高層ビルの最上階、社長室の窓ガラスが晴天の光を反射して眩しいほど輝いていた。呼び出された俺は、長年の営業成績がついに評価されたのだと、どこか浮き足立っていた。だが、ソファーにふんぞり返った社長の神村が放った最初の言葉は、「もうノウハウ全部わかったから、首ね」だった。
呆然とする俺を見て、神村は軽い笑みすら浮かべている。引き継ぎも説明もなく、ただ「高い給料を払い続けるのはもったいない」と、まるで不要になった道具を捨てるように言い放ったのだ。
「どうなっても知りませんから」
そう静かに告げて、俺は無言で社長室を去った。20年近く積み上げてきた信頼と実績は、たった一言で踏みにじられた。
俺の名は海原ゆかり。新卒で入った大手で営業の基礎を叩き込まれ、数字より信頼を重んじるスタイルを確立してきた。感情ではなく理屈と実績で語る。それが俺の流儀だった。やがて社内でも一目置かれる存在となり、大きな契約を何本も決めてきた。
そんな時、中堅企業のグロースリンクから突然のヘッドハンティングを受けた。代表の神村が何度も食い下がり、年収は2倍、営業部の立て直しと改革の裁量も与えると言う。条件の異常さに心を動かされ、俺は長年お世話になった会社を辞めて転職する決意を固めた。
入社後、俺はまず営業体制の見直しに着手した。バラバラだった営業フローを標準化し、トークスクリプトや提案資料のテンプレートを作成。内部の教育制度も整え、基本動作を徹底的に叩き込んだ。同時に、前職時代に築いてきた顧客に自らの名で連絡を取り、会社の看板ではなく俺個人との信頼を土台に契約を取り付けていった。
結果はすぐに出た。短期間で受注件数と売上は大きく伸び、社内でも俺を見る目が変わっていった。最初はよそ者を見るような視線だった社員たちも、数字が証明し始めると態度を変え、相談を持ちかけてくる部下まで増えた。営業会議でも、俺が進める改善案に反論はほとんど出なくなっていた。
だが社長の神村だけは、現場を見ていなかった。会議にもほとんど顔を出さず、報告書にもまともに目を通さない。それなのに、俺の成果をあたかも自分の手柄のように語る姿には、違和感を覚えることもあった。それでも、現場を整えて数字を積み重ねていけば、いつかきちんと評価されるはずだと信じていた。あの日呼び出されるまでは。
呼び出されたのは昼過ぎだった。その日も新規案件の契約が決まり、チーム全体に手応えがあった。社長室のドアをノックすると、神村はリラックスした様子でソファーに座っていた。
「いや、海原君、最近の営業部いい感じだよね。マジで助かってるわ」
いつもの軽い褒め言葉かと思った。だが、次の瞬間、彼の口調が妙に芝居がかった明るさに変わる。
「だから君の仕事はここまででいいかなって思ってる」
一瞬、言葉の意味を取り違えたかと思った。
「いやいや、別に悪い意味じゃないって。君のノウハウもう十分に吸収できたし。マニュアルもシステムも全部共有済みだしね。営業先も確保できたし、君が今更いなくても正直どうにかなるんよ。だったらさ、高い給料払い続けるのって経営判断としてもったいないじゃん」
まるで不要になった書類を処分するかのような軽さだった。切り捨てるための理屈だけを都合よく並べ、感情も経緯も一切考慮していない。
「だからさ、今日で首ね。手続きとかは総務に回しておくから」
俺は黙って一呼吸置き、静かに問いかけた。
「それで本当に大丈夫ですか?」
「うん、全然。うちはもう勝ち確っしょ。君が種巻いてくれたし、あとは水やるだけでしょ」
検討違いな自信に満ちた笑顔だった。ここまで築き上げてきたものが、何によって支えられていたのか、彼はまるで分かっていない。
車内に戻ると、空気は静まり返っていた。何かを察した者もいただろうが、誰一人として声をかけてこなかった。黙ったままモニターに視線を落とし、俺の足音を聞き流していた。
荷物をまとめて会社を出た。誰にも告げず、誰にも見送られず。ポケットの中、古い手帳の背表紙に手を添えながら、俺はただ一つだけ思った。彼らは本当に全てを手に入れたと、そう信じているのか。
オフィスを後にし、俺はまっすぐ帰宅した。椅子に腰を下ろす間もなく、顧客リストを広げて電話を手に取った。
最初に連絡を入れたのは、前職時代から長年付き合いのある大手企業の部長だった。着信から数コール後、いつもと変わらぬ落ち着いた声が受話器の向こうに響く。
「実は、本日を持ってグロースリンクを退職いたしました」
一瞬の沈黙の後、部長は静かなため息をついた。
「あなたがなければ、この契約自体成立していませんでしたよ。正直に言って、会社名ではなく海原さん個人に信用を置いていたんです。専属担当者が離れる場合は契約の見直しが可能。そういう条項がありましたね。あれは私の提案でしたが、まさか本当に使うことになるとは」
それは、俺が事前に全ての契約に盛り込んでいた一条だった。契約成立の根拠が専属担当者の信用による場合、その担当者の退職を持って契約解除が可能とする。保険として入れておいた安全策だが、神村は契約の細部に関心を示さなかった。
「申し訳ありませんが、この契約、白紙に戻したいと思います」
俺は即答しなかった。一度だけ深く頷いてから、静かに言葉を返した。
「ご判断は、音社の経営判断に委ねます。私はもうそちらに所属する立場ではありませんので」
「ええ、ですがあなたへの信頼は変わりません。別の形でご一緒できる機会があれば、是非」
それだけを告げて通話は終わった。
その後も、一軒一軒誠意を持って連絡を入れていった。どの取引先にも、自分が退職したことと、今後の判断はあくまで先方に委ねると伝えた。戻ってきた反応は全て同じだった。あなたがいたから契約した。グロースリンクというより、あなた個人の責任感と実行力を信じていた。契約を解除したい。
気づけば夕方までに、主要取引先の半数以上が契約解除の連絡を入れていた。売上比率で言えば、全体の6割以上。それはグロースリンクがここ数ヶ月で急成長した要因そのものだった。
俺は何も煽らず、何も要求しなかった。ただ静かに事実を伝え、判断を相手に委ねただけだ。だがそれだけで十分だった。信頼は、資料や数字ではなく、人間の背中についてくるものだ。神村は、肝心のその背中を切り捨てたことに、まだ気づいていないのだろう。
次第に携帯が鳴り始めた。見覚えのある市外局番と番号。グロースリンク営業部の直通回線だった。俺はそれをそっと無視した。
数日後、グロースリンクの社内は完全に混乱に陥っていた。朝一番から営業部には取引停止の連絡が次々と入り、対応に追われていた。売上の柱だった大手数社が一斉に契約を白紙に戻したのだ。しかも、どれも専属担当者退職による解除という明確な理由があった。
神村はようやく事態の深刻さに気づき始めた。会議室では資料を叩きつけるように広げ、怒鳴り声が響き渡る。
「なんで契約が次々切られてんだよ!」
社員が事情説明をしようとしても、神村は耳を貸さず怒りを撒き散らすばかりだった。
「俺のせいじゃない!お前らがちゃんと引き継いでないからだろ!担当が抜けただけで契約切るなんて異常だろ、普通!」
彼の中では、全てが他人の責任だった。だが周囲の社員たちは分かっていた。あの男が退職した瞬間から、契約の土台は崩れていたのだと。
「海原さんがいなくなってから、取引先との会話が全部よそよそしくなってる気がするんですよね」
「マニュアル通りに話してるのに、うまくいかないっていうか。あの人、資料だけじゃないものを持っていたんだと思います」
そんな現場の声は、神村には一切届かない。そんな中、さらなる追い打ちが襲う。残っていた小規模の取引先からも、不安の声が上がり始めた。
「大手が一斉に離れたと聞いて、不安です。体制に問題があるのではないか。契約内容を見直させてほしい」
それは時間差の信用崩壊の波だった。一つの契約解除が次を誘発し、噂が噂を呼び、不安が連鎖していく。
神村はついに会議室で絶叫した。
「海原を呼び戻せ!あいつが戻れば話は戻るんだろう!」
その声がフロア全体に響いたが、誰も動かなかった。すでに営業部の誰もが、収集がつかないと悟っていた。神村の焦りだけが空回りしている。社内チャットでは、客にどう説明すればいいのか、マニュアル通りにやっても効果がないといった声が飛び交い、担当者たちは疲弊していた。
夕方、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは神村の名前。俺はしばらく見つめたままだったが、無言で通話ボタンを押した。
「おい、海原。出ろよ」
いつもの馴れ馴れしさはなかった。かと言って、頭を下げる感じでもない。不満と苛立ちが混ざった、落ち着きのない声だった。
「お前が抜けてから、契約がガンガン切られてんだよ。専属担当が退職したから解除するってさ。そんなの、そっちから仕組んだんじゃねえのか」
怒っているのは、失った売上でも会社の信用でもない。自分が思い通りにコントロールできなくなったことに対する怒りだ。
「契約内容は音社も確認済みのはずです。私はその通りに対応したまでです」
「お前が動いたからだろ!退職の連絡なんかするから、全部変な空気になったんだよ!黙ってればよかったんだ!」
俺は黙って聞いていた。自分が首を切った相手に対して、ここまで平然と責任をなすりつけるとは。
「営業が回らないんだよ。数字が落ちて、部下も混乱してて地獄だ。でもな、あの取引先、全部お前の名前で繋がってたって。会社のブランドで契約したんじゃなかったのかよ!」
声が次第に大きくなる。理屈のない怒りが、焦りを通り越して恨みに変わりかけていた。
「戻ってきてくれ。給料は倍にする。戻ってきて、全部元通りにしてくれ。お前が戻れば、契約も営業もなんとかなる。だから……」
その声の奥には、自分は悪くないという強い執着がこびりついていた。都合の悪いことは全部外に押し付け、手柄だけを抱え込む。俺が辞めた理由を、未だに理解していないのだ。
「なあ、海原。頼むよ。もうお前しかいないんだよ」
俺は静かに口を開いた。
「戻るつもりはありません。ご期待には添えません」
「は?お前、今なんつった?」
「私の居場所は、あそこにはありません」
「ふざけんなよ!こっちは頭下げて頼んでんだぞ!給料だって倍にするって言ってんだ!何が不満なんだよ!金じゃ足りないのか!」
「条件ではありません。私はこれまで、契約相手と正面から向き合い、信頼を積み重ねてきました。その信頼を裏切るようなことはできません」
「ならせめてさ、取引先だけでも説得してくれよ!『海原はもういないけど契約は継続してください』って一言伝えてくれたらいいだけだろ!そうすりゃ向こうも落ち着くだろうがよ!」
俺は一呼吸置いて答えた。
「私は、あの方々に顔向けできるような行動をしてきました。そして、その信頼を守るために今も動いています。裏切るような真似は、私にはできません」
「裏切り?何言ってんだよ、お前!お前が辞めたせいで契約がバタバタ切られて、社内がパニックになってんだぞ!なのに、信頼とか誠意とか綺麗事ばっか言いやがって!」
「音社の経営判断に従って退職したまでです。必要ないと判断された側に、責任はありません」
「くそ!高が一社員のくせに、何なんだよお前は!調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「もし私一人で成り立つ契約だったのだとしたら、それは音社のブランド力ではなく、私個人の信用で築かれていたということです」
その一言で、神村の中の何かが完全に切れた。
「お前さえいなけりゃ……お前がいたから調子に乗ったんだよ!お前がいたせいで、みんなお前しか見なくなったんだよ!ああ、俺は悪くねえ!あいつらが異常なんだ!お前もだ!お前もおかしいんだよ!」
叫び声が受話器を突き抜けるように響いた。俺は無言で通話を切った。画面に通話終了の表示が浮かび、部屋に静寂が戻る。神村の声はまだ耳に残っていたが、俺の心には何の波紋も起きていなかった。
グロースリンクは、その後急速に崩れていった。主力の契約が一気に失われたことで、月ごとのキャッシュフローは崩壊寸前。補填のために動いた新規営業も成果が出ず、残った顧客すら次々に不安を口にし始めた。営業部は疲弊し、社内には暗い空気が漂っていた。
それでも神村は現実を直視しなかった。
「俺のせいじゃない。おかしいのはあいつらの方だ。社員がいなくなったくらいで崩れるなんて、最初から異常だったんだ」
そんな言葉を何度も繰り返していた。だが社員たちは次第に離れていった。まともな説明もなされないまま、混乱と不満が飛び交う社内に、誰も希望を見い出せなかった。経営者仲間からも距離を置かれ、相談を持ちかけても曖昧な返答しか帰ってこなくなった。かつて神村の周りに集まっていた人間は、今では誰も残っていない。
数ヶ月後、グロースリンクは事業の一部を売却し、事実上の縮小経営に入った。社長として表に出る機会も激減し、神村の姿を見かけることもほとんどなくなった。それでも彼は、今も言い続けているらしい。
「あいつさえいなければ、こんなことにはならなかった。あの社員が異常だったんだ。俺は間違ってない」
だが、もう誰も耳を貸していない。
一方、俺は変わらず、また新しい会社で静かに人と向き合い、仕事をしている。信頼を積むのは時間がかかる。だが、壊すのは一瞬だ。それは誰にでもできることではない。だからこそ、丁寧に積み上げていく価値がある。そう思いながら、今日もまた、電話を一本丁寧に繋ぐ。相手の声にまっすぐ答えるために。



