石はクリップボードに視線を落とし、病状の説明を続けた。病院に来たくなかったとより子は言った。それは本当だと。お金がかかるからというのは半分だけで、本当は病院に来たら全てが終わってしまう気がしたのだと。診断が出て治療が始まれば、パチンコの音を聞けなくなる。あの音が聞こえている時だけ、借金も、明成のことも、胸一の疲れた顔も、全部が遠くなった。
胸一は何も言えなかった。より子は天井を見たまま続けた。最初に変だと気づいたのは明成が来る前だった。食べると気持ち悪くなることが続き、体重も落ちた。病院に行こうと思ったが、ちょうどその頃、通帳のことが発覚した。あの時もし病院に行って胸一に話していたら、どうなっていただろう。資料費が出て、胸一はもっと働き、体を壊す。それを見ている方が怖かった。
胸一は声を上げた。それを自分が決めることだ、と。より子は困ったような笑みに似た表情を浮かべ、そうね、でも私にはあなたが決めた結果が見えていた、と言った。正しくなかったかもしれないが、間違いだったとも思えない。そして、最後にパチンコに行けてよかった、と付け加えた。あなたが来てくれたのもよかった。止めに来たのか一緒にいたかったのか分からなかったけど、どちらでもよかった。
胸一は、行かせるべきじゃなかった、と呟いた。より子は首を振り、私が行きたかったの、と言った。言って、勝って、また負けて、全部なくなった。それでよかった。病院の白い部屋より、あの音の中の方が自分らしかった。
沈黙が落ちた。より子が突然、胸一の名前を下の名前で呼んだ。それは滅多にないことだった。ごめんなさい。お金のことじゃなくて、黙っていたこと。あなたに心配させたくなかったのに、結局一番心配させた。もう一つ、明成のことを怒らないでやって。あの子は弱い子だから、あなたに似て不器用な子だから。
夜明け前、より子の呼吸が変わった。浅かった呼吸がさらに浅くなり、感覚が不規則になった。看護師たちが慌ただしく動き始めた。胸一はより子の手を握ったまま、最後まで離さなかった。より子の目が半分開いた。苦しんでいるようには見えなかった。胸一は小さな声で言った。お前はバカだ。なんで一人で抱えていたんだ。俺に言えばよかったのに。それから、ありがとう、と。何に対する感謝か、自分でも分からなかった。午前5時17分、より子は静かに息を引き取った。眠っているように見えた。それが胸一には少しだけ救いだった。
葬儀は小さなものだった。近所の知人と、かつてクリーニング店をやっていた頃の古い客が一人。明成には連絡を試みたが、電話は出ず、メッセージも返ってこなかった。胸一は一人でより子を見送った。骨を拾う時、頭の中は空っぽだった。動作だけが続いていた。
家に戻ると、玄関の空気が変わっていた。誰もいない家の空気だ。台所のヤカンには水が半分残っていた。より子が最後に使った時のものだった。胸一はそれを火にかけ、茶を入れた。ソファに座り、ゆっくりと飲んだ。夕方の住宅街は静かだった。
夜になると、スマートフォンが鳴った。田所からだった。出なかった。メッセージが届いた。入金が確認できていない、と。また鳴った。別の番号だった。今度は出た。声のトーンが低く、今週中に連絡を欲しいと言われた。分かったとだけ言って切った。胸一は電気もつけず、暗い部屋に座っていた。屋根はまだ修理されていなかった。今夜は晴れていたので、雨音はなかった。ただ静かだった。
コートを脱いでいないことに気づいた。ポケットに手を入れると、左のポケットに何かがあった。小さく丸く硬いもの。パチンコの玉だった。いつの間にかポケットに入っていた。より子を抱えていた時か、救急車を待つ間か、分からない。胸一は暗がりでその玉を手のひらに載せた。街灯の光が薄く照らし、銀色に見えた。
より子があの夜、どんな気持ちでパチンコ店に座っていたのか、今なら少し分かる気がした。勝つためでも、逃げるためでもなかった。ただあの音の中に座っていたかった。玉が弾ける音、タバコの電子音、周囲の人間の気配。全部が混ざり合って、何もかもが遠くなる場所。より子はそこへ行きたかった。最後にもう一度だけ。
胸一はその気持ちを今夜初めて理解した。スマートフォンがまた鳴った。無視した。玉を手のひらで転がした。こんな小さなものに重さがあることが、何か妙に感じられた。より子の最後の夜を思い返した。店に入った時、肩の線が変わったこと。大当たりが来た時、口元が緩んだこと。玉が全部なくなった時、手がハンドルから落ちたこと。病室で言った言葉。あなたが来てくれたのもよかった。止めに行ったのか、一緒にいに行ったのか、自分には今も分からない。ただ一人にできなかった。それだけが確かだった。
目の奥が熱くなった。涙が一筋、また一筋と零れた。声は出なかった。胸一はそういう泣き方をする人間ではなかった。ただ目から水が出た。暗がりの中で、玉を握りしめたまま泣いた。スマートフォンは何度も鳴ったが、無視し続けた。屋根のシートが夜風に揺れる音がした。返すべき借金があった。修理すべき屋根があった。来ない息子がいた。しかし今夜だけは、何もどうにかしようという気が起きなかった。起きなくてもいいと思った。玉は手の中で温かくなっていた。胸一はそれを握ったまま、目を閉じた。朝が来れば、また起き上がるだろう。それだけは確かだった。



