引き出しの奥にしまってあった古いIDカード。写真の中の俺はまだ30代で、目に光があった。今の俺を知る誰も、かつてメスを握っていたことを知らない。あの時、俺は副作用データの改ざんを見つけ、上司に報告した。しかし、翌日から研究室から外され、同期の医師たちは目を逸らした。親友は辞表を出さざるを得なくなり、俺は7年間、医療の世界から逃げ続けた。昨日、突然届いた封筒。大学病院の医療安全管理室からだった…

引き出しの奥にしまってあった古いIDカード。写真の中の俺はまだ30代で、目に光があった。今の俺を知る誰も、かつてメスを握っていたことを知らない。あの時、俺は副作用データの改ざんを見つけ、上司に報告した。しかし、翌日から研究室から外され、同期の医師たちは目を逸らした。親友は辞表を出さざるを得なくなり、俺は7年間、医療の世界から逃げ続けた。昨日、突然届いた封筒。大学病院の医療安全管理室からだった...

朝の光がオフィスの白い壁に薄く差し込んでいる。俺はパソコンの画面を見つめながら健康診断の結果データを表にまとめていた。大玉森、45歳。都内の健康管理会社で資料を作成するただの社員だ。

「太田さん、おはようございます」
振り返ると同僚の佐藤まゆみが湯気の立つカップを差し出していた。コーヒーの香りが朝の眠気をほんの少しほぐしていく。
「今日も早いんですね。私が来ても太田さんが先にいる気がします」
「習慣だよ。朝の静かな時間が一番頭が動くんだ」

佐藤は自分の席に戻っていく。俺はコーヒーを一口含み、また画面に視線を戻した。ここでの仕事は穏やかだ。医療データを扱うとはいえ、命に直接触れることはない。誰かの数値を見ながらグラフを作る。それだけだ。

ふと机の引き出しを開ける。そこに置いてある古い革の財布を俺は手に取った。中の小さなポケットに1枚のカードがある。大学病院・第二外科・太田森。色の褪たIDカード。写真の中の俺はまだ30代だ。今より少し痩せていて、目の光が違う。
捨てようと思った日が何度もあった。ハサミを当てたこともある。だがどうしても切ることができなかった。財布を閉じ、引き出しの奥に戻す。誰にも見せたことはない。ここにいる誰も、俺がかつてメスを握っていたことを知らない。

昼休み、社員食堂で佐藤と向かい合った。彼女は今日も明るく、最近見た映画の話をしている。俺は箸を動かしながら味噌汁を口に運ぶ。
「太田さんって本当に物知りですよね。この前の研修でも循環器の話を私より詳しく説明してて」
「昔、少しだけ医療関係の本を読んでた時期があってね。それだけだよ」
「うん。なんかもったいない気がしますけど」
何気ない言葉が胸の奥に小さく刺さる。俺は曖昧に笑って箸を置いた。

午後の会議室の窓から東京の高層ビルが見える。あの中の1つにかつて俺がいた大学病院がある。今は遠い景色だ。

7年前の春のこと。俺は今でもはっきりと覚えている。夜の医局で1枚のグラフを見つめていた。心臓弁膜症の新薬に関する研究データ。俺は同じ症例を何度も見ていた。だから、その数値がおかしいことにすぐ気づいた。
副作用の数値が明らかに低く書き換えられている。このまま臨床に出れば患者が危ない。俺は資料を抱えて委員長室へ向かった。

ドアの向こうで佐音寺正は椅子に深く座っていた。50前の彼は当時から学会の重鎮だった。メガネの奥の目がゆっくりと俺を捉える。
「君、何の用かな?」
「委員長、このデータは改ざんされています。元の数値に戻すべきです」
佐音寺は資料を一瞥して笑った。ペンをくるりと指で回し、机の上に置く。
「君はこの病院が大きなプロジェクトを動かしていることを知っているね」
「知っています。だからこそ、間違ったデータで進めるわけにはいきません」
「君、若いね。組織というのは君が思うほど単純じゃない」

その時の彼の目を俺は今でも忘れない。冷たくこちらを見透かすような目だった。俺は資料を置いて部屋を出た。

廊下で坂田新一とすれ違った。同期で同じ第二外科で働く親友だった。何度も酒を交わし、患者のことを語り合った男だ。
「坂田、ちょっと話がある」
俺はデータのことを話した。坂田は腕を組み、しばらく黙っていた。
「……太田、お前、本気で言ってるのか?」
「ああ。このままじゃ患者が死ぬ」
「分かった。俺もお前の意見に賛成だ。次の定例研究会で、お前が資料を発表しろ。俺が周りを説得する」

定例研究会の日。会議室には教授、佐音寺、そして各診療科の部長が並んでいた。俺は資料をスクリーンに映し、副作用の数値が改ざんされていることを指摘した。最初は静かに聞いていた教授の顔が、次第に曇っていく。
「ちょっと待て、太田君。そのデータの出所は?」
「私が直接、治験の原資料と照合しました。間違いありません」
教室の中に重い沈黙が落ちた。佐音寺がゆっくりと口を開いた。
「太田君。君の指摘は大変結構だが、このプロジェクトは国の承認を受けた重要な研究だ。軽率な発言は病院の信用に関わる」
「私は事実を述べているだけです」
その時、坂田が手を挙げた。
「私も太田の意見を支持します。データの整合性を再検証すべきです」

空気が一瞬で張り詰めた。坂田の言葉に、何人かの部長がざわつき始める。佐音寺の顔がわずかに歪んだのが見えた。

その夜、俺のスマホに坂田から着信があった。しかし、俺は既に眠っていて出られなかった。翌朝、坂田の姿が医局にないことに気づいた。机の上には辞表が置かれていた。
「坂田は……辞めたのか?」
看護師長が俯いたまま言った。
「坂田先生、昨晩、担当患者さんが急変して、その対応中に……倒れられて。救急搬送されたんですが……」

俺はその場で立ち尽くした。坂田が倒れた原因は過労だった。俺のデータ発表の後、佐音寺の指示で坂田は連日深夜まで残業させられていた。患者の急変は嘘だった。坂田が辞表を出さざるを得ないように仕向けたのだ。俺の親友を、組織は潰した。

坂田の辞表が受理された後、俺は大学病院に残った。しかし、研究室からは外され、事務仕事ばかりを与えられた。同期の医師たちも、俺を見れば目を逸らすようになった。佐音寺の力は、それほど大きかった。

1年後、俺は大学病院を辞めた。退職届を出した日、佐音寺は何も言わず、ただ書類に判を押した。その顔には、勝者の微笑みが浮かんでいた。

それから7年。俺は医療の世界から完全に離れ、健康管理会社で資料を作っている。今日も、あの古いIDカードを引き出しの奥にしまい込んだ。あのデータのコピーは、今も実家の金庫の中に眠っている。

翌日、俺の机上に1通の封筒が置かれていた。差出人は「大学病院・医療安全管理室」。中を開けると、1枚の通知書が入っていた。
「佐音寺正教授が、治験データ改ざんの疑いで調査委員会に召喚されることになりました」
通知書の最後には、こう書かれていた。
「つきましては、当時の関係者として、貴殿の証言を求めます。出頭日は……」

俺は通知書を握りしめ、しばらくその場に立ち尽くした。7年ぶりに、あの病院と向き合う時が来たのだ。

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