「はい、お母様。これでようやくこの家を出られます」
お関はそう言って風呂敷を抱えたまま門をくぐりました。振り返ることはありませんでした。あの家に残したのは3年分の涙と、誰にも告げられなかった小さな秘密だけ。
嫁を追い出した姑は、その日のうちに新しい嫁探しを始めました。ところが村に広まった噂は思いのほか早く、名のある家でありながら誰一人として縁談に応じようとはいたしませんでした。
そんな折、一人の女が自ら屋敷の門を叩きました。
「噂など人の口が作るもの。真実のところは、この目で見なければ分かりませぬ」
誰もが避けた家へ。なぜその女だけが入ってきたのか。追い出された嫁が守ろうとしたものは何だったのか。そして、屋敷の奥に眠る古い長箱には、泣き腫らした瞳だけが知るものがひっそりと残されておりました。その蓋が開かれた時、三人の女の運命は静かに狂い始めます。
物語は上州の小さな村。大きな川沿いの屋敷から始まります。時は少し遡り、お関がこの屋敷に嫁いできた頃のことです。
名はお関、二十三歳で嫁いできた女でございます。実の親はすでに他界し、頼れる親戚も一人としてございません。持参金もなければ、後ろ盾もない。ただ自分一人の手だけを頼りに、この家へ来たのでした。
夜明け前、鶏の鳴く前から奥の間まで、おとどさんの声が響き渡りました。
「飯はまだか。日はもう高いというのに、まだ灶に火を入れておらぬのか」
お関は寝巻きのまま台所へ駆け込みました。米をといで、かまどに火を入れます。手の動きは速うございました。三年の間、毎朝この黒い釜に起きて飯を炊くのが日課でございます。
ところが台所の戸口に人の気配が立ちました。おとどさんが柱に肩をもたせかけ、釜の中を覗き込んでおります。
「水が多すぎる。飯を炊くのか、粥を炊くのか」
お関は杓子で水をすくい取りました。おとどさんは背を向けながら独り言をこぼしました。
「三年教えても、飯一つ満足に炊けぬ女」
飯が炊き上がると、お関は膳を二つ用意いたします。おとどさんの前には肴が五品、お関の前には一汁一菜のみ。これはお関が嫁いできたその日から決められた決まりでございました。
「こちらの家では、働かぬ女が膳まで受け取ろうとするのか。自分の食いは自分で働いて払うものだ」
おとどさん自ら定めたものにございます。以来、お関の膳に肴が上ったことは一度もございませんでした。三年の間、不平を口にしたことも一度足りとてございませんでした。
夫の左兵衛は離れの間で別に食事を取っておりました。おとどさんは息子の前にはいつも魚や肉を添えたと申します。お関はその姿を見るたびに、自分の膳の粗末さが一層身に染みるのでした。
その日は夏の入りの日でございました。朝餉の膳を下げたお関に、おとどさんは買い物籠を突き出しました。
「里へ行って豆腐を買うてこい。その道すがら、屋敷前の溝を掃除しておけ。草が膝まで伸びておる」
お関はまず表の溝へ出ました。鎌で草を刈るうち、手のひらがヒリヒリと痛みます。三年の間にできた豆の上に、また新しい豆ができました。
里から戻ると、おとどさんは次の言いつけを待っていたかのように言いました。
「水を川へ行って汲め。洗濯をし、庭を掃け。夕餉の支度をしなさい」
日が暮れる頃には、お関の足はガクガクと震えておりました。
夕餉の膳を受け取ったおとどさんは、汁を一口すすると、さじをピシャリと置きました。
「汁が塩辛い」
お関はうつむきました。
「申し訳ございません。お母様」
おとどさんは膳を押しやりました。碗が傾き、汁がこぼれます。
「三年住んでも味加減一つ覚えられず、子一人も産めず。一体何を頼りにこの家に居座っておるのか」
お関は押しやられた膳を下げ、台所へ運びました。背中越しにおとどさんの声が追いかけてまいります。
「殿がご存じか。お前の実家が残した借金のことを」
お関の目が細くなりました。
「消えた金がどこへ流れたか、ご存じでございますか? 」
おとどさんの声が、ふと止まりました。
「何を言う。お前の親が遊び暮らして潰した借金だろう」
「いいえ。父は遊び人ではございませんでした。あの金は、おとどさんが商人に流したもの。証文が実家の箪笥の奥にございます」
おとどさんの顔色が変わりました。けれどもすぐに、冷笑に変わりました。
「証文だと? 証文があったところで、それを誰が信じる? お前のような部屋住みの嫁の言葉を、村の者が信じると思うか?

」
お関は何も言い返せませんでした。真実を知っていても、それを証明する術がなかったのです。その夜、お関は初めて、泣かずに眠ることができました。泣く価値すらなくなったからです。
数日後、おとどさんはお関を座敷へ呼びました。
「お前を実家に返すことにした。準備をしなさい」
お関は静かに頷きました。反論しても無駄だと分かっていたからです。荷物をまとめながら、お関は箪笥の奥にしまってあった小さな紙包みを取り出しました。それは、誰にも見せたことのない、ある証文でした。
門を出る直前、お関は振り返りました。そして、台所の奥で何かが動く気配に気づきました。そこに立っていたのは、若い女中のおみよでした。おみよは目に涙を浮かべて、お関を見つめておりました。
お関は黙って頷き、門をくぐりました。
それから三日後、おとどさんは新しい嫁探しを始めました。しかし、村に広まった噂は「お関を追い出した家は、嫁に冷たい」というものでした。名のある家柄でありながら、誰も縁談に応じようとはしません。
ところが、その噂を聞きつけて、一人の女が屋敷の門を叩きました。
「噂など、人の口が作るもの。真実のところは、この目で見なければ分かりませぬ」
そう言ったのは、おみよでありました。
「おとどさん。私をお嫁さんにしてください。私は三年間、この家の働き方をよく存じております」
おとどさんは驚きましたが、すぐに目を細めて笑いました。
「よく申した。分かっておる者が来てくれたか。よかろう。お前を嫁に迎えよう」
おみよは頭を下げました。しかし、その顔には笑みがありました。おとどさんが気づかないうちに、おみよは袖の奥に何かを隠しておりました。
それは、お関が残していった証文の写しでした。
屋敷の奥の間、古い長箱の蓋が、静かに開きました。その中には、お関が三年間、毎晩こっそりと書き綴っていた日記が収められておりました。そこには、おとどさんが隠してきたすべての秘密が記されていました。
おみよは長箱を閉じ、静かに微笑みました。
「これで、ようやく始められます」
その夜、屋敷の奥から、おとどさんの怒鳴り声が響きました。翌朝、おみよの姿は屋敷のどこにも見当たりませんでした。代わりに、座敷の真ん中に、一通の手紙が置かれておりました。
そこに書かれていたのは、おとどさんが隠してきた借金の証文の写しと、こういう一文でありました。
「真実は、いずれ日の目を見ます。お母様」

