「欲しいなら追加で払って。」
披露宴の会場で花嫁が笑った。80ある席のうち、78人分の料理が運ばれた。私と夫の前だけが空のまま。ナイフとフォークと名前の入った席札だけが置かれていた。
手違いだと思った。
違う。だって、2人分頼んでないもの。
リカが顔を覗き込んで笑った。近くの卓からも笑い声が上がった。スタッフに尋ねると、予約も私たち2人だけ料理なしになっていると言われた。
「家族なんだから、食事が目的じゃないでしょ。」
義母が娘の横に立った。
「リカの晴れ舞台なんだから、細かいことで揉めないの。」
隣で夫の幸介が白いクロスを見下ろしていた。17年、父親をしてきた人だ。
「帰ろうか。」
「うん。」
私たちは立ち上がった。リカはまだ笑っている。
「本当に帰るの? 子供じゃあるまいし。」
「じゃあな。」
夫はそれだけ言って、振り返らなかった。
1皿も食べずに私たちは会場を出た。今も渡す約束の500万円は口座でまだ1円も動いていない。リカはまだ知らない。あの笑い声が、同じ日のうちに自分へ返ってくることを。
私は奥村さおり、38歳。事務用品メーカーの営業事務をしている。仕事は伝票と納品書の山を相手にすることだ。数字が1つ合わないだけで、その日は終わらない。だからこそ、私は数字を捨てられない性分になった。財布のレシートも通販の明細も、一旦は食器棚の下の箱に入れる。ノートも1冊つけている。何にいくら使ったかを、月末にまとめて書き移すだけの単純なものだ。
夫にはよく笑われた。
「そんなもん、誰も見ないだろう。」
「見ないから取っとくの。」
会社で私がやっているのも、結局は同じことだ。営業の担当者が値引きの話を持ってくる。私はまず前の伝票を出す。前回いくらで出したのか、その時何を条件にしたのか。数字を並べれば話は3分で終わる。並べられなければ、1時間かけても終わらない。
夫の名前は奥村幸介。41歳。建築資材のメーカーで資材課にいる。結婚して10年になる。子供はいない。共働きで、給料も生活費も貯金も1つの口座にまとめている。誰の分という区切りは作らなかった。2人の金だと思っていたからだ。
駅の裏に、古い洋食店がある。カウンターが6席とテーブルが3つだけの店だ。結婚記念日にも行くし、なんでもない水曜の夜にも行く。ハンバーグとポタージュが看板で、私はいつも同じものを頼む。コースはその日の気分で決める。運ばれてきた皿が2つ並ぶと、それだけで1週間の疲れが半分になった。穏やかな10年だった。
ただ、1つだけどうしても慣れないものがあった。夫の妹だ。
幸介の父、正吾さんが亡くなったのは17年前の秋だ。亡くなった時、52歳だった。私はまだ会ったこともなかったから、その日のことは全部後から聞いた。幸介は24歳で母の隣に立った。妹のリカは14歳で、中学の制服のまま座っていた。生命保険が下りたが、家のローンの残りでほとんど消えた。葬式の帰り道は、義母から同じ言葉を繰り返し聞かされていたそうだ。
「リカには苦労させたくないって、お父さんが言ってたのよ。」
その夜、義父は自分の部屋で紙に1行だけ書いた。その紙があること自体は、結婚してすぐに聞いた。何が書いてあるのかは、それから10年知らなかった。知っていたのは結果だけだ。大学の学費、奨学金の返済、部屋の家賃、免許。必要だと言えば、夫の口座から金が出ていった。結婚するまで幸介は実家で義母と暮らし、給料の多くを妹に回していた。
3年前には車も買った。正確に言えば、買ったのはリカで、払ったのは幸介だ。あの時は私も同席していた。販売店の椅子に並んで座り、リカは迷わず1番上のグレードの色を指した。
「これがいい。だって、安いのは嫌なの。学校、悪いもん。」
「リカ、予算がある。」
「お兄ちゃんが出してくれるって言ったもん。」
「言ってない。」
「じゃあ、言ってよ。兄弟なんだから、当たり前じゃない?」
当たり前。今は、その言葉を本当に当たり前の顔で使う。結局、その日契約書の支払いの欄には180万円と書かれた。書いたのは幸介だ。リカは鍵を受け取ると、写真を撮って友達に送っていた。帰りの車の中で、リカは後ろの席から言った。
「お兄ちゃん、次は保険とタイヤね。」
「まだあるのか?」
「あるでしょ。車って、そういうもんじゃん。」
そういうもの。今もその言葉は好きだった。私も最初は理解していた。小さい頃に親をなくしたのだから、兄が支えるのは自然なことだ。そう思っているうちに、10年が過ぎた。
ある金曜の夜も、電話は同じ調子で始まった。幸介が風呂上がりに髪を拭きながら出る。私は台所で洗い物をしていた。リカの声はよく通った。
「お兄ちゃん、エアコン壊れちゃった。」
「壊れたって、去年直したばっかりだろ。」
「だから、今度は買い換えなんだって。6万でいいかな?」
6万でいい、という言い方が私は苦手だった。6万は私の月の食費より多い。幸介が黙る。間があってリカが続けた。
「今月きつくてさ、カードの引き落としもあるし。」
「お前も、そう言ってなかったか?」
「言ったかもね。で、いつ振り込んでくれるの?」
そこに「お願い」という言葉はなかった。頼み方ではなく、確認の仕方だった。私は蛇口を止めた。水音が消えて、台所が急に広くなったように感じた。幸介がため息をついた。
「今週は無理だ。来週にしてくれ。」
「えー、もう暑いんだけど。」
「リカ。」
「はいはい。わかった。じゃあ来週ね。」
電話が切れる。幸介はタオルを首にかけたまま、しばらく画面を見ていた。
「ごめんな。」
「なんで幸介が謝るの?」
「いや、姉の方だし。」
中を確かめて、また戻した。それから、いつもの言葉を口にした。
「妹だから。」
その一言で、17年が片付けられてきた。
翌日、義母から私の携帯に電話があった。
「さおりさん、リカのエアコンの話は聞いてる?」
「はい。幸介から。」
「あの子ね、昔から暑がりなの。子供の頃、夏になると鼻血を出してね。かわいそうで見ていられなくて。」
「そうですか。」
「幸介にちゃんと言っといてね。妹なんだから。」
私が言っておく話なのだろうか。電話を切ってから、しばらくその意味を考えた。答えは出なかった。
翌週の火曜日、幸介は6万円を振り込んだ。リカからの返信は一行だけだ。ありがとうも助かったもない。「入ってた。」それだけだった。私はその画面を見てしまった。見た後で、見なければよかったと思った。
その夜、私は食器棚の下から箱を出した。遡ると、年が開けてから今までに出した金は3回で19万円になっていた。それとは別に、毎月3万円が動いていた。リカが1人暮らしを始めてから6年間、幸介は家賃の補助として月に6万円を送っていた。それは3年前に終わったのだが、終わったのは6万円の方だけで、半分は名前を変えて残った。「生活費の補助」という名前だ。手取り19万円で家賃が7万5000円。そこに3万円が乗るのと乗らないのとでは、月の見え方がまるで違う。リカがバッグを変えていたのは、その3万円の分だった。前の年は54万円。その前の年は、車の分があったから、途中で数えるのをやめていた。書き移しながら、自分の指が止まるのが分かった。攻めたいわけではない。ただ、桁が変わっていく速さが怖かった。ノートを閉じて箱に戻し、私は寝室の電気を消した。
洗濯機を回しながら、私は自分に言い聞かせる。夫の稼いだお金だ。妹に出したいなら出せばいい。私が口を挟むことじゃない。口座は1つにまとめてあるけど、そこは考えないようにした。その考え方が通用しなくなるまで、あと数ヶ月だった。
義実家に行くのは月に1度か2度だ。義実家は私鉄の駅から歩いて10分ほどの古い2階建てだ。門の脇に義母が植えたという金木犀があって、秋になると玄関まで匂いが来る。義母の美智子さんは65歳。年金だけの暮らしで、パートは5年前にやめた。
その日の夕食は義母の作った筑前煮といなり寿司だった。話は自然と家のことになった。台所の換気扇が古くて、冬に湯気が出なくなる日があるという。
「それ、うちの会社で扱ってるやつなら安く入るかも。」
私が言うと、卓の空気が一瞬止まった。リカが箸を置いた。
「あれ、家族の話だから。さおりさんには関係ないでしょ。」
義母は何も言わなかった。リカの椀に茶を足しただけだった。私は「そうですね、ごめんなさい」と言って、いなり寿司をもう1つ取った。味はよくわからなかった。幸介は何も言わなかった。後で台所に来て、「悪かったな」と言った。謝るのはいつも夫で、言った本人が謝ったことは1度もない。「関係ない。」今は、その言葉を10年、形を変えずに使い続けている。私が口を出していいのは、皿を下げることと洗い物をすることだけだ。
食後、義母と2人で流しに立った。
「さおりさん、幸介は最近どうなの?」
「どう、というのは?」
「なんだか変わったでしょう。前はもっと家のことを気にかけてくれたのに。」
泡だらけの茶碗を持ったまま、私は義母の横顔を見た。
「結婚してから変わったのよ。」
その言い方には棘がなかった。だから、余計に残った。悪気があって刺すなら、まだ抜きようがある。義母は、本当にそう思っているだけだった。
隣の間からリカの笑い声が聞こえた。相手をしているのは幸介だ。
「お兄ちゃん、最近ケチになったよね。前は言えばすぐ出してくれたのに。」
夫の返事は短かった。
「そうか。」
「昔は、すぐ出してくれたのにね。」
名前は出さない。出さない方が聞くと知っている言い方だった。台所の私に聞こえる声で言っている。それも分かっていた。私は蛇口の音を強くした。
茶碗を拭きながら、私は飾り棚を見ていた。写真立てが5つ並んでいる。義父母の結婚式の写真。幼い幸介と赤ん坊のリカ。リカの七五三。リカの成人式。リカの大学の卒業式。そこに私が映っているものは1枚もない。幸介と私の結婚式の写真は、10年前に義母へ渡してある。渡した時は「飾るわね」と言われた。飾られている場所を、私はまだ見つけていない。帰りの道で、そのことは言わなかった。写真の話をすれば幸介が実家に電話をかける。かければ義母は飾る。飾られた写真を見て、私は今度こそ何も言えなくなる。
その2週間後、幸介の誕生日があった。私は仕事帰りにケーキを買って帰った。家に着くと、夫はもう食卓についていて、コンビニの袋を下げたままだった。
「実家で食ってきた。」
「え?」
「リカが寿司を取ってた。母さんが電話してきて、来いって。」
私には言ってなかったのか。幸介の顔が曇った。それで、全部分かった。その夜、リカからメッセージが届いた。写真付きだ。座敷に並んだ寿司とロウソクを立てたケーキ。義母とリカと幸介の3人が映っている。
「お兄ちゃんの誕生日会でした。」
文面はそれだけだった。呼べなかった事情も書いていない。書く必要がないと思っているのだと分かった。ケーキの箱は、翌朝まで冷蔵庫に入ったままだった。
正月には義実家に親戚が10人ほど集まる。義母の姉の房子さんとその息子夫婦、義父の弟の家族。私はその日、朝の9時から台所にいた。料理を温めて、皿に取り分けて、運んで、下げて、洗う。座敷から笑い声が聞こえる。リカは座敷側にいて、いとこたちと写真を撮っていた。昼過ぎに、義父の弟の奥さんが台所へ来て私に言った。
「さおりさん、ずっと働いてるじゃないの。少し座ったら?」
「大丈夫です。」
「美智子さん、この人ばっかり使って。」
義母は座敷から答えた。
「あら、さおりさんは慣れてるから。」
慣れている。10年やれば、確かに慣れる。房子さんだけが立ち上がって、皿を運ぶのを手伝ってくれた。
「あんた、こういうのは断っていいのよ。」
「いえ、断らないから、来年もこうなるの。」
その時は笑ってごまかした。
その週の土曜、私は駅の改札でリカに会った。向こうが先に気づいて、手を振ってきた。期限が近い時のリカはよく喋る。腕にかけていたバッグには、私でも名前の分かるブランドの金具がついていた。
「あれ、今期の新作。可愛いでしょ?」
「うん。綺麗な色。」
「3ヶ月待ったんだから。」
リカは駅ビルのアパレルに務めている。正社員で勤続9年だ。手取りは19万円だと、本人が前に言っていた。バッグの値段を私は聞かなかった。聞いてはいけないと思った。
「あ、そうだ。お兄ちゃんに言っといてよ。」
「何を?」
「今度、うちの店、社員割引で靴が安く出るの。お兄ちゃんに1足、買ってあげようかなって。」
「ふうん。」
「買ってあげるって言っても、お金はお兄ちゃんが出すんだけどね。」
リカは自分で言って、自分で笑った。私は笑えなかった。改札の前で、リカはスマートフォンを取り出して自分の写真を撮った。バッグが映る角度に腕を上げて、2枚撮って1枚を消した。私は横から聞いた。
「これ、載せるの?」
リカは画面を見たまま答えた。
「うん。載せないと意味ないじゃん。」
意味? 何の意味なのか、聞かなかった。別れ際、リカはもう1つ置いていった。
「さおりさん、大変だよね。うちみたいな家に入っちゃって。」
うちみたいな家。その言い方の中に、私はいない。
その夜、幸介に話そうとしてやめた。言えば夫は謝る。謝るだけで、何も変わらない。「妹だから。」あの一言が出るまでの手順を、私はもう全部知っていた。私はノートを開き、その月の欄に義妹の分を書き出した。数字の下に線を引く。線を引いたところで、何かが止まるわけでもない。分かっていることが1つあった。義実家では、夫の給料は家族みんなの財布だ。私は後から入ってきた他人で、財布に手を伸ばす資格はないが、財布が軽くなる責任だけはあることになっている。誰もそう口には出さない。ただ、扱いの全てがそう言っていた。なぜリカは私にだけ冷たいのか? 理由を聞いたことは1度もない。その答えを本人の口から聞くことになるのは、まだずっと先の話だ。
職場に滝沢由紀さんという人がいる。40歳で、私より2つ上だ。同じ営業室で、机が向かい合わせになっている。昼休み、給湯室でお湯を汲みながら、私はつい愚痴をこぼした。義妹の話をしたのは、その時が初めてだった。
「エアコン6万ね。で、その前は修理代が4万。さらにその前は車で180万。」
滝沢さんはマグカップを持ったまま、しばらく黙った。
「奥村さん、それ、書いてる?」
「書いてませんけど。ノートに。」
「じゃあ、大丈夫。」
「大丈夫って、何がですか?」
「何がって言われると困るけど。うちの仕事と同じよ。数字が合わないって言われた時にね。勝つのは記憶がいい人じゃなくて、数字を持ってる人なの。」
私は自分のノートを思い浮かべた。誰に見せるつもりもない。月末に書き写しただけのノートだ。
「取っておいた数字が役に立つ日なんて、来ない方がいいですけどね。」
「来ない方がいいわね。でも、来た時にないと、こっちが嘘つきにされるから。」
その通りだと思った。伝票が1枚ないだけで、こちらの言い分が全部通らなくなる。仕事では、それを毎日見ている。
「あとね、奥村さん。うちに来て9年でしょ? 取引先とやり合ってるとこ、私は何度も見てるのよ。値引きの根拠がおかしい時は、ちゃんと突っ返してる。仕事ですから。奥村さん、取引先には言えるのにね。」
返事ができなかった。仕事と家は違うと言おうとして、どこが違うのかを説明できなかったからだ。
その夜、洗い物を終えて居間に戻ると、幸介がテレビを消したところだった。
「さおり。」
「うん。」
「仕送り、そろそろ終わりにしたいと思ってる。」
手に持っていた夫婦茶碗を、私は卓の橋に置いた。
「どうしたの? 急に。」
「急じゃない。ずっと考えてた。」
夫は缶ビールのプルタブを起こしては戻す動きを繰り返していた。
「親父が倒れた時、俺は入社2年目だった。葬式の手配も香典返しも、母さんは何もできなくてな。全部俺がやった。」
「うん。」
「あの頃は、それで良かったんだ。リカはまだ中学生だったし。母さんも50前だったけど、働きに出たことがなかった。でも、あいつはもう31だ。俺が24の時、親父はもういなかった。あの頃の俺は、誰にも助けてもらってない。」
「うん。」
「同じにしろとは言わない。ただ、いつまでやるのかって話だ。」
私は返事の代わりに、冷蔵庫からもう1本ビールを持ってきた。夫は受け取って、栓を開けずに置いた。
「さおりにも、我慢させてきたよな。」
「別に。」
「別にって顔じゃないだろ。」
そう言われて、初めて自分の眉間に力が入っていたことに気づいた。
「終わりにするなら、ちゃんと言ってあげてね。」
「ちゃんと?」
「途中でやめると、リカさんはきっと『お兄ちゃんは変わった』って言うから。最初から最後までって決めて、そう言って終わらせた方がいい。」
幸介は「それもそうだな」と言って笑った。久しぶりに見る笑い方だった。その夜、私はなかなか寝つけなかった。嬉しいはずなのに、体のどこかが緊張したままだった。10年分の構えは、晩では抜けないらしい。天井を見ながら、私は最悪の場合を考えていた。仕事の癖だ。納期の話をする時も、私はまず遅れた時の手順から決める。もし夫がまた出すと言い出したら、私はどうするのか。答えは出さなかった。出さないまま、いつの間にか眠っていた。
その日から、私の中で何かが緩んだ。終わる。もうすぐ終わる。そう思うだけで、会社へ向かう電車が軽くなった。翌日、滝沢さんに夫が仕送りをやめると言ったと報告した。
「良かったじゃない。」
「はい。」
「でも奥村さん、油断しないでね。うちの取引先でもね、『来月から値上げします』って言ってきた会社が、結局そのままだったことがあるの。言うのとやるのは別だから。」
「そうですね。」
「やめるって決めた人には、大抵もう1回だけ声がかかるの。『最後だから』って言われてね。」
その言葉を、私はその時軽く聞いていた。
帰りに書店に寄って、旅行の雑誌を1冊買った。10年、家族旅行というものをしていなかった。温泉の特集のページに付箋を貼って、私は鞄にしまった。けれど、話はそこで止まらなかった。
翌週の日曜、義母から電話があった。声が明るい。
「さおりさん、聞いた? リカにね、結婚するお相手ができたのよ。」
「そうなんですか。おめでとうございます。」
「片桐健太さんという方でね、食品の卸売りの会社にお勤めなんだって。2つ上の、しっかりした人よ。」
「良かったですね。」
「それでね、ご実家がまた立派なところなの。だから、こっちも恥をかくわけにはいかないでしょ。」
恥。その単語が、なぜここで出てくるのかが分からなかった。
「幸介にもよく言っておいてね。あの人は、こういう時に気が回らないから。」
「はい。」
「本当はね、幸介がまだ独身のつもりでいてくれたら、1番良かったんだけど。」
義母は最後まで明るい声だった。だからこそ、私はしばらく言葉を戻せなかった。電話を切った後、幸介にそのまま伝えた。夫は「そうか」と言って笑った。
「相手の人、どんな人なんだろうね。」
「知らん。でも、まともな人だといいな。」
「まともって、金の話がちゃんとできる人ってことだよ。」
幸介はそう言って、自分で笑った。
「めでたいじゃないか。式には出ような。」
「うん。」
「これで最後だな。リカが誰かの家の人になれば、俺の役目も終わりだ。」
終わると、夫はもう一度言った。私もそう思っていた。仕送りが終わり、リカが家庭を持ち、それぞれの生活が始まる。そういう終わり方を、私たちは疑っていなかった。鞄の中の旅行雑誌には、まだ付箋が貼ったままになっていた。
けれど、終わりにするまでに、私たちはもう一度だけ大きな金額を口にする。
呼ばれたのは1月の終わりの日曜だった。義実家の座敷に、式場のパンフレットが3冊広げてあった。表紙はどれも都内のホテルで、写真の中の階段は白くて長い。リカは化粧を済ませていた。人に見せる話をする時の顔だ。
「ここに決めた。」
真ん中の1冊を、義母が指で抑えた。
「去年の秋に見学して、その場で申し込みを入れてある。」
「秋か。随分前だな。」
幸介が言うと、リカは肩をすくめた。
「いい日は1年前から埋まっちゃうから。5月の土曜なんて、みんな取り合いだよ。」
義母が茶を運んできて、私の前にも湯飲みを置いた。ここに来て初めて、私にも席がある形になった。
「それで、いくらなんだ?」
幸介が聞いた。リカは見積書のコピーを卓に滑らせた。数字を先に見たのは私だった。合計の欄に、620万円と打ち込まれていた。式と披露宴、衣装、写真、引き出物、演出。80名で組んだ見積もりだ。見積もりのうち、食べるものと飲むものに使われているのは160万円だった。620万のうちの4分の1である。残りの4分の3は、衣装と写真と演出と、部屋を借りる代。呼ばれた人が実際に受け取るのは、その4分の1の方だけだ。仕事の癖で、私は内訳の欄を目で追った。会場費、装花、映像、送迎バス。その中ほどに、料理と飲み物の欄があった。お料理が1名につき1万5000円。それが80名分。お飲み物は別の欄で、1名につき5000円。80人の口に入るものが、合わせて160万円。ホテルの披露宴としては、そんなものなのだろう。その下には、小計とサービス料1割と消費税が並んでいた。仕事で見慣れた形だ。金額の単価に1割が乗る書き方も、うちの伝票と同じだった。私はその行を頭の隅に置いて、視線を合計に戻した。
「620万。」
幸介が声に出した。リカは平気な顔をしていた。
「今時、普通だよ。うちは80人呼ぶんだから。」
「お前ら、貯金はいくらある?」
「それは大丈夫。全部先に払うわけじゃないから。」
リカは見積書の裏を指さした。支払いの欄に、手付金30万円と書いてある。
「この30万を入れれば契約できるの。残りの590万は、式の6日後まででいいプランにしたの。ご祝儀をそのまま回せるでしょう。」
そういう仕組みがあることを、私はその時初めて知った。ホテルが自分のところで審査をして、勤務先と収入を書いた申し込み書を出させた上で、支払いを式の後まで待ってくれる。クレジット会社が立て替えるわけではないから、6日後には現金で用意しなければならない。期限を過ぎれば、遅れた分が利息で上乗せされる。その仕組みに私が気づくのは、ずっと後になってからだ。
式を上げてからもらったお金で払う。理屈は通っている。その申し込み書に名前を書いたのが健太さんだったと知るのは、まだ先の話だ。リカはご祝儀と自分の貯金で大体足りると聞かされていて、足りない分は健太の実家が出すとも聞かされていた。だから、自分の名前で申し込んだのは形だけだと思っていたと、後で本人が言った。ただ、80人のご祝儀で590万になるのかどうかは、全く別の話だ。
幸介も同じことを考えたらしい。
「ご祝儀でいくら見込んでるんだ?」
「そんなの、やってみないとわかんないじゃん。」
「分からないもんを当てにして契約したのか。」
「お兄ちゃん、細かい。」
細かい。620万円の話を「細かい」と言われて、幸介は口を閉じた。私は見積書の内訳に目を落とした。気になったのは演出の欄だった。キャンドルリレー、フラワーシャワー、プロフィール映像、デザートビュッフェ、2回目のお色直し、ゴンドラでの入場。1つずつは5万から20万で、合わせると90万を超えている。
「リカさん。」
私が呼ぶと、リカはこちらを向いた。呼ばれたことに驚いた顔だった。
「この演出分は、健太さんとも相談されたんですか?」
「なんでさおりさんが聞くの?」
「ご一緒に払う方ですから。」
「健太は、私に任せるって言ってる。」
「そうですか。」
「あの人、こういうのわかんないから。」
分からない人に任されたから、好きにやった。そういう意味に聞こえた。私はそれ以上は言わなかった。ここで押せば、また「家族の話だから」と言われる。
そこで義母が座り直した。畳に手をついて、頭を下げた。
「幸介、お願い。」
「母さん。」
「お父さんが亡くなってから、あんたがこの子の父親代わりだったでしょ。最後ぐらい、盛大に送り出してあげて。」
義母の白髪の分け目が、蛍光灯の下で光っていた。
「先方のご実家は立派なところなのよ。水臭い式をして、リカが下に見られたらどうするの?」
「母さん、下に見られるのは金額じゃないだろう。」
「そういうことじゃないの? 分からない人ね。」
義母はそこで立ち上がり、隣の部屋の仏壇の前へ行った。線香に火をつけて、鈴を鳴らす。それから遺影の方を向いたまま言った。
「お父さん、リカがお嫁に行くのよ。」
遺影の中の義父は、50くらいの顔で笑っていた。私が1度も会ったことのない人だ。義母は遺影に向かったまま続けた。
「お父さん、最後までリカのことを心配してたの。私が病院で手を握ったら、『リカを頼む』って言ったのよ。」
鈴の音が消えてから、義母はもう1度言った。
「幸介、あんたが父親代わりでしょ。」
その言い方は、頼み事の形をしていなかった。すでに決まっていることの確認の仕方だった。義母が金の話をする時と、全く同じだ。どこで覚えたのだろうと思ったが、答えは考えるまでもなかった。
幸介は天井を見た。それからリカを見て、私を見た。
「少し考えさせてくれ。」
その日は、それで帰った。帰りの電車で夫はほとんど喋らなかった。乗り換えのホームで缶コーヒーを2本買って、片方を私に渡した。
「さおりは、どう思う?」
「私が決めることじゃないよ。」
「そういう言い方するなよ。」
「じゃあ言うけど。」
私は缶を握った。冬の風で指先が冷えていたから、その熱が有り難かった。
「あの口座、私の給料も入ってるよ。」
幸介が私を見た。
「うん。」
それだけ。それ以上は言わなかった。言えば責める形になる。私が欲しいのは謝罪ではなかった。
その夜、私は通帳の記録を開いた。10年で貯めた2人の金は、720万円になっていた。子供がいない分、私たちは貯められた方だと思う。旅行を我慢して、車も持たず。外食は駅裏の洋食店だけにしてきた。500万を引くと、220万円が残る。数字を書き出して、私はノートを閉じた。攻める材料を作るために書いたのではない。私はただ、その金額の重さを自分の手で確かめたかった。
幸介は3日の間、何も言わなかった。最初の日は残業だと言って遅く帰り。その次の日は休みなのに、車の洗車に行った。うちに車はない。会社の営業車を洗ってきたのだそうだ。何かをしていないと落ち着かない人なのだと、その時初めて知った。
その夜、私は台所から声をかけた。
「無理しなくていいからね。」
「無理って、出さなくてもいいってこと?」
「幸介は『そうだな』と言って、そのまま風呂に入ってしまった。」
3日が過ぎた夜、夫はいつもより遅く帰ってきた。上着から、あの洋食店の匂いがした。1人で行ってきたらしい。食卓で、幸介は箸を置いてから言った。
「500万、出そうと思う。」
私は味噌汁の椀を持ったまま、その数字を頭の中でもう1度なぞった。
「ただし、条件をつける。」
「条件。」
「これを最後にする。今後は1円も出さない。それはリカにも母さんにも言う。」
「幸介がそう決めたなら、私は何も言わない。」
「ありがとう。でも、1つだけ聞かせて。」
「何だ?」
「渡すのは、いつ?」
幸介は考えてから答えた。
「式の後だ。結婚祝いとして、あいつらの口座に振り込む。前に渡すと、多分式の中身が増える。」
その判断は正しかったと思う。後から振り返れば、まだ渡していなかったことだけが、私たちに残された唯一の余白だった。その夜、私は旅行の雑誌を捨てた。捨てるつもりはなかった。ただ紙の束を整理していて、付箋の貼ってあるページが目に入った。2泊3日の温泉で、2人で7万円と書いてある。その金額を見てから、500万という数字をもう1度思い浮かべた。7万で迷っている私たちが、その70回分より多い金額を1度に出す。それが妹への金だと思うと、悔しいというより、うまく息ができない感じがした。私は雑誌を紙のゴミの袋に入れて、口を縛った。
翌週、義実家に呼ばれて、幸介は同じことを2人の前で言った。
「500万出す。ただし、式が終わってからだ。結婚祝いとして、お前らの口座に振り込む。ただし、これで最後だ。もう1円も出さない。」
リカは両手を打った。
「さすがお兄ちゃん!」
声が弾んでいた。義母は目頭を押さえて頷いている。
「ありがとね。お父さんも喜んでるわ。」
「聞いてたな。これで最後だ。」
「はいはい。聞いた聞いた。」
リカはもうパンフレットに戻っていた。ページをめくりながら、独り言のように言う。
「はー、じゃあキャンドルのやつ、出そうかな。」
「リカ。」
幸介が言った。
「620万で止めろって言ったよな。」
「分かってるよ。冗談だってば。」
冗談で足す金額ではない。それでも、リカはそこを「冗談」で言える人だった。台所へ立った私に、リカがついてきた。冷蔵庫の前で、リカは小声で言った。
「言いたくないけど、別にさおりさんのお金じゃないからね。」
「うん。」
「お兄ちゃんが自分で決めたことだから。さおりさんが偉そうにする話じゃないでしょ。」
私は麦茶のポットを取り出した。手が震えないように、両手で持った。
「そうね。」
それしか言わなかった。言い返さなかったのは、その日が夫の決断の話だったからだ。ここで揉めれば、悪いのは私になる。10年、そうやって飲み込んできた。約束は義実家の座敷の前で口に出しただけだった。日付も金額を書いたメッセージも残っていない。この家では、金の話はいつも口で始まって終わってきた。後から思えば、そのやり方に助けられたのは幸介の方だった。500万円はまだ1円も動いていない。振り込みは式の後。渡す前か、渡した後か。この一点が、後に全てを決めることになる。
500万円を約束した日から、義母の連絡は増えた。それまでは金がいる時だけだったのに、その頃からは毎日のように届いた。届くのは相談ではない。決まったことの通知だった。最初は義母の衣装だった。夜にかかってきた電話で、リカはいきなり切り出した。
「お母さんの留袖で借りるから、付き添いとメイクも入れて8万ね。」
「8万か。」
「安い方だよ。ホテルの中でやってもらうんだから。」
幸介は電話の向こうへ「分かった」と言った。私は隣で味噌汁を温めていた。次は両家の顔合わせの席だった。料亭の席を予約したと、リカが電話で言ってきた。
「1人2万のコースにしたから、6人で12万。」
「リカ、そこは向こうの家と折半だろ。」
「先方に出させるわけないでしょ。うちが恥かくじゃん。」
恥。義母と同じ言葉を、リカも使った。着物のランクを1つ上げたいという話が出た時、私は1度だけ口を挟んだ。
「遠方からいらっしゃる方もいると伺いましたので、重い物は避けた方が。会社で得意先に言うのと同じ言い方だった。」
リカは私を見ずに言った。
「残念。さおりさんが決めることじゃないよね。」
「リカ。」
幸介が注意した。リカは「分かった分かった」と言って、カタログギフトの方でランクだけ上げた。その日から、私は口を挟むのをやめた。私の言葉が通るのは、夫が横から名前を出した時だけだと確かめたのだ。その後も2次会の会費が足りないという話になり、遠方の親戚の宿泊費という話になった。その度に、幸介は「分かった」と言った。招待状の話も、決まってから知らされた。
2月の終わりに義実家へ行くと、卓の上に厚紙の見本が3種類並べてあった。リカは迷わず、1番白い差し出しのあるものを取った。
「これにする。1枚400円だけど、80枚でも3万2000円。」
「宛名はどうするの?」
「宛名は、今度お寺さんに頼むと高いから、さおりさんに書いてもらおうかなって。」
私は顔を上げた。
「私、字が綺麗でしょ。会社で伝票書いてるんだから。」
80枚はないはずだと、私は思った。ご夫婦で来られる方は連名で1通になる。この人数なら、実際に出すのは60通ほどだ。言えばまた話が長くなるので、黙っていた。後で数えたら、20通以上が余った。リカはその余りを見て、「足りないよりいいでしょ」と言った。伝票の字が綺麗だから、招待状の宛名を書けというのは、理屈としては随分荒い。それでも断れば、私が心の狭い人間になる。結局、私は32枚書いた。2日かかった。終えて渡した時、リカは「ありがとう」とだけ言って、確認もせずに封筒の束に重ねた。
3月の第2週、式場の打ち合わせに私も呼ばれた。呼んだのは義母だ。
「幸介だけだと分からないでしょ。さおりさんも来て。」
ホテルの打ち合わせ室は白くて明るくて、椅子が柔らかかった。担当の方が名刺をくれた。谷口彩子さん。36歳だと、後で雑談の中で知った。谷口さんは話し方の速さを相手に合わせる人だった。リカが早口になれば早口で、義母がゆっくり喋れば待ってくれる。
「本日はお料理とお飲み物、それから演出の最終確認をさせていただきます。」
「演出、もうちょっと足したいんですけど。」
リカが身を乗り出した。谷口さんは資料をめくった。
「キャンドルリレーとフラワーシャワーはすでにお入りです。装花のグレードアップと映像の追加を入れますと、合計が今のプランを超えてしまいます。」
「超えたら、いくら?」
「700万円近くに。」
「うーん。」
リカが幸介を見た。見ただけだ。言葉にはしない。言葉にしない方が通ると知っている。幸介は資料を閉じて、言った。
「620万で止めろ。」
「えー。」
「止めろ。」
珍しく強い声だった。リカは口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。谷口さんは何も聞かなかった顔で「620万円のまま進めます」と書き込んだ。打ち合わせを出る時、谷口さんが私に言った。
「奥村様、当日は受付をなさると伺っております。」
「受付ですか?」
「はい。ご新郎様から、ご親族の受付をお願いすると伺っております。」
初耳だった。私は自分の当日の役目を、身内より先にホテルの人から聞いた。
「ご負担が大きいようでしたら、当日のスタッフでお手伝いできますが。」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
そう答えてから、なぜこの人は私に声をかけたのだろうと思った。多分、こういう家を何度も見ているのだと思う。式場の仕事というのは、1日で家の形が見える仕事なのかもしれない。
その日の帰り、駅までの道でリカが言った。
「さおりさん、当日は受付お願いね。」
「知っています。ホテルの方から先に伺いました。」
「うん。親族の受付。あと、おばさんたちの送迎も、駅まで迎えに行ってもらえると助かる。」
「私、車持ってないけど。」
「タクシー呼べばいいじゃん。2台くらいでしょ。」
タクシー代を誰が出すのかは、聞けなかった。聞けば答えは分かっている。リカは前を向いたまま続けた。
「あと、席のことなんだけど。お兄ちゃんとさおりさんは、親族席じゃなくて後ろの方にしたから。」
「後ろ?」
「受付やってもらうし、動きやすいでしょ。それに、さおりさんはまあ、真面目でいいでしょ。」
「まあ」。その一言に、10年分が入っていた。幸介が立ち止まった。
「おい。」
「何?」
「失礼じゃん。」
「知ってるよ。だから来てもらってるんじゃん。」
来てもらっている。招くのではなく、来てもらっている。リカの中では、そういう順序になっているのだと分かった。2次会の話も出た。会費を1人6000円にしたら人が集まらないから、5000円に下げるという。下げた分の不足はどうするのかと幸介が聞くと、リカは当たり前のように答えた。
「そこはお兄ちゃんが。」
「2次会、まだ俺かよ。」
「だって、2次会って新郎側が負担するものだもん。」
「じゃあ、お前らが負担しろよ。」
「お兄ちゃん、細かい。」
また「細かい」だった。結局、2次の不足分は健太さんが出すことになった。その時、リカが健太さんに何と説明していたのかを、私が聞かされたのは式の後だった。
親戚の送迎の段取りも私に回ってきた。義父の妹に当たる方が2人、遠方から来る。当日の朝、駅からホテルまで送ってほしいという。リカからのメッセージは時刻と名前だけが書いてあって、タクシー代のことは何も書いていなかった。
「これ、こっちが立替えるってことだよね。」
「そうだろうな。」
幸介は自分のスマートフォンを見ながら答えた。
「2台で迎えに来てもらう分も入れて、1万2000円くらいか。」
「行ってみようか。」
「やめとけ。当日に揉める方がきつい。」
私はカレンダーに時刻を書き込んだ。書き込みながら、これは頼まれ事ではなく割り当てなのだと思った。その週、私は義妹のことをもう一度考えた。式に620万円かかる。手付けの30万円は払った。残りの590万円は、式の6日後までに払う。手取り19万円のリカと、食品の卸売りに務める相手の2人で、その金額をどう組んだのか。兄からの500万円が入るのは式の後だ。幸介が2人の前でそう言ったのだから、リカもそれを知っている。なのに、リカには焦りが1つもなかった。
幸介にも聞いてみた。
「リカちゃん、貯金いくらあるって言ってた?」
「言わない。聞いても『大丈夫』としか言わないんだ。」
「健太さんの方は?」
「知らん。会ったこともないからな。」
食卓の上で、夫は指を組んだ。
「まあ、向こうもいい年の社会人だ。2人で計算してるだろう。」
私もそう思うと言った。滝沢さんに、その話を少しだけした。
「後払いのね。あるわよ、そういうの。ご祝儀で払えるって。」
「払える人はね、奥村さん。うちの取引先で、同じことする会社があるの。入金の予定を当てにして仕入れる会社。どうなるんですか? 入金が遅れたら終わりよ。予定は現金じゃないから。」
予定は現金ではない。その言い方が、耳に残った。翌週、リカはまた新しいバッグを抱えていた。実家の玄関で、義母がそれを見て笑った。
「あら、いいの買ったのね。」
「頑張った自分へ、ご褒美。」
何を頑張ったのかは言わなかった。その日の帰り道、私はノートに一行だけ足した。義妹の欄ではない。ページの橋に、疑問符をつけて書いた。620万円。その金は、どこから来るのか。見積書の数字は増え続けた。増やしているのはリカで、払う話をしているのは義母で、実際に払う相手だけが1度もその場にいなかった。
両家の顔合わせは3月の下旬だった。本来なら式場を決めるより先に済ませるものだが、リカの都合で2度伸びて、招待状を出した後になった。場所はリカが予約した料亭で、個室の障子の向こうには小さな庭が見えた。畳に座って、私は自分の膝の位置を何度も直した。先についていたのは、相手の家族だった。新郎になる人は片桐健太さんという、33歳。食品の卸売りの会社で営業をしている。隣に座っているのが母親の正子さんで、62歳だと挨拶で聞いた。健太さんは座布団から降りて、手をついた。
「本日はありがとうございます。片桐健太です。リカさんとは1年半のお付き合いになります。」
背筋の伸びた挨拶だった。幸介も膝を正した。
「奥村幸介です。こっちは妻のさおり。」
「奥村さおりです。よろしくお願いします。」
正子さんは私の顔を見て、表情を緩めた。
「リカさんから、お二人は本当によくしてくださると伺っておりました。」
本当によくしてくださる。その言い方が、少しだけ引っかかった。「よくしてもらっている」ではない。料理が運ばれてきて、乾杯をした。最初のうちは和やかだった。正子さんが健太さんの子供の頃の話をした。この子はね、小学校の時からずっと野球で、勉強の方はさっぱりで。健太さんが横から止めた。
「お母さん、その話は今日じゃなくていいよ。」
「いいのよ。リカさんに知っておいてもらわないと。」
健太さんの父親は5年前に亡くなったそうだ。長く患って、最後の1年は家で見たという。正子さんは健太さんの方へ顎を向けた。
「この子ね、仕事を早く上がって、毎晩お風呂の世話を手伝ってくれたの。」
「別に、普通のことだろ。」
「普通のことをする人が、1番いいのよ。」
正子さんはそう言って笑った。私はその言葉を、なぜか覚えてしまった。幸介も打ち解けたようだった。健太さんが「お兄さんは建築資材のお仕事ですか」と聞いて、そこから仕事の話になった。卸売りと資材で扱うものは違っても、納期に追われる話は同じだし。2人はしばらく笑っていた。私はリカの横顔を見ていた。リカは、自分の話が出ないとあまり喋らない。正子さんは今もパートを続けているという。年金だけでは細かいから、体が動く内にと笑っていた。やがて、話は式のことになった。健太さんが箸を置いて、こちらに向き直った。
「式のことなんですが。」
「うん。」
「本当に、ご実家に甘えてしまっていいんでしょうか?」
幸介の手が止まった。
「実家?」
「はい。リカさんから聞いていません。式の費用は、リカさんのご実家が出してくださると。」
私は自分の呼吸が浅くなるのが分かった。実家が出す。その言い方だと、金を出しているのは義母ということになる。年金だけで暮らす、65歳だ。リカは箸を持ったまま、まっすぐ健太さんを見ていた。表情は動かない。義母が口を開きかけた。
「あのね、健太さん、それは…」
そこまでだった。リカが横目で母親を見た。ほんの1秒だ。義母は湯飲みへ手を伸ばし、そのまま茶を飲んだ。何も言わずに、飲み終えて置いた。座敷の下で、幸介の拳が握られているのが見えた。「言え」と私は思った。実家ではなく、隣にいる夫が出すのだと。幸介は言わなかった。
「まあ、身内のことだから。」
それだけ言って、笑って見せた。正子さんが義母の方へ向き直って、「ありがとうございます」と頭を下げた。健太さんも母親に習って頭を下げた。2人とも、心から下げていた。私はその2つの頭を見ていることができなかった。頭を下げられている人は1円も出さない。出す人は、その隣で黙っている。その後は式の日の話になり、席次の話になった。席次の話が出た時、リカはこう言った。
「親族席は、お母さんとおばさんたちで埋まっちゃうから。」
「お兄さんご夫婦は?」
健太さんが聞いた。
「お兄ちゃんたちは受付もやってもらうし、後ろの方が動きやすいでしょ。」
「そういうものかな。」
「そういうものだよ。」
正子さんが「まあ、動く人は出入り口に近い方がいいわね」と言って、その話は終わった。私は畳の縁を見ていた。あの時、席の位置に文句を言えば良かったのかもしれない。言っていたら、あの日の皿の話も違っていただろうか。多分、違わなかったと思う。席のことも皿のことも、リカの中ではとっくに決まっていた。手続きをするのが、まだ先だっただけだ。
顔合わせは無事に終わった。料亭を出て、駅までの道で私は幸介の横を歩いた。
「なんで言わなかったの?」
「あの場で言ったら、リカが嘘つきになる。」
「嘘つきでしょ。」
自分の声が思ったより鋭くて、私は驚いた。
「それ、ごめん。でも、あの人たち何も知らないよ。」
「知らせて、何が変わる?」
「変わらないかもしれない。でも…」
言葉を探しているうちに、駅の明かりが見えてしまった。電車に乗ってから、幸介が言った。
「正子さん、いい人そうだったな。」
「うん。」
「健太さん。」
「うん。」
「だからこそ、腹が立ってる。」
私は座席の背もたれに頭をつけて、窓の外を見た。知らない駅の明かりが流れていった。
「あの人たち、リカのことを信じてるよね。」
「信じるだろ。結婚するんだから。」
「信じてる人に嘘をついている人と、これから一緒に暮らすんだね。」
幸介は答えなかった。答えられないのだと思う。
その夜、幸介はリカに電話をかけた。スピーカーにはしなかったが、私にも聞こえるくらいの声だった。
「健太さんに、『実家が出す』って説明してるのか。」
「言い方の問題でしょ。」
「言い方じゃない。『母さんが出す』って聞こえるぞ。」
「同じことじゃん。うちの家が出すって意味だもん。」
「同じじゃないだろ。出すのは俺だ。」
「じゃあ、お兄ちゃんはうちの家じゃないの?」
幸介が黙った。リカのその一言は理屈になっていない。それでも、幸介は言い返せなかった。17年、その理屈で出し続けてきたのは自分だからだ。理屈がめちゃくちゃだからこそ、逆らえない。私は隣でそれを見ていた。それでも夫は、もう一度だけ言った。
「リカ。健太さんにちゃんと言え。」
「なんで?」
「なんでって。あの人は、お前と一緒に払う人だぞ。」
「言ったら、健太、気にするじゃん。」
「気にするのが当たり前だろ。」
「気にさせたくないから、言わないの。」
「優しさか?」
「優しさ。」
リカはこの言葉を、こういう時に使う。
「じゃあ、俺が言うぞ。」
「やめてよ。なんでだ?」
「お兄ちゃんが言ったら、私が嘘ついたみたいになるじゃん。」
「見たいじゃなくて、ついてるんだよ。」
「うるさいなあ。」
そこで、リカの方から切れた。電話が切れた後、夫は長いこと天井を見ていた。
「ねえ、さおり。」
「うん。」
「俺、あいつに何を教えてきたんだろうな。」
「教えてないよ。」
「そうか。教えてないから、覚えてないんだと思う。」
自分で言って、ひどい言い方だと思った。それでも、取り消さなかった。幸介は笑わなかった。笑わずに、「そうかもな」と言った。返事の代わりに、私は台所へ行ってお茶を入れた。
その夜、私は食器棚の下から箱を出した。ノートは10冊近くある。結婚した年から、月末にだけ書き出してきたものだ。最初のページには、まだ丸っこい字で家賃と光熱費が並んでいた。2枚の欄が現れるのは、2冊目の途中からだ。そこから先は、途切れることなく続いている。私は最初のページから順に、数字を打っていった。誰かに見せるためではない。ただ、自分が何を見てきたのかを確かめたかった。結婚した年、リカの大学の4年目の学費と、その年の家賃。その次の年、卒業と就職の引っ越し。奨学金の返済が始まった年でもある。その後の年、エアコン、冷蔵庫、歯の治療、旅行、速度違反の反則金まで、夫は出していた。3年前の欄には「車」と書いてあって、金額のケタがそこだけ違う。足し終えた数字を見て、私は電卓の画面を消した。私が結婚してからの10年分だけでも、900万円を超えていた。結婚する前の7年は、私は見ていない。それを足したら、いくつになるのか。その時の私には、見当もつかなかった。
5月の土曜は、朝から晴れていた。私は押し入れに畳んでおいた礼服を出し、髪をまとめ、結婚する時に母が買ってくれた真珠のピアスをつけた。幸介はネクタイの結び目を、3回やり直した。
「まっすぐ?」
「そうか。うん。かっこいい。」
夫は照れたように、鼻の頭をかいた。この日の朝、私たちはまだ機嫌が良かった。支度が終わっても、まだ7時前だった。岐阜のおばさん2人の送迎があるので、私は先に家を出た。駅前でタクシーを2台抑えて、改札から出てくる2人を待つ。おばさんたちは新幹線で来ていて、大きな荷物を持っていた。
「さおりさん、悪いわね。」
「いえ。お足元、気をつけてください。」
ホテルまでは20分ほどだった。2台分の運賃を私が払って、領収書をもらった。自分の鞄に入れながら、これも入る紙が1枚増えたなと思った。ホテルには受付があるので、早めに入った。ロビーの天井が高くて、話し声がよく響く。案内板に、リカと健太さんの名前が並んでいた。2人の苗字が並んでいるのを見ると、さすがに胸の辺りが暖かくなった。受付の卓には、祝儀の名簿と筆と祝儀盆が置いてある。私はまず、自分たちの祝儀を出した。袋には10万円を入れてきた。兄夫婦の額としては相場だと、幸介が調べていた。
「これ、1番最初に置いとこう。」
「そうだな。」
親族の受付は、私と義母の姉の房子さんが並んで座った。房子さんは近くに住んでいるので、朝の送迎とは別に自分で来ていた。68歳で、義母より3つ年上になる。声の大きな人だが、目のよく動く人でもある。
「さおりさん、あんた、受付までやらされてるの?」
「頼まれたので。」
「新郎新婦の兄夫婦が受付なんて、聞いたことないわ。」
房子さんは祝儀の名簿を開きながら、独り言のように言った。親戚が次々に来る。私は名前を確認し、祝儀を受け取り、盆に重ねた。岐阜のおばさんたちの送迎は朝のうちに済ませてある。受付の列が1度切れたところで、私は席次表を見た。4つ折りの紙を開くと、円卓が並んだ略図が描かれている。新郎新婦の高砂を囲むように、両家の親族席がある。そこに、私たちの名前はなかった。指で辿っていくと、入り口に1番近い卓に「奥村幸介」「奥村さおり」と書かれていた。同じ卓の残りは、健太さんの同僚の方たちだ。
「後ろの方って、こういうことか。」
幸介が私の手元を覗き込んだ。
「まあ、動きやすいよ。それに、本当に受付やったんだから、ちょうどいい。」
そう言ったのは、その時点ではまだ本気でそう思えたからだ。
受付が一段落したところで、私は親族の控室に呼ばれた。部屋に入ると、リカがいた。もうドレスは着ていて、ベールだけがまだだ。ヘアメイクの人が裾を広げて床に置き、扉の方へ体を向けて立っていた。ここから先へは通さないという立ち方だった。
「さおりさん、岐阜のおばさんたち、来た?」
「来ました。控室にご案内しました。タクシー代は立て替えました。」
「ああ、そう。」
それだけ言って、リカは鏡の方へ向き直った。金額も聞かれなかった。房子さんが横で言った。
「ねえ、今の。」
「大丈夫です。」
「大丈夫じゃないでしょ、普通。」
私は祝儀の名簿の向きを直した。この日はリカの日だ。そう自分に言い聞かせたのは、朝から何度目だろう。
受付は10時半で一旦閉めた。親族紹介があるからだ。控室で、三方に向かい合って並ぶ。向こう側の方が、少しだけ数が多かった。仕切ったのは義母だ。順番に名前と続柄を読み上げていく。
「新郎の母、美智子でございます。それから、隣が長男の幸介と、その妻のさおりさんです。」
身内を紹介するのに「さん」付けをする人はいない。義母はそれを、10年1度も直さなかった。幸介が頭を下げた。私も下げた。向かい側の席に立っていた正子さんが、丁寧に下げ返してくださった。
「新郎の母でございます。健太がいつもお世話になっております。」
その隣に、健太さんのおじさんとおばさん、それから従姉の方が並んでいた。皆さん、礼服できちんと立っていた。房子さんは「新郎の母の姉です」と自分で名乗った。義母が飛ばしたからだ。岐阜のおばさん2人も、順に名乗った。5分ほどで終わった。短い時間だ。それでも、名前を呼ばれて頭を下げるというのは、その家の一員として数に入っているということだった。奥村家の長男の妻。そう呼ばれた。頭を下げたのが、10時40分のことだった。
挙式は11時から始まった。チャペルの通路を、リカは義母と腕を組んで歩いた。父親のいない家だから、そうすると前から決めていたそうだ。「父親でしょ」と言われるのは、金を出す時だけだった。歩く相手は、母親のものだった。純白のドレスは肩の出た形で、裾が長かった。リカは綺麗だった。それは、認めなければならない。幸介は妹が通り過ぎる時、目を細めていた。14歳で制服のまま座っていた子が、その通路を歩いている。夫の中には、私の知らない17年分の映像が流れていたはずだ。
指輪を交換して、扉が開いて、外でフラワーシャワーをした。花びらが風に散って、リカは笑っていた。披露宴は12時半からだった。私たちの卓は、扉のすぐ横だ。同席の方たちは感じのいい人ばかりで、健太さんの同期だという男性が「新郎のお兄様ですか」と話しかけてくれた。司会の方が新郎新婦の紹介を読み上げ、それから主賓の挨拶があった。乾杯の音頭を取ったのは、健太さんの会社の部長さんだった。短くて感じのいい挨拶だった。リカと健太さんがグラスを掲げて、会場中のグラスが鳴った。私も鳴らした。幸介も鳴らした。そこまでは、普通の披露宴だった。
椅子の足元に、引き出物の袋が置いてあった。持ち上げると、思ったより軽い。「遠方の方もいらっしゃると伺いましたので、重い物は避けた方が」。打ち合わせで私が言ったのは、あの1つだけだ。それが形になって、80人の椅子の下に置かれている。この会場に、私が残したものはそれだけだった。
そして、料理が運ばれてきた。黒い制服のスタッフが白い皿を両手で持って、卓から卓へ回っていく。前菜だ。細長い皿に、小さなものが綺麗に並んでいる。私たちの卓にも、来た。同席の4人の前に皿が置かれていく。私と幸介の前は、空のままだった。その時は何も思わなかった。順番だと思った。80人の会場でも、皿はほとんど一斉に出る。それでも、扉に近いこの卓が最後になるのだろうと思った。そう考えている自分が、まだ普通に呼吸をしていたことを覚えている。
スープが来た。同じだった。4人の前に置かれ、2人の前には何も来ない。ショープレートとナイフとフォーク、2つ折りのお品書き、乾杯で口をつけたグラス、そして名前の入った席札。私たちの前にあるのは、それだけだった。お品書きには、来ない料理の名前が並んでいた。同席の方が気づいて、こちらを見た。
「あれ? お2人のお分は、多分後から来るんだと思います。」
「はい。ありがとうございます。」
私は笑ってそう言った。声が硬くなっているのを、自分でも分かった。プロフィールの映像が流れ始めた。子供の頃のリカ。運動会、七五三、制服姿、大学の卒業式。どの写真にも、幸介が映っていた。背負っている写真もあれば、卒業式の門の前で並んでいる写真もある。会場が「お兄さん、優しそう」とざわめいた。義母が涙を拭うのが、離れた席からも見えた。映像の中の兄弟は、仲が良かった。事実として、悪いわけではないのだと思う。ただ、あの17年の中身を知っている人間は、この会場に3人しかいない。
映像が終わって、明りが戻った。魚料理が来た。来なかった。幸介がナプキンを置いて、通りかかったスタッフに小さく手を挙げた。若いスタッフが近づく。
「すいません。」
「はい。」
「うちの卓だけ、2人分ないみたいなんですが。」
「確認いたします。」
その人は下がっていった。会場では新郎の友人がスピーチをしていて、笑いが起きていた。待っている間、同席の方たちは気を使ってくれた。
「うちのを、分けましょうか?」
「いえ、大丈夫です。」
「いや、でも、さすがに。」
健太さんの同期だという男性が、パンの籠をこちらへ寄せてくれた。私はそれを押し戻すことも、受け取ることもできなかった。斜め前の親族席から、義母がこちらを見ていた。目が合うと、すぐに視線を戻した。リカも一度高砂からこちらを見た。見て、笑った。その時に、私はもう分かっていたのだと思う。ただ、認めるのが嫌だった。
戻ってきたのは、さっきのスタッフではなかった。谷口さんだった。打ち合わせの時と同じ、落ち着いた歩き方でこちらへ来る。膝を折って、卓の高さに合わせた。
「奥村様、お待たせして申し訳ございません。」
「料理の間違いですか?」
「いえ。」
谷口さんはこちらの目を見ていった。
「お料理は、78名様で承っております。」
「78名。席は80ある。卓の上をもう1度見てから、私は乗り出した。」
「席と数が合わないということですか?」
「お席とお料理は、別のご手配になりません。」
幸介の顔から、表情が抜けた。
「誰がそうしたんですか?」
「ご契約者様にご確認をお願いいたします。」
谷口さんの言い方は事務的だった。ただ、事務的にしなければならない人の言い方だった。この人は仕事でここに立っている。家の事情に踏み込む立場ではない。だから、78という数字だけを置いていった。あとは自分で聞けという置き方だった。谷口さんはもう一度、同じ調子で言った。
「ご契約者様のご指示がない限り、こちらでお出しすることができません。」
「いえ、大丈夫です。」
私はそう答えた。声が自分のものに聞こえなかった。私は席次表をもう1度開いた。そこに私たちの名前はある。席はある。呼ばれている。呼ばれていて、食べるものだけがない。手違いなら、この人は謝る。ホテルの人は、そういう時必ず謝る。谷口さんは謝らなかった。「承っております」と言っただけだった。
ケーキ入刀が終わり、照明が戻った。歓談の時間に入って、高砂の2人が卓を回り始めた。新郎は主賓の卓で捕まっている。白いドレスだけが、こちらの卓の方へゆっくり近づいてきた。後ろに、ヘアメイクの女性がついていた。リカはドレスの裾を持ち上げて、卓の横に立った。ブーケを持ち替えて、口元だけで笑っている。
「綺麗でしょ。」
「リカ。」
幸介が振り向いた。声はまだ穏やかだった。
「俺たちの料理、ないみたいなんだけど。」
「うん。」
リカは否定しなかった。「うん」と言った。
「だって、2人の分頼んでないもの。」
声を出したのは、私だった。同席の4人が、一斉に箸を止めた。健太さんの同期の男性が、私とリカを見比べている。
「頼んでないって、どういう意味だ?」
「数の通りだけど。80人分から、2人減らしたの。」
「なんで、そんなことする?」
「なんででも。」
リカはブーケの向きを直して、私の方を見た。
「欲しいなら、追加で払って。」
その言い方には、ためらいも照れもなかった。値段を告げる店員のような言い方だった。
「あのさ、家族なんだから、食事が目的じゃないでしょ。」
私は自分の膝の上で手を組んだ。爪が手の甲に当たった。同席の4人のうち、誰も箸を動かさなくなっていた。健太さんの同期の男性が、口を開きかけてやめた。新郎新婦の家のことに、招かれた側が踏み込む場面ではない。私には、その気持ちが分かった。私も10年、同じ立場で口を閉じてきた。
「リカ。」
幸介がもう一度呼んだ。
「今からでも頼めるなら、俺が払う。」
「だから、追加で払えばって言ってるじゃん。」
「そういうことじゃない。なんで減らしたのかを聞いている。」
「別に。深い意味はないよ。」
深い意味はない。私と夫の前だけを白いままにしておいて、この人は「深い意味はない」と言った。
そこへ、谷口さんが戻ってきた。私たちの間に立って、両方に聞こえる声で言った。
「奥村様、ご追加をご希望でしたら、本来はご契約者様のお会計に加算させていただきます。奥村様で別にお支払いになる形でしたら、そのご案内もいたします。」
「はい。本日、同じコースを出しすることはできません。仕込みのご人数が決まっておりますので。」
「そうですか。」
「本日ご用意できるのは、承っている数までとなります。お魚とお肉は、78名様分でご用意しております。」
幸介が顔を上げた。
「じゃあ、どうしようもないってことですか。」
谷口さんは一度間を置いた。
「前菜スープでしたら、余分がございました。ただ、お出しするにはご契約者様のお指示が必要でございます。ご指示はいただいておりません。単品でしたら、お作りできるものがございます。オードブルの盛り合わせで、1皿1万2000円。サービス料と税は別で頂戴しております。」
1皿1万2000円。見積書の料理の単価は、1名1万5000円だった。80人分で120万円になっていた。あの3000円しか違わない。つまり、同じだけの金を出しても、みんなと同じ皿は来ない。2人分の3万円さえ払えば元に戻ると言う話ではない。3万円を出したところで、もう取り返せない。
リカが近くのスタッフに合図をした。
「じゃあ、あれ持ってきて。追加のやつ。」
黒い制服のスタッフが、2つ折りの用紙を持ってきた。「追加のご注文書」と書してある、横長の伝票だった。上の方に手配の内容が並んでいて、下に金額を書く欄と署名の欄がある。リカはそれを、私の前に置いた。
「はい。」
書いて。私はペンを見た。文字は目に入っていたが、頭には入らなかった。会場の音が遠かった。ペンも一緒に置かれていた。ホテルのロゴの入った、黒い細いペンだ。書けば、多分15分か20分で何かが出てくる。オードブルの盛り合わせのようなものだろう。それを2人で食べれば、この場は収まる。収めることは、できる。幸介もペンを見ていた。手を伸ばしかけて、止めた。私と同じことを考えたのだと分かった。私もペンに手を伸ばさなかった。ここで3万円を払えば、私は「払って食べさせてもらった」人になる。リカがこの場でやりたかったのは、多分それだ。
その時だった。
「ちょっと、どういうことなの?」
声を上げたのは、房子さんだった。受付を一緒にやった、義母の姉だ。親族席から立ち上がって、こちらへ歩いてくる。
「なぜ、お2人にお料理がないの?」
「房子おばさん、いいから座って。」
「良くないわよ。呼んでおいて、食べさせないって、どういうことなの?」
声が大きい人だから、近くの卓には余すところなく届いた。円卓のいくつかが、こちらを向く。司会の方が、間をつぐ言葉を探しているのが分かった。房子さんはその視線を気にしなかった。
「リカちゃん、あんた、お兄さんに何をしてもらってきたか、覚えてる?」
「房子おばさんには、関係ないでしょ。」
それでも、房子さんはリカの方へ一歩詰めた。
「関係ないわよ。関係ないけど、見てたのよ。」
「見てただけの人が、偉そうに言わないで。」
その一言で、房子さんの顔つきが変わった。
「そう。そういう子だったわね。あんたは。」
ヘアメイクの女性が、リカの肘の辺りに手を添えた。
「ご新婦様、そろそろお次のお卓へ。」
「待って。」
リカはその手を避けた。ヘアメイクの人が一歩下がって、耳の辺りに指を当てた。何かを話している。誰かを呼んだのだと分かった。高砂の向こうで、正子さんがこちらを見ていた。何が起きているのか分からない顔だった。あの人には、声だけが届いて中身は届いていなかったのだと思う。
そこへ、義母が来た。留袖の裾を抑えながら、私の肩に手を置く。
「リカの晴れ舞台なんだから、細かいことで揉めないの。」
「お母さん。」
私は肩の手を避けずにいた。
「細かいことでしょうか?」
「そうよ。ご飯ぐらいで。」
「はい。」
「後で食べればいいじゃないの。」
後で食べればいい。この人は、そう思ってる。食べ物の話をしているつもりなのだ。違う。私と夫の前だけが白いことは、80人が見ている。それが何を意味するのかを、この会場の全員が理解している。理解した上で、誰も何も言わない。それが、今この部屋で起きていることだ。3時間前、私は控室で向かい合って並んだ人たちの前で、「奥村家の長男の妻」として名前を呼ばれた。頭を下げて、下げ返してもらった。その席に、皿がない。同じ日、同じ建物の中で、2つとも本当のことになっている。
「お母さんは、いつ知ったんですか?」
「何を?」
「私たちの分がないことを。」
義母は答えなかった。答えないことが、答えだった。知っていて黙っていたのか、その場で察して流したのか、私には分からない。ただ、どちらであっても、この人が私の側に立つ気がないことだけは、同じだった。
「美智子、あんた、姉さんを黙らせて。」
義母は自分の姉にそう言って、それから私を見た。
「さおりさんね、今日だけだから。1度だけだから。」
その言い方を、私は何回聞いてきただろう。誕生日会に呼ばれなかった日。「家族の話だから」と言われた日。義母はそう言った。「今回だけ。この1度だけ。」その積み重ねが、白いクロスになって、私の前にある。隣を見た。幸介は、白いままのクロスを見下ろしていた。何も言わない。私はそれでもいいと思った。その日はリカの日だ。ここで揉めれば、悪いのは私になる。
谷口さんが、私たちの間に体を入れるように立った。
「ご新婦様、お話はあちらのお部屋でお伺いいたします。」
声は低かったが、譲る気のない口調だった。この人は、この部屋を守る側の人間なのだと、その時はっきり分かった。夫がナプキンを卓に置いた。
「帰ろうか。」
私は顔を上げた。幸介は妹を見ていなかった。私を見ていた。
「うん。」
私はそう答えた。2人で立ち上がる。椅子が絨毯にこすれる音がした。私は伝票を手に取った。
「これ、頂いていきますね。」
リカが「え?」と言った。止める言葉は出てこなかった。2つに畳んで、鞄の内側に入れた。署名の欄は、白いまま。何も書かなかった。なぜ持って帰ったのかと、後で幸介に聞かれた。答えられなかった。ただ、鞄の止め金を閉めた時、滝沢さんの言葉が1度だけ頭をよぎった。数字を持っている人が勝つ。あの会場で、私にできたのはそれだけだった。
立ち上がった時、会場の音がふっと遠くなった。司会の方がこちらに気づいて、マイクを持ったまま少しだけ動きを止めた。それでも、プロの人だからすぐに次の言葉を続けた。「お写真の時間です」と会場に告げる声が、天井の辺りで響いた。お写真の時間。私たちの卓には、話す相手も噛むものもない。
「本当に帰るの? 子供じゃあるまいし。」
リカが笑った。友人の方から、追いかけるような笑い声が上がった。
「じゃあな。」
幸介はそれだけ言った。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
「じゃあな。」
2度言って、夫は歩き出した。私はその後ろに着いた。扉の前で、夫は1度だけ振り返った。妹の顔ではなかった。私たちの卓の、料理の来なかった2人分の席を見ていた。
廊下に出ると、会場の音が扉の厚みの分だけ遠くなった。高砂の方では、健太さんがまだ笑っていた。誰かに酒を注がれて、頭を下げている。あの人は、まだ何も知らない。言うなら今だと思った。けれど、あの人は自分の披露宴の最中に、妻が嘘をついていたことを知る。80人の前でだ。その役を、私たちが引き受けていいのかが分からなかった。幸介も同じことを考えていたのだと、後になって知った。
ロビーまで来た時、後ろから足音がした。谷口さんだった。
「奥村様、先ほどの件ですが。」
私は伝票を握った。返せと言われるのだと思った。
「お持ちいただいて結構です。ご署名をいただいておりませんので、料金は発生しておりません。」
「そうですか。」
「その用紙にあるお手配の内容は、そのまま残りますので。」
谷口さんはそう言って、頭を下げた。その時の私は、その言葉の意味を半分も分かっていなかった。ただ、鞄の止め金を締め直した。ロビーの大きな窓から、5月の光が入っていた。幸介がネクタイを一度緩めて、また戻した。
「腹減ったな。」
「うん。何も食ってないもんな。」
私たちはその建物を出た。17年で初めて、この人は妹を置いて帰った。背中が、いつもより広かった。
タクシーは大通りに出るまでに、3回信号で止まった。運転士さんが「お葬式ですか」と聞いた。幸介が「はい」と答えた。それ以上は、誰も喋らなかった。礼服の膝の上に、私は鞄を抱えていた。中には、畳んだ伝票が入っている。夫のスマートフォンが震え始めたのは、ホテルを出て15分ほど経ってからだった。1度目は短い震え。2度目も、3度目からは感覚が詰まってきた。幸介は画面を上に向けたまま、膝の上に置いていた。だから、私にも文字が見えた。最初は「帰った?」という短いものだった。次が「大人げないよ」。その次が「お母さん泣いてるんだけど」。「それからみんな見てたんだけど、恥かかせないでよ。」最後が「謝りに来てよね。」だった。謝りに来いと、リカは書いていた。料理を出さなかった側が、出されなかった側に謝罪を求めている。理屈にすれば、おかしいと分かるはずだ。それを、リカは疑いもせずに送ってくる。
「返さなくていいの?」
私が聞くと、幸介は前を向いたまま答えた。
「今返したら、多分謝る。」
「幸介が?」
「うん。俺が謝る。17年ずっと、そうだった。」
そこで夫は画面を伏せた。運転士さんが赤信号で止まった時、もう一度こちらを見た。
「いい天気で良かったですね。」
「ええ。妹の式で。」
幸介がそう答えると、運転士さんは笑った。
「そうですか。妹さんの晴れ姿は、いいもんでしょう。」
「そうですね。」
夫の返事は短かった。運転士さんは、それ以上聞かなかった。タクシーの仕事の人は、聞いていい相手かどうかを声で分けられるのだと思う。
車内には長距離用の芳香剤の匂いがしていた。私はその匂いを、しばらくの間覚えていた。何かの袋の表紙に同じ匂いを嗅ぐと、あの日膝に抱えていた鞄の重さを思い出す。
途中で降りようという話になった。どこかで食べようと言ったのは私だ。朝から何も口にしていなかったし、幸介に至っては前の晩から緊張して箸が細かった。けれど、礼服のまま入れる店を探しているうちに、2人とも面倒になった。結局、コンビニでおにぎりを買った。店の外に車止めがあって、私たちはそこに並んで座った。5月の日は長い。夕方の光がまだ白かった。私は鮭で、幸介は昆布だった。フィルムを外す音だけが続いた。店から出てきた高校生たちが、私たちを見て目を丸くした。そうだろうと思う。礼服にも見える黒い服の男女が、コンビニの前でおにぎりを食べている。
「これ、朝から何も食べてないんだよな。」
「うん。私も。」
「披露宴って、飯を食う場所だよな。」
「そうね。」
「80人分の飯が出ている部屋にいて、俺たちだけ食っていない。」
幸介は空を見た。夕方の雲が、まだ白かった。
「なあ、さおり。」
「うん。」
「怒っていいんだよな。これ。」
「怒っていいと思う。」
「そうか。」
夫はうつむいて、2つ目のおにぎりに手を伸ばした。
「うまいな。」
「うん。」
「披露宴の礼服でおにぎり食ってる40過ぎがいたら、俺は笑うと思う。」
「私も笑う。」
そう言って笑おうとしたら、頬が動かなかった。幸介がこちらを見なかったのが、有り難かった。
その間も、電話はなっていた。今度は義母だ。夫は出なかった。画面を見て、短く言った。
「30件超えた。」
「電話か。電話とメッセージ合わせて、返さないの?」
「返さない。」
夫は電源を落とそうとして、やめた。
「消すと、逃げたことになる。」
「そうかな?」
「そうだよ。逃げてないって示すには、鳴らしたままにしておくしかない。」
理屈は分かるが、鳴り続ける音の中で座っているのは、思っていたよりずっと疲れることだった。私の携帯にも、かかってきた。私は出た。
「さおりさん、あなたたち、何してるの?」
「何を、というのは?」
「途中で帰るなんて、親戚の手前もあるでしょう。」
「そうですね。」
「リカが泣いてるのよ。一生に1度の日なの。」
私は口の中のご飯を飲み込んだ。
「お母さん。」
「ああ?」
「私たちの分の料理は、なぜなかったんですか?」
向こうで、息を吸う音がした。
「そんなの、こっちだって知らないわよ。ホテルの手違いでしょ。」
「リカさんは、頼んでないって言ってましたけど。」
「あの子は、ああいう言い方するだけよ。本気にしないで。」
言われた方が本気にしないことで、この10年は回ってきたのだと思った。私は受話器を持ち直した。
「切りますね。」
「ちょっと、さおりさん!」
「切ります。」
私は初めて、義母の言葉の途中で電話を終わらせた。幸介がおにぎりのフィルムを丸めながら、言った。
「よく言った。」
「怖かった。」
「うん。俺も怖い。」
夫はそこで、初めて笑った。電話を切ってから、私は自分の手が震えていることに気づいた。10年、私は義母に言い返したことがなかった。言い返さない方が、家の中が丸く収まるからだ。丸く収めるために黙る人がいると、その家では黙る人が1人いれば住むようになる。
「幸介。」
「ん?」
「私、失礼だったかな?」
「どこが?」
「途中で切った。」
「向こうが先に失礼だろ。」
夫はおにぎりの包みを丸めて、ゴミ箱に入れた。
「さおりは、我慢しすぎなんだよ。」
その言葉を、私は10年待っていたのだと思う。ようやく言われたのに、嬉しいとは感じなかった。ただ、疲れた。
会場に残った人たちがどうしていたかは、後日、房子さんから聞いた。私たちが出ていってしばらく、会場内は静まり返っていたそうだ。それでも、司会の方が上手く進めて、披露宴が始まると空気は戻った。リカが友人の卓で笑っていたことは、房子さんも親族席から遠目に見ていた。何を話していたのかが分かったのは、ずっと後だ。同席していた日野まゆさんという同級生が、後日健太さんに話したのだという。まゆさんはリカと同い年で、高校からの付き合いだそうだ。
「うちの兄夫婦、めんどくさいんだよね。」
リカはそう言って、肩をすくめたそうだ。
「え、なんかあったの?」
まゆさんが聞き返した。
「ちょっと料理が来なかっただけで、あれだよ。もう帰っちゃった。」
「料理が来なかったって、どういうこと?」
「知らない。ホテルのミスじゃない?」
「リカ、それ大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。お兄ちゃんだし。」
その場で笑ったのは、リカの方だけだったらしい。房子さんが言うには、友人の卓は途中から白けていったそうだ。
「花嫁が身内の悪口を言い出すとね、聞いてる方が醒めるのよ。」
義母は親族席で頷きながら、こう言ったそうだ。
「いいのよ。あとで謝れば、幸介なら許すわよ。昔から、そういう子なのよ。幸介は。」
房子さんは、その言い方に腹が立ったと言っていた。
そして、健太さんのことも聞いた。新郎が高砂でリカに何か尋ねていたのは、房子さんの席からも見えたそうだ。何を聞いたのかは、後で健太さん本人から聞いた。入り口に近い卓の2席が空いていることに、気づいたのだという。
「お兄さんたちは?」
そう聞いた健太さんに、リカは答えた。
「気分が悪くなったから、先に帰ってもらったの。」
気分が悪くなった。嘘だ。けれど、その場では誰も訂正しなかった。同期の人たちも、2次会では何も言わなかったそうだ。新郎新婦の身内の話に、招かれた側から踏み込むのは難しい。あの卓でパンの籠を寄せてくれた人の気持ちも、多分そこで止まったのだと思う。私も逆の立場なら、言えない。
房子さんは電話口で、ため息をついた。
「あの子はね、嘘をつく時だけ落ち着いてるのよ。昔から。」
「そうですか。」
「あのね、さおりさん。私は言おうと思ったのよ、健太さんに本当のこと。でも、あの場で言ったら、あの人が1番困るでしょ。自分の結婚式で、奥さんが嘘ついてたって知らされるのよ。」
「そうですね。」
「だから、黙って帰ってきたの。帰る道で、何度も後悔したけど。」
房子さんの声が詰まった。
「さおりさん、あんた、よく10年もあの家にいたわね。」
「慣れました。」
「慣れちゃだめよ。慣れると、向こうがもっとやるから。」
その言葉は、正月に台所で言われたことと同じだった。私はその時初めて、まともに受け取った。どれだけ我慢を言っても、最後に兄が助ける。17年の実績が、リカから危機感というものを奪っていた。だから、リカも義母も、翌日には幸介が電話をかけてくると信じていた。電話を切ってから、私は幸介にその話を全部伝えた。夫は最後まで黙って聞いていた。引き取って、一言だけ言った。
「気分が悪くなったか。」
「うん。あいつ、その場でそれを作れるんだな。」
その言い方には、怒りよりも疲れが混ざっていた。妹の嘘の速さを、この人は多分昔から知っている。知っていて、その度に引き受けてきたんだ。
あの日に話を戻す。ホテルを出てから家に着くまで、夫は1度も画面に指を触れなかった。ただ、着信の数だけは数えていた。
家に着いたのは、6時を回った頃だった。玄関を開けて、電気をつけて、2人とも黙って靴を脱いだ。廊下の突き当たりの窓が、まだ薄く明るかった。私は先に着替えた。礼服をハンガーにかけて、ピアスを外して箱に戻す。それだけの動作に、随分時間がかかった。ピアスは、私が結婚する時に母が買ってくれたものだ。母の家のこの箱を開け、その日は蓋を閉めるまでに2度手を止めた。このピアスをつけて出かけた日に、私は白いクロスの前へ座らされた。実家の母には言えない。言えば、必ず「帰ってらっしゃい」という人だ。その言葉に甘えるわけにはいかなかった。
居間に戻ると、幸介はまだネクタイをしたまま座っていた。上着だけを椅子の背にかけて、卓に両肘をついている。お茶を入れて、湯飲みを前に置いた。私は向かい側に座って、口を開いた。
「せっかくの結婚式だったのにね。」
私が言えたのは、それだけだった。幸介は返事をしなかった。湯飲みにも手をつけない。長い沈黙だった。時計の音が聞こえるくらいの静けさだ。台所の冷蔵庫が唸り始めて、また止まった。私は台所へ行って、洗い物のない流しを拭いた。拭くところがないのに、布巾を動かしていた。手を動かしていないと、あの会場の白いクロスが浮かんでくる。冷蔵庫を開けて、翌日の分の弁当を確かめた。その日は、もう終わりかけていた。
居間へ戻ると、幸介はまだ同じ姿勢だった。
「ネクタイ、外したら?」
「ああ。」
夫はそこでようやく、結び目に指をかけた。緩めて、引き抜いて、卓の橋に置く。細長い布が卓の上で、蛇のようになった。
「さおり。」
「うん。」
「あいつ、笑ってたよな。」
「うん。俺たちが立った時も、笑ってた。」
「そうだね。」
「俺はさ。」
幸介はそこで言葉を止めた。止めたまま、しばらく戻ってこなかった。やがて、夫は卓の上のスマートフォンを取った。私は湯飲みを置いて、聞いた。
「どうしたの?」
夫は画面を見たまま、言った。
「500万は、渡さない。」
私は湯飲みを持ったまま、その言葉を頭の中で2度繰り返した。あの500万には、私の10年も入っている。そう思いながら、私はその夜まで1度も口に出していなかった。
「え? 渡さない?」
「でも、約束したんじゃ。」
「約束はした。」
夫はこちらを見た。目が乾いていた。泣きそうな顔ではなかった。
「結婚祝いとして渡すつもりだったってだけだ。まだ、渡してない。」
そう言われて、私はようやく理解した。振り込みは披露宴の後にする。あの判断は、式の中身を膨らませないためのものだった。けれど、結果として、あの金はまだ私たちの口座にある。動いていない。誰の手にも渡っていない。
幸介が顔を上げた。
「あいつは、『家族なんだから飯が目当てじゃないだろ』って言ったんだ。じゃあ、家族なんだから、小遣いもいらないよな。」
「幸介。」
「なんだ?」
「本気で言ってる?」
「本気だ。」
「明日にしたら…」
自分でも意外なことに、私は一度止まった。止めたのは、リカのためではない。夫のためだ。この人が翌朝に後悔する姿を、私は見たくなかった。幸介は首を横に振った。
「明日になったら、俺は許す。そんなの、17年ずっとそうだった。夜に腹が立って、朝には忘れてる。母さんが泣いて、リカが甘えて、それで終わりだ。今日は、忘れない。」
「幸介。」
「うん。」
「これ、私のために決めてる?」
夫は顔を上げた。
「それだと、後で嫌になるかもしれない。私のためにやったのに、って。」
「ならない。」
「なるよ。人はそうなるよ。」
幸介は少し考えてから、答えた。
「じゃあ、言い直す。俺は、自分が座ってた椅子のために決めてる。」
「椅子?」
「あの席で、俺の前にも何もなかった。あれは、俺への扱いでもあるんだ。」
その言い方で、私はやっと肩の力が抜けた。この人は私の代わりに怒っているのではない。自分のこととして怒っている。それなら、続く。幸介が文字を打つ音が続いた。長くはなかった。打ち終えて、夫は画面をこちらへ向けた。画面には、こう書いてあった。
「結婚祝として予定していた500万円はなしにする。支払いは2人で払ってくれ。」
それだけだった。責める言葉も、理由も書いていない。
「これでいいか?」
私はもう一度読んだ。責める言葉がないのが、いいと思った。理由を書けば、リカはその理由に反論してくる。反論できる余地を残さない方が、この話は短く終わる。仕事でもそうだ。長い文面に理由を並べるほど、相手は交渉に来る。
「1つだけ、直したら? 最後の『2人で払ってくれ』じゃなくて、『元々2人の契約だよね』の方が良くない?」
幸介は画面を見て、首を横に振った。
「いや、これでいい。」
「なんで?」
「あいつが分かる言葉で書きたい。」
それもそうだと思った。
「うん。じゃあ、それで。」
送信した。それから、2人でしばらく画面を見ていた。何も起きなかった。時計の秒針が動いていた。
「読んだ印がつかないな。」
「披露宴の片付けとか、まだあるんじゃない?」
「2次会だろ。」
「そっか。」
2次会の会費のことを、そこで思い出した。人が集まらないから5000円に下げると言っていた、あの話だ。あれも、結局は誰かが埋めている。幸介が湯飲みを持ち上げて、また置いた。
「なあ、さおり。」
「うん。」
「明日から、何をすればいい?」
「何もしなくていいよ。」
「何もしないのが、1番きついんだよ。」
その言葉の通りだった。この人は17年、何かをすることで自分を保ってきた。出すこと、動くこと、片付けること。何もしないという選択を、多分1度もしたことがない。幸介が湯飲みに手を伸ばして、一口飲んだ。
「冷めてるな。入れ直す。」
私が立ち上がりかけた時だった。スマートフォンが震えた。後で房子さんに聞いた話では、リカは2次会を途中で抜けて、そのまま実家に帰ったそうだ。義母が1人で待っていた家に、化粧も落とさずに上がり込んで、そこから何度もかけていたという。画面に、リカの名前が出ている。夫は出なかった。震えは10数秒続いて、切れた。すぐにまた震えた。切れた。また震えた。3度目が切れて、4度目が始まったところで、幸介は指を伸ばした。画面に触れて、耳に当てる。その瞬間、部屋の中に声が響いた。
「お兄ちゃん、何言ってんの?」
スピーカーにしていない。それなのに、私の位置まで届いた。
「今の何? あれ、何のつもり?」
「読んだ通りだ。渡さない。」
「そんなの、通るわけないじゃん。約束したじゃん。」
「した。リカ。俺は条件も言ったよな。」
「そんなの、後で言えばいいでしょ。なんで今なの?」
声が割れていた。息が上がっている。リカの声を、こんな形で聞くのは初めてだった。
「明日、払わなきゃいけないのに。」
「明日じゃないだろ。6日後だ。」
「同じだよ。」
「同じじゃない。」
幸介の声は上がらなかった。上がらない分、向こうの声だけが大きくなっていく。
「お母さんに言うから。」
「逃げよう。」
「お母さん、泣くよ。」
「泣くだろうな。」
「お兄ちゃん、それでいいの?」
「良くない。でも、仕方ない。」
幸介の声はずっと同じ高さのままだった。声を上げないことが、これほど相手に効くのだと、私は初めて知った。
「お兄ちゃん、分かってる? 私、今日結婚したんだよ。」
「知ってる。出席した。」
「途中で帰ったくせに。」
「帰ったよ。飯が出なかったからな。」
そこで、電話の向こうが一瞬止まった。その間に、私は立ち上がって台所へ行った。お茶を入れ直すためだ。手が空いていると、余計なことを言ってしまいそうだった。薬缶に水を入れて火にかけながら、私は考えていた。リカは、この瞬間まで500万円を自分の金だと思っていたはずだ。振り込まれる予定の金は、頭の中ではもう自分の口座にある。だから、使い道も決まっていた。予定は現金ではない。滝沢さんに言われた言葉が、また戻ってきた。
薬缶が鳴り始めた頃、リカはまだ叫び続けていた。叫べば通る。17年、この家ではそうだったからだ。湯飲みに新しいお茶を注いで戻ると、電話はまだ続いていた。幸介は座ったまま、卓の木目を見ていた。リカの声は、落ち着いていた。落ち着いたというより、方向を変えたのだと思う。
「じゃあ、お兄ちゃんが式場に電話してよ。」
「なんだ、俺が。」
「だって、お兄ちゃんが出すって話だったんだから。」
「式場と契約したのは、誰だ?」
向こうが黙った。
「リカ。契約書に名前を書いたのは、お前と健太さんだろ? 俺は保証人にもなってない。あの契約書に、俺の名前はどこにも入っていない。後払いの審査だって、俺は書類に1枚も触ってないんだ。」
リカは答えなかった。契約書に署名しているのは、リカと健太さんの2人だ。6日後にホテルが請求する先も、あの2人になる。幸介の名前は、どこにも入っていない。その通りだった。私も、見積書のコピーを見せてもらっただけで、契約書そのものには関わっていない。思い返せば、2月の契約の時も、幸介は同席していない。リカと健太さんの2人でホテルへ行って、その場で手付けの30万円を払っている。後から「契約してきた」と報告が来ただけだ。あの時、私はそれを当たり前だと思った。結婚するのは2人なのだから、契約も2人でするのが当たり前だ。その「当たり前」が、今リカの足元を崩している。つまり、幸介が払おうと払うまいと、ホテルには何の関係もない。残りの590万円を払う相手は、リカと健太さんだ。
「そんなお金、ないよ。」
リカの声がまた高くなった。
「じゃあ、なんで620万の式にしたんだ?」
「みんな、それくらいかけてるもん。」
「みんなって誰だ? 友達とか? その友達は、兄貴に500万出させたのか?」
リカは、言い返せなかった。
「リカ。人の式の値段を見る時は、誰が払ったかも一緒に見ろよ。」
「だって、お兄ちゃんが出してくれるって。」
「出すとは言った。式場代を肩代わりするとは言ってない。俺が言ったのは、結婚祝だ。」
「同じでしょ?」
「同じじゃない。」
幸介は湯飲みを持ち上げて、置いた。
「リカ。ご祝儀、いくら集まった?」
「知らない。」
「数えただろう。」
「まだ数えてないもん。」
「嘘つけ。あの手のものは、その日のうちに数える。」
また沈黙があった。今度は、長かった。
「240万。」
小さな声だった。
「全部で240万しかなかったのか。」
幸介が聞き返した。80人でその額なら、少なくはない。ただ、590万には届かない。
「健太さんの貯金は、120万。2つ合わせて、360万か。」
幸介が指を折るのが見えた。私も頭の中で暗算をした。590万から360万を引く。残りは230万円。ご祝儀のほぼ全額に近い額が、まだ足りていない。私は卓の橋に座ったまま、その計算を追っていた。80人で240万円。1人当たり3万円だ。友人が2万、親族が5万から10万と考えれば、そんなものだろう。少ないわけではない。少ないのは、見込みの方だ。その240万円の中には、私たちが受付で1番最初に置いた10万円も入っている。食べるものが来なかった2人が包んだ、10万円だ。
幸介が電話口で言った。
「230万、足りないな。」
「だから言ってるじゃん。」
「その230万を、お前らはどうするつもりだったんだ?」
「お兄ちゃんの500があれば、足りたの?」
「500万は結婚祝だ。祝儀を式場に回すのは、お前らの勝手だろ。」
「そんなの、屁理屈じゃん。」
「屁理屈で620万の契約をしたのは、どっちだ?」
「お兄ちゃんが出すって言ったから、この式場にしたんだよ。」
「じゃあ、聞くけどな。」
幸介の声が、そこで初めて低くなった。
「俺が、出さないって知ってたら、お前はどの式にしてた?」
向こうが黙った。もっと安いところにしていたんだろう。80人も呼ばなかったかもしれない。それが、答えだよ。幸介は返事を待たずに続けた。
「自分の金でできる分にすればよかったんだ。それだけの話だ。」
そこへ、電話の向こうで別の声がした。義母だ。受話器を取り上げたらしい。
「幸介。母さん。あんた、何を考えてるの?」
「言った通りだよ。」
「リカの一生に1度の結婚式なのよ。」
「知ってる。俺は、こんなことで台無しに…」
幸介はそこで大きく息を吸った。吸って、吐いて、言った。
「俺の妻に飯も出さない式だろ。」
電話の向こうが、静まった。
「そのくらい、我慢しなさいよ。」
義母の声は、まだ同じ調子だった。
「そのくらい? そうよ。大人でしょ。このくらい我慢しろって言うなら、母さんたちも500万くらい我慢して、自分で払えよ。」
その後に続いた言葉を、私は聞き取れなかった。義母が何かを言いかけて、リカが電話を奪い返して、2人の声が重なって、そこで切れた。部屋が急に広くなった。幸介はスマートフォンを裏返して置いて、天井を見上げた。
「なあ。」
「うん。」
「母さん、『我慢しなさい』って言ったよな。」
「言ってた。」
「あの人、俺が何を我慢するのか、分かってないんだよ。」
夫は目をつぶった。
「俺はな、金は惜しくないんだ。今でもそうだ。うん。でも、さおりの前に皿がなかったのを、我慢しろって言われるのは、違う。」
私は湯飲みを両手で包んだ。中身はもう、ぬるい。
「私も、同じ。」
「同じ?」
「私も、お金の話をされてるつもりはないの。」
言葉にしてみて、その通りだと思った。私が悔しかったのは、3万円ではない。80人の前で、「あなたはここにいなくていい人だ」と示されたことだ。金の話にすり替えられると、こちらが欲深い人になる。だから、リカも義母も、金の話にすり替えるのだと思った。
「俺、間違えてるかな?」
「間違えてない。」
「即答だな。」
「うん。即答するくらいには、考えてた。」
夫が短く笑ってから、両手で顔をこすった。その夜、幸介は珍しく先に寝た。疲れていたのだと思う。17年分の何かを、1日で使い切ったような寝方だった。私は居間の明かりだけをつけて、卓の前に座った。考えていたのは、金のことではなかった。なぜ、2人分だったのか、ということだ。腹が立っていたのなら、私の分だけを外せばいい。リカが嫌っているのは私であって、兄ではない。それなのに、外されたのは2人分だ。兄の隣に私が座っていたからだろうか。それとも、兄が私の隣に座っていたからだろうか。考えても、答えは出なかった。ただ、その2つは似ているようで、まるで違う。
私は鞄を開けた。畳んだままの伝票を取り出して、卓の上に広げる。会場では文字が頭に入らなかったが、家の蛍光灯の下では違った。下の方に、金額を書く欄と署名の欄がある。どちらも、白いまま。上の方に印字された行が並んでいた。式の名前、日付、会場の名前、人数。その段は、システムから出したままの字体だった。当日の手配の内容が、頼まなくても自動で印字される、会社の納品伝票と同じだ。誰も読まないほど、正直なことが書いてある。仕事の癖で、私は上から順に読んだ。伝票は上から読む。合計だけを見て済ませると、必ず何かを見落とす。
新郎の名前。挙式の日。披露宴の名前。その下の並びで、私の目が止まった。ご列席者数は80名。お料理は78名分。お飲み物だけが、80名分。席は80。皿は78。飲み物は80。1枚の紙の中で、数が食い違っていた。会場で谷口さんが言ったのは、78名という数だけだった。いつ減ったのかは、あの人も口にしなかった。「契約者に」と言われて、終わった。その食い違いが、頼んでもいないのに印字されていた。お飲み物は80名のままだ。料理だけが、2人分綺麗に抜かれている。私は指を離して、卓に手をついた。仕事で数字の食い違いを見つけた時と同じ感覚だった。見つけた瞬間、嬉しくない。むしろ、これから起きることの面倒くささが先に来る。それでも、見なかったことにはできない。
私は寝室の戸を少し開けた。幸介はよく眠っていた。起こすかどうか迷って、やめた。朝でいい。この紙は、逃げない。私は伝票をもう1度畳んで、鞄に戻した。あの日、私はこの伝票を読まずに畳んだ。ただ、捨てられなかっただけだ。その1枚が、「席と皿の数が合っていない」という記録になっていた。乾杯はさせるつもりだったのだ。飲み物だけを残して、皿を抜いた。
式の翌日、幸介の携帯に知らない番号が入った。健太さんだった。
「片桐です。突然すいません。」
「いえ。」
「一度、みんなで話をさせていただけませんか?」
落ち着いた声だったと、後で幸介は言っていた。怒鳴りたい相手がいるのに、怒鳴らない人の声だったと。その日のうちに、房子さんからも電話があった。
「さおりさん。私ね、健太さんに電話しちゃった。あんたが受付に座る前に、控室でご挨拶したのよ。当日の連絡がいるからって、番号を交換してあったの。だって、あの人だけ何も知らないのよ。新婚旅行の話をしてたのよ、あの席で。」
房子さんは、当日の食卓の話を全部伝えたそうだ。料理が出なかったこと。追加で払えと言われたこと。私たちが席を立ったこと。
「余計なことをしたかしら。」
私は、本当にそう思った。誰かがどこかで言わなければ、この話はリカの中だけで終わる。義実家に呼ばれたのは、式の2日後の夜だった。座敷には、義母とリカと健太さんがいた。リカはもう普段の服に戻っていて、化粧も薄かった。健太さんは疲れた顔で、ネクタイを緩めている。仕事帰りに来たらしい。幸介と私は、卓の手前に並んで座った。義母が茶を出した。私の前にも、湯飲みが置かれた。その茶に手をつけた人は、最後まで1人もいなかった。
幸介が湯飲みに手を伸ばさずに、口を開いた。
「話は簡単だ。500万は出さない。それだけだ。」
「お兄ちゃん!」
リカが身を乗り出した。
「あのさ、正直に言いなよ。さおりさんに言わされたんでしょ?」
「違う。」
「絶対そうじゃん。だって、お兄ちゃんそんなこと言う人じゃないもん。」
「俺が決めた。」
「嘘だ。」
「リカ。」
「俺が決めた。」
その言い方は、17年で1度も聞いたことのない硬さだった。私にも、初めてだった。リカが私を睨んだ。
「さおりさん、何か言ったら?」
「言うこと、ありません。」
「ほら。黙ってるってことは、そういうことじゃん。」
そこで、義母が割って入った。
「幸介、そのくらい我慢しなさい。あんたはお兄ちゃんなんだから。」
「母さん。リカはまだ若いのよ。31だよ。」
「若いわよ。」
「そのくらいって言うなら、母さんが出してやってくれよ。」
義母が口を開けたまま、止まった。言葉が出てこないらしい。リカがまた言った。
「お兄ちゃんは、いつもそう。私が本気で困ってる時だけ、ちゃんとしようとするの。ちゃんとするなら、もっと前からしてよ。」
「してきたつもりだ?」
「してないよ。お金は出してくれたけど。お金以外の何を出せばよかったんだ?」
「そういうところ。」
その言い方が、私には引っかかった。リカの中には、金では埋まらない何かがある。あるのに、要求として出てくるのは、毎回金だけだ。
健太さんが、そこで初めて口を挟んだ。
「あの、すいません。」
全員が、健太さんを見た。
「さっきから聞いていて、いくつか分からないことがあります。」
「何でしょう?」
「まず、当日のことです。」
健太さんはまっすぐ幸介を見た。
「お2人が途中で帰られたのは、気分が悪くなったからだと聞いていました。でも、昨日、リカさんのおばの房子さんから電話があって…」
リカの肩が動いた。
「料理が出されなかったと聞きました。本当ですか?」
座敷から、音が消えた。私は鞄を膝に乗せて、止め金を開けた。
「これを見ていただけますか?」
畳んだ伝票を出して、卓の上で開く。ホテルの名前の入った、横長の紙だ。
「当日、私たちの席に置かれたものです。『追加のご注文書』だと説明を受けました。」
健太さんが手を伸ばして、それを引き寄せた。
「署名の欄が、白紙のままですね。」
「はい。書きませんでした。」
「ということは、追加は頼んでいない。」
「頼んでいません。頼んだところで、同じ料理は出ないと説明を受けましたから。」
健太さんの眉が動いた。
「同じ料理は、出ない。」
「仕込みの人数が決まっているので。単品のオードブルなら、1皿1万2000円で出せると。」
そこまで言ってから、私は紙の上の方を指さした。
「見ていただきたいのは、こちらです。」
上の段に印字された行が並んでいる。式の名前、会場、日付、人数。その中の数行に、健太さんの目が止まった。
「ご列席者数は80名。お料理は78名分。お飲み物だけが、80名。」
健太さんはその段を2度読んだ。それから、顔を上げた。
「席は80で、料理だけ78だ。しかも、飲み物は80のままだ。」
「はい。」
「これ、当日に変更できる数字じゃないですよね。事前のお手配だと伺いました。」
「はい。当日じゃない。」
「はい。私はリカの方を見なかった。健太さんだけを見ていった。」
「仕事でも数字は捨てないので。ただ、ホテルの担当の方が謝らなかったことだけは、その時引っかかりました。『承っております』と言われたんです。」
「ちょっと、勝手に見せないでよ。」
リカが手を伸ばした。健太さんはその手を避けて、紙を自分の方へ引いた。
「これは、兄さんたちのものだろ。」
「私の式の書類じゃん。」
「君の署名は入ってない。入ってるのは、君が減らしたっていう記録だけだ。」
リカは手を引っ込めた。健太さんが立ち上がって、廊下に出た。スマートフォンをかけている。相手は、ホテルだった。その数分の間、座敷は静かだった。リカは畳の目を見ていた。義母は、娘の横顔を見ていた。何か言おうとして、言葉が見つからないという顔だった。私は、あの日の谷口さんの立ち方を思い出していた。あの人は、客の家の中身に踏み込まなかった。踏み込まないまま、78という数だけを置いていった。日付までは言わなかった。言えなかったのだと思う。あの1枚がなければ、この夜は全く違う夜になっていた。
健太さんが戻ってきた。座り直してから、言った。
「谷口さんという方に確認しました。」
新郎の声は、低かった。
「人数の変更は、4月の18日に、新婦から申し出があったそうです。式の3週間前です。お料理の人数の締め切りは式の1週間前で、それより前の変更なら費用は発生しないと。」
「費用はかからないのか。」
幸介が聞いた。
「かかりません。だから、あの日に減らしたんです。ただ、合計は620万円のままでした。同じ日に、装花のグレードを1つ上げているので、それと相殺されています。減らすのは、席次のどの席かまで指定されていたそうです。『奥村幸介様、奥村さおり様』と、お名前で。席とお料理の数が合わないので、2度確認したそうです。2度とも、『そのままで』と言われたと。」
費用はかからない。私たち2人の皿を消した分は、3万円にサービス料と税が乗るだけの額だ。4万にもならない。その4万にもならない額は、総額から引かれてもいなかった。同じ日に、装花へ付け替えられている。式場に払う残りは、590万円のまま、動いていない。リカは、その3万円と少しを花に変えるために、あの席を作った。
健太さんはそこで、一度目を伏せた。
「4月に人数の確認で呼ばれた時も、俺は行ってないんです。仕事だからって、リカが1人で行きました。」
そう言って、健太さんはリカを見た。私はそこで、1つだけ足した。
「招待状の宛名は、私が32枚書きました。奥村家の分は、全部です。2月の終わりでした。」
リカが、こちらを見た。健太さんはその視線を追わずに、伝票の上を指で辿った。
「席次表は、4月18日より後に作ってるよね。料理を減らした後で、兄さんたちの名前をわざわざ入れ直したことになる。」
リカの返事はなかった。
「兄さんたちの名前は、ちゃんと生きてた。俺も見た。」
「入れなきゃおかしいでしょ。親族なんだから。」
「そう。おかしいよね。」
健太さんは伝票を卓の真ん中に置き直した。リカが顔を上げた。
「違うもん。人数を減らしただけだよ。減らしちゃいけないの?」
「減らすなとは言ってない。」
健太さんの声は、低いままだった。
「減らすなら、呼ばなければよかった。呼んでおいて、料理だけ外すのは、減らしたんじゃないよ。」
「じゃあ、何なの?」
「見せるために、やったんだよね。」
そこで、リカは黙った。みんなが食べている部屋で、2人だけ食べられない。それを、80人に見せた。
「そんなこと、考えてない。」
「考えてたよ。3週間前に決めてるんだから。」
義母が言った。
「リカ。」
今度は、娘を止める呼び方だった。リカは母親を見ずに言った。
「お母さんだって、当日いいって言ったじゃん。」
「言ってないわよ。」
「言ったよ。『細かいことで揉めないで』って言ったじゃん。」
義母の口が、閉じた。あの言葉を、私も聞いている。会場で肩に手を置かれて、聞いた。あの言葉が、娘の側でこう使われるとは、この人も多分1度も考えたことがなかったのだと思う。席は用意する。招待状も出す。名前も載せる。しかも、席は俺の同僚の卓だ。料理だけ、3週間前に外しておく。言葉にされると、それがどういう作業だったのかがはっきり分かった。当日の思いつきではない。腹が立って皿を下げさせたのでもない。締め切りより前なら、費用は1円もかからない。その締め切りのさらに2週間も手前で、2人分だけが黙って消してある。その後で、席次表には名前を残してある。リカは何も言わなかった。言い訳を探しているのが、顔を見ていてわかった。ただ、探しても出てこない。4月18日という日付は、言い訳を全部塞いでしまう。当日の勢いでもない。ホテルの手違いでもない。誰かに言われたのでもない。
「リカ。」
幸介が呼んだ。
「お前、あの日、何を思ってあの手続きをした?」
リカは答えなかった。
「3週間前だぞ。3週間。毎日、その予定を持って生活してたんだ。」
「うるさい。」
「うるさくない。俺は聞いてる。」
その声には、怒鳴り声よりずっと重いものがあった。私はそこで、ようやく理解した。私たちは呼ばれたのではなく、置かれたのだ。証拠は1枚きりだ。それでも、その1枚には、リカが3週間前に選んだ日付が刻まれていた。健太さんは伝票の横に、自分のスマートフォンを置いた。
「リカ。さっきから出てくる500万円って、何?」
リカは答えなかった。
「お兄さんが払わないって言ってる、500万円。あれは、何のお金?」
「結婚祝。」
リカが短く答えた。
「結婚祝以外。」
「結婚祝、以外か。」
健太さんが同じ言葉を口に出した。
「そう。お兄ちゃんがくれるって言ってた。」
健太さんは卓の上で、ゆっくり手を組んだ。
「式の費用は、君の実家が出してくれるって聞いてたけど。同じことでしょ?」
「兄なんだから、全然違うだろう。」
新郎の声が、初めて大きくなった。義母が「健太さん」と言いかけて、やめた。
「俺は、君のお母さんが出してくれるんだと思ってた。だから、顔合わせの時も、お母さんに頭を下げたんだよ。」
「うちの母は、そう思ってる。」
健太さんはそこで声を落とした。
「いや、違うな。うちの母には、『兄さんたちがよくしてくれてる』と言ってあったんだよな。相手によって、話を変えてたのか。だから、同じだって。」
「同じじゃない。リカのお母さんが出すのと、共働きのお兄さん夫婦が出すのとでは、頼み方が違う。」
そこで、健太さんは息をついた。
「それと、貯金があるって言ってなかった? 2人分合わせれば、足りるって。」
リカが黙った。
「言ってたよね。」
「いくらあるの?」
「ない。ないって…だから、ないの。」
健太さんは間を置いてから、話し出した。
「式の前から、気になってたことがあるんだ。」
「何?」
「郵便物だよ。君宛ての封筒が、月に何通も来る。『リカ様』って。住所は書いてあるのに、会社名はどこにも書いてない。」
リカが、身を引いた。
「引っ越しの荷物をまとめた時、まとめて出てきた。開けてないのが、ずいぶん以上あった。開けてみたら、全部あれだ。借金の明細だよ。」
「勝手に見ないでよ。」
「昨日、1つだけ開けた。『残高確認書』っていうのを、毎月送ってくる会社があるんだな。俺は、その時初めて知った。」
健太さんは鞄の中から、封筒の束を出して卓に置いた。
「残りは、ある。開けるなら、君が開けてくれ。」
リカは動かなかった。長い時間だった。それから、1番上の1通に指をかけた。破らないように、丁寧に。3枚目で、健太さんが手を止めた。
「そこまででいい。中身を読んでくれ。」
リカの顔から、色が引いた。
「銀行のカードローン、140万。」
リカは身じろぎもしなかった。
「カードのショッピングリボ、2枚で100万。」
リカの視線が、畳に落ちた。
「あと、これ。消費者金融で、80万。」
健太さんは指を3本立てた。
「合わせて、320万。合ってる?」
リカは、頷きもしなかった。健太さんは指を下ろした。
「前の職場に、同じことになった後輩がいてな。その時調べたんだ。消費者金融から借りられるのは、全部合わせて年収の3分の1までなんだ。君なら上限は100万。80万まで借りたら、残りは20万しかない。だから、銀行にしたんだな。銀行のカードローンは、その計算に入らないから。」
健太さんは、それ以上言わなかった。しばらく卓を見てから、顔を上げた。
「リボの100万は、何を買ったの?」
リカは口の中で言った。
「服とか。服。あと、バッグ。」
「毎回、買ってたやつか。」
リカは、畳の目を見ていた。リボ払いは、毎月の支払いが一定になる代わりに、残高が減っているのが分かりにくい。
「毎月いくら払ってるの?」
「カードが2枚あって、1枚が1万円。もう1枚が1万5000円。」
「合わせて、2万5000円か。2枚の残高が、合わせて100万。金利は年に15%だ。」
健太さんはスマートフォンの電卓を出した。
「ざっと計算しても、5年近くかかる。手数料だけで、40万近くだ。毎月の2万5000円のうち、半分の1万2500円が手数料に消えている。払ったつもりで、半分は残高に触ってもいない。毎月払ってるのに減らないって、思わなかったのか。」
「思ってた。でも、見ないようにしてた。」
「減らないんじゃない。減らしながら、また使ってたんだ。だから、残高が同じところで止まって見えたんだよ。1万2500円。毎月、1万に近い額が利息だけに消えていた。」
健太さんが、そこで小さく息を吐いた。
「リカ。500万は、何に使うつもりだった?」
リカの視線が落ちた。
「式場。」
「本当か?」
「本当だよ。」
「じゃあ、聞くけど。式場は590万だ。500万もらっても、90万足りない。その90万を、どうするつもりだったんだ?」
「ご祝儀があるから。」
「そのご祝儀が、240万だったんだろう。そこに、俺が渡すはずだった500万を足せば、740万だ。式場に払うのは590万。90万足りないどころか、150万も余る。その余る150万は、お前が何に使うつもりだったんだ?」
リカが、唇を噛んだ。沈黙の後で、今さらのように言った。
「返す予定だった。何を、借りてるやつ。全部まとめて返せば、なくなるって。」
「320万を、150万どころではない。500万を丸ごと使うつもりだったんだ。」
「残りの180万は、旅行と家具。」
「旅行は、いくらだ?」
「150万。モルディブ、7日間。」
「家具は?」
「30万くらい。」
320万、150万、30万。それと500万になる。ぴったりと、合いすぎていると私は思った。まだ1円も届いていない金の使い道が、届く前に1円残らず決まっていた。つまり、兄からの500万円は、最初から式場へは1円も行かない金だった。式場の残金は、ご祝儀と健太さんの貯金で払うつもりだったのだ。その2つを足しても、360万。見込んでいた祝儀が400万でも、520万だ。どちらにしても、届かない。リカは、多分1度も計算していない。
「ご祝儀、いくら入ると思ってた?」
健太さんが聞いた。
「400万は入るかなって。」
「80人で400万だって。親戚とか、多く包むし。」
根拠のない数字だった。それを土台にして、620万円の式が組まれていた。私は、消費者金融の書類のことを考えていた。
「もう1つだけ、伺わせてください。」
リカが、私を見た。
「その80万円を借りたのは、いつですか?」
答えなかったのは、リカで。答えたのは、健太さんだった。明細の取引の欄を指でなぞる。
「1番古い契約日が、載っています。去年の12月だ。」
リカが、結果を報告してきたのは、その年が開けてからだ。幸介が500万円を約束するより、2ヶ月早い。
「お兄ちゃんが出してくれると思ったから。」
リカが、小さな声で言った。
「まだ言ってもいない、うちからか。」
「だって、いつも出してくれるじゃん。」
そこには、悪びれる様子がなかった。リカの中では、それが計算ではなく前提だったのだ。
「もう1つ聞く。」
健太さんが言った。
「リカ。俺が500万を出す時に、条件を言ったよな。『これで最後だ』って。」
「聞いてたよ。」
「聞いてたのか。」
「うん。でも、どうせまた出すと思ってたから。」
義母が言った。
「リカ。」
娘の名を呼んだだけで、続きはなかった。私は膝の上の鞄の持ち手を握った。「どうせまた出す」。その一言に、17年の全部が入っている。夫が悩んだ3日間も、条件をつけたことも、2人の前で宣言したことも、リカの中では最初から数に入っていなかった。出す人は、出さない日を選べない。リカは、そう思っていた。
リカはすぐに、矛先を変えた。
「大体、お母さんが言ったんじゃん。『お兄ちゃんに頼めばいい』って。」
「私は、そんなこと言った?」
「言ったよ。『お兄ちゃんは断らないから』って。」
「そんな言い方は、してないでしょ。」
母と娘が、初めて互いを見た。同じ側に立っていた2人が、その時、別々の方向を向いた。
「お母さんが、電話かけてたじゃん。『リカが困ってる』って、何回も。」
「それは、あんたが困ってた時の話でしょ。」
「私、いつも困ってるよ。今も、困ってる。」
「いつもって、ねえ。」
「お母さんだって、お兄ちゃんのお金で生活してるくせに。」
義母の顔が、赤くなった。
「私は、年金でやってるわよ。」
「屋根の修理は、誰が出したの? 換気扇は?」
そこで、義母が黙った。私は台所の換気扇の話を思い出した。冬に湯気が出なくなるという、あの話だ。あれも、結局幸介が出したのだと、その時分かった。「家族の話だから」と言われて、私が外された話だった。
「あのさ。」
健太さんが、母と娘の間に割って入った。
「今、誰が悪いかの話をしてるんじゃないんだよ。」
「じゃあ、何の話?」
「4日後までに、590万をどう払うかの話。」
その一言で、座敷の温度が下がった。
「うちの母には、俺から話す。」
「やめてよ。」
「言わないと、借りられない。」
「借りるの?」
「借りる。それしかないだろ。」
健太さんが顔を上げた。
「あと、もう1つ聞かせて。2次会の不足分。あれ、俺が出したよな。君は、なんて説明してた?」
リカが、目を逸らした。
「お兄ちゃんが出すって言ったけど、悪いからって断っておいたって。」
「お兄さんは、出すとも言ってない。」
幸介が短く言った。
「言ってない。断っておいたと、リカは言ったらしい。断ったのではない。断ったことにしておけば、両方から1度ずつ感謝されるからだ。リカは口を開けたまま、何も言えなかった。嘘をついた相手に、その嘘の後始末を頼むしかない。リカが1番避けたかった順序が、1番早く来た。健太さんはその様子をしばらく黙って見ていた。それから、最後の質問をした。」
「リカ。」
「何?」
「なんで、お兄さん夫婦の料理がなかった?」
座敷が、静かになった。リカはしばらく畳を見ていた。それから顔を上げて、はっきりした声で言った。
「だって、むかついてたから。」
「誰に?」
「その人。」
リカが、私を指さした。
「お兄ちゃん、昔はもっと出してくれたの。いくらでも出してくれた。でも、その人と結婚してから、減ったんだよ。前は言えばすぐだったのに。最近は、『来週にしてくれ』とか言うようになった。」
「それは、君が31だからじゃないの?」
健太さんが言った。
「関係ないもん。」
リカは私を見たまま、続けた。
「その人が来てから、お兄ちゃんは私のお兄ちゃんじゃなくなったの。」
私は膝の上で、手を組んだ。言い返す言葉なら、いくつも浮かんだ。夫が出す額が減ったのは、私のせいではない。妹が30を過ぎたからだ。エアコンも車も引っ越しも、断られたことは1度もない。私は10年、1度も金額に口を出していない。けれど、リカの中では、そうなっていない。この人にとって、私は「兄の財布と自分の間に割り込んできた他人」だ。事実がどうであるか、関係がない。だから、何を言っても届かない。届かない相手に言葉を使うのは、時間の無駄だ。私は黙っていた。
「だから。」
リカは言った。
「私の1番いい日に、その人だけ何も出ないようにしてやろうと思ったの。それの何が悪いの?」
「その人だけって言うけどさ。」
健太さんが、伝票を指で抑えた。
「消えてたのは、2人分だ。」
リカはしばらく黙って、それから言った。
「兄が隣にいたら、皿を分け合うに決まってるもん。1人だけ外したら、自分の皿を分けて終わりでしょ。お兄ちゃんが、その人にかばう姿を見たくなかったんだよ。」
それが、答えだった。あの席は、私1人のために作られたのではない。兄が妹より妻の側に立つ姿を、80人に見せたくなかったのだ。健太さんが卓の上の伝票を、ゆっくり裏返した。
「リカ。」
「何?」
「金の話は、まだ分かるんだ。」
新郎の声が変わったのは、その後だった。
「借金があることも、隠したい気持ちも、俺には分かる。うちだって、親父の入院で母が色々隠してた時期がある。でも、これは違うだろう。」
健太さんは伝票を指で抑えた。
「3週間前に、人の分の飯を消して、当日その人の前に座らせたんだよ。それを、俺の結婚式でやったんだ。」
「俺のじゃなくて、私たちの結婚式でしょ。」
「そうだな。俺たちの結婚式だ。」
新郎はうつむいた。
「3週間前に飯を消された席に、俺も一緒に座ってたことになるんだよ。」
その一言で、リカはようやく黙った。幸介が隣で、息を吐いた。私はその音を聞きながら、この人は今初めて、他人に妹を叱ってもらったのだと思った。17年、この家には、その役をする人がいなかった。
義実家での話し合いの後、2日は何も起きなかった。起きなかったというのは、正確ではない。義母からのメッセージだけが、毎日届いていた。「幸介が悪い」とは書いていない。書いてあるのは、「リカが眠れていない」「ご飯を食べない」「健太さんに冷たくされている」という話ばかりだ。最後は、必ず同じ1文で終わっていた。「兄弟なんだから。」幸介は読んだまま、返さなかった。返さないでいることが、この人には相当きつかったと思う。
「返したくなるだろう。」
「うん。」
「返したら、多分終わる。」
「終わるって、何が。」
「今回のことが、なかったことになる。」
夫はそう言って、携帯を裏返した。
その翌日の夕方、うちのチャイムが鳴った。インターホンの画面に、リカと義母が並んで映っていた。リカは化粧をしていない。母親の方は外出用の上着を着ている。リカの出産予定日は、その翌日だった。玄関を開けると、リカは頭を下げなかった。
「お兄ちゃんが出さないなら、健太のお母さんに全部話すから。」
先に出てきたのは、それだった。
「何をですか?」
「お兄ちゃんが約束を破ったって。うちの家がどんな家か、あっちに知られてもいいの?」
私は黙って、リカの顔を見た。
「それと。」
リカはそこで、初めて頭を下げた。
「お願い。リカさん。せめて300万。あと300万でいいから。」
玄関に立ったまま、私はリカの頭のてっぺんを見ていた。
「私に言われても。」
「さおりさんが言えば、お兄ちゃん聞くから。」
義母が横から言った。頼む口調ではなかった。
「あなたが、幸介を説得しなさい。」
幸介が奥から出てきて、2人を居間へ通した。この人は、玄関先で話を終わらせる人ではない。卓を挟んで座ると、リカはもう一度同じことを言った。
「300万。それだけあれば、足りるの。」
私はそこで、初めて口を開いた。
「足りないのは、230万円ですよね。」
リカが、顔を上げた。私は続けた。
「590万から、ご祝儀の240万を引きます。残りは350万。から、健太さんの貯金の120万を引いて、230万です。300万ですと、70万多いことになります。」
リカの目が、泳いだ。
「それはさ、色々あるから。」
「借りているものの返済ですか?」
リカは答えなかった。70万の水増し。リカは、こういう時にいつも、多めに言う。生き方が、そうなっているのだと思った。
「あのね、さおりさん。」
リカの声が湿った。
「私、明日までに払わないと。ホテルに、何を言われるか分からないの。」
「そうですね。」
「助けてよ。」
私は湯飲みを置いた。
「1つ、伺ってもいいですか?」
「何?」
「私の料理すら、惜しかったんですよね。」
リカの眉が動いた。
「料理と飲み物で1人2万円。2人で4万円。それを3週間前に外したのは、あなたですよね。それと、これは別。」
「私も、そう思います。」
私はリカの目を見た。
「私の料理と、あなたの結婚式は別ですよね。それから、もう1つだけ。私たちの2人分を外しておいたお金は、同じ日に装花へ回されていましたね。3万円にサービス料と税が乗って、3万6300円。ほぼ、装花のグレードを上げた分です。」
リカが、こちらを見た。
「私たちの皿は、花に変わったんですね。」
リカが、息を吸った。吸ったまま、言葉が出ないようだった。
「健太さんは、何て言ってるんですか?」
私が聞くと、リカはこちらを見ずに答えた。
「自分たちで払うって。」
「そうですか。」
「でも、無理だもん。230万なんて、どこにあるの? 健太のお母さんには言えないよ。そんなの。」
「言えない?」
「だって、うちの実家が出すって言ってあるんだから。今さら、言えないでしょ。」
そこで、初めてリカの困り事の形がはっきりした。金がないことではない。嘘をついた相手に、金がないと言えないことだ。
「そんな言い方、しなくてもいいでしょ。」
義母が身を乗り出した。
「家族なんだから、助け合うものでしょ。」
「家族なんだから、助けてよ。」
リカも、同じ言葉を重ねた。私は一呼吸おいた。この10年で、1番長い一呼吸だった。
「そうですね。」
そして、言った。
「リカさん。あの披露宴で、私におっしゃいましたよね。『欲しいなら、追加で払って』と。」
リカの顔が、固まった。
「はい。同じことです。足りない分が欲しいなら、ご自分で追加で払えばいいんじゃないですか。そう教えていただいたので。」
リカは口を半分開けたまま、私を見ていた。自分の言葉だと分かるまでに、間があった。分かった瞬間、リカは目を逸らした。義母が、ささやくように言った。
「さおりさん、あなた、意地悪になったわね。」
「そうかもしれません。昔はもっと優しかったのに。」
「はい。幸介に、似てきたのよ。」
私はその言葉を、初めてまっすぐ受け取った。似てきたのなら、それでいい。この人は17年、息子に「リカに苦労させないで」と言い続けた。息子には、その通りになった。人は、近くにいる人に似る。義母は、それを自分でやってきたのだ。
「お母さん。」
「何?」
「私は優しかったんじゃありません。何も言わなかっただけです。」
義母は何か言おうとして、口を閉じた。そこへ、幸介が立ち上がって、隣の部屋へ行った。戻ってきた夫の手には、1枚の紙があった。四つ折りにされて、折り目が茶色くなっている。うちの小さな仏壇の引出しに入れてあったものだ。結婚した時、義父の位牌の写真を1枚だけ分けてもらって、幸介がそこに置いている。
「リカ。これ、覚えてるか?」
「何、それ?」
「親父の葬式の晩に、俺が書いた。」
幸介は紙を開いて、卓に置いた。私も、初めて見た。24歳の幸介の字で、一行だけ書いてある。「リカのことは、俺が引き受ける。」それだけだ。日付も宛名もない。
「あの日、母さんに何度も言われた。『リカには苦労させたくないって、お父さんが言ってた』って。俺は、それを俺への遺言だと思ったんだ。」
夫の声は、落ち着いていた。
「17年、そのつもりでやってきた。数えたことはなかった。今回、初めて数えた。」
私は鞄から、1番古いノートと1番新しいノートを出して、卓に置いた。表紙の角が、丸くなっている。
「さおりが10年つけてた分と、俺の通帳を全部遡って、突き合わせた。」
幸介は指を折りながら、順に言った。
「大学の学費と、奨学金の肩代わりで、460万。家賃の補助が月6万を6年で、432万。車と引っ越しで、248万。免許。成人式。細かい生活費の補填で、460万。」
夫は一度、言葉を切った。
「合わせて、1600万だ。」
義母が、息を飲んだ。リカは、数字を追い終えてない顔をしていた。
「そんなに…」
声を出したのは、義母だった。
「そんなに出してたの?」
「出してた。」
「私、そのつもりじゃ…」
「母さんは、知ってたよ。」
幸介は淡々と言った。
「学費の時も、車の時も、母さんが電話かけてきた。『リカが困る』って。」
義母は、返す言葉を持っていなかった。
「1つずつは、大した額じゃないんだ。6万とか、10万とか。だから、毎回『これくらいなら』と思ってた。17年やると、1600万になる。」
リカが、口を開いた。
「返せって言うの?」
「言わない。」
「じゃあ、なんで今、それ出すの?」
「お前が、『俺は何もしてくれなかった』って顔するからだ。」
夫の声は、そこだけ強くなった。
「これは請求じゃない。衣装代も、顔合わせの店も、当日のご祝儀も、立て替えたタクシー代も。払ったものは、払ったままでいい。取り返す気は、ない。」
「じゃあ、何なの?」
リカが言った。
「終わりにするために、言ってる。」
夫は紙を畳んだ。
「親父が亡くなったから、俺がなんとかしなきゃと思ってた。それは、本当だ。後悔もしていない。でも、親代わりはもう終わりだ。」
「お兄ちゃん。」
「俺は、さおりの夫だから。」
その一言で、私の目の奥が熱くなった。ここで泣くわけにはいかないので、私は湯飲みを持ち上げた。中身は、もう冷たかった。
「そんな言い方、ないでしょ。」
義母が、声を震わせた。
「母さんもだよ。」
幸介は、母親の方を向いた。
「母さんは、『リカに苦労させないで』って、ずっと俺に言い続けた。俺は、その通りにした。この結果が、これだ。私はあの子のためを思って、俺が助けすぎたから、リカはこうなった。母さんと俺で、2人でこうしたんだ。」
義母は、口を閉じた。
「もう、出さない。」
「お兄ちゃん。」
リカが声を出した。声は、小さかった。
「私、そんなに悪いことした?」
幸介は妹を見た。
「悪いことをしたかどうかは、俺が決めることじゃない。」
「じゃあ、誰が決めるの?」
「お前が、一緒に暮らす人だ。」
その答えに、リカは何も返せなかった。
「俺はな、リカ。お前が困ったら、助けるつもりでいた。今も、その気持ちが全部消えたわけじゃない。でも、助けるのと、当てにされるのは違う。」
夫はそこで一度、言葉を切った。
「お前は、俺を当てにしてた。俺が言う前から、当てにして使ってた。それは、助けじゃない。」
「じゃあ、誰がリカを助けるの?」
義母が言った。本気で分からないという顔だった。
「リカを助けるのは、31歳になったリカ本人だろ。」
それが、最後だった。義母はしばらく畳を見ていた。それから、小さな声で言った。
「私が、悪かったのかしら?」
誰も、答えなかった。その問いに答えるのは、この場にいる誰の役目でもない。義母は自分でその答えに辿り着くしかないし、辿り着かないままかもしれない。リカが何も言わずに立ち上がり、玄関で靴のかかとを踏んだまま出ていった。義母はその後を、上着の裾を抑えながら追っていた。2人の足音は、思ったより小さかった。
私たちはしばらく、玄関に立ったままだった。
「行っちゃったね。」
「ああ。」
「幸介、大丈夫?」
夫は、少し笑った。
「大丈夫じゃない。」
「うん。」
「でも、明日になっても、電話はしない。」
そう言って、幸介は靴を揃えた。私の靴と、夫の靴がきちんと並んだ。居間へ戻ると、夫はあの紙をもう一度広げた。24歳の自分の字を、しばらく見ていた。
「これ、親父に見せたことないんだ。」
「うん。」
「書いた時には、もういなかったからな。だから、見せようがなかったんだ。」
「うん。」
「だから、俺が勝手に決めた約束なんだよ。親父は、俺には何も頼んでない。」
幸介はそう言って、紙を仏壇の引出しへ戻した。17年ぶりに、その紙の役目が終わった。
残金の590万円は、期限までに払われた。足りなかった230万円は、健太さんのお母さんが立て替えた。入院の時のために残しておいた定期預金だったという。ただ、そのままではなかった。借用書を作って2人の名前を並べ、返すのは振り込みで、と決めたそうだ。3ヶ月で15万円が入りました、と健太さんが知らせてきた。リカが売ったバッグの分も、そこへ足したという。10万円を超えるバッグが、2万円にもならなかったそうだ。新婚旅行は国内の温泉に変え、新居の家具は買わなかった。正子さんが一度、義実家に頭を下げに行った。玄関先で、断られたそうだ。「これは、息子の式の分ですから。」それでも、あの定期預金のことを思い出すたび、私は息が詰まる。
健太さんは、条件を2つ出した。彼のことで2度と嘘をつかないこと。あの日にしたことを、言い訳しないこと。その上で、家計を分けた。手取り19万円から、家賃と返済を引くと、残るのは4万円だという。リカは31歳にして、初めて自分の手取りだけで1ヶ月を組み立てている。謝りに行けとは言わなかったそうだ。「あれは、謝れる種類のことじゃないから。」ただ、1つだけ私は健太さんに頼んだ。謝罪はいらない。代わりに、当日同じ卓だった4人と、遠方から来たおばさんたちには、本当のことを伝えてほしいと。気分が悪くなって帰ったことにされたままでは、パンの籠を寄せてくれたあの人に、一生顔向けはできない。同僚には健太さんが、おばさんたちには房子さんが話してくれた。取り戻したかったのは、3万円ではない。あの日、あの部屋で消された、私の席の方だ。80人の大半には、今も何も届いていない。それでも、あの4人と、あの2人には届いた。谷口さんには、お礼を出した。返事は来ない。それでいい。
同級生たちとも、距離ができたらしい。披露宴でリカが肩をすくめて見せた、あの友達だ。義母も、あれからほとんど口を聞いていない。健太さんからは、1度だけ手紙が来た。便箋1枚に、こう書いてあった。妻のしたことについて、私からも謝ります。これから先、金のことでご迷惑をかけることはありません。封筒には、あの日包んだのと同じ、10万円が入っていた。幸介はその封筒に、「お母様への返済に足してください」と書き添えて、返した。義母は口癖が使えなくなった。リカが電話をかけてくると、こう言う。
「私だって、そんなお金ないわよ。」
リカが兄に言い続けた言葉だ。今度は、母親が娘に言う。「幸介が何とかする。」 その1文が消えただけで、親子に残るものは少ない。義母は5年ぶりに、近所の弁当屋のパートに出た。私たちは何も取り立てていない。訴えても、言いふらしてもいない。ただ、渡していない金を、渡さなかっただけだ。
私のノートは、今も続いている。リカの欄は、あの5月から増えていない。代わりに、旅行の積み立ての欄を作った。捨てた雑誌を買い直して、あのページの宿を秋に予約した。式から3ヶ月が過ぎた頃、幸介が仕事帰りに、私を待っていた。
「どうしたの?」
「飯、行こう。」
向かったのは、駅裏のあの店だ。カウンターの橋に並んで座り、私はハンバーグを頼んだ。コースは、幸介も珍しく同じものを頼んだ。
「ソース。」
「うん。」
「今まで、リカに甘すぎた。うん。さおりにも、何度も我慢させたな。」
「悪かった。」
頭を下げるところまで行ったのは、結婚して10年で初めてだった。私は前を向いたまま、答えた。
「今回、帰ろうって言ってくれたから。あれで、もういいよ。」
夫は何も言わずに、水を一口飲んだ。そこへ、皿が運ばれてきた。ジュージューと音を立てて。私の前に1つ、夫の前に1つ。湯気の立った鉄板が、並んだ。当たり前のことが、当たり前にある。幸介が箸を取って、こちらを見た。
「今日は、ちゃんと2人分あるな。」
「そうね。」
私はナイフを入れながら、言った。
「欲しかったら、追加で払う。」
あの人が玄関で頭を下げた夜に、1度だけ返した言葉だ。あの時は、言い返すために使った。その日は、笑って言えた。夫が、吹き出した。声を出して笑う顔は、5月からずっと見ていなかった。
あの日、私たちは料理を1皿も食べずに、結婚式を出た。その代わりに、リカは自分が兄からどれだけ与えられていたのか、初めて自分の財布で知った。料理が欲しいなら、追加料金。だったら、人生の贅沢も、自分のお金で追加してくださいね。私たちは、これからもこの店で、2人分を頼む。誰かに出してもらった皿ではなく、自分たちで払った皿を、並べていく。



