「お父さん、定年退職したらお母さんと離婚するから。」
その言葉を、父はまるで天気の話でもするかのように軽く放った。家族全員が揃った食卓で、何の前触れもなく。
母は箸を止めたけれど、驚いた顔はしなかった。ただ、静かに父を見つめていた。私は動揺して声を荒げた。
「どうして!? 何で今さらそんなこと言うの!? 」
父は私の方を一瞥もせず、テレビのニュースを見たまま言い放った。
「決まってるだろ。俺の残りの人生は、若い女と過ごすんだよ。お前みたいな年寄りの顔なんか、これ以上見たくない。」
「退職金の三千万は彼女に使う。お前には慰謝料以外、一円もやらない。財産分与もなしだ。」
私は言葉を失った。同じ食卓で二十年以上、家族として暮らしてきた相手が、こんなにも簡単に人を切り捨てられるのかと。
けれど、隣に座る母は、少しも悲しそうではなかった。むしろ、どこかホッとしたような、晴れやかな顔をしているように見えた。
「そう。好きにすればいいわ。私は何も困らないから。」
母はそう返すと、父が差し出した記入済みの離婚届けを、迷うことなく受け取った。
「どうぞ、幸せになってね。」
その口調は、本心からそう言っている感じだった。父は少し面食らったようだったが、何も言わずに席を立った。
翌日、母はその離婚届を役所に提出した。そして、私に電話をかけてきた。
「離婚できたわ。これで私は自由よ。」
これまで聞いたこともないほど、明るく弾んだ声だった。
「おめでとう、お母さん。やっと自分の人生を歩けるね。」
私も、心の底からそう思った。父から暴力と暴言に耐え続けてきた母が、ようやく解放されたのだ。
それから三日後、仕事中にスマホが震えた。父からだ。何度も何度も着信が入る。嫌な予感がして、仕方なく出ると、電話の向こうから焦りきった声が聞こえてきた。
「あ、あゆ子か。頼む、助けてくれ。」
「何の用? 」
「実は……彼女に、退職金も家も、全部持って逃げられたんだ。今、一文無しで、行くところもないんだ。悪かった。昔のこと、全部謝る。だから……」
私は、スマホを握る手に力が入った。そして、静かに言った。
「お母さんが、あなたにどれだけ殴られて泣いてたか、覚えてる?

」
「あ、ああ……それは、俺が悪かった。本当に反省してる。頼む……」
「私は、お母さんの味方よ。あなたの味方には、もう絶対にならない。」
電話を切った後も、父の懇願する声が耳に残っていた。けれど、私の心は冷めきっていた。
母が長年耐えてきたものを思えば、父の今の苦境なんて、何の同情にも値しない。
その夜、母に電話をした。
「お父さんから連絡があったよ。彼女に財産を全部持ち逃げされたって。」
母は、少し間を置いて、優しく笑った。
「そう。天罰が下ったのね。」
その日から、父からの着信は無視し続けた。そして、私はある決意を固めた。
もう二度と、母をあの人の元には返さない。それに、父が今、どこでどうしているのか——私は自分の目で確かめることにした。


