「あなたは、何者なんですか?」——地方の古い病院で静かに働くつもりだった。ただの内科医として、名前も過去も隠して。なのにある早朝、鏡越しに同僚の女医師が、私の左肩の傷跡を見つめて立っていた。あの目は、問い詰めていた。10年前、私が置き去りにしてきた世界の痕跡を。彼女はそれ以上聞かなかった。だが、その週の終わり、委長が私を呼び、病院の存続をかけた秘密を打ち明けた。そして、海外から届いた1封のメ…

「あなたは、何者なんですか?」——地方の古い病院で静かに働くつもりだった。ただの内科医として、名前も過去も隠して。なのにある早朝、鏡越しに同僚の女医師が、私の左肩の傷跡を見つめて立っていた。あの目は、問い詰めていた。10年前、私が置き去りにしてきた世界の痕跡を。彼女はそれ以上聞かなかった。だが、その週の終わり、委長が私を呼び、病院の存続をかけた秘密を打ち明けた。そして、海外から届いた1封のメ...

電車の窓から見える景色は、10年前とそれほど変わっていなかった。田畑の向こうに低い山並みが続き、夕方の光が遠くの屋根を赤く染めている。日本の春は、こういう匂いだったか。今さらのように思い出した。

俺はタクシーに乗り込み、総合病院と告げた。

運転手が軽く頷いて車を出した。

「先生、お医者さんかい?」

「ええ、今日から勤務することになりました。よろしくお願いします」

「それはありがたい。あの病院、人が足りなくてね」

それきり、車内に会話はなかった。

病院は町外れにあった。古びた4階建てで、外壁の白い塗装は所々剥がれている。事務局で簡単な手続きを済ませ、用意された医局の机に荷物を置いた。古い木製の机だった。

俺は窓際に立ち、ジャケットを脱いでシャツの袖をまくった。左肩に走る引きつれた傷跡が鏡に映る。

10年経っても、この傷だけは消えない。

あの日のことが頭の片隅に浮かびかけて、俺は静かに袖を下ろした。語ることはもう何もない。ここでは、ただの一人の医師でいい。

勤務から2週間が過ぎた。俺は外来診療を担当し、午後は病棟を回る。それだけの繰り返しの日々だった。

「先生って、前はどこで働いてたんですか?」

そう聞かれることも、何度かあった。俺は決まって「海外の小さな病院でしばらく」とだけ答える。それ以上は、誰も聞こうとしなかった。

医局でコーヒーを入れていると、若い男の声が後ろから聞こえてきた。

「綾山先生、その内科の方針、もう少し攻めてもいいんじゃないですか?」

振り向くと、滝沢修平が腕を組んで立っていた。29歳の消化器内科医で、院内でも腕利きの若手として通っている。

「攻めるべき場面なら、そうします。今はまだ、その時ではないと思っています」

「あなたみたいに慎重だと、患者を逃しますよ」

そう言い残して、滝沢はカルテを持って医局を出ていった。

その日の午後、俺は新患の患者を見ていた。脈を取り、聴診器を当て、検査値を確認する。処置は淡々と進めた。特別なことは何もしていない。それでも患者の呼吸は、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。

ステーションに戻ると、隣に立っていた女性がカルテを見つめていた。片瀬綾音だ。循環器内科で35歳。院内でも実力者として知られていると、看護師たちの噂で耳にしていた。

「綾山先生」

俺は顔を上げた。

「先ほどの処置、薬剤の選び方も投与量も、迷いがありませんでしたね」

「教科書通りにやっただけですよ」

「教科書通りに迷いなくできる人は、そう多くありません」

俺は何も答えず、カルテに目を落とした。彼女の視線がしばらく、俺の横顔に向けられているのを感じた。

数日後、泊まり明けの早朝のことだ。医局の洗面所で顔を洗っていた俺は、白衣を脱いでシャツ姿になっていた。えり元から左肩の傷跡がわずかに覗いていたのかもしれない。

背後で足音が止まった。鏡越しに、片瀬が立っているのが見えた。

彼女は何も言わなかった。ただ、その視線は明らかに俺の肩に向けられていた。

俺はゆっくりとタオルで顔を吹き、白意を羽織った。

「失礼しました」

そう短く言って、彼女は背を向けた。

その週の金曜の夕方、委長室に呼ばれた。ノックをすると、どうぞと低い声が返ってきた。委長の山本が、書類の山に囲まれた机の向うに座っていた。

「綾山先生、忙しいところすまんね。少し話を聞いてもらいたくて」

「気になさらず、何かありましたか?」

山本は椅子の背に体を預け、ため息をついた。机の上には決算書らしき書類が広げられている。

「率直に話します。うちの病院は深刻な赤字でね。理理会では、東配の話が本格的に出ている」

俺は黙って耳を傾けた。

「特に理理の山の内さん、地元の経営者でね。あの人は、もう閉鎖しかあいという立場だ。数の字だけ見れば、その通りだか」

言葉を切って、山本は窓の外に目をやった。

「先生を採用する時、履歴書を見て正直に言うと、引っかるところがあっだ。空白の期間、海外の所属先——そ辺りがねえ。それでも面接で、この人なら現場を任せらえると思っだ。今もそ思っている。だか ら、こうして話している」

「お話いただいてありがとうございます。私にできることがあれば、お手伝いします」

山本は小さく笑った。

「先生はあまり多くを語らんね。それでいい。今はただ目の前の患者を見てくれれば、それで十分だ」

委長室を出て医局に戻ると、すでに日は落ちていた。机の上のノートパソコンを開き、メールを確認する。新着が1つ。差出人は海外の医療機関だった。件名を見ただけで、それが何の要件かおよその検討はついた。

俺はマウスに手をかけたまま、しばらく動かなかった。メールを開かなかった。ただ、画面に表示された差出人の名前を見つめ続けた。あの場所、あの仲間たち——忘れたわけではない。忘れられるはずもない。左肩の傷跡が、シャツの下でわずかに疼いた気がした。

廊下の奥から看護師長の小山リエが顔を出した。

「先生、まだいらっしゃったんですね。お疲れ様です」

「ええ、もう少しだけ。小山さんもお疲れ様です」

俺はノートパソコンを閉じた。メールは明日でも明後日でも開けられる。今はただ、この古い病院の夜の静けさの中に自分を置いておきたかった。

翌朝、病院の空気はいつもと違っていた。看護師たちが小声で何かを話していた。俺の姿に気づくと、すっと話を止め、軽く会釈をする。俺も頷きを返して医局へ向かった。

医局のホワイトボードには、午後3時から臨時理会という走りがあった。山本委長の字だ。廊下ですれ違った若い研机も、医局の隅で話す事務も、皆どこか落ち着かない表情をしている。東配の話は、もう院内の誰もが知っていた。

午前の外来を終え、俺は病棟を回っていた。402号室の老夫人は、入院して3週間になる。心不全と肺炎を併発し、一時は危なかったが、今は穏やかに眠っている。俺はベッドサイドのチャートを確認し、点滴の落ちる速さを目で追った。特別なことは何もしていない。ただ見て、聞いて、合わせて、待つ。それだけのことを丁寧に繰り返してきた。

廊下に出ると、小山が壁際に立っていた。

「綾山先生、402号の患さん、ご家族がとても感謝されていましたよ。あの先生が来てくれてよかったって」

「私が特別なことをしたわけではありません。看護師さんたちの観察が早かったから、間に合ったんですよ」

小山は静かに微笑んだ。

「先生は、この場所を見捨てない人ですね」

軽く会釈をして、彼女は病室の中へ消えていった。

窓の外では、桜の枝先がわずかに揺れていた。

午後3時、理理会が始まった。俺は出席する立場ではない。医局の机でカルテを整理しながら、廊下を急ぐ事務の足音を聞いていた。

2時間ほど経った頃、会議室の扉が開く音がした。山の内という理事が苛立った様子で廊下を歩いていくのが見えた。その後ろから、山本委長が肩を落として歩いていく。

水曜の朝、片瀬綾音から声をかけられた。

「綾山先生、508号室の患さんを一緒に見ていただけませんか? 循環機の症状と内料的背景が複雑に絡んでいて」

「分かりました。カルテを見せてください」

患は男で、拡張型心筋症の気があり、今回は腎機能の低下と不脈が同時に進行していた。カンファレンスルームで、俺と片瀬は治寮方針を検討した。

片瀬は積極的に介入する方針を主帳した。俺は、それより先に水分バランスの細やかな調節から始めるべきだと考えていた。

「綾山先生、それでは効果が出るまでに時間がかかりすぎます。患さんの状態は待ってくれません」

「急に介入すれば、腎臓が持ちません。今のこの方の体は、強く押せばどこかが必ず壊れます。先に土台を整えるべきです」

「その判団の根拠は何ですか?」

俺はカルテをめくりながら、検査値の推移を指さした。

「ここ3日の数値です。一度に戻せば必ず崩れる。これは経験です」

片瀬はしばらく俺を見ていた。何かを問いたげな目だった。ただ、その時は何も言わず、「分かりました」と短く返した。

その日の夕方、患者が急変した。看護師が病室から駆け出してくる足音で、医局にいた俺は立ち上がった。

病室に飛び込むと、心電図のアラームが鋭く鳴っていた。片瀬もすぐに駆けつけた。

俺は患者の脈を取り、瞳孔を確認した。

「アドレナリン0. 3ミリ、同時に輸液を半分に絞ってください。気道の準備を念のためお願いします」

「綾山先生、血圧は保たれています」

「今は循環を立て直すのが先です」

指示は短く、迷いがなかった。自分でも不思議なほど落ち着いていた。

数分後、心電図の波形が安定を取り戻した。患者の呼吸も、ゆっくりと深くなっていく。

俺は手袋を外し、額の汗を白衣の袖で拭った。看護師たちがほっとした表情で、互いに見合わせている。片瀬はしばらく動かなかった。ただ、俺の手元と顔を交互に見ていた。

病室を出て廊下の窓辺に立つと、彼女がついてきた。

「綾山先生」

「はい。何か」

「あなたは、何者なんですか?」

俺は窓の外に目をやった。夕日が向かいの建物の窓を1枚ずつ赤く染めていた。

「ただの内科医ですよ」

「そんな指示の出し方を、ただの内科医はしません。私には分かります」

俺は答えなかった。

「いつか話していただけますか?」

「話すべき時が来たら、お話しします」

それだけ言って、俺は廊下を歩い出した。背中に、彼女の視線をずっと感じていた。

金曜の朝、若手外か医の滝沢が声を荒げていた。

「来週の予定通り、手術で行きます。これ以上検査を増やす必要はありません」

相手は研修医だった。研修医は何か言いかけて、口をつぐんだ。

俺はコーヒーを片手に、滝沢のデスクに近づいた。机の上に広げられたカルテに目を落とす。62歳の男性、胃の手術が予定されている。俺はページをめくり、心電図の所見と血液検査の特定項目に視線を止めた。

「滝沢先生、この患さん、心臓の精査をもう一度入れた方うがいいかもしれません」

「綾山先生、内科の先生が、どうして外科の予定に口を出すんですか?」

「手術前の安全のためです。この所見は、私の経験では見過ごせません。1日で結果は出ます。それからでも遅くないはずです」

滝沢はしばらく俺を睨んでいた。それから舌打ちをして、カルテを閉じた。

「分かりましたよ。やればいいんでしょ」

翌日、心エコーの結果が届いた。重度の弁膜症が見つかった。このまま手術に踏み切っていれば、手術中に致死的な合併症を起こしていた可能性が高いという所見だった。

夕方、滝沢が医局のドアの前に立っていた。

「綾山先生、今日の件、ありがとうございました」

「気にしないでください。誰でも見落とすことはあります。気づけた時に修正すればいい」

「自分は、先生のこと軽く見ていました。すみません」

俺は首を横に振った。

「謝ることではありません。患者さんが助かれば、それでいいんです」

滝沢は深く頭を下げて、廊下を歩いていった。

その夜、医局には俺1人だった。ノートパソコンを開き、未読のままだったあのメールに、ようやく指を伸ばした。

件名をクリックする。画面がゆっくりと文面を映し出した。

差出人は、10年前に共に働いた国際医療チームの責任者だった。文面には、総合病院を国際共同研究の拠点として連携させたいこと、そしてその中心に俺が立って欲しいことが、丁寧な言葉で記されていた。推薦の理由には、現地での10年前の働きと、現在の所属先での評価の両方が挙げられていた。

俺がこの病院に来てから、彼らは静かに調べていたのだ。

俺はしばらく画面を見つめていた。窓の外で雨が降り始めていた。俺はマウスから手を離し、椅子の背に体を預けた。

月曜の朝、空はよく晴れていた。ホワイトボードに「本日14時、東配について最終理会」と記されていた。

午前の外来は、いつもと同じように流れた。脈を取り、聴診器を当て、検査値を確かめる。昼を過ぎた頃、事務が小走りで医局に入ってきた。

「綾山先生、国際郵便です。委長宛てで英文の書簡が届いていまして、委長がこれは綾山先生にも関わる話だと言っています」

俺は手を止め、彼の差し出した封筒を見た。差出人の組織名には見覚えがあった。10年前、共に泥の中を歩いた仲間たちの名を連ねる組織だ。

「委長が14時の理事会で開封すると、先生にも同席して欲しいそうです」

俺は静かに頷いた。来るべき時が来たのだと思った。逃げるつもりはなかった。ただ、こうも早いとは思っていなかっただけだ。

14時。長机の向こうに理事たちが並んでいる。中央に、地元企業の経営者で病院理事の山の内憲が座っていた。

「委長、もう議論は尽くしたでしょう。本日中に、東配の方針を確定させたい」

「山の内さん、その前に1つだけ。今朝、海外の医療機関から正式な書簡が届きました」

山本は封筒から書類を取り出し、ゆっくりと広げた。室内が静まっだ。

「総合病院を、国際共同研究の連携拠点として認定したいという提案です。資金、人材面、いずれも先方からの支支援が約束されています」

「何かの間違いではないのか? なぜうちのような地方病院に?」

「推薦責任者の名前が、ここに記されています」

山本は書類を机の上にそっと置いた。全員の視線がその一点に集まる。

「推薦責任者は、綾山浩司」

一瞬、空気が止まった。理事の1人が「綾山」と小さく繰り返した。

「山本委長、これはどういうことだ?」

山本はゆっくりと俺の方を見た。それから、覚悟を決めた目で理事たちに向き直った。

「皆さんにお話ししなければならないことがあります。ここにいる綾山浩司医師は、10年前、世界的な医学賞を受賞し、国際医療プロジェク卜を率いた医師です。私は最初からそのことを知っていました。本人の希望で、伏せていただけです」

会議室がざわついた。山の内は口を半開きにしたまま、俺と書簡を交互に見ている。俺は壁際に立ったまま、視線をまっすぐに前へ向けていた。

「綾山先生、よろしければご自身の言葉で」

俺は理事たちの顔を1人ずつ見渡した。

「皆さん、お騒がせして申し訳ありません。私の名前が出てしまった以上、隠し通すつもりはありません。お話しします」

理事たちの目が俺に集まる。

「10年前、私は紛争地域で医療活動をしていました。テントの中で手術をし、舗装もされていない道を、道具を抱えて走る毎日でした。仲間も患も多くいました。ある日、診療所が襲撃を受け、私は左肩を撃たれました」

会議室は、音1つしない静さだった。

「弾は骨をかすめて抜けました。命は助かりました。ですが、目の前で助けるはずだった若い母親が亡くなりました。私が手を伸ばせなかったからではありません。手を伸ばせる場所に、医療そのものが届いていなかったからです」

「あの時、私の中で何かが変わりました」

俺は左肩に、無意識に手を当てていた。

「日本に戻ってから、私は名前を伏せて地方の病院で働くことを選びました。名声のためでも論分のためでもなく、ただ目の前の患者を見る医師でいたかったのです。それ以外の何者でもありたくなかった。この総合病院を選んだのは、ここにそういう場所が残っていると思ったからです」

会議室の壁際に、いつの間にか小山看護師長が立っていた。その目には、驚きよりも静かに納得した色があった。

「先生」

皆の視線が彼女に集まる。

「お話、隣で聞かせていただきました。先生がどんな経歴をお持ちでも、私たちにとっては最初から1つのことしか変わりません。今、この病院で先生のおかげで救われている命があります。それだけは、本当のことです」

その一言一言が、長年現場を見続けてきた者の重みを持っていた。俺は彼女に向かって、深く頭を下げた。

廊下側のドアが半分開いていた。そこに、片瀬瀬綾音と滝沢修平が並んで立っていた。片瀬はまっすぐに、俺を見ていた。あの夕方「何者ですか」と問うた目とは違う。答えを聞いた後の、静かな目だった。

「綾山先生、私はあなたの過去に驚いてはいません。ずっとそうではないかと思っていましたから。ただ、あなたがここを選んでくださったことに感謝しています」

滝沢は何も言わなかった。白衣の前を握りしめていた。

山の内はしばらく目を閉じていた。それから、深く息を吐いた。

「数の字だけを見ていた私が間違っていたとは言わん。だか、数の字に移らんものが、確かにこの病院にはあったというこどだな。東配案は取リ下げる。この提案を、前向きに検討したい」

理事の何人が、ゆっくりと頷いた。俺は壁際に戻り、もう一度左肩に軽く手を当てた。

理会の結果は、その日の夕方には院内に伝わった。看護師たちが小さな歓声を上げ、互いの肩を叩き合っていた。研修医たちは廊下で立ち話をし、笑顔を見せていた。医局の前を通ると、若い事務が涙目ながら電話で誰かに報告していた。

俺は外来診療を最期まで終え、白衣のまま廊下に出た。非常階段の踊り場で、滝沢が壁に寄りかかって立っていた。

「綾山先生、自分は何も知らずに先生に失礼な口をききました。本当に申し訳ありませんでした」

「滝沢先生、頭をあげてください」

「これから、教えていただけませんか? 先生から学びたいんです」

「教えるというより、一緒にやりましょう。私もまだ学ぶことばかりです」

滝沢はもう一度頭を下げて、階段を駆け下りていった。

廊下の途中で、片瀬綾音が待っていた。窓辺に立ち、夕日に半分顔を照らされている。

「綾山先生、お疲れ様でした」

「片瀬先生も。あなたがあの場で言ってくださった一言、ありがたかったです」

「私は本当のことを言っただけです。これから、隣で働かせていただきますね。先輩としてではなく、1人の医師として」

「ええ、こちらこそよろしくお願いします」

彼女は軽く会釈をして、去っていった。

俺は白衣のえりを両手でそっと整えた。

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