夜の9時、私は人気のないホテル街を一人で走っていた。龍太はよりによって今日に限って電話にも出ず、ガチャ切りしてきた。冷蔵庫には冷やしておいた飲み物が待っている。それなのに、二人の柄の悪い男に突然手首を掴まれ、「いい女だな、一緒に遊ぼうぜ」と絡まれてしまった。私は息を整えて、二人に言った。「うちに来ない?…

夜の9時、私は人気のないホテル街を一人で走っていた。龍太はよりによって今日に限って電話にも出ず、ガチャ切りしてきた。冷蔵庫には冷やしておいた飲み物が待っている。それなのに、二人の柄の悪い男に突然手首を掴まれ、「いい女だな、一緒に遊ぼうぜ」と絡まれてしまった。私は息を整えて、二人に言った。「うちに来ない?...

「迎えに来られないってどういうこと?」
私は怒りでスマホを握り潰しそうになっていた。おまけに電話はガチャ切りされた。ツ骨様のミスで取引先に謝罪に行かされ、先輩のミスで書類を一から作り直し。終わったのが夜8時。いつもなら3分以内に飛んでくる龍太が、よりによって今日に限って迎えに来ない。
早く家に帰りたかった。冷蔵庫で冷やしておいた塩バニラ風味の貫中杯を飲みながら、ゆっくり晩御飯を食べたかった。それに、我が家には門言がある。夜9時を過ぎるとかなり厄介なことになるのだ。
私は迷った末、桃貝を突っ切ることにした。桃貝とは、この地域の言い方で、いわゆるホテル街のことだ。会社から駅への一番の近道だったが、治安は最悪。酔っ払いのおじさんでも一人で通ろうとは思わない場所だった。
早歩きで廃れたネオンの看板をくぐる。ここさえ抜ければ、駅の北口に直結する。知り合いに会わなければ、それで完璧だった。もし会ったら、明日には「桃貝で出張していた」とか「パパカしていた」とか、とんでもない噂が立つ。それでも、ガチャ切りされた龍太の言葉と、冷蔵庫で待つ塩バニラの貫中杯が頭から離れなかった。
ダッシュで走り抜けようとした、その時だった。
手首をガシッと掴まれた。
「いた。何すんのよ」
「急いで歩いてちゃ人生損するぜ」
柄の悪い男が二人、私に絡んできた。
「急いでるんで失礼します」
「姉ちゃん、仕事か?」
「違うわよ。家に帰りたいのよ」
言った瞬間、しまったと思った。この男たちの言う「仕事」とは、桃貝での仕事のことだった。私は普通の人だとバレてしまった。
「じゃあ暇なんだよね。俺らと遊ばねえか」
「結構です。門言まであと15分もないのよ」
「俺らが暇なんだよ。姉ちゃんいい体してんじゃねえか。一緒に遊ぼうよ」
「3人でも遊べる場所が最近できたって言うからさ。楽しもうぜ。絶対喜ばせてやるからさ」
私は掴まれた手を振りほどき、男の顎に回し蹴りをお見舞いした。男はその場でうずくまる。ああ、やっちゃった。龍太がくれたばかりのブランドのスニーカーで蹴りを入れてしまった。
「おい、大丈夫かよ」
「さあ、ててて。ああ、くるくるする」
その隙に走って逃げ出したが、多勢に無勢だった。男二人の連携に、私は再び捕まってしまった。
「おい姉ちゃん、異性がいいね。いい女とはやりがいありそうだな」
「ちょうど目の前が入り口だから入っちまおうぜ。ここはおさんの持ち物だから、フロントに大和組って言えば通るらしいぜ」
「その前に俺、我慢できねえ。少し服の中拝ませてくれ」
一人が私の服をまくり上げようとする。
「ちょ、ちょっとやめてよ。……そんなことより、あなたたち“大和組”って言ったわね」
「おお、姉ちゃん知ってんのか?」
「そりゃこの土地で暮らしてるんだから常識でしょ。この界隈で勢力を持っているヤザって教えられたわ」
「お姉ちゃん、2だね」
私は両手を上げて降参のジェスチャーをした。
「そうとなれば話は別だわ。私がどんなに抵抗したって、あなたたちは仲間を呼んでさらに私を抑え込むんでしょ? どっち道ちやられちゃうんだから、2人を相手にした方がマシね」
「じゃあ話分かってんじゃねえか。入ろうぜ」
「ねえ、私、こういうところでするの、なんとなく不衛生な感じがして嫌なんだよね。私、いつも“うちで”って決めてるの。うちに来ない? いっぱい気持ちいいことできるよ」
「なんだよお前。男2人相手でもいいのかよ。変態だな」
「最初にやるのはじゃんけんだからな。がっついちゃって子供みたい」
「まあたっぷり締めつけてあげるから、覚悟してね」
男たちは期待で表情を緩ませている。今の言葉は使い方を間違えた。でも、程よく誤解してもらっている方がありがたい。
私は「絶対家の中じゃ服を脱がない」と念押しして、彼らを連れて桃貝を抜け、明るい駅の地下道に入った。人の往来が多い場所なら、この男たちも手出しできない。
「家は北口を出てすぐだから」
「北口って、随分物騒なところに住んでるんだな」
「桃貝よりはマシでしょ。それに“住めば都”って言うじゃない」
私は時計を見た。8時54分。門言ギリギリだ。
「いいか、あんたら、逃げなよ」
駅の北口を出て、人気の少ない寂しい通りに入った瞬間、私は低い声で釘を刺した。
「だってやれるんだろう? 逃げはしないさ」
「大和組のお2人は、この家の中でできるのかしらね」
カードキーをかざし、暗証番号を打ち込む。
「もう逃げられないからね」
私がそう言った時、二人の男は固まっていた。
「て、てめえ、何なんだよ。何者なんだよ」
「私のうちよ。文句ある?」
その瞬間、数人の男性が玄関から走って私のところへやってきた。
「お嬢さん、お帰りなさいませ」
「龍太、迎えにも来ないで、なんで家にいるのよ」
「すみません、お嬢さん。こんなことになっちまって」
龍太がギプスで固められた左腕を見せる。
「ちょ、龍太、何したのよ」
「いや、喧嘩とかじゃなく、仕事中に屋根から落ちまして。ついさっきまで病院にいたんですよ」
「何よそれ。かっこ悪いわね」
「すんません。お迎えに行けなくて」
「あの、俺たち、今どんな状態なのでしょうか?」
私についてきた男たちは、龍太と一緒にやってきた組員に取り押さえられていた。
「てことは、パパはもう知ってるのね」
龍太が困ったように頷いた。
「おい、何なんだよお前。騙したのかよ」
私に喚き散らす男に、龍太が水際に蹴りを入れた。
「うちのお嬢様に向かって何言ってやがる?」
「は、はい」
「飛んで火に入る夏の虫って、本当にあるのね。あなたたち、ここがどこだか分かる?」
男たちはすでに恐れおののいていた。私は下っぱヤザたちを見渡して、一人を指名した。
「ほら、そこの僕。ここがどこか言ってみなさいよ」
「と、東大寺組の事務所……です」
「敬語は使えよ。ここは東大寺組の組事務所だ」
直立不動のまま腹に力を入れて叫ぶ様子を見て、私は下っぱヤザであることを確信した。
少し説明しておくと、私は東大寺組の次期組長として修行中の身だ。組長である父、東大寺ご造の娘であり、龍太は若頭兼私の護衛。父は私が幼い頃から、誘拐などの危険から守るためにGPSタグと隠しマイクで私を監視しているというわけだ。
「あんたたち、組長の娘を傷物にしようとしたのよ。覚悟はできてる?」
「覚悟はできてるって。おい、あんたが誘ったんだろうが」
私は取り押さえられながら悪態をつく男に、回し蹴りをした。
「うるさい。あんたたちが鼻の下を伸ばして勘違いしただけでしょうが」
私と下っぱヤザたちのやり取りは、バッグに忍ばせたGPSタグと隠しマイクで全て筒抜けだった。娘を宇宙出来である父は、龍太が迎えに行けないと分かった時点で居場所を確認し、同調していたのだ。
「勘違いさせるようなこと、お嬢さん結構言ってましたね」
「ちょっと龍太も聞いてたの?」
「聞くつもりはなかったんですが、病院から帰って親父さんに報告に行った時に」
龍太は顔を真っ赤にして私を見た。どうやら、さっきの発言を全部聞かれてしまったようだ。
「そんなんで責めないでよ。こっちが恥ずかしくなるでしょ。それに龍太の周りに女なんて五万といるんでしょう」
「いえ、俺は入門時からずっとお嬢さん一筋です。お伝えしていましたので、ずっとお守りすることができました」
「え、真っ直ぐな目でそんなこと言われたら……」
「お嬢さんにそんな恥ずかしいこと言わせてしまうお前らが許せねえ。迎えに行けず危険な目に合わせてしまった俺自身が許せねえ」
「ちょっと龍太、て、ギプス!」
私は龍太を全力で止めに入り、なんとか二人のヤザをボコボコにするのだけは阻止した。
「ということで、あなたたちにはこれからお仕置きが始まるわね。大和組にも制裁が入るでしょうね」
「その、あの、命だけはなんとか……」
「うちの組はね、人を殺めることはしないわ。その代わり、まあ、それに見合ったことをしてもらうから」
「それに見合ったこと?」
「あんたら覚悟を決めて極道に入ったんでしょ? 大和組もあんたたちをうちの組が人質に取ったって知ったところで、痛くも痒くもないでしょうね」
その時、部屋の扉が勢いよく開けられ、父・大東寺ご造が登場した。龍太を始め、組員たちが深々とお辞儀をする。父の右手には、しっかりと磨かれた真剣が握られていた。
「お前らか、俺の可愛い娘を手ごめにしようとしたのは」
恐ろしい形相に、二人の男は何かを悟ったようだった。
「パパ、大丈夫よ。無事だからね。むしろこの人たち、私の回し蹴り食らってる被害者だから」
「さすがなゆただ。武術を教え込んでおいてよかったよ」
「そのせいで、向こうももらい手がいないんですけどね」
「親父さん。俺がなゆ太さんの片腕となって、東大寺組を支えます。お嬢さんを……なゆ太さんを俺にください」
私は目を丸くして龍太を見た。
「ちょっと龍太、あんた空気読めよ。今そんなことを話し合う時間じゃないわよね」
ギラギラ光る日本刀に震え上がる下っぱヤザ。娘が一番大事な組長の父は、龍太の不意打ちのプロポーズなんて聞いていない。それにギプスで固定された腕で私を支えるって、100万年早いわよ。
私は父と下っぱヤザ二人をほったらかして、龍太に憎まれ口を叩いた。しかし私自身、顔が火照るほど赤くなっていたので、どうしたって憎まれ口としては響かない。
「いや、ツンデカお嬢さんのそういうところが好きなんですよ」
私は恥ずかしくなって、その場にうずくまってしまった。それを見逃さない父は、私が怯えているものだと思ったらしい。
「なあ、お前ら。海と海外、どっちがいい?」
「海と海外?」
「おうよ。お前らには馬のように働いてもらうぞ。簡単に殺めたりはしねえから安心しな。最も多くの虫ケラどもが飛び込んじまったり、飛び降りちまったりしたらしいけどな。海と海外」
二人が同じことを繰り返した時、私は補足説明をした。
「漁業の漁船の乗り組み員か、海外なら発展途上国の開拓か、あるいは日本の業者が船便で送ってきた古い自動車や金属機械の仕分けね。もちろん引き受けてくれるのは国外の業者だから、労働に関する法律なんて無視よ。それにあんたたちに落とし前をつけさせるんだから、もちろん無給働きよ」
「大和組の組長にはもう話はつけてやる。あいつは俺の射程だからな。俺に逆らったらどうなるか知っている。こじと秀樹は差し出すから、好きに使ってくれと言ってきた」
父は不気味な笑みを浮かべ、物騒な光を放つ刀先を二人の目の前に突き出した。男たちは声にならない悲鳴を上げると、組員たちの手によって外へ連れて行かれてしまった。
部屋の中には私と父と龍太の三人だけになった。
「ところで、そのスニーカー、新品だな」
「ええ、龍太にもらったのよ。だって龍太がくれたから使ってあげてるんでしょ。誕生日だから受け取ってあげたこのバッグも、ピアスも、お財布を忘れたって言って買わせた口紅だって」
「なんだ、お前、随分ひねくれてるな。そんなにひねくれたことばっかり言ってると、向こうが来なくなるぞ」
「だから俺がお嬢さんをお引き受けします。こんなひねくれた嬢を扱えるのは、俺しかいません」
「龍太、あんた随分上から物を言ってくれているわね」
父が日本刀を構え直そうとする。
「龍太、お前よくも娘を」
「パパ、ストップ、ストップ。龍太は一応怪我人だからね。……それに、私も龍太が東大寺組を背負ってくれたら、言うことないわ」
「本当にこいつでいいのか?」
「この人を逃したら、パパの代で東大寺組はおしまいよ。それにパパや私が龍太を手放したら、もう絶対それ以上の人見つからないからね」
父は黙ったまま龍太と握手を交わした。右手には日本刀が握られたままだ。
「だから私が電話をしたら、3分以内に迎えに来ること。元を言えば、私が塩バニラの貫中杯を飲みたいから早く帰りたかったのに、迎えに来られないって言い出したあんたが悪いんだからね」
なんか変な始まり方だったが、これでいいことにしよう。
あの後、私に絡んだ二人の男は、海外のマンション建築現場で働かされているという報告が来た。日本の現場とは訳が違うので、なかなか慣れないらしい。これが終われば海外の貿易港で中古車の流通に携わり、その後は山で鉱物採掘とスケジュールはびっしりだ。逃げ出そうと思えば逃げ出せるはずなのに、ものすごく真面目に働いているようだ。
時は流れ、来月は私の結婚式だ。数年後には私の組長襲名が予定されている。それまでに奥産修行よりも組長修行に専念すると決めた。龍太に背中を押してもらいながら、頑張ります。

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