「澪は今、国立大学の医学部に通っています。」と私が電話口で言った瞬間、組さんの声が裏返った。「う、嘘よ!」だが、これはほんの序章に過ぎなかった。十五年間、私の娘として育てた澪が、自分たちの孫だと主張する、かつて澪を「でき損ない」と呼び、押し付けた夫婦が、今度は私たちの前に忽然と現れたのだ。私は守り抜く。この子の未来だけは。 — **CTA:**…

「澪は今、国立大学の医学部に通っています。」と私が電話口で言った瞬間、組さんの声が裏返った。「う、嘘よ!」だが、これはほんの序章に過ぎなかった。十五年間、私の娘として育てた澪が、自分たちの孫だと主張する、かつて澪を「でき損ない」と呼び、押し付けた夫婦が、今度は私たちの前に忽然と現れたのだ。私は守り抜く。この子の未来だけは。 --- **CTA:**...

「やっぱり中卒でパートなんかしてる人間はダメね。」私は歯を食いしばって耐えた。六歳の澪が隣にいなければ、大声で言ってやりたかった。親を亡くしたこの子を見捨てたくせに。この子のいいところを何も知らないくせに。

私が反論しないのをいいことに、ばあさんは浴びせるように言う。「かわいそうな子ね。普通に生まれればよかったのに。」

ちょっと待って。その言葉で私の怒りは限界を超えた。「今、何て言いました?『普通』ってどういう意味ですか?」腕の中で震える澪を抱きしめ、私は誓った。この子を傷つける人間は絶対に許さない。何があっても、私はこの子を守り抜く。

私の名前はさやか。四十五歳、独身。数年前に両親を見送り、実家で一人暮らしをしている。今でこそ健康が取り柄だが、子供の頃は体が弱くて入退院を繰り返していた。高校卒業を目前に控えた頃、長期入院したので最終学歴は中卒だ。そのまま父の紹介で地元の印刷会社にパートで働き始め、今に至る。

若い頃は結婚に焦った時期もあったが、今は気楽で自由な一人暮らしが気に入っている。弟家族が頻繁に遊びに来てくれるので寂しくはない。弟嫁とは本当の姉妹のような関係で、とても仲がいい。六歳の澪は、笑顔のかわいい素直な子だ。澪には発達の特性があり、小学校で支援学級に在籍している。人と話すのが苦手だったり、こだわりが強いところがあるらしいが、私は気にしたことがない。本が大好きで、興味を持ったことは時間を忘れて調べるような一生懸命な子だ。

「また近いうちに遊びにおいでね。」いつものように家に遊びに来ていた弟家族をそう言って見送った二週間後、弟夫婦が交通事故で亡くなった。病院から連絡を受けた時のことはよく思い出せない。気がつくと、泣き崩れていた。弟はまだ四十二歳。弟嫁は三十六歳だった。あまりにも突然の別れだった。

葬儀の日、私は祭壇に並んだ二人の遺影を見つめ、呆然としていた。二人はもう帰ってこない。残されたのは、六歳の澪だけだ。澪は葬儀の間、ほとんど言葉を発しなかった。大勢の人に囲まれて緊張しているのか、それとも現実を理解していないのか分からない。突然両親を失ったこの子は、これからどうなるのだろう。弟嫁の両親はまだ五十代だ。二人ともまだ働いているし、健康に問題はないはずだ。澪は彼らに引き取られ、大切に育てられるだろう。そうなったら、今までのように頻繁に会うことはできなくなるかもしれない。寂しくないと言ったら嘘だ。でも、それが澪にとって一番幸せなのだろう。私は線香の煙を眺めながら、ぼんやりそんなことを考えていた。

葬儀はあっという間に終わり、私は参列者の見送りをしていた。澪は何も言わず、私の喪服の裾をぎゅっと握りしめていた。見送りが終わると、弟嫁の両親が近づいてきた。「さやかさんだったわね。ちょっといいかしら。」澪の手に力が入る。「はい。今後のお話ですね。えっと、何とお呼びすればいいでしょうか?」「私は組よ。夫は正し。」「組さん、正さん。大変でしょうけど、澪のことをよろしくお願いします。」そう言った私を、組さんは険しい顔で見た。「何を言ってるの?澪を引き取って育ててくださるんですよね?まさか、そんなわけないでしょ。」私は耳を疑った。「ど、どうしてですか?」「私たちには無理よ。」組さんは周りを気にするように声を落とした。「だって、この子、自閉症でしょ。」「自閉症と診断されたわけじゃありません。発達に特性があるだけです。」思わず澪を見る。俯いていて表情は分からないが、小さな肩は震えていた。しかし、組さんは気にしていないようだ。お構いなしで話は続く。「支援学級に通ってる難しい子なんて、私たちには負担が重いのよ。」「そんな、澪は難しい子なんかじゃない。ことは、お二人ならご存知ですよね。」「でも、普通の子なら支援学級になんか通わないはずでしょ。」「そんな言い方はやめてください。」反論する私を、一瞥して組さんはこう言い捨てた。「ああ、なんでこの子は普通じゃないのかしらね。」

色々な感情が湧き上がり、うまく言葉にできない。でも、「でも、孫ですよね。」やっとの思いでそう言ったが、組さんたちは平然としていた。「私たちだって老後があるのよ。自分たちの生活も大事なの。」そして私の顔をじっと眺めた。「あなた、独身でしょ?」「はい。そうですけど。」嫌な予感がした。「だったら貯金があるでしょ。家もあるし、時間もあるし、暇よね。」「いや、暇ではないですけど。」「決まりね。澪はあなたが引き取りなさい。」当然のように言われて、思わず変な声が出た。「は?え?私ですか?」「そうよ。その方が、亡くなったあの子たちも浮かばれるわよ。」「あの、一度きちんとお話をしてから…。」

その時、小さな手がそっと私の背中に触れた。不安そうな表情の澪と目があった。直後、すぐに私はその手を握り返した。「澪、心配しなくて大丈夫よ。」笑顔でそう言ったが、澪の表情が変わることはなかった。

その日は、組さんに頼まれ、澪を連れて帰ることになった。私は疲れきっていて、澪もほとんど口を開かなかった。夕食は澪の好きなハンバーガーを買って帰ったが、数口しか食べられなかったようだ。無理もない。当たり前の日常が消えてしまった喪失感は、六歳の子供に耐えられるはずがない。今はただ寄り添ってあげたい。私はリビングに布団を敷き、澪と一緒に眠りに着いた。

翌日の昼過ぎ、インターホンが鳴り、組さんが訪ねてきた。「澪の荷物を届けに来たわよ。」玄関に運び込まれたダンボールを見て、私は凍りついた。「ちょっと待ってください。まだ何も話し合ってませんよね。」すると、組さんは呆れたように笑った。「やだわ。昨日、お願いしたじゃない。」「お願いじゃなくて、押し付けたんだと思いますが。」だが、組さんは気にもしない。床に置かれたダンボールをドンと叩き、にっこりと笑った。「澪の荷物はこれで全部よ。じゃあ、よろしくね。」「は、全部?」「そうよ。」「勉強机と本棚と電子ピアノもあるはずです。」「さあ、なかったわよ。」「そんなはずありません。私が買ってあげたんですから。」組さんは、めんどくさそうにため息をついた。「学用品と少しの服があれば十分でしょ。」「組さん、それはひどいです。あれは澪がとても気に入って、大切にしていたもので…。」「そんなこと言われたって、もう片付けちゃったし。」「はぁ…。」その時、奥から澪が顔を出した。組さんは澪を見るなり眉をひそめた。「あら、澪ちゃん。」澪はびっくりと肩を震わせ、身を隠すが、組さんはお構いなしだ。「相変わらず、愛想のない子ね。」小さな声で呟いたが、私は聞き逃さなかった。「今、何か言いました?」「うん。何にも。」そして、姿の見えない澪に向かって大きな声で言った。「いつまでも暗い顔していたら、周りが困るからやめなさいよ。あなたはただでさえ手がかかるんだから。」「組さん、やめてください。」「はぁ。どうしてあんな子になっちゃったのかしらね。将来、苦労するのが目に見えてるわね。」「もういいですから。」「普通の子なら良かったのにね。社会に出ても迷惑をかけるだけだし、何の役にも立たないなんて、かわいそう。」私は強く拳を握った。「組さん、もう帰ってください。」「やだ。さやかさんたら、怖い顔。」組さんは余裕の笑みを浮かべ、悪びれる様子もない。「言っていいことと悪いことがあります。」「事実しか言ってないわよ。」「澪の前ですよ。」「どうせ理解できないわよ。」「そんなはずないでしょ。私はあの子のためを思って言ってるのよ。」「違う。」私は即座に否定した。「澪を引き取って育てたくない理由が、よくわかりました。今日はもう帰ってください。」組さんは呆れた目で私を見た後、ぷいっと後ろを向き、帰っていった。背後にいるはずの澪は、息を潜めていた。

泣いたり怒ったりして発散できれば、どんなに楽だろう。我慢している澪を見ていると、胸が苦しくなってくる。澪はその後、自分の部屋代わりに使っている客間にこもったまま出てこなかった。夕食ができたと声をかけても、首を振るだけ。私は食事にラップをかけ、部屋の前に置いた。夜になって見に行くと、少しだけ減っていてほっとした。次の日も同じだった。声をかけても首を振るだけ。テレビも見ないし、大好きなはずの本も開かない。ゆっくり見守りたいと思いながらも、気になって仕方なかった。夕方になって学校から連絡が来た。担任の先生は、無理に登校させなくて大丈夫だと話してくれた。しかし、不安は消えない。そもそも子育てなんてしたことがないので、この対応が正しいのかどうかわからない。何を言ってあげるべきなのか、誰か教えて欲しい。弟と弟嫁の顔が脳裏に浮かんでは消えた。

その夜、澪の部屋から聞こえる物音で目を覚ました。時計を見ると、午前二時だ。慌てて部屋を出ると、玄関に明かりがついていた。見ると、澪が靴を履いていた。「澪、どうしたの?」驚かせないように、普段通りに聞くと、澪は俯いたまま答えた。「帰る。」「どこへ?」「ママのところ。」弟の顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられた。澪は、もう両親がいないことを理解しているはずだ。ママはもういないなんて、分かり切ったことを言って聞かせても、互いを傷つけるだけだ。「ごめんね。私がいるせいで。」その瞬間、私は目を強く閉じた。「澪、そんなことない。どこにも行かないで。私と一緒にいて。」澪を抱きしめ、声を上げて泣いた。気づくと、二人で泣いていた。四十五歳にもなって、澪より大きな声で泣いた。この日、私は決意した。この子のために生きようと。

会社に事情を説明すると、社長は快く休みをくれた。とはいえ、すぐに生活が落ち着くわけもない。数日だけお世話をするのなら、そこまで深く考えなかったかもしれない。だが、澪とこれから先、ずっと暮らしていくとなると話は別だった。一人の子供の人生を預かる責任が、ずっしりと心にのしかかった。三食ご飯を用意して食べさせる。お風呂に入れて寝かせる。基本的にはこの作業の繰り返しだが、とてつもない時間と労力がかかった。不用意に失敗しても、絶対に澪を悲しませることはしない。それでも、この子が安心して眠れる毎日を守れるなら、苦にはならなかった。弟と弟嫁に変わることはできないけれど、何が起きてもこの子の味方でいよう。そう心に誓った。

澪と暮らし始めて二ヶ月ほど経った頃、少しずつ変化が見え始めた。相変わらず学校には行けていないが、以前のように部屋へ閉じこもることは少なくなった。朝ご飯を食べた後、洗濯物を干していると手伝ってくれる。一緒に近所を散歩したり、買い物にも付き合ってくれるようになった。最近は図書館へ行って本を借りて読むようになった。まだ以前のような笑顔は見られないが、嬉しかった。焦らなくていい。少しずつ。そう思っていた。

図書館へ行った帰り道。いつもすぐに帰りたがる澪が、喉が乾いたからジュースが飲みたいと言った。私たちは公園に立ち寄り、ベンチに座った。澪は借りた本を読み始め、私は近くの自動販売機へ飲み物を買いに行った。一分ほどで戻ると、澪のそばに誰かが立っていた。嫌な予感がする。「澪!」思わず名前を呼び、走り出した。澪の怯えた表情を見て、寒気が走る。「あら、お久しぶり。」そこにいたのは、弟嫁の母親、組さんだった。私は思わず顔をしかめた。「何してるんですか?」「そんな怖い顔しないで。小さな子が一人でいるから、気になったのよ。そしたら、澪ちゃんだったから驚いたわ。」組さんは澪の隣に腰を下ろすと、呆れたように言った。「学校はどうしたの?」澪は唇をぎゅっと結んだままだ。「先生と相談して、今はお休みしています。」私が答えると、組さんは鼻で笑い、大げさなため息をついた。「やっぱりダメね。」「『やっぱり』ってどういう意味ですか?」「甘やかしすぎよ。」澪の肩が震えている。けれど、組さんは止まらない。「学校へ行かせないなんて、本当に常識がないわ。」「決めつけないでください。ちゃんとした理由があります。」すると、見下すような目で私をじろりと見た。「やっぱり、中卒でパートなんかしてる人間は、考え方が普通じゃないわね。」組さんの大きな声のせいで、周りの人たちがこちらを見ている。しかし、全く気にしていないようだ。「自閉症だからって、何でも許されると思ってるの?」「違います。やめてください。」「あなたたちみたいな人間を助ける側の身にもなってよ。」「どういう意味ですか?」「発達障碍とか、中卒とか、社会のお荷物は、普通の人間に助けてもらって生きてるのよ。」「は?本当のことでしょ?補助金がもらえて、嬉しいくせに。」「何ですか、それ。もらってません。何も困ってませんから。」「隠さなくてもいいのに。」組さんの薄ら笑いに、強い不快感を覚える。私は呼吸を整え、低い声で言った。「いい加減にしてください。」「は?何よ。偉そうに。」隣に澪がいなければ、大きな声で言ってやりたかった。この子を見捨てたくせに。何も知らないくせに。思い込みで、ひどいことを言わないで。爪が食い込むほど拳を強く握りしめ、私は耐えた。その時、組さんが澪の耳元に顔を近づけた。「あなたも、かわいそうね。中卒パートのおばさんに育てられたんじゃ、いつまで経っても普通になれないわね。」「やめて!」私は両手で澪の耳を塞いだ。「なんてことを言うの!」澪は持っていた本をぎゅっと抱き締めた。顔色は真っ白で、今にも倒れてしまいそうだった。せっかく少しずつ取り戻していた笑顔が、消えてしまう。「もうやめてください。澪は悲しみを乗り越えようと頑張っています。中卒の私だって、できることがあります。傷つけるだけなら、もう私たちに関わらないで。」私の叫びは、笑い声でかき消された。「でき損ない二人で、せいぜい楽しい生活頑張ってね。」そう言い捨てて去っていく組さん。澪は私の腕の中で震えていた。

「ねえ、私、普通じゃないの?」澪の問いに、私は即答する。「違う。」「じゃあ、何?」「澪は澪よ。」「みんなと違う?」「違うところもある。でも、同じところもある。」「変じゃない?」「みんな違っていいんだよ。」言いながら、私は思った。組さんを二度と澪の人生に関わらせてはいけない。「澪、もうおばあちゃんに会えなくてもいい?」澪は何度も深く頷いた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。祖父母は孫を守る存在のはずだ。愛情を注ぎ、成長を見守り、辛い時には支えるべきだ。追い詰め、傷つけ、悲しませるのなら、もう必要ない。「分かった。私に任せて。」私は誓った。何があっても、私はこの子を守り抜くと。

十五年後の月日が流れ、私は六十歳になった。あの日から今日まで、あっという間だった。いつもと変わらない穏やかな朝のこと。スマホに知らない番号が表示された。「もしもし。」営業電話かと思いながら出ると、女性の声がした。「久しぶりね。」聞き覚えのある耳障りな声に、眉をひそめる。「どちら様ですか?」すると、相手は不機嫌そうに言った。「私よ。私よ。」「詐欺ですか?」「違うわよ。うちは詐欺じゃないわよ。」「最近は手口が巧妙ですからね。」「だから違うって言ってるでしょ。」「では、どちら様ですか?」「本当にわからないの?」電話の相手が楽しそうにクスクスと笑う。「時間の無駄なんで、やめてください。」「何よ、久しぶりなのに冷たいわね。」「やり取りが面倒なんで、切りますね。」「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。」相手は焦って声を張り上げた。「私よ、組よ。ああ。何よ。十五年ぶりなんだから、もっと喜びなさいよ。」組さんが得意げに言う。「はぁ。何の用ですか?」「ちょっとあなたね。」私の淡々とした態度が気に入らなかったらしい。「元気だったとか、ないの?」「私からあなたに聞きたいことはありませんので。」「相変わらず、無愛想ね。」「用件は何ですか?」組さんは咳払いをして、聞いてもいないのに話し始めた。「あなたの連絡先を探すのが、大変だったのよ。孫の同級生に聞いたり、ご近所さんたちに聞いたりして、ようやくたどり着いたんだから。」「十五年も放っておいたのに、今更探し回って、何がしたいんですか?」「放っておいたって何よ?あなたが勝手にいなくなったから悪いんでしょ。」まるで被害者のような言い方に、怒りが込み上げる。私は一度深呼吸をして、心を落ち着かせた。「そうですか。」興味なさそうに答えると、組さんは苛立った声を出した。「『そうですか?』じゃないでしょ。普通は感謝するところよ。」「探していただいて、ありがとうございます。」「さやかさん。あなたね。」組さんが顔を真っ赤にして震えているのが、電話越しに見えるようだ。「これだから、中卒は。」くだらない挑発には乗らない。「ふん。ふざけていられるのも、今のうちよ。」組さんは勝ち誇ったように言った。「喜びなさい。でき損ないがようやく役に立つわよ。」「どういうことですか?」「夫の介護をさせるから、澪を返しなさい。」数秒の沈黙の後、私は長いため息をついた。「自閉症のあの子が必要とされる日が来るなんて、良かったわね。嬉しいでしょ。」次の瞬間、私はとうとう我慢できずに吹き出した。「え?」こらえきれず爆笑すると、組さんが怒鳴った。「何がおかしいのよ!」だが、私の笑いは止まらない。「あ、すみません。だって、面白くて。」「面白いことなんか言ってないわよ!」「いえいえ、最高に面白いですよ。」「何なの?気持ち悪いわね。とにかく、澪を早くこちらに返しなさい。」「ああ、無理です。」私は即答した。「え?」「ですから、無理です。」「無理ですって?まさか、あなた、強がってるの?」「いえ、隠さなくてもいいのよ。生活するのが大変なんでしょ?過去のことは全部水に流してあげるから、安心しなさい。」「いえ、結構です。」「はぁ。何なの?」十五年で時間が止まっている組さんには、話が通じないようだ。支援学級に通っていた六歳の澪しか知らないのだから、無理はない。「何度も言いましたけど、澪は自閉症と診断されたことはありませんよ。今は全く問題ありません。」「あら、それは都合がいいわね。」「ですから、無理です。」「澪が今どこで何をしているか、ご存じないんですか?」「え?」電話の向こうが静かになった。「私の連絡先は調べたのに、澪のことにはたどり着けなかったんですね。」「は?」「澪があの頃のままだと思っていたから、興味がなかったんですか?」「何よ、何なのよ。」組さんの動揺が伝わってくるようだ。「澪は今、国立大学の医学部に通っています。」「えっ?」組さんの裏返った声が、驚きを物語っていた。思い返せば、澪は昔から不思議な子だった。興味のあることには時間を忘れて没頭し、とてつもない集中力を発揮した。一度読んだだけの図鑑を暗記したり、一度行った場所の景色を鮮明に覚えていたりもした。そんな澪の才能に、私はいつも驚かされてばかりだった。高校生の頃、科学研究の発表会で入賞し、新聞に載った。発想力が素晴らしく、物事を深く掘り下げる力がある澪は、将来を期待される人物になった。私は何度も何度も澪を褒めた。この子の才能に気づき、評価してくれる人がいることが嬉しかった。その後、澪は国立大学医学部へ合格した。亡くなった弟夫婦に報告しながら、一緒に泣いた。あの日は人生で一番嬉しい日だったかもしれない。「う、嘘よ。」組さんの叫び声で現実に戻る。「あの子は発達に問題があって、支援学級に通っていたはずよ。冗談はやめて。」「いえ、澪は新聞や大学のホームページに載るほど有名ですよ。」「何よ。」「すみません。偉そうでしたか?なんせ、自慢の娘なもので。」そう返すと、組さんは黙り込んだ。しかし、数秒後、俄然嬉しそうな声を出した。「やっぱりね。」「何ですか?」「やっぱり、私の孫よ。は?」「やっぱり、うちの家系は優秀ね。そういう血筋なのよ。」「さっき、『でき損ない』と言いませんでしたか?」「何言ってるの?これだから中卒は。聞き間違いよ。」あいた口が塞がらない。自分の都合を優先するのは、相変わらずのようだ。「さあ、私の孫を返しなさい。」「何が『さあ』ですか。嫌ですよ。」「返せ!」「嫌です。」「返せ!」「嫌です。」大きな声を出されても、私は動じない。「澪は物じゃありません。返すとか返さないとか、そういう話ではないんです。」「はぁ。」組さんに正論は通じない。「孫を返せ!返さないなら、通報するわよ!」「通報?」「そうよ。十五年も孫を勝手に連れ回した犯罪者め!」犯罪者か。ここまで来ると、怒りを通り越して呆れる。十五年前に自分が何をしたのか、まさか覚えていないのだろうか。「中卒の常識知らずの怪しい女なんて、すぐに逮捕されるわよ!」私はため息をついた。「本当に、何も分かっていないんですね。」「え?」「あなたと話すことはありませんし、二度と会うこともありません。さようなら。」私は電話を切った。これ以上、相手にするつもりはなかった。だが、終わったと思ったのは私だけだった。

翌日の昼過ぎ、私が仕事をしていると、スマホが震えた。画面を見ると、澪からの着信だ。普段ならメッセージで済ませるのに、珍しい。「どうしたの?」電話に出ると、澪は明らかに困った様子だった。「ちょっと、大学まで来られる?」突然の呼び出しに、思わず身構える。「何かあった?」少し間が空いて、澪は言った。「変な人たちがいたの。」事情を聞くと、大学の正門前で待ち伏せされたらしい。講義が終わって外へ出ると、見知らぬ高齢夫婦が駆け寄ってきた。名前を叫ばれて追いかけられたので、慌てて大学の職員に助けを求めたという。現在、その夫婦は警備員に連れられ、事務室にいるらしい。私は頭を抱えた。心当たりがありすぎる。自分の発言を後悔した。まさか、大学で待ち伏せするなんて、そこまで非常識だとは思わなかった。仕事を早退し、急いで澪の待つ大学へ向かう。案内されて事務室のドアを開けると、中では思った通りの人物が大騒ぎしていた。「だから、私はあの子のおばあちゃんなのよ!」髪を振り乱し、怒鳴る組さん。隣には、不機嫌そうな顔で腕を組む組さんの夫、正さん。警備員が説明しても、二人は納得しない。「孫を連れてこないなら、住所と電話番号を教えなさい!」警備員は呆れた様子で、何度も同じ説明を繰り返す。「国立大学のくせに、話が通じないなんて、頭が悪いわね!」組さんは、バンと音を立てて机を叩いた。完全に厄介なクレーマーだった。「あなたたちには、家族の要望を聞く義務があるでしょう!」義務という言葉に、私は思わず苦笑した。十五年、一度も会いに来なかった人の口から出る言葉とは思えない。その時、組さんがこちらに気づいた。「あら、さやかさん。あなたからも、言ってやってちょうだい。」私は心底うんざりして、首を振った。「私を仲間扱いしないでください。」「は?」「とにかく、あの子を呼びなさいよ。」警備員は至って冷静だった。私が保護者であることを確認した後、澪本人の位置確認をするという。「信じられないわ。孫に、さっさと合わせなさいよ!」「そうだ、そうだ!」「ふざけるな!」騒ぎ立てる二人を、一瞥する。「澪のことを思うなら、黙って待っていてください。」組さんは、ふんと鼻を鳴らして言った。「どうせ、喜んで飛んでくるわよ。」

数分後、事務室のドアが開いた。入ってきたのは、緊張した表情の澪だ。組さんは勢いよく立ち上がった。「澪ちゃん!おばあちゃんよ!」澪は足を止め、驚いた表情で組さんをじっと見つめる。見つめ合ったまま固まること数秒。やがて、澪はゆっくりと首をかしげた。「どちら様ですか?」「え?」何が起きたかわからず、呆然とする組さん。「そ、そうよね。久しぶりだから、無理もないわ。」笑顔は引きつっている。「おばあちゃんよ、澪ちゃん。こっちは、おじいちゃん。」そして、二人は澪に向かって両手を大きく広げた。再会を喜び合うつもりなんだろうか。もちろん、それは叶わない。澪は後ろに下がり、助けを求める目で私を見た。「知らない、こんな人たち。」怯える澪を守るため、私は一歩前へ出た。拒絶された組さんたちは、信じられないという顔をしている。「澪ちゃん、あなた頭がいいくせに、忘れたの?おばあちゃんよ。おじいちゃんだよ!」だが、澪は首を振る。本当に分からないのだ。「澪ちゃん、私たちとは六歳の頃に離れ離れになってしまったけど、あなたを思い出さない日はなかったわ。」それを聞いた澪は、少し考え込んだ。六歳の頃の澪は、いつも俯いていて、組さんの顔など見ていなかった。傷つく言葉を浴びせられる相手の顔なんて、覚えているわけがない。しかし、何か思い出したように顔をあげた。「澪ちゃん、思い出してくれた?」嬉しそうな組さんを、じっと見つめ、澪はニコッと笑った。「おばあちゃんと、おじいちゃん。」「そうよ!澪ちゃん!」「私を、『でき損ないの、役立たず』って言った人ですね。」「え?」事務室が静まり返った。誰もが言葉を失う中、澪は淡々と続けた。「私は普通じゃないから、社会のお荷物だとも言いましたね。」組さんの唇が震える。「ちょ、いや、な、何言ってるの?」「あれ、違いましたっけ?『普通の人たちに迷惑をかけるな』でしたっけ?」「やめて!やめてちょうだい!」組さんが慌てて両手を振る。それを見て微笑む澪には、妙な迫力があった。「何かの間違いよ。そんなことより、十五年ぶりの奇跡の再会を喜びましょうよ。」慌てて話題を変えるが、誰一人真面目に聞こうとはしない。警備員の顔が、ますます険しくなる。私はバッグから一枚の書類を取り出した。「これを見てもらえますか?」「何よ?」「ここに来る前、きっと役に立つだろうと思って、取ってきたんです。」机の上に置いたそれを見て、組さんたちが眉をひそめる。「あれこれ説明するより、分かりやすいでしょ。」それは、戸籍謄本の写しだった。「これを見て分かるように、十五年前に私と澪は、養子縁組をしました。」「え?」間の抜けた声が響いた。「ですから、法律上、澪は私の娘です。」組さんの顔色が、みるみる変わった。「私には、突然現れた不審者から娘を守る義務があります。」「誰が不審者よ!」「どこからどう見ても、不審者ですよ。」「養子縁組なんて、何を勝手なことを!認めないわ!」「あなたに認めてもらわなくても、結構です。」「私の孫よ!十五年前、私に押し付けたくせに、今更何を言ってるんですか?」すると、澪が私の肩を叩いた。静かに頷き、組さんたちの方へ向き直る。「私の家族は、一人だけです。」澪の瞳には、何の迷いもなかった。「悲しくて泣いてばかりで、学校へ行けなかった私の隣にいてくれた、この人が、私のお母さんです。」思いがけず『母』と呼ばれ、目頭が熱くなる。「血のつながりで縛ろうとする人より、私を守って寄り添ってくれた人こそ、私の大切な家族です。」組さんの口がパクパクと動くが、何も言い返せないようだ。澪は最後に、はっきりと言った。「私は、あなたたちがいなくても、大丈夫です。」その瞬間、十五年前から胸の奥にあった、重たい何かがふっと消えた気がした。

組さんたちは、警備員に促されながら事務室を後にした。何度も振り返る二人に、私たちは何も言わなかった。十五年越しの決着だった。

しばらくして、組さんたちの噂を耳にした。どうやら、澪が国立大学医学部へ進学したことを、あちこちで自慢しているらしい。「うちの孫はお医者さんになるのよ。羨ましいでしょ?」だが、世の中は思ったより狭い。近所の人たちは知っていた。組さんが、両親を亡くした六歳の孫を突き放したこと。発達に特性のある子供や、行政の支援に偏見を持っていることを。だから、誰も羨ましがらなかった。むしろ、少しずつ距離を置かれるようになったそうだ。当然だろう。育ててもいないのに、成功した途端に自分の手柄のように語るのだから。親戚も近所も、見下していた組さんに頼れる人はいなくなった。しばらくして足腰を悪くし、結局、介護サービスや季節の力を借りながら暮らしていると聞いた。それが悪いとは思わない。誰だって年は取るし、助けが必要になることもある。だが、施設の職員さんや介護士さんたちに、『役立たず』とか『迷惑』とか、そんな言葉を言っていないことを願う。結局、全て自分に帰るのだから。

澪はその後、国家試験に見事合格し、医師への第一歩を踏み出した。私の後ろに隠れていた小さな澪が、人を助ける医者になるなんて、胸が熱くなる。

ある日、仕事から帰ると、テーブルの上に花束が置いてあった。隣には、「お母さんへ」と書かれた小さな封筒。そうだ。今日は母の日だ。「お母さん、いつもありがとう。今はいないけど、ママとパパ。みんながいてくれたから、今の私がいます。これからもずっと元気で長生きしてください。大好きです。」気づけば涙がこぼれていた。私は何度もその手紙を読み返した。十五年前の選択は、間違っていなかった。心からそう思えた。

数年後、白い診察着を着た女性の前に、小さな男の子が立っていた。男の子は入院中で、少し不安そうな顔をしている。医師は目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。「明日の検査、頑張れそう?」男の子は少し考えた後、小さく頷く。すると、医師は優しく微笑んだ。「すごいじゃん。かっこいいね。」釣られて男の子が笑顔になった。「無理しなくていいからね。怖かったらいつでも私に言ってね。」すっかり立派な医者さんになった澪。白い診察着姿がすっかり板につき、医師として忙しい毎日を送っている。人と話すのが苦手で、怯えて俯き、私の後ろに隠れていたなんて、誰が想像できるだろう。あの子はこれから、たくさんの人を救うはずだ。天国にいる弟夫婦は、立派になった娘の姿を見て、きっと驚いているだろう。そして、誰よりも喜んでいるはずだ。あの子はもう大丈夫。誰かを支える力を身につけた、強い人になったよ。私はそんな澪を、娘として誇りに思う。これから先、嬉しいことや楽しいことと同じくらい、悲しいことや辛いこともあるだろう。それでも、私たちは大丈夫。十五年前に結んだ絆は、これからもずっと繋がっている。

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