下請けのくせに高級ワインの味がわかるのか?飲めないなら止めるぞ。
俺の大切なスーツに赤ワインの染みがじわじわと広がっていく。ワインをぶっかけたのは取引先の担当者で、同級生でもある三谷だった。怒りが湧き上がる一方で、俺の口から出た言葉が予想もしない展開を引き起こし、結果的に三谷は泣いて謝罪することになる。
俺は織田、43歳。小さな下請け会社でスイーツの試作品を作る一般社員だ。子供の頃から甘いものが大好きで、お菓子作りに携われる自分は世界で一番の幸せ者だと思っている。しかし、そう思わない人間もいた。
「男のくせにお菓子好きなんて女みたいだな」
小学生の頃、そう言って馬鹿にしてきたのは同級生の三谷。不幸なことに、三谷とは小学校から高校までずっと同じ学校だった。声も態度も大きい三谷が囃し立てると、周りも釣られて俺を笑った。学生時代は三谷のせいでいい思い出がない。それでも俺はお菓子を嫌いになることはなかった。
高校3年生の春、俺が短大に進学すると知った三谷は上機嫌な笑顔で言った。
「俺は国立大学に行く。底辺の短大を選んだお前とは違うんだよ」
俺が短大に行くのはお菓子作りを学ぶためだ。しかし三谷は俺の選択を失敗だと馬鹿にし、受験が終わるまでこれをネタに絡んできた。あいつの嫌味が止まったのは国立大学の合格発表の日。あれだけ自慢げに言っていたのに、結局不合格だったのだ。最終的に滑り止めの私立大学に進学。卒業後は交流が途絶え、あいつが今どこで何をしているかは知らない。同窓会に三谷が姿を表したことは一度もなかった。
ある日、俺は両親と共に母方の実家を訪れていた。夕食をご馳走になっていると、同席した叔父が話しかけてくる。
「最近どうだ?仕事の方は順調か?」
「まあね。最近大手から下請け契約を依頼されて、売上もそこそこだよ。商品開発部なんだけど、元受けとの窓口を任されてさ」
2ヶ月前、我が社は大手食品メーカーと下請け契約を結んだ。全国に店舗があり、かなり知名度が高い。おかげで忙しい毎日を送っていた。
「へえ。どこの会社だ?」
俺が会社名を告げると、叔父が少し表情を曇らせる。
「ああ、その会社か。まあ頑張れよ」
何か言いかけて口を閉じたような素振りに、俺は首をかしげた。叔父は仕事柄、多くの会社と関わりがある。何か知っているのだろうかと思いつつ、それ以上は追求しなかった。
契約から3ヶ月後、担当者変更の連絡が届いた。元の担当者は転職で会社を辞めたという。新しい担当者と良好な関係を築こうと決意し、挨拶のために元受けの会社へ伺った。
新しい担当者は同姓同名だったが、珍しい名前ではないし他人だと思っていた。しかし、会議室で待っていたのは、あの三谷だったのだ。
数十年ぶりの再会に、俺たちはしばらく黙り込んでしまう。先に口を開いたのは三谷だった。
「お前、まだお菓子作りなんかしてんの?変わってないな」
そう言って嫌な笑みを浮かべる三谷。これは良くない笑顔だと直感で悟った。
「まあ知らない仲じゃないし。今後はよろしくな」
「ああ。うん。よろしく」
「おい、なんでタメ口なんだよ。俺は元受け様だぞ。下請けのお前とは対等の立場じゃねえよ」
突然の罵倒に、俺は再び驚きに目を丸くした。どうやら三谷は学生時代から変わっていないらしい。いや、権力を得た今の方がひどかった。
三谷の嫌がらせは元受けという立場を使った質の悪いものだった。
「今の取引価格は高すぎる。3割減らせ」
顔を合わせるたびに無理な値下げ要求をされ、時には新商品開発という名目で実現不可能な注文書を突きつけられた。無理だと要求を突っぱねると、三谷の会社からの発注数が突然半分以下に落ちた。事前の通達なしの一方的な決定だった。
自分だけに迷惑をかけるならともかく、会社を巻き込むなら話は別だ。あいつに会いに行かないと。俺は大切な話し合いの時にだけ着るスーツに袖を通し、三谷の会社を訪れた。
「ああ?下請けのくせに随分いいスーツ着てるな。どこで買ったんだ?」
嫌な笑みを浮かべながら俺を見る三谷に、予想外の質問だったため素直に答えてしまった。
「妻からのプレゼントです。高級デパートで買ったと言ってました」
「下請けの身分で高級デパート。っていうかお前、結婚してたんだ。下請けの低収入のくせに。まあ俺も結婚してるけどな。俺にお似合いの美人の妻だぜ」
まるで俺に対抗するように自分の妻を自慢する三谷。ふと学生時代のことを思い出した。テストを返却する際、三谷は毎回俺の点数を聞いてきた。そして毎回のように俺に負けていた。目の前にいる三谷は、学生時代と同じ目をしている。俺に負けるのが嫌だという目だ。
「発注についてですが、考え直していただけませんか?」
「無理だ。うちは最近コスト削減を目指しててな。発注を減らしたのは仕方なくだよ」
「しかし、急な削減はこちらとしても困ります」
三谷は何かを考える素振りを見せ、ポンと手を打った。
「だったらお前、接待しろよ。そしたら考え直してやる」
「接待ですか?分かりました。馴染みの料理屋があるんです。雰囲気もいいですし、料理も酒も美味しいんですよ。そちらを予約します」
「は?絶対と言ったらキャバクラに決まってんだろ」
三谷の発言に俺は少しだけ焦る。
「お互い既婚者ですし、そういう場所はちょっと…」
「じゃあ発注はこのままにするぞ」
発注を盾に取られ、俺は仕方なく頷くしかなかった。
その日の夜、俺と三谷は繁華街にあるキャバクラへ向かう。
「お菓子好きで根暗なお前に店選びは任せられん。俺の馴染みの店に行くぞ」
どうやら普段からこういう遊びをしているようだ。呆れつつ三谷に続いて店に入る。華やかな女性たちに出迎えられ、三谷は嬉しそうだが、俺は落ち着かない。心の中で妻に申し訳ないと謝罪しつつ、早く時間が過ぎることだけを祈っていた。
三谷は俺を放置して勝手に楽しむ。どんどん酒を飲み、1時間もすると完全に酔っ払ってしまった。
「ジちゃん、俺とアフター行こうぜ」
酔った三谷が近くにいた若い女性に手を出そうとする。不穏な手つきに、俺はとっさに女性と三谷の間に割って入った。
「三谷さん、そういうのはやめましょうよ。女性と遊びたいならスマートに行かないと」
次の瞬間、三谷は激怒した。
「下請けのくせに生意気だぞ」
そのまま三谷は店を出ていく。女性にはお礼を言われたが、結局発注を元に戻すことはできなかった。
俺を襲うのはこれだけでは終わらなかった。発注数が減った件で上司に呼び出されたのだ。
「お前が三谷さんを怒らせたんじゃないのか」
同じく空気は俺が所属している開発部にも呼んだ。同僚からの苦言に何も言えず、口を閉ざすしかできない。さらに業界の噂で、三谷の会社が別の下請けに我が社の類似商品を作らせ始めたという情報が入ってきた。もし完成したら、我が社との取引を完全に停止させるだろう。会社の仲間たちからバッシングを受け、取引先も失おうとしている。
「どうすりゃいいんだ」
頭を抱えて呟くが、解決策は見つからない。みんなの言う通り、頭を下げに行くしかないか。俺はため息をつきながら、三谷に連絡を取るためスマホを取り出した。
1週間後、俺の必死の頼みが功を奏したのか、三谷との会合が叶った。場所は先日と同じキャバクラを指定され、俺は勝負服のスーツを着て気合いを入れて店に向かった。
「さて、今日も経費で飲むぞ」
俺の話を聞くつもりはあるのかと不安に思いつつ、奴に続いて店に入る。キャバ嬢の一部が三谷を見て嫌そうに顔をしかめたのに気づいた。先日の件を反省していないようで、三谷は調子に乗って飲む。
「おい、お前も飲めよ」
キャバ嬢に無理やり飲ませようとしたため、俺は慌てて止めた。席に着いた女性は19歳で、まだお酒を飲める年齢ではなかったからだ。
「三谷さん、やめてください」
また罵倒されるかなと身構えていると、三谷は予想外の行動に出る。
「下請けでも高級ワインの味がわかるのか?飲めないなら止めるぞ」
なんと、右手に持っていたワイングラスの中身を俺に向かってぶちまけたのだ。入っていたのは赤ワイン。妻からプレゼントしてもらった大切なスーツに染みが広がっていく。じわじわと染み込んでいく赤いシミを、俺はただ見つめていた。
その時、妻の顔が浮かんだ。
「このスーツが私の代わりにあなたを守ってくれますようにって、願いを込めたの。これを着ていればきっといいことがあるわ」
仕事に迷いを抱えていた俺を支え、苦難を乗り越えさせてくれた言葉だ。三谷への怒りと同時に、頭の中に学生時代からの三谷の声が蘇る。「女みたいだな」「底辺の短大」「下請けのくせに」キャバクラでの傲慢な振る舞いも全てが一度に押し寄せてくる。呆れを通り越した悲しみに近い怒りが胸の底から込み上げてくる。俺の中の何かが音もなく結界した。
俺はゆっくりと顔を上げ、三谷を静かに見据えながら言い放った。
「では、昨日頭を下げていた1000億の融資、中止って社長に伝えとけ」
「はあ?何のことだよ」
「御社は法手銀行に融資を依頼してますよね。そこの創設者が俺の祖父なんですよ」
三谷の表情に少しずつ驚きの感情が広がっていく。
「本社が融資を依頼した法手銀行の融資担当者は、俺の母方の叔父です」
俺は少し前、母方の実家へ行った時のことを思い出していた。相変わらずすごい豪邸だな。大手銀行の頭取はすごいなと思いつつ、無駄に豪華な玄関をくぐった。今日は叔父に呼び出され、この家にやってきたのだ。頭取の祖父はすでに亡くなり、自宅は叔父のものになっている。母はその昔、祖父が決めた婚約者を拒絶し、当時内緒で付き合っていた父と駆け落ちしたのだ。激怒した祖父は絶縁を宣言。その後、俺が生まれたのをきっかけにゆっくりと距離を縮めていき、俺が中学生の時に完全に和解した。未婚の叔父は、俺のことを実の息子のように可愛がってくれている。
そんな叔父から、少々驚きの話を聞かされた。
「お前の会社の元請け、経営が危ないぞ」
「え?どうして?」
「ここだけの話にして欲しいんだが。俺の銀行に1000億の融資を申し込んできたんだよ。目的は経営再建だ」
叔父は俺に極秘の情報を伝え、取引関係を考え直した方がいいのではとアドバイスしてきた。
「まだ潰れるとは決まったわけじゃないが、リスクを考えて距離を置いた方がいいと思う。それにお前のお菓子はどこでも通用するレベルだと俺は思ってるよ。あの元請けにこだわる必要はないんじゃないか」
「でも、縁があって関係を結んだわけだし、最後まで誠実に対応したい。もし俺のお菓子で経営再建の手伝いができるなら、できる限りのことはしたいよ」
「お菓子みたいに甘い考えだなと言いたいところだが、まあ、そこがお前の長所でもある。本格的にまずくなったら改めてお前に連絡するから。その時は甘い考えは捨てて取引関係を終わらせろよ。それから何かあれば俺に直接言え。融資の最終決済は俺の立場で判断できるから」
叔父からのアドバイスは念頭に置きつつ、俺は今までの関係を維持すべく三谷に発注をお願いしていた。そして昨日、叔父から電話をもらい、元請けの原社長が叔父の元を訪れ、土下座して融資を頼んだという話を聞いたのだ。
「というわけなんですよ」
俺から話を聞いた三谷には、完全に酔いが覚めていた。女性人には席を外してもらっている。賑やかな店内で、俺たちの話を聞いている人は誰もいなかった。
「冗談だろ」
「なら、今ここで叔父に電話してみましょうか」
スマホを取り出し、三谷を見つめる。俺が嘘を言っていないと確信したらしい。
「お、おい、面白い話だな。あ、俺、用事を思い出したから帰るわ。これ、クリーニング代だな。すまなかった」
珍しく謝罪の言葉を口にしつつ、テーブルに1万円を置く。そして三谷は逃げるように店を後にした。
翌日の午後、俺は会社の会議室である人たちと会っていた。相手は昨日会ったばかりの三谷と、難しい顔をしている男性。三谷の会社のトップ、原社長だ。午前中に原社長から直接電話が来て、会いたいと言われたのだ。三谷が動揺して自ら報告したのだろうと推察しながら、少し緊張して会議室で顔を合わせる。原社長は、俺が融資を依頼している銀行の身内と知り、青い顔色で謝罪してきた。
「この度は誠に申し訳ございません」
原社長に続き、三谷も頭を下げる。
「三谷さん、こちらお返しします」
俺がポケットから取り出したのは、三谷がクリーニング代として渡した1万円を包んだ封筒だ。
「三谷さんがワインをかけて汚した俺のスーツは、高級デパートで購入したオーダーメイドのスーツです。クリーニング代は1万円だけでは足りません」
「ちょっと待ってください。三谷がワインをかけたとは」
原社長の顔が険しくなる。どうやら三谷はことの顛末を全て語っていないようだ。そこで俺は、今まで何があったのか原社長に全て明かす。
「何をしてるんだ?下請けは飯使いじゃないんだぞ。我が社の仕事をしてもらっている大事な取引相手だ。お前は相手に対する礼儀というものを知らないのか?」
原社長の言葉に、俺は心の中で関心する。下請けに理不尽な要求を突きつけるのは三谷だけではない。世の中にはもっとひどいことをする元請けもいるのだが、原社長はそういう人間ではなさそうだ。
「織田さん、改めて申し訳ございませんでした。クリーニング代はきちんと全額支払わせていただきます。それと三谷には厳重な処分を与えるつもりです。どうかそれでご納得いただけないでしょうか?」
予想以上に重い言葉に、俺は一瞬たじろぐ。しかし、次の瞬間、三谷が勢いよく椅子から立ち上がった。
「俺はこいつにはめられたんです!こいつは学生時代から俺を一方的に目の敵にしていて、今回の件も俺を陥れるためにこいつが画策したことなんですよ!」
この発言を聞いた時、怒りとは少し違う感情が胸に広がった。長い年月をかけて、この男は何も変わらなかった。それが悲しみのようなものとして静かに胸に刺さる。それでも俺は原社長へと向き直った。
「三谷にはけじめが必要だ。社長、お願いします。三谷には相応の罰を与えていただき、うちと2度と関わらないよう対応をお願いします」
「もちろんです」
「社長、俺の話聞いてました?全部こいつが悪いんですよ!」
騒ぐ三谷を、原社長は鋭い目で睨みつける。
「黙れ」
威圧感たっぷりの言葉は、関係ない俺が聞いても震え上がるほどだった。三谷はびくりと肩を揺らし、口を閉ざす。
「俺は、成績不振によるコストカットで社員を何名か本社で受け入れたが、お前は受け入れるべきではなかったな」
「え、お、俺、本社への移動は栄転のはずでは…小心コースに乗ったから本社勤務になったんですよね」
「違う。お前は会社都合で移動させただけだ」
三谷の顔がみるみる崩れていった。将来は幹部候補だとあれほど誇らしげに語っていた男が、今は血の気を失い、まるで別人のようだった。
「そ、そんな…」
足から力が抜け、椅子にへたり込む。全て三谷の自業自得だ。
「三谷、仕事は誠実さが大切だ。お前にはそれが欠けていた。遅かれ早かれ、お前は自滅する運命だったんだよ」
昔のようにタメ口で語りかける。俺を見る三谷の目から光が失われ、それ以降は口を開くことはなかった。
原社長は約束通り、三谷に厳しい罰を与えた。三谷は本社から地方支社へ移動となり、本社でとんでもない問題を起こしたという噂は支社まで広がったらしい。さらに奥さんにキャバクラ通いがバレてしまい、離婚届を突きつけられたそうだ。プライドをズタズタにされた上に、家族からも見捨てられた。三谷の未来はお先真っ暗だ。
一方、俺はいつも通りお菓子作りに励んでいる。俺に対するバッシングは三谷の担当交代を受けて徐々に収まり、今は以前と同じように働くことができていた。原社長の会社は無事に融資を受けられたらしい。三谷のその後についての報告と合わせ、社長本人から電話で教えてもらった。
「織田さんのおかげです。ありがとうございます」
「いえ、融資に関しては原社長の努力の結果ですよ。これからも頑張ってくださいね。俺も陰ながら応援しています」
電話を切り、笑顔を浮かべた。
さて、仕事に戻るか。俺は今日も大好きなお菓子作りを通じ、一生懸命仕事に励んでいる。



