「あの日、10年ぶりに再会した同級生は、私の店の前でこう言った。『こんな汚い店で同窓会の二次会なんて恥ずかしくてできない。母子家庭育ちは無理があるんだな』と。1千万円分の料理を無駄にされ、銀行の課長代理という立場で『返済が遅れたら容赦しない』と脅されても、私は泣かなかった。でも、その夜、父が全てを知っていて、静かに動き始めた。翌朝、父は私の店に現れ、たった一言で、あの男たちの人生を根底から覆…

「あの日、10年ぶりに再会した同級生は、私の店の前でこう言った。『こんな汚い店で同窓会の二次会なんて恥ずかしくてできない。母子家庭育ちは無理があるんだな』と。1千万円分の料理を無駄にされ、銀行の課長代理という立場で『返済が遅れたら容赦しない』と脅されても、私は泣かなかった。でも、その夜、父が全てを知っていて、静かに動き始めた。翌朝、父は私の店に現れ、たった一言で、あの男たちの人生を根底から覆...

一千万円分の料理が、たった一言で無駄になった。

土曜日の夕方、閑静な住宅街の一角にある小さなレストラン「カフェ・エトワール」。店主でシェフの岩本真央、25歳は、カウンターに並んだ料理を静かに見つめていた。フレンチのフルコース、一人前1万7千円。60人分で、ちょうど1千万円。昨日から仕込みを始め、一睡もせずに作り上げた、彼女の全てだった。

そこに、10年ぶりに再会した同級生、倉本直樹が現れた。奈々銀行の課長代理という肩書きを持つ、エリート銀行員。彼は店の入口で腕を組み、冷たい声を投げつけた。

「こんな汚い店で、同窓会の二次会なんて恥ずかしくてできないよ。やっぱり、母子家庭育ちは無理があるんだな。貧乏人の店は、商売にならないってことだよ」

隣には、同じく同級生の男たちが5人。IT企業の役員、医者、ホテル会社の役員、大手物流会社の役員。全員が、真央を見下すように笑っていた。

「あ、そうだ。お前、奈々銀行から融資受けてるんだって?俺はその銀行の課長代理だ。返済が遅れたら、一切容赦しないからな」

その言葉は、脅しだった。真央の体が震えた。侮辱と恐怖で、目の前が真っ暗になった。

しかし、彼女は叫ばなかった。泣かなかった。ただ、静かに前を見ていた。倉本は、その態度に一瞬だけ目を細めたが、すぐに嘲笑を浮かべて、仲間たちと店を去っていった。

一人残された真央は、厨房の机に突っ伏して、声を殺して泣いた。

「お母さん…私、頑張ってるよ。お父さんには心配かけたくない。自分で何とかしなきゃ」

だが、その夜、彼女の父親は全てを知っていた。

時間は12時間遡る。

前日の夜、真央は高校の同窓会の二次会のための料理を、60人分、必死に準備していた。真央は10歳の時に母を亡くし、それからずっと父と二人暮らしだった。調理師専門学校で修行し、23歳で独立した。父は「東宝フードサービスグループ」の会長だが、彼女はその支援を断り、奈々銀行から融資を受けて、自分の力でこの店を開いた。

毎月の返済は20万円。ぎりぎりの経営だったが、今回の60人の予約は、今月の売上の半分以上を占める大切な仕事だった。

一週間前、倉本から電話があった。

「真央、久しぶり。今度、同窓会の二次会を、お前の店で開きたいんだ」

真央は嬉しかった。昔、倉本は真央に優しかった。勉強ができて、分からない問題を教えてくれたこともあった。真央は尊敬していた。本当に、心から嬉しかった。

「本当に嬉しい! 精一杯準備するね。みんなに喜んでもらえるように頑張る」

「楽しみにしてるよ。みんなも喜ぶだろうしね」

しかし、それは倉本の罠だった。彼は高校時代から、母子家庭に育ちながらも自分の店を持つ真央に対して、劣等感と嫉妬を抱いていたのだ。

そして、当日の開始1時間前。倉本から電話がかかってきた。

「真央、悪いんだけど、キャンセルしてくれないか?」

真央は耳を疑った。

「え? 今、キャンセル?」

「ああ、みんなで話し合ったんだけど、別の店に行くことに決めたんだ」

「でも、もう全部準備していて…」

「じゃあな」

一方的に電話は切られた。1千万円分の料理が、全て無駄になった。今月の返済ができないかもしれない。そして、倉本はわざわざ同級生たちを連れて、店の前に現れたのだ。真央を辱めるために。

「親が片親だからって…可哀想に。でも、これが現実だよな」

同級生たちも、くすくすと笑っていた。真央は何も言い返せず、悔しさで涙を堪えながら、下を向くことしかできなかった。

15年前、真央が10歳の時。母の由美子が病気で亡くなった。葬式の日、小さな真央は喪服姿で家の前に座り込み、涙も見せなかった。父の徹也は、そんな真央の小さな震える手を握った。

「真央、これから一緒に頑張ろうな」

「うん…父さん」

しかし、徹也はグループの会長として多忙を極めていた。毎日早朝に出勤し、深夜に帰宅する。真央は一人で夕飯を作り、一人で食べた。「ただいま」と声をかけても、誰も返事をしない家は、とても寂しかった。

だが真央は我慢した。父のために、笑顔でいようと。

ある日、小学校の友達に聞かれた。

「真央ちゃんのお母さん、今日学校に来なかったね。どうしたの? 死んじゃったの?」

友達は気まずそうに黙った。真央は何も言えなかった。家に帰ると、飾ってある母の写真に話しかけた。

「お母さん、今日も頑張ったよ」

それが、真央の唯一の慰めだった。

中学に入ると、真央は料理の腕を磨くことに没頭した。母とよく作った料理の味を、忘れたくなかったからだ。ある夜、帰宅した徹也が、真央が作った温かいスープを差し出してくれた時、徹也は思わず涙を流した。

「ありがとう。本当に、優しい子に育ってくれたな」

「私ね、お母さんの料理を守りたいから、シェフになりたいの」

「いい夢だな。父さん、全力で応援するぞ」

高校卒業後、真央は調理師専門学校へ進んだ。父が学費を全て出すと申し出たが、真央はそれを断り、奨学金とアルバイトで学費を稼いだ。学校のコンテストでも入賞した。卒業後は有名レストランで修行を積み、23歳の時、父にこう言った。

「父さん、私、自分の店を持ちたいの」

「それはいい! 父さんが資金を全部出すよ」

「ありがとう。でも、私、自分の力でやりたいの。銀行から融資を受けて、ちゃんと返していくから」

「真央…」

「お母さんが亡くなってから、ずっと父さんには負担をかけてきた。だから、これからは自分の力でやって、胸を張って『頑張ってる』って言いたいの」

徹也は、娘の強さを知っていた。それが、亡き妻に似た、誇れる強さだと思った。

「分かった。好きなようにやれ。困ったら、必ず言え。父さんは、いつでもお前の味方だ」

「うん。ありがとう、父さん」

真央は銀行から融資を受け、住宅街の一角に店を構えた。店の名前は「エトワール」。母の教えを胸に、笑顔を絶やさないという意味を込めた。

オープンの日、徹也がやって来た。

「い、い店だな。感動した」

「父さん、これから頑張るね」

徹也は、月に一度、この店で夕食を食べることにした。それが、二人にとって大切な時間になった。

しかし、二年後。真央の店は軌道に乗っていたが、毎月20万円の返済は苦しく、生活費を削ってやり繰ることもあった。常連客の高原が心配そうに声をかけてきた。

「真央さん、昨日は大変だったみたいだね。本当に大丈夫かい?」

高原は28歳。近くの中小企業の社長で、真央の人柄と料理を心から愛する常連客だ。

「ありがとう、高原さん。大丈夫です」

「本当に大丈夫なのかい? 何かあれば、力になるよ」

「大丈夫です。私、頑張りますから」

真央は笑顔で答えた。だが、その笑顔は、今にも崩れそうだった。

高原は言った。

「真央さんの料理は、本当に素晴らしい。あんな奴らには、真央さんの価値が分からないんだ。この店は絶対に成功する。私が保証するよ」

その温かい言葉に、真央の目に涙が滲んだ。

閉店後、真央は店に一人残り、母の写真を見つめた。

「お母さん…私、頑張ってるのに、何でこうなるの?」

涙が溢れてきた。だが、真央は唇を噛みしめ、気持ちを切リ替えた。

「泣いても何も変わらない。明日も、店を開かなきゃ」

真央はスマホを手に取り、父に電話しよ うとした。だが、やめた。父は忙しい。自分で何とかしなけれ ばならない。

その夜、秘書か ら徹也のもと に、詳し い報 告が届 いていた。

翌朝、午前8時。東宝フードサービスグループ本社、会長室。秘書が徹也に報告した。

「会長、お嬢様に関する至急の報告です」

徹也が椅子か ら立ち上が った。

「真央に何かあったのか?」

「はい。昨晩、奈々銀行の課長代理、倉本直樹という男が、娘様の店の60人分の予約を、開始1時間前に一方的にキャンセルしました。その後、同級生を連れて店に現れ、『母子家庭育ちの汚い店』と公衆の面前で侮辱し、課長代理の立場を利用して返済の遅延を脅したようです。1千万円分の食材は全て無駄になり、娘様は閉店後、一人で泣いていたとのことです。娘様は会長に連絡せず、一人で耐えようとしていたようです」

徹也の瞳が、冷たく光った。真央が泣いた? 父を心配させまいとして、泣かないんだ。その姿が、徹也の胸を締め付けた。

徹也は窓の外を見つめた。あの子は、いつもそうだ。笑顔の裏に深い寂しさを隠して、娘の誇りを傷付ける奴は、絶対に許せない。

徹也は秘書に命じた。

「奈々銀行との取引の状況は? 我々のグ ループの預金は、グループ会杜合わ せて7,000億万円。奈々銀行の預金総額の約12%だ。ま た、奈々銀行の発行株の15%も保有している。実質的な最大株主という立場だな」

「はい、承知しております」

「奈々銀行の常務、平野正に、すぐに電話をつなげ」

電話の向こうで、平野常務の声が震えていた。

「も、もしもし。岩本会長。いったい、どのようなご用件でしょうか?」

「直接、担当者に伝える。我々は、本日中に、グループを挙げての全ての取引を打ち切る」

「は、はあ? 会長、いったい何が?」

「預金7,000億万円を、グループ会杜も含め、全て競合銀行に移す」

「7,000億万円!? 会長、何が あったんです か?」

「あなたのところの、倉本直樹と いう課長代理を知っているか?」

「倉本? はい、知っています。若手のエースですが…」

「あの男、私の娘を侮辱した」

電話の向こうが、一瞬、静かになった。

「娘さんに、一体何が…」

「倉本直樹という課長代理が、私の娘のところの1千万円の予約を、1時間前に一方的にキャンセルした。そして、息子の店の前で『母子家庭育ちの汚い店』と言い放ち、課長代理という立場を利して脅したんだ」

「申し訳ございません! 今すぐに調べさせます!」

「調べる必要はない。私は、1時間以内に娘の店に向かう。倉本とあなたも、そこに来い。誠意が見えなければ、全額を即時引き揚げる」

「承知しました! 直ちに倉本を連れて参ります!」

徹也は、机の引出しから写真を取り出した。幼い真央が、母の由美子と一緒に笑っている写真だ。

「由美子…真央は、あなに良く育ってくれた。なのに、その優しさを踏み躙る奴がいる。父として、絶対に許せない」

奈々銀行本店。平野常務は、業務室で慌てて電話をかけていた。

「倉本、すぐに常務室に来い! 緊急事態だ!」

数分後、倉本直樹が常務室に入ってきた。

「常務、何か御用ですか?」

平野の顔は、能面のように無表情だった。

「倉本。お前、岩本徹也会長の娘を侮辱したそうだな」

倉本の顔色が、一瞬で血の気を失った。

「岩本徹也…東宝フードサービスグループの、会長…」

「そうだ。カフェ・エトワールの店主、岩本真央。あれは、その会長の娘だ」

倉本の体が震え始めた。

「会長は激怒されている。グループ会社含む、預金7,000億万円を全て、競合銀行に移すと宣言された。これは、奈々銀行の預金総額の約12%だ。それが消えれば、銀行は確実に倒産する」

周囲の者たちも、皆、震撼した。

「7,000億万円…ど、どういうことだ、倉本課長代理は!」

「倉本、お前は一体、何をしたんだ!」

倉本は言葉を失った。昨日の暴言が、呪いのように脳裏をよぎった。全てが、自分に降りかかってくる。

「会長は、1時間以内に娘さんの店に行かれるそうだ。お前もすぐに行って、土下座して謝罪しろ。私も同行する。これは、組織的な問題だ」

「は、はい…!」

倉本は震える手で携帯を取り出し、同級生全員に連絡を入れた。

「真央の父親が、東宝フードサービスの会長だ! 預金7,000億万円の引き揚げが発表された! すぐに店に来て、一緒に謝罪しろ!」

電話の向こうからは、次々と青ざめた声が聞こえてきた。皆、自分たちの会社との取引を必死に思い出していた。

一方、カフェ・エトワール。真央は、いつも通 りに開店の準備をしていた。昨日のことを引 き摺らないように、必死に笑顔を作って。

パートの村田が、心配そうに声をかけてきた。

「真央さん、本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。今日も頑張ろうね」

その時、店の外に高級車が停まった。後部座席から降りてきたのは、岩本徹也だった。

真央は驚いて、店の外に出た。

「父さん! 今日は、予定なかったんじゃないの?」

「ああ。ちょっと話があってな。入ってもいいか?」

徹也はカウンターに座った。

「コーヒーを一杯、もらえるか?」

「うん、すぐに作るね」

コーヒーを入れながら、徹也は静かに、娘が作っ たこの店を見渡した。娘を侮辱した者への怒りが、静かに燃えていた。

その時、店のドアが、勢い良く開いた。

倉本直樹と、同級生たち5人が、慌てて飛び込んできた。全員、顔色が真っ青だ。

「ま、真央…! 昨日は、本当にすまなかった!」

「倉本君…」

倉本が土下座しようとした瞬間、徹也が静かに立ち上がった。店内の空気が、一瞬で凍りついた。

「倉本直樹、というのは、君か?」

倉本は、驚いて体を震わせた。

「あ、あなたは…?」

「岩本徹也だ。この店の店主、真央の父だ」

倉本の顔色が、さらに青ざめた。

「父… そして、東宝フードサービスグループの会長でもある」

店内が一斉に静まり返り、同級生たちは皆、顔を真っ青にした。東宝フードサービス。全国に300軒以上の店舗を持ち、従業員は15,000人。総資産は7,000億万円。そして、奈々銀行の株を15%保有し、実質的な最大株主。

「奈々銀行の預金の約12%にあたる、グループの預金7,000億万円を引き揚げる用意がある」

倉本は、その場に崩れ落ちそうになった。真央は、呆然と立ち尽くしていた。

「父さん…?」

「真央、昨日のことは、全部聞いた。60人分の予約が1時間前にキャンセルされたこと。『母子家庭育ちの汚い店』と言われたこと。課長代理という立場を利用して脅されたこと」

真央の目が、驚きで見開かれた。

「な、何で父さんが…?」

「私がお前の父だか らな。いつも、見守 っている」

真央の胸に、何かが込み上げてきた。ずっと一人で戦 っていると思 っていた。で も、父は遠くか ら、ずっと見ていてくれた。真央は唇を噛みしめ、泣き声を堪えた。

徹也は、倉本たちに視線を戻した。

「あなたは、昨日、私の娘を侮辱した。謝罪では済まない。先に、事実を確認させてもらう」

徹也は一歩、前へ進んだ。

「昨日、あなたは、私の娘の店に、60人分の予約を入れたな?」

「は、はい…」

「そし て、開始1時間前 に、一方 的にキャンセルした」

「申し訳ご ざいませ ん。1千万円分の食材を無駄にしました…」

「さらに、店の前で声を大げにし て、『母子家庭育ちの汚い店』と吐言し、課長代理という立場を利して、返済が遅れたら容赦しないと脅した。事実か? 違うか?」

倉本は頭を垂れた。

「…事実です。全 て、私がやりました」

「何故、そん なこ とをした?」

倉本は答えられなかった。嫉妬が勝っ ていた。振り返 ると、恥ずかしさでいっ ぱいだ。

徹也は、同級生たちに目を向けた。

「あなたがたも、一緒に嘲笑したな?」

「申し訳ございませ ん…」

徹也は、一人ひとり の顔を見つめた。そし て、一人ひ とり の会杜名と業種を、正確に言い当てた。

「皆さん、私のグ ループと取引のあ る会杜に勤めているな?」

皆、震えなが ら頷いた。徹也の調査の網に、恐怖を感じていた。

その時、店のドアが開き、銀行の平野常務が入っ てきた。

「岩本会長、誠に申し訳ございませ ん! 組織とし て、管理責任を痛感し ています。現在、事実確認を進めています」

徹也は、再び倉本を見た。

「倉本さん。私の娘は、10歳で母を亡くし、そ れか ら二人で生 きてきた。忙しく て家を空け ることが多かっ た夜でも、娘が泣い たこと は一度もなかった。23歳で独立す る時、私が全 て出資す ると言 った。だ が、娘は断った。自分 の力で やりたいと。そし て、毎月20万円の返済を、2年間、一度も遅れ ることな く払い続けた。それが、娘の誇りだった。娘は朝5時か ら仕込みを始め、閉店後も遅くま で働いた。それで も、母の味を守るこ とを、決して諦めなかった」

真央は、唇を噛みしめ、涙を堪えた。父は、全部見ていたんだ。

「あなたがたは、そん な誇りと、2年分の努カを、一瞬で踏み躙った。私は、娘の独 立を尊 重し、遠 くか ら見守 ってい た。だ が、娘を傷付 ける者がいれ ば、話は別だ。娘の父として、絶対に許さない」

店内は、凍りついたかのように静まり返った。

徹也は平野に向き直った。

「平野さん。先ほどの電話で伝えた通り、資金移動の規模は、条件次第だ。まず、娘への融資の残額、1,500万円を、全額、一括で返済免除にしなさい」

「はっ、承知しました。直ちに手続きを進めます」

「そして、倉本直樹への処分だ」

倉本の体が、激しく震えた。

「倉本は、即日、懲戒解雇とする。これは、会社の信用を著しく損なう行為であり、弁解の余地はない。お前は、私の人生を、お前自身の人生を、そして、娘の人生を、踏み躙ろうとした」

倉本は、何も言えなかった。

「そし て、この者た ちについ て は、皆さん の会杜との取引 を、即時、打ち切る」

同級生たちの顔が、一瞬で真っ青になった。

「み、南商事とは、取引停止。フロンティア・テックとの取引は、全契終了。日本ホスピタル・グ ループとの投融資契終了。ハシもト物流との契終了。年に50億万円の取引が消えれ ば、会杜は倒産するで しょ う」

「お、お願いです! 首にしな いでく だ さい!」

皆、絶望に沈んだ。

徹也は、倉本にも う一度、目を向けた。

「私の娘は、お前 のこ とを尊敬していた。同窓会で再会し て、嬉しそ うに してい た。そん な娘を、お前は裏切った」

倉本は、涙を止めら れなかっ た。

「平野さん、後は任せた」

徹也は、真央の方へ歩い た。

「真央、大丈夫か?」

「父さん…!」

真央は徹也に抱 りつい た。涙が止ま らなかっ た。

「ありがと う。ありがと う…」

「いや、私 は何も してい ない。お前 は、自分 の力で立っ てい たん だ」

真央は、しばらく父の腕の中で泣き続けた。昨日の夜も、声を殺して泣いた。今、初めて、誰かの温もりの中で泣いた。父の手が、優しく真央の背中を撫でた。

それを見て、常連客の高原も、静かに涙を流していた。

しかし、徹也は再び倉本たちに視線を向けた。

「話は、まだ終わっていない」

倉本たちの顔が、さらに青ざめた。

「真央、こっちにおいで」

真央は涙を拭いて、徹也の隣に立った。

「倉本さん。娘が、あなたに直接聞きたいことがあるそうだ」

真央は、震える声で口を開いた。

「直樹君…私、何か悪いことした?」

倉本は、顔を上げら れなかっ た。

「高校の時、同級生だっ たよね。直樹君は、いつも優しかっ た。勉強もで きて、分かんな い問題 を教え てくれた。私、直樹君 のこと、ずっと尊敬 してた」

真央の声が震えた。

「同窓会で会え て、本当に嬉しかっ た。直樹君 が、すごい銀行員になっ てて。店で二次会 を開い てくれる って言 ってくれ た時も、嬉しかっ た。だか ら、一生懸命、準備 した。前日か ら仕込み始め て、一晩中、料理 を作っ た」

真央の目 に涙が溢れ てきた。

「フレンチのフルコース、1人前1万7千円。60人分 で1千円。私に は、大金だっ た。で も、直樹君 たち に喜ん で もらう と、心 を込め て作っ た」

真央の声 は、涙で涸れ て しまっ た。

「何で…何で、そん な酷いこ と を言う の? 母 が亡く なっ てか ら、父 と二人 で頑張っ てき た。そん なこ と、笑わ れ るこ と なの? 自分 の力 で店 を開い た こ と、馬鹿 に され るこ と なの?」

倉本は、涙を流しながら下を向いた。何も言えなかった。真央の純真な問いが、彼の心を貫いた。

「私、頑張ってきたんだよ…」

徹也は、娘の肩に手を回した。

「もういい。真央。お前は、十文にやっ た」

徹也は倉本を見た。

「倉本さん。娘の言っ たこ と、聞い たな?」

「…はい」

「あなたに は、答える義 務があ る。何故、私の娘に、そん なこ とを した?」

倉本は、震える声で答えた。

「…嫉妬でした。高校時代か ら、真央は優しく て、皆 に好かれ て、私 はいつも 羨ん でい た。同窓会で再会 して、自分 の店 を持っ てる と聞い て、私 より も幸 せそ うだ と思っ た。私 はエリート銀行員 のはず なのに…母子家庭 に育っ た真央 が、何 で私 より も幸 せな んだ…そん な風 に思 う 自分 が、許せ なかっ た」

倉本は顔を覆い て、泣き崩れた。

「歪ん でい た。私 の心 は、完全 に歪ん でい た。本当 に申 し訳 ありません…」

徹也は、冷 く見下 ろし た。

「嫉妬…歪ん だ優越感…。そん なも の のた め に、私 の娘 を傷付 けた のか」

「申 し訳 ござい ませ ん…」

「私 は、あな た の謝罪 を受 け入 れな い。あな た は、私 の娘 の2年分 の努カ を踏 み躙 り、1千円 分 の食 材 を無駄 にし、娘 を泣 かせ た。そ の代 価 は、一生 か けて払 っ て もら う」

平野が一歩前へ進み出て、倉本への処分を言い渡した。

「倉本、直ちに懲戒解雇とす る。退職金 は支給 しな い。さ らに、会杜 とし て は、あな た に30億万円 の損害賠償 を請求す る。私的資産か ら支払っ て もら う」

「3,000万円…」

「ま た、あな た の行 為 は、金 融 業界全 体 に周 知 す る。あな た は、二度 と この業 界 で働 け な い」

倉本は完全に崩れ落ちた。彼の人生は、そこで終わった。

徹也は、同級生たちに視線を移した。

「あなたがたも同じだ。南商事との取引は全て停止する。あの会社は、倒産するだろう。私の娘を育ててくれた上司の会社だ。フロンティア・テックとの契約も、即時終了。日本ホスピタル・グループとの提携も、今日で終わり。ホテルとの契約も終了。ハシモト物流との契約も終了。あなたがたは、それぞれの会社で、責任を取ることになる」

「お、お願いです! 私だけは、勘弁してください!」

「私の娘を傷つけた代償だ。受け入れなさい」

平野が、奈々銀行への最終通告を伝えた。

「平野さん。奈々銀行への最終通告です。グループ預金のうち、3,000億万円を、明日までに競合銀行へ移す」

「3,000億万円の引き揚げは、お許しください!」

「先ほど言った二つの条件、融資の返済免除と倉本の解雇が、誠実に履行されれば、残り4,000億万円は預け置く。だ が、一で も条 件が守ら れなけ れ ば、7,000億万円全 てを、即時引 き揚 げる」

「承知しました! 全てお約束いたします!」

平野は、倉本を見た。

「倉本。社員証を返せ」

倉本は、震え る手 で社員証 を平野 に渡 した。

「今日付けで、お前 は長期休職だ。荷物 は後 で取 りに来 い。二度 と、社 に来 るな」

倉本は、その場に崩れ落ちた。一瞬で、エリート銀行員としての人生、婚約者、友人、社会的地位、全てを失った。

徹也は、真央の肩に手を回した。

「真央、もう大丈夫だ」

「父さん…私の店、守ってくれたんだね」

「私は、ただ支えただけだ。お前が、自分で守ってきたんだ」

「ありがとう。本当に、ありがとう」

母娘は、静かに抱き合った。常連客の高原が拍手を送ると、店内に温かい拍手が広がった。

「真央さん、良かったね」

パートの村田も、涙を流していた。

「真央さん…」

真央は、皆に笑顔を見せた。

「ありがとうございます。私、これからも頑張ります」

その頃、倉本たちは、誰にも見送られずに店を出た。外に出ると、倉本の携帯が鳴った。

「もしもし…」

「直樹? 今すぐ、話したいことがあるの」

「え?」

「婚約、解消したいの」

一方的に電話は切られた。倉本は、その場に座り込んだ。全てが、崩れ去っていった。

同級生の一人の携帯も鳴った。

「もしもし…」

「お前、何をやったんだ! 東宝フードサービスが、取引を停止すると言ってきたぞ! 年間50億円の取引が消えるんだぞ! 会社は倒産だ! すぐに帰ってこい! お前は、今日付けで解雇だ!」

同級生も、崩れ落ちた。次々に、皆の携帯が鳴った。取引停止、解雇。皆、同じ知らせだった。彼らは今になって、自分たちが何をしたのかを思い知った。だが、もう遅かった。

倉本は空を見上げた。青い空が眩しかった。だが、彼の未来は、真っ暗だった。

「…何てことを、してしまったんだ」

後悔の涙が、彼の頬を伝った。全て、自業自得だった。誰も、助けてはくれなかった。

一年後。カフェ・エトワールは、毎日満員になる人気店になっ ていた。東宝フードサービス会長の娘が経営す る店として話題にな り、予約は2ヶ月待ち とい う状態だっ た。

だが、真央は変わら なかっ た。毎朝5時か ら仕込を始め、心を込め て料理を作る。店を開い た当時と、何も変わら なかっ た。

常連客の高原が、カウんタ ーに座っ て言っ た。

「真央さん、今日も美味しいね。相変わらずだ」

「ありがとうございます。これか らも、頑張ります」

パートの村田も、この一年で大分成長し た。

「真央さん、僕もいつか、こん な店を持ちた いです」

「村田くん な ら、で きるよ。大事な のは、諦め ずに、心を込め るこ とだよ」

「はい! 真央さん見た いな、頑張ります!」

村田の目は、一年前の真央の目と、とても似ていた。真央は、笑顔でそん なことを思っ た。

一方、倉本直樹は、奈々銀行を退職し た後、金融業界か ら完全 に追放さ れ ていた。最期 の就職活で は、書類 を門前 で弾か れるこ とさえあっ た。奈々銀行を解雇さ れた男、と いう噂は、業界の外ま で広がっ ていた。

損害賠償3,000万円の請求は、分割払いと なっ てお り、毎月20万円以上 を払い続け てい た。預金はすぐ に尽き、高級マ ンション の契終了。今 は、コ ンビニ でアルバイ トを し、家賃3万円 の古いア パート で暮 らし てい た。時給1,000円、月収12万円。借金 と家賃 を払う と、手元 に残 るのは数万円 だけ。高級 な腕時計 もスーツ も、売っ てし まっ た。婚約者 は去り、友 人 の連絡 も、次第 に途絶 え ていっ た。

あ る夜、コ ンビニ か らの帰 り道。倉本 は、ふ と足 を止め た。住宅街 の路地 の奥 に、温か い灯 りが漏れ てい た。カ フェ・エ トワールだっ た。閉店時間 を過ぎ てい る のに、窓 か ら柔 らか い光 が漏 れ てい る。店内 に は、父娘 がカ ウン ター に並 ん で座 り、何 か を話 し なが ら、温 か く笑 い合 っ てい た。

倉本 は、その場 に立 ち竦 ん だ。あ の 光 を、自分 は壊 そ う と し た の だ。そう思 う と、後悔 の波 が押 し寄 せ て き た。自分 に は、何 も残 っ てい な い。仕事 も、婚約者 も、友人 も、金 も、誇 り も。全 て は、自分 の 所為 だっ た。

「真央…す ま な かっ た」

誰 に 届 く こ と も な い謝罪 は、夜 の闇 に消 え ていっ た。

同級生 た ち も、同 じ よ う な道 を辿 っ た。南商事 を は じ め、フ ロ ンティア・テ ック、日 本 ホ ス ピ タ ル・グ ル ー プ、ハ シ モ ト物 流、取 引 停 止 に よ り、皆 仕 事 を 失 っ た。一 瞬 の 傲 慢 が、彼 ら の 人生 を 変 え て し ま っ た の だ。

そし て 今夜。閉店後 の カ フェ・エ トワ ール。店内 に は、真央 と 徹也 だ け が い た。月 に 一度 の、父 娘 だ け の 大切 な 時間。

「今日 も 美味 かっ た よ、真央」

「あり が と う、父 さ ん」

徹也 は、真央 が 入 れ た コ ー ヒ ー を 両手 で 包 む よ う に 持 っ た。

「店 も 繁 盛 し て い る よ う だ な」

「うん。全 て、父 さ ん の お 陰 だ よ」

「い や、お 前 が 努 力 し た か ら だ。私 は 何 も し て い な い」

「そん な こ と な い よ。あ の 時、父 さ ん が 来 て く れ な か っ た ら、私 は 立 ち 直 れ な か っ た か も し れ な い」

「違 う な。お 前 は、立 っ て い た。私 が 来 る 前 か ら、お 前 は 一 人 で 店 を 切 り 盛 り し て い た。そ れ が、お 前 の 強 さ だ」

真央 の 目 に、涙 が 滲 ん だ。だ が、そ れ は 悲 し み で は な く、温 か さ の 涙 だっ た。

「父 さ ん。私、ず っ と 思 っ て た ん だ。お 母 さ ん が 亡 く な っ て か ら、私 は ず っ と 父 さ ん に 迷 惑 か け て き た ん じ ゃ な い か っ て。一 人 で 寂 し い 思 い を さ せ て し ま っ た ん じ ゃ な い か っ て」

「真央…」

「だ け ど、父 さ ん は 一 直 線、私 の こ と を 見 て て く れ た。静 か に、温 か く、遠 く か ら。そ れ が、私 は 嬉 し か っ た」

徹也 は、優 し く 娘 の 頭 を 撫 で た。

「私 も、お 前 に 助 け ら れ て い た。仕 事 で 挫 け そ う に な る 夜 も、お 前 の 笑 顔 を 思 い 出 し て、頑 張 れ た。お 前 が い る か ら、私 は や っ て こ ら れ た ん だ」

二 人 は、静 か に 抱 き 合 っ た。カ ウ ン タ ー に 飾 ら れ た 母・由 美 子 の 写 真 が、柔 ら か く 二 人 を 見 守 っ て い た。

「由 美 子…真央 は、立 派 に 育 っ て く れ た よ」

「お 母 さ ん…私、頑 張 る ね」

店 の 外 で は、静 か な 夜 風 が 吹 い て い た。小 さ な レ ス ト ラ ン、カ フ ェ・エ ト ワ ー ル。そ の 灯 り は、今 も 町 を 柔 ら か く 照 ら し て い る。

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