「あんたみたいな貧乏人が、この高級ホテルに居座るなんて場違いよ。さっさと出ていきなさい!」…

「あんたみたいな貧乏人が、この高級ホテルに居座るなんて場違いよ。さっさと出ていきなさい!」...

あの日、高級ホテルのランチ会で、私のワンピースに真っ赤なワインがぶちまけられた。

「あんたみたいな貧乏人が、よくこんな場所に来られたわね。そんな格好、この高級ホテルには場違いよ。分かったらさっさと出ていきなさい」

ママ友のエリさんは、そう言ってグラスの中身を私に浴びせかけた。私はただ、静かにそれを受け止めた。

私は諏訪みずほ。夫と子どもと3人で暮らす、普通の主婦だ。朝から憂鬱だった。地域のボスママである矢坂エリさんに、高級ホテルのランチ会へ招かれていたからだ。彼女は少しでも気に入らないことがあると、嫌味を言い、嫌がらせをするタイプ。それに逆らえば、後々面倒なことになる。私は分かっていながら、ホテルへ向かった。

「あら、みずほさんじゃない。わざわざよく来たわね。あなたみたいな人が、こんな高級なところに来れると思ってなかったわ」

エリさんはヒールを鳴らしながら、嫌味ったらしい笑顔で近づいてきた。

「普段から地味な服に、化粧っけもないでしょ。ここでの食事代、一ヶ月分くらいになるんじゃないかしら。そんな贅沢して、ご主人に怒られても知らないわよ」

彼女はそう言って、げらげらと笑った。私は腹が立つ気持ちを飲み込み、当たり障りのない返事をしてやり過ごした。これに噛みつけば、事を荒立てることになる。それが嫌だった。

「ちょっと待ちなさいよ。あなた、本当にそんな格好で来るの? 私まで貧乏臭く見えるじゃない」

「このホテルは、ランチにはドレスコードがないはずよ。一応フォーマルなワンピースだから、失礼には当たらないと思うけど」

「あなたが良くても、私は嫌なの。いい? 私の夫はヤクザよ。この地域で有名な金剛組の組員。将来は若頭になるって言われてるの。つまり、私はゆくゆく組長の妻になる女。そんな私の隣に並ぶなら、それ相応のものをつけてもらわないと困るの」

私は内心、うんざりしていた。エリさんがボスママとして威張っていられるのは、夫の名前があるからだ。彼女はいつもそうやって、周囲のママたちを脅して従わせている。

レストランに着くと、他のママたちは全員、まるで晩餐会にでも出るようなドレスで着飾っていた。私が呆気に取られていると、エリさんはテーブルのワイングラスを手に取り、私に近づいてきた。

「他のママたちがおしゃれなだけよ。あなたがみすぼらしいの。貧乏人のあなたに、こんな高級ホテルは居心地が悪いでしょう。さっさと出ていきなさい。目障りよ」

そう言って、彼女は赤ワインを私に浴びせかけた。高い音を立ててグラスが空になる。ワンピースに、真っ赤なシミが広がっていく。

「な、何するのよ。ひどいじゃない」

「それはこっちのセリフよ。せっかく誘ってやったのに、ボロを着て現れるなんて品がないわ。いい? 私は金剛組の若頭夫人。あなたみたいな人間に指図される筋合いはないの」

エリさんは再び別のグラスを手に取ろうとした。その時、ホテルのチーフスタッフが慌てて彼女に近づき、そっと耳打ちした。

「お客様、それ以上のお振る舞いはお控えください。そのようにお方様を見下しては、命に関わりますよ」

「何言ってるのよ? この人は私のママ友で、私の言うことを何でも聞く人なの。あなたみたいな見知らぬ人に、とやかく言われる筋合いはないわ」

「お客様……諏訪様について、何もご存じなくこちらをご利用なんですか?」

「何よ? みずほなんて、どこにでもいる普通の主婦じゃない」

「諏訪様は、このホテルのオーナーでいらっしゃいますよ」

その言葉に、エリさんも、集まったママ友たちも、目を丸くして固まった。私は大きなため息をついた。

「はあ……大したことじゃないわよ。今は子育て中だから、大きな仕事は裏方に回してるの。あなたもそんなに大げさに言わないで」

「そ、そんな……信じられない。だって、このホテルはヤクザと関わりがあるって聞いたわ」

「あら、そこまで調べてたのね。確かに、このホテルは私の組で経営してるわ」

「みずほさんの? まさか、みずほさんがヤクザだったの?」

「ええ、そうよ。このホテルを持つ、ヤクザの組長をしてるの。最近はヤクザも摘発とかで何かと不自由でしょ。だから表の事業をきちんとやりくりしてるのよ」

エリさんは信じられないといった顔をした。だが、それは全部事実だ。私は子育て中であることを理由に、自分の正体を隠して控えめに暮らしてきたつもりだった。だが、バレてしまった以上、隠す必要もない。

「何よ、本当はヤクザだったのに騙してたの? そうやって私のことを見下していたんでしょう」

「黙ってたのは事実だけど、騙してはないわ。誰も見下したりしてない。ヤクザであることも、オーナーであることも、偉そうに話すことじゃないと思ってただけよ」

「何よそれ。私がバカだって言いたいの?」

エリさんは目を見開き、私に襲いかかろうとした。だが、私のそばに控えていた男が、すぐに彼女を取り押さえた。

「何するのよ、この男たち。邪魔よ、どきなさい」

「エリさんって、いつもそうよね。自分の思い通りにならないと、夫の名前を出して、それが効かない相手には暴力を振ろうとする。念のためボディガードを連れてきて正解だったわ」

「ボディガード? この男、みずほさんが雇ったの?」

「ええ。私、警備会社も経営してるのよ。SPやボディガードも派遣してるの。元ヤクザの組員って、こういう仕事にはうってつけなのよ」

「私はみずほさんに痛い目を見てほしいの。そんな乱暴な人を、このホテルに置いておけないわ。今日は帰ってもらうわね」

私はボディガードに命じ、エリさんを外に連れ出させた。

「何するのよ。やめなさいよ。納得できない! いつか絶対に仕返ししてやるから、覚悟しなさい!」

彼女は叫びながら連れていかれた。私は残されたママ友たちに頭を下げた。

「今日は驚かせてしまってごめんなさい。せっかく来ていただいたんですから、ランチを楽しんでいってください。お詫びとして、料金はいただきませんから」

その言葉に、ママ友たちは大喜びで料理に手をつけたのだった。

翌日、私は一人で買い物に行った帰り道、エリさんに呼び止められた。

「あら、みずほさん。本当は大ヤクザでお金持ちなのに、庶民のスーパーでお買い物? そうやってまだ周囲を騙してるのね」

「エリさん、昨日も言ったけど、私は騙したりなんかしてないわ。ただ、自分の身の丈に合った生活をしてるだけよ。会社をいくつか経営してるけど、それは組のお金であって、私の私物じゃないの。だから、私の家族は慎ましく暮らしてるのよ」

「勘違いしないで。あなたって、政界にも顔が効くそうね。裏社会の黒幕とか呼ばれてるらしいじゃない」

「それは誰から聞いたの? 私はあまり大事にしたくないから、普段は誰にも言ってないけど」

「夫から聞いたのよ。あなた、ヤクザの組長になってから、ほとんど一人で事業を拡大して、今は両手では数え切れないほどの会社を経営してるそうね。しかも、あちこちの政治家にも顔が効くやり手なんだって。まさかそんな人が、こんな地味な主婦のふりをしてるなんて思わなかったわ」

「随分と詳しいのね。どうしてそんなことを?」

「うるさいわね。あんたが生意気だから、叩き潰してほしいって夫に頼んだら、『あんたには手を出すな』ってきつく言われたのよ。下手に手を出したら、うちの組が終わるから、絶対に問題を起こすなってね」

「あら、そうだったの。さすが未来の若頭ね。とても賢明だわ。組を守るために、部下の私怨で動かないって分かってるんだもの」

「私のこと、バカにしてるの?」

「バカにしてるわけじゃないわ。本当にバカだなと思ってるだけよ。ご主人が止めたのに、どうして私を付け狙ったりするの? どうなっても知らないわよ」

「それはこっちのセリフよ。確かにあなたは大ヤクザの組長で、たくさんの会社を経営して、ボディガードを雇える財力もあるかもしれない。でも、一人の時はただの女でしかないの。つまり、今のあなたなら、私でも簡単にぶちのめせるってことよ。覚悟しなさい。ボコボコにした写真を、他のママたちに流してやるんだから」

エリさんはそう言うと、背負っていたバッグから空き瓶を取り出し、振りかぶって私に襲いかかってきた。

「エリさん、バカだと思ってたけど、本当にバカね。どうして空き瓶ごときで私に勝てると思ったの?」

私は攻撃をかわすと、冷静に彼女の手から瓶を叩き落とした。地面に落ちた瓶は、幸い割れることもなく転がっていった。

「痛い! 何よ、やるじゃない」

「これで勝ったと思わないことね」

エリさんは再び殴りかかってくる。だが、腰の引けたパンチは素人のそれでしかなく、彼女がまともに喧嘩をしたことがないのは明らかだった。

「そんな攻撃、当たるわけないでしょう。全く仕方ないわね。反撃するけど、これは正当防衛よ。後で恨まないでよね」

私はため息をついてから、思い切り彼女の体を蹴飛ばした。その瞬間、エリさんは膝をつき、その場に崩れ落ちた。

「ううっ……何よ、強すぎる……どういうこと?」

「当たり前じゃない。私、ヤクザで組長やってんのよ。今でこそ会社を経営してるけど、昔は喧嘩一辺倒のヤクザだったんだから。それにしても、一撃で倒れるくらい弱いのに、よく私に喧嘩を売ろうと思ったわね。もっと頑張ってくれない? まだ10発くらい殴る余裕があるんだけど」

「やめて! ごめんなさい! 私が悪かったわ! まさかみずほさんがこんなに強いなんて思わなかったの。お願い、許して」

エリさんは涙目になり、必死に土下座した。その姿を見て、私はすっかり呆れ果てた。

「エリさん、残念だけど、謝って済む問題じゃないわ。あなた、私がヤクザの組長だと知ってて襲ってきた。ヤクザに喧嘩を売った相手を野放しにしたら、私のメンツが保てないの。あなたもヤクザの妻なら、ヤクザがメンツを何よりも大事にするのは知ってるでしょう?」

「知ってるわ。だから、もう二度とみずほさんに逆らわない。みずほさんがヤクザだってことも、誰にも言わない。お金……そう、お金を払うわ。ヤクザなら、けじめとしてお金を払うことだってあるでしょ。助けて、お願い」

「そうね。確かにヤクザのけじめとして、慰謝料を支払うというのはあるわ。でも、私を狙った慰謝料は、半端な金額じゃ済まないわよ。あなたに払えるかしら」

「命がなくなるよりよっぽどマシよ。お願い、助けて。いくらでも払うから」

「なら、慰謝料として2億円。耳を揃えてきっちり支払ってくれたら、今回のことはなかったことにしてあげるわ」

「2億円……分かったわ。夫に相談して、組に掛け合ってもらうから。金剛は大きいヤクザだから、2億ぐらいなんとかなるはずよ」

「それはダメよ。あなたは金剛の旦那さんから、私に手を出すなと止められたにも関わらず、私を襲った。それなのに金剛のお金から出すのは、筋が通らないでしょう」

「そんなこと言われても、私に2億なんて出せないわ。夫のお金は私のお金みたいなものだから、別にいいでしょ」

「そう思うなら、旦那さんに相談すればいいわ。ただし、ちゃんと説明するのよ。『みずほさんを襲ったら返り討ちにあった。慰謝料として2億円を差し出せと言われた』ってね。そうなれば、私の組と金剛の抗争になるでしょうから、私の組の者たちが黙ってはいないと思うわ。楽しみだわ。久しぶりに大きな抗争になりそうね」

「ああ、でも金剛は堅実だから、私が関わってるって分かったら、2億なんて貸してくれないかもしれないわね。私の組と抗争するくらいなら、若い女を一人切り捨てた方がよっぽどマシだもの」

その言葉を聞いて、エリさんの顔はどんどん絶望に染まっていく。

「どうするの? お金はあなたが払う? それとも、旦那さんに頼んでみる?」

「ううっ……分かったわ。私が2億払う。でも、今はそんなお金、本当にないの。今すぐには払えないから、働いて返すから」

「ダメよ。今からあなたがどんなに頑張って働いても、2億稼げるのはいつのことか分からないでしょ。だから、今一括で払ってもらうわ。心配しなくても、知り合いの闇金を紹介してあげるから。書類に一枚サインすれば、すぐに2億貸してくれるわよ」

「闇金で借金なんかしたら、利息を返すだけで精一杯になるわ! それって借金地獄に突き落とすってことじゃない!」

「そう嫌なのね。なら、一層命で償ってもらおうかしら。そうすれば、一生お金の心配はなくなるわよ」

「ま、待って! 分かった! 分かったわ! 他でお金を借りて支払うから! それでいいんでしょ!」

「ええ、決まりね。すぐに闇金を呼ぶわ」

私はすぐに知り合いの闇金に連絡した。エリさんはしぶしぶ書類にサインし、借りた2億円は私へと手渡された。

「これでいいのよね? もう命は奪わないでしょ」

「ええ、もう私からあなたに何かすることはないわ。今後のことは、全て闇金の人間が判断するでしょうね。闇金の金利は高いから、ちゃんと支払わないとどうなるか、分からないわよ。これから、頑張って働いてね。利息は書類に書いてあるから」

そう言われて、エリさんは改めて書類を見て、その金額に驚愕した。当然だろう。闇金の金利は、普通に働いていては返せる金額ではないのだから。

「では、ご機嫌よう。もう二度と会うこともないと思うけど、元気でね」

私は頭を下げると、2億円の入ったアタッシュケースを手に、その場を後にした。

数日後、ホテルの様子を見に行くと、あの日のチーフスタッフが飛んできた。

「組長、無事でしたか? あれから何かありませんでしたか?」

「もう、人前で『組長』はやめてよ。恥ずかしいわ。別に変わったことなんてなかったわよ。夫も子どもも元気にしてるわ」

「失礼いたしました。あの日、お連れの方が凄まじい形相で襲いかかってきたので、また何か厄介なことに巻き込まれていないか心配で」

「ああ、そうだったわね。エリさんなら、その後一度だけ顔を見せたわよ」

私はそう言いながら、エリさんのことを思い出す。彼女は闇金の金利が支払えず、そのまま海外の風俗店に売り飛ばされたらしい。夫は突然消えた妻の代わりに、今は男手一つで息子を育てているそうだ。かつてボスママだったエリさんがいた頃、息子は周囲に気を使われ、どこか腫れ物のように扱われていた。今はその肩の荷が下りたのか、以前よりずっと友達も増え、生き生きと過ごしているという。

「エリさんは海外に飛ばされたみたいね。今頃、裸一貫で人生をやり直してると思うわ」

「そうですか。組長がご無事なら、それでいいんです。ですが、もし危険だと感じたら、すぐにボディガードを呼んでくださいね」

「心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫よ。エリさんが私を襲うことは、二度とないから」

私は笑顔でホテルを去り、自宅へ戻った。そこには、お菓子を持ち寄ったママ友たちが、笑顔で待っていた。

「お帰りなさい、みずほさん。今日はお茶会でしょ? みんなでお菓子を持ってきたのよ」

「あら、そんなに気を使わなくてもいいのに。待たせてしまってごめんなさい。さあ、家に入って。今お茶を入れるわね」

エリさんが消えてから、地域のママたちは以前よりずっと穏やかに過ごしている。彼女が周囲を脅しつけて無理やり開いていたランチ会やお茶会も、今はみんなが好きな時に好きなように集まる、楽しいものに変わった。

「みずほさんのおかげで、以前より雰囲気が良くなった気がするわ。本当にありがとう」

ママ友たちを前に、私は自然と笑顔になる。私はこの穏やかな日々が、ずっと続けばいいと願うのだった。

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