休日のショッピングモールで、家族との穏やかな時間を引き裂いたのは、取引先の営業・南城だった。彼は俺の今の立場を知らず、昔のままの見下す態度で妻と娘を「底辺家庭」と侮辱し、笑い飛ばした。その言葉で、俺の中の何かが静かに切れた。俺は何も言い返さず、スマホを手に取った。遠くの部下に、たった一言だけ伝えた。「第一マテリアルの保有株式、全売却」とは。彼は電話ごっこだと思って笑ったが、数分後、彼の会社は…

休日のショッピングモールで、家族との穏やかな時間を引き裂いたのは、取引先の営業・南城だった。彼は俺の今の立場を知らず、昔のままの見下す態度で妻と娘を「底辺家庭」と侮辱し、笑い飛ばした。その言葉で、俺の中の何かが静かに切れた。俺は何も言い返さず、スマホを手に取った。遠くの部下に、たった一言だけ伝えた。「第一マテリアルの保有株式、全売却」とは。彼は電話ごっこだと思って笑ったが、数分後、彼の会社は...

ようやく取れた休日、俺は家族と一緒に高級ショッピングモールの中庭にいた。スーツを脱いで私服に着替え、肩の力が抜けるような午後。穏やかな日差しと噴水の音、子供たちの笑い声が心地よく響いていた。

ふとコーヒーの香りに目を細めた瞬間、背後から耳障りな声が響いた。
「よう、底辺企業の社員さん、家族でショッピングか。お似合いだな」
声の主を見て、思わずため息が出た。南城――取引先の営業だ。俺が今どこに勤めているかも知らず、相変わらずの調子で絡んでくる。
以前から態度は悪かったが、まさかプライベートでまで絡まれるとは思っていなかった。

俺の名前は真壁公平、35歳。大手グループの子会社で営業課長として現場を引っ張ってきた。数字を使って結果を導くスタイルを貫き、担当先はグループ内でも上位を占めていた。
その働きぶりを評価され、今年から親会社の投資部門へ移動となった。子会社の営業課長から親会社の部長職へ。肩書きは変わっても、本質は変わらない。むしろ、より大きな金額と責任を伴う仕事になった分、神経の使い方は数段上になった。

投資部門では資金運用や投資判断を担当している。その中には営業時代からの取引先も多く含まれていた。だから、引き継ぎ業務の一環として、今でも一部の取引先には顔を出している。
その中で、どうしても手放しきれない厄介な存在がいる。南城勝――第一マテリアルの営業だ。

第一マテリアルとは長年取引がある。だが、彼が窓口になってからというもの、空気が変わった。彼は俺たちの会社を「大手になれなかった底辺企業」と決めつけ、折あるごとに見下すような発言を繰り返す。肩書きや学歴に異常に執着し、何かと自分を偉く見せたがるタイプだった。
実際には彼の言動に中身はない。根拠も曖昧だし、数字もいい加減。それでも、こっちが子会社という立場であることを盾に傲慢な態度を取り続けてきた。
あまりに厄介で、交代を頼んでも若手には断られるばかり。結局、俺が対応せざるを得なかった。まともに向き合うとこちらが疲弊し、何度も終わらせようと考えたが、業務上都合がつかずズルズルと関係を続けていた。

俺は人間関係において、誠実さを何より大切にしている。立場の違いは仕方ないが、それを言い訳に相手を侮辱するような真似は許されない。だが、仕事だからと我慢してきた。俺自身の感情を優先させず、組織の一員として動いてきたつもりだった。
その我慢が限界を迎える日が、今日この後、思いがけない形で訪れることになる。

休日を家族と訪れていたのは、高級ブランド店が立ち並ぶ大型商業施設だった。広々とした吹き抜けの中庭には噴水が設けられ、洗練された空気が流れている。平日にも関わらずゆったりと買い物を楽しむ客の姿が目立ち、非日常を味わえる贅沢な空間だった。
そんな穏やかな時間を、背後からの耳障りな声が切り裂いた。
「よう、底辺企業の社員さん、また家族で庶民向けの買い物か」

耳に刺さるような声に、即座に嫌な予感がした。振り返らなくても、誰の声かすぐに分かった。南城勝。あの男だ。まさかこんな場所で出くわすとは最悪だ。
俺は無言で軽く会釈し、足早にその場を離れようとした。
「今日は私用なので、取引の件はまた改めてお願いします」
穏便に済ませたかった。だが、相手はそういう人間じゃない。南城はニヤニヤと笑いながら、こちらへ一歩踏み込んできた。
「ま、そりゃ暇な子会社社員は平日にも休めるよな。お前、まだあの信用システムズにいるんだっけ?営業課長だったよな。親会社に行けなかったエリートのマネって感じで、本当哀れだよな」

言葉の一つ一つに悪意が滲んでいた。相変わらず、自分より下だと決めつけた相手を見下すことに全力を注ぐタイプだ。
「南城さん、今日は家族と過ごしておりまして、プライベートな時間です。どうか場をわきまえていただけると助かります」
穏やかに伝えたつもりだったが、その言葉すらも彼の笑いの材料になった。
「はっ、場をわきまえろとか言い出したぞ。お前がそんなセリフ言っても説得力ねえって。こっちは親会社の人間とやり取りしてんだよ。お前はただの伝言係、ただの窓口だろ。お前にわきまえろなんて言われる筋合いないんだけど」

声がどんどん大きくなっていく。周囲の視線がチラチラと向けられるが、南城はお構いなしだった。
「俺はな、最初から本社と付き合ってる人間なんだよ。なのにお前らみたいな子会社君がいちいち口出してきてさ、自分を上だと思ってんの?笑わせんなって」
「立場というのは上下ではなく、責任の所在を指すものです。それを軽んじるのは、取引関係としても望ましくないと思います」
冷静に返したつもりだった。だが彼は笑いを抑えようともしなかった。
「出た。責任とか関係性とか。お前って昔からそういう綺麗事ばっか言うタイプだったな。現実見ようぜ。上と下ははっきりしてんだよ。そしてお前は、ずっと下。その現実から逃げるなよ」

一方的にまくし立てるその口ぶりは、明らかに周囲を不快にさせていたけれど、本人にはそれが分からない。
「っていうかさ、お前ここにいるの場違いじゃね?この商業施設、見渡せばブランド品だらけだぞ。お前んちそんな余裕あるの?ああ、そうか。地味な奥さん連れてきてたな。なんかいかにもって感じだったわ。底辺家庭の見本だな、ありゃ」

その瞬間、心の奥に張り詰めていた糸が、静かに切れた。
俺がどれだけ理性的であろうとしても、人として超えてはならない一線というものがある。今、彼は確実にそこを踏み越えた。
俺は深く息を吸い、冷静に声を発した。
「南城さん、あなた、その態度。営業として失格ですよ」
言葉に感情は込めなかった。ただ事実を述べただけだった。それでも、彼にはそれが気に食わないらしかった。
「は?あんたごときに何が分かるってんだよ。こっちはな、大手の本社と話してる営業だぞ。子会社の課長補佐に言われたくないね」

目の前で人を値踏みするようなその目に、俺は一切の情けをかけなかった。その価値観が、何よりも浅ましく見えた。
「では、こちらも仕事として対応させていただきます」
その言葉に南城が一瞬だけ目を細めた。だが、すぐに鼻で笑ってまくし立てた。
「ねえ、何様だよ。そんな権限お前にあるわけねえだろ。課長だろ。営業のくせに。そもそも投資部門でもないくせに」

俺は無言でポケットからスマホを取り出した。画面のロックを解除し、登録済みの内線番号に指を滑らせる。すぐに通話が繋がった。
「杉谷君、今すぐ対応お願いできるか?ああ、急ぎで頼みたい。第一マテリアルの保有株式、全売却。昨日の終値ベースで」
「問題ない。市場価格で即時処理。資金は流動口座へ。いや、理由は後で説明する。処理を優先してくれ」
電話越しの杉谷の返答は短く的確だった。
「了解しました。全力で対応します」
信頼できる部下がいるというのは、こういう時に支えになる。全てを伝え、通話を終えると、俺はスマホをそっとポケットへ戻した。
その様子を見ていた南城は、腹を抱えるようにして笑い始めた。
「なんだそれ?電話ごっこかよ。いや、マジで投資部門のマネか?演技がクソすぎてこっちが恥ずかしくなるわ」

俺は黙ってその笑いを受け流す。笑いたいなら笑えばいい。いずれ現実が全てを飲み込む。
「お前らの会社って、投資なんかやってねえだろ。せいぜい営業部がエクセルいじってるくらいが落ちだろ。株を売るって誰に言ってんだよ。株なんか持ってる器じゃねえって自分でも分かってるだろ」
何も知らない。それがこれほど哀れに見えるとは思わなかった。
「南城さん、いずれ事実はご自身の元に届きます。その時に、私の立場が課長補佐だったかどうか、ご確認ください」
口調は変えなかった。怒鳴る必要も、反論する価値もない。こちらが何をしたかは、いずれ数字が証明する。

南城はまだ何か言いかけていたが、俺はもう聞いていなかった。言葉ではなく、行動で伝えることがある。俺はそれを選んだ。
足を踏み出し、背を向ける。遠ざかる背後でまだ笑い声が響いていたが、もう何の意味もなかった。
あとは株が市場に出回るのを待つだけだ。一度動いた歯車は、もう戻らない。取引先としての信頼を裏切り、さらに家族を侮辱した。その代償がどれほど重いものか、彼は間もなく知ることになるだろう。

俺がその場を離れた後も、南城の笑いはしばらく続いていたらしい。だが、それが一変するのにそう時間はかからなかった。
数分後、彼のスマホに取締役からの着信が入り、怒号が叩きつけられた。
「何だ、すぐに会社に戻ってこい。株価が大暴落してるぞ」
言葉の意味を即座に理解できなかった南城は、間の抜けた返事を返すしかなかった。
「第一マテリアルの株が、異常な量で売られた。原因も不明。市場が動揺してる。投資家や取引先からの問い合わせも止まらん」

状況の重大さに気づいた南城は、顔を青ざめさせ、モールを飛び出して本社へと急行した。
到着するやいなや、役員主導の緊急会議が始まった。株価チャートはスクリーンで急降下を続け、会議室には資料を叩く音と怒号が飛び交っていた。
「売り方が異常すぎる。これはただの利確じゃない。明確な意図がある売却だ。売りの特定に時間がかかってるが、これだけの保有量だ。何らかの大口が動いたとしか思えん」
取り締まり役が資料を睨んでいた視線を、ゆっくりと南城に移した。
「おい、南城。さっきから黙ってるが、今日どこで誰と会ってた?取引先で何かトラブルでも起こしたんじゃないのか」

急に矢面に立たされた南城は、顔を引きつらせ、しぶしぶ言葉を吐いた。
「買い物先で…偶然取引先の真壁って男と会いまして。信用システムズの営業課長だと勝手に思ってたんですけど…」
「それで?」
「軽くちょっかい出しただけなんです。『底辺企業の社員さん』とか、『親会社に行けなかった非エリート』とか…それで空気が悪くなって、向こうが『うちの会社の株を全て売却します』とか言い出して、俺は冗談だと思って笑って、『営業課長にそんな権限あるわけないだろ』って…そしたら、本当に電話かけて株を動かす指示をしてるように見えて…」
その瞬間、会議室が静まり返った。
「お前、真壁公平を知らなかったのか?」
「はい…」
「営業課長だのという肩書きは半年前に終わってる。今は親会社、信用ホールディングスの投資部門の部長だ。グループ全体の資産運用を任されてる最重要ポストの人間だぞ」
「知らなかったんです。そんな偉い立場になってるなんて…」
「知らなかったで済む話か。投資責任者に暴言を吐いて株を売らせて、会社に損害を与えた。全てお前が原因だぞ。今すぐ謝罪しろ。株を買い戻してもらえ。それが無理なら、今回の損害は全てお前の責任だ」

南城は蒼白な顔でスマホを取り出し、震える指で番号を探していた。たった一言の冗談が、会社の運命を揺るがす地雷だった。今になってようやく、理解したようだった。

そして、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、俺は一度瞬きをしてから通話ボタンを押した。
「真壁です」
沈黙の後、かすれた声が電話越しに届いた。
「真壁さん、あの、さっきは本当に申し訳ありませんでした。あれは冗談のつもりで…その、深い意味はなかったんです」
声は震えていた。いつもの高圧的な口ぶりは、影も形もない。俺はしばらく黙ったまま、間を置いた。その数秒が、彼には何倍にも長く感じられたことだろう。
「あの、会社が今想像以上に大変なことになってまして…株価が急落して、株主からの連絡も絶えず、役員からも責任を問われていて…正直、僕一人ではどうしようもなくて」
言い訳と懇願の境界が曖昧になってきた。自分を守る言葉と、俺にすがる声が交互に出てくる。
「決して御社との関係を軽く見ていたわけではないんです。子会社とはいえ、長年お付き合いのある大切なパートナーだと思ってました。あの時はたまたま調子に乗ってしまっただけで、本心ではそういうつもりじゃ…」
都合のいい話だった。さっきまで見下していた相手に、今更そんな言葉を並べるとは。

俺はそれでも口調を崩さず答えた。
「すでに当社としての対応は完了しています。感情的な判断ではなく、投資基準に沿った処理です」
それは決して責める口調ではない。ただ淡々とした、報告のような響きだった。
「そうですよね。でも…でも、買い戻していただけないでしょうか?御社にとっても、長期的には関係を修復する方がお互いのためになるかと…」
言葉に論理性を持たせようと必死だったけれど、焦りと動揺がにじみ出て、形だけの理屈になっていた。
俺は返さなかった。彼のそれらしい説明が、空気のように聞こえただけだった。
「お願いします。本当に助けてください。役員たちにも『なんとかする』って言ってしまって、このままじゃもう…」
懇願の温度が少しずつ上がってきていた。言葉の節々に、追い詰められていく焦りが混じり始めている。
「俺、このままじゃ終わりなんです。仕事も家庭も全部崩れていきそうで…たった一言、冗談のつもりだったのに、こんなことになるなんて…」
自業自得だが、今の彼にはそれを認める余裕すらないのだろう。
「あなたにも、大切な人がいたんですね」
「はい…」
「それなのに、他人の家族を『底辺家庭』だと笑いながら評した。俺の妻を見て、知らない癖に侮辱し、平然と見下した」
「ち、違います…つい調子に乗って、あの時は軽い口のつもりで…」
「私はね、南城さん。家族と過ごせる時間が限られてることを、痛いほど知ってる。だからあの日、ようやく取れた休みで妻と娘と一緒に出かけていた。どこに連れて行って、何を食べて、どんな笑顔を見られるか。それを心の底から楽しみにしてたんです」
電話の向こうで、南城が息を飲む音がした。
「その一時を、あなたは笑った。『底辺』と似合わないと。妻の顔を見て、この姿を見て、何の迷いもなく」
「すみませんでした。本当に…あれは取り返しのつかないことだったと、今なら分かります」
「そうでしょうね。ですが、言葉には戻らない重さがあります」
沈黙が落ちる。
「買い戻してもらえれば、もう一度やり直せるんです…俺の人生も…」
「申し訳ありませんが、株の再購入はいたしません。判断はすでに執行済みで、覆す余地はありません」
「お願いです。土下座でもします。何でもするんで」
「『何でもする』という言葉が、今のあなたには軽く響きます。本当に必要だったのは、最初から他人を馬鹿にしない心だけでした」
「助けてくれ。頼む。お願いだ」
泣き崩れるような声が電話の奥から響いてきた。だが、俺はそれをただ静かに聞き、淡々と告げた。
「これ以上お話ししても意味はないと思います。お疲れ様でした」
そして、通話を切った。
スマホの画面が静かに消える。その光の消えた先にあるのは、ただ静かな余韻だけ。俺は怒っていたわけじゃない。ただ、愛するものを見下されたその瞬間、一線は確かに心の中で引かれていたのだ。

通話を切った翌日、第一マテリアルの株価はさらに下落した。一時的な売り圧力に耐えるだけの信頼が、あの会社には残っていなかった。連鎖するように他の株主も売却に動き、株価は底値に張り付いたまま、回復の気配すら見せなかった。
報告を受けた時、俺は何も感じなかった。それはただ投資判断の帰結に過ぎない。自業自得という言葉さえ、生ぬるく思えた。

しばらくして、第一マテリアルの経営陣は刷新された。社内で責任の所在を明確にするためだったのだろう。当然、南城もその対象となった。
形式上は一身上の都合による退職だが、実質は役職解任を経ての事実上の追放だったと聞く。古い取引先経由で、その後の動きも自然と耳に入ってきた。どうやら業界内での信用もすっかり失ったらしい。再就職先を探そうにも、彼の名はすでに「トラブルを呼ぶ男」として知られていた。
傲慢さと軽口と慢心――それらが積み重なった末路は、決して一夜で形成されたものではない。ほんの一言で人生が壊れたのではない。壊れるべくして、崩れたのだ。

俺は今も投資部門での仕事を続けている。扱う金額は大きくなった。判断一つで動く数字も、影響する人間の数も、営業時代よりはるかに増えた。だからこそ決めている。どんなに小さな相手でも、どんなに強大な組織でも、誠実さを踏みにじるものには二度と妥協はしないと。
あの日、妻と娘を侮辱された時、俺は初めて職務の外で怒りを覚えた。だが、それでも怒鳴ることなく、冷静に線を引けたのは、守りたいものがはっきりしていたからだ。
もう迷わない。もう許さない。静かに、しかし確かに、そう心に誓っている。

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