「その格好は何だ?…

「その格好は何だ?...

放気が濡れた落ち葉をすくい上げる。朝6時の駅前広場は、まだ街灯がうっすらとともっている。手にしたゴミ袋を片手に、ベンチの下を覗き込んだ。空き缶が二つ、それから吸い殻。慣れた手つきで拾い上げ、袋に放り込む。冷たい風が首筋を撫でていく。俺は作業着のファスナーを上まで引き上げ、白い息を吐いた。この町に戻ってきて3年。朝の駅前を掃くのが、俺の一日の始まりだ。

商店街のシャッターが、一つ、また一つと開いていく。店の前で美代子さんが腰を伸ばしているのが見えた。ここで一人で店を切り盛りしている女性だ。俺は放気を止め、軽く頭を下げた。

「あら、田村さん、今日も早いね。」
「おはようございます。腰の調子はどうですか?」
「うん。湿布が効いたみたい。でもね、最近どうも息切れがしてね。階段が辛くて。」

俺は袋を地面に置き、彼女の顔を見た。顔色が先月よりわずかに青い。唇の縁に乾燥が見える。心拍に何かあるかもしれない。頭の中でメモを取った。

「美代子さん、今度健診に行ってくださいね。心配だから。」
「もう、田村さんは清掃員のくせにお医者さんみたいなこと言うのよね。」

笑いながら彼女は店の奥に消えていった。この町に診療所が一軒もなくなって、もう5年になる。最後の医師が引退してから、住民たちは隣町の病院までバスで1時間かけて通っている。そのバスも、最近本数が減った。

俺は放気を動かしながら、頭の中で数字を並べていた。美代子さん──息切れの頻度増加。八木さんの田中さん──高血圧の処方が3ヶ月途切れている。郵便局前の佐々木さん──最近食欲がないとこぼしていた。清掃の合間にかわす立ち話。それが俺のカルテだ。放気を動かすたびに、誰かの顔が浮かんだ。

夕方、仕事を終えてアパートに戻る。六畳一間。家賃は3万2000円。畳の上に古い座卓を置き、その上でいつもノートを広げる。電気ポットの湯を湯飲みに注ぐ。引き出しから分厚いノートを三冊取り出した。中を開くと、びっしりと文字と数字が並んでいる。ページの一番上には日付。その後に住民の名前のイニシャル、観察された症状、変化の傾向、家族構成、買い物の頻度。俺は今日の出来事を書き加えていく。

ペンを走らせながら、ふと手を止めた。壁にかかった古い写真——白衣を着た自分が、何人かの同僚と並んで写っている。10年前、大学病院の心臓外科にいた頃の写真だ。あの頃の俺はメスを握っていた。教授の椅子に手が届くかどうかという時期だった。論文を書き、学会で発表し、夜中まで手術室にいた。それが医師の務めだと信じて疑わなかった。

ある日、一人の男性が運ばれてきた。緊急の手術。俺は手術台に立ったが、間に合わなかった。家族に説明した後、カルテを見て息が止まりそうになった。その男性は、俺がこの町で育った頃、診療所をやっていた医師の親戚だった。俺が8歳の時、高熱で倒れ、町の診療所に駆け込んだ。その時、命を救ってくれた瀬戸先生の従弟にあたる人だった。瀬戸先生も、すでに亡くなっていた。

俺は気づいてしまった。大都市の病院でメスを振るっている自分は、本当に救うべき人を救えていない。本当に医療を必要としている町が、今まさに消えかけている。辞表を出した時、誰もが俺を変人扱いした。「将来を捨てる気か」と上司は怒鳴った。家族からも離れ、俺はこの町に戻ってきた。

戻ってきて最初の1年は、何もしなかった。清掃員の仕事を見つけ、朝早くから町を歩いた。顔を覚え、名前を覚え、暮らしを覚えた。2年目からノートを取り始めた。医師の目で見た町の健康データ。それを誰にも告げず、まとめ続けた。そして年に2度、その要約を匿名で国の構成機関に送っていた。

翌朝、駅前を掃いていると、商工会の朝倉が走ってきた。

「田村さん、ちょっといいですか?」
「おはようございます。何かありましたか? そんなに急いで。」
「これ見てくださいよ。」

差し出されたのは一枚の張り紙だった。『地域医療再編プロジェクト 現地調査のお知らせ』。国の機関の名前が印刷されている。日付は来週。担当責任者の欄に、『瀬戸ミス』と書かれていた。俺はその名前を見て、わずかに手が止まった。

「市長がね、もう前のめりですよ。医療センターを誘致できるかもしれないって。」
「そうですか。それは町にとっては大きな話ですね。」
「でも僕は簡単に行くとは思えなくてね。だってここ何年も国は地方の医療なんて見向きもしなかったでしょう。それが急にね。」

朝倉はそう言って俺の顔を見た。

「田村さん、あなた、よく住民の話を聞いてますよね。誰が体調悪いとか、誰が薬を変えたとか、普通の清掃員じゃそこまでしないですよ。」
「ただの世間話ですよ。毎日同じ道を歩いていれば、自然と顔見知りも増えますから。」
「いや、僕はね、あなたのこと勝手に信頼してるんです。何かあったら相談させてください。」

俺は曖昧に頷いた。朝倉は張り紙を電柱に張り、足早に去っていった。風が吹いて、張り紙の端がパタパタと鳴った。『瀬戸ミス』という文字が、もう一度目に飛び込んできた。3年間誰にも告げずに送り続けてきた報告書。それが、ようやく動き始めたのかもしれない。

1週間後の朝、駅前広場はいつもと違っていた。黒塗りの車が3台、ロータリーに止まっている。スーツ姿の男たちが降りてきて、市川市長が満面の笑みで出迎えていた。グレーのスーツに紺のネクタイ。町の医療センター誘致を長年の悲願としている人物だ。俺は放気を動かしながら、その様子を遠めに眺めていた。

車の後ろのドアが開き、一人の女性が降りてきた。朝倉が小走りに近づいてきて、俺の隣に立った。

「あの人ですよ。瀬戸さん。」
「国の責任者の?」
「そうですか。思っていたよりお若い方ですね。」
「35歳だそうです。地域医療再編プロジェクトの中心人物で、もう各地で実績を上げてるって話で。」

俺は放気を止め、彼女の横顔を見た。祖父の面影があるかどうかなんて、分かるはずもない。だが、その立ち姿には妙な懐かしさがあった。市長が大きな声で何か説明している。瀬戸ミスは静かに頷きながら、手帳にペンを走らせていた。時々町の通りに目をやり、商店街のシャッターを見つめている。

俺は放気を動かしながら、弁当屋の方を見た。美代子さんが店先で買い物客に何か話している。顔色は先週よりさらに悪くなっている気がした。唇に血色がない。俺は袋を肩にかけ、その場を離れようとした。その時、後ろから声がかかった。

「すみません。少しよろしいですか?」

振り返ると、彼女が立っていた。近くで見ると、目に強い光がある女性だった。

「道のご案内なら、商工会の方が詳しいですよ。」
「いえ、そうではなくて。この町で長く清掃されている方だと市長さんから伺いました。少しお話を聞かせていただけませんか?」

市長が遠くで慌てた顔をしているのが見えた。おそらく清掃員から話を聞くなど想定していなかったのだろう。

「お役に立てるかは分かりませんが、それでよければ。」
「住民の方々の暮らしぶり、特に最近の様子で気づかれていることはありますか?」
「気づくというほどのことは。ただ、お薬を切らしている方や、隣町まで通う方が増えているのは肌で感じます。」

彼女の手が、わずかに止まった。

「具体的にどなたか、思い当たる方は?」
「特定の方の話は差し控えさせてください。私はただの清掃員ですから。」

俺は頭を下げ、その場を離れた。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。

その日の夜、俺は居酒屋にいた。朝倉に誘われ、断りきれずに連れて来られたのだった。

「田村さん、今日の瀬戸さんとのやり取り、なんか妙に堂々としてましたよ。」
「そうですか。普通に話しただけのつもりですが。」

笑いながら朝倉はビールを煽った。俺はふと入り口の方に目をやった。引き戸が開き、スーツ姿の男が入ってきた。50代後半。高級そうな時計をしている。俺はその顔を見て、息を止めた。黒沢誠一。大学病院時代の元同僚だった。向こうも俺に気づいた。一瞬目を見開き、それから居ぶかしげに眉を寄せた。ゆっくりと俺の隣の椅子に腰を下ろした。

「お前、田村か? 本当に田村なのか?」
「久しぶりだな、黒沢。」
「こんなところで会うとは思わなかった。その格好は何だ? 作業着じゃないか。」

俺は彼の顔を見た。10年前とほとんど変わっていない。ただ、目の周りに疲れが滲んでいた。

「見ての通りだ。今はこの町で清掃の仕事をしている。」
「冗談だろう。お前ほどの腕を持っていた男が、なぜ?」
「3年前からだ。気に入ってるよ、この仕事は。」
「気に入ってるだと? お前、本気で言ってるのか? 俺はな、今度の医療センターの医療顧問として呼ばれてここに来たんだぞ。国のプロジェクトだ。それをお前は、町の掃除だと。」

声が少し大きくなっていた。店の人がちらりとこちらを見た。

「もったいないとは思わないのか。お前の手は、メスを握るための手だっただろう。」
「黒沢、メスを握ることだけが医療じゃない。そう思うようになったんだ。」
「綺麗事だな。現場を離れた人間の、ただの言い訳だ。」

俺は黙って酒を飲み干した。怒りは湧かなかった。

「明日、市役所で打ち合わせがある。瀬戸とかいう女が、妙に細かい資料を出してきてな。匿名の報告書がどうとか、住民の生活実態のデータがどうとか。お前には関係ない話だろうがな。」

俺の手が、わずかに止まった。匿名の報告書。それが、すでに彼女の手元に渡っているということだ。俺は何も言わず、伝票を取って立ち上がった。朝倉が慌てて後を追ってきた。外に出ると、夜風が冷たかった。

「田村さん、あの黒沢って人、知り合いだったんですか?」
「昔の知り合いだ。それだけだよ。」

俺は短く答え、夜道を歩き出した。

翌朝、駅前広場を掃いていると、瀬戸ミスが一人で歩いてきた。昨日とは違って、市役所の人間は誰もいなかった。何かを言いに来たのは、見れば分かった。

「おはようございます。少しお時間をいただけますか?」
「立ち話でよければ。」

彼女は一枚の紙を取り出した。コピーされた、見覚えのある用紙。『地方の無医地区実態報告』。俺が3年間送り続けてきた報告書の表紙だった。

「この報告書をご存知ですよね。」
「何のことでしょうか?」
「3年前から年に2度、私たちの機関に届いていました。差出人不明。けれど内容は驚くほど詳細で、医師の視点で書かれたものでした。」

彼女の目が、まっすぐ俺を見ていた。

「この町の住民一軒一軒の、症状の記録、薬剤の継続状況、家族構成、買い物の頻度。これだけのことを把握できるのは、毎日この町を歩いている人間だけです。」

俺は放気の柄を握りしめた。

「失礼を承知でお聞きします。田村浩司先生で間違いありませんか? 元東洋大学病院心臓外科の。」

朝の光が、彼女の顔を照らしていた。

「どうして私だと?」
「私は祖父の話を聞いて育ちました。昔この町で診療所をやっていたこと。あなたが8歳の時に命を救ってもらったということも。」

俺は彼女の顔を見つめた。あの瀬戸先生の孫娘。言葉が出てこなかった。

「それからもう一つ。私が医学部に進学できたのは、匿名の奨学金のおかげでした。差出人の欄には何も書かれていなかったけれど、振込人の名義の一部に、『タムラ』とだけ。」

風が吹いて、彼女の髪が揺れた。

「こんな昔のことを、よく覚えていてくれましたね。」
「忘れるはずがありません。私の人生は、あなたに二度救われているんです。」

俺は彼女の顔を、静かに見つめ返した。

その日の午後、弁当屋の前を通りかかった時、店先に人だかりができているのが目に入った。近づくと、エプロン姿の美代子さんが地面に座り込んでいた。顔は白く、片手で胸を抑えている。近所の主婦が慌てた様子で背中をさすっていた。

「美代子さん、しっかりしてよ。救急車も読んだから。」
「ごめんね。ちょっと息が苦しくて。」

俺は放気を投げ捨て、駆け寄った。作業着の袖をまくり、彼女の手首に指を当てる。脈が早く、不規則だった。唇が紫がかっている。

「美代子さん、私の指を握ってください。強くなくていいです。」
「田村さん、ごめんね。迷惑かけて。」
「迷惑なんかじゃありません。ゆっくり息を吐いてください。数を数えながら。」

周囲がざわついた。清掃員がいつもと違う口調で指示を出している。誰かが小さく「お医者さんみたい」と呟いた。俺は彼女を横向きに寝かせ、足を少し高くした。首元を緩め、呼吸を整えるように声をかけ続けた。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。俺は彼女の手を握り、視線を合わせ続けた。

「美代子さん、隣町の病院まで運ばれます。先生に症状の経過を伝えてください。先月から呼吸困難があったこと、脈が時々飛ぶ感じがしていたこと。私が話したと言っていただいて構いません。」
「あんた、本当に何者なの?」

彼女はわずかに笑った。俺は何も答えず、ただ手を握り続けた。救急隊員が到着し、彼女を担架に乗せた。救急車が走り去るのを、人だかりの後ろから見送った。振り返ると、瀬戸ミスが立っていた。静かに俺を見ていた。その隣には、黒沢誠一の姿もあった。俺は地面に落ちた放気を拾い上げた。

3日後、俺は市役所に呼ばれていた。古いジャケットを引っ張り出して羽織ってきた。長机を囲んで、市川市長、朝倉、瀬戸ミス、そして黒沢が座っていた。

「田村さん、よく来てくださった。今日はね、瀬戸さんからどうしてもあなたに同席してほしいという話があってね。」
「皆さん、お手元の資料をご覧ください。これが3年間にわたって私たちの機関に届けられた、地方の無医地区実態報告の要約です。」

机の上に分厚いファイルが配られた。朝倉が目を見開き、ページをめくる手が止まっていた。黒沢は腕を組んだまま、資料を見下ろしていた。

「この報告書は、全国でも類を見ないほど精密なものでした。住民一人ひとりの生活実態、健康傾向、医療アクセスの困難さ。これだけの資料があったからこそ、この町は今回の地域医療再編プロジェクトの最優先地区に選定されました。」

市川市長が目をまたかせた。瀬戸がゆっくりと俺の方を見た。

「報告書の差出人は、田村浩司さんです。元東洋大学病院の心臓外科医。3年前にこの町に戻られ、清掃員として働きながら住民の暮らしを記録し続けて来られました。」

会議室が静まり返った。市長は口を開きかけ、閉じた。朝倉は天井を見上げ、深く息を吐いた。黒沢がゆっくりと顔を上げた。

「田村、お前、3年前からずっとこれを続けていたのか。」
「ずっとというほどのことじゃない。毎日歩いて、話を聞いて、ノートに書いていただけだ。」
「お前が俺に綺麗事を言ったわけじゃなかったんだな。」

市川市長がようやく口を開いた。

「田村さん、私はあなたをただの清掃員だと思っていました。本当に申し訳ない。美代子さんが倒れた時、あなたが救急隊員より先に的確な処置をしていたと聞いて、ようやく合点が行ったんです。」
「市長、頭を上げてください。私は隠していたんです。隠していた私が悪いんです。」

瀬戸が静かに俺の方を見た。

「先生、提案があります。この町に新しく作る医療センターの初代所長を、引き受けていただけませんか?」
「私にはその資格がありません。私はもうメスを置いた人間です。」
「メスを置いて、大切なものを拾い上げた方だと、私は思っています。」

俺は黙っていた。黒沢がふいに立ち上がった。

「田村、引き受けろ。お前のような医師が町に必要なのは、お前の報告書が証明している。俺は医療顧問として、お前を全面的に支援する。それくらいの付けはさせてくれ。」

俺は深く息を吸い、頷いた。

「お引き受けします。ただし、清掃の仕事は続けさせてください。朝の駅前を掃かないと、町の様子が分からなくなりますから。」

朝倉が声を立てて笑った。市長も釣られて笑った。瀬戸は目元をそっと指で抑えていた。

半年が過ぎた。町の外れに、小さな医療センターが立った。診察室は三つ。検査室と小さな手術室が一つずつ。俺はその所長として、白衣を着て診察に当たるようになった。それでも朝6時の駅前広場には、相変わらず俺の姿があった。作業着に放気、ゴミ袋。町の人たちは最初は驚いていたが、今ではすっかり見慣れた光景になっていた。

退院した美代子さんが、弁当屋の前で大根を並べていた。顔色はすっかり元に戻っていた。

「先生、おはよう。」
「おはようございます。今日は何の日ですか?」
「今日はね、おでんの日。ちゃんとできあがるからね。」
「ありがとうございます。診察が終わったら、寄らせてもらいます。」

俺は放気を動かしながら、商店街の方へ歩いていった。シャッターが一つ、また一つと開いていく。駅の方から足音が近づいてきた。振り返ると、瀬戸が立っていた。プロジェクトが一段落した後も、彼女は月に一度、町を訪ねてきていた。

「おはようございます。今朝は東京始発で出てきたんですよ。」
「それはお疲れ様でした。朝ごはん、まだですよね。美代子さんの店でおにぎりでもどうですか?」
「いいですね。久しぶりにご一緒したいです。」

彼女は俺の隣に並び、ゆっくりと歩き出した。

「祖父が生きていたら、喜んだと思います。あなたがこの町に戻ってきてくれて。」
「私の方こそ、瀬戸先生に何度でもお礼を言いたいです。あの時命を救ってもらわなかったら、私は今ここにいません。」

風が吹いて、落ち葉が二人の足元を転がっていった。

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