交差点で青信号になっても動かない黒塗りのベンツ。後続の車がクラクションを鳴らすが、ベンツを見て誰も文句を言いに来ない。スモークの貼られた窓には威圧感があり、いかにも手ごわそうな車だった。
整備士の俺は、車のトラブルを見過ごせず、車を降りて近づいた。運転席の窓をノックすると、若い男がイライラした顔で窓を開けた。
「ああ?なんだよ。邪魔すんなよ」
汗でびっしょりの顔で怒鳴られた。すると後部座席から太く響く声が飛んできた。
「おい、失礼な言い方をするな」
「す、すみません」
若い男は後ろの席にペコペコと頭を下げた。
「違うだろうが。言う相手が違う」
その言葉に若い男は慌てて俺に頭を下げた。どう見ても普通じゃない。組の人間か。心臓がバクバクする。
「実は整備士なんです。よかったら見ましょうか」
若い男が気の毒で、思わずそんなことを言っていた。シフトがDのままだったのが原因で、すぐにエンジンはかかった。すると後部座席から大きな男が降りてきた。黒いスーツをビシッと着こなした、迫力のある初老の男だ。
「兄さん、名前は」
「ケ太と申します」
「ケ太さん。どうもありがとうございました」
深々と頭を下げられた。映画で見たような、いかにもな敬意の示し方に、圧倒された。すると、その男が言った。
「こちらがお礼を言いたいそうだ」
車から降りてきたのは、鮮やかな着物を着た、信じられないほど美しい女性だった。大きな瞳に優しい微笑み。見た瞬間、言葉を失った。
「私、佐と申します。今日はありがとうございました」
「いえ、とんでもないです」
「健太さん、この後お時間ありますか?よかったら、うちに来てください。おじい様に報告しなくちゃ」
おじい様に報告?何のことだかさっぱり分からないまま、俺は彼女の車に従って進んだ。連れて行かれたのは、組事務所兼ご自宅という、堂々たる豪邸だった。
組長の部屋に通されると、貫禄のある老人が満面の笑みで俺を迎えた。
「おお、君が健太君か。この度はご迷惑をかけてすまなかった。今日は心ばかりの礼をさせてくれ」
「いえ、そんな。たまたま通りかかっただけなんで」
その場では丁重に断ったが、帰り際、山のような菓子と果物を押し付けられ、さらには「ぜひまた来てください」とまで言われた。何が何だか分からないまま、俺は家に帰った。
「健太、ちょっとお客様よ」
翌日、家に飯島と名乗る男がやってきた。そして、その背後には、なぜか振り袖姿の佐と組長がいた。
「健太君、単刀直入に言わせてもらう。佐を嫁にもらってやってくれんか?」
「は?嫁?」
あまりの突然のことに頭が真っ白になった。佐は俯いて、頬を赤らめている。
「いや、無理ですよ。今日初めて会ったばかりで」
「では、どうだろう?佐をこちらに預けるので、嫁としてふさわしいか見極めてくれないか」
俺は両親の視線と組長の圧に耐えきれず、うなずいてしまった。
「わ、わかりました。しばらくお預かりします」
佐の顔がパッと明るくなった。その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れていった。
それからの日々は、驚きの連続だった。佐の料理はプロ並みで、掃除も洗濯も完璧。母が教えてもらうほどだった。俺が残業で疲れて帰ると、温かい食事を作って待っていてくれる。寒い日には熱いスープを用意してくれる。
「健太さん、これ。よかったら使ってください」
そう言って渡してくれたのは、グラデーションの青いマフラーだった。
「俺のために編んでくれたのか?」
「はい。健太さんに似合うかなって思って」
「ありがとう。すごく嬉しい」
母に勧められて、半ば強制的に2人でデートに行った。清楚なピンクのワンピースに白いコート。鼻の頭に生クリームをつけて笑う姿が、こんなにも愛おしい。
「健太お兄ちゃん」
夕方、公園で佐がふと立ち止まって俺を見上げた。
「え?」
「健太お兄ちゃんでしょう?」
その言葉に、昔の記憶が走馬灯のように蘇った。近所に住んでいた、3つ年下の女の子。いつも俺の後ろにくっついてきて、ミニカーが動かなくなると「ケンタにいたん、直して」って泣きながら差し出してきた子。俺が「ブーブーのお医者さんになる」って言ったら、キラキラした目で「お兄ちゃん、すごい」って褒めてくれた、あの子。
「さっ、さっちゃん?」
「はい。そうです!ずっと会いたかったんです」
「ずっと探してたんだ。でも、どうして分かったんだ?」
「あの時、健太さんが車の窓から覗き込んだ時、すぐに分かりました。お兄ちゃんだって。それで、おじい様に『健太さんのお嫁さんになりたい』ってお願いしたんです」
「俺、お前のこと、すぐに気づかなくてごめんな」
「いいえ。私の方こそ、何も言えなくて。両親が事故で亡くなって、急に引っ越してしまったから。だけど、ずっとずっと、心残りだったんです。ケンタお兄ちゃんのお嫁さんになるって決めてたのに」
「俺も、お前のこと、ずっと忘れられなかったよ。あの目だけは覚えてた」
「嬉しい……」
佐の目に涙が溜まっていく。俺はその手を握り、夕日に照らされた彼女を見つめた。5歳の頃の初恋が、こんな形で返ってくるなんて。
「佐。俺と結婚してください」
「健太さん……ありがとうございます。もちろんです!」
その言葉は、俺の心の奥底にまで温かく染み渡った。
後日、2人で大東組に報告に行くと、組長は満面の笑みで「よく来たな」と迎えてくれた。どうやら飯島たちが見守り隊を結成して、俺たちの関係をずっと影から見守っていたらしい。
「おお、これは確かに結婚の報告だな!」と組長が喜ぶ横で、飯島は男泣きしていた。
1年後、佐の大学卒業を待って、俺たちは家族と親しい友人だけの質素な結婚式を挙げた。佐のウェディングドレス姿は、言葉を失うほど美しかった。式の後、みんなで佐の両親の墓参りをした。佐は墓前に手を合わせ、静かに言った。
「お父さん、お母さん。今日、結婚式だったんですよ。すごく幸せです」
俺もその隣に手を合わせる。
「必ず佐さんを幸せにします。安心してください」
墓の上の木が、風にざわざわと揺れた。佐が涙を見せながら空を見上げる。
「お父さんとお母さんも、笑ってくれてるね」
「ああ。本当にそうだな」
それから、俺たちには子供が3人生まれた。女の子1人、男の子2人。俺は10年後に独立して自分の整備工場を開き、佐が経理をしてくれているおかげで、会社は順調に成長している。大東組は飯島さんが継ぎ、組長は引退して今は我が家に月に2、3回、山のような土産を持って遊びに来る。両親と俺たち夫婦と3人の子供たち、そして今も昔も変わらない温かい人たちに囲まれて、俺は幸せを噛みしめている。
これからも、大事な人たちのために、尽くして生きていこう。そう心に誓った。



