「新しいおっかさまを、追い出さないでください!」…

「新しいおっかさまを、追い出さないでください!」...

「新しいおっかさまを追い出さないでください!」

お夏はそう叫ぶと、屋敷の門前へ飛び出し、両腕をいっぱいに広げました。その背後には、旅支度を整えた後添いのお千代が、黒い風呂敷包みを抱えたまま立ち尽くしています。

凍りつくような目差しに、笑みひとつ浮かべぬ顔。集まった村人たちは、その女を恐れ、今すぐ屋敷からさらおうとしていたのです。

下男たちがお夏を脇へどけようと近づきましたが、娘は一歩も動きません。

「みんなが怖くても、私は怖くありません。この人は私のおっかさまです」

なぜこの幼子だけが、誰からも忌み嫌われたまま母を信じ、たったひとりで守ろうとしたのでしょうか。その理由を知る者は、まだ誰ひとりおりませんでした。

いったい何が、この幼子をそこまで強くしたのでしょう。話は、お千代がこの屋敷へ迎えられる少し前に遡ります。

江戸時代も半ばを迎えた頃のこと。海に近い里の村に、田を広く持つ商家がありました。主人の名は原三郎。村人から深く敬われる人でしたが、生まれつき体が弱く、若い頃から胸を患い、乾いた咳が絶えることのない身の上でした。

主の家の台所では、朝な夕なに煎じ薬の匂いが立ちのぼり、その苦い香りが屋敷中に染みついておりました。

原三郎には、お夏というひとり娘がおりました。年は九つ。栗の実のような大きな瞳をした、恐れというものをまるで知らぬ子でございました。

お夏の母は三年前、お夏が六つの年にこの世を去っておりました。広い屋敷に女の大人といえば、年を取った乳母の滝がただひとりきりでございました。

お夏の気性を語るに、こんな出来事がございました。滝が柿の木の下でぼんやりと足を止めておりますと、お夏は木のてっぺんまでするすると登り、一番赤く熟した実をひとつもぎ取って、まるで木の葉のように軽やかに降りて参りました。

「落ちたらどうなさいます」

滝が目を丸くしますと、お夏は自分の袖でその柿を丁寧に拭きながら、

「この柿があまりに立派で、見過ごせなかったのだ」

と澄まして答えるのでございました。滝は思わず胸が熱くなり、これほど恐れを知らず、これほど懐の深い子は他にいないだろうと、しみじみ思うのでございます。

お夏は恐れを知らぬだけでなく、目端の利く子でもございました。ある晩、滝が竈の前で薬を煎じておりますと、お夏がそっと近寄って鍋の中を覗き込み、

「水加減が、指一本分ほど多いようだ」

と言い当てたのでございます。滝は目を丸くして、

「この子が薬の加減まで見分けるとは」

と舌を巻いたのでございました。

ここで時をさらに三年ほど遡りましょう。お夏がまだ六つになるかならぬかの、寒い冬のことでございます。母のおちよは病の床につき、部屋には濃い薬の匂いが立ち込めておりました。

日に日に痩せていく母の枕元で、幼いお夏はぴったりと寄り添っておりました。

「おっかさま、どうしていつも苦しいの」

お夏が尋ねますと、母は骨ばった手で娘の頬をそっと撫でながら、

「たったひとつだけ、おまえに聞かせておきたいことがある」

と言いました。

「人というものは、恐ろしい見かけで感じるものではない。その内にあるものを見なければならぬのだよ。温かい顔の裏には温かい心が隠れていることがある。笑う顔の裏に、冷たい心が潜んでいることもある」と。

「そんなの難しいから、早く直って」

と甘えるお夏に、母は力なく笑い、

「大きくなれば、いずれ分かる時がこよう」

とだけ言いました。ほどなくしておちよは息を引き取り、その言葉は幼い心の奥底に静かに沈んでいったのでございます。

このお夏には、人に知られぬ癖がひとつございました。美しいと思うものは何でも、自分の小さな木箱にしまい込む癖でございます。つるつるした川の石や珍しい花、母が残した小さな鏡。これらを納めた木箱は、お夏にとって何よりの宝箱でございました。

六つの頃のことでございました。お夏は父の書斎でひとり遊んでおりました。硯のそばに置かれた小さな品を見つけました。指の先ほどの印形で、その緒に赤い糸が結びたれておりました。幼いお夏の目には、それはただ美しい物としか映らなかったのでございます。

あまりに美しかったので、お夏はそれをじっと眺め、何の気なしに宝箱へしまい込みました。もうこれは自分のものだと思い定め、母の鏡の隣に並べて蓋を閉じたのでございます。六つの子にとっては、それはただの美しい品にすぎませんでした。

三郎は病に伏ってからというもの、印を押す用事がすっかり絶えており、印形が消えたことに誰ひとり気づくものはございませんでした。こうして赤い糸のついた印形は、幼い娘の宝箱の中で三年もの長きに渡り、静かに眠り続けることとなったのでございます。

歳月は流れ、お夏は九つになりました。すくすくと育ってまいりましたが、三郎の咳は日に日に重くなるばかりでございました。

そんなある日、三郎の弟に当たる助之進が久しぶりに屋敷を訪れました。この助之進は、常に愛想の良い笑みを絶やさず、口の聞き方も誠に丁寧な男でございました。

「兄上、この弟が参りました」

助之進は三郎の手を握り、しみじみとした声で切り出しました。

「この屋敷に奥向きを取り仕切る者がおらぬ故、心が衰えられてしまうのでございましょう」

と、継室の話を持ちかけたのでございます。三郎は、

「妻を失ってまだ三年しか経っておらぬ」

と首を振りましたが、心は動きました。

「お夏をご覧なさい。母を失ったままでは、これから学ぶべきことも学べますまい」

と娘のことを言われますと、三郎の心はぐらりと揺れました。ちょうど良い段がひとつある。物静かで手先の器用な女子だと、助之進は言い添えました。三郎はやがて弟の言うがままに任せることとなったのでございます。

縁側の隙間から、その様子を小さな顔がそっと覗いておりました。お夏でございます。お夏は叔父の愛想の良い笑みをじっと見つめておりました。

「新しいおっかさまが来たら、おとうさまはすっかりお元気になるの」

と尋ねるお夏に、助之進は一瞬言葉をつまらせましたが、すぐに、

「それはもちろんのこと。すっかり元気になられよう」

と受け合いました。

「本当ですね」

と念を押すお夏に、助之進はただ笑って娘の頭を撫でるばかりでございました。お夏はその手のひらがどこか気持ち悪く感じられ、そっと身をよじって離れたのでございます。

さて、その縁談の相手となる女子は、お千代と申しました。故郷が越後であったことから、後に村の者たちはこの人を「越後のお千代」と呼ぶようになります。お千代は若くして夫と死別し、その後は縁のある場所の旗本で下働きをしながら、ひとり静かに暮らしておりました。過去に何があったのかを自ら語ることはなく、誰とも深く関わろうとはしませんでした。

冬になると手足のしもやけに悩まされ、このまま年をいたならば頼る先もなくなるであろうと、お千代は暗い思いを抱えておりました。そこへ、ある仲立ちの女が訪れました。

「お屋敷が、病気で家を任せられる奥方を探しておられます」

と。

「私に、あの子の母親になれと。そういうことでございますか」

と尋ねると、仲立ちの女は首を振り、

「ただ家を静かに守ってくだされば良い。無理に母になれとは求めておられません」

と答えました。それは助之進が、あらかじめ言い含めておいた言葉でございました。

お千代は長く黙った末、やがて静かに頷きました。誰かと深く心を通わせずとも暮らせる場所があるならば、それで良い。もう二度と、情を寄せた末に失う苦しみだけは味わいたくない。お千代はそう心を固め、この縁談を受けたのでございます。

いよいよお千代を迎える日が参りました。門前に一振りの輿が下ろされ、中からひとりの女子がゆっくりと降り立ちました。黒みがかった鼠色の小袖に、顔は紅葉の抜け殻のように青白く、目元は氷のように冷ややかで、笑みのかけらすら見当たりませんでした。

下男たちは思わず頭を下げ、ああ恐ろしいと、息を潜めるばかりでございました。ところがただひとり、その冷たさにたじろぐことのない者がございました。

お夏は新しい母の元へ小走りに近寄り、

「新しいおっかさまでございますか」

と問いかけました。お千代が無言で頷きますと、お夏は、

「私はお夏と申します。これから、よろしくお願いいたします」

と丁寧に頭を下げたのでございます。お千代はしばし娘を見下ろしておりましたが、やがて目をそらし、無言のまま奥へと入ってしまいました。

その夜、初めての膳が整いました。しかし、杯の周りには冷たい風が漂うばかりでございました。

「見知らぬ屋敷で、さぞかし不便であろう。何か欲しいものがあれば、何なりと申されよ」

と三郎が苦しい息の下から言葉をかけましても、

「ございません」

と、お千代は一言答えるのみでございました。

「この柿がおいしゅうございます。どうぞ召し上がってください」

とお夏が小皿をそっと押し出しますと、お千代の手が一瞬止まりました。しかし、女はついに何も口にせず、ただその皿をじっと見下ろしているばかりでございました。

翌朝も、お夏が戸口に座り込んで、

「おっかさま、よくお休みになれましたか」

と呼びかけても、中からはしばらく何の返事もございませんでした。ようやく障子がわずかに開き、

「まだ、そこにおったのか」

という声が漏れました。

「おっかさまのお顔が、見たくてまいりました」

と素直に答えるお夏に、

「無駄なことをせず、飯でも食え」

と素っ気なく言ってしまったのでございます。

その晩、お夏は水でも飲もうと寝床を抜け出しました。離れの前を通りかかりますと、時ならぬ淡い明かりが揺れておりました。こんな夜更けに何かと、お夏は足音を忍ばせ、そっと障子の隙間に近寄りました。

すると思いもよらぬ光景が広がっておりました。あの恐ろしいお千代が、古びた小さな木像を胸に抱きしめて、声を殺しながら肩を震わせて泣いていたのでございます。それは、堪えに堪えた末の、そういう泣き方でございました。

お夏は思わず息を止めました。その時、遠い昔の母の声が、どこからともなく蘇えるように聞こえてまいりました。

「人というものは、恐ろしい見かけで感じるものではなく、その内にあるものを見なければならぬのだよ」

という、あの言葉でございます。あの恐ろしい顔の裏に、これほど悲しいことが隠れていたのだと、幼い胸の片隅がちくりと痛んだのでございます。

お夏には、女がなぜあの木像を抱いて泣いているのか、その訳までは分かりませんでした。お夏は足音を忍ばせ、そっと自分の部屋へ戻ったのでございます。

それから十日ほど過ぎた、ある夕暮れのことでございました。お夏は、お千代が小さな包みを胸に抱え、裏山の小道をひとり歩いていく姿を見かけました。何度も辺りを見回す様子が気にかかり、お夏は木の影に身を隠しながら、そっと後を追いました。

お千代がたどり着いた先には、苔むした古い地蔵がひとつ、ぽつんと立っておりました。お千代はその足元に古びた小さな木像を置き、静かに手を合わせました。やがてその唇から、か細い声が漏れました。

「おきち……」

それが誰の名であるのか、お夏には分かりません。ただ、お千代が何かを隠すためではなく、亡くした誰かを弔うためにここへ来たことだけは、伝わってまいりました。

お夏は声をかけることなく、そっとその場を離れました。あの冷たい顔の奥には、まだ自分の知らぬ深い悲しみがある。そのことを知ってから、お夏はますます、お千代をひとりにしてはならぬと思うようになったのでございます。

さて、この屋敷には笑みを絶やさぬ客が度々出入りしておりました。叔父、助之進の従者でございます。

ある日、屋敷の裏手の目立たぬ場所で、助之進が家の帳面を預かる手代の惣助を呼び止めました。

「あの越後のお千代は、前にいた家で幼い子を死なせたそうだが」

と、声を潜めますと、惣助は辺りを見回しながら頷きました。助之進の口元に、薄い笑みが浮かびました。

「その話を少しねじまげて、死の日に村の者へ言いふらしておけ」

惣助は思わずたじろぎましたが、

「お前が博打で開けた穴の金を、誰が埋めてやったか」

と脅され、逆らうことができませんでした。

「何のためでございますか」

と惣助が尋ねても、

「あるものを探しておる。それが見つかれば、全ては早かろう」

と答えるだけで、それ以上は語りませんでした。

その時、縁側の菖蒲の葉を、小さな袖がふわりと払いました。お夏でございます。二人の言葉を全て聞き取ることはできませんでしたが、叔父と惣助が何かよからぬことを企んでいるらしいと、幼い胸に引っかかったのでございます。

その晩、惣助は帳面を広げました。座敷の品台として一文を書き加え、実際の仕入れは一分にも満たぬものを何倍にも水増ししたのでございます。

翌日から、村におかしな噂が広まり始めました。

「あの商家の後添いは、前の家で子どもを殺したらしいぞ」

「あの目つきの険しい女は、きっと何かやったに違いない」

噂は脚もないのに、村中を駆け巡ったのでございます。噂が広まるほどに、村人たちはお千代を避けるようになりました。台所でも井戸端でも、お千代が現れると誰もが口を袖で覆い、ひそひそと囁くのでございます。

それにつれ、お千代は離れの奥をいよいよ閉ざすようになったのでございます。

滝はその噂に、夜も眠れぬほどでございました。

「お嬢様、あの者には近づかれませぬように」

と言いますと、お夏はむっとして、

「私は、あの噂を信じません」

と言い返しました。

「あの人が悪い人であるはずがありません」

お夏は、あの夜に見た泣き姿を思い浮かべておりました。しかし、それを滝に詳しく語ることはいたしませんでした。ただ胸のうちに、しかと信じているだけでございました。

その噂を熱心に煽り立てる者がおりました。助之進でございます。助之進は親戚連中に会うたびに、兄のことを気遣うふりをしながら、

「あのままでは、お夏の身に何か禍が振りかかりはせぬか」

と、ため息混じりに語って見せました。表向きは目を気遣うふりをしながら、裏ではお千代を悪女に仕立てていったのでございます。親戚はその口先のうまさに、次第に頷くようになりました。

三郎は病の床にありながらも、この噂を耳にし、胸を痛めておりました。それを止めようとしても、込み上げる咳に言葉を遮ぎられるばかりで、起き上がる気力すら残っておらぬのでございました。

そんなある日、お夏は裏の柿の木から一番赤く熟した実をひとつ選び、離れの小窓に向かいました。

「おっかさまに差し上げようと、取っておいたのです」

と、お夏は柿を差し出しました。お千代はその小さな手をじっと見下ろし、

「なぜ、こうも構うのか」

と尋ねました。お千代の手が思わず柿の方へ伸びかけましたが、その指先はかすかに震えておりました。まるで、長い長い間、誰からもこのようなものを受け取ったことのない者のように。そこへ滝が通りかかり、お千代は慌てて手を引っ込めました。

翌朝、離れの縁側の畳の上には、きれいに食べ終えた柿の種がひとつだけ、行儀よく残されていたのでございます。

またある日、お夏が庭で袖を枝に引っかけて破いてしまいました。

「お夏よ、袖が破けておるぞ」

お千代は珍しく自ら声をかけ、針を取り出して娘の袖を丁寧に繕い始めたのでございます。お夏は黙ってその手付きを見つめておりました。指先が少し震えていましたが、針目は誠に細かなものでございました。

「おっかさまは、縫い物がお上手なのですね」

というお夏に、お千代は相変わらずそっけなく、

「これしきのことができぬようでは困る」

と答えましたが、口元にはほんのわずか、柔らいだ色が浮かんでおりました。

ちょうど同じ頃、お千代は三郎の薬煎じがいつもより詰まりすぎていることに気づきました。水加減が足りぬままでは、薬が体に効きすぎましょう。お千代は黙って、煎じ直しておりました。三郎はその心遣いに気づき、片言の礼を申しました。お千代は何も答えず、薬を枕元に置いただけでした。

ある時、三郎は思い切って、

「村で流れている噂は、誠のことか」

と尋ねました。お千代はしばらく黙ったのち、

「違います。けれど、信じる気のない者に何を申しても同じことでございます」

と静かに答えました。三郎はさらに事情を尋ねようとしましたが、激しい咳に言葉を遮られてしまいました。お千代もまた、それ以上は何も語ろうとはいたしませんでした。それでも三郎は、妻が一度として罪を認めてはいないことだけは、確と胸に刻んだのでございます。

ある暑い日、お夏は離れの縁側でうたた寝をしてしまいました。目を覚ますと、肩に羽織りがそっとかけられておりました。

「お千代が、風に当たると体を悪くすると言い添え、逃げるように部屋へ戻っていったのでございます。

「おっかさまが、かけてくださったのですか」

と尋ねますと、お千代は、

「板が濡れると困るだけです」

と、なおもそっけなく答えました。

それからしばらくして、お夏は庭で転び、膝をすりむいてしまいました。お夏は滝の元へは行かず、離れへ駆け込みました。

「おっかさま、手当てをしてほしいのです」

と膝を差し出しますと、お千代はしばしためらいながらも、薬箱を取り出し、傷口を丁寧に手当てしてくれたのでございます。その手付きは思いのほか慣れており、心のこもったものでございました。

一方、滝はある日、娘の寝かしつけをしながら昔語りをひとつこぼしました。

「この家の田は、そもそも誰のものであったかご存じでございますか」

「あなたの母上のお持ちものでございます。これを守らねば、お叱りを受けるものでございます」

と語りました。家の田は、母が実家より譲り受けたものだったのでございます。

「継室は、お千代さまのもの。お千代さまが見えられたからには、奥方が預かり守ることになる。そっくり、そのままお夏さまのものになる。しもし、三郎さまに何かあれば、家に立つ者は守り通すのみで、決して売りはすことはできません」

と、滝は付け加えました。

「代々、お方さまがお亡くなりになる前に、お身の回りの物の奥に密かにお隠しになったのだ」

と滝は打ち明けたのでございます。それは、母が残した証文のことでした。

その頃、お夏にはどうにも解けぬ疑念がひとつございました。

「一体、あの悪い噂はどこから始まったものであろうか。新しいおっかさまがこの屋敷に来られてから、まだいく月も経っておらぬというのに」

数日の間、お夏は滝の目を盗んで出かけました。人込みに紛れて耳を澄まし、あちこちの噂話を拾い集めていたのでございます。すると、見覚えのある背中がひとつ目に留まりました。手代の惣助でございます。

惣助は物売りの女のところへそっと近寄り、何やら耳打ちをいたしました。それから懐から銭を何枚か取り出し、その女の手にそっと握らせたのでございます。お夏は柱の影に隠れ、その様子をじっと見届けました。すると、銭を受け取ったその口から、あの噂そのものが滑り出てまいりました。

「屋敷に継室が来たことは、もう知っておるだろう。あの女、前の家では子どもを殺したらしいぞ」

「まあ、あの不気味な目つきは、そういうことだったのね」

お夏はすっかり怒ってしまいました。誰も彼も、自分の言うことに耳を貸そうとしないのでございます。

それからというもの、お夏は暇さえあれば噂の出所を探り続けておりました。ある日、お夏は惣助に近寄り、

「あなた、おっかさまの噂を話したのですね」

と問い詰めたのでございます。惣助はぴくりとしましたが、

「それは一体、何のお話でございましょう」

と言い繕って、逃げていきました。

その数日後の昼下がり、お夏は父の書斎から、がさごそと物を探る音を耳にしました。障子の隙間からそっと覗きますと、助之進が筆箱や引き出しを開け、縁の下までくまなく探っております。

「あの印形は、一体どこへ行ったのだ。兄の印さえ手に入れれば、ことは早い」

助之進は小声でつぶやきました。お夏は思わず息を飲みました。その時、物音に気づいた助之進が振り返りました。お夏はすぐに身を引きましたが、袖の端を見られてしまいます。

「お夏か。父上の書物を探していただけだ」

助之進はいつもの笑みを浮かべましたが、お夏の胸には、先ほどの「印形」という言葉が重く残ったのでございます。

その晩、遅くに惣助がお夏の部屋の障子がわずかに開いているのを見つけ、そっと中を覗きました。以前、滝が女中に「お嬢様は幼い頃から、赤い紐のついた小さなものを何でも宝箱にしまわれるのです」と語っているのを、惣助は物陰で耳にしていたのでございます。

「あの印形にも、確か赤い糸がついていたはず」

惣助はひとり、思い当たったのでございました。見つけた宝箱に手をかけようとした、まさにその時でございました。庭から戻ってきたお夏が、その姿を見つけたのでございます。

「おや、惣助どの。裏の鶏が畑を荒らしていますよ。放っておいてはなりませんね」

お夏は大きな声で呼びました。惣助が思わず手を引っ込めた隙に、お夏は素早く宝箱を抱え込みました。

「これは私の大事なものです。殿方に触れさせるものではありません」

ときっぱりと言い放ったのでございます。惣助は苦い顔で退散してまいりましたが、お夏の心臓は早鐘のように打っておりました。もう少しで、あの印形を見つけられるところだったのでございます。

あの時、惣助を問い詰めたせいで、お夏は自分の宝箱に目を付けさせてしまったのだと、ようやく気づいたのでございます。これからはむやみに人を問い詰めることをやめ、宝箱を寝床の下の深くに隠すようになったのでございました。

お夏は、これまで目にした出来事を父に伝えようと決めました。

「おとうさま、助之進さまが書斎を探っておりました。印形を探しているとおっしゃっていました。それに、惣助どのが女の人にお金を渡して、おっかさまの噂を流させていました」

三郎は力なく目を開け、娘の顔をじっと見つめました。

「お夏、お前が嘘を申しておらぬことは分かっておる。だが、人を裁くには、見たことをひとつずつ確かめねばならぬ」

そう言いかけたところで、激しい咳が込み上げました。三郎は胸を押さえ、言葉を続けることができません。

「少し休ませておくれ。必ず、後でもう一度聞こう」

お夏は頷きましたが、すぐに動くことのできぬ父の姿を見て、心細さを覚えずにはいられなかったのでございます。

その日のうちに、三郎は村の年寄りや名主あて、噂の出所について確かめたいことがあると一通の文を認めました。文は下男の安吉に託されましたが、惣助は途中で安吉を呼び止め、「助之進さまの急ぎの使いを頼まれた」と偽って、その文を取り上げました。文はそのまま助之進の元へ運ばれ、火の中へ投げ込まれました。

「兄上は、まだ何も掴んでおらぬ。だが、これ以上、時間を与えてはならぬ」

助之進は燃えていく紙を見つめながら、低くつぶやきました。その後も惣助は、三郎が屋敷の者へ伝えようとした書付けをことごとく途中で握りつぶしました。三郎は病に動きを封じられ、その上、周囲との連絡まで断たれ、次第に屋敷の奥へ孤立させられていったのでございます。

お夏の言葉を信じ始めた者も、直ちに立ち上がり助けてくれる大人は、まだ誰ひとりおりませんでした。

「分かりました。私ひとりでも、突き止めて見せます」

お夏はそう心に決めたのでございます。

やがて助之進は、家の内を隈なく調べ上げにかかりました。帳面には、田畑はもちろん、裏の畑の小路まで記されておりました。助之進は惣助に、すべて書き出させました。あの印形が元々誰のものであったか、助之進はまるっきり知らずにいました。

三郎が息子を授かった頃、助之進は他所へ修行に出ており、兄嫁がどのような品を実家から携えてきたか、その中身では知るよしもなかったのでございます。ただ、すべてを兄の家の財産とばかり思い込んでおりました。

田畑がお夏のものと定められている以上、助之進が直に相続することは叶いません。そこで助之進が狙ったのは、お夏の後見に立つことでございました。後見人として田畑を長く預かり続ければ、事実上、我が者同然にできるという算段でございます。

「病の兄より、この家を守れるのは俺だ」

助之進はそうつぶやきました。幼い頃から兄の後ろに置かれてきた不満は、いつしか「自分こそ家を継ぐにふさわしい」という思い込みへ変わっておりました。それが家を守るための正義なのか、己の欲であるのか、助之進自身にももはや見分けがつかなくなっていたのでございます。

助之進はまず「後見預けの一札」という書き付けを認めました。三郎が病のおり、田畑とお夏の後見をすべて助之進に託すという内容でございます。もう一枚、「離縁を認める覚え書き」という書き付けも作りました。お千代が子どもを手にかけたという噂を信じ、家のため、お夏のためを思い、離縁を認めるというのでございます。

助之進が親戚連中に示したのは、「離縁を認める覚え書き」の方だけでございました。

「皆さま、三郎兄上もこの通り、お心を決めておいでだったのです」

と、すべての書き付けを示したのでございます。それは今で言う署名に当たるものでございますが、それらしく見せて記され、主の印までしっかりと押されておりました。

親戚衆はそれを覗き込み、

「うむ、印もこの通り。これはまさしく、疑いようもない」

と頷き合ったのでございます。

三郎は咳の合間に身を起こし、

「私は、そんなものを認めたおぼえはない」

と反論しましたが、助之進は、

「あの頃は高熱におかされ、記憶もおぼろげだったのでございましょう。兄上はその時、この弟の手を取って、重ねてお認めになったのです」

と、すらすらと言い立てました。実際、あの時は高熱で記憶もおぼろげだった三郎は、誠に自分がそうしたのであろうかと、己の記憶さえ確かに保てなくなっていたのでございます。

この覚え書きに押された印が、実は偽物であるということに、その場にいた誰ひとり気づくものはございませんでした。助之進は兄の書斎を探しまわったものの、真の印形だけはどうしても手に入れることができなかったのでございます。真の印形をいくら探しても見当たらぬまま、闇に乗じて粗末な偽の印形を彫らせて押したものでございました。兄が病弱故に三年もの間、印を用いる機会がなく、印形が無くなっていることにすら誰も気づかなかったことが、まさに命取りとなったのでございます。

そして、その真の印形が今どこにあるかは、助之進は元より、三郎自身すらまるで見当もつかぬことでございました。

その恐ろしい知らせは、瞬く間に村中へ広まりました。村人たちはひそひそと囁き合いました。

「あの商家の後添いは、もうすぐ屋敷を追い出されるそうな」

「あの不気味な女が、やっと居なくなるか」

お千代はその話を耳にしても、顔色ひとつ変えませんでした。ただ静かに自室へ入り、古い風呂敷包みをそっと取り出したばかりでございます。まるで、いつかこの日が来ると、初めから知っていたかのようでございました。

ちょうどその頃、戸の外でこの一部始終を聞いていた者がございました。お夏でございます。

お夏の小さな胸が、ぐっと沈みました。この家でおっかさまを守ることができるのは、もはやお夏ただひとりでございました。

「私が守る。何があろうとも」

お夏は固く心に誓ったのでございます。

いつしか、三日後が寄り合いの日と決まりました。村の寄り合いの席で、お千代をこの日限りで屋敷から追い出すという、冷たい決定でございました。

そして、物語は初めの場面へと戻ってまいります。

お千代は古びた風呂敷包みをひとつ抱え、静かに門の方へ歩を進めました。するとその時、小さな影が走り出て、門前に立ちはだかったのでございます。お夏でございました。

「私は、おっかさまが誰かを想って泣いているのを見ました。何があったのか、私にもまだ分かりません。でも、噂だけで悪い人にしないでください。何も確かめないまま、追い出さないでください」

お夏は涙で濡れた顔を上げ、必死に訴えました。その声に、庭の下男たちは互いの顔を見合わせました。

「あのお嬢様が、偽りを申されるはずはない」

と戸惑う声が、少しずつ広がっていったのでございます。

お千代の体が、ぶるっと震え始めました。この恐ろしいと言われていた女の目に、久しく枯れ果てていたはずの涙が、じわりとにじみ上がって参りました。

「もう、この者は行かねばならぬのだ」

助之進の声が、初めて崩れました。

「嫌でございます。おっかさまが行かれるなら、私も参ります」

お夏が裾にすがりつきますと、お千代はとうとうその場に崩れ、幼子をひとしきり抱きしめたのでございます。屋敷中を震え上がらせていた、あの氷のように冷たい女が、幼いお夏を胸に抱いて声もなく泣いておりました。

それを見ていた下男たちも、集まった親戚衆も、思わず息を呑みました。病の床の三郎は、その姿に思わず目頭を熱くいたしました。

「皆の者、この幼い子がこれほどまでに申すのだ。一夜だけ……たった一夜だけで良いから、有耶無耶にせず、猶予をいただきたい」

と、三郎が訴えますと、親戚衆の中の年寄りの者が咳払いをしながら頷き、

「うむ、仕方あるまい。一夜だけだぞ。夜が明け次第、必ず出てもらわねばならぬ」

と申したのでございます。

その夜、お夏はどうしても寝つくことができませんでした。

「どうしよう。どうしよう。夜が明ければ、おっかさまが……」

お夏は部屋の中を行きつ戻りつしながら、じりじりと足を鳴らしておりました。せめて母の鏡にでも触れようと、寝床の下から宝箱を引き出したのでございます。

「おっかさま、私はどうしたら良いのでしょう」

と涙ぐみながら宝箱の中をかき回しておりますと、指先に何やら硬い物が触れました。赤い糸のついた、小さな印形でございました。

お夏はそれをじっと見つめました。すると、はたとその目が見開かれました。

「印形ではないか……」

ふと、叔父の声が耳の奥に蘇りました。

「あの印形は、一体どこへ行ったのだ」

と、書斎を引っかき回して探していた、あの声でございます。

その瞬間、これまでバラバラであった欠片が、お夏の頭の中でかちりとはまり合っていきました。

「惣助が金をばらまいていた。あれは、噂を買うためのものだった。書斎を荒らしていた叔父……宝箱を狙っていた惣助……あれは、まさにこの印形を探していたのだ」

真の印形はこの三年というもの、ずっとお夏の宝箱の中で眠っておったのでございますから、いくら探しても見つかるはずがなかったのでございます。

お夏は、引き寄せられるように立ち上がりました。全身に鳥肌が立つのを覚えたのでございます。

お夏は印形を確と握りしめ、涙ぐみながら、

「おっかさま、ずっとこれを守ってくださっていたのですね」

と呟きました。その時、お夏の頭の中に、滝が語ってくれたあの昔語りが蘇りました。母が実家から譲り受けた、証文のことでございます。

「あの証文には、父上の本当の印が押されているはず」

お夏はその足で、滝の元へ駆けつけました。

ちょうどその頃、滝は台所で、女中のひとりがお千代の前にわざと冷えた飯を運んでいるのを見かけたばかりでございました。お千代は何も言いません。でも、お夏の分の汁だけは、温かいものに取り替えさせていたのでございます。

滝はその様子に、己れもまた噂に流されたひとりであったのだと、はたと気づかされておりました。

「滝、亡くなったおっかさまが隠した証文は、どこにあるの」

と問い詰めるお夏に、滝は驚きました。

「お嬢様、それをどうしてご存じでいらっしゃいますか」

「おとうさまを救うことができるかもしれないの。あの証文があれば、すべて明らかになるのよ」

お夏の目があまりにも真剣であったので、滝は思わず証文の隠し場所をそっと教えてしまったのでございます。

「お嬢様、この滝も、今度ばかりは逃げませぬ」

と滝は静かに申し、それのみか、共に証文を探す手伝いまでいたしました。

ふたりでようやく探し当てた文箱の中には、母が残した証文が大切にしまわれておりました。お夏はその証文を広げ、また手にした印形をじっと見比べました。証文の端には、若き日の父が押した印影がはっきりと残っておりました。その印影は、手にある真の印形と、まさに寸分違わぬものでございました。証文にはまた、あの田畑がすべて母のものであったと記されておりました。

お夏の顔に、ぱっと希望の光が差したのでございます。

夜が明けるが早いか、お夏は父の寝床へ駆け込み、印形と証文を枕元に広げました。三郎の目が、その瞬間ぱっと見開かれました。無くなったことにすら気づいていなかった印形が、娘の手に握られていたのでございます。震える手でそれをたぐり寄せると、三郎は歯を食い縛り、ゆっくりと体を起こしたのでございます。咳は止まりませんでしたが、その目つきだけは、これまでとは打って変わっておりました。

しかし、その足取りはあまりに弱々しく、とても自らの足で神夜まで歩くことなど叶いませんでした。滝が慌てて下男ふたりを呼び、家に布団を敷いて、粗末な駕籠を仕立てました。三郎はその上に横になり、途中、幾度も激しい咳の発作に苦しめられました。その度に足を止めねばなりませんでした。がたがたと揺れる駕籠の上で、お夏は印形の入った小箱をしっかりと胸に抱いておりました。

「おとうさま、もう少しでございます」

お夏は何度も声をかけました。

村の門前に着いた頃には、ちょうど朝の門が開いたばかりでございました。三郎は、まず年寄り役の元へ走り添いを頼み、証人として共に来てもらうことになったのでございます。

神夜の代は、まず訴えの趣旨を書き留め、村方の証文を巡る争いの裁定があると上申しました。それを受けて、代官自らが双方を呼び出すこととなったのでございます。関わりある者たちだけが、静かな一間に呼び集められました。

三郎、お夏、お千代、偽の書き付けを携えた助之進、手代の惣助、それに立ち合いの村役人と年寄り役が、畳の上に居並んでおりました。

助之進が進み出て、「離縁を認める覚え書き」を差し出しました。

「兄上が、病の床にありながら、このように弟に託されたのでございます」

と助之進は口上を述べました。

「名もこの通り、印もはっきりと押されておりましょう」

と、書付けをずいと差し出しました。代官はそれを受け取り、じっと目を凝らしました。

そこへ、三郎が申し出ました。

「お代官さま、その前に、これをご覧いただきます」

三郎は、お夏から渡された真の印形を取り出したのでございます。

「その覚え書きに押された印は、偽物です。真の印形は、ここにございます」

お夏も、うなずきました。

代官は真の印形につけ、朱肉へ静かに押しました。その新しい印影を、「離縁を認める覚え書き」の印影と、突き合わせました。その場には、息をする音すら聞こえぬほどの静けさが広がりました。

代官はふたつを長く見比べ、やがて覚え書きの一角を指しました。

「ここを見よ。真の印には、この小さな欠けがある。だが、覚え書きに押された印には、それがない。筋も、さらに細かい」

そこへ、老母の証文が広げられました。古い証文に残る印影には、真の印形と同じ欠けがはっきりと刻まれておりました。

「古い証文の印と揃う。こちらが三郎本人の印であることは、疑いない」

と、代官は静かに言いました。

助之進の顔から、みるみる血の気が引いていきました。

「それは、子供が拾ったおもちゃにすぎませぬ」

と反論しますと、お夏が答えます。

「あの赤い糸の印形でございますか。私がまだ六つの頃、父上の書斎で見つけました。あまりに美しかったから、宝箱にしまっていたのです」

再び、静まり返りました。代官は続けて、控えていた惣助を呼びました。

「この屋敷の帳面を持て参れ」

点心が調べますと、座敷の品台として五度の仕入れが記されておりましたが、問屋番を務める者を呼び確かめたところ、実に届けられたのはただの一度切りであったと申したのでございます。

「それについては、如何なされましたか」

惣助は言葉をつまらせました。

「問屋の思い違いでございましょう。きちんと届いておりました」

と言い逃れようといたしましたが、お夏は怯みませず、

「お代官さま、恐れながら、申し出がございます。あの惣助どのが、こっそり物売りの女に銭を握らせるところを、私は柱の影から見ておりました。それに関わった者たちは、あの噂を流していました」

と、お夏ははっきりとした声で申し出たのでございます。

惣助の顔から、みるみる血の気が引いていきました。それでもまだ言い繕おうとしますと、助之進は、不意に冷たい声で、

「それは、この者が勝手にいたしたことでございましょう。手前は、何も存じませぬ」

と言い放ったのでございます。

「手前ひとりの罪になさるおつもりか」

と惣助が助之進を睨みつけました。もはや自分の首すら危うい様子に、惣助はついに覚悟を決めたのでございます。

「すべて、助之進さまの指図でございます! 噂を流させたのも、印形を探させたのも、覚え書きや一札を偽造させたのも、すべて助之進さまの指示でございます!」

惣助は白状したのでございます。

こうして、助之進がもう一枚用意していた「後見預けの一札」の存在も、惣助の口から明るみに出ました。田畑の後見、そしてお千代の離縁。すべて、ひとりの男の企みと発覚したのでございます。ここに来て、すべてが白日のもとに晒されたのでございます。

「しばらくは、罪を逃れたつもりでおりましたが、助之進よ。お前の企みは、すべて暴かれたぞ。証文を偽り、無実の罪を着せ、兄の家を狙った罪。重ねて問われることになる」

と、代官の荘厳な声が響き渡りました。

「まさか……」

と助之進は呆然としました。代官は、この場では裁断方法を保留し、さらに厳しい裁きにかけると申し渡しました。助之進は、家を追われ、生国を離れる身となったと申します。惣助もまた、それ相応の咎めを受けることとなったのでございました。

あれほど侮っていた、幼い目ひとりに、己の恐ろしい所業を丸ごと打ち崩されようとは。助之進の心は、夢にも思わなかったのでございます。

さて、残されたのは、お千代に着せられた無実の噂でございました。

代官はお千代に向き直り、

「そなたには、前の夫の子を死なせたという噂がまとわりついておる。しかし今の白状を聞けば、それもまた作り事であったようだ。いかに、真相があったか」

と、静かに問いかけました。これまで石のように黙っていたお千代が、しばし沈黙した後、傍らの三郎へ目をやりました。三郎は静かに頷き、

「妻の申すことに、偽りはございません。それでも、この私が、この女を語らせるまで、何ひとつ守れなかった」

と申しました。

それを受けて、お千代はようやく口を開いたのでございます。懐から小さな木片を取り出し、両手に捧げ持ちました。

「あの子は、私が手にかけたのではございません」

その声は、かすかに震えておりました。

「あの子は、私の子でございました。前の夫が連れてきた子ではありますが、わが腹を痛めた子と同じように育ててまいりました。ほどなく夫にも死なれ、私はただひとり、あの子にすがるようにして生きてまいりました」

お千代の目から、ようやく堪えていた涙が止めどなく溢れ出しました。

「あの子が熱を出せば、一番に額を冷やしました。医者や薬を求めて、村を歩き回りもいたしました」

その声は、ますます涙に濡れていきました。

「天は無常なるもの。あの幼子は、三つにならぬうちに、私の腕の中で息を引き取ったのでございます」

お千代は続けました。

「あの子を失ってから、私は笑うことを忘れました。情を寄せては、やがて失うことが恐ろしくて、自ら心を閉ざしてしまったのでございます。それで、この屋敷に参りましても、あのように冷淡に振る舞ってしまったのでございましょう」

と、自らの言葉で、自らの態度を厳しく締めくくりました。

「それなのに、世間は、子を亡くした母を、我が子を手にかけた女と仕立てました。私は、一言の弁明もいたしませんでした。そのような気力すら、もはや残っておりませんでした」

と、お千代は声を詰まらせたのでございます。

その場は、水を打ったように静まり返りました。あの恐ろしい噂の正体が、まさにここに明らかとなったのでございます。お千代が、亡き子を抱いてひとり泣いていた涙の理由も、まさにここにあったのでございます。

お夏はたまらず駆け寄り、お千代の胸に飛び込みました。

「おっかさまは、悪い人ではございません。恐ろしい人でもございません。私の言った通りでございましょう」

お千代は、その小さな体を幾度となく抱きしめ、

「そうであった……そなたの言う通りであった」

と、声を震わせたのでございます。その場に居合わせた村役人や年寄り役の中にも、もらい泣きをする者がございました。あれほど恐ろしいと噂していた女の裏に、これほど深い悲しみが隠れていようとは、誰も思いもよらなかったのでございます。

こうして、三郎の屋敷には、久方ぶりの穏やかな日差しが戻ってまいりました。屋敷に戻ってからというもの、あの日冷えた飯を運んだ女中は、翌朝、誰に言われるでもなく、温かい飯をそっと運んでまいりました。かつて噂を口にしていた物売りの女も、屋敷の門先に湯飲みをひとつ置き、黙って頭を下げていったと申します。

親戚衆の誰ひとり、面と向かって詫びを口にするものはございませんでしたが、柿を届けに来る者、米を届けに来る者が、少しずつ現れるようになりました。お千代はそれをすぐには言葉で許すことはいたしませんでしたが、ただ静かに、その心遣いを受け止めておりました。

「長らく、至らぬことばかりであった。そなたを守ってやれなんだ」

と病床の三郎が詫びますと、お千代は穏やかに微笑み、

「これでもう、十分でございます」

と答えました。咳ばかりが響いていたこの家の奥から、いつしか温かな笑い声が漏れ聞こえるようになったのでございます。

ほどなくして、三郎は年寄り役、村方の代表、滝、それにふたりの証人を招き、新たな証文をひとつ認めました。田畑はお夏のものであること。お夏が結婚するまでは、この家を守り育てること。そして、お夏が十六となるまでは、何人とも田畑を売り渡すことはできないこと。これらを証文として記したのでございます。

三郎は震える手で筆を取り、証文の端に己の名を記しました。真の印形は、皆の見守る前で、その証文に捺されたのでございます。かつて騒動の種となったその印形が、今度はこの家を守る証となったのでございました。

年寄り役はその証文を写し取り、村方の記録にも確と控えを残しました。

「これにて、二度とこのような過ちが繰り返されることはありますまい」

と、年寄り役は静かに頷いたのでございます。

ある日、お千代はお夏を連れ、あの裏山の地蔵堂を訪れました。木漏れ日が、苔むした地蔵の方へ柔らかく落ちております。お千代は以前そこへ供えた古い木の像と、小さな着物を地蔵の前に並べ、花をひと枝立てました。それから、初めて、亡くした子の名を、お夏へ語って聞かせたのでございます。

「おきちと申しました。笑うと、えくぼのできる子でした」

と、お千代は懐かしむように言いました。

「あの子を忘れぬまま、生きていても良いのでしょうか」

と尋ねますと、お夏はそっとその手を握りました。

「忘れなくて良いです。これからは、私もおきちさまのことを忘れません」

その言葉に、お千代の目に、穏やかな涙が浮かびました。お夏は地蔵の足元へ、小さな柿の実をひとつ供え、静かに手を合わせました。それからふたりは、機会あるごとに、この場所を訪れるようになりました。そこはもはや、悲しみをひとり隠す場所ではなく、忘れたくない人を、ふたりで共に忍ぶ場所となったのでございます。

三郎の咳はなお長く残りましたが、家の中が落ち着きを取り戻すにつれ、床を離れて過ごせる日が少しずつ増えてまいりました。特に変わったのは、お夏との間柄でございました。今の子は、心からお千代を「おっかさま」と呼ぶようになっておりました。

台所の助っ人たちも、もはや誰ひとり陰口を叩くものはおらず、お千代の前にはいつも湯気の立つ飯が並ぶようになったのでございます。

それから年が過ぎた、ある秋のことでございます。屋敷の裏庭には、あの柿の木がまた実をつけておりました。すっかり娘らしくなったお夏が、お千代と連れ立って、柿の木の下に立っておりました。

あの日、自分と同じように、一番赤く熟した実がひとつ、枝先で光っておりました。お夏はそれを見上げ、六つの頃、母が残した印形を赤い糸が愛らしいばかりに宝箱へしまい込んだ、あの日のことを思い出したのでございます。

あのひとつの、悪気もない幼子の癖が、巡り巡って一家を救うことになろうとは、誰が思ったでございましょうか。

お夏はその実をもぎ取り、お千代の手にそっと乗せました。

「あの方と同じでございますね」

とお夏が微笑みますと、お千代もまた、久しく忘れていたような柔らかな笑みを浮かべたのでございます。

あの赤い糸のついた印形は、今は宝箱の中ではなく、母おちよが残した証文と並べて、家の奥に大切にしまわれておりました。屋敷を訪れる村の者たちも、もはや誰ひとり、お千代をあの氷のように冷たい恐ろしい女として見るものはございませんでした。

そこにいるのは、ただ穏やかに笑う、この家の母の姿だけでございました。

後に、成長したお夏は、こう語り伝えたと申します。

「ひとりの母は、私に言葉を残しました。もうひとりの母は、その言葉の意味を、生き方で教えてくれました」

「人を、噂だけで裁いてはならぬ」

と、お夏はふたりの母から学んだのでございます。

人の真の心は、顔つきや世間の評判ではなく、その人が誰かのために積み重ねてきた振る舞いの中に、静かに現れるものなのかもしれません。

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