「お母さん、かえちゃん、り太のことよろしくお願いしますね」
兄嫁のゆみさんは、今日も私の母に5歳の息子・り太を預けて、ご機嫌でお出かけしようとしていた。ランチを食べに行くと言うけれど、手にしているのはまるで一泊二日の旅行のようなボストンバッグ。これは帰りが遅くなるなと直感した。
「ゆみさん、何時頃帰ってくる?」
そう尋ねると、途端に嫌そうな顔をされた。
「かえちゃん、ひどい。せっかく久しぶりに高校の友達と会いに行くのに、もう帰る時間を聞くんですか?」
高校の友達は久しぶりかもしれないが、昨日は中学の友達、その前はママ友。何かと理由をつけては頻繁に遊び歩いている。しかも連絡もなく深夜や明け方に帰ってくることもあり、事故にでもあったのかと心配になるから、帰宅時間は知っておきたいのだ。
「えっと、違うの? 夕飯の支度とかさ。ゆみさんの分を準備するかどうか決めるから教えて欲しいの」
兄嫁は被害妄想が強い上に、気も強い性格だった。
「なんだ、そういうことですか? かえちゃんの言い方がきつくて、私が嫁いびりしようとしているのかと思っちゃいました。夕飯はいらないです。行ってきます」
そう言い放ち、私が言い返す前に出て行ってしまった。
母と私は顔を見合わせる。
「ごめんなさいねえ、かえ。ゆみさん、ちょっと一言多いから」
母はため息をついた。私も苦笑いするしかなかった。
私はかえ。3年前に結婚し、今は夫とアパートで二人暮らしをしている。ゆみさんは兄の妻だが、私より10歳も年下。兄とできちゃった結婚をした時、彼女はなんと19歳だった。
兄は長距離ドライバーをしている。地方の道の駅で深夜の休憩中、ベンチに座っているゆみさんに出会ったそうだ。ゆみさんは「実家に居場所がない」と言って家出中だった。兄は若い女の子がこんな深夜に一人でいるのは危ないと説教し、せめて朝までホテルに泊まるようにとタクシー代とホテル代を渡したらしい。
ゆみさんは兄に連絡先を聞いたが、兄は答えなかった。ところが、ゆみさんは兄の会社のトラックのナンバーを覚えていて、会社まで押しかけてきたのだ。ゆみさん曰く、自分はかわいそうな家出少女。両親は妹ばかり可愛がって、自分は可愛がってもらえなかった。だから家族の愛情に飢えている、と。
お金もないし実家には頼れないというゆみさんは、そのまま私の実家の兄の部屋に転がり込んだ。これが縁となって、年の差婚をすることになった。
私たちもゆみさんの言葉を信じ、家族として大切に接してきた。たまに「それはちょっと言いすぎでは」と思うことがあっても、「まだ若い子だし」と大目に見てきた。この一つ一つの積み重ねが悪かったのかもしれない。
兄は仕事柄、休みが不規則で泊まりがけの配達もある。兄の前ではけなげな良い妻を演じるゆみさんだが、兄がいない時は本性を表すようになった。
「かえおばちゃん、遊ぼう」
「いいよ。何して遊びたい?」
おいっこのり太は可愛い。でも5歳のやんちゃ盛りで目が離せない。足も速くて、かけ出すと追いつくのが大変だ。母は去年膝の手術をしたが、まだ足が不自由で車の運転も控えている。私は車で30分ほどのところで夫とアパート暮らし。自分の生活もあるが、父は私が大学生の頃に他界し、兄は年中不在。母が一人では大変なため、私が手伝いに来ているのだ。
「ママが、金曜日におばちゃんにここに連れて行ってもらいなさいって」
り太が差し出してきたのは、最近新しくできた小さな子も遊べるテーマパークのパンフレットだった。
「え、一時間2000円?」
結構値段がするので、思わず声が出た。おいっこがしょんぼりすると、孫に甘い母がすぐに助け舟を出す。
「私が出してあげるから」
「わーい、やった! おばあちゃん、ありがとう!」
おいっこは可愛い。でもそのテーマパークまで車で片道50分ほどかかる。最近ガソリン代が上がっているのに、兄嫁から送り迎えのガソリン代をもらったことは一度もない。どこかに出かけてお昼ご飯やおやつを食べさせても、何もなし。見かねた母が私に「これ、ガソリン代の足しにしてね」とお金を渡してくる始末だ。
正直、年金生活の母からお金をもらうのは気が引けるし納得がいかない。普段の世話も食事の支度も全部母に任せっぱなしで、一銭も家に入れないのだから。まあ、ゆみさんは専業主婦なので、正確には兄の給料だが。
そんなある日、事件が起こった。
「じゃあ、ママとランチ行ってきまーす」
兄嫁がばっちりおしゃれをして出て行こうとするので、私は声をかけた。
「ねえ、今日はやめたら? り太、39度あるよ」
おいっこの具合が悪く、ぐったりしているのだ。
「へえ。でも今日行くレストラン、超人気で全然予約取れないんですよ。それに、金曜日に病院行って薬もらってきているじゃないですか。これ以上することってあります?」
昨日の病院も私と母が連れて行った。兄嫁は「映ると困るから」とおいっこを母の部屋で寝かせ、自分は一人で寝たらしい。
「昨日は37度そこそこだったじゃない。今日になって急に熱が上がっているのよ。心配じゃないの?」
「お母さんもいるし、かえちゃんもいるから大丈夫でしょ。いくら私が素敵なレストランで食事してくるのが羨ましくても、嫁いびりするのって最低です」
兄嫁は怒って出て行ってしまった。さすがに母と私も呆気に取られ、黙り込んだ。
口数少ないままおいっこの看病をし、夫に「今日は実家に泊まる」と連絡した。いつもは夕方になったらアパートに帰るのだが、今日こそ兄嫁にガツンと文句を言ってやらないと気が済まなかった。
結局、兄嫁が帰ってきたのは23時過ぎ。
「ただいま〜」
ご機嫌だ。ぷーんとお酒の匂いがする。
「ゆみさん、いつもこんな時間に帰ってくるの? ランチじゃなかったのかしら? 可愛い子供が心配じゃないの? 熱を出して寝ているのよ。それに、今の時代、家族が熱を出していたら食事会なんて遠慮するのが当然だと思う」
私もイライラが溜まっていて、つい声が尖った。
「お言葉ですけど、こちらは同居でストレスが溜まっているんです。それに、こんな嫁いびりする人までいるのに我慢しているんですよ。嫁だからって家族扱いしてくれないんですか? 甘えさせてくれないんですか?」
兄嫁もすぐさま言い返してきた。
「嫁いびりするって堂々と言える時点で、ゆみさんもいい根性していると思うけど。今日はママ友のランチ会だったんでしょ? あなたは母親になったのよ。それなのに、子供のことを一番に考えないでどうするの? なんでり太が病気なのに、母親であるゆみさんがそばにいてあげないのよ」
私はおいっこがかわいそうだった。
兄嫁はお酒の力も手伝ってか、ますます強気だ。
「え? なんで母親になったら子供のことを一番に考えなきゃいけないのよ。そもそも、母親の気持ち、かえちゃんが分かるんですか? 子供いないくせに」
それは私だって子供が欲しいのに、なかなかできないのだ。誰かに言ったことはないが、こんな風に言われれば面白くはない。私が黙ったのを見て、兄嫁はニヤニヤしながら続けた。
「お姉さん、もう34歳じゃないですか? 35歳過ぎれば高齢出産だし、結婚して3年も経っているのに赤ちゃんできないなんて、もう一生できないんじゃないですか? 私はお姉さんがかわいそうだから、子供のお世話を体験させてあげているんです。病気の子供の世話を体験できて良かったじゃないですか。本物の母親が戻ってきたので、偽物はもう自分の家に帰ってくださいね」
と、部屋の入口を指差した。
「ゆみさん、今まで若いからって多めに見たけど、いい加減にしなさい。言っていいことと悪いことがあるわ。それにね、家族として甘えるのと、一方的に迷惑をかけるのは全然違うことなのよ」
「そうね。私もそう思うわ」
私たちの騒ぐ声を聞いて、パジャマ姿の母が出てきた。
「私もゆみさんがかわいそうだし、り太が可愛いからって甘やかしてきたけど、反省しないとね。ゆみさん、私はあなたのこともかえと同じ、自分の娘だと思ってる。これからは叱る時はちゃんと叱りますからね」
母にぴしゃりと言われ、兄嫁は無言で自分の部屋に戻った。
――ところが、翌日。
「嫁いびりされたって聞いたぞ」
兄から怒りの電話があった。私はどこから突っ込んでいいか分からないまま、兄が仕事先から帰る時間に合わせて実家に集合することにした。
「とりあえず、これを聞いてほしい」
兄と兄嫁が話し出す前に、私はスマホを取り出して再生ボタンを押した。昨日の後論は、念のため録音していたのだ。
「……俺が聞いていた話と、だいぶ違うな」
聞き終わると、兄がため息をついた。
「あのね、これだけじゃないよ」
私はこの機会に、これまでのことを洗いざらい暴露した。
「母さんとかえが嫁いびりなんて、おかしいと思っていたんだ。それに、俺が渡していたお金……」
「まさか、ゆみが全部使っていたとはな」
兄は給料の半分を母に渡すように言っていたらしい。ところが兄嫁は、それを全て自分のものにしていたのだ。
「だって、同居のストレスが……」
兄嫁はお決まりの言い訳をする。
「食事の支度も掃除も洗濯も、子供の世話も全部母にやってもらってストレス? 冗談でしょ? 周りの人の方がよっぽどストレスよ」
「そうだよな。母さん、かえ、済まなかった。俺がもっと早く気づいていれば……」
兄が私たちに頭を下げた。
「違う違う。謝るのはゆみさんでしょ。それからね、ちゃんと説明して欲しいの。なんで食事会にあんな大荷物を持っていくのか。みんなの前ではっきりとね」
「……ごめんなさい」
私の迫力に、兄嫁は真っ青になり、とんでもないことを暴露し始めた。
――友達に会うのは真っ赤な嘘。あの大荷物には派手なギャル服とメイク一式が入っていて、兄嫁は駅のトイレで着替え、ホストクラブへと通っていたのだ。
「だって、いつも私のことを放置して、寂しかったんだもん。私は悪くないわ」
兄嫁は呆気にとられる言い訳をした。
「それは、ゆみが母さんとかえから世話を押し付けられるって言うから、俺がたくさん仕事を引き受けてお金を稼いでいたからだろ。そもそも、なんでゆみが子供の面倒を見ないんだよ。おかしいだろ」
兄に怒られ、兄嫁は言ってしまった。
「だって私、まだ遊んでいたいのに。子供が邪魔だし」
――言ってはいけないことを。
しかも、隣の部屋で遊ばせていたおいっこが、いつの間にか入ってきて、兄嫁の言葉を聞いてしまったのだ。
兄は切れた。
「離婚だ。り太は俺がもらうからな」
兄嫁は慌てる。
「そんな、離婚なんてひどい。子供がかわいそうだと思わないの? り太、ママと一緒にいたいわよね? ママがいないと嫌よね?」
おいっこにすがったが――
「うん。僕はおばあちゃんとパパとかえおばちゃんがいい」
迷わず断言した。
「ママはちっとも遊んでくれないし、僕が邪魔なんでしょ?」
兄嫁はがっくりと崩れ落ちたが、自業自得だ。
こうして、兄と兄嫁は離婚した。その後、兄嫁は結局あれほど嫌っていた実家に戻ることになった。ただ、兄嫁から聞いていた話とは違って、家族から愛されていなかったわけではないらしい。兄嫁の実家は農業を営んでいて、家業を手伝わされるのが嫌で出てきただけだったのだ。
長年家出していた娘が戻ってきて、兄嫁の実家では喜んだが、兄から話を聞いてびっくり。私や母にまで謝りに来た。そして「今度こそ、しっかりしつけ直す」と約束した。
兄嫁は両親から厳しくしつけられ、家業を手伝いながらパートを掛け持ちして、使い込んだお金を少しずつ兄に返済中だ。慰謝料の支払いと養育費も払うことになっているため、もうホスト遊びをする余裕はないだろう。
私はといえば、ストレスがなくなったせいか、現在妊娠6ヶ月。新しい命を授かって、幸せな日々を送っている。



