「あなたがやめないんなら、私が降りる」
その言葉に、社長室の空気が凍りついた。
数日前、俺は夜道でチカンに絡まれている女性を助けた。ただそれだけだった。なのに今、その女性が「襲われた」と証言し、俺は会社を追われようとしている。
彼女は人気インフルエンサーで、その言葉には絶対的な力があった。
「すまないが……」
社長の声が震えている。俺の目の前がぐらりと揺れた。
でも現実は何も変わらない。俺がやめないと、ここまでお世話になった会社が倒産の危機に陥るのだ。
「分かりました。辞表を提出します」
俺の声が妙に響く。窓の外ではいつもと変わらない朝の日差しが差し込んでいた。
たった数分で、俺の日常は完全に崩れ去ってしまった。
その時の俺には知るよしもなかった。この事件が、実は緻密に計画された罠の始まりだということに。そして、この出来事が俺の人生を大きく変えることに。
俺の名前は田中ベニオ。大手化粧品メーカーでデザイナーとして働いている。
「田中さん、また今日も残業ですか?」
帰り支度をしていた後輩の声に、パソコンに向かっていた俺は顔を上げた。夜の9時を回ろうとしているオフィスには、もう誰もいない。
「ちょっと、この企画のデザインで気になるところがあってさ」
「でも部長もこれで十分って言ってましたよ」
後輩の心配そうな声に、俺は優しく微笑んだ。確かに部長はOKを出してくれた。でもまだ何かが足りない。そんな気がしてならなかった。
「うん。でもな、この商品を手に取る人の顔を思い浮かべると、もうちょっと何かできる気がするんだ」
パッケージデザインの画面に目をこらす。
「そうですか。でもほどほどにしてくださいね。詰めすぎて倒れられたら困りますから」
「分かってるよ」
俺は軽く手を振った。後輩は後ろを引かれるようなそぶりを見せながらも、オフィスを後にした。
ここ数年、俺は特に目立った仕事をしているわけでもないし、華々しい評価を得ているわけでもない。でも、ここまでこだわるのには理由があった。
俺はデザインの本質は、人の心に寄り添うことだという信念を持っている。どんなに凝ったデザインでも、受け取る人の心に届かなければ意味がない。だから俺は派手さや奇抜さを追い求めるのではなく、商品を手に取る一人一人の気持ちを想像しながら、デザインを作り続けてきた。
今回の商品は働く女性向けのハンドクリーム。長時間のデスクワークで疲れた手に、少しでも癒しを届けたい。そんな思いでパッケージの曲線の一つ一つにこだわっている。
机の引き出しから古いファイルを取り出す。そこには以前の顧客アンケートや、実際に商品を使っている人たちの声が詰まっている。俺は常にこうした生の声を大切にしてきた。
「そうか」
ふと気づいたようにマウスを動かす。パッケージの蓋に施された曲線を、もう少しだけ柔らかく。色調も、ほんの少しだけ温かみのある方向へ。小さな変更だけど、きっとこれで商品を手に取った人の心にもう少し近づけるはずだ。
誰かに評価されるためではない。ただ、この商品を通じて誰かの日常に小さな幸せを届けたい。そんな思いが俺のデザイナーとしてのやりがいであり、誇りだった。
翌朝、いつも通りに出社した俺を待っていたのは、思いもよらない出来事だった。
「田中さん、社長が呼んでいます」
受付の女性の声に、何かあったのかと首を傾げながらも、俺は社長室へ向かった。
社長室のドアをノックすると、中から「入れ」と低い声が聞こえた。ドアを開けると、そこには社長と、もう一人の人物がいた。
若い女性だった。どこかで見たことのある顔だ。そうだ、あの夜、俺が助けた女性だ。
「田中くん、彼女が君を告訴したいと言っている」
社長の言葉に、俺は耳を疑った。
「え? どういうことですか?」
「あなた、覚えていますよね? 先週の木曜日の夜のこと」
女性が冷たい声で言った。
「ええ、覚えています。あなたがチカンに絡まれていたので、助けましたよね?」
「違います。あなたが私に襲いかかったんです」
女性の言葉に、俺は言葉を失った。
「何を言っているんですか? 私はあなたを助けただけです」
「そんな証拠がありますか? 誰かがあなたの無実を証明してくれますか?」
確かに、あの夜のことを証明してくれる人はいない。人気のない夜道で、俺と彼女以外に誰もいなかったのだ。
「警察にはまだ通報していません。でも、私がSNSでこのことを拡散すれば、あなたの会社にも影響が出るでしょうね」
女性はスマートフォンを取り出しながら、意味深な笑みを浮かべた。
「あなた、今人気のインフルエンサーでしょ? フォロワーが何人いるんですか?」
「50万人です」
その言葉に、社長の顔が引きつった。
「田中くん、彼女の言っていることが本当なら、会社としてはどうすることもできない」
「社長! 私はやっていません!」
「でも、君の無実を証明できないだろう?」
社長の声は震えていた。彼もまた、この状況に追い詰められているのだ。
「すみませんが、もしこの件が公になれば、当社のイメージが大きく傷つきます。スポンサーも離れるでしょう」
「つまり、私が辞めれば済む話なんですね?」
俺の言葉に、社長は何も答えなかった。その沈黙が、答えだった。
「分かりました。辞表を提出します」
俺はそう言って、社長室を後にした。
その日の夕方、俺は自分のデスクに戻り、辞表を書いた。手が震えて、まともに字が書けない。
十年間、この会社でデザイナーとして働いてきた。ここで生まれたデザインは数えきれないほどある。それなのに、たった数分で全てが崩れ去ってしまった。
俺は深く息を吸い、辞表を社長室に提出した。受け取った社長は、何も言わずに小さく頷いた。
「長い間、お世話になりました」
そう言って、俺は自分のデスクを片付け始めた。段ボールに私物を入れていくと、机の隅に古いファイルが残っていることに気づいた。
あの、いつも持ち歩いているアンケートファイルだ。何気なく開くと、一枚の付箋が目に飛び込んできた。
そこには、こう書かれていた。
「田中さん、エスカレーターでぶつかった男性ですが、あれは偶然ではなく、あなたを気絶させるためにわざとやったようです」
差出人は書かれていない。だが、この付箋は最近誰かが入れたものだ。それも、俺が知らない誰かが。
俺はファイルをさらに調べた。すると、裏面にもう一枚の付箋が貼ってあるのを見つけた。
「あなたは罠に嵌められました。この事件の裏には、あなたの会社の人間が関わっています」
俺の手が、震えていた。それは怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。
そして、その瞬間、俺は決意した。
このまま黙って会社を去るわけにはいかない。俺はこの罠の真相を必ず暴いてみせる。そのために、まずはこの付箋に書かれた「裏の人物」を探し出すことから始めよう。
俺は段ボールを手に、会社のビルを出た。振り返りながら、この十年間働いてきた場所を見つめる。
明日から、俺の新しい戦いが始まる。



