念願の大口契約、マンション完成前日にまさかの一方的キャンセル。2000万円分のワイヤーは、もう製造済みだ。しかし、ただでは終わらない。俺は冷静に、契約書の一文を指差した。「キャンセル料、約1000万円です」。相手は、この時初めて、自分が誰を怒らせたのかを知る。数ヶ月後、彼の会社は倒産の危機に瀕することになるのだが、それはまた別の話。この屈辱を、俺は決して忘れない。…

念願の大口契約、マンション完成前日にまさかの一方的キャンセル。2000万円分のワイヤーは、もう製造済みだ。しかし、ただでは終わらない。俺は冷静に、契約書の一文を指差した。「キャンセル料、約1000万円です」。相手は、この時初めて、自分が誰を怒らせたのかを知る。数ヶ月後、彼の会社は倒産の危機に瀕することになるのだが、それはまた別の話。この屈辱を、俺は決して忘れない。...

6時に完成させた、俺たちの自慢の製品。その製品を初めて導入する大口取引。そして迎えた、マンション完成前日。相手が放った一言は、あまりにも非常識だった。2000万円分のワイヤー、やっぱキャンセルで。俺は思考が止まる感覚を覚えながらも、平静を保って答えた。「キャンセルですか?オッケーです」と。俺の名前はカジタ。35歳。親父が立ち上げた小さなワイヤー製造会社「カジタ興業」で、技術開発部門の責任者を務めている。

今まで俺たちは、他社から指定された仕様通りに作るだけの下請け仕事が中心だった。だが、ずっと目標にしてきたことがある。自社ブランドの製品を世に出して、俺たち自身が主役になることだ。長年の試行錯誤の末、ついに独自開発に成功したのが「Kワイヤー」。通常のエレベーター用ワイヤーの2倍の耐久性を持ちながら、価格は既存品の3分の2に抑えた自信作だ。特殊合金の配合を何度も改良し、他社が使い道を見出せなかった安価な素材を独自の方法で活かすことに成功したんだ。

Kワイヤーが完成した時、これで業界に革命を起こせると確信した。だが、どんなに良い製品でも売れなければ意味がない。特に中小企業が新製品を売り込むのは至難の業だ。最初は各社にサンプルを送り、必死に売り込んだが、結果は散々だった。そんな中、ようやく目を付けてくれたのが大手不動産会社の「久保田建設」だった。彼らに採用されれば、Kワイヤーは一気に市場へ広まる。正談の場で、俺は手に汗が滲むほどの緊張を感じながら、製品の性能を説明した。技術者たちは真剣に耳を傾け、徹底的なテストまで行ってくれた。そして、ついに採用が決定したんだ。契約が決まった瞬間、長年の努力が報われた気がして、胸が歓喜でいっぱいだった。

久保田建設からの発注は、最新の高層マンションのエレベーター用で、金額にして約2000万円。小さな会社にとっては破格の金額であり、これが成功すれば今後の展開も大きく変わる。俺たちのKワイヤーが、今やっと日の目を見ようとしている。だが、ここで油断はできない。相手は、あの久保田ヒロトという2代目社長だ。彼は、技術部のメンバーが俺たちの製品を高く評価してくれたにも関わらず、最終決定権を持つ男の態度がこの取引をやりづらくしていた。

久保田ヒロトは、1台で会社を大きくした初代社長の息子で、生まれながらのお坊っちゃまだ。業界では派手な遊び人としても有名で、銀座の高級クラブやゴルフ場での浪費話が絶えない。会社の金を湯水のように使い、私腹を肥やしているという噂もある。そんな男だが、自分に利益があると判断したことには異常に敏感だ。金を稼ぐためならどんな手も使うと評判で、少しでも自分に不都合な条件が生じると、平然と契約を反故にすることでも知られていた。初めて会った時も、豪華なスーツに身を包み、ブランド物の時計をこれ見よがしに光らせていた。彼は俺たちのような中小企業の人間を見下すような目をしていて、取引の内容より自分にどれだけ利益をもたらすかを考えているのがありありと分かった。

契約が決まってから、ヒロトの態度はますます傲慢になった。納期をこちらの限界ギリギリまで縮めてくるのは日常茶飯事で、エレベーター用のワイヤーには全く必要のないデザイン変更や仕様変更を何度も要求してきた。それでも俺は、技術部のメンバーが俺たちの製品を押してくれている限り、この取引をやり遂げようと決意していた。だが、そんな決意を嘲笑うかのように、最悪の事態が起きた。高層マンションの完成前日、彼は信じられない一言を口にしたんだ。「2000万円分のワイヤー、やっぱキャンセルで」。その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。だが、動揺を表に出すわけにはいかない。

考えを巡らせること数秒。俺は落ち着いた声で言った。「キャンセルですか?オッケーです」。すると、ヒロトの表情が一変した。目を見開き、思わず身を乗り出してくる。明らかに俺の反応が予想外だったらしい。「え?あ、ああ、そう」と同揺しながらも、すぐに表情を引き締めて咳払いをする。彼は俺がもっと抵抗するか、絶望的な反応を示すことを期待していたに違いない。だが俺は、淡々と対応を続けた。「ただし、キャンセルの場合は規約に従って、キャンセル料を請求させていただきます。それに加えて、配送済みのワイヤーもあるので、返品扱いとなります。これに伴う処理費用も合わせて計上させていただきます」。俺はそう言いながら、事前に用意していた契約書のある部分を指さした。キャンセルが発生した場合の条件が明記されている箇所だ。実は俺は、こうなることを予測して、あらかじめ契約書の内容を徹底的に確認し、自社が不利にならないよう対策を講じていたんだ。

「キャンセル料だって?ふざけるな。そんなもの払う義務はないだろ」とヒロトは苛立ったように声を荒げ、拳を机に叩きつけた。それでも俺は冷静に続けた。「契約上、納品前のキャンセルにはキャンセル料が発生します。それも契約の半額分です。今回は納品が明日に迫っている急なキャンセルですので、これに対する追加の手数料も発生します。合計で約1000万円のキャンセル料と、200万円相当の返品費用が必要です」。俺の言葉を聞いた瞬間、ヒロトの顔は怒りで歪んだ。「おいおい、待て待て。そんな額、ただのキャンセルで払えるわけがないだろう」。今更そんなことを言っても無駄だ。俺はこれまでの取引で、どれだけ相手に振り回されてきたか身にしみて分かっている。その上で、いつキャンセルされても対応できるよう準備してきたんだ。キャンセルされれば一時的な痛手は避けられないが、泣き寝入りするつもりはない。「キャンセルを告げられた以上、規定に従って対応させていただきます。それとも契約の内容を無視するということでしょうか?」という俺の静かな問いかけに、ヒロトはしばらく黙り込んだ。だがすぐに再び怒りが湧き上がってきたのか、机を強く叩いて立ち上がった。「ふざけるな。お前らみたいな小娘が、大手にそんな請求できる立場だと思ってるのか。俺の言うことが聞けないなら、今後2度と取引なんてやらないぞ」。その瞬間、会議室の空気が凍りついた。俺は一呼吸おいて、彼の怒りを静かに受け止めた上で、ゆっくりと口を開いた。「それはこちらのセリフですよ」。俺は冷ややかにそう告げた。久保田がどれだけ怒鳴ろうと、こちらには法的な裏付けとかくたる信念がある。久保田は絶句し、しばらくの間口を開くことすらできなかった。張り詰めた静寂の中、俺は次の言葉を待つことなく、ゆっくりと立ち上がり資料を片付け始めた。これで勝負はついたと確信していたからだ。

取引が打ち切られてから数週間後、俺は衝撃的な事実を知った。久保田建設が、うちのワイヤーに変わって別の企業のワイヤーを導入していたんだ。通常なら、こんな急なキャンセルで他社のワイヤーを代替品として用意するのは不可能に近い。俺たちが受け負っていた物件は高層マンションで、エレベーターに使用されるワイヤーは特殊な耐久性と精度が求められる。製品の選定には時間と手間がかかるのが当然だ。なのに、久保田はあっさりとそれをやってのけた。しかも、導入されたワイヤーは俺たちのKワイヤー以上の値段で取引されていた。コストを最優先するはずの久保田が、わざわざ高いワイヤーに切り替えるなんて考えられない。この事実を知った時、俺の胸に込み上げてきたのは強烈な疑問と怒りだった。もしこれが偶然ではないなら、考えられるのは一つ。今回のキャンセルは最初から計画されていたってことだ。久保田は最初から俺たちを選ぶつもりなんてなかったんだ。俺たちの技術を試すような顔をしながら、裏では別の業者と契約を進め、ギリギリのタイミングでキャンセルを言い渡すことで自分に有利な取引を成立させようとしていたに違いない。そして最悪なことに、俺たちが請求したキャンセル料についても、一切の支払いは行われていなかった。

さらに耳を疑うような話が、業界の仲間たちから伝わってきた。久保田が、俺たちカジタ興業を業界内で誹謗中傷しているというのだ。「カジタ興業の製品はデータを偽っている。耐久性に優れているなんて嘘だ。キャンセル料を請求してくるヤクザのような会社だ」と。彼は自分が払うべきキャンセル料を、俺たちが勝手に決めた不当な要求だと言いふらしているらしい。契約書に基づいた正当な請求にも関わらず、まるで俺たちが悪事を働いたかのような言い草だ。あたかも自分たちが被害者であるかのような口ぶりで、あちこちに文句を撒き散らしているという。久保田のその卑劣なやり口は、俺たちの業界での信用を大きく損なった。他の取引先からも「データに問題があるって聞いたけど」と不審がられるようになり、一度失われた信用を取り戻すのは途方もない時間と労力がかかる。俺はどれだけ悔しい思いをしたか言葉にできない。やっとの思いで開発したKワイヤーが、こうも簡単に業界から弾き出されるなんて考えもしなかった。夜も眠れない日々が続いた。それでも、この状況に屈するわけにはいかない。久保田が何を言おうと、俺たちの製品の品質は確かだ。いつかまた必ずこのワイヤーを業界に認めさせる。その時まで、この悔しさを忘れずにずっと牙を研ぎ続けるんだ。

契約が破断になってから数ヶ月後、驚くべきニュースが飛び込んできた。久保田建設の最新マンションで、エレベーターの故障が相次いでいるという。住民からの苦情が殺到し、閉じ込め事故まで起こっている。原因は、エレベーターに使用されたワイヤーが安全基準を大きく下回っていたためらしい。俺は思わず目を疑った。久保田は俺たちカジタ興業を蹴った上で、わざわざ高額なワイヤーに切り替えたはずだった。それなのに、その代替品がまさかの粗悪品だなんて。そして数日後、出たさらなるニュースで全ての疑問が解けた。『久保田建設社長、キックバック受領の疑いで捜査対象に』。久保田は表向きには高性能なワイヤーを採用したと宣伝しておきながら、実際は業者と結託し、粗悪なワイヤーを高額で購入していたんだ。その見返りとして、裏で多額のキックバックを受け取っていた。つまり彼は、俺たちのKワイヤーを排除し、自分の懐を潤すために危険な製品を使っていたということになる。この事実が露見したことで、久保田建設は住民や取引先からの訴訟や賠償請求に追われ、経営不振に陥っているという。彼が業界で広めていた「カジタ興業はデータが合わない」「キャンセル料を要求する悪徳会社だ」といった風評も、全て自分の不正を隠すための方便に過ぎなかったんだ。久保田建設は、今や倒産の危機に瀕しているとまで報道されている。

久保田の不正が明るみに出たことで、彼は社長の座を追われた。会社には外部から専門の経営者が送り込まれ、信用を取り戻すために社名も変更されることになった。そんな中、俺たちカジタ興業には、故障したエレベーターの修理用として正式にワイヤーの発注が来た。しかも、久保田建設から支払われなかったキャンセル料も全額払われたんだ。結局、うちのワイヤーが最後に選ばれたのは、俺たちの技術が確かだったことを証明する結果となった。これまで彼が流していた「データ偽造」という噂が全て嘘だと証明され、逆にKワイヤーの安全性と性能が改めて注目されることになった。大手企業の不正が明るみに出たことで、誠実に技術開発に取り組んできた小さな会社の努力が評価され、結果的に大きな宣伝効果にもなったんだ。業界内では「やはりカジタ興業の技術は本物だ」という声が広がり、新たな取引先からの問い合わせも増えている。時間はかかったが、俺たちの努力が身を結び、技術力が世に認められたことを心から誇りに思う。久保田との騒動が、結果的に俺たちを一段上のステージへと押し上げてくれたんだ。これからも俺たちは、技術を武器に精々堂々と勝負し続けるつもりだ。

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