大口の契約を白紙に戻すという、あの嘲るような口調に、私は思わず眉をひそめた。その声の主は、かつて私が勤めていた会社で上司だった男だ。今は運命のいたずらか、クライアント企業の部長の座にいる。契約はつい先日、交わしたばかりだというのに、何を言っているのか見当もつかない。そもそも、こちらに非は一切ないはずだ。
嫌な予感は当たるものだ。私はため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
私の名は高村。43歳になる。3年前まで、私は産業機械メーカーでエンジニアとして働いていた。しかし、父の体調悪化による引退に伴い、父が経営する工場を継ぐことになった。小さな会社だが、そこには父が長年守ってきた技術と誇りが詰まっている。もともと、いずれは後を継ぐつもりでいたので、時期が少し早まっただけだと思っていた。だが、実際はそうではなかった。
継いだ当初は、本当に苦労した。経営状況の問題だけでなく、社員や顧客も、私が会社を継ぐことに不安を感じていたのだ。当時40歳で、現場から離れていた私は、引退した父の助言もありながら、経営についてはまったくの素人同然だった。一歩ずつ積み上げていくしかなかった。
私は決心し、この3年間で少しずつ信頼と経験を築いてきた。前職での技術的な知識を活かし、加工精度を見直し、新しい事業にも注力した。その結果、新規の顧客も徐々に増え、この町の工場の精密加工は評判を得るようになった。長年、この高い技術が古い付き合いの客にしか知られていないのはもったいないと思っていた。
工場の運営にも慣れ、ようやく一息つけるようになったある日のこと。私は社長業の合間に、いつものように職人たちと一緒に仕事をしていた。
「社長、お客様がお見えです」
事務を担当する女性社員が声をかけてきた。今日は打ち合わせの予定はなかったはずだ。首を傾げながら、私はその訪問者の名を聞いた。そして、その名前を聞いた瞬間、私は衝撃を受けた。
関口。
私はその名を確認するように復唱した。もう二度と会うことはないだろうと思っていた人物の名前だった。正直、帰ってほしいと思ったが、わざわざ訪ねてきてくれた以上、無視するわけにもいかない。
「わかりました。すぐ行きます」
私は汗を拭い、手にしていた工具を置いた。事務所へ向かう道すがら、自然と関口のことを考えていた。関口は私が産業機械メーカーで働いていた頃の上司だった。社長の甥という立場を利用し、自分のミスを部下に押し付け、高圧的な物言いをするため、他の社員からも疎まれていた。私自身も、彼に何度も理不尽な扱いを受けてきた一人だ。
特に私は、関口のやる気のなさや杜撰な態度を直接指摘するため、彼に目をつけられていた。エンジニアとして、そして大人として、彼の怠慢を見過ごすわけにはいかなかったのだ。
「その態度、どうにかならんのか。俺に歯向かうと、社長が黙ってないぞ」
私が彼の機嫌を損ねるたびに、関口は決まってそう言った。私からすれば、それはまったくもって関係のない話だった。
「私は単に、やるべきことをやっていただけです」
そんな私の態度のせいか、周囲の人間はよく私を頼ってくれた。それがまた、関口には面白くなかったらしい。
「課長の俺の顔に泥を塗るな、この平社員が」
怒鳴られた時、心の中で「だったら、課長らしい仕事をすればいいのに」と言い返しそうになった。
父の会社を継ぐため辞表を提出した3年前、関口の言葉を私は今でも忘れられない。
「親の会社を継ぐ? お前、バカだな」
「小さな会社の社長になるなんて、人生の無駄だぞ」
「まあ、お前がいなくなって清々したがな」
そう言って、彼は私を嘲笑った。もう二度と会うことはないだろう。そう思ってやり過ごしてきたのに、今、歩きながらその疑問は深まるばかりだ。
事務所に着き、私は辺りを見回した。事務所の一角が応接スペースになっている。パーティションとソファ、ローテーブルがあるだけだが、それで十分、商談はできる。目当ての人物はそこにいた。
「久しぶりだな、高村」
彼はソファに背を預け、片手を軽く上げて言った。私が挨拶をして向かい側に座ると、関口は名刺を机の上に滑らせてよこした。そこには彼の名前と共に、「購買部長」という肩書きが書かれていた。
購買部長? おかしい。彼は一貫して技術部門の上司だったはずだ。私の何も言わない問いかけに答えるようにして、彼が口を開いた。
「今は購買部の部長をやってるんだ。社長が、俺は技術よりこっちの方が向いてるってな」
その瞬間、すべてを悟った。思い返せば、彼が技術部に来た当初も、どこからか転属してきていた。社長の縁故体質は有名だから、今さら驚くことでもない。ただ、今現在、彼の下で働いている社員が気の毒でならない。
「それで、今日はどういったご用件で?」
本題を促すと、彼からは意外な言葉が返ってきた。
「お前の工場の精密加工、評判がいいらしいな」
関口がそんな肯定的なことを言うなんて、珍しいこともある。少し面食らっていると、関口は軽く咳払いをした。
「実はな、この3年、色々と反省する時間があった。お前……いや、高村君。お前が辞めてから、ようやくいい部下だったってことがわかったんだ。今さらだが、すまなかった」
え? 正直、耳を疑った。信じがたいが、もう辞めて縁も切れた私に、彼が謝る理由があるはずがない。話を聞けば、彼は新製品ライン用の専門部品やジグ、設備の3年連続契約を依頼したいというのだ。総額は5億円。
なるほど。だから先に謝罪をしてきたのか。それにしても、かつての関口のことを思えば、この謝罪だけでも感慨深いものがあった。昔の彼なら、仕事を回してやるという態度に出るはずだ。こちらが感謝しなければならないとでも言わんばかりに。
私は彼の提案内容を頭の中で整理し直した。5億円の契約。我々のような小さな会社には、突然の話だ。かって関口は「零細企業」と、わざわざ嘲笑しながら呼んでいた。皮肉を込めてそう言うと、関口は顔をしかめた。
「すまなかった。当時は視野が狭すぎたとしか言いようがない。高村君の工場は本当に評判がいい。それに、元社員だったというのも信用の根拠になる。社長も期待している」
そうだろうか。私はそう思った。
その日は話だけして、関口は帰っていった。私は言われたことを考えながら、父に相談した。
「いい話じゃないか。ただし、急に態度を変えた人間には気をつけろ。嫌な予感がするなら、記録を残す準備だけはしておけ」
父の言葉に少し驚いたが、私は頷いた。長年、商いをしてきた父らしい、抜け目のない忠告だった。
「会社も順調に進んでいる。これは大きなチャンスだ。社員にもいい知らせができる」
私は関口の変わりように驚きつつも、あれほど傲慢だった人間が謝ってきたことに、その時は感動さえ覚えていた。熟考の末、私はこの話を引き受けることにした。
今思えば、もっと早く気づくべきだった。事務所に入ってきた時の関口の姿勢。名刺を机に滑らせて寄こすという失礼さ。クライアントの社長である私を「お前」呼ばわりしたこと。契約を進めるにつれて、私の不安感は大きくなるばかりだった。
元職場で親しかった友人と連絡を取る機会があり、彼が関口の愚痴をこぼし始めた。不思議に思って尋ねると、友人は「関口部長は相変わらずだよ」と答えた。
「購買部に移ったのに、技術部にちょくちょく来てさ、うんざりなんだよ。暇なら仕事しろってんだ」
彼は笑いながら言った。さらに、契約書の細部を詰める際も、関口は表面上はもっともらしいことを言うものの、その投げやりで尊大な態度が目立った。不安が募る中、契約は成立し、私は長くため息をついた。
事務所に戻ると、話を聞いていた社員たちは笑顔だった。
「社長、本当ですか? 大型契約!」
「これでやっと新設備を導入できますね!」
若い社員たちは興奮した口調で話し、他の職人たちも安堵の表情を浮かべていた。それを見て、私は再び気を引き締めた。あとは我々の仕事ぶりを見せるだけだ。
契約が成立してから3日後、突然関口から電話がかかってきた。彼は妙に改まった様子で、話があると言う。
「どうしたんですか? 何か問題でも?」
尋ねても、彼は電話では話せない重大なことだとだけ答えた。一体何だろうか。だが、彼が頑として言うなら仕方がない。
「電話して呼び出しておいてなんだが、今夜になってしまうが構わないか」
具体的な時間を尋ねると、彼は勤務時間外にしか来れないという。対応するのは私一人になる。
「わかりました。待っています」
私はそう言って電話を切った。嫌な予感がした。私は立ち上がり、社員の一人に声をかけた。
それから数時間が経った。社員たちは一人また一人と帰っていき、事務所には私一人だけが残った。その頃になって、やっと関口が現われた。
「よお、高村」
その口調には、私がかつて部下だった頃を思い起こさせる、嫌な響きがあった。
「どうぞ、お掛けください」
不穏な空気を感じつつ、私は関口を椅子に勧めた。
「いや、いい。長くはならないからな」
関口は首を振り、口の端を歪めた。まるで、今にも言いたいことを我慢できずにいるように見えた。
「単刀直入に言う。契約を白紙に戻させてもらう」
私と関口の間に沈黙が流れた。冷たい汗が肌を伝う感覚がした。
「どういう意味ですか?」
ようやく絞り出すように言うと、関口は嘲笑した。
「その顔が見たかったんだよ。だから言っただろ。電話で済む話じゃないって」
一人だけ面白がっている関口を、私はじっと見つめた。なぜ嫌な予感というものは、当たってしまうのか。そう思って、私はため息をついた。
「私が良い部下だったと気づいたと言ったのは嘘か? 喜んでくれたのも?」
そう問い詰めようとすると、関口は遮って言った。
「かつての部下だったお前が、一人でうまくやってるのが我慢ならなかっただけだ」
「なんだ、その目は?」
「こんな小さな会社、俺の気分次第で潰せるんだぞ。誰が後ろにいるか、よく考えろ」
妬み? 私は黙って聞くしかなかった。大人であり、プロであるはずだ。大勢の人間が関わる仕事を、市場を仲介に使って自らの感情を晴らすなんて、あってはならない。いや、この男は最初から成長していないのだ。新生したという言葉を信じた私が愚かだった。心の中でそう吐き捨てた。
「で、どうする? 土下座して泣いて懇願するなら、考えてやらなくもないぞ」
その言葉に、私は反射的に顔を上げ、関口を睨みつけた。この3年間、私は工程をミクロン単位まで磨き上げ、古い機械でも技術があれば精密な切削は可能だということを証明してきた。新規開拓のために何十社にも頭を下げ、やっと父が守ってきた技術と社員の生計を軌道に乗せたところだ。3年間で築き上げてきたものを、そんな理由で壊されるわけにはいかない。
購買部長といえども、大型契約を気まぐれで白紙に戻せるはずがない。関口の狙いは、私を慌てさせ、絶望する顔を見ることだけだ。私がここまで恨まれるようなことをしただろうか。確かに、前の職場ではよく関口と衝突した。だが、ここまでされるほどの憎しみを買った覚えはない。
私は、子供じみた醜い笑いを浮かべる関口をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「そうですか。それなら、仕方ありませんね」
そう言った直後、関口は呆気に取られた顔をした。しかし、すぐに身を乗り出してくる。
「悔しいんだろう? どうにもできないから、強がってるんだろ?」
私はゆっくりと首を振り、明るく微笑んだ。
「いいえ、本当に仕方ありませんよ。あなたに土下座する理由もありませんから」
私は手のひらでオフィスのドアの方へと合図を送った。
「話は以上なら、お帰りください」
関口は口を開けたり閉じたりしながら、言葉を失っていた。しばらくして、彼は苛立たしげに吐き捨てた。
「もし土下座してたら、考えてやってもよかったのに。このバカが。後で泣いて縋ってきても遅いぞ」
その言葉を残して、関口はオフィスを出て行った。私は小さくため息をつくと、電話で社員に連絡した。
「もしもし?」
「嫌な予感は当たりました。すみませんが、例の書類を準備しておいてください」
電話を切った後、私は胸ポケットから小型の録音機器を取り出した。これも役に立つかもしれない。私はボイスレコーダーのスイッチを切った。
関口が私のオフィスに来てから3日が経った。現在、私の目の前には二人の人間が座っている。顔色が悪く、うつむいている関口と、かつての会社の社長だ。彼らは例の関口の一方的な契約破棄の発言について謝罪に来たのだ。
社長が関口が手を煩わせたことへのお詫びと切り出したのを、私は苦く笑って聞き流した。
「いえ、お詫びなど、とんでもない。関口部長が来て、ひと暴れして去っただけのことです」
鋭くそう言うと、社長は困ったように笑った。
「まあまあ、お気持ちはわかりますが、社長。関口も、ここまでになるとは思っていなかったんでしょう」
思っていなかった。彼の言葉を復唱すると、社長は苦笑いを浮かべたまま固まった。私は深くため息をついた。この男も、おそらく何も反省していない。それが、初めから感じていた不快感の正体だった。だからこそ、私は二つの対策を取っていたのだ。プロとして、いや、人として、どうなのか。
「先日送付した契約解除の通知書と、録音データがすべてです。謝罪を受け入れる理由はあっても、関口部長の行為を許す理由はありません」
一つの対策は、高性能の録音機器を準備しておくこと。もう一つの対策は、社員に、いつでも解除通知を送れるよう準備しておくよう指示しておくことだった。私の直感は当たり、関口が契約を白紙に戻すと言った後、私はすぐに通知書と録音データを送付した。電光石火の対応だったと思う。
「ほら、関口。謝れ」
社長に促され、関口は不満そうに「すみません」と呟く。私には呆気がさえ覚えた。
「で、謝罪も済んだことだし、契約は予定通り進めるということでよろしいですね?」
社長は、何事もなかったかのように話を進めようとする。そういう人なのだ。家族だからという理由だけで、関口のような人間を管理職に置いておく社長なのだから。
私は静かに、しかし明確に言った。
「子供じみた振る舞いをする管理職を置く会社を、信頼することはできません。契約の解除で話を進めさせていただきます」
社長の作り笑いが消え、彼は目を細めた。
「本気か? それは一方的な契約破棄になるぞ」
初めて、社長の目に焦りの色が浮かんだ。私は表情を消し、冷静に言った。
「そんな虚勢は、あなたの会社にとっても致命的ですよ。忘れましたか? 私が送った書類は写しだけです。原本のデータはここにあり、今もこの場を録音しています。これ以上進めるおつもりですか? あなたのその言葉が、脅迫と取られる可能性もありますよ」
社長は落ち着きなく周囲を見回し、デスクで仕事をしている社員たちが、自分たちに向けて冷たい視線を送っていることに、ようやく気づいたようだった。
「関口部長。あなたはなぜ、今まで黙っていたんですか? あなたの衝動的な一言で、事態はここまで複雑になったんですよ」
「な、何だよ。何が言いたいんだ。土下座しろってのか?」
「関口部長と一緒にしないでください。関口部長は、今もこれからも、ずっとあのままでしょう。自分が何をしでかしたのか、理解しないまま生きていくんです。心のこもってない謝罪に、意味はありません。お帰りください」
「ちょっと待ってくれ」
社長が焦って言うが、私は聞き入れなかった。
「チャンスを自ら二度も投げ出したのは、あなたがたの方です」
関口は気まずそうに、社長の目を必死に避けていた。私は立ち上がると、オフィスのドアを開けた。
「どうぞ、お引き取りください」
関口たちは肩を落として歩き去っていった。遠くから社長と関口が言い争っているのが見えたが、私は静かに事務所のドアを閉めた。
後日、かつての同僚から連絡があった。私のところから戻った後、社長と関口が口論になり、関口が社長に暴力を振るったという。その事件と、それまでの素行が決定打となり、関口はその場で解雇されたそうだ。私は現在、元の職場と弁護士を通じて交渉し、違約金を受け取り、すべての関係を断つ方向で進めている。
その夜、私は起こったすべてを父に報告した。
「そうか。私は、お前の方が上手くやれると思っていたよ」
父はそう静かに言って、少し照れくさそうに微笑んだ。その一言で、この3年間の苦労が報わられた気がした。社長として、皆を守るために、自分の行動と言葉に責務を持たなければならない。私は改めてそう誓った。



