「貯金は終わりですか?」
ホテルの最上階にある日本料理店の個室。窓の向こうに港の明かりが並んでいた。目の前の女性は背筋を伸ばしたまま俺を見ていた。上品な声で、聞かれたのは金の話だった。仲人が席を外した直後のことだ。
俺は湯呑みを置いて答えた。
「ありません。むしろ借金が800万あります」
空気が止まった。畳の目まで数えられそうなくらい静かになった。これで終わる。大手機械メーカーの社長令嬢が借金800万の男を選ぶはずがない。俺はそのために、履き潰した靴を履いて父の古いジャケットを羽織って、ここへ来たのだ。
断りの言葉を受け取るつもりでいた。ところが顔を上げると、彼女は困った顔をしていなかった。それどころか、湯呑みを両手で包んだまま、ふっと微笑んだのだ。
「三浦さん、あなた合格です」
「え?」
間の抜けた声が出た。俺は自分の耳を疑った。断られるために座ったお見合いの席。この日の出来事が、止まっていた俺の時間を動かすことになるなんて、この時は思ってもいなかった。
俺の名前は三浦琢磨。34歳。東京の大田で三浦製作所という小さな町工場をやっている。社長という肩書きは一応ある。だが社長らしいものは何ひとつ持っていない。車は工場の軽トラだけだ。住まいは工場から歩いて5分の、風呂が追い焚きできない古いアパート。普段着ているのは水色の作業着で、腕の部分だけ色が抜けている。
従業員は4人。フライス盤とマシニングセンターが並んだ工場で、金属の部品を削るのが俺たちの仕事だ。そして、借金が800万円ある。浪費して作った借金ではない。だが、それを説明する気はこの日の俺にはなかった。説明しない方が、話は早く終わるからだ。
なぜ俺が断られるためにお見合いの席に座っていたのか。それを話すには、まず俺という人間のこれまでを話さなければならない。
俺の朝は6時に始まる。アパートを出て、まだ暗い街を歩いて工場のシャッターを開ける。冬の朝はシャッターの取っ手が氷みたいに冷たい。中に入って電気をつけると、油と切削液の匂いがふわりと立ち上がる。俺はこの匂いを子供の頃から知っている。
三浦製作所は父が38年前に始めた工場だ。間口は6メートルほどしかない。奥に細長い建物で、フライス盤とマシニングセンターと検査台が肩を寄せ合うように並んでいる。天井には昔ながらのクレーンのレールが走っていて、壁には歴代の工具のカタログが貼られたままになっている。
うちがやっているのは、金属の部品を削る仕事だ。図面をもらって、鉄やステンレスやチタンの塊から決められた形と決められた寸法の部品を作る。それだけと言えばそれだけの仕事だが、この世の機械はどれも部品でできている。誰かがこれを削らないと、飛行機も医療の機械も動かない。
父はよく言っていた。
「俺たちが削ってるのは鉄じゃねえ。信用だ」
削り出した部品にはうちの名前が書いてあるわけではない。組み上がってしまえば、誰が作ったのかも分からなくなる。それでも、中で回っているのはうちの部品だ。だから俺は今日も削る。削って、削って、削り続ける。それが俺の生き方だ。
お見合いの話が来たのは、三月の終わりだった。近所の町工場を何件もまとめている、業界の顔役みたいな親父さんから電話があった。
「琢磨、お前まだ独身だろ」
「はい」
「見合いの話があるんだ。相手はな、大手機械メーカーの社長の娘だ」
俺は思わず電話を耳から離した。大手機械メーカー。社長の娘。俺ん家の工場の売上よりも、その家の月の生活費の方が高いかもしれない。
「なんで、そんな人が俺なんかと」
「釣書を見たら、お前のことを知りたいんだと。家柄とか財産じゃなくて、人となりを見たいらしい」
「人となりって……俺、町工場の社長ですよ。借金だってあります」
「それはな、琢磨。お前が自分から言う必要はない。相手もそれは分かった上での話だと思うぞ」
本当かどうかは分からなかった。だが、断る理由もなかった。独身のまま三十五歳を迎えるくらいなら、一度くらい会ってみてもいい。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待も、正直なところあった。
見合いの日が決まった。場所は港の見える高いホテルの最上階。日本料理店の個室だった。俺は持っている中で一番マシな服を引っ張り出した。父の形見の古いジャケット。磨き切って薄くなった革靴。髪もいつもより丁寧に整えた。借金が800万あることは言わないつもりだった。相手が俺の何を見たいのか、それが分かるまでは。
当日、仲人が俺と彼女を簡単に紹介した。彼女の名前は藤堂美咲。二十八歳。藤堂機械製作所の社長令嬢。透き通るような白い肌に、品の良い紺色のワンピースを着ていた。挨拶を交わした瞬間、空気の違いを感じた。俺の世界とは、まるで違う匂いがした。
仲人が用事を作って席を外した。個室に二人きりになる。彼女が最初に口を開いた。
「三浦さんは、どんな仕事をされているんですか」
「機械部品を作っています」
「どういうものを作られるんですか?」
「例えば、半導体の製造装置に組み込まれるパーツですね。あとは医療機器の部品とか」
「精密なものを作っていらっしゃるんですね」
「はい。ただ、うちは小さな工場なんで、大きな会社みたいなことはできません。一個一個、手をかけて削るだけです」
彼女はうなずきながら、何かを確かめるように話を続けた。仕事の話、休みの日の話、好きな食べ物の話。会話が途切れたところで、彼女が静かに言った。
「三浦さん。失礼ですが、貯金は終わりですか?」
その質問で、俺の中の何かがすとんと落ちた。やっぱり、こうなるんだ。話が合わないふりをするのが普通なんだ。でも、俺は嘘をつきたくなかった。見合いの席で出会ったばかりの女性に、身の上話をする必要はない。一番楽なのは、ぶっきらぼうに返して話を終わらせることだ。
「ありません。むしろ借金が800万あります」
これで終わりだ。そう思った。ところが、彼女は微笑んだのだ。「三浦さん、あなた合格です」と。
合格って、何の合格だ? 俺は意味が分からなかった。
「私、嘘をつく人が嫌いなんです。あなたの借金の額を聞いても、あなたを嫌いにはなりません。正直に言ってくれた人が、私の結婚相手です」
「ちょっと待ってください。俺、借金があります。800万ですよ。それでもいいんですか?」
「いいんです。私も、あなたの正直さを信じます」
俺は頭が真っ白になった。断られるために用意した言葉が、全部無駄になった。それどころか、彼女は合格だと言った。正直さを褒められた。俺の人生で、正直さが報われたことなんて一度もなかった。
その後、何を話したかよく覚えていない。気づいたら外は暗くなっていて、彼女は「また会いましょう」と言って、にこやかに手を振った。俺はホテルのロビーで、立ち尽くしていた。あの言葉の意味を反芻しながら。
――私、嘘をつく人が嫌いなんです。
嘘をつかない人間が、どれだけ少ないか。俺はこの業界で揉まれてきて、嫌というほど知っている。取引先の経理担当が帳簿を繕い、営業マンが実績を水増しし、下請けが手抜きをする。全員じゃない。でも、多い。正直に生きてきた人間が、どれだけ損をしてきたか。俺もその一人だ。
彼女はその正直さを、評価してくれた。それなのに、俺は彼女に一番大事なことを言っていない。借金をしている理由を。一体、何に使って、どうして返せなくなったのか。彼女は知らない。
知られたら、彼女はどう思うだろうか。あなたは嘘をついていない。ただ、言わなかっただけ。そう言うだろうか。それとも、やっぱり怒るだろうか。
俺はまだ、それを確かめる勇気が出ない。正直に言ったつもりで、実は一番大事なところを隠している。借金の理由が何であれ、それを言わなければ、彼女を騙しているのと同じじゃないのか。
工場に戻ると、先輩職人がまだ機械を動かしていた。明かりが小さく灯っている。俺が電気を消すと、先輩が振り返った。
「おう、どうだったんだ?」
「どうも何も……合格だってよ」
「は? あの大手の社長令嬢が?」
「ああ。俺の正直さを見て、合格だって」
先輩は首を傾げた。俺の顔を見て、何かを察したように言った。
「んで、借金のことは言ったのか」
「ああ。800万あるって言った」
「……理由は?」
「言ってない」
先輩はため息をついて、機械のスイッチを消した。
「まる、そういうの、後で必ず響くぞ。特に女はな。何を隠してるのか、自分で考えろ」
駅の改札を抜けたとき、スマホが震えた。画面のメッセージを見て、足が止まる。差出人は藤堂美咲さんだった。受信メッセージを開くと、一言だけ書いてあった。
「次の土曜日、工場を見せてもらえますか?」
俺は思わず、工場を見せる? と、声が漏れた。こんなぼろい町工場。床には油の跡がついてるし、壁には古い工具のカタログが貼られているだけだ。作業着に着替えたら、コーヒーを淹れたら、彼女は気づくかもしれない。ああ、この男は嘘をついてないんだな、って。でも、同時に思った。これで終わるかもしれない、と。
あの日、俺は言わなかった。父が亡くなったとき、工場を継いだとき、借金をした理由を。すべてを話して、それでも彼女が隣にいてくれたら、それが真実の始まりになる。俺は返信を打った。
「ありがとうございます。当日、お待ちしています」
送信ボタンを押してから、自分がどんな結果を望んでいるのか、俺はまだ分かっていなかった。これが、俺の人生を変えた最初の日になる。この日のことは、今でも忘れない。



