「お前のような立場もわきまえない奴は首だ。今すぐここから出ていけ」
フロアに部長の怒鳴り声が響いた。私は静かに「わかりました。では失礼します」と言って、そのまま会社を出ていった。部長とその息子は満足そうな表情を浮かべていた。当然だ。彼らは私の父親が誰か知らなかったのだから。
私は水谷賢太。27歳。大手自動車メーカーに勤めて5年になる。小さい頃から車が大好きで、いつか自動車に関わる仕事がしたいと思っていた。だからこの会社で働けることに大きな満足感を感じていた。福利厚生もしっかりしたホワイト企業で、社員もいい人が多い。私はこの会社に一生を捧げたいと思うほど愛着を持っていた。
季節は春。新入社員を迎える時期になった。今年はうちの部署にも新入社員が配属されるらしい。そんな噂がオフィスのあちこちで飛び交っていた。
「水谷君、今年はうちの部署にも新入社員が入ってくることになってね。実はその子の教育係として君を指名しようと思っているんだ」
突然、課長からそう話しかけられた。
「自信はあまりないですが、期待に添えるよう頑張ります」
そう答えると、課長は少しずれたメガネを直しながら、声を潜めて続けた。
「実はその新入社員というのが、部長の息子さんらしくてね。コネ入社じゃないかとも言われているんだ」
「はあ。コネ入社ですか?それも部長の息子」
多少驚いたが、コネ入社自体は世間にありふれていることを知っていたので、さほど気にはならなかった。それよりも、部長の息子というところが少し引っかかった。部長については、社内であまりいい噂を聞かない。平気で公衆の面前で怒鳴り散らしたり、自分の仕事を若手社員に押し付けて自分は帰ってしまったり。しかも自分の子供には滅法甘く、過去に先生が息子を叱った時には教育委員会に直接乗り込んでいったという話もある。
「部長の息子か。面倒なことにならないといいけど」
そんな不安を抱えながら、コーヒーでも飲もうと立ち上がったその瞬間、後ろから声がした。
「やあ、みんなおはよう」
部長と、噂の新入社員であろう男性がやってきた。部長の後ろにいる彼の格好は、社会人と呼ぶにはあまりに無頓着なものだった。髪は寝癖がつき、スーツもよれよれ。挙句の果てにはポケットに手を突っ込みながら歩いてきた。こいつは絶対にやばいやつだと、直感的に思ってしまった。
一通り挨拶を終えた部長は皆の前に立ち、誇らしげに言った。
「こいつは俺の息子の伊藤カイトだ。よろしくやってくれ」
事前に知っていた課長と私は驚かなかったが、何も知らない他の人たちは目を丸くして驚いていた。
「カイトの教育係は誰だ?」
部長が課長に話を振ると、課長は遠慮気味に答えた。
「あ、はい。水谷君に任せようかと思っています」
「水谷君か。カイトをくれぐれもよろしく頼むよ。くれぐれもな」
部長は私を睨むように、体全体でなめ回すように見ながら言い放ち、そのまま部署を出ていった。
「なんで『くれぐれも』って2回言ったんだ。粗末に扱わないと痛い目に遭わされるということか」
少しの違和感を覚えつつも、私は覚悟を決めてカイト君とのファーストコンタクトに向かった。
「伊藤カイトさんですね。私はあなたの教育係となりました水谷賢太と申します。これからよろしくお願いしますね」
印象をよくしようと笑顔で自己紹介すると、カイト君は「ああ、よろしくな」と、仲のいい友達に会ったかのような態度で返事をした。一瞬、耳を疑った。社会人としてありえない態度だったが、気にするだけ無駄だと思い、早速簡単なデータ入力作業を彼に頼むことにした。
だが、カイト君の返答は予想外のものだった。
「え、なんでこの俺がこんなのやらなきゃいけないんすか?俺は名門私立大学出身のエリートですよ。そんな仕事はその辺の低学歴がやる仕事でしょう。そんなことよりも、もっと難しい仕事やらせてくださいよ」
自分の学歴の高さから、自分を過大評価しているようだった。先行きが不安だと思いつつも、冷静を装って「この仕事ができれば、もっと難しい仕事をやらせてあげるから」と挑発的な口調で述べると、カイト君は文句を垂れつつも、その日はなんとかその仕事をこなしてくれた。
だが、安心したのも束の間。実際に彼が来てからの一ヶ月は悲惨の一言だった。初日に頼んだデータ入力も間違いだらけ。資料のコピーなどの雑用も「こんな仕事は俺に合っていない」と逆切れする始末。自分を過大評価しているものだから、一向にできないことを改善しようともしない。
仕方がないから、彼が言うように難しい仕事をさせようと考え、お得意様の元に連れて行ったはいいものの、取引先に対してシャスと意味不明な挨拶をし、コミュニケーションを取ろうという姿勢も見られなかった。後で理由を聞くと、
「なんで俺があんな中小企業の人と対等に会話しなきゃいけないんだ。あんたがすればいいだろう」
と、また人を見下すような発言をし、自分の過ちは棚に上げる始末。口調も敬語も相変わらずなっていない。何をやらせても「自分は悪くない。全て俺以外の無能のせい」の一点張りで、全く仕事の役に立たず、成長の兆しすら見ることができなかった。
私は、課長が自分を推薦してくれた手前、なるべくことを荒立てたくなかったので、カイト君の横柄な態度を自分が我慢することでなんとかバランスを取っていた。だが、彼の増長した言動が取引先や同僚など、次第に周りに悪影響を与え始めつつあることにも気がついていた。
「そろそろガツンと言わなければならないかな」
私は普段は温厚で面倒見の良い方だと自負しているが、一向に態度を改めないカイト君に喝を入れる必要があると考え始めていた。
そんなモヤモヤした気持ちを抱えながら、カイト君の教育として、もう何回も説明したであろう作業の手順を再度説明させられていた。
「だから、こんな雑用は俺の仕事じゃないって何度も言ってるでしょ。なんでわからないかな」
今日は機嫌が悪いのか、一段と上司である私への暴言がひどい。さすがに言いすぎだろうと思い、私はなだめるように軽く注意をしたつもりだった。
「取引先での態度を含めて、人を見下すような発言は自分の身を滅ぼすよ。もう少し大人になったらどうかな」
「なら、お前が大人になって俺の言う通りに動けよ」
さらにヒートアップした彼の言葉に、さすがに堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしろ!それでも社会人か!」
思わず大声で叫んでしまった。普段誰かに怒られることがなかったのか、カイト君はとても驚いた表情を見せていたが、すぐに逆切れして、
「お父さんに言いつけてやる!」
と言い残して、その場を飛び出していった。私は一瞬の怒りに身を任せてしまったことに反省しつつも、冷静になりつつある頭で「子供か」と思いながら自分の仕事に戻った。
だが、数分後、お父さんへの告げ口が終了したのか、部長を連れてカイト君が戻ってきた。彼がどう誇張して部長に告げ口したのかは分からないが、部長が怒り心頭で我を忘れていることは遠目から見ても分かった。私は数分前から部長に怒鳴られる覚悟はできていた。
部長は部署に入ってくるとすぐに、
「うちの息子を馬鹿にした水谷はどこだ?早く出てこい!」
と怒鳴り散らした。
「はい。ここにいます」
私は諦めにも近い感情で手を上げた。課長を含めた周りの皆も、この様子を波風立てないようにパソコンの影からひっそりと見ている。
どうせ怒られるなら、言いたいことは言ってしまおうと半ば投げやりな気持ちになった私は、謝罪と共に、
「息子さんのためには、しっかり教育する必要があった」
という胸の内を伝えようとした。だが、部長は私の言葉を途中で遮え切り、人差し指を私に向けて怒鳴りつけた。
「お前のような立場もわきまえない奴は首だ!」
「お前の息子を首にしろよ」
と言い返そうと思ったが、さすがにそこまではできず、私はこう言った。
「そこまで言うなら分かりました。今日の業務はもう終わったので、失礼します」
そう言って、私は帰る支度を始めた。身支度を整える私を見て、部長とカイト君は満足そうに笑いながら、
「会社やめるんだから、全部の道具一気に持ち帰れよ」
と小馬鹿にした態度で言ってきた。さすがにイラっとしたが、ここで乗ったら本当の意味で人生が終わると思った私は、じっと耐えた。
その後、私が有給を取って会社にいない間、カイト君は何の仕事も与えられなかったようだ。それもそうだ。教育係である私が、部長のバカ息子によって辞めさせられそうになっているのだから、そんなリスクのある相手に積極的に関わる人はいないだろう。
こうして私がまだ有給を消化している最中、部長が気まぐれに息子の様子を見に行くと、その目の先には何もせず窓際社員になり果てたカイト君の姿があった。その様子を見た部長は、すぐに課長に、
「どうしてカイトに仕事をやらせないんだ。あいつが暇そうにしているぞ」
と問いかけた。日和見主義の課長は、「彼は仕事ができないから任せられる仕事がない」とは口が裂けても言えるはずもなく、答えに窮していた。
そんな折、社長が視察という名目で私が働いている部署にやってきた。社長はキョロキョロと何かを探している様子だったため、課長が声をかけた。
「社長、何かお探しですか?」
「息子に話があるのだが、どこに行った?」
と、逆に問い返された。社長に息子がいることすら知らなかった課長は、誰のことを言っているのか分からなかったので、
「失礼ですが、どなたのことですか?」
と、慎重かつ丁寧に社長に聞き返した。すると、社長は「ああ、言ってなかったね。ごめんよ」と謝ると、
「水谷賢太だよ」
とはっきり答えた。
その瞬間、社長が来てからというもの、顔色をチラチラ見ながら仕事をしていた部長とカイト君は、それを聞いてみるみる顔色を変えていき、まるで死人のような様相になっていった。
課長も、まさか私が社長の息子だとは思っていなかったようで、気まずそうに先日起こった事件の顛末を包み隠さず社長に話し、さらに本日それが原因で私が休んでいるということも伝えてくれた。
そう。私はこの会社の社長の息子だったのだ。父と私の苗字が違うのには理由がある。それは私の両親が事実婚だったからだ。つまり、私の両親は結婚していないのである。社長の息子であることを隠そうとしていたわけではないが、言う必要がないと考えていたのだ。その理由は至って単純。社長の息子と誰かに言っても、何の得も得られないからだ。
確かに、会社の面接などで社長の名前を出せば、簡単にコネ入社できたのかもしれない。だけど、私は自分の実力で行きたい会社に入りたかったし、ゴマをすられたりするのはもうごめんだった。小さい頃は「社長」という響きがかっこよくて友達に自慢していたが、そのせいで私が努力して手に入れた成果は「才能」ではなく「社長の息子だから」という言葉で片付けられてしまっていた。それ以来、私は社長の息子であることを自分から言うことはなくなった。
だから、課長や同僚を含めて、私と社長の関係を知っているものは今まで誰一人としていなかった。もちろん、知っていたら部長もカイト君もあのような態度は取らなかっただろう。私がこの父の会社に入社したのももちろんコネではない。社長との関係は明かさずに採用されている。自分の実力で掴み取った椅子だ。
さて、話は戻って、その一連の話を聞いた社長は、部長を見て不気味に笑いながら、
「先日は息子がお世話になっていたみたいで」
と、声を震わせながら話しかけた。部長は、何重にも意味が含まれているであろうその言葉があまりにも恐ろしくて、声を出そうにも出せない状態だった。
社長はさらに言葉を続けた。
「君はバレていないと思っているみたいだが、君が私の前だけでいい顔をしていることは知っていたよ。君の部下に対する暴言や高圧的な態度もよく耳に入ってきているよ」
本当に部長はバレていないと思っていたらしく、その言葉を聞いて部長の息遣いがどんどん荒くなる。
「君の息子さん、か。君だったかな?君も人を見下すような発言の数々、息子から聞いているよ」
今までの展開の速さに状況があまり飲み込めていなかったカイト君も、ようやく父の真っ青な顔と激しい動悸を見て、ことの重大さに気づいたようである。
「このことは上に持ち帰って議題にあげることにするよ。君たちの処分も後日に下るだろう。あまり期待しないでくれよ。それ相応の処分は受けてもらうつもりだからね」
いつもは温厚で仏様とさえ呼ばれている社長が、珍しく阿修羅像のような厳しい表情で二人を睨んだ。
「カイト君、人のような顔をしているが、君はまだ使用期間中だったね。君も覚悟しておいてね」
その言葉に、カイト君はもう自分が助からない状況であることを理解し、膝から崩れ落ちた。
私は有給を使用して仕事を休んでいたため、この一連の騒動は社長本人から直接聞いた。そうして私は久しぶりに出社したのだが、迷惑をかけた課長に謝罪した。
「課長、こちらでご迷惑をかけたみたいですみません」
「別に気にしてないよ。しかし、社長の言葉で久しぶりにスッキリできたよ。実は自分も少しだけカイト君にはうんざりしていたんだ」
そう笑いながら課長は言った。その課長の言葉を遮るように、私の周りに今まで話しかけていいものかと様子を伺っていた上司や同僚がやってきて、
「やっぱりお前はすごいやつだったんだな」
と次々に褒めてくれた。突然向けられた賛辞の言葉に戸惑いつつも、やっぱり嬉しさは感じるのであった。
そして、今回の騒動の張本人である部長とカイト君は、案の定、上での会議の結果、会社に不利益を与えたとしてそれぞれ解雇となった。
ここからは風の噂だが、部長は50代という扱いづらい年齢ということもあり、未だに今までの貯金を切り崩して生活しているらしい。しかも、妻には「お金を稼げないあなたに興味はない」と言われ、妻にも出て行かれたそうである。
カイト君の方も、今まで大学や会社にコネで入り、甘い蜜を吸っていた反動なのか、何のスキルも持っていないわがままな彼を雇ってくれる会社はなく、日雇いのアルバイトで実家暮らしをしているらしい。
私はと言うと、カイト君が入社する前の素晴らしい職場に戻ったことを父である社長に感謝しながら、日々精進し、今まで以上に楽しく仕事をしている。



