夜の10時、私は書斎のドアをノックした。岐阜さんが机の前に座っていて、普段は整頓されているはずの机の上にメモ帳や印刷物が散らばっている。
「座って」
私は椅子に座ると、岐阜さんは手書きのメモを見せた。
「ハリ根不動産について調べてみたんだ。インターネットで検索したら住所が架空だった。それに同じような被害の話がいくつも出てきた」
「お父さんが調べてくださったんですか?」
「雪さんとシジ君が心配そうにしてるのを見て俺も気になってな。シジ君に相談して調べ方を教えてもらったんだ」
普段は家族の問題に口を出さない人が、水面下でここまで動いてくれていた。きっと義母の異常な行動を見て、このままでは家族が崩壊すると感じたのだろう。
「それと、昨日の夜に義母の電話を聞いてしまったんだ」
「聞いてしまったって?」
「リビングで新聞を読んでいたら、義母が電話で話してた。相手の男性が『次の手続き費用として50万円必要です』って言ってるのが聞こえた。義母は『分かりました。明日振り込みます』って答えてた」
また騙されようとしている。50万円も。
「もう止めなければ。どんどん被害が大きくなる」
状況は予想以上に深刻だった。詐欺師たちは「最後の費用」などと言いながら、おそらく次々と新しい名目を作って金を要求し続けるだろう。
「お父さんは全て分かっていたんですね」
「誠一に言っても無駄だと思った。あいつは母親に甘すぎる。どんな証拠を見せても母親を庇うだろう」
岐阜さんの言葉は的確だった。誠一は感情が先に立ち、冷静な判断ができない。だからこそ岐阜さんは私に相談したのだ。
その時、書斎のドアがそっとノックされた。
「お疲れ様。さっき電話もらって急いで来た」
兄が現れた。岐阜さんが連絡したのだ。
「状況が深刻だって聞いて、仕事を早めに切り上げてきた」
三人が揃った瞬間、私は初めて安心感を覚えた。これまで一人で義母の嘘と戦い、誰にも理解されず完全に孤立していた。今夜、父と兄という強力な味方を得た。
兄は机の上の書類を見渡した。
「これはすごい量の証拠ですね」
「それだけじゃない。俺が独自に調べた結果も追加したい」
岐阜さんは新しいファイルを開いた。
「ハリ根不動産の詐欺被害報告がネット上で複数見つかった。同じ手口ですでに十数件の被害が報告されている」
画面には被害者の体験談がずらりと並んでいる。どれも義母と同じパターンだった。架空の不動産取引、前払い費用、偽の手付け金。
「これなら警察にも相談できそうだね」
「そう思う。これだけ被害が出てるならきちんと対応してもらえるはずだ」
私は胸の奥で、ようやく反撃の時が来たことを実感した。長い間一人で義母の嘘と戦ってきたが、今夜で全てが終わる。
「お母さんは明日また50万円を払おうとしてるんですね。止めなければならない」
「ああ。それに近所の人たちにも嘘をついてる。あの張り紙も嘘だし」
「証拠は十分だ。あとはお母さんに現実を分かってもらうだけだな」
私は深く頷いた。今度こそ義母に真実を突きつける時だ。
数日後の日曜日の午後、私たちはついに行動に移した。
リビングのテーブルには義父と兄が集めた証拠が並べられている。詐欺契約書のコピー、通帳の記録、インターネットで印刷した被害報告、そして義母の支出一覧。岐阜さんは窓際の椅子に座り、兄がテーブルの向かい側に立っている。私は少し離れた場所からこの重要な話し合いを見守っていた。
「何?急に呼び出して。私忙しいのよ」
リビングに入ってきた義母は、テーブルの上の書類を見て一瞬表情を変えた。しかしすぐに平静を装う。
「お母さん、座ってください。大切な話があります」
「何の話よ。私はハリ根不動産との打ち合わせがあるの」
まだ詐欺師との接触を続けるつもりらしい。しかしもうそれも今日で終わりだ。
「まずこれを見てください」
兄は最初の書類を手に取った。
「これはあなたが契約したとされる不動産売買契約書です。しかし相手のハリ根不動産という会社は実在しません。住所も名義も全て虚偽でした」
「嘘よ。ちゃんとした会社よ。田中さんという立派な担当者もいるもの」
義母の声は強がっているが、わずかに震えている。心のどこかで薄々気づいているのかもしれない。しかしプライドが邪魔をして認めることができない。これまで近所に自慢してきた手前、後に引けない状況に自分を追い込んでしまったのだろう。
「この住所を確認しました。現地には会社は存在しません」
「そんなはずない」
「次にこれです」
兄は通帳の記録を示した。
「300万円の出金記録と200万円の入金記録。これは詐欺グループがよく使う前払い型の手口です。最初に手続き費用を払わせ、その一部を手付金として返すことで信用させる」
「私は騙されてない。200万円ちゃんともらってるじゃない」
「もうやめろ」
義母は夫の静かな声に驚いて振り返った。
「俺は黙って見てたが、もう限界だ。お前が何をやってるか全部分かってる」
「あなたまで…」
その時、階段から降りてくる足音が聞こえた。誠一が部屋に入ってきた。
「何の話?」
「お疲れ様。お母さんの件で話し合いをしてるの」
誠一は困惑した表情でテーブルの書類を見回した。これまで母親の話を鵜呑みにしてきた彼にとって、この光景は理解できないものだろう。
「誠一君も聞いておいた方がいい」
「母さん、どういうこと?」
「私は何も悪いことしてないのよ。この人たちが私を悪者にしようとしてるの」
また息子を味方につけようとしている。これまでと同じパターンだ。しかし今日は決定的な証拠がある。感情論では覆せない事実が机の上に並んでいる。
「それに、お父さんから聞いた話もあります」
「ああ、俺からも言わせてもらう」
岐阜さんが口を開いた。
「この数年、お前がどれだけお金を使ってるか見てきた。高いバッグ、宝石、旅行、エステ。家計が苦しいって言いながら借金してまで贅沢してた」
義母の顔が青ざめた。
「ローンの通知書も何度か見た。かなりの借金があるだろう」
「外産ですが、数百万円の借金があると推定されます」
「それは私だって人並みの生活をする権利があるのよ」
「母さん、借金って本当なの?」
「誠一まで私を攻めるの?お母さんは誠一のためにいい値段で家を売ろうとしたのよ」
誠一は困惑した表情のまま何も言えない。彼は人一倍優しい心の持ち主だ。だからこそ母親を疑うことができない。しかしその優しさが今、家族全体を破綻に導いている。誠一が母親を庇い続ける限り、義母は反省することを学ばない。問題はどんどん深刻化していく。
「誠一さん、あなたはずっとお母さんを守るべき人だと信じてた。でもその優しさはもう呪いなのよ」
「呪いって何だよ」
「お母さんが間違いを犯しても、あなたが庇い続ける。だからお母さんは反省することを覚えない。そしてどんどん深みにはまっていく」
「うるさい!私は家族のためを思ってやってることなのに」
義母は泣き声をあげながら立ち上がった。
「私がどんなに苦労してると思ってるの?誠一を育てるためにどれだけ我慢してきたと思ってるの?」
「我慢?お前のどこが我慢してるんだ?」岐阜さんの静かだが厳しい声が響いた。「借金してまで贅沢して、それが我慢か」
しかし義母はもう聞く耳を持たなかった。
「お母さん、真実と向き合ってください」
「真実って何よ?」
「あなたは詐欺に騙されて数百万円を失った。そして誠一を騙して私たちを家から追い出そうとした。これが真実です」
義母は涙を流しながらその場に座り込んだ。もう強がりを張る力も残っていないようだった。長い間築き上げてきた嘘の構造が、ついに崩れ落ちた瞬間だった。
しばらくの沈黙の後、義母は震える声で口を開いた。
「お願い。200万でも100万でもいいの。貸して。助けてよ」
誠一は立ち尽くしたまま何も言えなかった。これまで母親を庇い続けてきた彼も、ついに現実の重さに打ちのめされている。母親への愛情と明らかになった事実の間で完全に混乱していた。
「誠一、お母さんを助けて。あなたは優しい子でしょう」
「母さん…」
誠一の声は途切れ途切れだった。彼もついに母親の要求に答えることの限界を感じているのだろう。
「かあさん、あなたからも何か言って。夫婦でしょ」
岐阜さんは何も答えなかった。妻への愛情はあるだろうが、もう盲目的に支えることはできない。長年にわたって妻の浪費を見て見ぬふりをしてきた岐阜さんも、ついに限界に達した。岐阜さんの沈黙は、諦めと失望の現れだった。
私はバッグから一枚の封筒を取り出した。
「これ、何?」
「これは成年後見制度についての資料です」
義母の顔が青ざめた。
「このままではあなたには金銭管理能力がないと判断される可能性があります。お父さんと相談して、そういう手続きも検討しています」
「そんなのまだ決まってないでしょう」
義母は最後の抵抗を見せた。成年後見制度という言葉に、義母は本能的な恐怖を感じているのだろう。それは単に金銭的な自由を失うことだけではない。一人の大人として扱われなくなること、自分の人生をコントロールできなくなることを意味している。
「これは最後の手段として検討していることでした。義母さんの詐欺被害を止め、さらなる借金を防ぐためには、最終的に法的な措置が必要になるかもしれません」
「雪さん、そこまでしなくても私もう大丈夫だから」
「大丈夫って、何が大丈夫なんですか?もう騙されないから?もう贅沢もしないから?」
「そうよ。もう騙されないし、もう贅沢もしない」
「でも詐欺師はあなたを手放さないと思います。一度騙された人を、彼らは徹底的に狙い続けます」
義母は言葉に詰まった。詐欺の恐ろしさをようやく理解し始めているようだった。
「お母さん、私はあなたが憎くてこんなことをしているわけではありません」
「じゃあ、なぜ?」
「あなたを救うためです。そして家族を守るためです。突き通ってやって後始末を人に押し付けるような生き方は、もう終わりにしないと」
義母は何も言えず、その場に崩れ落ちた。長年にわたって築いてきた虚構の世界が完全に崩壊した瞬間だった。
それから半年が過ぎた。
義母については成年後見の手続きが進められている。借金返済のために持ち物を売り払い、今は岐阜さんの年金で質素な生活を送っている。近所で虚勢を張ることもできなくなった。
誠一と私は離婚した。事件後、誠一も徐々に母親の行動を客観視できるようになったが、一度壊れた信頼関係を修復するにはあまりにも時間と傷が深すぎた。
離婚手続きが終わった日、私は一人で新しいアパートに向かった。結婚前の職場が受け入れてくれて、なんとか生活の目処は立った。段ボールが詰まれたリビングで、私は一人でコーヒーを入れた。窓から差し込む午後の日差しが眩しく感じられた。
失ったものは確かに多い。夫、家族、安定した生活。でも得たものも大きかった。自分らしく生きる権利、真実を見つめる勇気、そして何より自分自身への信頼。
不安はある。でもそれ以上に希望がある。自分の足で立ち、自分の意思で歩いていく。それが私が選んだ新しい人生だった。まだ手探りの状態だけれど、確実に自分のものだった。



