「彩子をミクの身代わりとしてあいつに差し出そう。」
父が放ったその言葉に、私は声も出なかった。小さい頃から私は家族の中で「奴隷」のように扱われてきた。両親の愛情はすべて妹のミクに向けられ、私の存在はまるで空気のようだった。
ミクが結婚したいと言われた相手は、なんと警備員のアルバイトをしているという五十代の男性。ミクは当然のように拒否した。しかし、ミクには絶対に世間に知られてはいけない秘密があった。彼女の美しさは、すべて整形によるものだったのだ。
両親はミクを守るため、私に身代わりになれと言った。
「そんなことしても、籍で別人だってバレるわよ。」
「それなら、お前がミクだということにしておけ。」
父の無謀な考えに、ミクも母も「お父さん頭いい!」と褒め称えた。私は従うしかなかった。これまで何度も逆らおうとして、そのたびに父の暴力に屈してきたのだ。恐怖心が私の心を壊してしまっていた。
結婚してからの生活は、私の想像を大きく覆すものだった。入籍当日、スーツ姿の夫・吉川英作は紳士的で、驚くほど優しかった。タクシーで迎えに来てくれた先は、都内でも有名な高級マンション。警備員のアルバイトで住めるような場所ではない。
そして、翌朝。バス停でバスを待つ私の前に、一台のベンツが止まった。
「送っていくよ。」
後部座席の窓から顔を出したのは夫だった。
「警備員の他に仕事をしてるの?」
「君は俺が警備員のアルバイトをしていると思っているんだね。」
「違うの?」
英作は豪快に笑った。
「まあ、当たってるかな。実は俺、大手警備会社の社長なんだ。」
あの日、彼が警備員の制服を着ていたのは、自社が開発した警備システムの動作確認のためだったという。自分が嫁いだ相手が大企業の社長だと知り、私はまた不安に駆られた。ミクの身代わりだとバレたら、この優しい夫に嫌われてしまう。それでも、騙し続けるのは嫌だった。
「実はね、私、ミクじゃないの。」
勇気を振り絞って打ち明けると、英作はケラケラと笑った。
「知ってるよ。僕が結婚したいと思ったのは、最初から君の方だったんだ。」
彼は以前、私がバス停で体調の悪そうな高齢者を献身的に介抱している姿を見かけたのだという。そして、私が履いていた運動靴に書いてあった名字から実家を突き止めたらしい。
「ミクさんが整形クリニックから出てくるところを見たって言ってたけど…。」
「何のことだ?全く記憶にないな。」
私の心から、長年の不安が溶けていくようだった。それからの毎日は夢のような日々だった。英作は私を否定しない。ありのままの私でいいと言ってくれる。その言葉を聞くたび、私は幸せに包まれた。
一ヶ月後、ミクが整形クリニックから出てくる様子を捉えた画像がSNSに流出した。天然美人を売りにしていたミクのフォロワーたちは裏切られたと大炎上。ミクと両親は、投稿した犯人は英作だと決めつけ、私たちのマンションに乗り込んできた。
「改めて、警備会社社長の吉川英作です。」
英作が名刺を差し出すと、父は「俺たちを騙したのか!」と激怒した。しかし、そもそも最初に名刺を確認もせず破り捨てたのは父自身だ。
「お姉ちゃんは昔から傲慢で、私のものを何でも奪った。その上、幸せまで横取りするなんて!」
ミクは嘘泣きを始めたが、英作は動じなかった。
「僕の目に狂いはなかった。彩佳は本当に素晴らしい女性だ。」
両親は納得できないと抗議したが、英作は近所で聞いた本条家の悪い評判も話し出した。同じ家に育った姉妹なのに、ミクは傲慢で嘘つき、近所でも悪い噂が絶えないらしい。
その時、ミクのスマホに通知音が鳴った。SNSに、ミクの個人情報と整形前の写真が掲載されたのだ。投稿したのは、ミクのことをよく思っていない多くの女性たちだった。
「分かったら帰ってちょうだい。」
「ふん。いいわよ。整形してたって、私を愛してくれる王子様はいるのよ!」
ミクは、学生時代にSNSで知り合ったイケメン実業家の匠と結婚が決まっていると自慢してきた。匠からは「君の笑顔で生きる勇気が湧いた。結婚してほしい」というメッセージも届いているらしい。
「お姉ちゃん、悔しいでしょ?」
そう言い残して、ミクはマンションを後にした。しばらくして、マンションの前に一台の軽自動車が止まった。運転席には初老の女性。後部座席には小太りの男性が笑顔を浮かべている。
「やあ、君を迎えに来たよ。」
「は、あんたなんか知らないわよ!」
「僕が匠だよ。迎えに来てって言っただろ?」
匠は大学卒業以来、自宅警備員という名の無職だった。SNSのプロフィール画像のイケメン写真はAI生成で、軽自動車を運転していたのは匠の母親。息子を励ましてくれてありがとう、とミクに感謝していた。
「そんなの詐欺じゃない!」
怒り狂ったミクは、匠を無視して両親と共に家に帰っていった。その後、ミクの動画配信は暴言に整形疑惑が加わり、男性ファンが大量に離脱。収益も激減してしまった。さらに、ミクの本性が次々とネットに書き込まれ、SNSで出会った男性を渡り歩いても、性格の悪さにすぐに追い出されてしまった。
困り果てたミクは住み込みの仕事に就いたが、前払いができることをいいことに浪費しまくり、今では借金返済のため休みなく働いているらしい。
ある日、両親が私の元を訪れてきた。
「今後のことなんだけど、少しでいいから生活を助けてくれないか?」
「私はもう吉川家に嫁いだ。助ける義理なんてないわ。」
両親が「私たちは家族でしょ」と言う。その言葉に、私は嫌悪感が湧き上がった。
「自分たちの都合が悪くなったからと言って、家族だと主張するの?私はこれまで家のために、ミクのために散々尽くしてきたわ。これ以上、私の人生を邪魔して欲しくないの。」
「親に向かって、その言葉はないだろう!」
「親?私にとって親と呼べるのは、おばあちゃんだけよ。」
私は、ミクも含めた三人との縁を切ると告げ、両親を追い返した。その後、実家には匠が毎日のように現れ、ミクに求婚しているらしい。ミクは逃げるように毎日遊び歩き、仕事にも就かず両親に小遣いをせびり続けた。ついに父の堪忍袋の緒が切れ、ミクは家を追い出されてしまった。
私はその後、派遣の仕事を辞め、夫の警備会社に転職した。秘書として働きながら、夫を支えている。これまで鍛えられた家事スキルを生かし、会社の環境改善にも努めた。私が来て以来、会社は明るくなり、女性の入社希望者も増えたのだ。
英作との生活の中で、私はようやく自分を取り戻すことができた。自分の意見を素直に言えるようになり、どんな意見も英作は受け止めてくれる。もう何も我慢しなくていい。この幸せは、ある意味ミクたちのおかげかもしれない。そう思えるようになった今、私は今日も笑顔で足を踏み出す。



