「おかえり。今日も仕事は楽しかったか?」そう声をかけた瞬間、孫の春彦の目に涙が溢れた。がっくりと肩を落とし、ソファに体を預けたまま、彼はぽつりぽつりと話し始めた。今日の昼、営業部のオフィスで同僚たちとの食事会があったこと。しかし、春彦の弁当だけが用意されていなかったこと。新しい部長になった東野という男に、「中卒社員にはそれで十分だ」と言われたこと。
俺の名は北口総一郎、76歳になるただのじいさんだ。子供の頃から貧しくて苦労ばかりしてきたが、どんな経験も無駄だと思ったことはない。粘り強さには自信がある。そして今、最も大切にしているのは、この孫の存在だ。春彦は俺の一人娘の息子で、今年で19になる。小学生の頃に不登校になり、中学も一度も通わず、高校へも進学しなかった。周りは反対したが、俺は彼の選択を尊重した。彼は16歳からアルバイトをしながら独学で植物の勉強を続け、この春、ようやく念願だった業界大手の花の配達販売会社「サウスフラワー」に入社したのだ。不器用だが真っすぐな心を持った、自慢の孫だ。
その春彦が、今日はあんなに落ち込んでいる。東野の嫌がらせのせいで、「僕やっぱり大学、いや、せめて高校だけでも行っておけばよかったのかな」と呟く。目からは今にも涙がこぼれそうだ。泣き虫なんかではない春彦が、こんな声を出すのは初めてだった。俺の心は怒りで燃え上がった。
翌日、俺はサウスフラワーの社長である南と、主犯の東野を自宅に呼んだ。東野は初対面の俺を胡散臭そうに眺め、「ああ、あの中卒の生意気な社員か」と吐き捨てた。俺が鋭く睨むと、東野は挑発するように「なんだよ爺いさん。あんた、あのガキのじじか?」と笑った。それを止めたのは南だ。「こちらの北口さんは、うちの親会社である花の生田の最高顧問を務めていらっしゃる方だぞ。口を慎しめ!」それを聞いた東野の顔色は、見る見るうちに真っ青へと変わった。そう、俺は長年その会社で会長職まで務めた後、今は最高顧問という立場にあるのだ。
だが、東野は認めなかった。「私はそんなことしてません。嫌がらせなんてとんでもない」と、あろうことか嘘をつき始めた。作り笑顔を浮かべるその表情は、吐き気がするほど薄気味悪かった。南が追い打ちをかける。「君の高圧的な態度の報告が、営業部の人間から複数上がっている。証拠は揃っているぞ。それでもまだ言い訳を続けるのか?」すると東野は遂に観念したのか、開き直って言い放った。「ああ、もういいや。めんどくせえ。そうだよ、このじじの孫にいたずらしたのは俺だ。でも、あの程度のことで社長まで出てくるなんてありえねえだろ」
「いたずら」だと?春彦が受けた仕打ちは、そんな生易しいものじゃない。今日だって、彼は傷つきながらも必死に出社したんだ。俺は南に目くばせをし、東野はその場で営業部長の座を解かれた。東野は最期まで反省の色を見せることなく、悪態をつきながら家を出て行った。
その後、東野は強制的に解雇された。職を失った彼は自暴自棄になり、あちこちで喧嘩を起こしては警察沙汰を繰り返し、最終的には暴行の疑いで逮捕されてしまった。自分を改めることのできない人間は、結局、落ちるところまで落ちるしかないのだ。
一方、春彦はというと、会社から東野がいなくなったことで、すっかり元気を取り戻した。新しく就任した部長は腰が低くて良い人らしく、安心した。毎日楽しそうに働く孫の姿を見るのは、このじいさんにとって何よりの生きがいだ。俺も負けないように、まだまだ頑張らなくては。



