新社長に就任したばかりの弟・裕二が、社員たちの前で俺に宣告した。
「お前の今後の給料は25万固定だ。歩合は一切認めないから」
俺は45歳。父が経営していた広告会社で営業部長を務めてきた。部長としての基本給に歩合を加えた月収は平均120万。それが、いきなり25万になるというのか。
娘の塾代。住宅ローン。妻の顔が頭をよぎる。これは単なる給料の話じゃない。俺の人生そのものを踏みにじる宣告だ。
「それは、減給通告ということでしょうか?」
俺が尋ねると、裕二は吹き出した。
「まあ、すまん。俺にとっていい知らせという意味だ。父さんの残した会社で働き続けられるんだ。それだけでもありがたいと思えよ。それとも、やめるか? それもいいな。やめたらいい。お前がいなくても会社は回るんだからな」
子供の頃からずっと聞かされてきた言葉が、また蘇る。
「お前なんかいなければよかったのに」
「お前がいなくても会社は回る」
まったく変わっていない。裕二は俺が邪魔で仕方ないのだ。
部下たちの困惑したざわめきが遠くに聞こえる。目の前の裕二の顔だけが鮮明に映る。死んだ父の言葉が、その時ふと頭に響いた。
「結局は自分自身の幸せが1番大切だ。絶対に忘れるな」
その言葉を聞いた時、俺は自然と口を開いていた。
「やめていいんですね」
裕二の眉がぴくりと動く。あっさりと辞める方を選ぶとは思わなかったらしい。怒りや悲しみがないと言えば嘘になる。だが、もう我慢の限界だった。
「では、引き継ぎをいたします。退職届もすぐにご用意します」
俺がそう言うと、部下たちが「部長!」と声を上げる。背を向けた瞬間、裕二が乱暴に俺の肩を掴んだ。
「お前、調子に乗るなよ。ちょっと来い」
裕二に無理やり社長室へ連れて行かれた。2人きりになると、俺はため息をついて話し始めた。
「今度は一体何なんだ? みんなの前で減給を言い渡したり、やめればと言ってみたり。母さんの入れ知恵か?」
裕二の肩が一瞬揺れた。やがて堰を切ったように話し始めた。
「登場のつもりか。父さんと血の繋がりのない俺が新社長になって、自分がすんなり身を引くことで俺を悪者にしようって算段なんだろう」
「お前がこんな真似をしなければ、俺はそのまま働いてたよ。俺がいなくても会社は回るんだろ。だったら、それでいいじゃないか」
俺が呆れた口調で返すと、裕二はさらに眉を吊り上げた。
「お前がお前がいる限り、俺はずっと偽物の息子なんだ」
その言葉に、すべてが氷解した気がした。裕二はずっと、父の実子である俺にコンプレックスを抱いていたのだ。
「裕二、お前のそういう感情はひしひしと感じてたよ。俺だってお前と同じ立場なら、そう思うかもしれない。それでお前の気が済むならと、我慢してきたんだがな」
「お前のそういうところが大嫌いだったんだ!」
裕二が声を張り上げ、そばにあった棚を殴りつけた。鈍い音がして、バインダーなどが地面に落ちる。
俺は小さく笑った。
「とにかく、お望み通り俺はいなくなる。これでお前は満足だろう」
部屋の中が一瞬静かになる。
「今までありがとうな」
あえて感謝の言葉を添えて退出した。扉を閉めると、苛立たしげな裕二の声と、何かが割れる大きな音が聞こえてきた。
あの夜、俺は妻にすべてを話した。妻は静かに聞き終えると、こう言った。
「あなたが決めたなら、私は何も心配していないわ」
その一言がどれだけ心強かったか。俺は改めて、自分の決断は間違っていないと確信した。
退職届を出した翌日も、俺は取引先を訪れていた。引き継ぎもあるし、立場上即日退職というわけにはいかない。取引先のロビーから出ようとした時、聞き覚えのある声がした。
「正君、奇遇だな」
声の主は、うちとは長年ライバル関係にある会社の沢社長だった。60代後半の、気のいい人物だ。どうやら今日来ていた取引先は、沢社長の会社と共通の取引先だったらしい。
「本当に偶然ですね」
俺がそう笑うと、沢社長は俺の顔をじっと見て言った。
「なんだか随分ひどい顔しているな。何かあったのかい?」
「いえ、そんなことは」
退職の決断に後悔はないが、心に負担がないわけではない。その憔悴が顔に出ていたのだろう。俺はすぐに否定したが、沢社長は少し考えてこう言った。
「ちょっと付き合ってくれないか。昼食でもどうかな?」
そう頼まれ、俺は断れずに近くの店の個室で昼食を取ることになった。沢社長に促されるまま、俺は一部始終をぽつぽつと語っていく。
話を終えると、沢社長はしばらく考え込み、やがて静かに口を開いた。
「君の親父さんとはなあ、何度殴り合うような競り合いをしたかわからん。だが、あの人は1度も卑怯な手を使わなかった。精々堂々たる勝負だった。俺はいい競争相手を失ったよ」
その言葉に、俺は思わず目頭が熱くなった。
そして沢社長は俺の目をまっすぐ見て言った。
「うちの月収5倍でどうだろう? 契約金としてすぐに払うから、すぐにうちに来てくれないか? 他の条件に関しても、今までよりもいい条件を用意するつもりだ」
あまりのことに俺は目を丸くしたまま固まった。
「目の前で優秀な人材が身軽になったと言っているんだぞ。今捕まえなくてどうする? 正君の親父さんもそうだったが、自分の実力を過小評価しすぎた」
そして真剣な顔になり続けた。
「とにかく、今すぐお前が欲しいんだよ。うちの力になってくれないか」
思えば、生前の父と沢社長は表向きはライバル同士でありながら、互いに認め合う仲だった。沢社長の提案は具体的で、あらゆる面で悪くない話だ。何より、父を認めてくれていたこの人の力になりたい。
俺は、その申し出を受けることに決めた。
それから2週間ほど経った頃、引き継ぎもスムーズに進み、もうすぐ正式に退職となる。そんなある日のことだ。
玄関で靴を脱いでいると、妻が明らかに嫌そうな顔をしながら言った。
「あなた、裕二さんがお見えなんだけど」
急ぎ足で応接間に向かうと、裕二は俺の顔を見るなり声を張り上げた。
「取引先から聞いたぞ。よりにもよってライバル社のスカウトを受けるなんて、何を考えてるんだ」
あまりに大きな声に俺は慌てて妻の方を見る。妻が小さく首を横に振るのを見て、俺はほっとした。中学生の娘は今日塾の日だ。聞かれる心配はない。
俺は裕二の向かいに座り、説明した。
「仕事をやめると知って、声をかけてくれただけだよ」
「この裏切り者が! 父さんに悪いと思わないのかよ」
「裏切り? 皆の前で理不尽な減給を言い渡して、先に信義を破ったのは一体どっちだ?」
裕二は一瞬言葉に詰まったが、なおも食い下がる。
「父さんが憎む相手によくも尻尾を振りやがって」
「父さんたちは憎み合ってなんかなかったよ。互いに認め合っていた。俺はそれをよく知っている」
俺が食事会に同行していたことを補足すると、裕二はわななと震えた。
「そんな話、父さんからは1度も聞いたことがない」
「お前は食事会なんて無駄だと言っていたから、誘えなかったんだろ」
裕二の顔は急速に真っ赤に染まった。
「ふ、ふざけるな。どこまでもバカにしやがって。父さんのライバルに利益を取られるわけには」
ぶつぶつと呟く裕二を見て、母の顔が頭をよぎった。裕二の言動は、母親に大きく影響されてきたのかもしれない。だが、大人になりきれなかったのは裕二自身の責任だ。
「ライバル会社に行くくらいなら、戻ってこい。その方が父さんだって」
「もう遅いよ、裕二」
俺は言葉を遮った。
「父さんが言ったんだ。自分の幸せを1番に考えろと。裕二、お前はどうなんだ? お前の行動は、お前の幸せに繋がるのか?」
裕二が立ち上がった瞬間、妻の声が割り込んだ。
「あら、やだ。もうこんな時間。お話が済んだなら、お引き取りいただけますか?」
室内が静まり、重い空気が流れる。
「俺は、俺は間違ってない」
裕二は吐き捨て、部屋を出ていく。窓の外、去っていく後ろ姿は街灯に照らされて小さく見えた。
その後、俺は予定通り退職し、沢社長の会社へと移った。同じ業界にいる以上、嫌でも裕二の動向は耳に入ってくる。噂では、俺が10年かけて信頼を築いた大口取引先が契約を打ち切ったらしい。長年営業部を支えてきた課長も、後を追うように退職したと聞いた。母と裕二によるワンマン経営で、社員たちからの信頼も失いつつあるのだとか。
そして、母にも報いは訪れていた。経営への口出しが過ぎ、業績悪化の責任を役員たちから厳しく追求されているらしい。かつて母が味方につけた役員たちからも見放され、今や社内に居場所はないと聞いた。母から一度だけ電話があった。
「兄なら、裕を支えるべきなんじゃないのかしら」
俺は黙って通話を切り、着信拒否した。家も引っ越したので、もう近寄っては来られないだろう。
新しい職場で、俺は水を得た魚のように働いている。沢社長は俺の提案に耳を傾け、正当に評価してくれる。足で信頼を稼ぐ俺の営業は、ここでも確かに通用した。妻と娘との3人で、笑顔の耐えない新生活を送っている。
結局は、自分自身の幸せが1番大切だ。父の言葉を、今でも時より思い返す。父さん、俺は今確かに幸せだよ。胸を張ってそう報告できることが、何よりの親孝行なのだと今の俺は信じている。



