「一流企業に勤めてて年収1000万なの。貧乏人暮らしのあんたとは大違いよ」
俺のボロアパートを見て逃げ出した元彼女・美咲が、エリート会社員と婚約したと自慢しに来た。
「高卒なんてやばいよ。仕事もないでしょ」
元彼女の婚約者も俺を見下すように笑う。
こいつらは人を収入や肩書きでしか判断できないのか。バカバカしい。俺が思い知らせてやる。
「君は俺の会社に必要ない。内定は取り消しだ」
そう言って俺が名刺を見せると、2人はわなわなと震え出した。
俺の名前は森本一。30歳だ。現在は事業を立ち上げて会社を経営している。
以前は美咲という恋人がいたが、現在はフリーだ。実は美咲と俺は結婚を考えていた。
「結婚するなら、かの家にご挨拶に行かせてよ」
美咲は結婚の話が出ると、すぐ親に挨拶に行くと言い出した。
「そうだね。父さんはもう亡くなってて、母1人子1人で狭いところだけど、いいかな?」
「そんなの、もちろん構わないわよ」
美咲が長い髪を触りながら俺を見つめる。ちょっとお尻が大きいが、つやつやとした黒髪。大きな黒い瞳が印象的な美咲を、俺は愛していた。
結婚するなら確かに母に紹介しておきたいと思い、すぐに母と会うことになった。
「ここがかの家なの?」
「そうだよ」
「さあ、どうぞ入って」
俺たちはお互い実家暮らしで、美咲が家に来るのは初めてだった。アパートの前まで来ると、美咲は急に立ち止まり表情を変えた。
「ちょっと待って」
「どうかした?母さんも待っているから」
美咲はなかなか家に入ろうとせず、その後ようやく母と対面するも、俯いて何も言わない。そして体調が悪いと言って、その日はすぐに帰ってしまった。普段はよく喋るのに、よほど体調が悪かったのだろう。
その日の夜、電話をしてみた。
「調子はどう?母さんも心配してるよ」
「そう」
体調を気遣ったのだが、帰ってきたのは思わぬ反応だった。
「大丈夫も何も、あんなボロアパートだなんて聞いてないわよ」
美咲は電話口ですごい剣幕で怒っている。
どうやら俺が古いアパート暮らしだったことが気に入らないようだ。
「なんだよ。体調が悪いって言うから心配していたのに」
「だから狭いって言っただろ」
「だって本当にあんなに狭くて汚いとは思わなかったわよ。一体何時代の建物なのよって感じだわ」
どうやら美咲の想像を絶する古さだったらしい。確かに俺と母が暮らすアパートは築50年を軽く超えているので、相当古いのは間違いない。だが、ここまで怒らせてしまうとは思いもしなかったので、俺は戸惑ってしまった。
「かがこんなに貧乏だなんて知らなかったわ。しかも、お母さんが病気って考えられない」
「みさえ、ちょっと待って」
美咲は一方的に電話を切ってしまった。その後、俺が何度連絡しても電話に出てくれないし、メールも無視された。要するに俺は振られてしまったのだ。
それからというもの、女性と付き合うことはあったものの、美咲とのことを思い出すと、なんとなく疎遠になり、付き合いは自然消滅してしまう。色々な人から「彼女を作らないのか」と聞かれるが、いつも「今はそんな気になれない」と答えていた。
それから数年が過ぎたある日、俺はホテルのバーで人と待ち合わせをしていた。大切な話をするような時は、ゆっくり話せるし、ここを使うことが多い。時間より少し早く着いたので、1杯注文してソファー席で待っていた。
その時、誰かが来店する気配があった。入口をふと見ると、そこには美咲の姿があった。男性と連れ立って入ってくる。俺は心臓がドキッとするのが分かった。美咲も俺のことにすぐに気がつき、一瞬驚いたように目を見開いた後、にやりと白い歯を見せた。
「あら、お久しぶり。こんなところで偶然ね。貧乏人が一体何してるの?」
美咲が高い声を出して近づいてきた。その表情が俺の中の美咲とマッチしなくて、戸惑ってしまった。もっと笑顔の素敵な女性だと思っていたが、今目の前にある美咲の顔は、何とも見苦しく嫌らしい。俺と最後に話した電話の向こう側でも、こんな表情をして俺を馬鹿にしていたのだろうか。
「ミサエ、こいつ誰だよ」
連れの男性が軽薄そうな顔をして言うと、美咲はいやらしい笑顔のままその男性を見上げた。
「元彼よ。この人すごい貧乏で家もボロボロなの。掘っ立て小屋みたいなの」
掘っ立て小屋はさすがに言いすぎだ。不満に思っていると、男性がおかしそうに笑い声をあげた。
「確かに貧乏人って感じが顔に出てるよな。服もしょぼいし」
「やだ、本当のこと言って悪いわよ」
2人で俺を見て笑い出す。
「私、この人と付き合っているの。すごいエリートなのよね。啓介さん」
美咲は自慢げに微笑み、横にいる男性・啓介の腕に自分の腕を絡めた。
「ふーん」
俺はいきなり色々言われて返答に困り、頷くしかない。それにしても、久しぶりに会ったというのに、なぜこんなに馬鹿にされなきゃいけないんだ。大体この男も初対面なのに、あまりにも失礼じゃないか。俺はどうにも気が収まらなかった。
啓介は細身で、キチッとしたスーツで決めている。俺はといえば、お決まりのTシャツ姿だった。俺は美咲のことをあれから引きずって生活してきたというのに、美咲は平然と恋人を作っている。馬鹿にされたことだけではなくて、それも悔しかった。きっと俺のことなどすっかり忘れていたに違いない。
しかも2人は向かい側の席にさっさと座ってしまうので、俺は戸惑った。
「あなたと別れて正解だったわ。あんな安アパートで病人のお母さんと生活するなんて、私には耐えられない。よくも騙してくれたわね」
「騙すってなんだよ。人聞きが悪いな」
美咲がまくしたてるように言うので、俺は少し苛立った。
「だって、会社を経営しているって言うから、ちょっと期待していたのよ」
俺は嫌な気分だったが、美咲は楽しそうに喋っている。
「ほら、私たち婚約したの。啓介さんは高卒のあなたと違って、一流大学卒業の超エリートなんだから」
美咲は身を乗り出して左手を突き出すと、薬指の指輪を俺に見せる。
「へえ、高卒なんだ」
啓介が面白そうに笑う。
「高卒の分際でよくこんなところでお酒を飲めるわね。ここは高いわよ。大丈夫?」
「高卒なんてきついよな。今時大学も出ていないなんて。君、会社経営って何してるの?」
啓介はふんぞり返って座り、俺に問いかける。
「え、まあ……」
俺は言葉を濁した。
「なんだよ。言えないのか。どうせ高卒なら大した仕事じゃないよな。その格好だから、実はニートだったりして」
高卒、高卒ってうるさいな。こんな男にあれこれ言われたくない。美咲だってそうだ。俺が会社を経営しているから付き合っていたとはっきりと言うのだから、ひどいものだ。こんな女と付き合っていたのかと思うと、自分が嫌になった。
俺はグラスに残っていたウイスキーを一気に飲んだ。
「この人はあなたと違って一流企業に務めていて、次期部長なのよ。年収は1000万なの。すごいでしょ」
美咲はまたしても自慢げな視線を俺に送る。
「俺みたいに一流大学を出ていれば、それくらい当然のことだよ。まあ、高卒なんかには関係ない世界だろうけどな」
この2人は学歴や年収、そんなものでしか人を見ることができないようだ。そういう奴らを山ほど見てきたが、うんざりだ。一流大学、一流企業、それが一体何なんだ?俺はそんなことはどうだっていい。
「あ、そう、本当ならすごいね」
俺は吐き気がするような思いで言った。
「本当ならってなんだよ。俺が嘘を言ってるっていうのか」
店内に啓介の声が響く。啓介は見る見る表情を変え、怒りをあらわにしていた。さっきまで静かだったバーの店内が、この2人が来てからというもの騒がしくなっていた。他の客たちもこちらを振り返って見ている。
こいつ、何を急に怒り出したんだ?疑われて困ることでもあるのか?俺は不思議に思った。
「どうしたんだ?落ち着けよ」
俺は啓介をなだめるように両手を出す。
「見ろよ。これが証拠だ」
啓介は名刺入れから名刺を取り出すと、俺に突き出した。
「はあ」
「貧乏人はこれだから困るんだ。まともな教育も受けてない奴は黙ってろよ」
「そうよ。啓介が嘘を言うはずないでしょ。本当、高卒だからって見下しちゃって丸わかりね。やだわ」
美咲は俺を見下すような笑みを浮かべる。
「まともな教育を受けていない」って、何のことだ。高卒を馬鹿にしているが、俺はこの2人のように会社の名前や学歴で仕事を選んだりしない。俺は実力で勝負してやる。そう思い、俺は啓介から受け取った名刺に視線を落とした。
俺は名刺を見た途端、あまりのバカバカしさに吹き出してしまった。
「なんだよ。高卒さんは気でも狂ったか」
「あまりの一流企業で驚いたでしょ」
口を揃えて俺に下品な言葉を投げかける。
しかし、俺を馬鹿にしていられるのもそこまでだった。
「この名刺は偽物だろう」
俺がそう言うと、さっと啓介の顔色が変わった。
「何?」
「さっきから人を学歴や肩書きで差別するような発言は聞くに堪えない。君の内定は取り消しだ」
「は?内定取り消しって何のことだよ」
「お前、何言ってるんだ?」
「本当よ」
啓介は慌てた様子だが、美咲は目を釣り上げて怒り出す。
「君はこの前、うちの会社で内定を出したばかりじゃないか。まだ名刺を作るには早すぎるだろう。確か現在は無職ということだったよね」
「おい、だからさっきから何のことだよ。いい加減なことばかり言わないでよ」
「さっきから何言ってるの?無職。彼は次期部長なのよ」
啓介はやはり慌てふためくが、美咲はものすごい勢いで俺を攻め立てた。だが、それはこの2人の最後のあがきだったと思う。
「これを見ろよ」
俺は名刺を取り出し、啓介に渡す。
「あ、これは……」
啓介は目を丸くして言葉を詰まらせる。美咲もあっけにとられた様子で何も言わない。
「社長ってどういうことだ?」
啓介が俺を上目で見ながら、おどおどした様子で聞いてくる。2人とも俺の差し出した名刺を見て、驚きを隠せないようだった。
「俺はこの会社の社長だ。君は先日、うちの会社の面接を受けた。そうだよね」
「え、まあ、その、あなたが社長?」
「そうだ。俺が社長だよ。会社を5年ほど前に立ち上げた」
急に大人しくなった2人を前に、俺は話して聞かせる。俺は高卒で学歴はないが、パソコンのゲームが好きで、独自でゲームソフトを作り、ゲーム仲間に声をかけて事業を始めた。最初の1年くらいは借金もあり赤字だったが、その後はヒット商品にも恵まれて経営も順調で、現在年収は1億ほどある。仕事は自宅や会社でパソコン1つあればできるので、いつもTシャツなどラフな服装が多く、こういうホテルのバーなどにもついそのままの服装で来てしまう。
古いアパートに住んでいるのにも理由があり、父との思い出が詰まっているからだ。そのため母が引っ越しを渋らないので、未だに住み続けている。病弱な母が病院に通うのにも便利な場所なのだ。ただ、さっき2人が馬鹿にしていた通りに、あまりに古く最近取り壊しが決まった。そのため近所に近々引っ越す予定だ。
「かがこの会社の社長だなんて」
2人はまだ信じられないといった表情で名刺を見つめている。
「俺の内定は……」
啓介はわなわなと震え、何やら呟いている。
「すみません。お待たせして」
そこへ年配の男性がやってきた。俺が今日待ち合わせしていた男性だ。俺に勝るとも劣らぬ地味な服装をしたその男性を見て、啓介が驚いたような顔をした。
「親父……?」
「啓介、なんでお前がここに……」
思いがけないところで出くわし、驚き合う親子を見て苦笑する。実は以前からの取引先である啓介の父親から、息子の就職を頼まれていた。人事担当に任せていたので直接会ってはいなかったのだが、先日の啓介の面接が行われた社内会議で内定を決めていた。そのことで今日、啓介の父親と会う約束をしていたのだが、そこへ偶然にも美咲と一緒に啓介が現れたというわけだ。
「今、息子さんと偶然お会いして、話していたところです」
啓介の父親にも俺の隣に座ってもらい、話を続けた。啓介の差別的な言動や、俺の会社の名刺の偽物を作っていたことなどをすべて話す。
「社長、お世話になっておきながら、本当に申し訳ありません。すべては非のうちの息子の責任ですから、内定は取り消されても仕方ありません」
啓介の父親は静かに聞いていたが、話が終わると俺の目をまっすぐに見て言った。そして頭を深々と下げる。
「啓介、お前はなんてことをしたんだ?俺はもう知らんぞ。勘当だ」
さらに啓介に厳しい口調で告げる。啓介は大学受験をしたものの、勉強が身につかず、第1志望に合格することができなかったそうだ。仕方なく滑り止めの大学に入学したため、やる気が出ずに留年を繰り返し、やっと卒業したが、その後もフラフラしてなかなか就職も決まらず、父親があちこちに就職を頼んでいた。そして俺のところでも、息子のために相談をしていた。
「社長だなんて知らないから、つい美咲に合わせてひどいことを言っただけなんだ。謝るから、内定は取り消さないでくれよ」
啓介は手のひらを返したように俺にペコペコと頭を下げる。父親が自分のことで今までどれほど神経をすり減らしてきたのか、分かっているのだろうか。啓介の父親は気の毒なほどがっくりと肩を落として座っている。こんな息子の姿を見たくもないだろう。
「いいか、よく聞いてほしい。君のような考え方では、うちの会社で働いてもらうわけにはいかない。しかも名刺の偽造までしている。我が社には不要な人材だ」
俺はゆっくりと一言一言、はっきりと伝えた。啓介はじっと聞いているが、顔面蒼白だ。
「待ってくれ。許してくれないか?」
必死にすがりつくように訴える。
「啓介、あなた私を騙していたのね。一流企業とか年収1000万とか、都合のいいことを言って。ひどいわ。一流大学も嘘でしょ」
呆然としていた美咲が、思い出したように叫んだ。
「なんだよ。うまくいってたのに。内定が取り消されたのは、お前がこんな高い店に行きたいって言ったからだろ。だから俺はこんな店嫌だって言ったんだ」
啓介は今にも泣き出しそうな声で美咲に文句を言っている。
「あんたが年収1000万じゃないなら、私たちはこれで終わりね」
「ちくしょう。何もかもお前のせいでぶち壊しじゃないか」
啓介は床に膝をついて座り込んでしまった。
「あんたなんかもうお払い箱よ。それより、私の運命の相手はやっぱりあなただったって気がついたわ」
見切りをつけて啓介に文句を言った後、美咲は急に俺の隣に座ると、すり寄ってきた。背筋に寒気を感じる。
「おい、やめてくれ。俺に近づくな」
「ねえ、和真、私が悪かったわ。もう一度、私たちやり直せると思うの」
俺が嫌がっているというのに、美咲はさらにすり寄ってくる。この女は一体何を考えているのだろう?
「なんだよ。俺みたいな高卒の貧乏人はお断りなんだろ?」
「あれは弾みで言っただけよ。許して。私、あなたのことがやっぱり忘れられないわ」
「よくもそんなこと言えるな。ボロアパートと病気の母さんを見て嫌になったくせに。いい加減にしろ」
「あの後、色々あって、やっぱりあなたが1番だったって、今気がついたのよ」
「お前、俺の会社の景気がいいと分かった途端にその態度か。俺のことを散々馬鹿にしておいて、今更恥ずかしくないのかよ」
啓介と啓介の父親も、呆気にとられた様子で美咲を見ている。
「いいえ、私たち今度こそきっとうまくいくわ」
美咲が今度は俺の腕を掴む。
「まだ言ってるのか?お前、どうかしてるよ」
俺は何か汚いものでも見たような感覚に襲われ、反射的に席を離れた。美咲のそばにどうしても座っていられなかったし、この女と別れて良かったと心の底から思った。
啓介の言動も許せないが、美咲の態度はあまりにもひどく、耐えられない。以前付き合っていた時は会社名は伝えていなかったが、今思うと、本当に良かったと思う。会社名を教えていたら、今頃俺はまだ美咲に騙されて付き合っていたかもしれない。美咲のことを引きずって生活していたことが馬鹿らしくなったし、当然、気持ちはもう離れていた。
背後では啟介と美咲が、またしても言い争いを始めていた。
「元々私を騙すつもりで付き合っていたんでしょ?」
「お前こそ俺の収入が目当てだったくせに」
「あんたのせいで何もかも台無しよ。どうしてくれるのよ」
「それはこっちのセリフだよ。俺の内定をどうしてくれるんだ?」
2人は周りを気にせず、言いたい放題だ。美咲は恋愛感情とかではなく、収入や肩書きで付き合う相手を選んでいる。なんて悲しいことをするのだろう。俺は美咲が哀れに思えてきた。
2人が大声で叫ぶので、他の客がみんなこちらを振り返って見ている。さっきから静かな店内で、明らかに迷惑行為をしているのだ。
「お客様、すみません。先ほどから他のお客様のご迷惑になっていますので、お店の外で話していただけますか?」
店員が思い余ったようにやってきて言った。そして美咲と啓介は、つまみ出されるようにして店を出ていく。俺も啟介の父親に挨拶すると、店を出た。
しかしその後、美咲が俺の会社にやってくるようになった。出社しようとすると、出入り口のところで毎日、美咲が俺を待ち伏せしているのだ。
「和真、あなたと私は運命の出会いなのよ」
そう言ってしつこくまとわりつき、「また付き合ってほしい」などと言って、町中で大声で叫ぶので、俺は困り果てた。
「ストーカーで訴えるぞ。警察に通報する。美咲の姿は会社の防犯カメラにも映ってるだろうからな。証拠はばっちりだ」
仕方なく脅すような言葉を言うと、その日からやっと姿を見せなくなった。
一時は美咲と結婚を考え、振られた後も引きずっていたことを考えると、自分の女性を見る目がなかったことを改めて実感した。今度女性と付き合う時は、やはり社長という肩書きを隠しておこうと思う。しかし、あのオンボロアパートのおかげで美咲に振られて、本当に良かったし、気分はすっきりした。


