雨がアスファルトを叩く音だけが、夜の商店街に響いていた。6月の終わり、中学2年の俺は、家を追い出されていた。叔父はテレビも消さずに「もう面倒見きれん。出て行ってくれ」と言った。リュックには適当に押し込まれた服と教科書。手渡されたのは3000円だけだった。
両親を事故で亡くしてから2年間、叔父の家で過ごした。初めの数日は優しかったおばも、保険金の話が片付いた頃から態度が変わり、俺の布団は物置部屋に移された。飯はある時とない時があった。給食だけがまともな食事で、制服は1年でサイズが合わなくなっても買ってもらえなかった。誰にも言えなかった。言えば、またあの家でどうなるか分からなかったから。
電車に乗り、名前だけ知っている隣の市の駅で降りた。行く当てなどなかった。雨は強くなり、風も出てきた。アーケードが切れた店の軒下に座り込んだ時、もう立ち上がる気力もなかった。寒さで歯の根が合わない。このまま朝が来たら、どうすればいいのか。考えようとしても頭は働かなかった。
背中の方でガラス戸が開く音がした。
「そんな濡れた体で朝まで震えてたら、明日には動けなくなるぞ」
白髪の男の人が立っていた。少し腰の曲がった、畳職人という風体の人だった。俺が逃げようと身を固くすると、その人は店の中を指さした。
「寒いだろう。ここで寝ていけ」
信じられなかった。大人に親切にされたのは、いつぶりだろう。小柄なおばあさんが出てきて、俺の頭にタオルを乗せてゴシゴシと拭き始めた。「大丈夫じゃないでしょ。唇が紫色よ」と強引に中へ入れられた。
そこは畳屋だった。青い草を乾かしたような、独特の匂いがした。その匂いを吸い込んだ瞬間、なぜか鼻の奥がツンとした。風呂に入れてもらい、塩むすびを握ってもらった。湯呑みの番茶は、体の内側から温めてくれた。布団に横になっても、誰も何かを要求してこない。ここにいてもいいと言われている。その感覚に、俺は布団を口に押し付けて泣いた。
翌朝、逃げ出そうとした俺に、主人の構造さんは言った。「飯も食わんでどこへ行く?」「行くところが決まるまで、ここにいろ」
俺はそこに留まった。学校にも通った。構造さんは、学校に電話をかけ、俺が家から出された事情を話してくれた。「先生、これは家出じゃありません。家から出されたんです」その言葉を誰かが代わりに言ってくれたのは初めてだった。
児童相談所の人が来て、俺は施設で暮らすことになった。施設に行くまでの2週間、俺はあの畳店で過ごした。その間、構造さんの仕事を見て学んだ。人が帰ってくる場所を作る仕事だと知った。畳は、人の人生を受け止めているのだと知った。
出発の朝、よしえさんは塩むすびと、小さなお守り袋を持たせてくれた。畳の縁の布で作った、紺色の袋だった。「預けたものは返しに来なきゃいけないでしょ。だから返しに来なさい」そう言って、俺の背中を叩いた。
バス停で別れる時、構造さんは言った。
「大地。どこへ行っても寝る場所はちゃんと持て。布団を敷いて朝きちんと畳む。それだけでいい。それができる人間はどこでも生きていける」
「お前には、帰る場所を作る力があると思う」
最後に、「偉くならんでいい。ちゃんと生きろ」と。
その日から15年、俺は一度もあの店を訪れなかった。施設を出て、建設会社に就職し、独立して社長になった。社員は15人。会社の名刺には「人が安心して帰れる場所を作る」という言葉を入れている。あの言葉は、中学生だった俺が構造さんから聞いた言葉だった。いつでも行けると思っていた。行こうと思えば行けるから、今日でなくてもいいと。それはただの甘えだった。だが、いつでも行けるという思いこそが、あの日々を支えていたのも事実だった。
会社に、8000万円の再開発の仕事の依頼が来た。隣の市の商店街を壊して、マンションと商業施設を建てるという計画だ。引き合いを受けたのは、俺の会社にとっては大きな仕事だった。しかし、図面を見た瞬間、息が止まった。そこは、あの朝日町の商店街だった。そして、あの宮本畳店の場所も、再開発の区域に含まれていた。
現場を見に行くと、シャッターに「建物明け渡し期限のお知らせ」という紙が貼ってあった。他の店と違うのは、そこに赤いペンで「未契約」と書かれていたことだけだった。店に入ると、よしえさんと構造さんがいた。二人とも年老いていたが、俺の顔を見て、すぐに「あの雨の日の子かい?」と気づいた。「生きてた。よかった」と泣くよしえさん。構造さんは「でかくなったな」とだけ言った。
話を聞くと、土地の所有者が変わった統制地所という不動産会社が、借地契約の更新をしないと言ってきたのだという。提示されたのは移転費用200万円。だが、借地権の評価額は2000万円を超える。さらに、解体費用280万円は自己負担と言われていた。200万円もらって280万円払う。それは、この店を追い出すための、あまりに不公平な条件だった。開発業者の担当者は、古い店には関わらない方がいいと、俺にもほのめかした。
俺は名刺を差し出した。自分の会社が、この再開発の解体と外回りの工事を請け負う予定の会社だと告げると、担当者の顔色は変わった。俺は借地権の話をし、営業保障の話をし、彼らが不当に弱い立場を利用されていることを、はっきりと伝えた。「うちは、人が安心して帰れる場所を作る会社です。80歳の職人から、知らないうちに権利を取り上げる工事はできません」そう言って、俺は8000万円の仕事を降りた。
そして、俺は提案した。再開発そのものには反対しない。ただ、新しい建物の中に、宮本畳店の店舗と作業場を作ってほしい。古い看板もそのまま使ってほしい。そして、誰でも休める小さな和室を作ってほしい。統制地所は、条件を見直し、俺の提案を了承した。
それから3年が経った。新しい建物の1階の角に、あの木の看板「宮本畳店」がかかっている。文字の溝の汚れは、構造さんの「落とすな」という一言で、そのままになった。店の奥にある6畳の和室は、誰でも上がれる。買い物帰りのおばあさんが荷物を置いて休み、子供がランドセルを枕に寝ていることもある。構造さんの右手は完全には戻らなかったが、作業台の前で「押し込め、押し込め」と言い続けている。手が動くのは俺と島崎だ。あの時、俺が断った仕事で苦労をかけた若い職人。今は俺の右腕だ。
ある日、俺は平日の昼に店へ行った。仕事の帰りで作業着のままだった。よしえさんが「先に上がってなさいよ」と奥の和室を指す。畳は新しかった。7月に変えたばかりだと言う。構造さんは、今年もちゃんと畳を変えていた。俺が寝ていた部屋の畳を、毎年7月に変え続けていた。15年分の日付が、寸法帳に並んでいた。誰も寝ない部屋の畳を、俺が帰ってくるかもしれないと思って。商売にもならないのに。
俺は財布から、あの紺色のお守り袋を取り出して茶箪笥の上に置いた。よしえさんは笑って、それをまた俺の方へ押し戻した。「じゃあ、もう1回預けるわ。持っててもらわないと、来てくれなくなるもの」
俺はその袋を財布に戻し、畳の上に座り直した。そして深く頭を下げて言った。
「構造さん。今度は俺が、誰かの帰る場所を作ります」
構造さんは、ようやく箸を置いて言った。
「なら、一年前だ」
それだけだった。俺は湯呑みを置いて、もう一度深く頭を下げた。外からは、買い物客の話し声が聞こえていた。あの日、俺に必要だったのは、大きな家でも豪華な布団でもなかった。ただ、雨に濡れた体を受け止めてくれる一枚の畳と、「ここで寝ていけ」と言ってくれる人のぬくもりだった。あの日から15年かかって、俺はようやくそのぬくもりを守る側になれた。今日もあの和室には、名前も知らない誰かが靴を脱いで、少しだけ休んでいる。帰る場所というのは、そういうものだ。



