が、得な場面でした。」「それでも言った。」「あれは、ただ都合の悪いことを先に出す人と、暮らしたいと思いました。」「それだけです。」「はい。」**「それと、見合いの日に言わなかった方の理由です。」「はい。」「断られたと聞いても、僕はあの席に行くと決めていました。」「断りの理由が、僕の仕事だったからです。」「仕事を理由に断られた席に行かなかったら、うちの3200人が、まとめて断られたことになる。」「だから僕は、仕事で断られた席にだけは、必ず行きます。」**「順番があるので」**とあの日、この日は言った**順番の1つ目が、これだったのだと思った**「もう1つ、聞いていいですか? 」「はい。」「あの、通帳です。」**ゆトさんは頷いた**「渡せる口座があれしかなかったのは、本当です。」「はい。」「でも、現金だけ渡すこともできました。」「1万円だけ、財布から出せば済んだ話です。」「はい。」「しなかったのは、あなたが1万円を頼む時の顔を見たからです。」「あの顔で、これから毎回僕に金額を言うんだと思いました。」「石鹸が切れました。」「ゴミ袋が切れました。」「と。」**私は膝を見た**ズ干しだった**「夫婦なのに、そういう遠慮して欲しくなかった。」「だから、口座ごと渡しました。」**「でも、9000万は。」**ゆとさんが、自分のことでおかしそうに笑った**そういう笑い方を見たのは、それが初めてだった**「あれを見て、真っ先に『怖い』という人で、良かったです。」「金額を聞いて、目の色が変わる人だったら、僕は多分あの通帳を、静かに引き取っていました。」**「あのお金のことを、話します。」**ゆトさんはそう言って、しばらく黙った**「父は、10年前に亡くなりました。」「61でした。」「はい。」「生命保険が、3000万円入りました。」「受け取り人は、僕です。」「それと、父が住んでいた家の土地を売りました。」「作業場と一緒になった家で、うちの会社の最初の事務所でもありました。」「税金を引いて、手元に残ったのが6000万円です。」「3000万と6000万、合わせて9000万。」**数字の出所が分かった瞬間、私は自分がその金を見て震えたことを、少し弾**「その2つを、1つの口座に入れて、それっきりです。」「使わなかったんですか?

」「使えませんでした。」「どうして? 」「父の金だからです。」**ゆトさんはそこで、言葉を選ぶ顔をした**「父は、自分のためには1円も使わない人でした。」「作業技を、年に1着しか買わない。」「冬でも、軽トの暖房をつけない。」「そういう人が残した金です。」「それを僕が自分のために使うと、父が損をしたということになる気がして。」「税理士さんとかには、運用しろと何度も言われました。」「眠らせておくのは損だと、ですよね。」「でも、動かす気になれなくて。」**ゆトさんは湯みを置いた**「年に1度だけ、父の名に銀行へ行って、気重します。」「放っておくと、そのうち動かせなくなると言われたので。」「あ、通帳の、年に1度だけ並んでいた小さな出勤を、思い出した。」**どれも1000円に満たなかった**「その1年でついた利息だけ、下ろします。」「700円くらいです。」「700円で、何を。」「墓を洗うタわしと、雑巾を買います。」**私は何も言えなかった**「そうすると、9000万のところは、10年動きません。」「利息がついて、その分だけ下ろす。」「それだけです。」**それから、ゆトさんはまっすぐこちらを見た**「父の金だから、自分のためには使えない。」「でも、家族のためになら、使えると思ったんです。」「あなたが来てくれたので。」**。土曜の昼過ぎに、姉が来た**チャイムを2回鳴らして、返事を待たずに玄関を開けた**「へえ。」「思ったより、普通。」**靴を脱ぎながら、姉は家の中を見回した**廊下、今、台所、階段**値段を数えている目だった**「ねえ、これ、持ち入、尺屋、だよ。」「ゆとさんのお父さんから継いだ土地じゃなくて、自分で買った家。」「ふん。」**姉の声が、反音下がった**姉は勝手に台所へ入って、冷蔵庫を開けた**閉めて、次に食器棚を開けた**姉は2階へ上がった**止める間もなかった**上で、ふの開く音が2回した**降りてきた姉は、口の橋を下げていた**「寝室と和室、なんだ。」「もう1部屋、ダンボールだらけだったけど。」「あれは仕事の書類だって。」「まあ、そういう人なんだね。」**姉は今の椅子に座った**それから、本題を出した**「あのさあ、魔法、あんた分かってると思うけど、あの円談、元々私のだからね。」「知ってる。」「じゃあ、話が早い。」「私、あの人に、ちゃんと会ってみたいの。」「1回でいいから。」「何のために? 」「何のためにって? 」**姉は言いんで、それから笑った**「私の方が、向いてるでしょ?

」「社長夫人。」「あんた、そういう場に出られる? 」「パーティーとか、解食とか、呼ばれたことないから分からないでしょ。」「私は、慣れてる。」「お姉ちゃん、あの人は、椅子じゃないよ。」**姉の眉が寄った**「は? 」「取り替えられるものじゃないって、言ってるの。」**言ってから、自分の声が震えていないことに驚いた**「私、そんなこと言ってないけど。」「言ってるよ。」「ずっと言ってる。」「いらないから、魔にあげるって。」「机も、制服も、自転車も、今度は人でやろうとしてる。」**姉が立ち上がった**何か言い返すつもりだったのだと思う**その時、玄関が開いた**「ただいま。」**ゆトさんだった**灰色の作業服のままだった**ズボの裾に、白い薬剤の跡がついている**手には、作業用の手袋を丸めて持っていた**門の外に、白いワゴンが止まっているのが見えた**会社名が横に入っている、現場用の車だ**姉が固まった**7月に姉が見たのは、黒いセ段と運転手だった**目の前にいるのは、床を吹いてきた男だ**「あ、あの、こんにちは。」**姉の声が裏返った**「う木レナです。」「マホな、姉の、伺っています。」**ゆトさんは玄関で靴を脱いで、それから作業服のまま、今の入り口に立った**中には入らなかった**「すみません。」「今日は、名古屋の現場から直で戻ったので、この格好です。」「いえ、お仕事ですもんね。」「偉いですよね。」「社長さんなのに、仕事なので。」**それだけ言って、ゆトさんは私を見た**「まホさん、何かありましたか? 」**姉が先に答えた**「の、ちょっとご相談で。」「実は、この円談、元々は私に来たお話で、存じています。」「じゃあ、こっちもはっきり言いますけど、お姉さん。」**ゆトさんが遮え切った**声は大きくない**「僕は、まほさんを選びました。」**姉が、口を開けたまま止まった**「小柳さんから話を受けた時、僕はお姉さんがお断りになったと聞いていました。」「その上で、まほさんとお会いしました。」「会ってから、決めました。」「誰かの代わりに座っている人だと、1度も思っていません。」「でも、順番で言えば、順番があるのは仕事の話です。」「人には、順番はありません。」**姉はしばらく黙って、それからカを掴んだ**「帰る。」**玄関で靴を履きながら、姉が1度だけこちらを見た**その目は、負けた人の目ではなかった**姉が出ていった後、ゆトさんは玄関のマットの位置を直した**姉が踏んで、ずれたものだ**私はその背中に行った**「すみません。」「勝手に上がられて。」「謝るのは、勝手に上がった方です。」**それから、作業服の袖をまくり直しながら行った**「お姉さんは、僕を見ていませんでした。」「え、僕の後ろにあるものを見ていました。」「会社とか、車とか。」「ああいう目は、仕事でよく見ます。」「腹は立たないんですか?

」「立ちません。」「見謝ったのは、お姉さんの方なので。」**ゆトさんは、風呂の掃除に行った**この人は、土曜の夕方に風呂を洗う**私は台所に立って、姉が開けた食器棚の扉を、閉め直した**姉は、引き下がっていなかった**3日後、実家の母から電話が鳴った**「日曜、1人で来なさい。」「さんは、連れてこないで。」**母の電話は、それだけだった**。1人で来い、というのがどういう意味か、玄関を開けた瞬間に分かった**茶の間に、3人揃っていた**父は1番奥の席、母は父の隣**姉は座宅の向い側**私のザ布トンだけが、近い側に1枚置いてあった**裏返しだった**客に出す面を伏せておく**この家では、それが「下に置く」という合図だった**座って、母がお茶を出した**茶宅はなかった**ゆとさんが挨拶に来た時と同じだ**この家の茶宅は、身内か客かで、は決まらない**その日、誰を「下に置く」かで決まる**姉が先に口を開いた**「まほ、あの結婚、やっぱりなしにして。」**私は湯みを持ったまま、姉を見た**「元々私の円談なんだから、返してよ。」「返すって。」「席抜いてよ。」「それで、私がもう1回会う。」「あの人だって、本当は私の方が良かったに決まってるでしょ。」「あの人って、ゆとさんのこと? 」「そう。」**姉は言いきった**迷いがなかった**「あのさあ、魔法、冷静に考えてよ。」「社長の妻って、色々あるでしょ。」「人前に出たり、挨拶したり。」「あんたにできる? 」「私の方が、似合うでしょ。」「似合う。」「見た目の話じゃなくてさ、役としてよ。」「役。」**姉はそう言った**妻を「役」だと思っている人が、その役を私から取り上げようとしている**母が湯みを置いた**話をしきる合図だ**「まほ、一度、席を抜きなさい。」**思っていたよりも、あっさりした言い方だった**「その上で、レナに譲りなさい。」「それが筋よ。」「じ、元々はレーナのお話だったんだから、あんたが代わりに行っただけでしょ。」「代わりに行けと言ったのは、お父さんとお母さんです。」「それは、れナが嫌がったからよ。」「今は、嫌がってないの。」「理屈になっていない。」**理屈になっていないのに、母は当然の顔をしている**31年、私はこの顔に負けてきた**「あんたには、もったいないのよ。」「あの方は。」**その一言で、体の芯が冷えた**「もったいない。」「そうよ。」「あんた、身の竹ってものを考えなさい。」「派遣で資格もなくて、そういう子が急に社長夫人だなんて、周りが変に思うでしょ。」「周りって、誰ですか? 」「腸内の人よ。」「親戚もよ。」「じゃあ、お母さんが腸内で言ってる、『味められた事女』の話は。」**母の口が止まった**「何の話?

」「おばさんから聞きました。」「余計なことを。」**それだけ言って、母は湯みを持ち直した**父は、何も言わなかった**腕を組んで、畳の目を見ている**母が話し、姉が話し、私が返す**その間、父は1度も口を挟まない**止める気がないのだ**昔からそうだった**母と姉が私を削る時、父は必ず黙っている**手を下すのは自分ではない、という顔で、最後まで座っている**そして、削り終わった頃に、一言だけ言う**それがこの日も、来ることは分かっていた**ただ、その日1番先に口を開いたのは、父ではなかった**「言っておくけど。」**姉が身を乗り出した**「私、相談所もやめたんだよ。」「相談所? 」「結婚相談所、3月に登録したの。」「でも、会う人会う人、条件が下でさ、もういいやって思って、先月切った。」「それと、今の話とどう関係があるの? 」「関係あるでしょ? 」「私はもう、決めた相手がいるってことだよ。」**私は姉の顔を見た**姉は本気だった**それが1番怖かった**「お姉ちゃん、この間うちで言ったこと、もう1回言うね。」「あの人は、物じゃないよ。」「物とか、言ってないじゃん。」「言ってるよ。」「譲れっていうのは、そういうことだよ。」「じゃあな、何て言えばいいの?

」「返してって言えばいい。」「元々私のなんだから。」「人を物みたいに、譲るとか、言わないで。」**声が出た**自分の声だとは思えないくらい、はっきり出た**茶の間が静まった**姉が目を丸くして、それから笑った**「うわ、魔ホが怒った。」「怒ってるだってさ、あんたが持っていていいものじゃないじゃん。」「あれ、物と。」**姉は言った**今度は、自分で言った**「お姉ちゃん、1つだけ聞いていい? 」「何? 」「もし、ゆとさんが、写真のままの人だったら、会社の社長じゃなくて、朝4時から床を磨くだけの人だったら、お姉ちゃん、今日ここに座ってた? 」**姉は一瞬だけ黙った**その一瞬で、答えは出ていた**「何、その質問?

」「意味なくない? 」「意味あるよ。」「だって、現実は違うじゃん。」「あの人は、社長なの? 」「それが事実でしょ。」「うん。」「じゃあ、考えても仕方ないでしょ。」「そうだね。」**私は頷いた**姉は勝ったと思ったらしく、髪を後ろへ払った**この人は、もう自分が何を捨てたのかを、一生思い出し続けるのだと思う**「話を戻すけど。」**姉は鞄から、クリアファイルを出した**中に、薄い髪が入っている**「これ、取ってきたから。」**離婚届けだった**市役所の窓口でもらえる、あの緑の髪だ**「まだ3ヶ月でしょ。」「今なら、席を抜くだけで済むじゃん。」「お姉ちゃん、これ、いつ取ってきたの? 」「先週。」「ついでに。」**と姉は言った**私が31年、「ああ、それと」の位置に立たされてきたのと同じ言葉だった**「持って帰って、私は使わない。」「置いてくから、気が変わったら、ばいいじゃん。」**姉はファイルを、座宅の私の側へ滑らせた**指先だけで、遠くへ押しるように**その滑らせ方を、私は3月に見ている**姉が、ゆとさんの釣り書きを畳の上へ押し戻した時と、全く同じ手だった**母がまた、湯みを置いた**「まほ、あんたね、名前だってそうよ。」「名前?

」「レナの名前はね、半年かけて考えたのよ。」「自覚見てもらって、お母さんにも相談して、うわしいならのな。」「いい名前でしょ。」**私は黙っていた**「あんたのは、お父さんが病院の廊下で決めたの。」「まっすぐなほでいいだろって。」「それだけよ。」**母は笑った**冗談のつもりだったのだと思う**「5分もかかってないわ、あれは。」**父は、何も言わなかった**姉が横からつけした**「まあでも、魔ホっぽいよね。」「地味で。」**私は、自分の名前をその時初めて、外から見た気がした**「お父さんも、何か言ってよ。」**姉が父に振った**父は腕を組んだまま、畳の目を見ている**「好きにしろ。」**言ったのは、それだけだった**誰に向けて言ったのかも分からない**私に向けてでないことだけは、分かった**31年、この人はいつもこの位置にいた**来ると分かっていた一言が、その日は「好きにしろ」だった**「それにね。」**母が続けた**「私たちも、この先のことがあるのよ。」「この先? 」「お父さんも私も、いつまでも元気じゃないでしょ。」「レナは、レナで忙しくなるだろうし。」「そうなったら、面倒を見るのは、あんたでしょ。」「面倒。」「そ、相馬さんのうち、部屋が4つあるって言ってたわね。」「2階が、開いてるんでしょ。」**体が冷たくなった**この人は、もう決めていたのだ**私が結婚した相手の家を見て、部屋数を聞いて、そこに自分たちが入る計算をしていた**姉に席を譲れ、という話と、老後の計算が、同じ口から出てくる**「お母さん、私に席を抜けって言いながら、その家に入るつもりなんですか? 」**母が、瞬きをした**「あら、それとこれとは、別でしょ。」「別ではない。」「どちらも、同じことだ。」「この家は、私のものを、自分のものとして数える。」「学習机も、土曜の朝も、結婚した家も。」**「育ててもらった恩は、忘れてません。」「忘れていないから、今日はもう帰ります。」**立ち上がった**姉が何か言ったが、聞かずに廊下へ出た**母が追いかけてきて、後ろから行った**「そまさんに、ちゃんと話しなさいよ。」「姉の方がって、言えるわけがない。」「言うつもりもない。」「あんたが言えないなら、こっちから言うわよ。」**足が止まった**「会社に電話するくらい、どってことないでしょ。」「代表番号なんて、調べれば出てくるんだから。」「やめて。」「あら、じゃあ、あんたが言いなさいよ。」**母は笑っていた**困らせているつもりはないのだろう**母にとってそれは、交渉の順番を確かめているだけの言葉だ**座宅の上に、姉が置いていった緑の髪が見えた**誰も、片付けていなかった**玄関のどまに降りて、靴に足を入れた**その時、父が玄関の上がり口まで出てきた**「まほ。」**父のそんな声を聞いたのは、初めてだった**低くて、少し慌てている**父は私の後ろから外へ出てきて、玄関のドアを後ろに閉めた**中の2人に聞かせない、という閉め方だった**ドアが閉まると、玄関先の音が急に減った**父はサンダルのまま門の方へ歩いて、私を手招きした**兵の外まで出て、そこでようやく口を開いた**「魔法、中の話は、忘れろ。」「え? 」「席だの、何だのは、女の言うことだ。」「俺には、俺の話がある。」「魔法、お前は、社長の嫁だろ。」「向こ、なんだから、うちの会社に仕事を回せ。」「仕事って、そマさんの会社な。」「全国に現場があるんだろう。」「そう、聞いてます。」「ちょうどいい。」「うちの若いの、何人か出す。」「出、すって、どこに?

」「掃除にだよ。」**父は、子供投げに行った**「現場が全国にいくつもあるなら、人はいくらでもいるだろう。」「うちから出す。」「下受けでいい。」「その分の金を、こっちに回してくれりゃ、当面はしのげる。」「お父さん、掃除くらい、誰にでもできる。」**父の口から出た、その一言を、私はしばらく飲み込めなかった**「あとな、取引先も、紹介してもらえ。」「ビルの持ち主なら、金属の仕事を出すところも知ってるだろう。」「名前を、1つ2つ出してくれるだけでいい。」**ビルの掃除を受ける会社と、金属を削る仕事の発注先は、多分何の繋がりもない**「関係ないよ」**と言いかけて、やめた**父の頭の中では、大きい会社はどれも同じ形をしている**それから父は、少し間をいた**胸ポケットからタバコを1本出しかけて、そのまま箱に戻した**ここからが本題だ、という間だった**「4000万だ。」「え、4000万あれば、うちは息をつける。」「そんなお金、私には。」「お前じゃない。」「無こにいだ。」**父の声が、急に低くなった**「銀行はもう火算。」「借金の保証してくれる教会があるんだが、そこの枠がもういっぱいだと言われた。」「保証がつかんなら、自前で用意しろ、ということだ。」「銀行は、そのくせ、今の数字を見せろの一点張りでな。」「見せたら見せたで、去年と同じ返事だ。」「数字しか。」**民打ち訳けは、材料屋と、銀行と、給料だ**父は指を3本立てた**それだけだった**額は、4000万という数字1つしか言わなかった**打ち訳けを割れば、どこにいくら遅れているかまで、言わなければならなくなる**6人の向場で、4000万は、うちの売上の半年分だ**息をつける額ではない**借りているものを一度綺麗にする額だ**父はそれを、「息をつける」と言った**正面をつけていたのは、父ではない**私だ**だから、4000万がどこに消えた金なのかは、私にも検討がつく**父はそれを、今更認めたくないのだ**「うちの若いのを出すって、誰を出すの? 」「若いな、言葉の。」「うちに若いのは、おらん。」**父は兵に手をついた**天板の、痛みだな**「あれは66だが、体は動く。」**「痛みさん、土曜の朝。」**お茶を出すと必ず手を止めて、ありがとうと言ってくれた人だ**26年、千番の前に立っている人だ**「伊さんに、掃除をさせるの? 」「掃除だぞ。」「誰にでもできる。」**父は、同じことを2度言った**2度目の方が軽かった**「家族なんだから、当然だろ。」「当時の会社なんて、コでどうにでもなる。」「身内なら、話が早い。」**父はそう言って、家の中へ戻っていった**。その夜、新居に帰った**食卓に座って、私はその日のことを全部話した**姉のこと、母のこと、離婚届けのこと**それから、春に姉があの写真を親戚中に回して笑わせたことと、入籍の前に母から毎月3万円を入れろと言われていたことも、その時初めて話した**ゆトさんは、1度も口を挟まなかった**味噌汁が覚めても飲まずに、聞いていた**最後に、父の話をした**「うちの従業員を、清掃の下受けに出したいと、言っています。」「それから、取引先の紹介と、はい、あと、4000万円。」**「そうですか。」**ゆとさんは頷いた**断るとも、受けるとも、言わなかった**「そういえば、まほさんも、1度も言いませんでしたね。」「え、お父さんの会社の名前です。」「言わないようにしてました。」「父の会社の名前を出すと、必ずお金の話になるので。」「では、聞いてもいいですか? 」「はい。」「挨拶に伺った時、1度お聞きしましたが、話が流れました。」「こちらから、2度は聞かないようにしていました。」「まほさんが、言いたくないのだと思ったので。」**そういえば、あの日、父がゆとさんに会社の名前を聞いて、ゆとさんが答えかけたところで、母が話を切った**あの家では、結局どちらの会社の名前も、1度も口にされないまま終わった**「う木正規です。」**行った瞬間、ゆとさんの手が止まった**温め直した味噌汁の鍋に、蓋を戻そうとしていた手だ**その手が、蓋を持ったまま、中にあった**「もう、1度いいですか?

」「う木飛正です。」「金属を削る、うちの工場の名前です。」「もう1つ、先にいます。」「8月に、会社の遠隔を見ました。」「相馬清掃、という名前が、うちの長面にあったのを、覚えていました。」「あの時、言えませんでした。」**ゆトさんは、鍋の蓋を静かに置いた**それから、椅子に座った**座るまでに、いつもより時間がかかった**「お父さんの会社の名前は、うちにもあります。」「ありますって。」「2度と取引をしない先を書いた、古い隊長です。」**私は意味が取れなかった**一社につき、社名と、住所と、日付と、理由の欄が1つ、それだけのです**ゆトさんの声が、家の中の声から、仕事の声に変わった**「19あります。」「うちの規模なら、少ない方です。」「そのうち18社は、僕が社長になってから書いたものです。」「残りの1社だけが、父の台のものです。」「その中に、う木正さんがあります。」**台所の換気線が回っている**それだけの音だった**「住所を、言ってください。」「さんに書いてある住所を、言います。」「川沿いの、2丁目の7番地です。」**私は頷くしかなかった**父の工場の住所だった**「でも、ゆとさんの会社は、そんなに古い会社じゃないですよね。」「うちの父が何かしたとしても、それは会社になる前の。」「一覧は、父の相馬清掃から引き継いだものです。」**ゆトさんは立ち上がって、廊下の電話の引き出しから携帯を取った**「西野さん、やぶすみません。」「倉庫の、古い代長を、明日の朝1番で出してもらえますか? 」「相馬清掃の、背のままのやつです。」**短いやり取りをして、電話を切った**「管理部長の、西野です。」「うちに来て、20年になります。」「あの一覧を管理しているのは、あの人です。」**椅子に戻ってから、ゆとさんは言った**「正直に申し上げます。」「僕は、写名を聞いた時点で、日付まで分かりました。」「日付、14年前の4月18日です。」「どうして、そこまで? 」「その一者が、父が自分で欠かせた先だからです。」「自分で、欠かせた。」「父は、この一覧を作るのを嫌がった人でした。」「うちが至らなかっただけだ、と言って、何があっても乗せさせなかった。」「その父が、一者だけ。」「当時まだジムだった西野さんに、かけと言ったんです。」「僕は、その話を父の葬式の後で、西野さんから聞きました。」「あの頃、僕は夜の現場をまとめて任されていて、朝の現場は父がまとめて見ていました。」「父が、その年珍しく病院へ行ったことは、ずっと後になってから知りました。」「何があったのかは、その時も聞けませんでした。」**「なんて書いてあるんですか? 」「理由の欄に、1つだけです。」「前方の社長に、うちの現場のものが、手を上げられたためと。」**私は膝の上で、自分の指を握っていた**「うちの父は、その会社の名前を、亡くなるまで1度も口にしませんでした。」「1度も。」「はい。」「何があったのかも、言いません。」「うちの仕事が至らなかっただけだと。」「それだけです。」**ゆトさんは、湯みの淵を親指でなぞった**「調べれば、分かったことです。」「調べませんでした。」「相手の家を先に調べてから会うようなことを、僕は自分に許していなかったので。」「最初から、疑ってたんですか?

」「う木というお名前は、初めて伺った時から、頭の隅にありました。」**ゆトさんは、湯みから指を離した**「ただ、大腸に乗っているのは、会社の名前です。」「この町に、う木さんは何件もありますし、釣り書きには『自営業』としか書いてありませんでした。」「確かめてしまえば、僕はあなたを、確かめた目で見ることになる。」「父の一見を頭に置いたまま、あなたと向い合うことになる。」「それだけは、嫌でした。」**ゆとさんは、味噌汁の鍋を見た**もう、すっかり冷めていた**「まホさん、1つはっきりさせておきます。」「はい。」「僕は、これからう木正さんのことを調べます。」「会社として調べます。」「仕事の判断をするために、必要なので。」「はい。」「でも、あなたに黙って進めることだけは、しません。」「分かったことは、順番に、全部お伝えします。」「嫌なら、今言ってください。」**私は首を振った**「調べてください。」**言ってから、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた**本当は、震えるべきところだった**父が何かをした、相手がこの人の父だったかもしれない**それが分かりかけている夜だ**それなのに、私が落ち着いていたのは、8月にあの名前を見つけた夜から、この日が来ることを分かっていたからだと思う**その夜、寝る前に廊下へ出た**何度の塔を開けた**ダンボールは、5月に届いた時のまま、1番手前に置いてある**ガムテープの端が、前より浮いていた**膝をついて、テープに指をかけた**かけたまま、動けなくなった**中にあるのは、高校の教科書と、通信簿と、父の会社で受け取って閉じたファイルだ**それだけのはずだ**それだけのはずなのに、指が進まない**「まホさん。」**台所から声がした**「明日、朝が早いので、先に休みます。」「はい。」**私は遠しめて立ち上がった**その晩は、眠れなかった**天井を見ながら、思い出そうとしていた**14年前の4月**私は17歳で、土曜になると父の会社の受付に立たされていた**。姉が会社に電話をかけたのは、その週の火用だった**私が知ったのは、その日の夜だ**ゆトさんが帰ってきて、上着をかけながら行った**「今日、お姉さんから会社に連絡がありました。」「え、代表電話です。」「社長の妻の姉です、とおっしゃったそうで。」「受付から、本社の事務へ、そこから秘書へ、秘書から、ゆトさんへ、そういう順で上がったらしい。」「すみません。」**私が頭を下げるのは**「電話をかけた方です。」**ゆトさんは食卓に座った**「それで、お会いすることにしました。」「金曜の午後、本社の王設で。」「会うんですか? 」「はい。」「合わないと、次は取引先に電話をかけます。」「ああいう電話は、こちらが断るほど、次はもっと外側へかかります。」「取引先や、お客さんのところへ。」**その通りだと思った**母も姉も、正面の扉が閉まると、横の窓を叩く人たちだ**「まホさんにも、同席してもらいたいんですが、いいですか? 」「私が行くと、こじれると思います。」「こじれても、あなたがいない場所であなたの話をされるより、いいです。」**それから、ゆとさんは言い方を変えた**「それに、あなたに聞いて欲しいことが、出てくるかもしれません。」**ゆとさんはそこで、1度言葉を切った**「昨日の朝、西野さんに古い体調を出してもらいました。」「理由の欄に書かれた、あの一文を、うちの統括部長に見せました。」「活部長さん、全国の現場を束ねている人です。」「父の台からいます。」**ゆトさんは、両手を膝の上で揃えた**「日付のところを、指で隠して見せました。」「この現場を、覚えていますか、と。」「4月18日ですね、と言われました。」**私は、膝の上で指を組んだまま、動かせなくなった**「大腸に、天気は書いてありません。」「覚えているかどうかを確かめたくて、その日の天気を聞きました。」「横から降る、雨でした、と帰ってきました。」「どうして、そこまで覚えて。」「覚えている理由が、あると言われました。」「ただ、その理由は、僕にも今は言えないと。」「言えない。」「うちの父に口止めをされていて、その約束がまだ生きているそうです。」「ただ、あの日の相手だった、お父様ご本人の前でなら、話せる。」「と、あの人の中では、それが約束の守り方なんだと思います。」**ゆトさんは、膝の上の手を組み直した**「金曜、その人にも同席してもらいます。」「名前を伏せたままでも、話せることはあるはずですから。」**その夜、私はまた何度の塔を開けた**「4月18日、雨。」**私の癖通りなら、あの神の右上に、その2つが書いてある**書いてあれば、いつ内うちに来たかは、もう動かせない**そして、その神が今も私の手元にあること自体が、父が受け取らなかった証拠になる**分かっていて、指をかけたまま、剥がせなかった**開けた瞬間に、私は父を告発する側の人間になる**3日かけて、私はそのことをぐるぐる考えていた**結局、決めたのは私ではなかった**金曜の午後、私は会社の休みを取って、本社へ行った**駅から歩いて7分ほどの場所にある、8階建て建てだった**外から見ると、地味な建物だ**だが、玄関前の上に、カ派が1枚もない**自動扉に、指の跡もない**白壊で扉が開くと、廊下の先の説室のが開いたままになっていた**中の椅子に、姉の背中が見えた**その手前を、作業服の人が2人、代車を押して通った**2人が同時に頭を下げた**「社長、お疲れ様です。」「お疲れ様です。」「3階の空調、治りましたか? 」**年配の方が答えた**「昼に、業者が来ました。」**ゆトさんは立ち止まって、2人と短い言葉を2つ3つ話した**私は、その横に立っていた**たの奥から、姉がこちらを見ているのが分かった**2人が行ってしまうと、入れ替わりにスーツの男性が廊下に出てきた**役員の1人らしい**「社長、今の件、現場の判断でよろしいですか?

」「現場が決めていいです。」「僕が行けるのは、月曜の朝なので。」「かしこまりました。」**その人は餌釈をして、廊下を戻っていった**肩書きが上の人ほど大きな顔をする会社ではない、のだと思った**私たちが王設に入っても、姉は立たなかった**約束より30分早く来たらしい**膝の上に、見たことのないカが置いてあった**持ち手に、寝札を外した折り目がまだ残っている**目の前の湯みは、もう半分ほどに減っていた**「ああ、聞いた。」「魔ホも来るなんて、聞いてない。」「僕が呼びました。」**ゆトさんは、向いのソファーに座った**その後ろから、灰色の作業服の人が入ってきた**髪は、ほとんど白い**背は高くないが、肩の熱い人だった**「鍛ジ原です。」**その名前が、耳の奥で引っかかった**どこかで、書いた覚えがある**手が動いた覚えがあるけれど、どこに書いたのかは出てこなかった**「どうぞ、おかけください。」**ゆとさんが言ったが、鍛原さんは座らなかった**ゆとさんの斜め後ろに立って、両手を前で組んだ**「それで、ご要件は。」**ゆとさんが聞いた**「私が一度、お断りしたのは、事実です。」「でも、あれは写真だけで判断してしまって、実際にお会いしたら、印象が全然違いました。」「2週間前に、僕の家で立ったまま、少しお話しした分でしょうか。」**姉は笑った**「アホより、私の方が、社長夫人に向いていると思います。」「人前にも出られますし、社交も。」**ゆトさんは、口を挟まなかった**姉の声だけが、大雪室に続いた**「あの、正直言いますね。」「魔ホは、地味なんです。」「ずっと家でも、目立たない子で、派遣のまま8年で。」「そういう子が、急にこういう場に出ても、恥を描くのは、そまさんですよね。」**私は顔をあげて、姉を見た**先に目をそらしたのは、姉の方だった**それに、姉は続けて、大雪室のドアの外を刺した**「さっき、廊下を通っていった、代車の2人の方だ。」「清掃員なんて、所詮は下働きですよね。」**部屋の空気が止まった**「いえ、悪い意味じゃなくて、相馬さんは経営される方で、実際に掃除をされるわけじゃないですし、そういう人たちを『使う』立場ですよね。」**姉が足を組み直した**「社長なら、もっと華やかな奥さんの方が、釣り合うと思いません? 」**ゆトさんは、答えなかった**姉は、その沈黙を追い風だと思ったらしい**「あ、それと、ですね、さっき廊下で、作業服の方とお話されてましたけど、あれ、社長がやらなくていいことですよね。」「こな間だは、現場帰りだとおっしゃってましたけど、あれも、秘殺みたいなものですよね。」「ああいうのは、下の人に任せて、社長は上の仕事をされた方が。」**姉が、ゆとさんの斜め後ろに立っている人をまともに見たのは、そこが初めてだった**「その方も、掃除の方ですか? 」「鍛原と申します。」「ああ、はい。」「あの、お茶とか、そういうのは。」**姉が湯みを軽く持ち上げて、また置いた**鹿原さんにお代わりを頼むつもりだったのだと思う**ゆとさんが、そこで口を開いた**「お茶は、僕が入れます。」**そう言って立ち上がり、部屋の隅のポットから、姉の湯み、自分でついだ**姉は、継がれる湯みを見ていた**何が起きているのか、まだ分かっていない顔だった**私は、鍛原さんの方を見た**鍛原さんは、姉の口元をじっと見ていた**怒っている顔ではない、確かめている顔だった**長い間聞かされてきた言葉を、その日もまた聞いた、という確かめ方だった**部屋が長く静まった後で、ゆトさんが言った**「カ原さん。」「はい。」「月曜にお見せした、あの大腸の理由の欄です。」「あれを、この場でお願いできますか? 」**鍛原さんが、一歩前に出た**姉が**「え」**と言った**「う木れ奈さんで、よろしいですか?

」「はい。」「けど、私は。」**「鍛原と申します。」「今は、統括部長して、おります。」「14年前は、現場の責任者でした。」**姉が眉を寄せた**何の話が始まったのか、分かっていない**「あなたのお父様の会社に、私は5年入っておりました。」**姉の口が半分開いた**「宇さんと申します。」**私は、息を止めていた**鍛原さんは、社長の顔を一度見てから、正面を向いていった**「あの日の報告書は、う木誠さんに、受け取っていただけませんでした。」**姉が、わずかに身を引いた**「あなたは、今『下働き』とおっしゃいました。」**鍛原さんが、姉の方を向いた**「14年前のあの日、あなたのお父様の工場で、突き飛ばされたものが、1名おります。」「そのものは、あの工場の床を、5年。」「日曜の他は、毎朝6時から2時間、吹いておりました。」「あなたが、まだ寝ている時間にです。」**姉が口を開けた**何か言ようとして、言葉が出てこないようだった**「知らない。」**姉の声は、ほとんど息だけだった**「そんな人、うちに来てた覚えない。」「はい。」**鍛原さんは頷いた**責める言い方ではなかった**「覚えていらっしゃらないと思います。」「私どもは、皆さんが起きてくる前に済ませて帰っておりましたので、5年、1度もお会いしておりません。」**姉が、湯みに手を伸ばした**持ち上げようとして、途中でやめた**さっき、その湯みのお代わりを、この人に頼もうとしたことを、そこで思い出したのだと思う**「そのものの名前は、今日は申し上げません。」「個人との約束が、ありますので。」**姉は、鞄を抱えて立ち上がった**何か言ようとして、言葉にならないまま、大雪室を出ていった**廊下で、1度だけ振り返ったが、私とは目を合わせなかった**。4月18日、雨**その日のことなら、覚えている**描いた髪が、どこにあるかも**夕食の支度もせずに、何度の塔を開けた**ダンボールのガムテープを、剥がした**運び込んでから初めて開けた箱から、青いビニール紐と、湿ったダンボールの匂いがした**教科書と通信簿の下に、表紙に「粘土」を書いたファイルがあった**17だった年のものを抜いて、表紙をめくる**その紙にも、右上に私の字で、日付と天気が書いてある**4月の閉じめに、それはあった**神には、こう印刷されていた**「作業中止のご報告。」**上の方に、そう書いてあった**手書きではない、印刷した字だ**宛先「う木正」、差し出し「相馬清掃」**名前のところに、赤の丸い因をしてあった**日付「4月18日」、現場名のところに「宇木正規事務所」と書いてあった**中止の理由は、3つだった**「清掃している最中に、う正規の責任者から暴言を受けたこと。」「作業員の1名が突き飛ばされ、道具を蹴られたこと。」「契約の代金が、前の年の12月分から止まっていること。」**その下に、金額が書いてあった**「委託量、4ヶ月分、60万円。」**そして1番下に、署名が3つ並んでいた**「鍛原克久、久保田三尾、相馬公平。」**指が止まった**3つ目の名前を、私は何度も読み返した**読み返すたびに、同じ字がそこにある**仏壇の遺牌、その脇の写真**軽トの横に立って、笑っていなかった人**その人が、この紙に自分の名前を書いている**右のに、鉛筆の字があった**私の字だ**17歳の私が書いた字だ**「4月18日、雨、鍛原さん。」**そこから先は、思い出そうとしなくても、戻ってきた**あの日、雨が横から降っていた**土曜だった**私が事務所に入ったのは9時で、その頃には掃除の人たちは、もう帰っていた**床は、乾いていた**私は受付に立たされて、その後、昼まで誰も来なかった**その朝、父は事務所から工場へ出ていく時に、私へ一言だけ言った**「今日は、誰が来ても、社長は留守だ。」**いえ、誰が来るのかは、言わなかった**私は聞かなかった**父が「誰が来ても」という時は、来る相手が決まっている**それも、土曜の朝の受付に立つうちに覚えたことだった**昼前に、作業服の3人が事務所へ来た**3人とも、濡れていた**傘は持っていたのだろうが、荷物を抱えていたから、させなかったのだと思う**人のうち、1番若い人が前に出て、紙を1枚差し出した**「鍛原と申します。」「これを、社長さんに。」「留守だ。」**と言われていた**それなのに、私は手を出していた**その時、奥から父が出てきた**父は、その髪を、私の手が触れる前に取り上げて、内容も見ずに言った**「そんなもん、いらん。」**その人が、もう一度言った**「受け取っていただけませんか? 」「受け取ったら、認めたことになるだろうが。」「帰れ。」**父は、髪を受付け代へ放った**返しも、しなかった**渡した人の手に押し付けもしなかった**ただ、台の上に、置いたままにした**その置き方には、意味があった**「受け取っていないことにする」には、返してはいけない**返せば、突き返したという事実が残る**置いておけば、置いていっただけになる**1番年上の人が、事務所の鍵を封筒ごと、受付台に置こうとした**父は、顎で戸口をしゃくっただけだった**3人は、頭を下げた**私に向かって名乗ったその人が**「お嬢さん、お世話になりました。」**と言った**あの時の、鍛わ原さんだ**出ていく背中を見て、私は受付の棚から茶がの缶を出そうとした**うちに来た人には、出す決まりだった**「こんなもんに、出すな。」**父の声が飛んだ**私は箱を、棚に戻した**3人は、駐車場を横切って、雨の中を歩いていった**傘は、差していなかった**受付台に、髪が1枚残った**夕方まで、誰も片付けないので、私が引き出しにしまった**捨てるのは、違うと思った**捨てられるのも、違う気がした**その髪の右上に、いつもの癖で、日付と天気を書いた**それから、名乗った人の名前を書いた**なぜ、鍛原さんの名前を書いたのかは、自分でも分からない**多分、その人だけがこちらの目を見たからだと思う**。夜、ゆトさんが帰ってきた**私は台所の食卓に、その紙を置いた**ゆとさんは、上着を脱ぎかけたまま、それを見た**近づいて、両手を膝につくようにして、覗き込んだ**長い間、動かなかった**「父の字です。」**声がかれていた**「僕は、子供の頃から、父の字を見てきました。」「この名前の、最後の払いを跳ねる描き方は、父です。」**ゆとさんは、指で紙の淵をなぞった**触れたのは、字ではなく、紙の橋だった**「鍛原さんと、久田さんと、父です。」「久田さんは、今も現場に出ています。」「75になりますが、週に3回来ています。」「この3人の人、今は2人です。」「3人目が、父でした。」**「2人」**という言葉で、この神が何なのか、はっきりした**差し出した3人のうち、1人はもういない**受け取ってもらえなかった、その紙だけが、14年経って、差し出した側の家の食卓に置かれている**「この紙、『作業員の1名が突き飛ばされた』って書いてあります。」「その1名って、どなたですか? 」**言ってから、聞くべきではなかったかもしれないと思った**ゆトさんの目は、その1行の上で止まったままだった**「鍛原さんに、確かめます。」「確かめなくても、分かってるんじゃないですか? 」**ゆトさんは、答えなかった**目だけが、3つ目の署名のところに残っていた**「の、ゆトさん。」**私が言いかけると、ゆトさんが先に聞いた**「この髪が、どうしてここにあるんですか?

」「私が、持っていました。」**ゆとさんが、顔をあげた**「あの日、実家の父が、受け取らなかったんです。」「受付台に、残ったままでした。」「それを私が、引き出しにしまって、14年、そのままでした。」**ゆとさんは、食卓の淵に手をついた**それから、椅子に座って、両手で顔を覆った**声は出していなかった**肩も動いていなかった**ただ、しばらく、そうしていた**やがて、ゆとさんが手を下ろした**「まホさん。」「はい。」「この紙を、14年持っていたことは、責めません。」「責めないと決めてから、顔をあげました。」「私は17で、言えたはずです。」「言えません。」「言えない家だったことが、今日、はっきりわかりました。」**ゆとさんはそこで、1度息を吸った**「それに、あなたが捨てていたら、この神は今ここにありません。」「父が最後に差し出した神です。」「それを、うちに戻してくれたのは、あなたです。」「さっき言った通り、この神は鍛原さんに見せます。」「それから、僕の判断をお伝えします。」「はい。」**「でも、その前に。」**私は髪を、自分の方へ引き寄せた**「私が先に、父に会ってきます。」「1人でですか? 」「はい。」「僕が言ってもいいんですが、ゆとさんが行くと、父はお金の話にします。」**ゆとさんは、私の顔を見て、それから頷いた**「わかりました。」「何かあったら、すぐ電話をください。」**出かける前に、その紙を食卓に置いて、携帯で取った**日付のランと、3つの署名が読める大きさで**土曜の午後、実家の工場へ行った**土曜で、機械は2台だけ動いていた**事務所の受付台は、14年前と同じ場所にある**天板の板が、剥がれていた**父は、奥の机にいた**「なんだ、お前? 」**私は、髪を机の上に置いた**父は最初、それが何か分からなかったらしい**老眼鏡をかけて、上から順に読んだ**署名のところで、父の目が1度止まった**それから、何でもない、という顔で顔をあげた**「知らんな。」「読んだよね。」「知らんと言っとる。」「そんなものは、受け取っとらん。」「うん。」「受け取ってないよ。」**父の目が泳いだ**差し出しのランを、もう1度見ている**「相馬清掃」という並びを**「だから、ここにあるんだよ。」「受け取らなかった紙だから、私のところに残ってるの。」「どこで拾った? 」「拾ってない。」「私が引き出しにしまった、17の時。」「そんな昔の髪が、なんで?

」「私の癖だから。」**私**は、右上を指した**「日付と天気、お父さんに教わったんじゃない。」「お父さんに、必要だって、思い知らされたの。」**その時、工場の方から足音がした**油の染みたつぎを着た人が、シャッターの内側からこちらを見ていた**「まホちゃん。」**痛みさんだった**事務所へ入ってきて、机の上の髪に目を落とした**66歳になる**前より、背中が丸くなっていた**「ああ、それか。」「覚えてますか? 」「覚えとるよ。」**痛みさんは、油の染みた布で手を拭いた**「あの日のこと、俺も覚えてる。」「雨の日だ。」**「痛み。」**父の声が飛んだ**伊さんは、同日に続けた**「事務所の前まで、水が来た。」「バケツ、いっぱい分だ。」「俺が、雑巾で拭いた。」「誰も、手伝わんかった。」「何の水ですか? 」「それは、社長に聞いてくれ。」**それから伊さんは、少しだけ声を落とした**「それとなあ、まほちゃん。」「あれからずっと、うちの床は油っぽいままだ。」「去年、1人が滑って、手首を折った。」「3ヶ月、休んだ。」「老所に出す紙は、社長が書いた。」「原因の欄に、『本人の不注意』とだけ書いてあった。」「俺は、それを見た。」「それだけだ。」**父が立ち上がった**机に手をついて、紙の方へ手を伸ばした**私は、髪を引いた**「写真は、撮ってあるよ。」「日付が入ったのも。」**父の手が止まった**「原本は、ここにある。」「でも、玄ぽ本がなくても、困らないようにしてある。」**父は、伸ばした手を、そのまま机の上に落とした**落とした指の先が、紙の日付のところに触れた**父は、その日付のところだけを、指で抑えていた**爪の間に、油が黒く入っていた**紙を鞄に戻して、事務所を出た**伊さんが、駐車場まで送ってくれた**「まほちゃん、あの3人な。」「はい。」「あの後、うちに掃除屋が入ったことは、1度もない。」**伊さんは、工場のシャッターの方を向いた**「誰も、怒らんのよ。」「掃除をやらんことで、その日困ることは、何もないからな。」**伊さんは、手を吹いていた布れを、ポケットに差し込んだ**「困るのは、何年も後だ。」**私は工場の中を見た**シャッターの内側の床が、光っていた**磨いた光り方ではない**油が染みて、黒く光っているのだ**痛みさんは、私の鞄を見た**「あんた、髪は、捨てんかったな。」**。4日後の水曜、私はまた休みを取った**実家の3人が、本社へ来た**言い出したのは、父ではない**母と、姉だ**私が工場で父に髪を見せたことは、父の口から、形を変えて母へ伝わったらしい**「魔ホが、変なこと言い出したのよ。」「もう、直接社長さんに、話をつけます。」**母は、電話でそう言った**乗り込むつもりだったのだと思う**ただ、1時間を決めたのは、ゆトさんだった**小柳さんにも来てもらうと、前の晩に聞いていた**「断りの返事を受けたのは、小柳さんです。」「それを聞いた人がいないと、水かけ論になりますので。」**と、その同じに、ゆとさんは調べたことを、全部私に話した**父の会社の取引先が、何社に減ったか**従業員が、今は6人であること**銀行が、どこで止まっているか**その上で、こう答えるつもりだと、先に言った**私は聞いて、頷いた**だから、翌日の王設で、ゆとさんが口にしたことに、私が知らないことは1つもなかった**姉が車を運転し、父を助手席に乗せてきた**父が自分から来たのではないことは、入ってきた順で分かった**母が先で、姉が次で、父が最後だった**母は、14年前のことを、何も知らない**姉は、金曜に鍛原さんの話を聞いているが、何の話なのか分からないまま帰った**父が、2人に話していないからだ**話していれば、2人はここへ来なかった**大雪室には、ゆトさんと鍛原さんがいた**その後ろに、社員症を下げた、50くらいの女の人が立っている**「管理部長の、西野です。」「小柳さんは、少し遅れていらっしゃいます。」**を名乗って、抱えていたものを机の橋に置いた**「日付も契約書も、7年で処分しております。」「14年前のもので、残っているのは、この大腸と、亡くなった創業者が自分の手元に置いていた書類だけです。」「他は、何も残っておりません。」**分厚い大腸と、その脇に並べた古い茶ブー島だった**大腸の表紙は色が抜けて、背拍紙に文字が残っている**「トーマ清掃。」**会社の名前が変わっても、背はそのままだ**ゆトさんが、座ったまま行った**「う木誠さんに、下受けとして、うちの仕事をお回しすることは、できません。」「取引先を、ご紹介することも、できません。」「運転資金の4000万円についても、お出しできません。」**父が、身を乗り出した**「身内なのに、冷たいな。」「身内だからでは、ありません。」**ゆトさんの声は、大きくならない**「理由は、1つです。」「皆さんは、僕の仕事と、僕の社員を、見下していらっしゃる。」「まほさんは、僕の仕事を、1度も笑いませんでした。」「見合いの席で、『建物を綺麗に保つ仕事は、大事だ』と言いました。」「仕事の外にいる人に、そう言われたのは、あの一度だけです。」**ゆトさんは、母の方を見た**「でも、皆さんは、僕の仕事を知った日から、ずっと見下して来られました。」「写真を親戚に回して笑い、ザブトンも進めず、茶宅を外した湯みを出し、この部屋では、うちの社員を、『下らき』と呼びました。」**母の顔から、血の毛が引いた**写真の話が、この部屋で出るとは思っていなかったのだ**ゆトさんは、母から目を離さずに続けた**「そんな人たちに、うちの社員と、取引先を、任せる気は、ありません。」**「待ってくれ。」**父が言った**「掃除の話をしてるんだ。」「人を見下すも、何もあるか? 」「お父さん。」**ゆトさんが、初めて父をそう呼んだ**「うちに人を出すという、お話でしたね。」「伊さんだと、まほさんから聞きました。」「66歳の、先番校の方です。」「うちには、70を超えて現場に立っているものが、何人もいます。」「年齢で、お断りするのではありません。」「形が作れないからです。」**「形とは。」**父が聞いた**「さんの従業員を、うちの現場に入れて、うちの人間が直接指揮命令する、形にはできません。」「そうなると、単純な業務委託ではなく、労働者派遣に当たる可能性があります。」「お出しになるなら、現場を1つ丸ごと、お引き受けいただく形になります。」「そうなると、講習を受けた現場監督の方がいります。」「理解も、受け追いの保険も、怪我人が出た時の届けでも、そちらでご用意いただくことになります。」「それに、伊さんは、朝の4時からになります。」「冬の現場は、標です。」「腰を落とす作業が続きます。」「その相談を、お父さんは伊さんと、されましたか?

」**父は、答えなかった**「鹿原さん。」「はい。」**鍛わさんが、一歩前に出た**「う木正さんには、あの日まで、5年、内側が入っておりました。」**父の肩が動いた**鍛原さんは、手元を見ずに続けた**「先日、お姉様に申し上げましたが、日曜の他は、毎朝でした。」「土曜も、工場が動いておりましたので、休まず入っておりました。」「3人で、事務所と、食堂と、便所、それに、工場の床の油取りまで、年2回の床の洗い直しを、この中に入れておりました。」「15万円、決めたのは19年前で、1度も上げておりません。」「正直に申し上げます。」「うちには、合わない金額でした。」「3人分の人件費は、あの額では出ません。」「2人分しか、出ないんです。」「足りない1人は、うちのものが、自分の給料を取らずに、現場へ入って、埋めておりました。」「5年、ずっとです。」**「え、月に15万も。」**姉が言った**掃除の代金を、その半分にも足りない額だと思っていたのだと思う**「3人で2時間、それを月に26日です。」**鍛原さんは、それだけ答えた**「止まったのは、前の年の12月分からです。」「そこから、4ヶ月、1円も入りませんでした。」「15万円の、4ヶ月分、合わせて、60万円です。」**「そんな昔の金、事故だろうが。」**父が言った**「法律でどうこうという話では、ありません。」**鍛原さんは、表情を変えなかった**「決算の上では、うちは当に諦めた金として処理しております。」「取れない金を、売りかけに残しておくと、正面が合いませんので。」「諦めたのは、数字の上だけです。」「この大腸の、1つの行だけは、14年、消しておりません。」「電話は、3度かけました。」「2度目までは、工場のどなたかが出られて、『社長は席を外している』と。」「3度目に、社長さん、あなたが出られました。」「『うちが忙しい時に、何度もかけるな』と。」「それっきりです。」**父は、口を結んだままだった**鹿原さんが、続けた**「4月18日の朝、私は現場でお話ししました。」「仕事は続けたい。」「ただ、代金だけは、払っていただきたい、と。」**さんは、そこで初めて言い方を変えた**「その時、そちらの社長さんが、モップの入ったバケツを、蹴りました。」「中の水がかかったのは、私ではありません。」**部屋の音が消えた**「かかったのは、うちで1番長く現場に立っていたものです。」「突き飛ばされて、壁で肘を打ちました。」**あの日、その場にいたもう1人は、久保田と申します**「あれから14年、今も朝の現場に立っております。」「今日、ここへ来ていただくことは、私が止めました。」「あの日のことで、あの人にもう一度、口を開かせたくなかったので。」**「大げに言うな。」**父が遮え切った**「大げかどうかは、突き飛ばされた本人が、申し上げるべきです。」「ですが、申し上げられません。」「もう、なくなりましたので。」**鍛原さんは、一度、床の方を見た**「亡くなったのは、4年後です。」「あの日のこととは、関わりません。」「ただ、もう申し上げられない、というだけです。」**「あの日に戻ります。」「その日のうちに、病院へ連れて行きました。」「診断所も、取りました。」「警察には、届けておりません。」**鍛原さんは、そこで一度、言葉を切った**「事務所の鍵も、その日にお返ししようとしました。」「それも、受け取っていただけませんでしたので、後日、簡易書き止めで、お送りしました。」「届いたことは、当時こちらで確かめております。」「郵便局が、中身まで証明してくれる手紙が、あります。」「内容証明、と言います。」「それを出しましょう、と私は申し上げました。」「ですが、そのものが、それはやめてくれ、と。」「うちが至らなかっただけだと。」**「そのものの名前を、申し上げます。」「相馬公平です。」**母が**「え」**と言った**姉が、ゆとさんを見て、それから鍛原さんを見た**「待って。」**西野さんが、大腸の背から顔をあげた**「相馬公平は、うちの創業者でございます。」「相馬清楚を、1人で始めたものです。」「ここに、おります。」「相馬裕ト社長の、実の父親でございます。」**父は、そこで初めて、観念した顔をした**名前は、4日前に読んでいる**土曜に工場で見せた時、署名のところで目が止まったのを、私は見ていた**分からなかったのではない**分かって、4日かけて、分からなかったことにしていたのだ**鍛原さんが、続けた**「その創業者が、朝6時のあの現場に、自分で入っておりました。」「3名のうちの1人が、公平さんです。」「人の足りない現場には、必ず自分が行く、人でした。」「う木さんの現場は、5年、ずっと足りておりませんでした。」**父が、口を開いた**「日前に、知っとった。」「あの紙で、知った。」「あれが、向この親父で、そっちの社長だったんだろう。」「はい。」**と鍛原さんが答えた**「だったら、最初にそう言えばいいだろうが。」**父の声が、裏返った**それが、この人にできる、最後の抵抗だった**「言えば、払ってやったかもしれん。」「俺だって、相手が向こうの社長なら。」**そこまで行って、父は、自分で口を閉じた**閉じるのが、遅かった**部屋の全員が、今の一言を聞いていた**「うちの父は、肩書きを名乗らない人でした。」**ゆトさんが言った**「僕が会社を作った時、役職についてくれと、繰り返し頼みました。」「断られました。」「どうして? 」**姉が聞いた**素朴な聞き方だった**「人を、肩書きから見る癖がついたら、終わりだ、と言われました。」**ゆトさんは、そこで1度だけ、目を伏せた**「うちの父は、『う木正』という名前を、僕に1度も言いませんでした。」「亡くなるまでです。」「どうして? 」**姉がまた聞いた**ゆトさんは、机の上の大腸に、手を置いた**「言わない代わりに、うちの父は、1度だけ、欠かせました。」「この大腸にです。」「19のうち、父が自分で欠かせたのは、オタクだけです。」「理由の欄は、1行だけです。」「『遠方の社長に、うちの現場のものが、手を上げられたため。それだけです。」**鍛原さんが、大腸の脇の茶ブー島に手を置いた**「私どもの控えは、こちらにございます。」「西野が先ほど申し上げた、創業者が手元に置いていた書類の、1枚です。」「控えには、授業のハをいただくラが、あります。」「そこが、のままです。」「からのままでは、お渡ししたことには、なりません。」**鹿原さんは、封筒から手を離した**「日報にも、月ごとにお受け取りのハをいただくラが、ございました。」「その日報は、もう残っておりませんが、5年、1度も押していただいた覚えは、ございません。」**父が黙った**母が、急に姿勢を直した**「あの、それ、14年も前のことでしょ。」「もう、終わったことじゃないですか? 」「終わっていません。」**ゆトさんが答えた**「終わったことにするには、どちらかが幕を引かないといけません。」「うちは、引いていません。」「そちらも、引いていません。」「代金は、今も払われていません。」**母の口が、閉じた**ゆとさんは、続けた**「60万円です。」「請求書は、3年お送りしました。」「その後は、止めました。」「ただ、取り下げては、いません。」**母が、父の腕を掴んだ**「あなた、何したの?

」「うちの話が壊れるじゃない。」「元はといえば、向こうの仕事が雑だったんだ。」**父が吐き捨てた**「窓の3に、誇りが残っとった。」「それを、言っただけだ。」「バケツを蹴るのが、それを言うてことなの? 」**姉が言った**姉が、父に何かを言うのを、私は初めて見た**私は、父を見た**「お父さん、ゆとさんの家のさに、誇りが1つもないよ。」「所の換気線の羽まで、白い。」「『掃除の人を入れてるんですか』って聞いたら、『僕がやっています』って言った。」**父が、私を見た**私は、目をそらさずに続けた**「その吹き方を、あの人に教えたのは、お父さんが『誇りが残っとった』って怒鳴った、その人だよ。」**「皆さん。」**ゆトさんが言った**大きい声ではない**それでも、3人が黙った**「どちらの仕事が雑だったか、というお話は、うちの会社でされることでは、ありません。」**それだけだった**鍛原さんが、元の位置に戻って、両手を前で組んだ**私は、膝の上のカを見た**中に、あの髪が入っている**椅子を引いて、立ち上がった**ここから先は、誰かの代わりではなく、私が話す番だった**「お父さん。」**私が呼ぶと、3人がこちらを向いた**「私、高校の時からずっと、うちの会社の、つけてたよ。」「家を出るまで。」**父が、マオを寄せた**「今、それを言って、どうする? 」「言うよ。」「私しか、言えないから。」**カから、自分の手帳を出した**会社の長面をつけながら、年ごとの売上だけを、別に書き移していたものだ**家を出る時に、これだけは持って出た**「清掃の会社が、入らなくなった年、その最後の請求書を、閉じたのは、私だよ。」「その後もしばらく、『払ってください』という封筒が、毎月来た。」「お父さんが開けないから、私が開けずに閉じてた。」「掃除が止まった、次の年から、油の煙を吸う機械のフィルターの伝票が、来なくなった。」「削りカスを買い取ってくれていた業者も、油が多すぎて、根がつかない、と言って、来なくなった。」「毎年、私が閉じる髪が、1枚ずつ減っていったの。」**「経費を、絞ったんだ。」「当たり前だろ。」「うん。」「そこは、分かる。」**私は頷いた**「私は、手帳を開いて、父の方へ向けた。」**売上の数字が、年ごとに並んでいる**「6年前に、取引先から不具合の連絡が来たよね。」「納めた品物に、異物が入ってたって。」「その後に、工場を見に来る検査があって、そこで出した報告書を、聖書したのも、私だよ。」**父の顔が、変わった**私は、続けた**「品物に、金属の削りカスが混ざってた。」「原因は、3つ書かれてた。」「1つ、床に油と削りカスが溜まっていること。」「2つ、油の煙を吸う機械の手入れができていないこと。」「3つ、その機会をいつしたか、記録が出せないこと。」「『直します』って報告を出したよ。」「3ヶ月後に、また見に来られて、同じ3つを、また書かれた。」「その次の契約で、数のまとまった量産の仕事が、先に切られて、そのまた次の年に、残りも切られた。」「単価の話も、人の話も、あったよ。」「でも、これだけは、うちが自分で作ったの。」**母が、「あなた、そんなこと」**と言いかけた**は、答えなかった**私は、父から目を離さずに言った**「1度に落ちたんじゃないよ。」「何年もかけて、じわじわ落ちたの。」「その数字を、私が毎月正面に書いて、年ごとに、ここへまとめてた。」「掃除の会社が入っていた、最後の年と、を、去年と並べて読んで、半分より下だよ。」「人が減ったから、仕事が減ったんじゃない。」「仕事が減ったから、人が減ったの。」**言っておくけど、父は手帳を見ようとしなかった**私は、手帳を閉じた**「お父さん、『この家の飯を食ってきたんだろう』って言ったよね。」「食べたよ。」「その代わり、高校1年の春から、家を出るまで、土曜の朝は全部、あの工場の事務所にいた。」「給料は、1度も出てない。」「あの時、私はこの計算を口にする言葉を持ってなかった。」「今は、持ってる。」**父は、組んでいた腕をほいて、また組んだ**「掃除を辞めたことを、責めてるんじゃないよ。」「外中を辞めるかどうかは、社長が決めることだから。」「金がないなら、削るしかない。」「そこは、せめてない。」**父が、口を開いた**開いたまま、何も出てこなかった**「私が言ってるのは、そこじゃない。」「人を怒鳴って、道具を蹴って、4ヶ月分の代金を払わなかった。」「その上で、それを14年、なかったことにしてきた。」「そっちだよ。」「14年前だけじゃないよ。」「去年、あの油の床で1人が滑って、手首を折った時も、お父さんは原因の欄に『本人の不注意』って書いた。」「床の油のことは、一言も書かなかった。」「やり方は、何も変わっていない。」**姉の方を向いた**「お姉ちゃん、『底辺』って言ったよね。」**姉が、目をそらした**「その底辺の人たちが、毎朝吹いてたのは、伊さんが千番の前に立ってる、あの工場の床だよ。」「意味、わかんない。」「床の話だよ。」**私は、自分の足元を刺した**「床に油と削りカスが溜まってると、機械の周りを圧縮空気で吹いて掃除するたびに、それが舞い上がるの。」「待ったのが、削ったばかりの部品の上に降りる。」「油で濡れた床を踏んだ靴と、代車が、削りカスを製品沖場まで運ぶ。」「寸法は合ってるのに、傷がついてる。」「ゴミが入ってるって、突き返されるの。」「うちの工場は、14年かけて、自分で自分の足元を汚したの。」「誰かに潰されたんじゃない。」「やめるなら、うちの誰かが、毎日その油を取らなきゃいけなかった。」「雑巾1枚あれば、できたことだよ。」「うちは、やめただけで、代わりを置かなかった。」「しかも、怒鳴って追い出したから、後から頼み直すことも、できなくなった。」「吹き方を知っている人を、自分で帰らせたんだよ。」**姉は、何も言わなかった**父も、何も言わなかった**私は、鞄からあの神を出した**父の前ではなく、鍛原さんの前に、置いた**「これ、14年前の4月18日に、あなたたちがうちに持ってきた紙です。」「『作業中止のご報告』と書いてあります。」**鍛原さんが、膝を折って、目の高さを紙に合わせた**私は、鍛原さんに向かって続けた**「実家の父が、受け取らなかったので、受付台に残りました。」「それを私が、引き出しにしまって、14年、持っていました。」**鍛原さんが、顔をあげた**「受付にいらした、お嬢さんですか? 」**私は頷いた**鍛原さんは、紙に触れずに、上から順に読んだ**3つの署名のところで、指が動きかけて、止まった**「これは、控えでは、ありません。」「あの日、私どもがお渡しした、原本です。」**声が低くなっていた**「書類の上では、お渡しできなかったことになっておりました。」「反をいただけませんでしたので。」「ですが、その原本が、14年、う木さんのオタクに残っていた。」「受け取らなかっただけで、確かに、その手の前まで、届いていた、ということです。」**それだけ言って、鍛原さんは、切を伸ばした**西野さんが、大腸を開いて、理由の欄に、指を置いた**「それで、14年前に何があったのかが、確かになった。」「誰が誰を訴えるわけでもない。」「ただ、もうなかったことには、できない。」**「まほ。」**母が、私の名前を呼んだ**声が、少し高い**「あんた、いつから、そんな風になったの?

」「前の私は、何も言わなかっただけ。」「中身は、同じだよ。」**「お母さん、1つだけ言っておく。」「私、あの通帳のお金には、1円も手をつけてない。」「通帳? 」「うん。」「いくらあるの? 」**言うつもりはなかった**それでも、言った**この人が、最後まで何を見ているのか**それを、この場の全員に見せておきたかった**「9000万。」**母の目が、開いた**姉も、を顔をあげた**「9000万? 」**母は、口の中で**「9000万」**ともう1度言った**「1円も使っていない」**のところは、聞いていなかった**私は、もう1度言った**「1円も、使ってないよ。」「使う気もない。」「その口座は、僕の名義のままです。」**ゆトさんが続けた**「まホさんに何かあっても、そちらへは、1円も行きません。」**私は、続けた**「あのお金はね、お父さんが払わなかった60万円を、1度も怒鳴り込まずに、請求所だけ送ると決めた人がいる。」「その人が、残したお金だよ。」「そういう人の、残したお金で、私は暮らしてる。」**「では、こちらからも。」**ゆとさんが、立ち上がった**「お父さん、先ほどの、お答えは変わりません。」「下受けも、取引先も、お金も、お回しできません。」「お母さん、老後のことを、お考えのようですが、うちに、秋部屋はありません。」「4つのうち、1つは、亡くなった僕の父の、仏壇の部屋です。」「1つは、仕事の書類で、床まで埋まっています。」「1つは、僕とまほさんの寝室で、残りの1つが、今です。」**母の顔が、固まった**「それと、毎月3万円の、お話です。」「そういうお話があったことは、まほさんから聞いています。」「ですが、出したい、という相談は、1度もありません。」「断ったんだと思います。」「断ったのなら、それが答えです。」**「それから、お姉さん。」**姉が、背筋を伸ばした**まだ、望みを捨てていない顔だった**「僕がお姉さんにお会いしたのは、まほさんを迎えに行った日が、最初です。」「円談の席で、お会いしたことは、1度もありません。」「でも、話は私に来ていて。」**その時、大雪室の扉が開いた**小柳さんだった**「遅くなりました。」「そ馬さんに、呼んでいただいて。」**小柳さんは、姉の方を見ずに、ゆトさんへ頭を下げ、それから席についた**「れナちゃん、お断りのお返事を、受けたのは、私よ。」**姉が、**「小柳さん」**と言った**「あなた、写真だけ見て、釣り書きを畳に押し戻したわね。」「私は、目の前にいたの。」「あれは、その、その時、何とおっしゃったか、私は覚えてます。」**小柳さんは、それ以上言わなかった**言わないことで、う木の3人が、その言葉を思い出した**「お姉さん、円談は、断られた時点で、終わっています。」**ゆトさんが言った**「その後で会って、選んだのは、まほさんです。」「順の話では、ありません。」**姉はしばらく、自分の膝を見ていた**それから、誰にともなく言った**「私、写真しか見てない。」**声が小さかった**「1分も、見てない。」「目に入ったのは、あの人の顔と、『清掃業』っていう職業のラだけ。」**姉が、顔をあげた時、その目は、誰も見ていなかった**壁の一点を、見ていた**3月のあの日に、自分が何をしたのか**姉は、そこで初めて、それを数え始めたのだと思う**感情が合わない、という顔だった**私は、3人の方を向いた**「私は、今まで、お姉ちゃんの代わりなら、何でも受け入れてきた。」「でも、この結婚は、あなたたちの、お下がりじゃないよ。」「畳に押し戻した紙は、押し戻した人の手を離れてるの。」「そこから先は、私が自分で選んだ人生だよ。」**私は、姉を見た**「お姉ちゃんが置いていった、緑の髪も、まだ実家の座宅にあるよ。」「誰も、片付けてない。」**母が、泣き出したのは、その後だった**「ひどい。」「いらないものみたいに言って。」「私たちは、親なのに。」「うん。」「まほ、あんた、親を捨てるき?

」**私は、母を見た**31年、この言葉が出てくるたびに、私は黙ってきた**その日は、黙らなかった**「捨てたのは、そっちだよ。」「ずっと。」**母の鳴き声が、止まった**「机も、制服も、自転車も、私は『いらない』って言われたものを、もらってきた。」「土曜の朝も、会社の正面も、全部、こっちに回ってきた。」「お母さんが『うちの子』っていう時、そこに私は、入ってなかった。」**「それともう1つ。」**3人を、順番に見た**「私は、誰も潰さないよ。」「潰す必要が、ないから。」「お父さんの会社は、私が何かしなくても、このままだと、苦しいままだよ。」「14年前に、この家が追い出したのは、床を綺麗にする人たちだった。」「追い出して、代金も払わなかった。」「あなたたちは、自分で手放した分だけ、自分で仕事を失っただけ。」**母が、最後の交渉をした**「じゃあ、あれだけでも、この方のところで、働かせてもらうとか。」「お母さん、ジムでいいのよ。」「れナは、奇妙な子だから。」**「お姉さんは、うちの社員を、『下働き』と言いました。」**ゆトさんが答えた**「その言葉を、この部屋にいたものが、全員聞いています。」「うちの現場は、そういう人たちで、回っています。」**父が、1度だけ、私の名前を呼んだ**「魔ホ。」「何? 」「17の時から、持っとったと、この間言ったな。」「言った。」「なんで、その時に言わんかった? 」**私は、父を見た**この人は、最後まで、自分ではなく私の落ち度を探している**「言ったら、お父さんは、どうしてた? 」**父が黙った**「捨てたよね。」**父は、答えなかった**答えなかったことが、答えだった**「だから、言わなかったんじゃないよ。」「言えなかったの。」「あの家では、私の言うことは、来ていないことになるから。」**長い沈黙の後で、ゆとさんが言った**「1つだけ、お伝えできることが、あります。」**父が、顔をあげた**「3つのお答えは、変わりません。」「ただ、掃除と、機械の手入れを、人に頼むおつもりがあるなら、それを引き受けられる会社を、一社だけ、お教えします。」「うちより、小さい会社です。」「うちの仕事は、1円も増えません。」「先に、14年前のことは、全部お伝えします。」「その上で、受けるかどうかは、あちらが決めます。」**「なぜ、そんなことを?

」「あの工場で働いている方が、6人いらっしゃるからです。」**父の肩が、下がった**ゆトさんは、頭を下げた**「14年前、うちの父が、5年吹いて、最後に頭を下げに行って、追い返された、工場の床です。」「うちは、もう入りませんよ。」「よその会社に、お願いします。」**父の目の先に、鍛原さんの前に置かれた、あの紙があった**「60万円は、今更、その紙を受け取って、済ませる話じゃないよ。」「払うべきだった相手は、相馬清掃だよ。」「そのお金で働いていたのは、鍛原さんと、久保田さんと、ゆトさんのお父さんなんだから。」**父は、何も言い返さなかった**ただ、膝の上に置いた、自分の手を見ていた**。帰りの車の中で、私はしばらく、何も喋れなかった**運転席のゆトさんも、何も聞かなかった**信号で止まった時、ゆとさんが前を向いたまま行った**「まほさん。」「はい。」「入籍した日の夜に、まほさんが頼んだ、お金です。」「あの1万円、まだ残ってますか? 」**。あれから半年が過ぎ、3月になった**実家のことは、おばのく子さんから伝え聞くだけだ**小柳さんは、あの家に、もう円談を持っていかないと決めたらしい**町内の話を1番回す人が黙れば、話は回らなくなる**姉は、また別の相談所に登録したが、会う相手に勤務め先と役職ばかり聞くので、続かないという**あの水曜、姉は自分が何をしてたのかを、数え始めた**ただ、数え終わることはなかったのだと思う**人を肩書きでしか見ないやり方が、まだ変わっていないからだ**近所の店で働き始めて、1月も持たなかった**姉が置いていった、緑の髪の行方は、誰も言わない**捨てると決めたものは、あの家では誰も数え直さない**母は、会社のを自分でつけるようになったそうだ**「事務は苦手だ」と言い張っていた人が、老眼鏡を、家と事務所に1つずつ買った、という**老後の話は、もう誰もしない**父は、ゆとさんが教えた会社と、話をした**断られると思っていたが、受けてもらえたらしい**入るのは、週に2日、床の油だけ**それでも、前より滑らなくなった、と伊さんが言っていた**会社は、残った**の受中は戻らず、今は試作でついでいる**14年前の見い分60万円は、父が要和総合メンテナンス側へ支払った**4回に分けて、4ヶ月かかったそうだ**「入金がありました」と鍛原さんから聞いただけで、父からは何も聞いていない**14年遅れて、あの請求が終わった**誰も、理不尽潰れなかった**自分たちが捨てたものを、取り戻せなかっただけだ**おばのく子さんは、電話の最後に、いつも同じことを言う**「まほちゃん、あんたが悪いんじゃないからね。」**そう言われるまで、自分が悪いのだと、31年思っていた**私は、派遣の契約を更新した**更新の神に名前を書いていると、矢島さんが後ろから覗き込んだ**「やっと、自分の名前ね。」「苗字は変わりましたけど、そこじゃないでしょう。」**名前は、う木から相馬に変わった**どちらも、私が選んだものではない**でも、「魔ホ」という名前だけは、生まれた時から1度も変わっていない**父が病院の廊下で、5分もかけずに決めた名前だ**「まっすぐなほ。」**は、自分では風を起こせない**それでも、どちらを向くかは、自分で決められる**31年かかって、そのことに気づいた**. 先週、私は通帳を、ゆとさんに返そうとした**「9000万円なんて、やっぱり無理です。」**ゆとさんは、味噌汁を予う手を止めて、こちらを見た**「じゃあ、1万円だけ、使いますか?

」「それでも、多いです。」**2人で笑った**ゆトさんが声を出して笑うのを聞いたのは、暮らし始めてから、数えるほどしかない**私は、湯みを両手で持って、一口飲んだ**「まほさん。」「はい。」「あの日、まほさんが、僕の仕事を笑わなかったから、結婚したいと思いました。」「はい。」「お金じゃなくて、そこを見てくれたから、僕は1度も、あなたを、誰かの代わりだと思ったことが、ありません。」「はい。」**私は、湯みを置いて、行った**「入籍した日の夜の、あの1万円、残ってましたよ。」「あの日、車の中で聞かれてから、半年、私はその返事をしていなかった。」**ゆとさんは、頷いた**「あれっきり、もう1度は、聞かずにいました。」「あれが、うちに来てから、あなたが自分から欲しいと言った、最初のものでしたから。」**そう言われて、初めて気づいた**私は、この家で、何も欲しがっていなかった**その1万円を、私は使った**駅前の和菓屋で、貸折りを3つ買った**さんが実家へ挨拶に来た日に、持ってきたのと同じ箱だ**1つは、鍛原さんに、1つは、久田さんに渡すつもりだった**会社の玄関で、2人に会えた**久保田さんは、わざわざと、頭を下げた**私は、箱を差し出していった**「あの日、実家の父に止められて、お出しできなかった、お茶菓子です。」「14年遅れましたけど、受け取ってください。」**久保田さんは、しばらく箱を見て、それから鍛原さんの顔を見た**2人は、何も言わなかった**残りの1つは、ゆトさんが持って帰り、仏壇に先行をあげて、その前に置いた**「父の金を、預けてある講座です。」「そこから、やっと金が出ました。」**ゆトさんが、遺に行った**「1万円だけですけど、やっと使い始められました。」「9000万円の元金には、ほとんど手をつけていない。」「使い道だけは、決まった。」「会社が出す決まりの献診とは別に、70を超えて現場に立つ人たちの、人間ドッグと、腰と膝を守る道具。」「正面は、私がつける。」**ゆとさんが言った**「会社からは、1円も出しません。」「これは、父の金です。」「父と同じ仕事をしている人に返すなら、文句は言われません。」**今朝、裕トさんは3時に出ていった**玄関のどまに、作業の跡が乾いていた**私はそれを拭いてから、靴を履いた**この人の会社では、明日もどこかの建物で、誰かが人の来ない時間に、床を吹いている**誰も見ていない場所から、順に建物は崩れる**手が入っているから、次の日に人が困らずに住む**そういう仕事を「底辺」と呼んだ人たちが、私の家族だった**姉の代わりに押し付けられた結婚だと思っていた**でも、私にとっては、姉が写真を裏返した、あの日から、やっと代わりじゃない人生が始まったのかもしれない**これからは、自分の名前で、選んでいきたい**。