台所で夕食の支度をしていた時、夫から信じられない電話がかかってきた。「姉さんが今日からうちに泊まることになった。数日だけだから」。その日の夜、笑顔で上がり込んできた義姉は、私の祖母の遺品の花瓶を初日で割り、「物なんて壊れる時は壊れるもんじゃない」と笑った。それから始まった1ヶ月半は、私の我慢の限界を超えていた。おいの息子に渡の教科書を全部水浸しにされ、義姉は私の口座から生活費を湯水のように使…

台所で夕食の支度をしていた時、夫から信じられない電話がかかってきた。「姉さんが今日からうちに泊まることになった。数日だけだから」。その日の夜、笑顔で上がり込んできた義姉は、私の祖母の遺品の花瓶を初日で割り、「物なんて壊れる時は壊れるもんじゃない」と笑った。それから始まった1ヶ月半は、私の我慢の限界を超えていた。おいの息子に渡の教科書を全部水浸しにされ、義姉は私の口座から生活費を湯水のように使...

「話があります。はずさんと信吾君、明日の朝までにこの家を出て行ってください。たけしさん、あなたも明日のうちに荷物をまとめて出ていってください」

一瞬の沈黙。テレビの音だけが小さく流れ続けていた。

「はあ?正気?ここたけしの家でしょ。なんであんたが私たちに出ていけなんて言えるのよ」

「この家は私の単独名義です。あなた方に居住権はありません」

私はゆっくりと一枚目の書類をテーブルの中央に置いた。所有者欄に「東山信子」の文字だけが並ぶ登記簿のコピーだ。続けて二枚目、三枚目と並べていく。ローンの返済明細、実家の工務店からの振り込み履歴、保険証券、固定資産税の納税証明。

義姉の顔から見るみるうちに赤みが消えていく。夫の手に握られたリモコンがポトリと膝の上に落ちた。

その瞬間、テーブルの端から渡がすっと立ち上がった。10歳の息子は背筋を伸ばし、義姉をまっすぐ見つめていた。

「おばさん、この家はね、ママのおじいちゃんが建ててくれたんだよ。パパは何にもお金出してないよ」

義姉が怒鳴ろうとしたが、それより早く渡は続けた。「それにママがお金を貯金から出してくれてるから僕たちちゃんと生活できてるの。それがないとおばさんと信吾君までご飯食べさせられないんだよ」

義姉の唇が震え始めた。夫は見たこともないほど蒼白だった。

事の始まりは、あの兄嫁からの電話が来るまで遡る。

38歳の私、東山信子は不動産管理会社で事務職として働いている。担当は賃貸物件の契約管理や名義変更などの書類作業。相続で揉めている物件を見るたびに、家の名義という一枚の書類がいかに人の人生を縛るかを痛感してきた。

夫のたけしは都心の商社で営業職。息子の渡は小学4年生。都心から電車で30分ほどの住宅街にある二階建ての注文住宅で三人暮らしだ。

この家を建てたのは10年前、結婚した直後だった。土地と建物の名義は全て私の単独名義。実家の工務店が設計から施工まで担当し、父がローンの頭金も毎月の返済も実質的に負担し続けてくれている。父は言った。「この家はのぶ子の家だ。何があっても名義は変えるな」と。

たけしは結婚当初、この経緯に理解を示していた。「のぶ子の実家で立ててもらうんだから名義ものぶ子で構わないよ」と。けれど月日が重なるにつれ、彼はもはや家の名義が誰のものかなど気にも止めなくなった。自分の家だと思い込んでしまえば、それが当然の権利のように感じられるのだろう。

あの日もいつもと同じだった。仕事を終え、駅から家までの10分の道のりをゆっくり歩く。玄関を開けると、カレーの香りが漂ってきた。渡がエプロン姿で迎えてくれる。

「ママ、お帰り。カレーちゃんと温めたよ」

「ありがとう。助かった。お父さんはまだ?」

「うん。今日も残業だって」

渡は10歳ながら妙に大人びた気遣いのできる子に育っていた。本を読むのが好きで、私の家事を手伝うことを好む。感情をあまり表に出さず、家の中の空気をじっと観察しているような子だ。

食後、渡の宿題を見ていると、玄関のドアが開く音がした。

「ただいま」

「お帰りなさい。カレー温めるわね」

たけしは疲れた顔でソファーにどっかりと腰を下ろし、靴下を脱ぎ散らかしたままテレビをつける。鞄も玄関先に投げ出したままだ。私がいつもそれを黙で片付けるのが日常の光景になっていた。

「今日さ、姉さんから電話あったらしいんだよ。お袋に」

「はずさん、どうかしたの?」

「まあ色々あるみたいでさ。離婚してから姉さんも大変らしい」

義姉のはずが元夫と離婚したのは3年前のこと。小さな息子の信吾を連れて、しばらく実家に戻っていたと聞いていたが、詳しい近況は私には伝わってこなかった。義母と折り合いも悪くなっているらしいという気配は感じ取れた。

私と義母の関係も決して良好とは言えなかった。結婚して数年は挨拶に行っていたが、義母が私を「働いている嫁」と皮肉混じりに呼ぶようになってからは、訪問の頻度は年に1度あるかないかに減っていた。

だから、あの電話が来た時も、私はまだ何も想像していなかった。

数日後の金曜の夕方。仕事帰りの駅からの帰り道、珍しくたけしから着信が入った。

「あのさ、ちょっと相談っていうか報告なんだけど」

たけしがこういう切り出し方をする時は、私に都合の悪い話を持ちかける前の合図だ。

「今日の夜、姉さんがちょっとだけ家に来ることになったから」

「今日?何時頃?」

「もう出たらしい。あと30分で着くとか言ってた」

思わず足が止まった。横断歩道の信号が青になっても、私はしばらく歩き出せずに立ち尽くんでしまう。

「来るって泊まりに?」

「ああ。数日だけって言ってた。信吾連れてくるから、子供部屋の開いてるところちょっと貸してやってくんない?」

数日なら断固として拒絶する筋合いもない。たけしの実の姉であり、おいの信吾はまだ6歳の子供だ。「わかった。布団用意しとくわ」

電話を切ってから、私は慌てて駅前のスーパーに駆け込んだ。夕食の量を増やすため鶏肉と野莱を買い出し。6歳の男の子が好きそうな甘口カレーのルーとプリンを2つ。

買い物袋を両手に下げ、坂道を早足で登る間、胸のうちにじわじわと滲んで来たのは、数日前のたけしの一言だった。姉さんも大変らしい。あの時もっと踏み込んで話を聞いておけばよかったのだろうか。

インターホンが鳴ったのは、私が夕食の下ごしらえを終えてようやく和室に布団をセットし終えた頃だった。

玄関のドアを開けると、そこにはダンボール箱を3つ重ねて積んだ義姉と、その脇でゲーム機に視線を落とす信吾が立っていた。

「久しぶり。開けるの遅くない?外寒かったのにさ」

義姉の一番目の言葉で、私の頬にわずかに力が入る。結婚式以来片手で数えられるほどしか顔を合わせていない義姉が、まるで頻繁に付き合いのある親戚のような口ぶりで話しかけてくる。

「お久しぶりです。とにかく寒いので、どうぞ中へ」

「荷物そこに置いとくから、あんた運んでくれる?私もう腰が限界で」

返事を待たずに玄関口にダンボールを積み上げ、義姉はブーツを脱ぎ捨てるように廊下に上がり込んでくる。「お腹空いた。おばちゃんなんかないの?」

「もうすぐご飯できるから、ちょっと待っててね」

玄関のたたきには信吾の小さなスニーカーが左右バラバラに放り出されたまま。リビングに入り、信吾は棚の上に飾ってあった陶器の花瓶を無造作に両手で掴み取る。祖母の遺品として実家から譲り受けた淡い色の花瓶だ。

「信吾君、それは割れやすいから」

声をかけるのと、床に花瓶が落ちる音がするのはほとんど同時だった。鈍い衝撃音と共に、花瓶は玄関ホールの床の上で粉々に砕け散る。

「ああ、割れちゃった。古そうなやつ。まあ気にしないで。子供のすることだし」

「これは私の祖母の遺品なんです」

「あ、そう。ごめんね。でも物なんて壊れる時は壊れるもんじゃない」

カーディガンのポケットからスマートフォンを取り出しながら、義姉はあっさりと言い放ち、そのままソファーへと腰を沈めてしまった。割れた破片を拾い集めながら、私の指先はかすかに震えていた。

ちょうど破片を新聞紙に包み終えた頃、たけしが会社から帰宅する。「ただいま。あれ?姉さん、もうついてたの?」

「たけし遅いよ。のぶ子ちゃんに荷物全部運ばせちゃったじゃない」

気まずそうに私を一瞥するたけしに、あえて何も言わなかった。食卓に皿を並べながら、私はここ数日のうちに起きた一連の流れを頭の中で1つずつ整理していた。出し抜けの電話、返事を待たない訪問。割れた遺品、そして飛び交う上から目線の避難の声。

「ね、たけし聞いてよ。あの姑、私から信吾取り上げようとしてさ」

義姉はたけしの隣の席にさっさと座り込み、元夫との離婚後に起きた一族内の揉め事を大きな声で長々と語り始めた。元夫は会社経営者の息子で、離婚後の養育費は月8万円のはずが、3ヶ月も滞納されているらしい。

「もう本当、たけしのところ来て正解だったわ。のぶ子ちゃん、数日って言ったけど、によってはもう少しさせてもらうかも。いいよね」

この人たちを本当に止めていいのだろうか。胸の奥でまだ形にならない警鐘音が小さく鳴り始めいるのが自分でもはっきり分かった。

「数日だけ」がいつの間にか1週間となり、やがて2週間が過ぎていった。

義姉は最初の夜こそ多少は遠慮を見せていたが、2日3日と日が経つにつれ、遠慮という言葉そのものを忘れたように振る舞う。朝、私が家族全員分の朝食を用意し終える頃、寝癖の髪のまま寝巻き姿で起きてきて、あびをしながら注文を出す。

「のぶこちゃん、パン焦げてるわよ。もう1枚焼き直してくれる?」

食パンの焼き加減まで文句を言うくせに、自分でトースターのつまみに触れることは1度もない。信吾は朝早くから私たちの寝室のドアを勝手に開け、まだ眠っている私を揺り起こしてお腹が空いたと騒ぎ立てる。さらに渡の部屋に忍び込んでは引き出しを勝手に開け、大切にしていたミニカーやゲームカセットを引っ張り出し、遊びきったら床に放り投げることもあった。

「ママ、僕の図鑑が汚れちゃった」

帰宅した渡が泣きそうな顔で差し出したのは、数ヶ月前に誕生日プレゼントで送った昆虫図鑑だった。表紙の蝶の絵の上にクレヨンでめちゃくちゃな落書きがされている。ページをめくると、ちょうど渡が1番好きだったカブトムシの解説ページに絵の具で大きな丸がぐるぐると描かれ、紙の繊維が毛立っていた。渡の瞳がじわりと潤んでいる。言葉にならない怒りと悲しみがそこに滲んでいた。

「あら。信吾が書いちゃったの。まあ、子供なんてそんなものよ。また買ってあげればいいじゃない」

義姉の言い草に喉の奥で声が詰まる。また買えばいいと言われる度、私の財布から抜けていくお金と渡が失うものの重みとの見えない格差がじわじわと積み上がっていく。

家計簿を広げてみれば、1週間目の食費は通常の月の2倍近くに膨れ上がっていた。お米の減り方も異様だ。5キロの新米が普段の3分の1の日数で底をつき、炊飯機は朝と夜の2回、常に満杯で炊き続けるはめになっている。スーパーで特売品を選び、クーポンを握りしめて1円でも安く買おうと勤めてきた私の節約の努力が、この数週間で文字通り溶かされていった。

2週間目に入ると電気代もガス代も水道の使用料もこれまでの倍以上の数字を刻み始める。義姉は家事を一切しないばかりか、日中はエアコンをけっ放しでソファーに寝そべり、深夜までテレビを見続け、風呂は長風呂、洗濯物は毎日山のように出す。それらの負担を私1人が追っている現実を当たり前の顔で享受しているのだ。

「ねえのぶこちゃん。明日の晩唐揚げ作ってくれない?信吾大好物なの」

「わかりました」

頭を下げる私の背中で、義姉がテレビの音量を1段階上げる音がする。

夜、食器を洗いながら、私はソファーで携帯を握るたけしに声をかけた。「あなた、はずさんはいつまでここにいる予定なの?」

「え?ああ。もう少しくじゃないかな」

「もう2週間よ。食費も光熱費も全部うちが負担してるの。はずさんから1円も頂いてない」

「ああ、姉さんも今色々大変だから、俺たちが助けてやらないと。家族なんだし助け合いって大事だろう」

彼はテレビに視線を戻したまま、面倒を払い落とすように手をヒラヒラと振った。家族だから助け合う。言葉の上では何も間違っていない。けれど、片方が与え続け、もう片方が受け取り続ける関係は、すでに助け合いではないはずだ。

その日の夜、渡が自分の部屋に戻った後、私は1人キッチンに立ち尽くしていた。渡の怒りを正当に受け止めてくれる大人が、この家にはもう私しかいない。父親であるはずのたけしですら、おいがしでかすことに関しては、最初から「子供のすることで」と片付けようとする。渡にとってこの家が安心できる場所ではなくなりつつあることを、私は母親として誰よりも敏敢に感じ取っていた。

翌日、仕事の昼休みに、私は思切って親友の道に電話をかけた。道は小学校からの付き合いで、今は市內の司法書子事務所に務めている。彼女は数年前に離婚を経験していた。

「のぶ子、どうしたの?昼休みに電話なんて珍しい」

一通りの事情を説明すると、電話の向こうの声が1段低くなった。

「それ完全に居候老老の域を超えてるよ。立派な不法選挙に片足突っ込んでるレベル」

「不法選挙って…」

「そんな家の権利あなただよね。あなたが出て行ってくれといえば、あの人たちには居続ける権利はない。たけしさんにも実はないの」

彼女の言葉は、私の胸の真ん中に小さくて硬い何かをコツンと落とした。「でもね、それは最後の切札。使う前に記録はきちんと取っておきなさい。その人たちが何を言ったか、何をしたか、日付と時間を添えて」

電話を切ってから、私はしばらく弁当に手をつけられなかった。10年連れった夫を、まさか他人のように切離して考える日が来るなんて、自分でも信じられなかった。けれど、もう考えないわけにはいかない。義姉と信吾だけでなく、たけしもまた、何ひつ守ろとしない道類に見え始めていた。家族という言葉の意味が、私の中で音を立ててひび割れていく。

道の言葉が頭の中で繰り返される。「記録を取れ」という一言が、今の私にとって唯一の足場のように思えた。

翌日、私が出勤した後の午後のことだった。学校から帰ってきた渡がランセルをリビングの床に置いて、手を洗うために洗面所に向かった数分の隙に、それは起きた。

信吾がランドセルごと浴式に持ち込み、シャワーで水をかけて遊んだのだ。ず濡れになった教科書、水浸しのノート、よれよれに波打ったプリン類。明日の算数の宿題も国語のドリルも全てが原型をとめないほど濡れて、床に投げ出されている。

私が帰宅した瞬間に目にしたのは、自分の部屋の扉を閉めたまま声を殺して泣いている渡の背中だった。

「ごめんママ。ノート全ぶダメにした」

「あなたが謝ることじゃない」

渡の小さな肩はしゃくり上げるたびに小刻みに震えていた。日頃は感情を表に出さず、叱られてもじっと耐えるこの子が声をあげて泣くのは、おそらく幼稚園の頃以来のことだ。

「図鑑もランドセルも鉛筆も、全部おばさんの子のせいだよ」

「ごめんね。ママが守れなかった」

渡の頭を胸に引き寄せた瞬間、私の中で結婚以来どうにかして保ってきた我慢という糸が、音もなく断ち切れた。リビングに戻ると、義姉がソファーに寝そべってスマートフォンをいじっている。信吾はその横で渡のゲーム機を操作していた。

「はずさん、ちょっとお話があります」

「何?私今メッセージとこなんだけど」

「渡のランドセルと教科書が全て水浸しになっています。信吾君がやりました」

「え、そうなの?ま、子供なんてそんなもんだし、新しいの買ってあげればんじゃない?」

この態渡に怒りが溢れそうになったが、ぐっとこらえて冷静に話を続ける。「新しいのを買う買わないの問題じゃないんです。渡の気持ちの問題です」

「そんなこと言われてもどうすればいいわけ?弁償しろってこと?私はお金ないから無理よ」

義姉はスマートフオンから目を離さないまま、煩わしそうに口を動かすだけだ。信吾に「ごめんなさい」と言わせる素振りすらない。廊下の向こうで渡がまだ部屋から出てこないのが、私の胸を一層鋭く刺した。

その夜、たけしが帰宅してから、私はリビングのテーブルで家計簿と請求書の束を並べ、彼の正面にまっ直ぐ向き直った。

「はずさんに出ていっていただきたい。今週末までに」

「何言ってんだよ。姉さんも今必死なんだぞ。もう少くで職場も決まりそおだって言ってたし」

「2週間もう経ちました。職場が決まる決まらないの話は、最初からずっと同じです」

「お前、親族に冷たすぎるだろう」

たけしの口調にちらりと避難の色が刺す。「冷たいのはどちらですか?渡の教科書が水浸しになったのを、あなたは知っていますか?」

「…そうなのか」

「はずさんに聞いたら、子供のすることで終わりました。信吾君は謝っていません。はずさんもです」

たけしは口ごもったままテレビのリモコンに手を伸ばそおとしたが、その動作を私はそっと止めた。「あなたはいつまで逃げるつもりですか?」

「逃げてない。ただ姉さんも言った通リ、子供のやったことなんだし、家族のことなんだから、もう少く広い目で見ろよ」

家族。その言葉を、彼はどの口で使っているのだろう。私は深く息を吐いた。「わかりました。私の方で動きます」

その夜、寝室に戻ってから、私は久しぶりに実家に電話をかけた。

「のぶ子がどうした?こんな時間に」

実家の電話口から聞こえてきた父の声は普段と変わらず穏やかだった。しかし、私の要件を聞き終えた後、一呼吸を置いて芯の通った声色に変わった。

「あの家はお前の家だ。好きにしなさい。父さんは全面的に味方だ。登記も権利証の書類も、念のため全部こっちで再確認しておく。必要なら、いつでも家庭裁判所に出せるように整えておくからな」

「ありがとう、お父さん」

「この家は、のぶ子が1人でも渡と暮らしていけるように、父さんが立てた家なんだよ。最初からな」

父の言葉の中に、10年前、結婚式の控室で聞いた一言が蘇ってくる。「何があっても、お前が逃げ込める場所を1つ作っておいたからな」

あの時の父の真意を、私は今夜やっと胸の底から理解した。電話を切った後、私は受話器を握ったままの自分の手を見つめていた。指先はもう震えていない。決断という言葉の重みが、じわじわと私の背骨を支え始めていた。

翌日の土曜、午前中の仕事を早めに切り上げて、私は市内の商店街にある司法書士事務所を尋ねた。道が務めている事務所は、築40年の古いビルの2階にある小さな事務所だ。

道はちょうど週末の残務処理をしていたらしく、私が顔を出すと意外そうに目を丸くした後、すぐに奥の応接スペースに招き入れてくれた。

「どうしたの?昨日の今でなんか動いた?」

「動いたというより、全部動かす準備に入ることにした」

自賛した書類のファイルを、私はゆっくりとテーブルの上に広げた。家の登記簿、住宅ローンの返済明細、光熱費の請求書、家計簿のコピー。そしてここ数週間の食費と雑費の領収書。さらには、義姉がここ数週間で私に言い放った無礼な言葉を、日付と場所付きで記録したメモ帳も添える。

「うわ、ちゃんと記録してくれたね。司法書士に尽きるわ」

「あなたに言われたから、必死で書き出したの」

道は書類に一通と目を通すと、細い指でコツコツとテーブルを叩きながら実務的な顔で話し始めた。「まず第1に、この家の名義。完全にあなた単独。たけしさんの持分はゼロ。第2に、ローンも実質的にはあなたのお父さんの工務店が払てる。毎月の振り込り履歴もきちんと帳簿処りされてる。これもたけしさんの主帳は通らないし、財産分与の対象にもなりにくい」

彼女はさらには続ける。「第3に、はずさんと信吾君は、そもそもたけしさんの親族として暫定的に滞在してるだけ。あなたが退去通告を出せば、法的には出ていく義務が発生する」

「でも、居続ける可能性が高いと思うの。これまでの義姉の態渡を見ていれば、その可能性は十分考えられる」

しかし道はすぐに方法を教えてくれた。「それでも居続けられたら、建物明け渡し請求の訴診って手段が残ってる。そこまでは多分いかないと思おけどね。相手がどんなにずうぶくても、家の持ち主のあなたが本気で法的手段をちらつかせたら、普通は逃げ出す」

「夫は…たけしさんは?」

「たけしさんは婚姻関係があるから、すぐに追い出すのは難しい。ただし離婚を前提に別居を求めることはできる。家を出るのはたけしさんの方。姉と甥を勝手に連れ込んで妻の生活環境を著しく悪化させたのは、立派な理由になる」

書類を1枚ずつ丁寧に戻しながら、道は最後に低い声で言った。「のぶ子、ここまで準備できてるなら、勝負は半分終わってるよ。あとはあなたが踏み出すかどおかだけ」

事務所の窓から差し込む午後の光が、机の上のファイルの表紙を白く照らしていた。踏み出す。渡のために。そして、自分のために。

「了解。うちの先生にも話しておく。弁護士の紹介も、必要なら信頼できる人を」

事務所を出て商店街を歩きながら、私は久しぶりに自分の足取りが軽くなっていることに気づいた。1人で抱え込んでいた重さを、確かに誰かと半分ずつ持ち合えたような。そんな感覚だった。

義姉が我が家に転がり込んでから30日目の夜のことだった。その日の夕食は、渡の好物のハンバーグとかぼちゃの煮付け、具だくさんの野菜スープ。食卓を囲んだのは、私、たけし、渡、義姉、そして信吾の5人。

30日という区切りを、誰も最後まで自分たちの都合のいい方へしか使わなかった。最初の「数日だけ」はいつの間にか1週間に変わり、やがて「当分の間」へとずるずると言い換えられていった。

私はその夜、家族全員が揃て食後の食器を下げた頃合いを見計って、リビングのテーブルの前座り直した。手元には1ヶ月分の家計簿と、義姉が滞在を始めてから膨れ上がった光熱費の請求書、食費のレシートの束、そして見積もり書数枚を重ねてある。30日かけて積み上がった、紛れもない数字の山だ。

ソファーでテレビを見ているたけしと、信吾と並んでスマートフォンのゲームをしている義姉に向かって、私は落ち着いた声で切り出した。

「はずさん、少しお話いいですか?」

「何?改まって怖いわね」

笑いながら肩を上げた義姉に、私は家計簿のページを開いて見せた。「今日ではずさんがこの家にいらしてちょうど30日になります。この1ヶ月分の食費、光熱費、水道、ガス、この家で追加で発生した費用の合計です。生活費としていくらか負担していただけませんか」

私の声は自分でも意外なほど落ち着いていた。1ヶ月の間、頭の中で何ども何ども練習した問いかけだ。

数秒の沈黙の後、義姉は大げさに広角を上げた。「なんでそんなに怒ってんの?家族だし問題ないだろう」

ソファーからのっそりと顔を上げて言うたけしに、さらに背を押されたかのように義姉はまくしたてた。「ていうか、私、のぶ子ちゃんちに上がり込む前にちゃんとたけしに確認してもらってるのよ。たけしがいいって言ったんだから、私、止まらせてもらう権利あるでしょ」

「そうそう。なんでそんな細かいこと書類みたいに並べてんだよ。姉さんだって好きでそうしてるわげじゃないんだし。もう少く気い使ってやれ」

2人は顔を見合わせて笑みを浮かべた。食卓の片付けを手伝っていた渡が、台所の入り口で手に持った茶碗を強く握りしめているのが視界のかしに移る。

「わかりました」

私は家計簿と請求書の束を音も立てずに1枚1枚閉じ、脇に重ねた。

「そうよ。そうやって力抜いてくれればいいの。のぶこちゃん真面目すぎるのよね。私この家結構気に入ってるし、あと半年くらいはお世話になるかも」

義姉は無邪気に笑いながら、信吾に「ちゃんとお行儀よくしなきゃだめよ。のぶ子ちゃんに迷惑でしょ」と口先だけの注意を飛ばす。信吾はテーブルの下でリモコンを足で蹴り飛ばしながら生返事を1つ返しただけだった。たけしはそれきり興味を失ったのか、バラエティ番組に視線を戻し笑い声を立て始めている。

私は黙って席を立ち、台所に戻った。シンクに残った皿を洗う手元は、一見すると先ほどまでと変わらない。けれど私の中では何かが完全に切り替わっていた。表面の水は穏やかでも、その底で私はこの人たちとの話し合いという選択肢を永久にゴミ箱へ捨てたのだ。話して分かる相手ではない。道が電話口で口にした言葉が、改めて私の中で強い現実感を持って響き始めていた。

蛇口を閉めた瞬間、私は心の中で1つ決めていた。決戦の舞台は必ず私が選ぶ。

その夜、渡を寝かしつけた後、私は寝室の机に座り、引き出しの奥から薄い黒皮の手帳を取り出した。この1ヶ月、思いついた出来事や言われた言葉を、まごまごとこの手帳にひそひそと書き留めてきたのだ。

「3日目の夜、午後7時頃、はずさんが私の化粧ポーチを勝手に開け、口紅を無断使用。汚れて戻される」
「8日午後5時、信吾が渡の図鑑にクレヨンで落書き。謝罪なし」
「12日午前9時、はずさんが『弟の家なんだから嫁の私物も家族のもの』と発言」

淡々と並んだ文字の列が、紙の上では冷たい事実になっていた。

翌日からの私はより一歩踏み込んで記録を残すことに決めた。仕事の帰りに家電量販店で小さなICレコーダーを購入する。胸ポケットに入る銀色のそれは、ボタン1つで数時間分の音声を録音できる。もちろんスマートフォンの録音機能も併用できるが、うっかり画面を覗かれるリスクは潰しておきたかった。

録音を仕込んだ翌日の夕方。義姉は案の定、私の帰宅直後にキッチンに立ち、耳を疑うような要求を始めた。

「ねえ、のぶ子ちゃん、この家、私の名義にしちゃわない?どうせたけしの家でしょ。たけしと私兄弟なんだから同じようなもんじゃない。うちの信吾、あんたんとこの渡よりずっと将来性あると思うのよね。この家信吾に譲る方向で考えてくれない?」

「申し訳ないですけど、それはできません」

「うそ。シングルで財産もない義の姉に向ける優しさってものが、あんたにはないの?いいわ。どうせあんたがこの世からいなくなったら信吾に回ってくるんだから。その時が楽しみだわ」

義姉は自分でも何を言っているのかよく分かっていない様子で、勝手に私が炊いた白米を茶碗に盛っていた。私は台所の棚の影で、胸ポケットのレコーダーの録音ランプが小さく光っているのを指で確かめる。この一言だけで家庭裁判所に提出できる証拠材料が、また1つ増えた。

それから数日後、事件はさらに私の神経を逆なでる形で起きる。ある朝、出勤前に私が寝室のクローゼットを開けた時、違和感が駆け抜けた。数日前まで1番奥にかけてあった仕事用の紺色のジャケットが見当たららない。代わりにハンガーには私の愛用している薄手のブラウスがだらしなく引っ掛けられ、裾が畳の上まで垂れている。

その日の夕方、帰宅した私の目の前に、義姉は堂々と私のジャケットを羽織り、近所のコンビニから戻ってきた。「これちょうどいいサイズね。のぶこちゃんセンスいいじゃない」

襟元には義姉が使っている香氷のきつい香りが染みつき、袖口には口紅とおぼしき赤いシミが筋を引いていた。「それ、私の仕事用のジャケットです」

「え、借りちゃダメだったの?こんなの誰のものでも良くない?家族のものは共有でしょう」

「汚れがついてます」

「クリーニング代くらい、あんたは出世して稼いでるんだから余裕でしょ」

以前の私なら彼女の言葉に涙が滲んでいたかもしれない。けれど今はもう違った。胸ポケットのレコーダーのランプが冷静に赤くともっているのが背中を押す。私は無言でジャケットを受け取り、袋に入れてそのまま玄関に置いた。その夜、私はジャケットをクリーニング屋に持ち込んだ。そして領収書の写真をスマートフォンで撮影し、道に画像で送る。道からの返信は短い。

「証拠として完璧。このペースで続けて」

翌週。事件は私の敷地の外にまで及ぶ。休日の午後、信吾がリビングから勝手に持ち出したサッカーボールを庭で蹴り上げて遊んでいた最中のこと。二階の窓ガラスに鈍い衝撃音と共にボールが激突し、ガラスの破片がバラバラと敷地の外に落ちていく。二階の窓は角地のため通行人からも見える位置にあり、歩いていた通行人の上に破片が降ってこなかったのは本当に幸運でしかなかった。

「信吾君、大丈夫?怪我してない?」

「してない。ボール隣のおばさんの家んとこ落ちた」

義姉はソファーから立ち上がろうともせず、顔だけを上げた。「のぶこちゃん、ご近所付き合い上手だから適当に謝っといてよ。子供のやることに大人がいちいち目くじら立てることもないしね」

私は隣家のインターホンを押し、頭を深く下げて事情を説明した。幸い、隣家の奥様は長年のご近所付き合いから「お怪我がなくて何よリですよ」と優しく応じてくださった。それでも私は、ガラスの交換費用として4万2000円の見積もりを即座に受け取った。

領収書を握りしめて帰宅した私に、義姉はスマートフオンから目も離さず言い放つ。「ああ、払たの?偉いわね。まあ、私は今お金ないから」

私は答えずに、領収書と修り見積もり書を証拠ファイルに黙って追かした。たけしにこの話をしようとしたが、彼はソファーでうとうとしながら「まあ子供だしな」とだけ漏らし、そのまま寝入り始めた。姉のしたことにも甥のしたことにも、彼はもう何も言わない。言わないのではなく、言わないことによって常に姉の見方をしている。その事実が、私の胸に重い重リのように沈み込んでいった。

夜、お風呂上がりの渡が、私のいる寝室の扉を小さくノックした。「ママ、ちょっといい?」

私が手招くと、パジャマ姿の渡は布団の橋にちょこんと腰を下ろし、両手を膝の上で重ねた。「ママ、最近すごく疲れてるね。学校から帰ってきてママの顔見ると、目の下毎日まっ黒になってる」

10歳の子供の視線は、思った以上に正確に母親の輪郭を捉えていた。

「大丈ふよ。心配しないで。ちょっと仕事が忙しいだけ」

渡は首を横に振り、私をまっすぐ見つめてきた。「おばさんとパパのせいでしょう」

そう言って渡は窓の外の暗闇をぼんやりと眺めた。「僕、学校で漢字テスト100点だったのに、ママに見せるの忘れてた。ランドセル水び出しにされたから、結局100点の紙ふにゃふにゃになっちゃった」

声を震わせずに、渡は淡々と言葉を紡いだ。「ママ、僕ちゃんと見てるからね。ママが頑張ってること全部」

私は渡の小さな手をそっと自分の両手で包み込んだ。「ママ、おばさんと信吾君いつ帰るの?」

「もうすぐ。もう少しで片付けるから」

渡は黙って頷き、自分の部屋に戻っていった。扉が閉まる音を聞きながら、私は胸の真ん中でもう一度小さく誓い直した。この子のために、私は絶対に引かない。

毎週、私は仕事の昼休みに実家の母に電話を入れた。「大丈夫かい?お父さんから話は全ぶ聞いてるよ」

「お母さん、お父さんに家のことで考えがあって、道夫にはもう相談してて、弁護士頼もうと思ってるの」

「もうそこまで考えてるの?偉いね」

「考えなきゃ守れないから」

「お父さんね、昨日も寝る前に行ってたよ。『のぶ子はこの家の土地も建物も1人で背負っていける子なんだって。自分の選んだ道を行きなさい』って」

実家の母の声は、受話器越しでも温かかった。若い頃、母は父の後ろに一歩下がって生きてきた人だった。その母が、今、娘の私に対して自分の道を選べと背中を押してくれている。ありがとう。渡のためにも、ちゃんとやる。

昼休みの最後の時間、私は事務所の机の上で登記簿を1枚改めて開いた。「所有者 東山信子」の文字が鮮明に紙面に並んでいる。所有者欄に、たけしの名前は一切載っていない。ローンの毎月の支払い記録も、結婚以来ずっと父から定期的に振り込まれていることは、家計簿上も通帳上も明らかだった。この家は私と、そして私を支えてきてくれた実家のものだ。たけしが寝転んできた今の空気までを含めても、彼には1パーセントの持分もない。

その日の夕方、私は駅ビルの文具店により、A4サイズのクリアファイルを追加で3冊購入した。1冊は家計記録、1冊は言動記録、もう1冊は物的証拠。分類のラベルを貼ったそれぞれのファイルに、私はこの1ヶ月で集めた資料を時系列に沿って整理して挟み直していった。

翌週の土曜、私は仕事の合間を縫って実家へ直接顔を出した。父の工務店は駅前の商店街から1本入った路地の奥にあり、築50年の古い木造事務所が現役のまま使われている。父は事務所の奥の応接まで私が自賛した書類の束を丁寧に1枚ずつ確認してくれた。

「うむ、問題ない。権利証もうちの金庫にちゃんと保管してある。ローンの返済明細も毎月の振り込み履歴もうちで全部抑えてあるから、必要なら何十年分でも出せる。のぶ子、お前がいいと決めたなら、父さんは明日からでも弁護士にすぐ繋ぐ」

事務所の机の上には、私が幼い頃からよく覚えている古い黒い電話機が鎮座している。その横に置かれた緑茶の湯呑みからは、湯気が細く立ち上っていた。

「お父さん、離婚届けもうもらってきた」

父は短く息をつき、覚悟を受け止める目で私を見つめ返した。「母さんと2人で話したんだが、お前と渡る、しばらくうちで暮らすか、それともあの家に残るか、どちらでも選べるようにしてやる」

「あの家に残りたい。お父さんが立ててくれた家だもの」

「好きにしなさい。うちは盾にもなれるし、刃にもなれる」

短い言葉だったが、父の決意がずしんと伝わってきた。実家の門を出る時、母が神袋いっぱいの手作りの惣物を持たせてくれた。「渡るの分も入ってるから、2人で食べなさい」

母の声が夕暮れの商店街のざわめきに柔らかく溶けていく。

事件の波は、私の職場にまで伝わり始めていた。月曜日の午前中、同じ課の後輩が喫所室で私を呼び止め、最近顔色が悪いと心配してくれた。上司の遠藤課長も気にかけていたと小声で伝えられる。

「ちょっと家族のことで少しくね」

後輩は無理をしないよう念し、業務の負担を一部引受けると申し出てくれた。事務所の人間関系には恵まれていることを、この瞬間ほど噛しめたことはない。遠藤課長は午後、私を会議室に呼び、もし必要なら有休や半休を遠慮なく使っていいとだけ短く声をかけてくれた。

「ありがとうございます。もう少くで肩がつく予定です」

その会話の最中も、私の頭の中では家のリビングで繰り広げられている義姉の図々しい振る舞いがまざまざと浮んでいた。義姉はこの1ヶ月の間に通販サイトを勝手に使いたおし、私の名前で大量の荷物を取り寄せていた。届いたダンボールの山の中身は、ブランドもの化粧品、流行の洋服、子供用のおもちゃ、高級なスイーツ。支払いは代金引き換え。受け取り人のサインは「東山」でどうにでもなる状況で、配達業者は私が帰宅するずっと前に義姉から代金を受け取って帰っていた。

問題は、その代金の出所だ。初日こそ義姉は自分の財布から金を出していたものの、2週目以降、私の財布から抜き取った千円札や、机に置いてあった小銭の入れ物の効果が少しくずつ減っていることに気づいていた。

「はずさん、私の財布触りました」

「え、私、人のもの取ったりなんかしないわよ。失礼ね。大体千円や2千円くら家族の間でめくじら立てるもんじゃないでしょう」

これもレコーダーにきちんと納めた。私は毎日、その日の現金の残高とレシート、財布の写真を撮影し続けた。家中に小さなセンサーのような目を張り巡らせているような、奇妙な感覚がある。

道から紹介された弁護士事務所との初回面談の日程調整の連絡が届いたのは、義姉の到着から38日目のことだった。弁護士は、道の事務所の取引先である森法律事務所の、離婚と家族問題を専門にしている森弁護士。電話口で簡単な経緯を伝えた段階で、先方からは「珍しくない事例だが、ここまで証拠が揃っているケースも珍しい」という高い評価をもらえた。居住権の問題、生活費の問題、物の問題。これだけ明確であれば、裁判になっても早期決着が見込めるとの見立てだという。

退去通告書は先方の事務所で内容証明の形式に整えて発送する運びとなり、離婚届の件は別途で進める方針で固める。必要ならば夫との協議の場にも同席するとの申し出もいただき、私は受話器を握りしめたまま深く頭を下げた。電話を切った後、私はスマートフオンを机の上に置き、長く息をついた。全てが少しくずつ私の手のひらに収まり始めている。

その夜、渡を寝かしつけた後、私は寝室の鏡の前座り、鏡の中の自分をしばらく見つめた。38歳、結婚して10年、母となって渡を育てる日々の中で、鏡の中の自分は決まって少しく俯き加減で、口角は薄く下がっていた。けれど今夜の自分の顔は、いつもよりほんの少しくだけ顎が上っている。鏡の奥から、10年ぶりにやっと私自身の目が、私を見返してくれた気がした。

決戦の夜はもう数週間のうちにやってくる。私の中で全ての準備が着実に整い始めていた。私は証拠ファイルを鍵つきの引き出しにしまい、その上に自分の結婚指輪をこりと置いた。

義姉の滞在が1ヶ月を過ぎた頃、私はひそかに兵粮攻めの第1手を指した。これまで我が家の生括費は、それぞれ自分の貯蓄分を差し引いた給料を夫婦の共開口座に入れ、そこから光熱費や食費が引き落とされる仕組みになっていた。ただしそれだけでは毎月わずかに不足する分を、私が自分の個人口座からこっそりと補填してきたのが、結婚10年間の実態だ。家計簿を付き合わらせれば、その補填額は年間で平均80万円ほど。10年間で800万円以上を、私の個人口座から家族のために溶かしてきた計算になる。

父にその話を改めて伝えた時、受話器の向こうで彼はしばらく黙り込んでから言った。「のぶ子、それは家族のためじゃない。あの連中の大満のためにお前の未来を差し出してきたんだ。今日から1円も入れるな。お前の預金は渡のために置いておきなさい」

私はその晩、銀行のインターネットバンキングから、個人口座から共開口座への定時振り込りを全て解除した。

数日後、たけしは給与明細と通帳を眺めながらリビングで大さなため息をついた。「のぶ子、共同口座の残りなくなってきてるぞ。今までお前が補填してくれてたよな」

「ええ、これからはそれはなしでお願いします」

「はあ?待てよ。急にそんなこと言われても困るだろう」

「だから、はずさんと信吾君に出ていただくか、それともあなた自身のお小遣いを削るか、どちらか選んでください」

「いや、なんで今までのやり方を変える必要があるんだよ」

「今まで通りなら、私ばかりが減り続けて、それを誰も見ていない。そういう関係はもう続けません」

たけしは口を半ば半開きにしたまま数秒目を泳がせた。それから我に帰ったように口を開く。「ちょっと待ってくれ。姉さんとも相談して対応する」

彼はそう言い残し、自分の書斎にこもった。しばらくして書斎の中から義姉を呼ぶ声がかすかに聞こえた。義姉が入っていくと、扉の向こうから低い話し声が長々と続いた。結論だけは、開けられた扉から姿を現したたけしの顔に全て書かれている。

「姉さんも、もう少しで決まる話があるらしいから、それまではこのままで」

姉を追い出すという選択肢は、彼の中に存在しなかった。その夜、寝室に戻る私の背中に、父から携帯電話に短い着信が入った。「今日、道夫に紹介してもらった税理士と弁護士に正式に依頼したからな。あの家の権利関系、明日から書面で全ぶ抑える。お前が動いた時には、もう家の外堀りは埋まっているから安心しなさい」

電話を切った私は、音も立てずに寝室のカーテン閉めた。この戦いに勝つのは、兵糧の蛇口を絞ったこちら側だ。相手の船は、ゆっくりと水没を始めている。

週明け、たけしは出勤前に私を呼び止め、難しい顔で切り出した。「のぶ子、今月、食費だけでどれくらい使った?」

「30万円を超えたところです。義姉と信吾さんが来てから、月3倍です」

「30万?そんなに?冗談じゃないぞ」

「家計簿全ぶ見せますよ」

私はテーブルの上に1ヶ月半分のレシートと家計簿を広げて見せた。たけしは数字を見ながなら明らかに顔色を失っていく。「これじゃ全然足りないな」

「ええ、もう今月分は共開口座から光熱費の引き落としも危うい状況です」

「どうすんだよこれ」

「私ではなく、あなたがどうするかです。この家の家計はどなたでしたっけ」

言葉を失った義姉は玄関に向かおうとしたが、その足は途中で止まった。「姉さんに少しは生活費入れてもらうように言ってみる」

「はい、お願いします」

たけしがリビングに戻ると、ソファーから義姉がすかさず顔を上げた。「何よ。朝からこそこそ、のぶ子ちゃんたけしに変な告げ口でもしてんの?」

「姉さん、悪いんだけどさ。生括費ちょっとでいから入れてくんないか?」

「は?私、子持ちのシンぐルだよ。どこにそんなお金あるの?養育費滞納されてるって言ったよね」

義姉はたけしを睨みつけて言い放った。「でもさ、うちも結構きつくなってきて」

「あんた妻の尻に敷かれすぎ。しっかりしなさいよ」

ソファーに大きく伸びをした義姉は、あくび混じりに吐き捨て、チャンネルをバラエティに変えた。たけしはそれ以上押し返す言葉を持たず、力無げに玄関へ向かう。その背中をキッチンから見送りながら、私は心の中でゆっくりとカウントを始めていた。あとどれくらいで、この家は耐えられなくなるのか。

数日後、案の定、ガスの検針のお知らせが郵便受けに届いていた。使用量、前月比2. 1倍。水道も電気も、倍の数字が並んでいる。たけしは仕事から帰ってくるたび、請求書の封筒を裏返したり計算機を叩いたりしていたが、私は手を貸さず、ただ家計簿を黙々と更新し続けていた。

父の動きも着実に進んでいる。実家からは10年分の振り込り履歴が全て正式な書面として出力され、住宅ローンの返済原資の出所が完全に裏付げられた形になった。弁護士の先生からは、退去通告書の分案が、内容の形でいつでも発送できるように準備されているとの連絡が入った。ただし、今はまだ送らない。決戦の場で全ての札を一気に切ることが、この戦いの勝負どころだ。

家計の蛇口が閉まり、たけしの顔色が青ざめ始めた週の週末。義姉が思いがけない行動に出た。朝の9時過ぎ、私がまだパジャマのまま洗濯機を回している最中、義姉はキッチンの電話機の受話器を手に取り、臆することなく番号を押し始めた。

「もしもし。のぶ子ちゃんのお父さんですか?私、たけしの姉の黒沢はずです」

私は洗濯機の蓋をそっと閉じ、廊下の影から息を殺して耳を済ませた。

「あのね、お父さん、率直に行っちゃうと、のぶ子ちゃん最近ちょっと冷たくてさ。私シングルで大変なのに生活費請求されたり出ていけって言われたり。たけしがあなたの娘さんに頭上がんないみたいで困ってるのよ。1人娘にちょっと言って聞かせてくれない?家族なんだから助け合いでしょ」

電話の向こうから、父の低い声が漏れ聞こえてきた。普段より1段低く、怒りに近い響きだ。「お言葉ですが、あの家は娘の単独名義で、ローンは私が負担しております。娘の家のことに、親族とはいえ口を出されるのは筋違いでしょう。それともう2度とこの番号にかけてこないでください」

父の言葉は短かったが決定的だった。義姉は受話器を握ったまま、しばらく呆然と口を開けていたが、やがてその顔が真っ赤に染まっていった。「ちょっと待ってよ。どういうことよ。たけし、出てきなさい」

書斎で寝転がっていたたけしが、寝巻きのまま慌てて居間に出てくる。「姉さん、急にどうした?」

「あんた、あの家、のぶ子ちゃんの単独名義って知ってたの?」

「え?えっと、確か結婚した時に名義はそうなってたけど」

「自分の家でもないとこで10年も寝起きしてたの?バカじゃない?男として恥ずかしくないの?」

兄弟の大喧嘩が始まった。私はそれを洗濯機の前で聞きながら、手元の洗濯物を丁寧にネットに入れていった。記録は、胸ポケットのレコーダーが色あせずに拾ってくれている。

義姉の怒りは、その日を境に急激に形を変えた。翌朝、出勤前の私が洗面所でシャンプーを使おうとすると、普段と違うサラサラとした感触が指先に伝わった。ボトルの中身を手のひらに出してみると、色が明らかに薄く、水で半分近くまで薄められている。化粧ポーチの中身も、口紅はキャップが閉まっておらず、ファンデーションのスポンジには誰かの油が付着していた。洗面台の鏡の裏の収納を開けた時、私は思わず息を飲んだ。買ったばかりの高級な美溶液が、キャップが開いたまま流し台の縁に放り置かれている。中身は半分以上が流れ出て、瓶の底に少しくしか残っていなかった。

「あら、私お化粧直ししただけよ。家族なら化粧品くら共有でしょ」

リビングに出てきた義姉は、何くわぬ顔でそう言い放った。さらに数日後、渡のランセルを確認すると、教科書の間に義姉のものとおぼしき髪の毛が無数に挟み込まれている。筆箱の中の鉛筆は全て芯が折れており、消しゴムは誰かの歯かがついて半分にちぎられていた。

「ママ、これ僕じゃないよ」

「うん、分かってる。信吾君がやったんだよね」

「違う。おばさんが僕の部屋に入ってるの見たよ」

渡の言葉を私は黙て受げ止め、家計記録のファイルに日付と状況を淡々と書ぎ加えていった。たけしもさすがにこの辺りから義姉の行動に顔をしかめるようになった。

「姉さん、少しくやリすぎないか?」

「うるさいはね。あんた妻の味方してないで姉の味方しなさいよ」

「いや、でも渡の勉強道具に嫌がらせとか、そういうのは…」

「あんた私と信吾を追い出しき母さんに言い付けるよ。あんたがこんな女に騙されてるって」

たけしはそれきり黙り込み、義姉の背中を止めることはできなかった。職場でも異変は少しくずつ表目に出始めていた。仕事中、私が請求書の計算でふと手を止めていると、後輩が気遣わしげに声をかけてきた。顔色の悪さを本気で心配され、病院行きを勧められるほどだったのだ。

「ありがとう。もう少しだけ頑張るね」

遠藤課長も、車内の廊下で私とすれ違うたびに「無理はするな」と肩を叩いてくれる。ある日の夕方、義姉は信吾を連れて近所の英語教室の先生と立ち話をしてきたらしく、帰宅するなり私にとんでもない要求を突き付けた。

「のぶ子ちゃん、信吾の習い事の費用、あんた出して。私払えないし。信吾は大1だからおとして当然でしょう」

「申し訳ないですが、信吾君の養育費はずさんのご責任です」

「はあ?子供のためでしょ。冷たい人ね。信吾こっち来なさい。おばさん、私たちを助けてくれないんだって」

「信吾君はあなたの子供です。はずさんが元ご主人から養育費を請求する手続きをなさるべきかと」

「本当に冷たい女ね。たけし、あんたこの女と結婚してて平気なの?」

たけしは視線を床に落とし、姉の目と私の目の間で小刻みに視線を泳がせるだけだ。「夫が何と言おうと、私は払いません。それが最終回答です」

「のぶ子ちゃん、あんた後悔するよ。覚悟しときなさい」

義姉が捨て台詞を吐いて寝室に戻っていくのを、私は黙て見送った。数日後、義母から、結婚以来ほぼかかってこなかった電話が私の携帯に入った。

「のぶ子ちゃん、あなた、姉さんを追い出そうとしてるんですって。そんなのおかしいわ。たけしだって、姉妹で助け合うのが当たり前だと思ってるはずよ」

「お母さん、恐縮ですが、この家の名義は私の単独です。はずさんのご滞在に関しては、こちらの家庭の判段で決めさせていただきます。失礼します」

私は通話を淡々と切り、携帯の着信履歴に義母の番号からの記録が残ったのを確認してから、着信拒否の設定に切り替えた。義母は、私の知る限り、初日から1度も私の味方になったことのない人だ。今更この流れの中で最大の味方になる可能性は、ゼロに等しい。

家の中の嫌がらせも一段と悪質になっていった。ある朝、洗濯機を開けると、私の仕事用のブラウスの襟元に、ハサミで入れられたような小さな切り込みが入っていた。キッチンの冷蔵庫の奥を確認すると、賞味期限の短い豆腐やヨーグルトが勝手に一番奥に押し込まれて、すっかり変色している。家計簿とは別のノートに、私はこれらも1つずつ書き留めていった。

渡も学校で影響を受け始めていた。ある日、帰ってきた渡の靴のかかとに泥がつき、体育袋に教科書がぐちゃぐちゃに押し込まれている。「クラスの子が、僕のことを『家がぐちゃぐちゃな子』って言ったんだ。おばさんがうちの近所で愚痴ってるのを聞いた子がいるみたい」

「ごめんね、渡」

「うん。ママ、大丈夫。僕ちゃんと頑張れる」

渡の言葉を聞きながら、私はもう我慢させないと心の中で強く誓い直した。たけしも家の中で居場所を失っていった。「この空気、俺も辛いんだよ。姉さんも反省はしてると思うし。来月の頭くらいに職場が決まれば自然と出ていくから、もう少しだけ」

「来月の頭はもう3週間以上先ですよ。あなたには先週、期限を1週間と言いました。あと5日です」

「わかった。姉さんにもう1度強く言うよ」

たけしは書斎から姉の部屋へと向かい、その日も小さな言争が始まった。結局あんた母さんに言い付けるよの一言で、姉の前に頭を下げて退散するのが落ちだ。

道に返事をして弁護士事務所との打ち合わも進んでいた。昼休みを利用して道に電話をかけると、道は弁護士側の見解を丁寧に説明してくれた。

「結論から言うと、この件、法的にはあんたが圧倒的に有利ってのが先生の見立て。ただ、はずさんが居続けた場合、法的手段の執行に多少時間がかるらしい」

そこで彼女は小さくため息をつき、さらには続けた。「退去通告を出しても応じない場合は、建物明け渡し請求の仮処分を申し立てる。早ければ1ヶ月、遅くとも3ヶ月で強制執行まで持ち込めるって」

「たけしさんについては?」

「別途で協議離婚。不正率ならそのまま進むわ。夫は財産分与を主張してくる可能性はある。いくら私名義のものでも、婚姻期間に築いた財産と見なされれば、あの家が取り上げられてしまうのでは。という不安があった。でもその不安を、道はすぐに取り去ってくれた。」

「先生曰く、ほぼ通らないって。家の名義とローンの返済原資、両方揃ってるから。たけしさんの実質的貢献は0に近い。むしろ、家計上、あんたの個人口座から補填してた分を逆に請求できる可能性もあるって」

その回答に親速安心し、胸を撫で下ろした。そして、家が確実に手に残るなら、後はどうするかは決まっていた。「それはしなくていい。綺麗に切れるなら、それで」

「了解。先生にもそう伝えとく」

仕事の帰り道、2人で商店街のカフェに立ち寄り、温かいココアを注文した。「あんた、本当に強くなったね」

「強くなんかないよ。ただ、もう逃げないと決めただけ」

「それが強さだよ、のぶ子」

カフェの窓ガラスに映る自分の姿は、ずっと忘れていたように背筋が伸びていた。カップを両手で包み込むと、ココアの温かさが冷えていた指先にゆっくりと染み込んでくる。道は「もう大丈夫。最後まで付き合うから」と、低く優しい声で笑った。

その夜、道から携帯に着信が入った。「のぶ子先生から連絡来た。退局通告書、準備完了だって。発送のタイミングはのぶ子の指示待ちの状怳。いつでも打てる。もう1つ、森先生から提案があって、内容証明と一緒に、離婚協議の申入れ書も同時に発送するっていう手があるって」

「たけしにも同時に手を打つってこと?」

「そう。義姉に対する退去通告と、夫に対する離婚協議の申入れ書。別々の封筒で同じ日に届ける。効果は絶大だって」

受話器を握る手に、少しだけ力が入った。「分かった。発送日は、もう一度父と相談してから決める」

電話を切った後、私はたけしの書斎の扉を久しぶりにノックした。「どうした?急に」

「今、あなたにはっきり言っておきます。このままの状態が続くなら、私は離婚も視野に入れています」

「何言ってんだよ」

たけしは驚いて目を見開いた。「いきなりではありません。はずさんが来てから1ヶ月半、私は何度もあなたに助けを求めました。あなたは1度も私のそばに立ってくれなかった。それを、私は忘れません」

「お前…そこまで言わなくても」

「私はいつでもこの手を押せる準備をしています。あなたが姉と信吾さんをこの家から出してくださるなら、離婚はしません。ですが、期限はあと1週間です」

「1週間?そんな急に」

カレンダーを確認し驚くたけしに、私は言い放った。「1ヶ月半待ちました。もうこれ以上は1日も待ちません」

部屋を出る時、たけしの顔が真っ青になっているのが目の端に移った。私は深呼吸を1つして寝室の扉を閉め、父に電話をかけた。受話器の向こうの父は、私の決意を聞き終えた後、低くしかし暖かい声で答える。「分かった。来週の月曜日、朝一で、内容証明と離婚協議申入れ書を同時に発送する手配を弁護士事務所に頼んでおく。その日がお前の新しい人生の始まりだ」

寝室の窓から見える秋の夜空には、細い三日月が澄み切って浮かんでいた。兵糧攻めの次は、正面からの最終通告。私の戦いは、ようやく山場の手前に差しかかろうとしていた。

事件が起きたのは、退去通告発送予定日のわずか3日前のこと。その日、私は仕事帰りに駅前のスーパーで夕食の食材を買い込み、普段より少し遅い時間帯に家路についていた。玄関のドアを開け、廊下の明かりをつけた瞬間、違和感が胸を突いた。2階の私の寝室の扉が、わずかに開いている。朝の出勤時には、必ず閉めて出たはず。階段を駆け上がり、寝室に飛び込んだ私の目の前には、引き出しが全て開け放たれ、中身が床にぶちまけられた光景が広がっていた。クローゼットの扉も開いており、衣類が端から端へと引き抜かれて山をなしている。

鍵付きの引き出しは、金属バールのようなもので無理やりこじ開けられ、鍵自体が曲がっていた。中の書類ファイルのうち、証拠ファイルの言動記録のノートと、家の権利書のコピーが、明らかに探られた後がある。幸い、原本は父の実家の金庫に預けてあり、銀行の通帳と実印もすでに実家の金庫に避難させていた。だが、1ヶ月半かけて積み上げた証拠の一部は、義姉の手によって少なくとも目を通されれてしまった可能性がある。

廊下に足音が響き、渡が寝室から顔を出した。「ママ、お帰り。あのね、今日学校から帰ってきたら、おばさんがママの部屋に入ってた。なんかバールみたいなの持ってて、ゴリゴリやってた」

私は震える手で、渡の小さな体を抱き寄せた。「僕、怖かったから自分の部屋に隠れてた。ごめんね、ママ。止められなかった」

「違う。ごめんね、渡。止めなくていい。あなたが無事だったこと、それだけで十分」

2階の廊下に、ちょうど帰宅したたけしが階段を上がってきた。「どうした?なんかあったのか?」

「私の寝室、はずさんに荒らされました。鍵付きの引き出しまでこじ開けられてます」

「姉さんがそんなバカな」

リビングからは義姉の甲高い声が聞こえてきた。「え、私何もしてないよ。のぶ子ちゃん、自分で散らかしたのを私のせいにするつもりじゃないでしょうね」

「渡が見ています。バールを持って私の部屋に入ったところを」

「見間違いでしょ。10歳の子供の証言なんて、証拠になるもんじゃないし」

たけしは私と姉の顔を交互に見ながら、額に手を当てた。「のぶ子、姉さんが本当にやったって、証拠はあるのか?」

その一言で、私の中の最後の糸がパキリと音を立てて切れた。「あなたが疑う相手は、いつも私なんですね」

たけしは言葉を失って目を伏せた。その夜、布団に入った私は天井を見つめたまま体の震えが止まらなかった。長い歳月をかけて積み上げてきたものが、一晩で瓦礫のように崩れかけている感覚。証拠は父の金庫にあるから物理的には問題ない。だが、この家でこの夜、誰1人として私の側に立つ人間がいなかった事実は、憲法本を何冊持っていても埋めようのない穴として胸に残り続ける。本当に私は1人きりでここまで来たのかもしれない。その思いが、暗闇の中で冷たく横たわっていた。

翌朝の出勤前、私はキッチンで朝食の支度をしながら、両手の指先が米粒のような細かい震えを止められないことに気づいた。通勤電車の中でも、私はスマートフォンの画面に表示される時刻の数字が、しばらく頭に入ってこない。事務所についてからも、机の前に座って送られてきた入居申込書をパラパラとめくるだけで、内容が右から左へ流れていくだけ。昼休み、1人で会社の非常階段に出て、私は道に電話をかけた。

「のぶ子、どうした?声がおかしい」

一通りの事情を伝えると、道の声色がすっと低くなった。「それ、不法侵入し器物損壊、場合によっては窃盗未遂。弁護士の先生に話を通して、刑事事件としても動く準備しよう。いい。今が1番きついタイミングだけど、ここで踏ん張れば、勝ちしかない。月曜日、予定通り内容証明発送。同時に刑事告訴の準備も進める」

私は受話器に向かって深く頭を下げ、かれた声で感謝の言葉を返す。電話を切った頃には、少しだけ震えが収まっていた。夕方、帰宅した私を玄関先で渡が待っていた。「ママ、お帰り。今日、おばさんたち昼からどこかに出かけてて、ずっといなかった。僕、ママの部屋の扉の前でずっと見張ってた」

ランドセルを背負ったままの渡の小さな姿に、私は思わず膝を折り、両腕で抱きしめた。「ママ、泣かないで。僕ちゃんと見張れたから」

「渡。本当にありがとう」

夜、寝室に戻ってから父に電話をかけた。父の声は、私が全てを話し終える頃には、刃のように冷え切っていた。「もう週末まで待たない。明日の朝一で弁護士に発送を早めさせる。お前は今夜から家の鍵を全部変えろ。業者は父さんが明日手配する。あの女にお前の城の敷居をまたがせるな」

私は父の言葉を受話器越しに何度も噛みしめながら、もう一歩も退かないと再度誓った。その夜、私は初めて自分のために思う存分泣いた。そして朝、私は立ち上がる。枕元のスマートフオンには、道からの新着が一通だけ届いていた。「明日、朝9時、最終打ち合わせしよう」

短い文の中に、10年来の友の揺るがない覚悟が滲んでいた。翌朝、私は午前休を取り、2人で最終打ち合わせに取りかかった。道はあらかじめ受け取ってきた分厚い資料一式を、テーブルの上に丁寧に並べてくれた。

「昨夜の連絡を受けて、今朝1番で先生たちが全ての書類を整えてくれたよ。こっちが義姉と甥に対する退去通告書兼損害賠償請求書の内容郵便。こっちがたけしさんに対する離婚協議申入書。両方とも今日の午後1番で発送予定」

分厚い封筒が2つ、テーブルの上に整然と並んでいる。私は震えも迷いもない指先で、1枚ずつ確認の署名を重ねた。「刑事告訴の件についても、希望があれば、建造物侵入罪と器物損壊罪で告訴状を準備してあるって、先生から伝言」

「今は家から出て行ってもらうことが最優先。刑事の方は、応じなければ切り札として」

「了解。追い出すまでは、あくまで穏やかに。ただし、応じない場合は一切容赦しない。先生も同じ方針だって。ここまで来たら、あとはカードを切るだけだよ」

私は2つの封筒の宛名をもう一度自分の目で確認した。「黒沢はず」「東山たけし」。この2つの名前に、私の人生をこれ以上貸さない。決戦の舞台は今夜、この家のリビング。両親と道にも事前に連絡を入れ、夜8時に家の近くで待機してもらう段取りを組んだ。万一、義姉やたけしが荒っぽい振る舞いに出る場合に備えて、弁護士の事務所から警備会社の出動もあらかじめ依頼済みだ。法律、家族、友人、職場。全ての味方が、私の背後に立ち並んでいる。

午後、私は普段より早い電車で家に戻り、台所で夕食の支度を始めた。メインは渡の大好物のハンバーグ。脇を固めるのは、かぼちゃの煮付けと白菜と豚肉のミルフィーユ鍋。普段より少し豪華な、決戦前夜の晩餐だ。義姉もたけしも何も知らないまま、普段通り夕食を食べるだろう。そしてその食卓の最後に、私はあの封筒をテーブルの中央へ差し出すのだ。

渡が学校から帰り、ランドセルを玄関先に置いた瞬間、私は彼の肩を軽く叩き、小さく耳打ちした。「渡、今夜ママはみんなに大事な話をするからね。一緒に見ていてくれる?」

「うん。僕、ママの隣にいる」

渡の返事が、私の背筋に最後の1本の芯を通してくれた。私はエプロンの紐を結び直し、深く息を吸い込んだ。決戦の夜は、静々と、しかし確実に幕を開けようとしていた。鍋の中では白菜と豚肉がコトコトと音を立てて煮始めている。私は鍋の蓋を開け、出汁の匂いを確かめながら、もう1度心の中で3つの決め事を反芻した。

1つ、感情的にならない。
1つ、全ての証拠を順番に相手の目の前に並べる。
1つ、どんなに罵られ怒鳴られても、自分の出した結論は絶対に一文字も動かさない。

3つの決め事は、10年分の涙の上に、重く、そして確かな形をして、今私の胸の中に座っていた。リビングからはテレビの夕方のバラエティ番組の音声が賑やかに流れている。義姉とたけしは何も知らないまま、私の作る夕食の匂いを吸い込んでいた。壁の時計の秒針が、カチリカチリと容赦なく夜を刻んでいる。

午後6時、玄関のチャイムが短く鳴った。宅配便の制服を着た配達員が、両手に封筒を2つ丁寧に抱えている。「ご苦労様です」

サインを終え、私は封筒を受け取り、そのまま自分の机の引き出しに丁寧にしまい込んだ。リビングに戻ると、義姉はソファーで雑誌をめくり、たけしは片手でスマートフォンをいじっている。食卓につく気配はまだない。「夕食もうすぐでできますから、テーブルの上、片付けておいてくださいね」

「はーい」

返事だけは元気な義姉の声が、今夜ほどどこか遠くから聞こえたことはなかった。土曜の夜、午前8時。食後の片付けが終わった後、私はリビングのテーブルに全員を呼び寄せた。食卓の上には、あらかじめ準備しておいた登記簿、ローンの返済明細、家計簿、証拠ファイル、そして午後に届いたばかりの内容証明郵便の封筒が整然と並べられている。義姉は風呂上がりでソファーに寝そべり、たけしはテレビのリモコンを片手に定位置の席に腰を下ろしていた。信吾はリビングの床に寝転んで、渡のゲーム機を勝手にいじっている。渡だけは、私の予告通りテーブルの端の椅子に、まっすぐ背筋を伸ばして座ってくれていた。

「話があります」

私の声は、普段よりも低く澄んでいた。「何よ、急に。私もう寝るつもりだったんだけど」

「どうした?突然」

「はずさんと信吾君、明日の朝までにこの家を出て行ってください。たけしさん、あなたも明日のうちに荷物をまとめて出ていってください」

一瞬の完全な沈黙。テレビの音量だけが、リモコンで絞りきれずに小さく漏れ続けている。「はあ?正気?ここたけしの家でしょ。なんであんたが私たちに出ていけなんて言えるのよ」

「お前こそ出ていけよ。ここは俺の家でもあるだろう」

「この家は私の単独名義です。あなた方に居住権はありません」

私はゆっくりと1枚目の書類をテーブルの中央に置いた。「所有者 東山信子」の文字が並ぶ登記簿のコピーだ。「こちらがこの家の登記簿です。所有権者の欄には、私の名前しかありません」

続けて2枚目、3枚目を並べていく。ローンの返済明細、実家の工務店からの業務委託料の振り込み履歴、保険証券、固定資産税の納税証明。義姉とたけしは、並べられていく書類を目を大きく見開いたまま追いかけていた。

「ちょっと何なのよ、これ」

「ローン、うちの家計から引き落としされてるんじゃないのか」

「引き落としは私の個人口座からです。その原資は父からの振り込みで、実家の家計簿にも完全に記録されています」

その時、テーブルの端から渡がすっと立ち上がった。「おばさん、この家はね、ママのおじいちゃんが建ててくれたんだよ。パパは何にもお金出してないよ」

「はあ?子供が何言ってんのよ」

「僕、前におばあちゃんが電話でママと話してるのを聞いたことあるんだ。『たけしさんと離婚したら、家はそのままのぶ子のものだからね』って。おばあちゃん、ママに言ってたよ」

義姉の顔から、見る見るうちに赤みが消えていく。たけしの両手に握られたリモコンが、ポトリと膝の上に落ちる音がした。「それに、ママがお金を貯金から出してくれてるから、僕たちちゃんと生活できてるの。それがないと、おばさんと信吾君までご飯食べさせられないんだよ」

義姉の唇がかすかに震え始めた。たけしの顔は、見たこともないほど蒼白だ。「俺は聞いてない。なんで10年も教えてくれなかったんだよ」

「何度も話しました。結婚した時、家の名義の話を、あなたは『のぶ子に任せる』で済ませました。毎月の家計報告も、家計簿を出す度に『面倒くさい』と見ようともしなかった。知らなかったのではなく、知ろうとしなかったのは、あなたがたです」

「そんな、じゃあ私、どこに行けばいいのよ?実家にはもう戻れないわ。兄夫婦が私のこと嫌ってるのよ」

「それは私の問題ではありません」

「のぶ子、頼む。やり直させてくれ。俺からちゃんと家のことを見るから。姉さんたちにも明日には出ていってもらうし、俺も態渡を改めるから」

私は最後の封筒をテーブルの上、たけしの目の前に滑らせた。離婚協議申入れ書と同時に作成した離婚届の原本。夫の名前を書く欄は、まだ空白のままポツンと待っていた。「10年間、あなたは家のことに何ひとつ興味を示さなかった。姉の肩ばかり持って、妻を、そして息子を1度も守ろうとしなかった」

私はペンをたけしに突き出す。「そんな、勘弁してくれ。頼むよ。もう1度だけやり直させてくれ」

「無理です。私は渡と、新しい出発をします」

義姉が突然顔を覆って泣き崩れた。「私、どうしたらいいのよ。たけし、あんたも何とか言いなさいよ」

「姉さん…もう無理だよ」

たけしは初めて、声を細く、力なく漏らした。その脇で信吾は状況を理解できずに、ゲーム機の画面を見ながら言う。「ママ、お腹減った」

信吾の一言で、リビングの空気が一層沈殿した。誰1人、この無邪気な一言を笑うことはできなかった。「最後に1つだけお伝えしておきます。ご近所の方々は、この1ヶ月、我が家で起きていることを全てご存知です。二階のガラスの一件、ご近所を走り回る信吾君のこと、はずさんが道端で私の悪口を話していたこと。私はそれらの全てを、1人で頭を下げて、毎日謝って歩いてきました。もう、あなたがたに私の人生を1日も削らせません」

テーブルの脇で、渡がそっと私の手を握る。10歳の小さな手は、私の冷えかけた指先をじんわりと温めてくれた。玄関のチャイムが、ちょうどそのタイミングで短く鳴った。道と、父と、そして母。私の背後には、すでに3人の味方が到着していた。

「のぶ子、遅くなったな」

「はずさん、たけし君。父親として、義理の家族として、私から一言だけ言わせてもらいますよ」

父の声は、工務店の社長として現場で鍛え上げられた、揺るがない低音だった。「この家は、私が娘のために建てた家です。たけし君の持ち分は1円もない。はずさんもたけし君も、明日のうちに出ていってもらう。弁護士を通して進めましょう」

「よく言ったわね。今夜からあなたと渡るは、私たちがしっかリ守るから」

母の手が、私の背中をそっと撫でてくれた。道が法律事務所から預かってきた書類一式を、リビングのテーブルの上に広げた。「黒沢はず様、東山たけし様。こちら、弁護士事務所から正式に発送された書類の控えです。本日発送済みの内容便は、近いうちにそれぞれのお手元にも届きます」

たけしも義姉も、呆然と書類を見つめていた。「退去期限は、はず様が明日の正午、たけし様が明日の午後6時。それまでに退去しない場合、建物明け渡し請求の仮処分手続きに入ると、先生から通告されています。加えて、はず様には、東山信子様の寝室への侵入及び鍵付き引き出しの破壊について、建造物侵入罪及び器物損壊罪での刑事告訴の準備もできているとの伝言です」

「警察って…やめてよ。たけし、母さんに電話してよ」

「俺が今更電話しても、多分何も変わらない。俺は何も知らなかったから」

たけしの声は、すでに半分以上が萎れていた。義姉は自分のスマートフオンを握り、母の番号を押し始める。数秒後、電話口の向こうから、母の疲れきった声がスピーカー越しに漏れてきた。

「あずき、何やらかしたの?うちにも弁護士から書類が届いたよ。のぶ子さん、本当に離婚するつもりだって?こっちにもうお前を引取る余裕ないからね」

「母さん、そんな…」

「お前がずっとフラフラしてるから、こうなるのよ。自分で何とかしなさい」

義母の声が切れ、義姉はスマートフォンを膝の上に落とした。「嘘でしょ?」

たけしはテーブルに置かれた離婚届を、震える手でゆっくりと引き寄せた。「のぶ子、俺、姉さんとも距離を置く。家のこともちゃんと手伝う。土下座だってするから」

「もう結構です。あなたが今頭を下げているのは、私のためではなく、自分の居場所を失いたくないからでしょ。私にも渡にも、もうあなたの嘘の顔は見抜けます」

たけしはペンを握ったまま、長く長く沈黙した。額から汗が落ち、紙の上にポツリと染みを作った。やがてたけしは震える手で、自分の名前を書ぎ始めた。時間をかけてゆっくりと書ぎ終えた離婚届は、ずっと待たされていた私の名前の欄のすぐ隣に並んだ。私もその夜、最後に一息で自分の名前を書き添えた。10年間の結婚生活は、この紙切れ1枚の上で終わりを告げた。

義姉はその様子を見ながならソファーにへり込み、肩を震わせていた。「私、本当に行く場所ないんだけど」

「それは、1ヶ月半、あなたが『家族なんだから』と言いながら1度も自分の生活を自立させようとしなかった結果です。私には、あなたの人生を背負う義務はありません」

信吾はようやく事態に気づいたのか、義姉の膝の上で小さく泣き始めた。「ああ。帰るの、どこ?」

「わかんないよ」

リビングの空気は重く沈んでいたが、私の胸の中では、それとは別に澄み切った静寂が広がっていた。「たけしさん、念のため弁護士からの伝言です。明日の午後6時以降、ご家庭内に残られた場合、警備として対応させていただくとのこと。財産分与についは、改めて協議の場を設けるとのことです」

「わかりました」

たけしは、もう反論する力を全く失っている。「たけし君、1つだけ聞きたい。君はこの10年間、自分の妻と息子の顔をちゃんと見てきたのか?」

「…見ていませんでした。本当に申し訳ありませんでした」

たけしは深く頭を下げたが、もうその頭を上げさせてあげる理由は残っていなかった。母がそっと渡の肩に手を置いた。「渡ちゃん、今日はみんなでおばあちゃんの家に行きましょう」

渡は頷きながら、ギュっと私の手を握ってくれた。私は渡の小さな体をもう一度きつく抱きしめた。父は最後には、義姉とたけしに向かってきっぱりと言葉を放つ。「明日、業者を手配して家の鍵を全部交換します。はずさん、たけし君、出ていく時は家の鍵をテーブルの上に置いていってください。その限りで、2度とこの家には入れません」

道が最後に、私の方を軽く叩いた。「お疲れ様。ここからは新しい朝だよ。荷物だけ持って、今夜お父さんたちと一緒に行こう」

「ありがとう、道。明日、一緒に戻ってきてくれる?」

「もちろん。家の鍵交換の立ち合いまで、全部一緒にやる」

私はふっと息をついた。両手で握った渡の小さな手の温度が、私の胸の真ん中をゆっくりと温め直してくれる。父と母は私と渡の泊まり支度を手伝いながら、家族3人の衣類を車に積み込み始めた。道は義姉とたけしが明日の退去期限までに確実に家を出るよう、弁護士事務所と連携しながら最後の監視役を引き受けてくれている。玄関先で、私はリビングの方を振り返り、最後に1度だけこの空気を胸に吸い込んだ。10年分の重たい塊が、この瞬間全て窓の外へ流れ出ていく気がした。

鍵の交換が終わり、この家を改めて私と渡の家として迎え直す。その朝は、もう目の前まで来ていた。決戦は終わった。

義姉は翌日の正午ギリギリに、最低限の荷物だけを車に積み込んで家を出ていった。行き先は結局、親の実家でも元夫の黒沢家でもなく、市内の安いビジネスホテルだそうだ。その後、義姉と信吾は市内の古いアパートの一室に住み込み、コンビニのアルバイトで食いつなぐ日々を送っているらしい。信吾は前の家で身についた乱暴な物言いが原因で、新しい小学校でも何度かトラブルを起こし、義姉は担き任から呼び出される立場になり、頭を抱えているという。

たけしは義実家に1度戻ったようだ。しかし、義母はたけしをあっさりと冷たく突き放した。「あんたのせいで家が傾いたんだ」。結局、たけしは会社の独身寮に転がり込む形になったという。職場には離婚と義姉の件がじわじわと噂になり、管り職候補からは外されたという話も、共通の知人経由で聞いた。最終的にたけしは噂を立てられた会社の居場所にも耐え切れず、半年後に地方の営業所への異動願いを自ら申し出たらしい。養育費は給料から天引きの形で、確実に渡の口座に振り込まれ続けている。

義両親もまた、我が子2人の同時自滅に、親戚中から白い目で見られ、近所との付き合いも薄くなっていった。全ては、10年間で少しくずつ積み上がっていった報いの、遅れて届いた利息だった。

あれから半年。私と渡は、鍵を新しくしたあの家で、穏やかに2人の暮らしを続けている。朝の食卓には、さばの塩焼きと豆腐の味噌汁、そして湯気の立つ新米のご飯。「あ、最近よく笑うようになったね」

「あなたのおかげよ」

渡は学校から帰ってくるなり、自分でランドセルを定位置に置き、おやつの前に必ず宿題を広げる。父と母は、ほぼ毎週末に遊びに来て、庭のもみじの手入れを手伝ってくれるようになった。道は、月に1度の女子会を続けている。渡が食卓の向い側からお茶碗を両手で受け取りながら、小さく言った。「いただきます」

「いただきます」

声を合わせたその一言が、家の空気をまっすぐに明るく照らした。私は、笑うことをようやく自分に許した女の顔で、渡と向き合って今朝も味噌汁の碗に丁寧に具を注いでいる。

Thumbnail