「貧乏を招集してあげるぞ」そう言って笑う男の手には、日本酒の一升瓶が握られていた。どうやら俺の頭に降ってきたのは、この日本酒らしい。男は俺の頭の上から、一升瓶ごと日本酒をぶっかけてきたのだ。隣にいた順が慌てて何か拭くものを探しに行った。
「俺が時々に消毒してやったんだから感謝しろよな。お前みたいな奴にこの日本酒はもったいなかったかもな」そう言ってゲラゲラ笑う男の後ろで、取り巻き連中も俺を指さして笑っている。俺の我慢は限界に達し、男に向かって言い放った。「取引は即中止します」
え、この後の男の言動を深く後悔し、地獄に突き落とされることになる。
俺の名前は広川浩司。独身の25歳だ。俺は中学校までは優しい両親と2つ下の弟と一緒に暮らしていた。しかし俺が中学2年の時に、両親は交通事故で亡くなってしまった。あまりに急なことで、俺も弟も何が起こったのかすぐには理解できず、泣くこともできずにただ呆然とするしかなかった。
それまで疎遠だった親戚が押しかけてきて、葬儀はあっという間に終わり、その後はお決まりの俺たちの押し付け合いが始まった。それをぼんやりと眺めながら、俺はやっと、もう優しかった両親に会うことはできないんだと実感が湧いてきたのだ。そこで初めて涙を流し、それを見た弟も泣き出し、2人で抱き合って号泣した。
親戚たちは、どこの家庭も俺と弟を2人一緒に面倒見ることはできないと言っていた。このままではたった1人の家族と引き離されてしまう。俺は親戚たちに頭を下げて、「親戚の家に引き取ってもらわなくていいから、2人一緒に同じ施設に入れてくれ」と頼んだ。弟の面倒は俺が責任を持って見るから、と。俺たちを引き取らずに済んで、親戚たちは顔には出さなかったが、心の中ではみんなほっとしたことだろう。こうして俺と弟は、児童養護施設のお世話になることが決まったのだ。
最初はなかなか馴染めずに苦労したが、俺も弟も社交的な性格だったため、施設に入って1ヶ月が経つ頃には、他の子供たちや大人たちと過ごすことに慣れることができた。
そして俺が中学3年になり、進路の話が出始めた頃、施設は嫌いではなかったが、俺は弟と2人で施設を出て暮らしたいと思うようになっていた。やはり家族だけでいたいという思いもあったし、何より施設では当たり前だがルールがあって窮屈な思いをすることも多々あった。弟には、両親がいないからと言って不自由な思いはして欲しくなかったのだ。
そのためには俺が就職して生活費を稼がなければならない。周りの同級生たちが高校受験に向けて勉強する中、俺は就職に向けた活動を始めた。中卒の俺を雇ってくれるところはほとんどなく、選り好みできるようなことはなかったが、なんとか雇ってくれるところを見つけることができた。そして同級生たちが全員高校に進学する中、俺は1人働きに出ることになったのだ。
そんなこともあり、俺は同級生とは疎遠になってしまった。だが弟と2人で暮らすことができて、俺は満足だった。その弟ももう立派な社会人になった。しっかりと大学を出て、新卒社員として日々頑張っているようだ。弟は就職と同時に家を出てしまったので、俺は今1人暮らしをしている。
1人暮らしに慣れてきた頃、仕事から帰ってきてポストを開けると、見慣れない封筒が入っていた。俺は首をかしげながら封筒を取り、その場で開けて中身を確認する。中には中学校の同窓会の招待状が入っていた。俺は高校には行っていないから、同級生と顔を合わせるのは本当に10年ぶりくらいになる。
家に入って招待状をテーブルに置いて、どうしようかと考えた。俺が頭を悩ませる原因の1つに、元同級生の「あいつ」の存在がある。あいつは父親が大きな会社の社長で、地元でも有名なお金持ちだった。両親をなくしたばかりの俺とどう関わっていいか分からず、同級生たちは珍しい物を扱うように接してきたが、あいつは違った。
俺が高校受験をしないで就職することを先生から聞いたらしい。あいつは嘲るように笑いながらやってきて言った。「おい、お前高校にも行けないくらい貧乏なんだってなあ。かわいそうに」その顔はどう見ても同情しているようには見えず、俺のことを見下しているとしか思えない。別に俺はただ弟と一緒に暮らしたいだけだから。
「施設にいるだけあって普段から貧乏臭いのに、中卒で就職とかお前の人生もう終わったな」
俺はあいつの態度に腹が立ったが、ここで奴と揉めても俺にとっていいことは1つもない。学校の先生たちも、あいつの父親が学校に毎年多額の寄付をしているからか、あいつが何をしても止めることはなかった。言い争いになっても、きっとあいつの肩を持つだろう。俺は奴に言い返すことをやめて、無視することに決めた。
だがそんな俺の態度が気に食わなかったのか、あいつの俺への嫌がらせはエスカレートしていった。教科書を破られたり、体操服がゴミ箱に投げ入れられていたり、今思えば立派ないじめだと思うが、先生も同級生も止めに入ることはなかった。俺はひたすら我慢してやり過ごすしかなかった。どうせあと数ヶ月して卒業したら、もう会うことはないのだから気にするだけ無駄だと思うようにしたのだ。
それでも俺の中学生活最後の年は、あいつのおかげで地獄のようだった。奴のことを思い出すだけで気分が悪くなってくる。同窓会にはあいつもきっと参加するだろう。確か噂であいつは高校を卒業後、有名私立大学に進学したと聞いた。まさに金持ちのエリート街道まっしぐらというわけだ。
俺は特に中学時代に仲がいい友人がいたわけではないのだが、卒業してからもちょくちょく連絡を取り合って近況報告をしたり、たまに食事に行ったりする友人は何人かいた。その友人たちに同窓会のことをメールで聞くと、みんな参加するという。俺はあいつのことが気がかりだったが、奴もさすがに大人だし、あの頃のようではないかもしれない。俺は友人たちから来るように説得されて、招待の参加の欄にチェックを入れたのだった。
そして同窓会当日、俺は事前に待ち合わせをしていた友人の北村順次と再会した。お互い忙しく最近は会っていなかったため、俺たちはお互いの近況報告をしながら歩いて会場へと向かった。俺たちが会場に着くと、まだ開始時刻まで時間があるというのにたくさんの人で賑わっていた。会場には小さな子供が何人も来ていた。確か招待状に「家族がいる人は連れてきてもいい」って書いてあったな。きっと同級生の誰かの子供なのだろう。
俺たちは受付を済ませて、会場である料亭の中に入った。外観から高級感が漂ってるとは思っていたが、内装もやはり金がかかっており、高級だ。俺は普段こういったところに縁がないため、少しばかり緊張してしまう。それは隣にいる順次も同じようで、2人で従業員の人の案内に大人しくついていった。
宴会場に着くと、俺たちはなるべく目立たない隅の方の席に座った。続々と集まってくる同級生たちを見て、大人になっても中学の頃の面影が残ってる人が多いことに安心した。俺は順次としばらく人間観察を楽しんだ。
すると、ふすまが開いて知った顔が入ってくるのが見えた。あいつだ。隣にいるのは奥さんと子供だろう。あいつが来ると、中学時代同様に周りに人が集まり始め、口を持ち上げ始める。要するにあいつに媚びを売る取り巻きってやつである。あいつは満足げな笑みを浮かべながら取り巻き連中と談笑している。奥さんと子供は別室へと移動したようだ。確かにここは騒がしくて落ち着いて食事もできないだろうからな。
そんなことを思ってると、ふとあいつと目があった。まずいと思って慌てて目をそらしたが、時すでに遅し。あいつは俺の方に近寄ってきた。
「誰かと思えば、中卒の浩司君じゃないか。ちゃんと死なずに生きてこれたんだな」そう言って俺の顔をニヤニヤしながら覗き込んでくる。「貧乏すぎてとうにくたばってると思ってたよ。貧乏人っていうのは意外と頑丈なんだな」
俺はあいつの暴言を気にしないようにしながら、挨拶だけを口にした。「久しぶりだな、脩吾」
「おいおい、お前なんかが呼び捨てするなよ。脩吾さんか脩吾様だろ」そう言いながら笑うあいつの傍で、取り巻き連中も一緒になって笑い始めた。順次は俺の隣で悔しそうにあいつを見ていた。俺はこいつは年を取っても変わらないのだなと思って、呆れてしまった。人のことを見下して何が楽しいのだろうか。
「俺の嫁さん見たか?美人だろう。美人なだけじゃなく社長なんだ」どうやらあいつが奥さんをここに連れてきたのは、みんなに披露して自慢したかったからのようだ。あいつの自慢話によると、奥さんはある会社の社長で、あいつは父親の会社で課長職についているらしい。今はまだ課長だが、ゆくゆくは父親から社長の座を継ぐことになっているとのこと。あいつの話に取り巻き連中は口々に「すごい」「羨ましい」とか言ってあいつを持ち上げていた。
自慢話に興味がない俺と順次は、2人で料亭の美味しい料理を楽しむことにした。俺たちが食事をしていると、あいつがまた俺の方に近寄ってきた。
「お前、中学の時から思ってたけど、見るからに貧乏臭いよな。もっといい服着ろよ。あ、そんな余裕ないか。中卒だもんな」
俺は別に自分の服装を貧乏臭いとは思っていない。派手なものは好きではないからシンプルなものが多いが、清潔にしている。それに中学の時なんてみんな同じ制服なんだから、貧乏臭いとかないと思うんだけどな。俺は服にあんまり興味がないから。
「お前が着なくてもこっちは困るんだよ。貧乏臭くてたまらない」そう言って脩吾は鼻で笑った。「同窓会の会場をここに決めたのも俺なんだ。いつも贅沢にしてるからね。お前みたいな貧乏人は、こういう時じゃないと来れないよな」
いい加減俺に絡んでくるのをやめてくれないだろうか。このままではせっかくの同窓会が全然楽しめない。俺があいつにそれを伝えようとした瞬間、俺の頭の上から何かが降ってきた。周りにいた同級生から悲鳴が上がった。
「貧乏を招集してあげるぞ」そう言って笑うあいつの手には、日本酒の一升瓶が握られている。どうやら俺の頭に降ってきたのはこの日本酒らしい。あいつが俺の頭の上から、一升瓶ごと日本酒をぶっかけてきたようだ。隣にいた順次が慌てて何か拭くものを探しに行った。
「俺が時々に消毒してやったんだから感謝しろよな。お前みたいな奴にこの日本酒はもったいなかったかもなあ」そう言ってゲラゲラ笑うあいつの後ろで、取り巻き連中も俺を指さして笑っている。関係のない同級生たちは俺に哀れみの目を向け、ひそひそ話しているだけで、誰も助けに来る様子はない。ここであいつに睨まれて嫌な思いをするのはごめんだもんな。きっと地元に残ってる人間が大半だろうから、自分たちのことを考えたらあいつに逆らわない方が賢明だと思うのも仕方がないことだ。
だが俺はもう我慢の限界だった。どうしてここまでされなければいけないのか分からない。そっちがその気なら、こっちにも考えがある。俺は順次が持ってきてくれたおしぼりで軽く服と頭を拭いてから、静かに立ち上がってあいつに微笑んで見せた。営業スマイルってやつだ。そしてあいつに向かって言い放った。
「取引は即中止します」
「え?」俺の言葉にあいつは一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐにまたバカにしたように笑い始めた。「何?日本酒で酔っ払っちゃった?何わけわかんないこと言ってんだよ」
俺は営業スマイルのまま、あいつに向かって静かに話した。「さっき入ってきた時に気がついたんだけど、お前の奥さん、名前は佳代さんだよな。俺が経営してる会社と取引がある会社の社長なんだよね」
「はあ?何寝ぼけたこと言ってんだよ。中卒が社長になるなんてできるわけないだろ」
俺は黙って自分の名刺を取り出して、あいつに突きつけた。そこに書いてある通り、俺は社長だよ。俺は中卒で働き始めたが、そのまま負け組の人生を送ることは絶対に嫌だったので、仕事の合間に独学で経営について猛勉強した。そして弟が大学に入れたのを見届けてから起業し、成功を収めたのだ。
「そんな、そんなことはありえない。名刺なんてどうせ勝手に作った偽物だろう」そう言って認めようとしないあいつ。その時、タイミングよく奴の妻である佳代さんと子供が戻ってきた。そして佳代さんは俺の顔を見て、「あっ」と声をあげた。
「先ほどは挨拶ができずすみませんでした。あと先日は接待、ありがとうございました」佳代さんは慌てて頭を下げて挨拶をしてきた。その様子を見ていたあいつは、愕然とした表情で黙り込んでいる。
「していただいたのに大変申し訳ないのですが、この度の取引はなかったことにしたいと思います」
「え、それはなぜでしょうか?」彼女が慌てて聞いてきたので、俺はあいつを指差して行ってやった。「あなたの旦那さんに暴言を吐かれ、挙句の果てに日本酒を頭からかけられました。人に対してこんな失礼なことをするような方のご家族とは、取引したいと思えません」
「なんですって?あなた、これは一体どういうことなの?」
「こいつが嘘をついてるんだ。俺がそんなことはするわけないじゃないか」あいつは猫撫で声を出して佳代さんにすり寄っていく。どうやら奴は佳代さんの前では猫をかぶっているようだ。
あいつの発言に、俺の隣にいた順次が声をあげた。「嘘じゃありません。『中卒の貧乏人』って何度も馬鹿にしてきましたし」
順次の言葉にあいつは青ざめたが、佳代さんの方は顔面蒼白になって俺に謝り始めた。「主人が大変失礼なことをして申し訳ございませんでした。よく言って聞かせますから、どうか取引中止だけはご勘弁いただけないでしょうか?御社との取引がなくなってしまったら、私の会社は立ち行かなくなってしまいます」
俺は必死に頭を下げる佳代さんを見て、少し申し訳なく思ってしまった。佳代さんが悪いわけではないのだが、ここであいつを許すことはできない。
「佳代、こんな奴に頭を下げるなよ。何も謝ることはないじゃないか」この後に及んでも、まだ俺のことを認めたくないらしい。あいつは佳代さんに言い寄る。あいつの発言に、奥さんはきっと睨みつけた。
「あなたは口を閉じて。広川さんの会社は私の会社にとって1番大きい取引先なのよ。なんてことをしてくれたのよ」
佳代さんの言葉に、今度はあいつの顔が青ざめていく。やっと俺が佳代さんの取引先の社長だと認めざるを得なくなったようだ。
「あなた、私の前では本性を隠していたのね。他人に対してこんな振る舞いをする人と一緒にいることはできないわ」
「え、それって…」
「子供の教育上も良くないし、離婚よ」
佳代さんの放った「離婚」という言葉に、あいつは冷や汗を流し始める。「ちょ、ちょっと待ってくれよ。離婚なんてしたら親父になんて言われるか。普通は佳代さんのことを愛してるから別れたくないとか、子供と離れたくないとかいう場面じゃないのだろうか」
「そんなこと私の知ったこっちゃないわ。自業自得でしょ」あいつにそう言い放ち、佳代さんは俺の方に向き直った。「そういうわけで、あと私は離婚して他人になりますので、どうかご容赦ください。このままでは従業員の給料も払えなくなってしまいます」
佳代さんの言葉に、俺はとりあえず今回のことは1度持ち帰らせてもらうと告げて、順次と料亭を後にした。そして近くの服屋さんで服を買い、2人で飲み直しに繰り出したのだった。
その後、あいつと佳代さんは本当に離婚することになった。どうやらあいつは俺以外に対しても、会社でパワハラやセクハラまがいの言動を繰り返していたらしく、それが佳代さんと父親の耳に入ったのだ。佳代さんからは子供の養育費と慰謝料等を請求され、父親からは見放されて会社を解雇された。今は家を追い出されて、どこにいるのか誰も知らない。しかし、佳代さんによると養育費などの支払いが定期的にあるから、どこかで生きて働いていると思うとのことだった。ちなみに佳代さんの会社とは、彼女が離婚したことで取引中止の話もなくなり、取引を続けている。
そして俺はと言うと、あの行き過ぎた行為により俺に同情する同級生が増え、順次以外にも友人と呼べる存在ができた。あいつの取り巻き連中は俺が社長と知って近寄ってきたが、俺は取り合わなかった。虫がいいとはこのことを言うのだと実感した。俺の会社の業績は右肩上がりで、充実した日々を送っている。
先日、弟から連絡があり、俺のように起業を目指したいと相談された。「兄貴に憧れて」と言われて少し気恥ずかしくはあったが、弟に尊敬してもらえる兄でいられて良かったと思った。きっと俺が中卒で働き始めた時に、その後の人生を悲観して諦めていたら、今の俺はいなかっただろう。どんな時も自分の境遇を嘆くことなく前を向いて努力を続けていたら、結果は必ずついてくるのだと思った。俺はこれからも弟に誇れる兄でいるため、自分の会社で働いてくれる社員たちのために努力をし続けて前に進んでいこうと思っている。



