机に置かれた熱々の味噌汁を、息子の嫁は勢いよく掴み、そのまま私に投げつけてきた。
「私のすることに文句をつけるなんて、何様のつもり?田舎者のババアが生意気なのよ。気に入らないならさっさと出て行きなさいよ。この家はもう私のものなんだから。もし出て行かないなら、こっちにも考えがあるわよ。」
味噌汁は見事に私の頭にかかり、だらだらと顔を伝って落ちていく。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか。
しばらく前まで、私たちの同居生活は順調そのものだったのに。
「どう?これで分かったでしょ?もうこの世にあなたの味方は一人もいないのよ。分かったらさっさと出て行きなさい。」
ちょうど半年前に夫を亡くしたばかりの私に、息子の嫁はそう宣言したのだ。
「出て行け。」
私は味噌汁をかけられたことさえ忘れて、絶望に打ちひしがれた。
「た、出て行かないなら、後悔するわよ。」
彼女は少し考えた後、にやりと笑った。
そう、私は後悔することになる。それから、私の地獄が始まった。
私の名前は直子。今年で60歳になるパート社員だ。近所のスーパーマーケットでレジ係として働いている。一人息子の雅人が独立してからは、夫の大輔と二人で慎ましくも仲良く暮らしていた。
雅人は幼い頃から見えっ張りな性格で、自分を良く見せようと嘘をつくことが多かった。例えば、担任の先生にテストの点数を褒められたとか、何人もの女の子に告白されたとか、そういう類の嘘だ。私は雅人が嘘をついていることに気づくたびに叱り、「嘘をついてはいけません」と言い聞かせてきたのだが、本人はいつもどこ吹く風といった様子で、懲りることはなかった。
そんな雅人は大学卒業と同時に、生まれ育った地方の町から都会へと出て行った。「こんな田舎で一生過ごすなんて耐えられない」と言って出て行ったものだから、夫はすっかり怒っていた。その後、私が雅人に連絡をしても、ほとんど無視されて返事はない。そのことを夫に相談しても、「あいつのことはもう放っておけ」と呆れているようで、どうにもならなかった。
私は納得がいかないと思いつつも、「親の心、子知らず」ということわざを信じて、今日までやってきたのだった。
夫と二人での暮らしは悪くなかった。しょっちゅう旅行をするわけでも、会話が多いわけでもないが、それでも二人で支え合って生活できるだけで、私は幸せを感じていた。
しかし、そんな時間も長くは続かなかった。夫が突然体調不良を訴え、病院へ運ばれたのだ。緊急搬送された時には意識がなく、そのまま帰らぬ人となってしまった。
あまりにも突然の出来事で、信じられなかった。しかし、夫が亡くなったのは紛れもない事実だ。驚愕している気持ちとは裏腹に、私は淡々と葬儀の準備をしていた。
葬儀場が決まり、夫の知り合いやお世話になった職場に連絡をしているうちに、ふと気がついた。
そうだ。雅人にも伝えなければ。
私は数年ぶりに雅人へメールを送った。「懸命にお父さんが亡くなりました」という文章を入れたのできっと返信くらいはしてくれるだろう。そう思っていると、電話がかかってきた。
「もしもし。雅人?久しぶりね。ありがとう、電話してくれて。」
私がそう言うと、雅人は静かに「父さんが亡くなったって?」と尋ねてくる。
「そうなのよ。明日お通夜なんだけど、帰って来られる?お父さんに最後のお別れをしてあげて。」
雅人は言葉に詰まったようだったが、結局は仕事を休んで帰ってきてくれることになった。もしかしたら帰ってきてくれないどころか返事もないかと思っていたので、私は少しほっとした。
そして翌日、雅人が帰ってきてくれた。
「母さん、ただいま。」
「雅人、お帰りなさい。」
しかし、そこにいたのは雅人だけではなかった。
「初めまして。私、恵と言います。」
誰なのか分からずに私は困惑した。どう対応しようか迷っていると、雅人が口を開いた。
「恵は俺の嫁さんだよ。ちょっと前に結婚したんだ。」
予想だにしていないその言葉に、私は「えっ?」と声をあげてしまった。
「そうなんです。もっと早くにご挨拶したかったんですけど、すみません。」
恵さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
連絡が取れない間に、まさか結婚しているとは思わなかった。しかし、あの雅人が家庭を持ったというのはめでたいことだ。
「いいのよ。何か理由があったんでしょ。さ、そろそろ家を出ないとね。詳しい話は後でしましょう。」
私がそう言うと、二人とも深く頷いたので、三人揃って葬儀場へ移動した。
その後、無事にお通夜が終わり、翌日の葬儀も滞りなく終了した。夫はたくさんの人に慕われていたようで、多くの参列者が訪れた。夫が他界したのはもちろんとても悲しいが、いいお葬式になったと思う。
自宅でようやく一息ついた頃、雅人が奇妙な申し出をしてきた。
「この家で同居しないか。父さんが亡くなって母さんは一人だろう。心配なんだよ。だから今の仕事をやめて、こっちで一緒に暮らそう。」
「えっ?あんなに田舎臭くて嫌だって言ってたのに。」
「私のことは心配しなくても大丈夫よ。何とでもやっていけるわ。」
正直に言うと、嬉しい申し出だった。また息子と一緒に暮らせるなんて思ってもみなかったからだ。でも、恵さんはきっと都会で、義母とは無縁でいるのが幸せなのではないか。そう思うと、すぐに賛成はできなかった。
すると、恵さんは私の心を読んだかのようにこう言ったのだった。
「心配しないでください。私たちの間でしっかり話し合いました。実は私には父と母がいないんです。だから代わりと言ってはなんですけど、お母さんに親をさせて欲しいんです。」
この時、私は夫が亡くなってから初めて涙を流した。ずっと我慢していた悲しみが、止めどなく溢れ出てきたのだ。
「そんなに私のことを考えてくれてたなんて。ありがとう。これからは三人で支え合っていきましょうね。」
私が同居を了承すると、雅人と恵さんはにっこり笑った。
それから半年後、私たちは同居を始めた。雅人は勤めていた会社をやめ、こちらで就職活動をしている。毎日いろんな会社へ面接に行っているようで忙しそうだ。恵さんは家から少し離れたところにあるホームセンターでパートを始めた。それまでは専業主婦をしていたようで、久しぶりに働くのが楽しいと笑顔を見せていた。私も少しの間休んでいたスーパーマーケットでのパートを再開し、それなりに忙しい日々を送っている。
家事は三人でしっかり分担し、トラブルも心配事もない順調な同居生活を送っていた。
息子夫婦と同居を始めてから数ヶ月が経った頃、その日は私が食事当番だったので、カレーを作っていた。私はカレーにとてもこだわりがあって、基本的にスパイスから作るタイプだ。しかし、自宅にまだ残っていると思っていたスパイスが切れてしまっていた。一応市販のカレールーも常備してあるので、そちらを使えば問題はないのだが、どうしてもスパイスから作ったカレーが食べたかった私は、買いに行くことにしたのだった。
私は電車に乗って、そのスパイスが置いてある店に向かった。その店はターミナルに近い商業ビルの中にあるので、いつ行ってもその周辺には人が多い。この辺りでは一番栄えているので、必然的に人が集まってくるのだろう。知り合いと会うこともよくある。今日も誰かと会うかもと思いつつスパイスを購入し、店を出た。
すると、大きな通りから少し奥まった道に入っていく男女の姿が目に入った。なんとなく見たことがある人だ。そう思ってじっと目を凝らすと、なんとそのうちの一人は、恵さんだった。
見知らぬ男性と、仲むつまじい様子で腕を組んでいる。
心臓が飛び跳ねるくらい驚いた。恵さんは今日、パートに出ているはず。それに、なぜ知らない男性とあんなにくっついて歩いているのだろう。いろんな疑問が頭の中をぐるぐる回る。そうしているうちに、二人は姿を消してしまった。
見間違いだったのだろうか。それとも浮気?
もやもやした気持ちを抱えながら、私はひとまず家に着いた。その日の夕方、恵さんはいつもと変わらない様子で帰宅した。私が作ったカレーを食べて、「いつも通り美味しいです」と笑顔を見せる。私も取り繕って、いつも通りに振る舞った。
しかし、いつまでもこのままではいられない。白黒はっきりさせておきたい。そう思った私は、いけないこととは理解しつつも、恵さんが寝たのを見計らって、彼女のスマホを覗き見ることにしたのだった。
結果は黒だった。ネットの広告でよく見るマッチングアプリのアイコンを、恵さんのスマホ上に見つけた時は目眩がした。LINEでもやり取りをしていたようで、デートの約束やカップル同士の会話のような文面が随所にあった。
恵さんは浮気している。そう確信はしたのだが、それを雅人に伝えるべきかどうか、とても悩んだ。同居しているとはいえ、これは夫婦で乗り越えるべき問題だろう。そう考えた私は、首を突っ込むべきかどうか悩み、しばらく様子を見ることにした。
しかし、このまま黙って見過ごすこともできないという結論に至ったので、ひとまず恵さん本人と話すことにしたのだった。
「恵さん、あなた、何か隠し事をしてない?」
雅人が帰ってこないお昼ご飯の時間帯を選んで、私はそう切り出した。味噌汁の入ったお椀を机に置いた恵さんは、一瞬不思議そうな顔をして、それから笑顔を浮かべる。
「急にどうしたんですか?隠し事なんてありませんよ。」
「正直に答えなさい。あなた、浮気してるでしょう。」
私がずばりそう指摘すると、恵さんはますます反抗的な態度になった。そして、こう言ったのだった。
「なんだ、分かってたんですね。そうですよ、私は浮気してます。でも、だから何ですか?」
言い訳をするどころか、恵さんは開き直った様子だ。
「すぐに浮気をやめなさい。そしたら今回のことは水に流しましょう。雅人にも黙っていてあげるから。」
私がそう言うと、恵さんは露骨に嫌な顔をして、はっと睨みつけた。そして、机に置かれた味噌汁が入ったお椀を取り、その勢いのまま私に投げつけてきたのだった。
味噌汁は見事に私の頭にかかり、だらだらと顔に流れてくる。この出来事に衝撃を受けた私は、つい「ぬるくなってて助かったな」と現実的なことを考えてしまう。
恵さんはふんっと鼻を鳴らし、とんでもないことを言い放つ。
「私のすることに文句をつけるなんて、何様のつもりなの?田舎者のババアが生意気なのよ。気に入らないならさっさと出て行きなさいよ。この家はもう私のものなんだから。もし出て行かないなら、こっちにも考えがあるわよ。」
それだけ言うと、恵さんは夫婦の寝室に閉じこもってしまった。
まさか恵さんがこんな人だったなんて。同居なんてしなければ良かった。でも、彼女の言う通り、この家を出て行くなんてことはできなかった。
次の日から、恵さんは私を追い出すために様々な嫌がらせを始めた。私のご飯にだけ大量の塩を入れたり、私の洋服だけ洗った状態で放置したりするなど、一つ一つは小さいが、絶妙に嫌なことをしてくるのだ。私が驚いたり、嫌な顔をしたりすると、恵さんはすっと近寄ってきて、「早く出て行け」と凄んでくるのであった。
そんなことが数日続き、我慢できなくなった私は、雅人に相談をすることにした。
「雅人、気づいているでしょう。最近、恵さんが私に嫌がらせをしてくるのよ。どうにかしてくれない?」
出かける前の雅人にそう話を持ちかけると、彼は信じられないことを言い始めた。
「恵が?まさか。もし本当に恵がそんな嫌がらせをするなら、それは母さんが悪いんじゃないか。」
「そんなわけないでしょ。そもそも根は…」
恵さんの浮気のことを暴露してやろうと思ってそこまで口にしたが、雅人は「後で」と言って、最後まで聞かずに家を出て行ってしまった。
その日を境に、なんと恵さんだけでなく、雅人まで嫌がらせを始めたのだった。それまで渡してくれていた生活費を一円も出さなくなったり、分担していた家事を全て私に押し付けてきたりと、これまでの順調な同居生活を根底から崩すようなことばかりし始めた。
「どう?雅人さんは私の味方よ。あなたの味方はもうこの世に一人もいないの。」
「安心してくれよ、母さん。母さんが出て行ったら、この家は俺たちが有効に使ってやるからさ。」
二人ともお互いの顔を見合って、げらげらと笑った。親族も私を馬鹿にしているようだ。恵さんはまだしも、実の息子にここまで馬鹿にされるなんて。
「さっさと出て行け。」
私は肩を震わせた。そして、「分かりました。出て行きます」と小さな声で呟いた。
それから私はすぐに荷物を旅行用の鞄に詰めた。
「それじゃあ、元気で。」
私はそれだけ言って、家を出たのだった。
それから一ヶ月が経った頃、私は不動産屋を営んでいる友人に紹介してもらった小さなアパートで、一人暮らしを始めた。夫の遺影と一緒だ。先日まで住んでいた家と比べれば随分と小さいが、これから一人で生きていく私には十分な広さだった。
「買い物に行かなきゃね。」
夫の遺影にそう声をかけて立ち上がると、スマホに着信が入った。液晶画面に映し出されたのは、「雅人」という文字だった。
「そうか。そろそろか。」
私は深呼吸をしてから応答した。
「おい、騙したな。絶対に許さないからな。」
雅人の怒声が響く。近くに恵さんもいるようで、うっすらと声が聞こえてくる。
「一体何のこと?とぼけないでくださいよ。」
「とぼけんじゃねえよ。この家がなくなるってどういうことだよ。なんか変な男たちが来て、『来週には引っ越してください』とか言ってきたんだぞ。わけわかんねえ。」
そのあまりの慌てぶりに、私は思わず吹き出してしまった。
「ああ、そのこと。別に騙したつもりはないわよ。言ってなかっただけ。実はお父さんが元気な時から立ち退きを求められていたのよね。新しい道路を作るとか、デパートを作るとか言ってたわね。良かったじゃない。この田舎町も都会みたいになるのよ。」
雅人ははっと息を飲んだ。
「そ、それで俺の実家を売ったのかよ。立ち退き料欲しさに。」
その言葉を聞いて、私はつい声を荒げてしまった。
「立ち退きたくなかったに決まってるでしょ。あんたがもし帰ってきたいと思った時、帰ってくる場所がないなんて可哀想じゃない?だから立ち退きたくなかったけど、あんたたちが私を追い出して身勝手なことばかりするなら話は別よ。あんたたち夫婦に渡すくらいなら、デパートにでも道路にでもなった方が世のため人のためでしょう。」
ようやく自分たちの立場を理解したようで、雅人は焦り始めた。
「そんなこと言わずにさ、母さんごめん。また一緒に住もう。まだ立ち退き工事は始まってないからさ。お金を返せば間に合うよな。ほら、恵も謝れよ。」
雅人の言葉に促され、恵さんが電話口に出る。
「お母さん、ごめんなさい。意地を張らないで、また一緒に楽しく暮らしましょう。」
「悪いけど、お金はもう使ったわ。それに、あんたたちみたいな嘘つき夫婦とは暮らせないに決まってるでしょう。馬鹿にしないで。」
恵さんの隣で話を聞いていたであろう雅人が、電話を代わる。
「じゃあ、どうしたらいいんだよ。せっかくこの家を俺たちが売って、借金返済の足しにしようとしてたのに。」
そこまで言って、雅人はごもごもと口ごもった。口が滑って、言うべきでないことまで言ってしまったようだ。
そう。雅人夫婦は、同居する前からあの家の乗っ取りを計画していたのだ。二人とも金遣いが荒く、我慢の効かないわがままな性格なので、いろんな仕事を短期間でやめまくっていて、お金がなかったらしい。家賃は滞納していて、借金も抱えている。どうしたものかと考えている時、夫の死の知らせが飛び込んできた。その後は、ご覧の通りだ。「あと一歩でうまくいくところだったのに」と、息子夫婦は喚き散らす。
ちなみに、今まで雅人が入れていた生活費は借金をして払っており、その借金は実家を乗っ取った後、売却して返済するつもりだったらしい。呆れてしまうくらいのどんぶり勘定だった。
さらに言うと、雅人は全く就職活動をしておらず、面接に行くと嘘をついては遊び放題だったようだ。
なぜ私がこんなことを知っているのかと言うと、嫌がらせが始まった辺りで興信所に依頼をして、二人の過去を徹底的に調べてもらったからだ。この年になって気づいたが、どうやら私は負けず嫌いだったらしい。やられっぱなしじゃ悔しいと思った私は、どうにか仕返しをしてやろうと思っての行動だった。どういう方法を使ったのかは詳しく知らないが、さすがはプロだ。おかげで最も効果的な仕返しができた。
私は電話口で、どうしたものかと悩んでいるような雅人に、全てを話した。興信所に依頼したこと。雅人が就職活動をせずに遊び回っていたのを知っていること。恵さんがマッチングアプリで知り合った男と浮気をしていることなどを、一気に話してやったのだった。
雅人と恵さんは、お互いの秘密を知らなかったようで、電話口で激しい言い争いを始めてしまった。
「お前のせいで…」
「嘘をつくなんて最低だ…」
お互いに責任を擦り付け合っている。もう勝手にして欲しいと思った私は、電話を一方的に切り、着信拒否設定にした。彼らはこのアパートの住所を知らないので、もう会うことはないだろう。
それからしばらくして、息子夫婦は離婚をしたらしい。あれだけ激しい口喧嘩をしていたのだから、当然といえば当然だ。遊んでばかりいた雅人は、案の定就職できず、今は借金を重ねながらネットカフェで寝泊まりをしているようだ。見えっ張りな雅人には耐え難い屈辱だろう。これで反省してくれたらいいのだが。
恵さんはと言うと、離婚後すぐに浮気相手の元へ転がり込んだらしい。しかし、相手も既婚者だったようで、相手方の奥さんに浮気がバレて、恵さんは慰謝料を払うことになったという。相手方の奥さんは、恵さんにしっかり慰謝料を払わせるため、奥さんの親族が経営している厳しい職場に就職させたらしい。毎月の給料から慰謝料を天引きされているみたいで、手元に残るのはわずか。そんな環境なら、自分のしたことをしっかり後悔できることだろう。
一方、私はと言うと、以前働いていたスーパーの系列店でパートとして働きつつ、趣味であるカラオケに通っている。一人暮らしは寂しいだろうなと思っていたのだが、案外楽しいものだ。
これからは、第二の人生を自分のためだけに過ごそう。そして、いつの日か、その楽しかった思い出を、天国で待ってくれているであろう夫に話したいと思う。



