「中卒のお前には、そんな大きな仕事は無理だよ。中卒は雑用でもしてろ。」
営業部の同僚たちは、俺が中卒であることを馬鹿にし、毎日のように嫌がらせをしてきた。俺は黙って耐えていたが、心も体も限界だった。「トイレ掃除なんて、お前にお似合いだな。」そう言われても、俺は何も言い返せなかった。
それから5年後、俺は年商1兆円の企業グループの本社で働くことになった。だが、その日、俺はトイレの清掃をしていた。すると、偶然にもかつての元同僚が入ってきた。彼は相変わらず俺を馬鹿にして笑っている。しかし、その後ろで部下の顔が青ざめているのが見えた。
俺は今や、副社長だ。これから、あの男との正談が始まる。昔は縁のなかった話だが、今は違う。その正談の会議室で、俺たちは再び顔を合わせることになる。神座に座っている俺を見て、彼の顔から血の気が引いていった。
俺の名前は篠田平。誰もが一度は名前を聞いたことがあるような、有名な部品製造会社に務めている。だが、初めからこの会社で働いていたわけではない。この会社に入るまでには、色々なことがあった。
俺は小さい頃に父親を亡くし、それからは母子家庭で育った。母は昼も夜もなく働いてくれたが、それでも決して経済的に豊かとは言えなかった。女手一つで育ててくれた母親には今でも感謝しているが、貧乏暮らしで苦労したことは確かだ。
自分の家には高校に行くような余裕がないことを分かっていたので、俺は中学を卒業してすぐに、小さな町の工場で働き始めた。今では中卒で雇ってくれるところなどほとんどないだろうが、当時は中卒でも働ける場所がまだまだ残っていたのだ。
そのおかげで子供の俺でも大人に混じって仕事をして、その稼ぎを生活費に当てることができた。高校に行ってみたいという気持ちがなかったわけではないが、中卒で働いたおかげで母親にも多少は楽をさせてあげられたので、俺はこの選択を後悔していない。
俺が就職した工場の社長はとてもいい人で、子供の俺にも丁寧に仕事を教えてくれた。右も左も分からない未熟な俺に「才能があるよ」なんて褒め言葉をくれるものだから、お世辞とは分かっていても嬉しくなったものだ。社長や現場の先輩たちの指導のもと、俺は技術者として成長し、一人前と言えるまでになった。
こうして10代の残りの時間をこの会社で過ごし、俺が20歳になった頃、社長から唐突にある提案を受けた。
「お前、転職してみないか?」
何の前触れもなくそう言われたものだから、驚きで手が滑って、危うく部品を一つダメにするところだった。何の冗談かと思ったが、社長はひどく真面目な顔をしていた。
「転職?何言ってるんですか?社長。」
「いや、ずっと思ってたんだよ。お前みたいな優秀な奴を、こんな小さな町で終わらせるのはもったいないって。」
そのセリフに気を遣われ、俺は思わず黙り込む。今まで社長は俺のことを優秀だの才能があるだの褒めてくれていたが、それはてっきり子供にやる気を出させるための方便だと思っていた。しかし、あれは紛れもなく社長の本心だったのだ。それを知って、俺は感動で胸を熱くした。
「それでな、この前から得意先の社長にお前のことを売り込んでたんだ。そうしたら、是非会ってみたいって言っててな。どうだ?考えてみないか?」
まさか社長がそこまで俺のことを考えてくれていたとは思わず、俺は思わず泣きそうになった。社長には恩があるし、この会社にも愛着はあるが、このままでは大した給料をもらえないのは確かだ。母親もどんどん年を取っていくことだし、収入が増えるに越したことはない。
俺は「少し考えてみます」と言ったものの、答えはすでに決まっていた。こうして社長の売り込みのおかげで、俺は大きな会社への転職が叶ったのである。
俺は新たな会社の製造部に入り、これまでの経験を生かして大きな働きをしてみせた。その働きが認められたのか、転職してから5年後、俺は会社の花形部署とも言える営業部に移動となった。自分の力を認められたのは嬉しいが、これまでずっと技術者として働いてきたため、営業部の仕事は勝手が違い、戸惑うことも多かった。しかし仕事はしばらく働いていれば慣れてくるし、新たな業務を覚えることはそれほど苦ではない。
それよりも辛かったのは、営業部の同僚が俺の経歴を馬鹿にしてくることだ。製造部では俺が中卒であることを気にする社員はいなかったが、営業部では、ことあるごとに「中卒のくせに」と陰口を叩かれる。営業部の社員は大卒がほとんどだったため、俺は相当浮いていたのだろう。
周りの社員からは、中卒の俺が営業部に移動になったことが気に食わないという様子が、ひしひしと伝わってくる。特に俺に対する態度がひどかったのは、杉浦という同僚の男だ。杉浦は有名大学を卒業し、新卒時代から営業で活躍してきた営業部のエースである。自分の経歴には絶対の自信を持っており、酒が入るとこれまでの輝かしい功績を延々と語り出す癖があった。
それだけなら別に構わないのだが、彼は自分よりも劣っている経歴の人間を徹底的に馬鹿にしないと気が済まないという、質の悪い男だった。他の連中はまだ陰口を叩くくらいだったが、杉浦はとにかく攻撃的で、何かにつけて俺に嫌がらせをしてくる。杉浦は俺が中卒であることだけでなく、小さな町で働いていたことまでも馬鹿にして見下してきた。
「こんな大きな仕事、中卒なんかに任せられるかよ。お前はそっちの書類整理でもしとけ。」
「いや、これは俺が取ってきた仕事なんで。」
「ここはお前が働いてたような町とは違うんだよ。大人しく俺に渡せ。」
毎日がこんな調子で、経歴を馬鹿にするだけでなく、雑用を押し付けてきたり、手柄を横取りしたりと、やりたい放題だ。俺は日々の嫌がらせにうんざりしていたが、彼よりも経歴が劣ることは事実である。抵抗したところで無駄だと諦め、杉浦の理不尽な言動に黙って耐えていた。
杉浦の暴言や俺へのひどい態度は部内の社員みんなが知っているが、誰も彼を止めようとしない。きっと、中卒は何を言われても仕方ないとでも思っているのだろう。
しかし、野島という後輩だけは例外で、いつも俺のことを気にかけてくれた。
「篠田さん、大丈夫ですか?あんまりひどいようなら、部長に報告した方が…」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう。」
俺は周りを気にしながら、野島の肩を叩き、安心させるように笑った。彼の気持ちはありがたいが、部長に言ったところで何か変わるとは思えない。なぜなら、杉浦ほどではないが、部長も俺の経歴を内心バカにしていることを知っていたからだ。
「杉浦のことは気にせず、俺のやれることをやるさ。」
そう言って強がった俺だったが、やはり毎日続く嫌がらせは相当なストレスだった。これ以上は体と精神を壊すと判断した俺は、営業部に移動してから3年ほどで退職することを決めた。俺が会社を辞める理由はみんな分かっているだろうに、誰もそのことには触れてこない。それどころか、杉浦は悪びれる様子もなく、出社最終日にわざわざ俺に嫌味を言いにくる始末だった。
「たったの数年でやめるとか、お前どんだけ根性なしなんだよ。」
杉浦はニヤニヤした顔で俺の肩に肘を乗せた。俺は深いため息をつくが、彼と関わるのも今日限りだと我慢し、沈黙を貫いた。俺が何も言わないことをいいことに、杉浦は調子に乗ってさらに毒を吐く。
「中卒のお前には、この会社は無理だったってことだな。今度は中卒にお似合いの仕事につけよ。」
杉浦の失礼なセリフに、周りも同調したように笑い出す。野島だけは困ったような顔でオロオロしているが、先輩たちに口を出す勇気はなさそうだ。俺は自分へ向けられた侮蔑の視線に耐えながら、静かに頭を下げて会社を後にした。せっかく町の社長が紹介してくれた会社だったが、どうやら縁がなかったようだ。社長に申し訳ないと思いつつも、俺は長年のストレスから解放されたことにようやく安堵した。
それから5年後、俺は年商1兆円もの企業グループの本社に務めることになった。前の会社もそれなりに大きかったが、今の会社は規模が違う。初めてこの会社に足を踏み入れた時は、あまりの立派さに目を見張ったものだ。
その日、俺は会社のトイレの清掃作業をしていた。ちょうど掃除を終えて片付けをしていたところ、スーツ姿の男性2人が入ってきた。俺が邪魔にならないように体を脇に寄せると、入ってきた男性が「篠田か?」と驚いたように声をあげる。聞き覚えのある声にそちらを向くと、そこにいたのはかつて俺に散々嫌がらせを繰り返してきた杉浦だった。彼の後ろには野島もいる。野島は俺に気づくと丁寧に頭を下げ、「ご無沙汰しています」と挨拶してくれた。
杉浦はというと、野島の挨拶をかき消すような大きな声で笑い出した。
「おお、篠田だ。本当に久しぶりだな。なんだお前、会社やめて清掃員なんかやってんのか。」
杉浦はよく見慣れた意地の悪い笑みを浮かべながら、まるで獲物を見つけたハイエナのように下卑た笑いをしながら俺に近づいてくる。
「良かったじゃないか。会社をやめてから、どっかでのたれ死んでるんじゃないかと心配してたんだ。いやあ、トイレの清掃員なんて、中卒のお前にはお似合いの仕事を見つけたな。」
杉浦のセリフに、後ろにいた野島の顔がみるみる青ざめていく。そんな後輩の様子には気づかず、彼は得意げな様子で続けた。
「俺はあれから出世してな。今じゃ営業部の部長だ。これから、この大企業で5億の正談があるんだよ。」
それから俺の全身をまじまじと眺めて、顔に嘲りの色を浮かべると、ふっ鼻で笑って見せた。
「ま、お前には関係のない話か。住んでいる世界が違いすぎるもんな。」
「杉浦さん、やめてください。」
慌てた様子で杉浦を止めようとする野島を静止し、俺は穏やかな笑みを杉浦に向けた。
「出世したんですね。おめでとうございます。正談、うまくいくといいですね。」
杉浦は、俺が全く動じないことに一瞬いぶかしげな顔をしたが、俺が強がっているとでも思ったのだろう。すぐにいつもの人を見下したような顔に戻った。
「この正談がまとまったら、昔のよしみで飯奢ってやってもいいぜ。あー、でも俺がいつも行く店に着てくような服はないか?まさか、その服で高級レストランに入るわけにはいかないしな。」
杉浦は愉快そうに笑いながら鏡で身だしなみを整えると、自分の姿に満足して機嫌よくトイレを出ていった。出ていく時にわざわざ俺にぶつかっていくところは、もはやさすがとしか言いようがない。野島は縮こまった様子で頭を下げながら俺の前を通り過ぎ、慌てて杉浦を追いかけていった。
2人がいなくなり、今度こそ俺も出て行こうとした時、彼らと入れ違いのような形でスーツ姿の男性社員が入ってきた。彼は俺の姿を見ると、ぎょっとしたような顔をして慌ただしく言葉をつむぐ。
「まだその格好をされていたんですか?もう時間がありませんよ。早く準備してください。」
「分かった。」
俺は彼に追い立てられるようにしてトイレから出ると、せかされながらスーツに着替えた。そして会議室へと向かい、座って全員が揃うのを待つ。
しばらくすると、野島を引き連れた杉浦が息せき切って会議室へ入ってきた。しかし、そこで俺の姿を見て思わず足を止める。
「なんでお前がここに…」
高級なスーツに身を包んで神座に座る俺に、杉浦は相当戸惑ったようだ。そこで商談担当の営業部長が立ち上がり、俺のことを「副社長の麻野です」と紹介した。
「麻野?俺の名前を聞いてますます戸惑う杉浦に、俺も立ち上がって名前が違う理由を説明した。
「ああ、君は知らなかったね。俺は麻野社長の娘と結婚して、社長の家に婿入りしたんだ。それで苗字が篠田だから朝野に変わったんだよ。」
それを聞いた瞬間、杉浦の顔が一気に青ざめた。わなわなと震え出した杉浦には構わず、俺は彼の後ろからやってきた野島に声をかける。
「野島、久しぶりだな。結婚式の時以来かな。」
「お久しぶりです。先ほどは大変失礼いたしました。」
俺と野島の会話を聞いた杉浦は、弾かれたように野島の方へ顔を向ける。そして目を釣り上げ、ものすごい剣幕で野島に噛みついた。
「野島、お前、知ってたのか?」
実は、野島は俺の妻である麻希の大学時代の友人なのだ。麻野社長の一人娘だった麻希とは、俺が以前いた会社の営業時代に知り合った。この会社は取引先の一つだったため、俺は会社を辞める時に代理の挨拶に来ていた。俺が会社をやめると知った麻希は、もう俺に会えなくなると思い、ずっと俺に思いを寄せていたと告白してくれた。
それをきっかけに俺たちは付き合うようになり、麻野社長にも気に入られた俺は、麻希の家に婿入りとして入ることになったのだ。結婚式の準備をしている時、招待状のリストの中に野島の名前があり、俺は驚いた。野島も麻希の結婚相手が俺だと知って相当驚いたようだが、快く結婚式の招待に応じ、俺たちを祝福してくれた。
それ以来、野島とは会っていなかったが、たまにメールで近況などを聞き、色々と大変な思いをしていることを聞いていた。杉浦が部長になったのだ。苦労するのも無理はない。
俺の正体を知っていたことを杉浦から追求された野島は、顔の前で手を振りながら必死に弁解した。
「篠田さんが朝野社長の娘さんと結婚したのは知っていましたが、副社長になっていたことは知りませんでした。」
野島の返答に、杉浦は唇を噛み、怒りの矛先をこちらへ向ける。
「お前、作業着でトイレ掃除なんて、俺を騙そうとしたんじゃないのか。俺が何も知らないことをいいことに、腹の中でバカにして笑ってたんだろ。」
勝手に勘違いしておいて、騙すも何もないものだが、俺がこの会社の副社長だということをあえて明かさなかったことは確かだ。その点については、素直に謝罪した。
「勘違いさせたことに関しては申し訳なかった。実は、俺の母がこのビルの清掃員として働いているんだが、足を捻挫してしばらく仕事を休むことになってね、俺が代わりに清掃していたんだ。」
「副社長が清掃員だなんて、前代未聞ですよ。」
苦笑混じりに言う営業部長に、周りの社員たちも頷く。俺がトイレ掃除をしていることは、ほとんどの社員が知っており、初めはみんな慌てた様子で俺のことを止めに来た。しかし何度言っても俺がやめようとしないので、ついには根負けしたらしい。今では俺がトイレ掃除をしていても、誰も何も言ってこない。
「無心で掃除をしてると、いいアイデアが湧いてくるんだよ。」
苦笑混じりに答える俺に、営業部長は「仕方ないですね」とでも言いたげに肩をすくめた。
「さて、無駄話でだいぶ時間が過ぎてしまったな。正談を始めよう。」
杉浦は苦い顔で俺のことを睨んでいたが、ようやくここに来た目的を思い出したらしい。まだ怒りは収まっていない様子だが、席について正談の準備を始める。
正談は杉浦のプレゼンから始まった。杉浦は、正確には何かあるが人前で話すことは得意で、これまでも様々な商談を成立させてきた。その成果もあって部長になったのだろうが、今日のプレゼンはあまりにもお粗末だった。おそらく、俺が副社長になっていたという事実に動揺し、頭がうまく働いていないのだろう。支離滅裂なプレゼンに、俺だけでなく営業部長も顔をしかめる。
「ちょっと待ってくれ。」
まだ杉浦のプレゼンは終わっていなかったが、俺は途中でストップをかけた。
「君の説明では、何を伝えたいのかさっぱりわからない。野島、代わりに君がプレゼンをしてくれないか?」
野島が返事をするのと同時に、杉浦が「待ってください」と大きな声をあげた。
「このプレゼンの責任者は私です。野島では力不足です。」
杉浦が俺に敬語を使う姿が思いのほか気持ち悪くて鳥肌が立つが、俺は何気ない様子を装って彼に言う。
「俺からすると、君の方が力不足に見えるけどな。とにかく、このままでは正談にならない。野島、もう一度初めからプレゼンをしてくれないか?」
「はい、わかりました。」
野島は、悔しそうに顔を歪める杉浦を気にしながらも、改めてプレゼンを始めた。野島の説明は非常に分かりやすく、営業部長も関心した様子で頷いている。彼のプレゼンが一通り終わったところで、俺は野島に小さな言葉を送った。
「とても素晴らしいプレゼンだったよ。細部の説明まで的確で、そちらの熱意がしっかりと伝わってきた。」
続けて、彼のプレゼン中ずっと心に抱いてきた疑惑を口にする。
「この資料の責任者はそちらの杉浦部長だということだったが、もしかしたら、プレゼンの準備をしたのは君じゃないのか?資料作成者でなければ、今のプレゼンは不可能だろう。」
俺の指摘に、杉浦は目に見えてぎくっとする。野島は肯定も否定もせず、上司の反応を伺っていた。2人の様子を見て、俺は自分の考えが間違っていないことを確信する。俺は「やはりそうか」とため息をついた。昔から俺の手柄を横取りしていた杉浦のことだ。今更驚くようなことでもない。俺がいなくなった後は、野島たち後輩の手柄を横取りしてきたのだろう。野島のメールには詳しい事情は書かれていなかったが、おそらくこうしたことは日常茶飯事だったに違いない。
俺は資料から顔をあげると、杉浦の顔を真正面から見据えてきっぱりと言った。
「資料も作っていない上に、プレゼンもできない担当者では、話にならない。今回の契約は、担当者を野島に変更することを条件とさせてもらう。」
俺の言葉にカッとなった杉浦は、顔を真っ赤にして椅子を蹴り上げた。
「中卒の分際で、俺をバカにしやがって!」
「杉浦さん、やめてください!」
激怒しながら俺に掴みかかろうとする杉浦を、野島が必死に止めた。しかし、それがさらに杉浦を逆上させることとなり、野島は杉浦に殴られてしまった。
「野島!」
俺は慌てて野島に駆け寄り、倒れた彼を起こして体を支える。その間に、杉浦は駆けつけた警備員たちによって取り押さえられたため、それ以上の怪我人は出なかった。
「くそ!あの中卒野郎、絶対許さないからな!」
杉浦はなおも俺に対する暴言を撒き散らしていたが、警備員たちを振り払えるはずもなく、ずるずると引きずられるようにして会議室を出ていった。
静まり返った会議室で、最初に口を開いたのは営業部長だった。彼は愕然とした様子で、ぽつりとつぶやく。
「杉浦さんが、まさかあんな人だったとは…驚きましたな。」
杉浦は外面だけはいいので、これまで営業部長は彼のことを人当たりのいい青年だとでも思っていたのだろう。彼の本性を目の当たりにして、かなり衝撃を受けたらしい。俺は、野島が立ち上がるのに手を貸しながら、俺と杉浦のトラブルに巻き込んでしまったことを詫びた。
「野島、すまない。俺のせいで怪我をさせてしまって。」
「このくらい、どうってことありませんよ。」
野島は俺の差し出した手を掴みながら、明るい声で言う。
「それよりも、俺が言いたかったことを全部、あの人に言ってくれてありがとうございます。俺、本当にすっきりしました。」
そう言って微笑む野島に釣られ、俺も思わず笑ってしまった。
その後、杉浦は野島を殴ったことが問題となり、さらにこれまでの数々の仕打ちも明るみに出て、解雇処分となった。解雇理由が暴力であることから、再就職はなかなかに難しく、今は日雇いのバイトで食いつないでいるらしい。彼が散々誇っていた輝かしい経歴も、これで全ておじゃんになったわけだ。これも全て身から出た錆。いい気味だ。経歴で苦労する気持ちを、少しは味わうといいだろう。
本題の正談はといえば、担当が野島になったことでスムーズに打ち合わせが進んだ。これほどまでに生き生きと仕事をしている野島を見たのは、初めてかもしれない。営業部長も、野島の仕事ぶりに惚れ惚れした様子で、「うちに欲しいくらいだ」と絶賛している。この調子なら、この正談もうまくいくだろう。
俺は全力で仕事に取り組む野島を眺めながら、この会社に来たばかりの自分を思い出していた。麻野社長は、俺を婿養子にすると同時に、一般社員として俺を自分の会社に入社させた。入社だと侮られないよう、必死に働いたおかげで、いつの間にか俺は周りから一目置かれる存在になっていた。そして社長も俺の働きを認め、自分の後継者として育てるべく、副社長に抜擢してくれたのだ。
まだまだ未熟な俺を信じて副社長にしてくれた社長には感謝しかない。社長の期待に答えるため、また俺を信じてずっと支え続けてくれる妻のためにも、より一層仕事に励もう。俺はそう決意を固め、新たなスタートを切ったのだった。



